森辺への招待状②~試食会~
2016.4/23 更新分 1/1 2016.10/28 一部、文章に誤りがあったので修正しました。
「さあ、こちらがかまどの間だよ」
その後は、ミーア・レイ母さん自らが案内役を担ってくれることになった。
かまどの間で翌日の下ごしらえに励んでいたのは、シーラ=ルウとララ=ルウとティト・ミン婆さん、それに客分のザザ家のふたりだ。明日の献立は手間のかかる『ギバ・バーガー』ではなく『ミャームー焼き』であったため、すでに作業も終わりに差しかかっている様子である。
「あ、本当に来たんだね。ルウの家にようこそ、ちびっこターラ」
ミャームーの漬け汁を革袋に移動させていたララ=ルウが、ターラににっと笑いかける。まだドンダ=ルウの迫力の余波に呆け気味であったターラも、嬉しそうに微笑み返した。
「この人数ではちょいと手狭だね。仕事が片付いたら出ていくので、少し待っていておくれね」
ティト・ミン婆さんがそのように呼びかけると、ドーラの親父さんが「いやいや」と手を振った。
「お邪魔してるのは俺たちなんだから、そんな気を使う必要はないさ。隅っこで大人しくしているので、気にせずいつも通りにふるまってくれ」
「そうかい。でもまあ最近は若い娘らがかまどの仕事に熱心なので、あたしは引っ込ませていただくよ」
いつも通りの穏やかな笑みをたたえながら、ティト・ミン婆さんは巨大な鉄鍋を手に出ていった。汚れ物を洗いに行ったのだろう。
その後ろ姿を見送りながら、親父さんは「うちの婆さんどもよりよっぽど優しそうだな」とターラに耳打ちする。
その間に、俺のほうも下ごしらえを済ませておくことにした。
ルウ家に預けておいた肉を、みんなで手分けをして切り分けていく。明朝の作業が効率よく進められるように、という下準備に過ぎないので、大した時間はかからない。復活祭がやってきたら、こうした作業もさぞかし大変なものになるのだろう。
そうした作業も終わりに近づいた頃、ザザ家の2名が「アスタ」と俺に呼びかけてきた。
「この人数ですから、わたしたちも外に出ていようと思います。……ですが、ファやルウがどのような形で町の人間らと縁を深めているのか、それはザザ家の人間として見届けさせてもらいたく思います」
「わかりました。よかったら、試食だけでも参加してください」
「……ご温情、感謝いたします」
年齢のわりには堅苦しくて、いつもむすっとしているスフィラ=ザザであるが、トゥール=ディンの菓子にうっとりとしていた姿を見て以来、俺の中に残っていた苦手意識もあらかた駆逐されることになった。
そういった心情が表に出てしまっていたのか、スフィラ=ザザはいつも以上につんとした面持ちで家人とともにかまどの間を出ていった。
「さて。ここから二刻ぐらいは、いつもみんなで勉強会をしています。新しい献立を考えたり、食材の使い道を再検討したりする時間ですね」
その場に居並んだ人々を見回しながら、俺はそのように宣言した。
ザザ家の2名が外に出ても、宿場町から帰還した8名、シーラ=ルウとララ=ルウ、ミーア・レイ母さんとリミ=ルウ。それに6名の客人たちで、いつも以上の大入りだ。
「今日は、長いこと棚上げにしていたバナームの食材について、いろいろ考えてみようかと思います」
「バナームの食材?」
「ええ、バナームからの使節団であるウェルハイドというお人に、バナーム産のフワノや果実酒や酢などの使い道を新たに考案してほしい、と頼まれているのですよ」
「へえ、そんな余所の町からも仕事を頼まれているのか。アスタは本当に大したもんだなあ」
と、ドーラの親父さんが愉快そうに笑う。
「まあ、余所の町のフワノなんて、ポイタンを売りさばいている俺にしてみれば商売仇みたいなもんだが、アスタの仕事に文句をつけるわけにもいかないしな。敵情視察のつもりで見物させていただくよ」
「大丈夫ですよ。バナームのフワノは運んでくる手間賃のぶん、並のフワノより高価になってしまうので、少なくともポイタンが主流となりつつある宿場町では商品になりえないと思います。……だからウェルハイドも顧客を城下町のみに絞って、何か目新しい料理を考えてほしいと願ってきたわけです」
