森辺への招待状①~六名の客人~
2016.4/22 更新分 1/1
「うわあ、本当に森の中だあ!」
ターラが、はしゃいだ声をあげている。
宿場町から森辺の集落へと向かう道中においてのことである。
同じように荷車の後部から顔を出しているドーラの親父さんも、「こりゃあすごいな」と感じ入ったようにつぶやいている。
時は紫の月の10日、宿場町での商売を終えた下りの二の刻を少しばかり越えた頃合いだ。
この日、ようやくターラと親父さんは森辺の集落へと足を踏み入れることになったのだった。
◇
ことの発端は2日前、城下町での仕事を終えたその翌日、普段通りに朝方から親父さんの店に寄ったときのことだった。
2日後にまたトゥランの住人たるミケルとマイムを森辺に招くのだ、と告げたところ、注文のアリアを手にしたまま、親父さんは「ううむ」と悩み始めてしまったのである。
「もうすぐ太陽神の復活祭だろう? だからうちの畑でも、それに向けての収穫が大変なんだ。普段以上に人を雇って、頃合いの野菜は全部収穫することになる。紫の月の半ばから銀の月の頭までは、出せば出しただけ野菜も売れていっちまうからな」
「ああ、本当に復活祭というのは大きな祭なのですね。俺もそれに向けて商売を広げる準備を進めているところなんですよ」
「そうだろう? だから、紫の月が終わるまでは、てんやわんやの騒ぎでな……俺はもちろんターラだって、なかなか遊んでいられる時間はなくなっちまうんだ」
「はい」
「だから、自由に動くとしたら今ぐらいしかないんだよ」
そうして親父さんは決然とした面持ちでアリアの袋を差し出してきた。
「なあ、アスタ。ターラを森辺の集落に招きたいっていう気持ちは、今でも変わってないのかな?」
「ええ、もちろんです」
期待を込めて俺も身を乗り出すと、親父さんは「そうか」とうなずいた。
「それじゃあちょいと、かかあや婆さまたちを本腰入れて説得してみるよ。半日ぐらい仕事を抜け出して、森辺の集落に出向けるかどうかをな」
「本当ですか!?」と俺も声が大きくなってしまった。
親父さんは、「うん」と笑みくずれる。
「アスタたちだってダレイムまで来てくれたんだからな。あれでアスタたちがどういう人間かも伝わっただろうから、うちの連中も強くは反対しないはずさ。俺だって、ターラに劣らずアスタたちの家には遊びに行きたかったんだからな」
「ありがとうございます! 実現したら、本当に嬉しいです!」
「ああ、絶対に実現させてみせるよ。……ただ、ひとつだけアスタにお願いがあるんだよ」
「何でしょう? 俺にできることだったら、何でも応じてみせますよ!」
「そんな大げさな話じゃない。俺とターラと、もうひとり元気な娘さんを同行させることを許してやってほしいんだ」
話を聞くと、それはユーミのことであった。
年の離れた友人であるターラが森辺の集落についての熱い気持ちを述べていた際、彼女も全力で意気投合していたそうなのである。
「あそこの親父さんもなかなかの頑固者らしいけど、ギバの料理を売りに出してるぐらいなんだから、ちっとは森辺の民に対する考え方も変わってきているんだろう。ユーミだったら、きっと説得してみせるだろうさ」
ドーラの親父さんの予想は見事に的中し、その日の帰り際にはユーミからの吉報が届けられることになった。
こうなってくると、他のお得意様たちにも話を隠したままというのは不義理かなと思い、つきあいのある宿屋のご主人たちには一言ずつその旨を告げておくことにした。
ナウディスは、「それは楽しそうな集いですな」と微笑んでいた。
自分がそれに参加しよう、などという稚気は最初から持ち合わせていなかった様子だ。
ネイルは、「それはとても有意義なことだと思います」と嬉しそうに目を細めていた。
彼は森辺の民に対する偏見が根絶されることをひそかに祈ってくれているのである。
それでもやっぱり、自分が店を空けてまで参加する、という発想には至らないようだった。
俺としても、そんなに気軽に参加人数を増やすべきではないのだろうな、という思いがあったので、自分のほうから積極的に彼らを勧誘することはなかった。
そんな中で、「ちょっと待て」と声をあげてきたのは、《キミュスの尻尾亭》のミラノ=マスであった。
「アスタ、5人もの町の人間が森辺の集落に出向こうという話なのなら……そこにもうひとり加えさせることはできんか?」
「ええ? ミラノ=マスも同行してくださるのですか?」
俺は大いに驚かされたが、もちろんミラノ=マスが同行してくれるのならば、それにまさる喜びはなかった。
が、ミラノ=マスは「いや」と首を振ったものである。
「俺なんぞが同行したって、何も益はないだろう。俺だって、そこまでひまな身体ではない」
「では、誰を同行させたいと仰るのですか?」
「娘の、テリアだよ」
俺は一瞬、絶句してしまった。
「テ、テリア=マスですか? でも、彼女はまだ森辺の狩人に対しては恐怖心をぬぐえずにいるのですよね?」
「だからこそ、だ。宿場町にはめったに狩人も下りてこないのだから、それなら自分から出向く他に顔を合わせる機会もなかろうが?」
そんな荒療治をしてしまってもよいものなのだろうか?
