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異世界料理道  作者: EDA
第十八章 藍の月と紫の月
325/1705

~幕間~ マヒュドラの民

2016.5/9 更新分 2/2

・今回の更新は、8回分の予定です。

「うわ、なんだか物凄いことになってるなあ」


 紫の月の11日、いつも通りの刻限に屋台のスペースまで出向いた俺は、そんな風に驚きの声をあげることになった。


 露店区域の北の端、縄で囲まれた青空食堂の向こう側で、雑木林の伐採作業が開始されていたのである。


 もともと空き地であった区域には、切り倒された木の幹や掘り起こされた木の根がうず高く積まれて山となっている。青々と茂った葉が街道のほうまで飛び出してしまい、空気は少し砂まじりだ。


「うーん、これだと風向きによっては料理に砂が入っちゃいそうだなあ」


 どうしたものかと思案していると、街道に立ち並んで伐採作業を監督していた衛兵のひとりが小走りで近づいてきた。


「ああ、もう上りの六の刻になってしまったか。今日もご苦労だな、お前たち」


 それは少し前に顔馴染みになった、若い衛兵であった。態度はいささか横柄だが割と気のよさそうな、あの御仁だ。


「どうも、お疲れさまです。露店区域を広げる作業というのは、こんなにも大がかりなものだったのですね」


「うむ。この1年でずいぶんと屋台の数は増えたからな。復活祭を迎えるにあたっては、数日がかりで場所を広げなくてはならないだろう」


 そのように言いながら、いくぶん非難するように俺の顔を見返してくる。


「しかも、お前たちはまだこの上、店を大きくするつもりなのだろう? ならば、余計に場所も足りなくなってしまうではないか」


「それは痛み入りますです」


 次の休業日は4日後の15日、その翌日からついにファの家でも青空食堂をオープンする予定なのである。

 もろもろ合わせて屋台5つ分のスペースを新しく借り受けることになったので、ちょうど現在、伐採した木の寝かされている空き地の部分を埋めつくすぐらいの計算になるだろう。


「正式に祭が始まるのは紫の月の22日だが、たいていは五、六日前から屋台が増え始めるものだからな。それまでにはこの仕事を終わらせなくてはならんのだ」


「なるほど。それは大変ですね」


 しかし、それだけ大きな祭であるのならば、経済効果も凄まじいものなのだろう。そうであるからこそ、ジェノスの支配者層もこうして人手や手間を惜しまずに露店区域の拡張に取り組んでいるのだ。森辺の民などは税の徴収を免除されているが、それ以外の店が繁盛すればするほどジェノスの町そのものを潤すはずであった。


(そう考えたら、俺たちの商売がいくら成功しても、貴族たちの身入りにはならないってことか。せいぜいミラノ=マスに支払う場所代や屋台の貸出料から多少の税がさっぴかれるぐらいなんだもんな)


 そのように考えると心苦しいが、ジェノス候としても、これまで貧困にあえいでいた森辺の民からただちに税を徴収する気持ちにもなれないのだろう。サイクレウスにまつわる因縁があっただけに、なおさら手は出しにくいに違いない。


 だけどまあ、そういったほとぼりがおさまれば、いつか俺たちにも税が課せられるかもしれない。それまでは、せいぜい物珍しいギバの料理で人々を楽しませて、宿場町を賑やかす一助となれれば幸いであった。


「わー、なんだよこれ! 卓も椅子も砂まみれじゃん!」


 と、青空食堂の清掃を始めていたララ=ルウが憤慨しきった声をあげる。

 衛兵はじろりとそちらをねめつけてから、「ふむ」と顎を撫でさすった。


「確かにそこら中に砂が舞っているな。こんなすぐそばで木を切り倒していれば、それが当然か。……しかたない。ここのあたりに仕切りの幕でも張らせよう」


「ありがとうございます。そうしていただけると、本当に助かります」


「ふん。後になって難癖をつけられてはたまらんからな」


 衛兵は一番手近にいた仲間を呼びつけて、店の横に砂除けの幕を張るよう指示を出してくれた。

 それではこちらも準備に取りかからせていただこうかな、ときびすを返そうとしたところで「待て」と呼び止められる。


「前にも言ったが、作業をしている連中と騒ぎを起こすなよ? あいつらと揉め事を起こしたら、のちのち面倒なことになってしまうからな」


「了解しました。でも、うちの屋台にもけっこうそういう手合いのお客さんは多いので、大丈夫だと思います」


「いや、普段であれば食い詰めた無頼漢などを雇うところなのだが、今回はちょっとわけが違ってな。……今は奥のほうに潜っていて姿が見えんが、今日はトゥランの奴隷たちに働かせているのだ」