言いながら、俺は袋に詰め込まれていたフワノの粉を木皿ですくい取ってみせた。
「ご覧ください。これがバナームのフワノです」
暗灰色をした、少し粒子の粗いフワノの粉である。
森辺の女衆らはもう何度となく目にしているので、お客人がたのみが感心したような声をあげている。
「ふうん。あんまり美味そうな色合いではないな」
「そうですね。でも、どうやら栄養価はジェノスのフワノよりも高いようです。バナームの、特に貴族ならぬ人々などは、ほとんど野菜らしい野菜は食べないでこのフワノとカロンの肉や乳だけで日々を過ごしているようですよ」
「へえ、フワノにアリアなみの栄養があるってことかい?」
「バナームの民の健康状態がわからないので想像するほかありませんが、ウェルハイドの話を聞いている限りでは、そういうことなのかもしれません。何でも、カロンの主食である牧草は繁殖力がものすごくて、よほど気をつけていないと余所の畑にまではびこってしまうのだそうです」
「ああ、それでダバッグでは野菜が希少とされていたのですか」
と、マイムが納得顔で手を打つ。
「でも、あの豊かな牧草がないとカロンの腹を満たすことはできませんものね。だから、ジェノスではカロンを育てようとする者もいなく、ダバッグやバナームではあまり野菜が作られない、ということなのですね」
「そういうことらしいね。ダバッグの人たちにとっては当たり前のことすぎて、俺たちに説明する気にもなれなかったんだろうと思う」
言いながら、俺はいそいそと準備を進めていく。
「でも、バナームの上流階級ではこの黒フワノと野菜が同時に食べられているようだから、栄養のとりすぎで身体を壊すこともないらしい。だから取り合わせは気にせず使い道を考えてほしいと願われたんだけど……これであんまり上等な料理をこしらえてしまうと、ポイタンどころか他の野菜の売れ行きにまで影響が出てしまう危険があるので、ちょっと風変わりな料理を考えてみたんです」
俺にしてみれば、バナームとジェノスの通商のために、ドーラの親父さんを筆頭とするダレイムの人々の生活を犠牲にするわけにはいかなかったので、ちょっと頭を悩ませることになったのだった。
「まあ結論から言うと、以前に作ったパスタのようなものなのですが……そういえば、町のみなさんにはまだお披露目していないのですよね。パスタというのは、ポイタンやキミュスの卵などを混ぜて作る、フワノの新しい料理のことです」
「ああ、城下町の連中にそいつを食べさせたんだっけ?」
「はい。今日の晩餐ではみなさんにも食べていただこうと思っておりますよ。……で、この黒フワノ粉もポイタンと混ぜて、パスタに似た料理をこしらえてみようと思ったわけですね。これが城下町で受け入れられたら、いっそうポイタンを売ることもできるのでお得でしょう?」
「ああ、さすがに城下町のほうからポイタンを寄越せという声は聞こえてこないな。そんなことになったら、ますます畑を広げなくちゃならなくなるよ」
ドーラの親父さんは、嬉しげな面持ちでそのように言ってくれた。
そちらに笑顔を返しつつ、俺は実践に取りかかる。
「この黒フワノ粉というのは、ジェノスの白いフワノよりも食感がぼそぼそとしているのですね。きめは粗いし色は濁っているし栄養は豊かだし、ということを合わせて考えると、もともとの性質が異なる上に、挽き方が異なっているのかもしれません。まあ、フワノがどのようなやり方で挽かれているのかも知らないので想像に過ぎませんが。……とにかく、この粘り気のひかえめな食感を活かすと、パスタとはまた違った料理が作れるな、と思ったんです」
「へーえ。だけど、普通のフワノよりぼそぼそしてるってのはポイタンも一緒でしょ? それを混ぜたら、いっそうぼそぼそしちゃうんじゃない?」
そのように食いついてきたのはユーミだ。
《西風亭》では高価な食材が忌避されるので、これは純然たる好奇心からの発言だろう。