俺としては、あれほど森辺の民を恐れていたテリア=マスが、俺やレイナ=ルウやシーラ=ルウなどには心を開きつつある、というだけで、大きな前進に感じられていた。このままゆっくり時間をかければ、いずれは完全に彼女の心を解きほぐすこともできるのではないか――と、そのように考えていたのである。
だが、ミラノ=マスの瞳には、かつてないほど真剣な光が灯っていた。
「あいつが森辺の民を恐れるようになったのは、俺がそんな風に育てちまったからだ。俺なんざは放っておいても遠からずくたばる身だが、あいつの人生はまだまだ長い。……俺は自分が息をしている内に、自分の不始末を片付けておきたいんだよ」
「不始末だなんて、そんな……」
ミラノ=マスの親友は、スン家の凶賊によって害されてしまった。それでその親友の妹であったミラノ=マスの伴侶も心痛から病を患い、後を追うように亡くなってしまったのだ。
しかもスン家は、サイクレウスの采配により裁かれることもなかった。これではミラノ=マスたちが森辺の民を忌避するようになったのも当然の話だろう。
だから、ミラノ=マスの側に非などはあろうはずもなかった。
しかし、ミラノ=マスの表情は真剣そのものであった。
そして――ミラノ=マスに呼ばれてやってきたテリア=マスもまた、真っ青な顔になりながら「同行をお願いしたいです」と言ってのけたのであった。
こうなってしまっては、俺も拒絶することはできない。
森辺の民の暮らしを目にすることは、彼女にとって悪い結果を生むことにはならないはずだと信じ、同行を了承するしかなかった。
これで人数は、6名だ。
ドンダ=ルウからも、了承を得ることはできた。人数が人数なので他の族長たちにも話を通したところ、ダリ=サウティはもちろん、グラフ=ザザからも「2名が6名に増えても大差はない」という返事をもらうことはできた。
ミケルやマイムに関しては、森辺のかまど番にとって有益な存在である、ということがすでに証しだてられている。だが、複雑な心情を抱えるテリア=マスはともかく、ターラや親父さんやユーミに関しては、物見遊山と思われてもしかたのない立場であったかもしれない。
それでも森辺の族長たちから了承を得ることはできた。
「町の人々とは相互理解に努めるべきだ」という俺の弁が通ったのか、あるいは他者への無関心・不干渉から来る裁定であったのか。その真情を知るすべはなかったものの、族長らも彼らを拒絶しようとはしなかったのだ。
ターラやユーミの無邪気な期待に応えたい、という思いと同時に、俺は森辺と町の絆がいっそう強まることを願って、今回の計画に取り組むことになった。
◇
紫の月の10日の当日、ルウ家はわざわざ迎えの荷車までよこしてくれた。
俺たちも2台の荷車で宿場町に下りている身であったが、帰り道は8名にも及ぶし、荷物の量もそれなりであったため、6名もの客人を同乗させることはかなわなかったのである。
ルウ家が眷族の買い出し用に購入した荷車が、赤みがかった羽毛を持つトトスのジドゥラに引かれて町に下りてくる。その手綱を握っているのは、バルシャであった。
「お待たせしたね。さあ、乗っておくれ」
ダバッグへの旅でバルシャと仲良くなったマイムは、ミケルとともにそちらの荷車に乗り込んだ。ターラやテリア=マスは俺の荷車のほうが安心できるだろうということで、残りの4名はまとめてこちらに招き寄せる。あとは物怖じをしないヤミル=レイだけがこちらに居残り、トゥール=ディンとユン=スドラはバルシャの荷車に移ってもらうことにした。
荷車の中で、やはり緊張の色が濃いのはテリア=マスである。褐色の髪を後ろでひとくくりにした、俺とそう年齢も変わらない娘さんであるが、もともと彼女は人見知りである上に、この荷車では俺ぐらいしか面識がなかった。彼女が気安く口をきける森辺の民は《キミュスの尻尾亭》で調理の手ほどきをした俺とレイナ=ルウとシーラ=ルウの3名のみであり、なおかつターラや親父さんともまったく接点はなかったのである。