 俺は愕然と立ちすくみ、それから衛兵を振り返った。

 衛兵は、苦々しげに顔をしかめている。


「ちょうどフワノの収穫が一段落したということで、奴隷たちの手が余っていたのだ。それならば、銅貨で人を雇うよりも安上がりだろう? ……しかし、トゥランの住人でもなければ、そうそうマヒュドラの民の姿などを見ることはないからな。無用に人心を騒がせてしまうのではないかと、衛兵長も頭を抱えていた」


「……マヒュドラの民たちが、すぐそこで働かされているのですか」


 俺はトゥラン伯爵邸で働くシフォン=チェルの他に、マヒュドラの民というものを知らない。あとはせいぜい、マヒュドラとセルヴァの混血であるカミュア=ヨシュぐらいだ。


 このジェノスという町はセルヴァの領土でもかなり南寄りに位置しているため、本来であればマヒュドラの民と遭遇する道理がない。しかしサイクレウスはさらなる富を得るために、わざわざ遠方から奴隷を買いつけて、それを働かせていたのである。


「……そういえば、お前は渡来の民なのだったな、アスタよ」


 と、衛兵は気がかりそうに言葉を重ねる。


「渡来の民は北の民と血筋を同じくする、という伝承がある。そんなお前にとって、北の民が奴隷として働かされている姿を目にするのは忸怩たる思いであるのかもしれないが――」


「いえ、俺は確かにこの大陸の出ではありませんが、竜神の民と呼ばれている一族とはまた違う出自なのです。……ただ、俺の故郷では奴隷というものが存在しなかったので、なんというか……」


「ああ、それはジェノスの民だって同じことだ。ジェノスのみならず、この近在で北の民を奴隷として扱っている町などひとつもないのだろうからな」


 鹿爪らしく、衛兵はそのように述べる。


「また、これだけマヒュドラから離れていれば、戦禍に巻き込まれることもないのだから、北の民に怒りや憎しみを抱いている人間もいない。それこそこのジェノスでは、北の民よりも森辺の民のほうが恐れられたり蔑まれたりしていたのだろうさ」


「ええ、それはきっとそうなのでしょうね」


「だからといって、北の民に情けなどはかけぬことだ。遠く離れた国境では、今もなおセルヴァとマヒュドラの戦いが続いているのだからな。マヒュドラにおいては西の民が奴隷として扱われているのだと思えば、情けをかける気持ちになどはなれないことだろう」


 それは何となく、自分自身に言いきかせているように聞こえる口ぶりであった。

 俺の視線に気づいて、衛兵は眉間にしわを刻む。


「俺は、トゥランの生まれなのだ。幼い頃から、父にはそのように聞かされて育った。北の民に情けをかけるのは、西方神の御心に背く行為なのだ、とな」


 ジェノスは200年の歴史を持つとのことであるが、サイクレウスがトゥラン伯爵として権勢をふるいだしたのは、せいぜいこの20年ばかりのことだ。それまではほとんど伝承としてしか伝わっていなかったであろうマヒュドラの民が、突如としてこのジェノスに連れさられてきた。それはきっと、相当に人心を騒がせる行為であったのだろう。


 それに、近年では奴隷を道具として使い潰すような人間は減ってきている、とカミュア=ヨシュは言っていた。労働力の高い奴隷には賃金を与えたり、婚姻を認めたりする領主もいるぐらいだ、と。

 しかしサイクレウスは、奴隷を道具のように扱う前時代的な人間だった。北の民を同じ人間とは認めておらず、それゆえにカミュア=ヨシュのことも敵視しているのだと、たしかそのように述べていたはずである。