「いや、それでも黒フワノ粉単体で作るよりは、俺の理想に近かったんだよ。作ってみるから、味見をよろしくね」
「もちろん! そのために来たようなもんだし!」
ユーミもだいぶん調子を取り戻してきたようだ。
それを横目に、俺は黒フワノ粉とポイタン粉をブレンドさせた。
比率は1:4で、黒フワノ粉が多め。そこに細く水を入れながら、こねるのではなく手早く混ぜていく。
パスタではないので、キミュスの卵もレテンの油も不要である。だまになりそうな粉をバラしつつ、とにかく少量ずつ水を注ぎ入れていく。
粉の総量の半分強ぐらいの水が加えられると全体に水分がいきわたるので、そこに至ったら、いよいよこねていく。最初は拳で固めるように、あるていど固くなったら、今度は何度も折り込みながら手の平で入念にこねあげる。
そうして無事に生地が仕上がったら、打ち粉をした板の上に移動させて、棒でのばしていく。
2、3ミリの見当で生地がのびたら、さらに打ち粉をした上で4つにたたみ、駒板を使用して切っていく。このあたりの作業はパスタと同一だ。
「あとは茹でれば完成なので、その前に出汁を作ります」
出汁は燻製魚と干した海草のあわせ出汁で、味付けはタウ油と砂糖である。それに隠し味として果実酒を使用するのは、みりんや日本酒が存在しないための、ちょっとした気休めだ。
「それが王都から届けられる魚や海草の燻製というものですか。さすがにこれほど値の張る食材が宿場町で使われることはないでしょうね」
と、ひさびさにテリア=マスも発言してくれた。
これだけ大勢の森辺の民を前にしながら、大きく心を乱している様子はない。ドンダ=ルウとの対面で、彼女はどのような心情を得ることになったのか、それが気がかりでならなかった俺は、ほっと息をつく。
「でも、これは手軽に美味しい汁物を作ることができる食材ですからね。いずれ王都からもっとたくさんの量を仕入れることができるようになったら、少しは値も落ちるかもしれません。そのあたりのことは、ジェノスのお偉方に期待をかけたいところです」
「今までだったら貴族に期待をかける気持ちにはなれなかったけど、うちの領主の次男坊だったら、何とかしてくれるかもしれないな」
朗らかな笑顔で親父さんはそう言った。
そういえば常連の2名が静かだな、と振り返ると、マイムとミケルは真剣きわまりない眼差しで俺の作業を注視していた。
今日の彼らは、この勉強会こそが本題なのである。
「よし、つけ汁のほうは、こんなところですね。シーラ=ルウ、後の処理をお願いします」
「はい」
すでに手順をわきまえているシーラ=ルウが、新しい鍋に水を張り、煮立った鍋をそこに漬ける。
温かいまま食べる作法もあるが、食べやすさを考えると冷やしたほうが無難かな、と考えた次第である。
「では、さきほどの麺を茹であげます。……あ、俺の故郷ではこういう状態にした生地を麺と呼んでいたのですよ」
説明しながら、新たに沸かした鍋に麺を投じる。投じる際はほぐしながらで、投じた後はグリギの菜箸でさっとばらしておく。
時間は、2、3分の見当だ。
そういえば、そろそろポルアースに頼んで砂時計を購入したいところである。俺はすっかり感覚頼りの調理が身についてきてしまったが、森辺のかまど番にとっても砂時計は大いなる福音となることだろう。
「茹であがったら、網の上で水洗いします。それを皿に盛りつけたら、完成ですね」
「完成? さっきの汁に入れるんじゃないのかい?」
「ええ。これは一口ずつ汁につけて食べるのですよ」
要するにこれは、ざるそばを模した料理であった。
ジェノスの白いフワノ粉でも、同じような料理を作ることはできる。が、俺としては食感的に、白フワノ粉はパスタやうどんに、黒フワノ粉はそばに適しているように感じられた。
「食べ方は自由ですけどね。俺の故郷では、このように食べます」
と、俺は自分の分を手製の箸でちょいとつまんでみせる。
「でも、難しかったら、この三股に割った木匙でパスタと同じように食べるのもありです」
が、そばを食べるならば、やはり箸ですすってもらいたいところだ。