そんな中、内気なテリア=マスの心をほぐしてくれたのはユーミであった。
「あのさ、あたしのこと、覚えてないかな? 宿屋の寄り合いなんかで何回かは顔を合わせてるはずなんだけど」
「は、はい。《西風亭》の娘さんですよね? 父からそのようにうかがっています」
「ってことは、やっぱり覚えてないんだね。あたしの名前は、ユーミだよ。あんたは、テリア=マスだったっけ?」
「は、はい」
「そんな怖がらなくっても大丈夫だよー。見た目ほど凶悪な人間じゃないはずだからさ!」
別にまったく凶悪な外見ではないはずだが、それでも宿場町では不良少女に分類されてしまうユーミなのである。派手な胸あてにひらひらとした巻きスカートという格好で、じゃらじゃらと飾り物を下げている。質素な布の胴衣と筒型の長いスカートで肌の露出を避けているテリア=マスとは、見事に好対照だ。「宿屋の娘」という同じ属性でありながら、これほどかけ離れた気性と外見をしているのはなかなか不思議なものであった。
「森辺の集落、楽しみだね? きっとアスタは驚くぐらい美味しいものを食べさせてくれるんだろうなあ」
「……そうですね。わたしもまだまだ料理の腕は不十分なので、少しでも力を身につけることができればと思っています」
「んー? あんたはお勉強をしに行くの? あたしはそんな気、これっぽっちもなかったんだけど」
「い、いえ、もちろんわたしも見学するだけです。でも、仕事を休んだからには、何か得るものがないと……」
「真面目だなあ! 仕事なんて、あたしはさぼることしか考えてないよー?」
自分にとって交流のある者同士が、新たに縁をつむいでいく。こういう時間が、俺はとても好きだった。
気づけばターラや親父さんも会話の輪に加わって、荷車の中は賑やかになってきた。ヤミル=レイは最初から御者台のすぐそばに陣取って、外の風景に目を向けている。
「お待たせしました。まもなくルウの集落に到着します」
10分少々をかけて傾斜の強い道を乗り越えた俺は、ルウの集落の少し手前で荷車を止めた。
普段であれば、速度をゆるめつつもこのまま本家のかまどの間まで向かうところであるが、今回は森辺の見学ツアーのようなものであるのだから、自分たちの足で集落に踏み込んでほしかったのだ。
まずは俺自身が御者台から降り立ち、ギルルの手綱をヤミル=レイに託したのち、荷台の後部側に回る。
「さ、おいで、ターラ」
期待と興奮に頬を火照らせたターラに手を差しのべて、俺は荷台から降ろしてあげた。
それに続いてドーラの親父さんが、最後にユーミとそれに手を取られたテリア=マスが、黄色く踏み固められた森辺の道に降り立った。
後からついてきた2台の荷車も停車して、そちらからも人々が姿を現す。どうやら森辺の女衆らも、客人につきあって徒歩で進むかまえのようだ。
「うわあ……あんなに高くまで木がのびてるよ?」
倒れてしまいそうなぐらい後ろにのけぞったターラが、親父さんの腕を引っ張りながら、そのようにつぶやいた。
親父さんは「お、おう」と応じながら、せわしなく視線を行き来させている。
「どうしたのさ、親父さん? ひょっとしたら、森が怖いの?」
「そ、そりゃまあ、俺たちなんかは餓鬼の頃からモルガの森には近づくなって言われてたからな。怯える必要はないってわかってても、なかなか身体のほうは言うことを聞かないもんさ」
「ふーん。やっぱりダレイムに住んでるとそんな感じなんだね。あたしなんかは、森辺の民には近づくな、としか言われてなかったよ」
そんな風に言ってから、ユーミは俺に向かって、にっと笑いかけてきた。
「ま、そんな言いつけを守らなかったからこそ、アスタたちとお近づきになれたんだもんね。たまには言いつけも破ってみるもんさ」
すると、後ろのほうからマイムとミケルを引き連れたヴィナ=ルウが歩み寄ってきた。
