③帰途
「なあ、アイ=ファ」と呼びかけたが、もちろんのこと、返事はなかった。
刀とマントを受け取って、帰路を辿っている途上である。
黄色く踏み固められた道を進めば、ちらほらと集落の人間とすれ違う。
アイ=ファの住処からは1時間ほどもかかる場所なので、この辺りに住まう人々はみんな初見だ。それゆえに、誰もがみな一様にぎょっとした様子で、俺を振り返ってくる。
しかし、そのようなことは、どうでもいい。
俺は、アイ=ファと語らねばならないのだ。
「あんな騒ぎの後に何だけど、俺はお前に話しておきたいことがあるんだ、アイ=ファ」
「…………」
「ちょっと厄介な話なんでな。お前の許可もなく勝手な真似はできないから、お前の意見を聞きたい。お前がやめろと言うなら、俺は素直にあきらめる」
「…………」
「今回は、誰かを助けるとかそういう話じゃなく、完全に俺個人の勝手な要望だからさ。でも、俺にとっては重大事だから……そういう前提で、聞いてほしいんだ」
「…………」
「もしもーし! ボクの声は届いていますかーっ!」
「…………」
駄目だこりゃ。
一体どうしたものだろう。
スタスタスタと大股で足を進めるアイ=ファの背中を追いながら、俺はしばし黙考する。
情に訴えるべきか。
自分の正当性を主張すべきか。
茶化して、うやむやにするべきか。
逆ギレして、むしろ相手を責めるべきか。
後半に進むにつれ、俺の生存率は急加速に下がっていく。
まあいいや。ひとつずつ試していこう。
「なあ! さっきのことなら、悪かった! 俺だって本当に申し訳ないと思ってるんだけど、こんなことでお前との信頼関係をぶち壊したくないんだよ。これまで一緒に過ごしてきた時間に免じて、俺の話を聞いてくれないか?」
「…………」
「それに、仕方がないだろう? 俺はルド=ルウに、あそこは水場だって聞いてたんだよ。まさかルウ家の水場が行水できるほど馬鹿でかい川だなんて思いも寄らなかったし。みんなで仲良く晩餐の後片付けでもしてるんだろうなと思って、何の気もなく覗きこんじまったんだ」
「…………」
「それにまあ、何も初めてのことじゃないしさ! 今さらそこまで恥ずかしがらなくてもいいじゃんよ? 誰に見せても恥ずかしくないプロポーションをしてるんだし! 何なら掟に従って、俺が婿入りしてやっても――」
俺の命運は、そこまでだった。
あの7日前にギバを一撃で葬った時にも劣らぬ爆発的な瞬発力でもってアイ=ファがこちらを振り返り、地を蹴って、跳びかかってきたのである。
俺の身体はいとも容易く地面に引きずり倒されて、腹の上に膝を乗せられて、力まかせに胸ぐらをつかまれて、息が詰まるぐらい強烈に絞めあげられてしまった。
「あ、あのなあ、アイ=ファ……」
「やかましい! この――この、大たわけがっ!」
俺は完全にやりすぎてしまったらしい。
アイ=ファは火のように両目を燃やし、血がにじみそうなぐらいにきつく唇を噛みしめて、なおかつ顔中を真っ赤にしてしまっていた。
「私が……私がどれほどの覚悟をもって、『ギバ狩り』として生きていくと決断したと思っているのだ? そんな私に、気安く婿入りなどと――」
悲痛に震える声を絞りだし、俺の胸もとをぐいぐい絞めあげる。
その間に――アイ=ファの瞳にじんわりと浮かんでくるものを見て、俺は完全に、完璧に、心の底から死ぬほど後悔した。
「ごめん! 茶化して悪かった! 気まずい空気を打破したかっただけなんだ! 悪意はない!」
というか、「婿入り」にそこまで過敏に反応するとは、夢にも思っていなかった。
昨晩は、あれほどダルム=ルウに対して冷静だったのに、いったい何なのだこの落差は?