今はまだパスタを皮切りに麺の料理を普及しているさなかであるので高望みはできないが、俺は少しずつ箸の普及にも努めたいと考えていた。
「へえ、肉や野菜は全然使わないんだな。せいぜいあの干した魚や海草とかいうやつを煮込んだぐらいか」
「はい。俺の故郷では、この料理だけで昼の軽食を済ませる人も多かったのですが、ジェノスの人たちにはきっと物足りないことでしょう。これなら肉や野菜だって、今まで通り売り上げを落とすこともないと思います」
リミ=ルウたちに手を借りて人数分の皿に料理を移しつつ、俺はそのように答えてみせる。
「みなさんにとってもこれだけでは物足りないと思いますが、これにおかずがつくのだと想像しながら味見をしてみてください」
ようやく試食タイムである。
すでに試食の経験がある森辺のメンバーは、パスタの要領で上手にフワノそばを口にした。ダバッグへの旅やサウティ家の一件で先延ばしにされていた案件であるが、それでもすでに2回ほどこれを勉強会でお披露目した経緯があるのだ。
その中で、レイナ=ルウとシーラ=ルウとリミ=ルウとトゥール=ディンが、箸の扱いにチャレンジしていた。
レイナ=ルウらはあくなき探究心から、リミ=ルウは「アスタの食べ方のほうが美味しそうに見える!」ということで、俺の提唱する箸の文化の普及に取り組んでくれたようだった。
で、6名のお客人たちである。
真っ先に声をあげたのはユーミであった。
「面白いね、これ! なんか、フワノやポイタンだとは思えないよ!」
「そうだなあ。汁をつけすぎると味が濃くなっちまうけど、普通に美味しい料理だと思うよ」
と、ドーラの親父さんも相づちを打つ。
難しい顔をしているのは、ミケルであった。
「これは面妖な料理だな。わざわざフワノを食べにくくしているだけのようにも思えるが……しかし、こうして細く切っているからこそ、このような食感が生まれるのだろうし……今ひとつ、感想をひねり出すのが難しいところだ」
「でも、この汁は美味しいですね! あんな短い時間煮込んだだけでこんなに深みのある味が生み出せるのですから、やっぱり魚や海草の燻製というのはとても素晴らしい食材なのだと思います!」
パスタを飛び越していきなりこのフワノそばを食べることになった客人たちは、やっぱりかなり面食らってしまっている様子であった。
まあ順番は前後してしまったが、今日の晩餐ではぞんぶんにパスタを味わっていただこうと思う。
「これには香草を加えてみたり、干しキキの実を潰して入れてみたり、あるいはすりおろしたギーゴをかけたりする食べ方も合うと思うのですが、そこのところはまだ勉強中です。とりあえず、この状態でバナームの人たちにも味見をしてもらおうかと考えているのですよ」
「ま、城下町の連中だったら、こういう料理を面白がるんじゃないのかな。この料理にポイタンが必要だっていうんなら、俺もめいっぱい畑を広げてやるさ」
親父さんのそんな言葉で、黒フワノ粉のお披露目は終了と相成った。
お次は、白ワインのごときバナームの果実酒と、ワインビネガーのごときママリア酢だ。
「この白いママリア酢に関しては、もうユーミもすっかりお馴染みだよね」
「うん! ちょっとばっかり高くつくけど、まよねーずの味がぐんとよくなるからね! おこのみやきを注文するお客は、みんな大喜びさ」
「ジェノスで売られている赤黒いママリア酢は、酸味も風味も豊かなんですけど、その風味の強さが味を壊してしまうことがあるので、向いている料理と向いていない料理があると思うのですよね」
というか、バルサミコに近い赤ママリア酢より、ビネガーに近い白ママリア酢のほうが、俺としても格段に使い勝手がよいのである。《キミュスの尻尾亭》の『酢ギバ』でも、俺はすでに使用するママリア酢をバナーム産のものに変更していた。
「で、白い果実酒のほうですが、これは普通に煮込み料理で使えると思います。俺としては、ギバよりもキミュスに合っているのかな、という印象ですね」
「同じ果実酒でも風味はまったく異なるのですね。うーん、次から次へと新しい食材が現れて、わたしは倒れてしまいそうです」