「お待たせぇ……ここはルウの集落だから、ルウ本家の長姉であるわたしがご案内するわねぇ……」
「へえ? あんたって、もしかしたら森辺ではちょっとした立場の人だったの?」
「別に、どうってことはないわよぉ……たまたま他の兄弟より早く生まれたってだけのことだからねぇ……」
ユーミは案外、ヴィナ=ルウのことがお気に入りなのである。艶然と微笑みながら無頼漢をあしらうことのできるヴィナ=ルウに、何かシンパシーのようなものを感じているのかもしれない。
そして、いっそう緊張の色を濃くしているテリア=マスのもとには、顔馴染みのレイナ=ルウが近づいてきた。
「さあ、行きましょう。ルウの家は、あなたがたを歓迎いたします」
俺たちは、列をなしてルウの集落に向かった。
やがて左手側の森が途切れて、その向こうに集落の景観が広がる。
8つの家屋に囲まれた、広大なる広場である。
百余名の眷族が集まることのできる広場と、飾り気のない木造の家屋。その内のひとつは、ミダが頑張ってこしらえた家だ。
その中で、常と変わらぬルウの人々の営みが展開されていた。
家の脇で、薪を割っている者がいる。
大きく広げた布の上で、毛皮をなめしている娘たちがいる。
草籠に積んだピコの葉を乾かしつつ、そのかたわらで追いかけっこをしている子供たちがいる。
どこかのかまどでは、蝋燭やラードのために脂を煮詰めているのだろう。苦手な人には苦手かもしれない濃密な脂の香りが漂っている。
それに、一番手前の家からは、それにも負けない香草の香りが漂ってきてもいた。
あれは、かつて俺やアイ=ファが宿泊用として借り受け、現在はジーダとバルシャの住まいになっている家だ。その内の一室が燻製室にリフォームされたのだと聞いているので、きっと干し肉の作製に勤しんでいるのだろう。ひょっとしたら、ギバ骨スープの研究のためにギバの骨がらも煮込まれているかもしれない。
ともあれ、俺にとってはもうずいぶん前から日常と化しているルウの集落の様相であった。
周囲は深い森であり、円状に切り開かれた空間で人々が忙しそうに、かつ平和に過ごしている。空の青色と、森の暗緑色と、地面の黄色でくっきりと色分けされた、安穏とした世界。ギバやムントや毒虫の潜む危険な森と隣り合わせであるということが信じ難いほどの、それは牧歌的な風景であった。
初めてこの地を訪れた4名は、いったいどのような感慨を抱くことになったのだろう。
それを性急に問いかける気持ちにもなれず、ゆっくり広場に足を踏み入れていくと、やがて正面の家屋の裏手から姿を現した小さな人影が、ものすごい勢いでこちらに駆け寄ってきた。
「いらっしゃい! ルウの集落にようこそ!」
リミ=ルウである。
リミ=ルウは子ウサギのように跳ねながら、まず真っ先にターラへと飛びついた。
少し忘我の状態に陥ってしまっていたターラも、それで明るい笑顔を取り戻す。
「本当に来てくれたんだね! なんだか、夢みたい!」
リミ=ルウは、渾身の力でターラの身体を抱きすくめた。
幼子とはいえ、森辺の民である。ターラはだいぶん苦しそうな様子であったが、文句の声をあげることもなく、同じように相手の身体を抱きしめて、せいいっぱいの力でそれに応えているようだった。
「ここからはリミが案内するね! 鋼があったら、おあずかりします!」
「誰も刀は持っていないよ。事前に確かめておいたから、大丈夫」
「そっか。それじゃあまずは、かまどの間だね!」
ドーラの親父さんたちは俺たちの普段通りの生活を見てみたい、と希望してくれていたので、本日はこのまま商売用の下ごしらえをして、勉強会も敢行する予定であった。
その後はファの家に移動して、晩餐をご馳走する。食べ終わったら、荷車で送迎だ。晩餐にはリミ=ルウとルド=ルウも参加して、送迎の役も担ってもらう手はずになっている。
「あ、その前に、もしよかったらルウ家のご主人に挨拶をさせてもらえないかな?」