しかし、悪いのは俺だ。200パーセント。確実に。火を見るよりも明らかに。石に判を押すほどに。
真っ当な口論や気持ちのすれ違いなどではなくただの軽口で女の子を涙ぐませてしまうということがどれほどの罪悪感を喚起させるものなのか、俺はこの世に生を受けて17年目にして初めてまざまざと体感することになってしまったのだった。
「ごめん! 本当にごめん! お前みたいに気丈な女を泣かせちまったら、罪悪感で息の根が止まりそうだ! 後生だから、泣きやんでくれえ!」
「ふざけるなっ! 誰が泣いているかっ!」と叫ぶそばから、ぽたりと温かいものが俺の頬に落ちてくる。
アイ=ファの眼光たるや業火のごとしで、それほど苛烈な激情の炎が燃えているなら涙すら蒸発させてしまいそうだったのだが、残念ながらそのような奇跡は現出せず、ぽたりぽたりとさらなる爆撃が俺の心を撃ち砕いていく。
本当にもう死んでしまいそうです。
これでもしもアイ=ファがリミ=ルウみたいに泣き崩れてしまっていたら、俺も自分の愚かさを悔いて悶死していたかもしれない。
しかし、誇り高き女狩人たるアイ=ファはそのようなさまを見せることなく、やがて俺の身体を突き放すようにして身を引くと、後ろを向いて、涙をぬぐった。
俺もそろそろと半身を起こし、地面にぺたりと座りこんでしまっているアイ=ファの背に呼びかける。
「えーと、アイ=ファ……?」
「泣いておらん」
「泣いてなかったな! 俺の見間違えだった! あんまりぐいぐい絞めあげられてたもんだから、酸素不足で視界が曇っていたらしい!」
アイ=ファは無言で立ち上がり、もう一回腕で顔をぬぐってから、またスタスタスタと歩き始めた。
俺は全力で溜息をつき、それからアイ=ファを追いかける。
不幸中の幸いで、その間はすれ違う人間もいなかった。
(そうだよなあ。いくら勇猛な女狩人だからって、お年頃の娘さんがオールヌードなんて見られちまったら、情緒不安定になるのが当たり前だよな。生命がけだったあの時とは全然シチュエーションも違ってたし)
あのときは必死でロクに記憶も残っていないぐらいだが、今回はしっかり網膜にやきついてしまったし――って、やめよう。こいつはあまりにも不謹慎すぎる。
アイ=ファはひたすら正面をにらみすえ、ひたすら足を動かし続けていた。
さすがにもうその目に涙は光っていなかったが、まだその頬にはうっすらと赤みが残っていたし、表情がいつもより幼げであるように感じられてしまう。
もう、この横顔がいつものふてぶてしさを回復させるまで、余計な口を叩くのはやめておこう。俺はそう決心して、視線を正面に向けようとした。
すると、まるでそれを待ちかまえていたようなタイミングで、アイ=ファのへの字に結ばれていた唇が開かれた。
「……それで、私に話というのは、何なのだ?」
「うん? いやあ、ちょっとややこしい話だから、お前がもうちょっと落ち着いてから話すよ」
「ふざけるな! 私はいつでも冷静だ!」
何だか語調まで少し幼児化してしまっているような気がしてならない。
本当に大丈夫かなあと心配しつつ、しかし本人の意向は尊重すべきかと俺は話を切り出すことにした。
「えーっとな、こいつはかなり突拍子もない話なんで、怒らずに聞いてほしいんだけどさ。お前にやめろと言われるなら、潔くあきらめるつもりだし」
「……すでにこの数刻で数年分は気分を害されたというのに、この上まだ私にロクでもない話を聞かせるつもりか」
「ロクでもないと思ったら、駄目だと一刀両断してやってくれよ。……俺はさ、ドンダ=ルウの鼻を明かしてやりたいんだ」
アイ=ファは少し目を細め、きろりと冷たい眼光をくれてきた。
俺は、タオルに包まれた頭をかいてみせる。
「何せ、あれだけ毒だの不味いだのと言われ放題に言われちまったからさ。何とかあの偏屈親父に一泡吹かせてやりたいんだ。……あのおっさんに、俺の料理を美味い、と言わせてやりたいんだよ」
アイ=ファは、何とも答えなかった。
ただ、不穏な半眼で俺をにらみつけている。
「まあ、こればっかりは、完全に俺の個人的な都合だからな。ルウの家の連中なんて、ジバ婆さんやリミ=ルウ以外とはあんまりお近づきにならないほうが無難なんだろうし、せっかく丸くおさまったばかりなんだから、これ以上あの家に深入りしないほうがいいってのも、よっくわかってるつもりだ。……だけど、それでも、俺は無茶苦茶に悔しいんだよ」
「……そのようなことか」
「うん?」
「あれほど悪し様に罵られれば、悔しくないほうが不自然であろう。今さらくどくどと聞かされるほどのことでもない」