 ひょっとしたらトゥランの人々は、恨みも怒りもない北の民が奴隷として扱われている姿を見せつけられて、心を痛めることになったのではないだろうか。

 そうであるからこそ、「情けをかけてはならじ」などという言葉が出てくるのではないだろうか。


「……とにかくな、あの連中には近づくな。どうせまともに言葉も通じないのだから、近づいたってどうにもならん」


 そのように言い捨てて、今度は衛兵のほうがきびすを返した。


「それではな。仕切りの幕も届いたようだから、お前も商売の準備を始めるがいい。何か他に不都合があったら、その場ですぐに知らせることだ」


「了解しました。……あの、ひとつだけよろしいですか?」


「うん? 何だ?」


「よかったら、あなたのお名前を教えていただきたいのですが」


 衛兵の若者はいぶかしげに振り返り、そして言った。


「俺は護民兵団サトゥラス区域警護部隊、五番隊第二小隊長のマルスだ。……それではな」


 そうして衛兵のマルスは街道のほうに戻っていき、俺は屋台の準備に取りかかることになった。


                   ◇


「なるほど、あちらではマヒュドラの民が働かされているのですか」


 中天にやってきたアマ・ミン=ルティムが、『ミャームー焼き』の肉を焼きながら、そのように述べてきた。


「以前にアスタがさらわれてしまった際、わたしはアイ=ファとともにトゥランの領地へと足を踏み入れたことがあるのです。そのときに、彼らがトゥランの畑で働かされていた姿をわずかばかり目にすることになりました」


「ああ、そのときにマイムとも言葉を交わしているのですよね。アイ=ファって、そういうことを全然話してくれないのですよ」


「そうですか。それはもしかしたら、アスタがさらわれていたときのことはなるべく思い出したくない、という気持ちのあらわれなのかもしれませんね」


 アマ・ミン=ルティムににっこりと微笑みかけられて、俺は「はあ」と頭をかく。

 なんとなく、サリス・ラン=フォウとのやりとりを思い出してしまう。そういえばサリス・ラン=フォウもアマ・ミン=ルティムも俺と同い年であるはずなのに、とても大人っぽくて人間ができている。


「……それにしても、奴隷というものはどうして存在するのでしょうね」


「え? 何がですか?」


「いえ、アイ=ファとトゥランに出向いた際、わたしは思ったのです。この町の人々は、みんなずいぶん元気がないのだな、と。……それはどうやら、奴隷というものが存在するために仕事を失ったゆえであるようだったのですね」


 焼いた肉を鉄板の端に寄せつつ、アマ・ミン=ルティムは静かな口調でそのように続けた。


「どうやら若い人間は町の外で働くしかないようで、トゥランには老人や子供の姿しかありませんでした。代価のいらない奴隷というものは、それを扱う貴族にとってはとても重宝するものなのでしょうが、町の人間にとっては何の益ももたらさないように思えました」


「ああ、それはポルアースもそのように言っていましたね。少なくともトゥランにおいては、奴隷の存在は領主の利益にしかならず、そのために町の人々は苦しい生活を強いられるようになってしまったようです」


 宿場町のあるサトゥラスや農村のあるダレイムにおいては、領民の豊かさがそのまま領主の豊かさに直結する。民びとの生活が潤えば、そこから税を徴収する貴族の生活もまた潤う、という、そういうシステムであるようなのだ。


 しかしトゥランにおいては、最大の収入源であるフワノとママリアの畑が領主のみの管理で運営されることになり、そこからもたらされる恵みは領民に還元されなくなってしまった。そのために人々の多くは他の町や領地に移り住み、ジェノスの領土ではもっとも人口が少なくなってしまったのだという。


「もっとも、現在ではフワノの売れ行きが激減してしまった上に、サイクレウスの結んだ通商の後始末に追われて、伯爵家の財政も傾きまくっているそうですけどね。当主の後見人たるトルストの苦労は並大抵ではないようです」


 語れば語るほど、サイクレウスという人間の残した爪痕の深さを実感させられる。

 しかしそのサイクレウスもすでに罪人として裁かれているのだから、あとは残された人間が少しずつ歪みを正していくしかないのだろう。


(本当は奴隷なんて使わないほうが、トゥランも正しい姿に戻せるんだろうけど……でも、トゥランの財政が傾いている以上、別の人間を雇うこともできないだろうし、それにマヒュドラの民たちだって、役目を失ったらどんな目にあわされるかわかったもんじゃないしなあ)


 仕切りの幕を張ってもらったため、もはや俺たちの位置から伐採の現場は見えなくなっている。ただ、通りのほうでは物見高い西の民たちがそちらのほうを覗き込むような仕草を見せては、恐ろしげに首をすくめて去っていく姿が散見できた。

 直接的には関わりの少ない事案とはいえ、俺としてはやっぱり楽しい気持ちにはなれない。


「アスタ、こちらの籠は最後の1個よ」


 と、ともに『ギバまん』の屋台で働いていたヤミル=レイが、少し強めの口調で述べてくる。


「何をぼうっとしているのか知らないけれど、調子が悪いのなら、わたしが運んできましょうか?」


「あ、いや、俺が行ってきますよ。ちょっと待っててくださいね」


 気を取り直して、俺は背後の荷車のほうに足を向けた。

 商売のほうは、今日も上々だ。まだ復活祭の開催には日があったが、心持ち人通りは増えてきている気がする。


(そろそろメニューを確定しなくっちゃな。仕事が終わったら、レイナ=ルウたちと最終的な打ち合わせをしよう)