そのように言い出したのは、ドーラの親父さんであった。
ターラの手を取って意気揚々と歩き始めようとしていたリミ=ルウが、くるりとそちらに向きなおる。
「ご主人って、ドンダ父さんのこと? 父さんは怪我をしているから、家で休んでるけど」
「それじゃあ挨拶なんて迷惑かな。それに、族長様なんぞにお目通りを願うのは失礼になっちまうのかね?」
「うーん? 退屈すぎて死にそうだーとか言ってるから全然迷惑じゃないと思うけど、でも、ドンダ父さんって家族以外にはすっごく怖がられてるんだよ?」
「ああ、俺は何度か顔を合わせたこともあるから大丈夫だよ。他のみんなはどうだか知らないけど」
親父さんの視線を受けて、ユーミがいくぶん怯んだ様子を見せた。
「森辺の族長って、あの、罪人たちを城下町に引っ立てていった人たちのどれかだよね? そっか、あの内のひとりがあんたたちの親父さんってことになんのか……」
「おっかないんだったら、外で待ってておくれよ」
「別におっかなくはないよ!」
と、大きな声で言ってから、ユーミは俺の耳に口を寄せてきた。
「でもまさか、あのギバの骨とか毛皮とかを頭っからかぶってた連中じゃないよね? いくら何でも、あんな連中からこんな可愛らしい娘さんたちが生まれてくるとは想像できないんだけど」
「ああ、それはザザとかドムの狩人たちだね。……でも、ルウの家長のドンダ=ルウも、外見上は彼らに負けないぐらい強面だよ?」
「……ん、わかった。それ相応の覚悟を固めておくよ」
ユーミは目を閉じ、深呼吸をし始めた。
その姿を見届けてから、俺はテリア=マスを振り返る。
テリア=マスは青い顔をしていたが、俺の視線に気づくと「行きます」と小さな声でつぶやいた。
「そういえば、わたしたちもルウ家の家長に挨拶したことはなかったね。行こうよ、父さん」
マイムは無邪気な口調で言い、ミケルは勝手にしろとばかりに肩をすくめている。
かくして俺たちは、ルウの本家に向かうことになった。
リミ=ルウとターラを追い抜いたヴィナ=ルウが戸板を開けて屋内に呼びかけると、ミーア・レイ母さんがひょっこりと姿を現す。
ヴィナ=ルウから小声で事情を説明されたミーア・レイ母さんは、にこやかに笑いながら6名の客人たちを見回していった。
「ルウの家にようこそ、町のお客人がた。うちの家長にご挨拶をしていただけるっていうんだね? もちろんこちらは歓迎いたしますよ」
そうしていったん姿を隠してから、ミーア・レイ母さんはあらためて客人たちを家に招いた。
あまり大勢で押しかけても何なので、俺とリミ=ルウだけがそれに同行することにする。
「家長、こちらが町からのお客人だよ」
ドンダ=ルウは、普段通り上座で片膝あぐらをかいていた。
そのかたわらに控えているのは、ダルム=ルウだ。
ドンダ=ルウは右肩を包帯で巻かれて、右腕を吊っている。
ダルム=ルウは、右手の先を包帯で巻かれているばかりだ。左肩の負傷は、峠を越したらしい。
どちらも怪我人とは思えぬほどの迫力であり重圧感であった。
いや、むしろ手負いの獣のごとく、普段以上の物騒な雰囲気であったかもしれない。
そして、そんな彼らの背後の壁には、途方もなく巨大なギバの毛皮と、さらに、つい先日ダリ=サウティから受け取った森の主の角が飾られている。
その他に目につくのは予備の刀や弓ばかりなのだから、何もかもがドンダ=ルウたちを恐ろしげに見えるように演出されているかのようだった。
ユーミは、ごくりと生唾を飲み込んでいる。
ターラは、リミ=ルウの腕にぎゅっと取りすがっている。
テリア=マスは、もはや死人のような顔色だ。
「さあ、座っておくれよ、お客人がた。何も取って食いやしないからさ」
ミーア・レイ母さんは、ダルム=ルウとは反対の側に膝を折った。
俺は率先して右の端に腰を下ろし、立ちすくむみんなにうなずきかけてみせる。