「ああ。だけど、そうそう気安くルウの家には関われないってのも事実だろ? だから俺は、悩んでいるんだよ」
「……悩む必要などない」とアイ=ファは言い捨てた。
「好きにしろ」と。
「え? 好きにしろって、あの偏屈親父に挑戦状を叩きつけちまってもかまわないってのか?」
「そうしたいなら、好きにしろ。私は、止めはせん」
「何でそんな他人事なんだよ! 俺がしくじったら、お前にも迷惑がかかっちまうだろ?」
それともまた、迷惑がかからないように縁を切ればいい、とでも抜かすつもりなのだろうか。そうだとしたら、今度は泣かれようがわめかれようが、俺は徹底抗戦する構えだ。
しかし、まったくそんなことはなかった。
「ドンダ=ルウには、もはや私を嫁入りさせる心づもりなど毛頭ないらしい。女だてらにギバを狩る、というのがあの御仁の気性にはたいそうそぐわなかったのではないかな。……今やあの男からは、敵意と嘲弄の念しか感じられない」
「ふむ。だけど、敵意を持ってるような相手と関わるのは、まずいだろ?」
「何故だ? 敵ならば、屈服させればいいだけのことだ」
と、アイ=ファはあっさり言い捨てた。
たぶん困惑の表情しかない俺の顔を見て、アイ=ファは「ふん」と目をそらす。
「別にお前は、剣をもってドンダ=ルウを討ち倒したい、などと願っているわけではなかろう。美味い料理をもってして、あの男の心を屈服させたい――そうではないのか?」
「屈服っていうよりは納得かな? まあ、喧嘩腰なのは否定しないけど」
「ならば、勝手にするがいい。……ただし、ひとつだけ確認しておきたいことがある」
アイ=ファの瞳が、さらに不穏な光をおびた。
「勝算は、あるのだろうな?」
「勝算、か」0・5秒ほど考えて、答えた。「あるよ」
「あるか」
「あるね。まあ、ちょいと研究が必要だけど、肝心なのはギバ肉だからな。肉ならまだまだ余ってるんだから、研究だってし放題だ」
「それで、勝てるのだな?」
「うん? いやまあ、勝敗は時の運なれど……」
「勝て。負けることは、許さん」と、アイ=ファはそっぽを向いてしまう。
「お前の作ったものがあのように下衆な言葉で汚されるのは、もう耐えられん。もしまたあの男にあのような不遜の態度を許すことあらば……私は逆上して、何をしてしまうかわからんぞ」
きょとんと目を丸くする俺の眼前で、再びアイ=ファの顔が赤く染まっていく。
「昨晩、あの男の言葉を聞きながら、私がどれほどの屈辱をこらえていたのか、わからんのか? かなうものなら、煮えたつ鉄鍋の中身をあの男の顔面にぶちまけてやりたいぐらいだった」
いやしかし、アイ=ファは昨日最初から最後まで、しれっと無表情を決めこんでいたではないか?
だが、また思う。確かに感情の振り幅は大きいアイ=ファであるが、そういえば気心の知れぬ人間が相手であるときは、いつも冷徹なまでの無表情であったな、と。
あの冷たく冴えざえとした顔の下には、そんな激情が燃えさかっていたのか。
「しかし、他家の夕餉で――しかもルウ家においてそのように無礼なふるまいに及んでしまったら、ファの血筋もその日限りと相成ろう。だからお前は、ファの家の名を負う覚悟で、挑め」
「わかった」と、俺は大きくうなずいてみせた。
胸に、むずむずと熱いものが蠢いてしまっている。
「ありがとう、アイ=ファ。……お前がそこまで悔しがってくれてるとは思わなかったよ」
「ふん! お前はかりそめにもファの家の家人なのだからな! 家人が不当に貶められれば、家長として怒りを覚えるのは当たり前のことだ!」
と、険悪に言い捨ててから、子どもみたいに唇をとがらせる。
「……それに、誰が何とほざこうとも、あの料理は絶対に、美味い」
何だろう。
さっきの仕返しに、俺を泣かせようとでもしているのだろうか?
しかし、俺は泣くのではなく、笑った。
「ありがとう。いつも最後のひと押しをしてくれるな、アイ=ファは。何だか無茶苦茶に闘争心がみなぎってきたよ」
「……ふん」
「あーあ! あんな馬鹿馬鹿しい騒ぎでお前との関係がぶっ壊れなくて本当に良かったぜ! これからもよろしくな、アイ=ファ!」
「……二度までも禁忌を犯しておきながら馬鹿馬鹿しいとは何という言い草だ」
と、怒った山猫みたいに鼻の頭にしわを寄せるその顔は、もうすっかりいつも通りのアイ=ファだった。
そのおっかない顔を見て、俺はますます嬉しくなってしまう。
「いやいや、お前の裸は馬鹿馬鹿しいどころの騒ぎじゃなかったよ、アイ=ファ! 俺は本心からそう思う!」
そうして調子に乗った俺は、かなり本気のフルスイングで後頭部をひっぱたかれることになったのだった。