②混迷の朝(下)
2015.4/5 誤字を修正
「困ったことをしてくれたねえ……」
ルウの家の本邸から、ほどよく離れた空き地のような場所で、その人物は深々と嘆息した。
180センチ以上もある長身に、しっかりと鍛え抜かれた大柄な体躯。糸のように細い目をして、いつも笑っているように見えるが内心は今ひとつ読み取ることの難しい、ルウ家の長兄ジザ=ルウである。
その隣りには、涼しい面持ちで彼方の山並みに視線を飛ばしている末弟ルド=ルウの姿があり、その正面に、俺とアイ=ファが立ちつくしている。
何だか生活指導の先生にお説教でもくらっているような構図だが、実のところ、深刻さと重要さはそんなものの比にはならない。
これは、ルウ家とファ家の行く末を決定づける、両家の秘密会談なのだった。
「嫁入り前の娘の裸身を目にするのは、強い禁忌だ。それは、わきまえているのだろう?」
「……ハイ。重々に」
「禁忌を犯した人間は、その償いとして片方の目を差しだすか、あるいはその娘を嫁に迎えるべし、という掟がある。しかし、残念ながら、生まれ素性も明確ではないアスタに、ルウ家の女衆を嫁入りさせるのは非常に難しい」
「……ハイ。わきまえております」
「しかもあの場には、ヴィナとレイナとララとリミの姉妹がすべてそろっていた。4人もの娘を嫁に迎えることなど、なおさらできない」
「……ハイ。怖れ多きことです」
「かといって、アスタには四つもの目玉はついていない。さてさて、これはどうしたものか……」
「あ、あのですね! これは最初にも申し上げたことですが!」
と、秘密会談であるにも関わらず、俺はついつい大声をあげてしまう。
「俺は、アイ=ファの裸しか見ていません!」
足を蹴られた。
「目の前におもいきりアイ=ファが立ちはだかっていたから、アイ=ファの裸しか目に入らなかったのです!」
また蹴られた。
「アイ=ファの裸に気を取られて、周りの風景なんてちっとも視界に入りませんでした! 俺は、アイ=ファの裸しか見ていないのです!」
がし、がし、がし、と今度は連発で蹴りまくられた。
しかし、二つの目玉とその他の何かをえぐり取られたらとても悲しい気持ちになってしまうので、俺も必死なのである。
ちなみに、フルスイングの右フックをくらった左のこめかみも、いまだにズキズキと熱くうずいている。出血等は見られなかったが、頭蓋骨に亀裂でも入っていないか、本当に心配だ。
「何だよなー。自分の家の女なんかに気を取られんなよ。俺の作戦が台無しじゃんか?」
と、深刻さの欠片もない口調でルド=ルウがつぶやくと、ジザ=ルウがゆっくりとそちらを振り返った。
「ルド=ルウ。お前は自分が何をしでかしたのか、その重大さを理解していないのか?」
糸のように細い目が、静かに弟の姿を見下ろす。
ルド=ルウは、ギクリと一瞬身体をすくめてから、すぐに眉を吊りあげた。
「何だよ! 大げさだろ! そんなのカビまみれになってるような大昔のしきたりじゃんか? はっきり言って、そんな意味のねえ掟を律儀に守ってるやつなんて、この集落にはどこにもいやしないんだよ!」
「そうかもしれないな。しかし、スンの家が堕落した今、森辺の規範たりうるのは、我らがルウの家のみなのだ。たとえ古のしきたりだとしても、それは決して軽んじられるべきではない」
ジザ=ルウの表情に、特別な変化は見られない。どんなに真面目くさったことを言っても、顔立ち自体が柔和なので、にっこりと微笑んでいるようにしか見えないのだ。
だが。そうであるにも関わらず、子犬のように吠えていたルド=ルウは、ジザ=ルウの言葉を聞いているうちにどんどん青ざめていってしまった。
「わ……わかった。俺が悪かった。……わ、悪かったよ! 俺が悪かったってば! だから……そ、そんなに怒らないでくれよ、ジザ兄……」
「……お前の処分は、後で考える」と、あわれな弟くんを放置して、ジザ=ルウはまた俺たちに向きなおる。
たちまち不可視の圧力が、ずんと頭上にのしかかってきた。
この男の迫力はいったい何なのだろう? 何となく、武道の達人とでも向き合っているような圧迫感を感じてしまう。
「ファの家のアイ=ファ。禁忌を犯した家人について、貴方はどのように考えているのかな? その話を聞いてから、俺は決断を下したいと思う」
とても静かにジザ=ルウはそう言った。
「水場には、人目を払う戸板が張られていたはずだ。戸板とはその家の門を示すしるしであり、家人の許しなく足を踏み入れるべからず、というしきたりがある。ファの家のアスタはそうして二重の意味で禁忌を破ったことになるわけだが――貴方であれば、どのような処断を下すのだろう?」