そのように言いながら、マイムはとても幸福そうな表情をしていた。
「それじゃあ、残りの時間はこの果実酒を使った煮込み料理の勉強をしてみようか。汁物の風味づけなんかでも、なかなか役に立つかもしれないね」
ということで、あとは各自がそれぞれグループを作ってアイディアを出し合うことにした。
その光景を見回しながら、ドーラの親父さんがふっと息をついている。
「アスタたちは、毎日こんな風に料理の勉強をしているんだな。そりゃあ美味い料理を作れるわけだよ」
「ええ。普通は日々の仕事が忙しくて、ここまでの時間は取れないでしょうしね。俺たちも、宿場町の商売で十分な稼ぎを出せるようになったから、こうして時間を割けるようになったんです」
「そうですよね! うちでは父さんがしっかり生活を支えてくれているから、わたしも料理の勉強に時間を割くことができているんです」
マイムはそのように発言したが、そんな生易しいものではないのだろうなと俺は考えている。
もちろん経済面で生活を支えているのはミケルなのだろうが、そうして父親が家を空けている間、家の仕事をこなしているのはマイムであるはずなのだ。料理だけではなく掃除や洗濯や日々の買い出しなど、ひとりですべてをこなしながら、残った時間を料理の勉強につぎ込んでいるのだろう。ミケルは右手の指が不自由なのだから、なおさらにだ。
10歳かそこらで料理にそこまでの熱情を傾けることができる。父親譲りの鋭い味覚や、父親から受け継いだ調理の知識ばかりでなく、それこそがマイムの一番の資質なのだろう、と思う。
「よー、ずいぶん賑やかにやってんなー」
と、ふいに屋外から呼びかけられた。
開け放しであったかまどの間の入口から、ルド=ルウがひょっこり顔をのぞかせている。
「あ、ルド=ルウ!」と足を踏み出しかけたターラが、ぎょっとしたように立ちすくむ。
ルド=ルウの背後に見える黒褐色の巨大な存在が目に入ってしまったのだろう。
「やあ、ずいぶん早いお帰りだったね?」
「あー、ひさびさにギバが罠に掛かってたからよ。ムントに食われちまわないよう、さっさと運び出してきたんだ」
「……ギバを捕まえてきたんだね」と親父さんが表情を引き締めてルド=ルウのほうに歩を進めた。
好奇心に瞳を輝かせたユーミと、おっかなびっくりのターラ、それに真剣な面持ちをしたテリア=マスがそれに続く。
ルド=ルウはシン=ルウとふたりがかりでグリギの棒を抱え、そこに100キロ級のギバを吊るしていた。
咽喉もとに血の跡がうかがえるほかは外傷も見当たらない。きっと血抜きに成功できたギバなのだろう。
ドーラの親父さんは、「うふう」とおかしな感じに大きく息をついた。
「いやあ、こいつは立派なギバだ……いつだったか、うちの罠に掛かっていたギバより一回りはでかいよ」
「うわあ、ギバなんて初めて見た! すっごいなあ。これがあんなに美味しい肉に化けるのかあ」
親父さん以外のメンバーは、きっとこれが初見なのだろう。ユーミは感心しきったように、ターラはこわごわと、テリア=マスは自分の身体をかき抱きながら、ギバの巨体を見つめている。
「こんなぶっとい角で刺されたらひとたまりもないね! ねえねえ、こいつはあんたたちがとっ捕まえたの?」
「んー? 落とし穴に掛かってたのを引き上げて咽喉をかき切っただけだから、誰の手柄ってわけでもねーよ。……ていうか、お前、誰だっけ?」
「えー? あんたたちがアスタの護衛をしてたとき、何回か顔を合わせてるじゃん! そりゃあおたがい名前を名乗ったりはしなかったけどさあ」
ユーミは不満そうに言い、ルド=ルウは「ふーん」と小首を傾げる。
「まあいいや。こいつの皮剥ぎは後回しにして、また森に戻らなきゃいけねーからよ。俺も夜にはファの家に行く予定だから、挨拶はそのときにさせてくれ」
「ええ? こんな大物を捕まえたのに、また森に向かうってのかい?」
「ああ、そろそろこのあたりではギバが減ってきてるからよ。狩れる内に狩りまくるんだ」
ドーラの親父さんは、再び大きく重い息をつく。