 そのように考えながら荷台をあさっていると、ギルルが珍しく「くきゅっ」と咽喉を鳴らした。


「どうしたんだ? 何か珍しいものでも――」


 途中で言葉を呑み込んで、俺は立ちすくむことになった。

 荷車のさらに後方は、やはり雑木林になっている。その薄暗がりに、巨大な人影がぬうっと立ちはだかっていたのだ。


「騒ぐ、ない……自分、危険、違う」


 重々しい声音でつむがれる、拙い西の言葉。

 それは、マヒュドラの民であった。


 金褐色の蓬髪に、淡い紫色の瞳。肌は赤く焼けており、巨大な身体に粗末な布の服を纏っている。

 ドンダ=ルウにも負けない大男だ。腕にも足にも凄まじい筋肉が盛り上がっている。

 顔は四角く、目は落ちくぼんでおり、大きな鷲鼻が印象的だ。頬から顎にかけてはぼうぼうに髭が生えていて、ジャガルの民よりもなお厳つい容貌である。


 そしてその人物は、首には革の輪を、足には鉄環と鎖を嵌められてしまっていた。

 鎖の長さは30センチほどで、歩くことは可能だが走ることは不可能な作りになっている。森辺の集落でも、罪人には革の紐でこのような処置をするのが通例であった。


「ど、どうしたんですか? あなたはあちらで仕事をしていた、マヒュドラの方ですよね?」


 生唾を呑みくだしつつそのように問うてみると、男はうっそりとうなずいた。


「衛兵、話、聞いた。……貴方、ファの家のアスタか?」


「は、はい。俺は確かにファの家のアスタですが……」


「貴方、トゥラン伯爵、屋敷、行ったか?」


 俺の知る東の民よりも拙い喋り方である。

 たどたどしいその喋り方とドスのきいた声音がミスマッチで、俺はどうにも困惑の気持ちを抑制することができなかった。


「……貴方、トゥラン伯爵、屋敷、行ったか?」


 男は無表情に、同じ言葉を繰り返す。

 まったくわけもわからないまま、「はい」と俺は応じてみせた。


「トゥラン伯爵のお屋敷には、何度か足を運ぶことになりました。それがいったい、何だというのです?」


 とたんに、男の瞳が強く光った。

 じゃらりと鎖を鳴らしながら、俺のほうに一歩だけ近づいてくる。


「シフォン=チェル、生きていたか?」


「え?」


「シフォン=チェル、自分、妹……自分、エレオ=チェル……シフォン=チェル、生きていたか?」


 俺はまた驚愕することになった。

 この大男が、シフォン=チェルの兄なのか。


「シ、シフォン=チェルは、今でもトゥラン伯爵のもとで働いているはずです。……あ、伯爵といっても、今は当主が代替わりしているのですが……」


 よくわからない、というように、マヒュドラの男――エレオ=チェルは、首を横に振った。


「シフォン=チェル、苦しいか?」


「それは……」と、俺は言いよどむ。

 彼女に最後に会ったのは、バナームの使節団の歓迎会の折だ。

 あれからまだひと月ほどしか経過していないが、どのみち俺がトゥラン伯爵邸に招かれても、彼女とはほとんど個人的に言葉を交わす時間は取れなかった。


 彼女はリフレイア個人の侍女に任命されたはずであるので、今は主人ともども新たな屋敷に居を移しているのだろう。リフレイアのもとに、古参の人間は彼女とサンジュラしか残されていないはずだ。