我に返ったドーラの親父さんが俺の横に並び、ターラ、ユーミ、ミケル、マイム、テリア=マスの順でその場に居並んだ。リミ=ルウは立ったまま、元気づけるようにターラの肩に手を置いている。
「……俺がルウ本家の家長ドンダ=ルウで、こいつは次兄のダルム=ルウ、こっちは妻のミーア・レイ=ルウだ」
底ごもる声で、ドンダ=ルウが言った。
額の汗をぬぐってから、ドーラの親父さんが名乗りをあげる。
「俺はダレイムの住人で、宿場町でも野菜を売っているドーラだ。以前にも言葉を交わしたことがあるんだけど、覚えているかな、ドンダ=ルウ?」
「覚えている。……ジェノスの領主らと刀を交えることなく、平和な生活を取り戻せたことを、俺も嬉しく思っている」
俺はこれからもあんたたちと商売を続けていきたいと願っているよ――サイクレウスとの決戦の場におもむこうとしていたドンダ=ルウらの前にまろび出て、ドーラの親父さんはそのような言葉を伝えたのだ。
ドーラの親父さんは大きくうなずき、そしてその顔に朗らかな笑みをたたえた。
「俺もとても嬉しいよ。そして今日は、俺たちを森辺に招いてくれて、どうもありがとう。決してあんたたちの迷惑にはならないよう気をつけるから、どうかよろしく頼むよ」
ドンダ=ルウは目だけでうなずき、それから残りの人々を見回した。
「ファの家のアスタから素性は聞いているが、どれが誰なのかを確かめたい。よければ、名前を名乗ってもらおう」
「わ、わたしはターラです! リミ=ルウやララ=ルウにはいっつも仲良くしてもらっています! レイナ=ルウやヴィナ=ルウもとっても優しいです!」
「ターラは、ドーラの娘だよ。リミがいっつも話してるでしょ?」
とても楽しそうに笑いながら、リミ=ルウがターラの首ったまにかじりつく。
かちかちに固まっていたターラが、それでようやく「あは」と笑う。
「あ、あたしは《西風亭》のユーミってもんだ。屋台でギバの料理を買ったり、あとは少しばかりのギバ肉を買ってるぐらいのつきあいだけど、ルウ家の人たちともそれなりに仲良くやらせてもらっているよ」
「……俺はトゥランのミケルという者だ。ダバッグに向かう際には、荷車や護衛役などでたいそうな世話になった。今さらの話だが、礼を言わせてもらいたい」
「わたしはミケルの娘で、マイムです。近いうちにギバの肉を使った料理で屋台の商売をやらせていただこうと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「……わたしは《キミュスの尻尾亭》の主人ミラノ=マスの娘でテリア=マスと申します」
その瞬間、沈黙を守っていたドンダ=ルウの双眸がぎらりと光った。
「アスタから話は聞いている。……それでは、スン家の連中が襲った商団の男が、貴様の母の兄ということだな」
「……はい」とテリア=マスは青い顔でうなずいた。
ドンダ=ルウは「そうか」と巨体を揺り動かす。
「罪人どもはすでに裁かれた。そのような無法を働く人間は、もはや森辺にはひとりとして存在しない。……しかし、スン家の連中を野放しにしていたのは、森辺の民の全員の罪でもある」
「はい……父やアスタからも、そのように聞いています」
「家族を害されてなお、森辺の民と絆を結んでくれたことを、森辺の族長として感謝している。……そして、俺たちの不始末から深い悲しみを負わせてしまったことを、詫びさせてもらいたい」
ドンダ=ルウは左の拳を床につき、たてがみのような頭をわずかに垂れた。
ドンダ=ルウが他者に頭を下げる姿を目にしたのは、これが初めてのことであった。
「俺たちは、森辺の民の全員が正しく生きることが、唯一の贖罪の道だと考えている。俺たちに許す価値があるかどうか、その目で見守り続けてもらいたい」
「はい」とテリア=マスは深くうつむいた。
一番遠くに陣取っている俺にその表情を確認することはできなかったが、毛皮の敷物に落ちる透明のしずくだけは、はっきりと見て取ることができた。