道標は何処なり①混迷の朝(上)
2014.9/21 誤字修正
2014.11/21 誤字修正
翌朝。
目覚めると、アイ=ファの姿が見当たらなかった。
ルウの本家のかまどを預かった、その翌朝である。
俺が目覚めたその場所も、アイ=ファの家ではなく、ルウの分家が使っていた空き家だ。
造りは大して違わないが、アイ=ファの家より二回りは大きい。
そして、食糧庫などが屋外の別の建物に作られているため、奥の個室も住居として使用できる。が、いつもの習慣通りに、俺とアイ=ファは大広間の好きな場所で雑魚寝をしていた、はずだった。
そのアイ=ファの姿が、ない。
ヴィナ=ルウの件ではしどろもどろになってしまったが、ひたすら「酔っぱらいがよくわからないことを言っていた」で押し通したので、深い怒りは買っていない、はず。
アイ=ファは、どこに行ってしまったのだろう。
ダルム=ルウの件もあったので、俺としてはそちらの線が心配になってしまった。
アイ=ファは「小物」とか言っていたが、ルウ家の次兄で、力も強そうな男衆で、おまけに親父譲りの危険な目つきを有している男だ。いかにアイ=ファといえども、相手にだけ帯刀が許されているこの環境では、決して楽観視はできないはずである。
そう考えたら、居ても立ってもいられなくなってしまった。
かたわらに置いておいた白タオルをひっつかみ、それを頭に巻きつけながら、とにかく玄関口へと急ぐ。
かんぬきは、外れていた。
ということは、アイ=ファもとりあえずは自分の意志でこの家を出ていったということだ。
外は、ちょうど太陽が山稜を越えて姿を出しきる頃合いだった。
普段だったらとっくに起きて、洗い物ぐらいは済ませているところだが。本日だけはその職務から解放されている。
7戸の家に囲まれた広場のような空間に足を踏み出して、俺はぐるりと視線を巡らせた。
鉄鍋を抱えた大柄な女衆、大きく広げた布の上にピコの葉を干そうとしている老女。それを手伝ったり、邪魔しようとしたりしている小さな子どもたち。
それぞれの家でそれぞれの朝の情景が展開され始めているが、ルウ本家の周囲に人影はなく、アイ=ファの姿もまた見えない。
起きたら、ルウの本家に挨拶をして、帰る。
そういう段取りであったので、アイ=ファがひとりでどこかに姿を消してしまう理由がわからなかった。
もしかしたら、やっぱりヴィナ=ルウの一件が誤魔化しきれていなかったのだろうか?
それで怒って、ひとりで帰ってしまったのだろうか?
いや、だけど、アイ=ファがそんなに激情を隠せるようなタイプだとも思えない。昨晩の寝る間際、アイ=ファはたいそう疑わしげだったし、冷ややかでもあったが、あまり怒っているようには見えなかった。
ならば、何故?
ああ、こんなに思い悩む羽目になるなら、すべてを――いや、さすがに一部だけは脚色して――打ち明けておけば良かった!
何せ俺は、純然たる被害者なのである。
一方的に貞操を奪われそうになった身なのである。
契の約束がどうとか言っていたが、俺はそんな森辺の約束事を知らなかった。そして、知らなかったということを、アイ=ファは知っている。俺が有するこの世界における知識というのは、ほぼ100パーセント、アイ=ファからもたらされたものであるのだから、それは確実だ。
(そうか……そう考えたら、俺たちが別行動を取ったってのも、昨晩が初めてだったんだよな)
もちろん、俺が留守番という意味でなら、行動を別にすることはしょっちゅうある。しかし、「アイ=ファの目の届かぬところで、勝手な真似をするべからず」という約束をしていたので、俺が家の外をひとりで徘徊することは、なかったのだ。
そしてまた、別行動を取ったところで、俺にも、アイ=ファにも、コミュニケーションする相手は、おたがいの他に存在しなかった。
俺たちは、俺たちだけの小さな世界で、5日ほどの時間を過ごしていたのだ。
その均衡が、リミ=ルウの登場によって、破かれた。
破かれたとたんに、この騒ぎか。
俺はヴィナ=ルウに言い寄られて。
アイ=ファはダルム=ルウに言い寄られた。
何と因果な巡り合わせであろう。
……って、そんな独り語りをしている場合ではないのだ!
とにかく、アイ=ファの行方である。
とにもかくにも、ルウの家を訪れるしかない。
それでもしも、アイ=ファがひとりで挨拶を済ませて帰ってしまっていたならば、泣きながら後を追いかけるだけである。よし、出陣だ!