 名目上の当主となったリフレイアと、その安息だけを望むサンジュラ。あのふたりとともに、シフォン=チェルがどのような生活に身を置いているのか、俺には知るすべもない。


 だけど――


「……彼女が苦しんでいるかどうか、俺にはわかりません。でも、俺と顔を合わせる際、彼女はいつも笑顔でいてくれました」


「シフォン=チェル、笑っていたか?」


「はい。彼女はとても強い人間だと思います」


 エレオ=チェルは目を伏せて、自分の足もとをにらみつけた。


「西の言葉、覚える、トゥラン伯爵、屋敷、働ける。……シフォン=チェル、選ばれた。自分、選ばれなかった」


「……はい」


「シフォン=チェル、自分、離れる、苦しい。……でも、笑ってる、良かった」


 そう言って、エレオ=チェルはまた面を上げた。

 その紫色の瞳には、さきほどまでとは打って変わって穏やかな光が浮かんでいた。


「ファの家のアスタ、感謝する。……言葉、ありがとう」


「いえ……」と俺が答えかけたとき、彼の背後の茂みががさりと鳴った。

 そこから姿を現したのは、衛兵のマルスだった。


「貴様、そんなところにいたのか! 休息中でも、勝手に持ち場を離れるな!」


 マルスは刀の柄に手をかけながら、俺とエレオ=チェルの間にあたふたと割り込んだ。


「それに、町の人間には近づくなと厳命したはずだ! 事と次第に寄ったら、脱走の罪で――」


「ま、待ってください、マルス! 彼は話をしに来てくれただけなんです!」


「話だと? お前とマヒュドラの民で言葉を交わす理由などないはずだ!」


「いえ、彼は――」


 俺は一瞬迷ったが、思いきって真実を語ることにした。


「……彼の家族が、トゥランの現当主の侍女として働かされているんです。で、彼はどうやら俺がトゥラン伯爵邸に出向いたことがある、という話を立ち聞きか何かで耳にしたらしく、家族の安否を確かめたかったみたいなんです」


「それは――」と、マルスも言いよどんだ。

 エレオ=チェルは、無感動な眼差しでマルスの姿を見返している。


「……そうだからといって、こいつが町の人間には近づくなという命令を破ったことに変わりはない。相手がお前でなかったら、きっととんでもない騒ぎになっていたことだろう」


「彼は何か、罰せられてしまうのですか?」


 マルスは仏頂面で首を振り、刀の柄から手を離した。


「何か騒ぎになっていたら、革鞭で叩かれることになっていただろう。お前もむやみに北の民に近づくな」


「でも俺は、彼のご家族の世話になったこともあるんです。その人物は、俺がトゥラン伯爵邸から逃げ出そうとしたとき、それに協力してくれようとしたんですよ。そんなことをしたら、それこそ自分が革鞭で叩かれてしまうかもしれないのに」


 マルスはますます仏頂面になってしまう。

 誇りをもって護民兵団の仕事に励んでいる彼にとって、トゥラン伯爵家の不祥事はのきなみ泣きどころであるのだ。

 ちなみに俺がリフレイアにかどわかされたのは、彼が俺たちに向かってジェノス上層部の公正さを宣言したその日の出来事であった。


「わかったから、お前もとっとと仕事に戻れ。貴族とも縁のあるお前が奴隷などと親しくするのは、決して良い結果を生まないだろう」


「いや、ですが――」


「わかったというのに、強情なやつだな。とにかく奴隷たちは町の人間と言葉を交わすことを禁じられているのだ。まあ、こいつのようにわずかでも西の言葉をあやつれる人間は、奴隷の中でも数えるほどしか存在しないがな」


 不機嫌そうに、マルスはそう言った。


「とにかくお前もジェノスに身を置く以上は、きちんとジェノスの法に従え。……奴隷などと縁を結んでも、嫌な思いをするばかりだぞ?」


 だからその、自分に言いきかせるような口調が、俺にはひっかかってしまうのである。

 だけど、これ以上マルスを困らせるのは本意ではなかった。


「わかりました。お騒がせしてしまって申し訳ありません。……エレオ=チェル、どうかお元気で」


 エレオ=チェルは、静かにうなずいた。

 そしてマルスに引きたてられて、雑木林の向こうに姿を消していく。


(そりゃあ確かに、この世界の奴隷制度の何たるかも理解しきれていない俺がうかつに首を突っ込むような話ではないんだろうさ)


 だけどそれなら、きちんとこの世界の道理をわきまえている人々に相談するしかないだろう。


 ポルアースは、シフォン=チェルのことを「君」という敬称で呼んでいた。シフォン=チェルのことを蔑んでいるような様子でもなかった。次に顔を合わせる機会があったら、なんとか相談させていただこう。


(何も大げさな話じゃない。ただ――エレオ=チェルが今も生きていて、引き離された妹の身を案じていたと、それをシフォン=チェルに伝えたいだけなんだ、俺は)


 俺は荷台の木箱を持ち上げて、屋台のほうに帰還した。

 中天を過ぎ、店はいよいよ繁盛していた。


 そうして俺が次にエレオ=チェルと再会したのは、数ヵ月もの時間が経過した後――ひょんなことから、彼らマヒュドラの民が森辺の集落に招かれた際であるが、それはまた別のお話である。

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