「気をつけて仕事を果たしてきておくれよ。ルド=ルウたちが無事に戻ってくることを、俺もセルヴァに祈らせてもらうから」
「ん、ありがとよ」
まだいくぶん狩人モードであるのだろう。眼光を燃やしたりはしていなかったが、ルド=ルウはふだんよりも精悍な感じがした。
そうして無言のシン=ルウとともにルド=ルウが解体室に姿を隠すと、それと入れ替わりでさらに巨大な影が建物の向こうから現れる。
とたんにユーミは「きゃー!」と悲鳴をあげ、よりにもよって俺に抱きついてきた。
「あ、あ、あいつ! どうしてあいつがこんなところにいるの!?」
それは、同じく100キロ級のギバをひとりで背負った、ミダであった。
ぶふう、ぶふう、と息を吐きながら、ミダはのろのろと接近してくる。
「いや、あのミダも罪を裁かれて、ルウ家の家人として生きていくことになったんだよ。もう乱暴な真似をしたりはしないから大丈夫さ」
ここ近年で宿場町に具体的な恐怖を与えていたのは、ザッツ=スンらではなくミダやドッドであったのだ。
そのミダと屋台で出くわした経験のあるユーミは、俺の説明を受けてもなかなか離れようとしてくれなかった。
「アスタ……血抜きに失敗しちゃったんだよ……?」
と、ミダのほうは相変わらずの様子で声をかけてくる。
「角もどこかに飛んでいっちゃったし……ミダは、残念なんだよ……?」
そうしてミダがのそのそと横を向くと、ユーミはいっそう強い力で俺を抱きすくめてきた。
そのギバは、角どころか頭部そのものが半分ほど吹き飛んでしまっていたのだ。
「こ、これはミダが仕留めたのかい? ギバ寄せの実も使っていないのに、すごいじゃないか?」
「うん……だけど、血抜きに失敗しちゃったから、商売で使うことはできないんだよ……?」
「それでも一番大事なのは、一頭でも多くのギバを狩ることだろう? 肉や角を惜しむのは、きっと本末転倒なんだろうと思う。ミダは立派に仕事を果たしたんだよ」
「そうなのかなあ……」
しばらく動きを止めてから、にわかにミダはぶるんと頬肉を震わせた。
たぶん喜んだのだろうと思うのだが、ユーミはぎゅうぎゅうと俺の胴体をしめつけてくる。
「おい、ミダ! こいつらを吊るしたら森に戻るんだから、とっとと仕事を済ませろよ!」
そうしてルド=ルウに呼ばれたミダは、「それじゃあね……」とつぶやきながら解体室に消えていった。
「ううう。不意打ちだったから、腰が抜けそうになっちゃった。ごめんね、アスタ、もうちょいだけ支えててくれる?」
「う、うん。なるべく早く回復してね?」
すると、今まで無言でいたテリア=マスが静かに俺たちへと近づいてきた。
「アスタ。罪は裁かれたと仰いましたが、さきほどの森辺の民はどのような罪を犯し、どのような罰を受けたのでしょうか?」
「ミダですか? 彼は大罪を働いていたスンの本家の血筋ということで、すべての家族と縁を切られて、氏も失うことになりました。このまま正しく生きればルウの氏を与えられることになりますが、それまでは妻を娶ったりすることも許されません」
「そうですか……」
「はい。彼はああ見えてまだずいぶん若いですし、スンの先代家長が働いていた大罪とは無関係なんです。森の恵みを荒らしてしまい、宿場町では屋台を壊すなどの無法を働いていたそうですが、それを悪行だと教えてくれる人間はいなかったし、罪を野放しにしていたのはサイクレウスの命令であったのですから、あとはきちんと正しく生きていくことができれば罪は贖える、と森辺の民は考えています」
テリア=マスは小さくうなずき、そのまま瞳をまぶたに隠した。
「なるほどね。大罪に関わっていないそんな若衆にまで罰を与える森辺の民は、町の人間より身内に厳しいんだろうと思うよ」
ドーラの親父さんが取りなすようにそう言った。
「そうですね」とつぶやいてから、テリア=マスはまぶたを開く。
「まだ気持ちが混乱していて、うまく言葉では言いあらわせないのですが……わたしは今日、森辺の集落にやってきて、本当によかったと思います」
そう言って、テリア=マスははかなげながらも、その面に微笑をたたえてくれたのだった。