「……このアスタという男は、異国人だ。その異国人を家人として迎えながら、森の掟も伝えきれぬうちに他家の門をくぐらせてしまったのは、ファの家の家長である私の罪であると考える」
感情のない声で言い、アイ=ファは静かに頭を垂れる。
「罪を償えというなら、この目を差しだそう。しかし、両方の目を差しだしては、森辺の民として生きていけない。どうか片方の目だけで容赦を願えないだろうか……」
「おい、アイ=ファ!」とわめきかける俺を手で制し、ジザ=ルウは「ふむ」と四角い下顎に手をそえる。
「それはいささか考え違いなのではないかな、ファの家のアイ=ファ。片方の目を失ってなお『ギバ狩り』を生業とすることは不可能だろう。森は、子供の遊び場ではないのだから」
「……それで森に朽ちるなら、それが私の天命と受け容れる」
「なるほど」
ジザ=ルウはひとつうなずいて、焦燥の極にある俺を見た。
「では、もう一度、問おう。ファの家のアスタ。貴方は我がルウの女衆の裸身をその目に収めたのかな?」
「俺はアイ=ファの裸しか見ていません!」
この期に及んで、また足を蹴られる。
ジザ=ルウは「そうか」と息をついた。
「貴方の言葉を信じよう、アスタ。……そして、貴方がアイ=ファの裸身をしか目に収めていないのならば、あとはもうファの家の問題だ。ルウの家が関与する話ではない」
「……許していただけるのか?」とアイ=ファが問うと。
「許すのではなく、信じたのだ」とジザ=ルウが応えた。
「貴方は信頼に値する家長だ、アイ=ファ。その貴方が家長をつとめるファの家のアスタの言葉を信じる。……アスタは、戸板より先に足を踏み入れてはいない、と言っていたな?」
「はい! 戸板のすぐ裏にアイ=ファが素っ裸で立っていたので!」
まだ蹴るのだな。
しかし、俺の胸中は安堵の思いでいっぱいだったので、どうということはなかった。
アイ=ファの片目を差しだすぐらいなら、俺が両目を潰されたほうが、マシだ。
「では、ルウの家には害も生じなかったので、その件も不問としよう。……大体このような騒ぎで他家の人間に血を流させれば、ルウの家は悪辣な策謀をもって他家を害する家であると誹謗されかねないからな」
そう言って、ジザ=ルウはすっかり大人しくなってしまっていたルド=ルウのほうをようやく振り返る。
「わかったか、ルド=ルウ。お前のおこないはファの家のみならずルウの家にまで災いを招きかねなかったのだ。もう分別のつかない子供ではないのだから、ルウの家の人間としての節度をわきまえろ」
「……はい」としか答えられないルド=ルウが、あまりにあわれげに見えてしまった。
「あ、あの、彼が何か重い罰を受けるようなことには、ならないですよね?」
「うん? どうして貴方がそのようなことを気にするのかな、ファの家のアスタ」
「どうしてって……完全に自業自得だとしても、そんなの後味が悪いじゃないですか。俺がちょっとでも機転をきかせていれば、こんな騒ぎにもならなかったはずですし」
「ふむ。……まあ、どのみち罰などは与えられないね。そのようなことをしたら、この話が家長の耳に入ってしまうので」
もうすっかり日は昇ってしまっているというのに、いまだ家長のドンダ=ルウは惰眠を貪っておられるのである。
「我が父ドンダがこの話を知れば、掟うんぬんではなく、貴方を許さないだろう。特に末妹のリミは家長に溺愛されているものでね。目玉どころか、心臓を要求されかねない」
「……ソウデスカ……」
「しかし、そのような事態になれば、それこそルウの家は血に飢えた暴虐の徒を家長に抱いているのかと貶められてしまう。この件は、父ドンダはもちろん他の家人の耳にも入らぬよう、特にお願いしたい」
こちらこそ、としか言い様がなかった。
そちらは家名がかかっているのかもしれないが、こちらは生命がかかっているのだ。
「それでは、手打ちにしよう。家長はいまだに目覚めぬため、帰途の挨拶はこのジザ=ルウが承る。双方とも、息災で」
用は済んだからもう帰れ、ということか。
リミ=ルウたちに挨拶できないのはちょっと心苦しいが、まあこの状況ではしかたがない。俺たちは無言で頭を下げ、刀を受け取りにルウの家へ向かおうとした。
「ああ、そうだ。家長ドンダから言伝があったのだ。正確に伝えよとのことだったので、そのままの言葉を伝えさせていただく」
と、にこやかな笑顔にしか見えない顔で、ジザ=ルウが俺たちを呼び止める。
「『不味い飯をありがとうよ。おかげで最長老は救われた。狩人の魂を腐らせる最高の薬に祝福を』……以上だ」