「……よお、客人。何をひとりで、ぼーっと突っ立ってるんだよ?」
と、足を踏み出そうとした矢先に、背後から声をかけられた。
黄褐色の髪をした少年が、けげんそうな顔で俺を眺めている。
ルウ家の末弟、ルド=ルウである。
「ああ、どうも……君こそ、こんなところで何をやってるんだい?」
広場の最奥にあるルウ家に向かおうとした俺の背後にたたずんでいるのだから、彼はこのちょっとした集落の外側からやってきたことになる。
「んー? 俺は妙に早く目が覚めちまったから、ぶらぶら散歩してただけだよ。女衆に見つかると、仕事を手伝えってうるせえからなあ」
そんな風に応じてから、彼は「ふわあ」と大あくびをした。
170センチの俺より小柄で細っこい、なかなか可愛らしい面立ちをした少年だ。
もちろん細いとはいえひ弱な感じはなく、若鹿のように俊敏そうな体格をしている。淡い瞳の光も強いし、表情はいつでもふてぶてしい。
「女の仕事は女でやれってんだよなあ。末の弟だからって好き勝手言いやがって。……で、あんたは何やってんの、客人? 名前は、アスタだったっけ?」
「うん。起きたらアイ=ファの姿が見当たらなかったので、探しに出てきたところなんだよ。君、どこかで見かけなかった?」
「さあ? 女衆の仕事でも手伝ってんじゃねえの? ……この時間なら、水場かな。こっちだぜ。来いよ」
軽い足取りで、ルウの本家の方向に歩き始める。
口のきき方なんかは雑破だが、意外に気のいい少年なのかもしれない。クセモノ揃いの男衆の中では間違いなく一番まともな感じがするし、それに、唯一俺たちの料理を認めてくれた男衆でもある。
「あーあ。あんたたちは今日で帰っちまうんだろ? 何だか、面白くねえなあ。もっとあの美味い飯を食っていたかったよ」
そんな言葉も、とても嬉しい。好感度は上昇していく一方だ。
「でも、いちおう女衆に作り方は伝授しておいたからさ。俺がいなくても、きっと彼女たちが美味しい食事を作ってくれるよ」
「うちの女どもに、そんな器用な真似ができるもんか! それに、あの『はんばーぐ』とかいう柔らかいギバは、親父が絶対に許さねえよ。仮に美味いのが作れたとしても、それを食えるのはジバ婆だけさ」
その目が、ふてくされたように俺を見る。
「なあ、アスタ、あんた本当に婿入りしねえ? レイナ姉でもヴィナ姉でもどっちでもいいから、適当に襲って食っちまえよ」
「恐ろしいことを言う弟くんだねえ……君は大事なお姉さん方がそんな目に合ってもかまわないのかい?」
「どうせいつかは嫁入りすんだから、おんなじことじゃん。ていうか、嫁に入ったら別々の家になっちまうけど、婿を取れば、一生ルウの家族でいられるだろ。だったら、そっちのほうがいいんじゃね?」
うーむ。お姉さんたちに対する愛情はしっかりと持ち合わせているようだが、今ひとつ異世界人の俺には理解しきれない感覚である。適当に襲って食っちまうような男を、この少年は義兄として尊敬できるのであろうか。
「だってさあ、レイナ姉だってもう17だし、ヴィナ姉なんかは20なんだぜ? ルウの本家の女衆が、どうしてそんな年まで嫁入りしないんだって、まわりの連中も最近うるせえんだよ。とっとと嫁入りして餓鬼を孕んで家族を増やすのも、女衆の立派な仕事だろ?」
「ふーむ。ちなみに君は、何歳なのかな?」
「15。……なあ、そろそろそのキミとかいう呼び方やめねえ? なんか、背中がざわざわしてくんよ」
「ごめんごめん。あ、水場はそっち?」
「こっち」
何だか本当に気安い少年である。
これで三姉のララ=ルウ以外とはだいたい口をきいたことになるが、ずいぶん個性豊かな兄弟たちではないか。
得体の知れない迫力を有した、長兄のジザ=ルウ。
どうにも好感の持てそうにない、次兄のダルム=ルウ。
乱暴そうだが気さくな少年、末弟のルド=ルウ。
無駄に色気に満ちあふれた、長姉のヴィナ=ルウ。
素直で無邪気で生真面目そうな、次姉のレイナ=ルウ。
俺の『ギバ・バーグ』を否定してくれた唯一の女衆、ララ=ルウ。
天真爛漫で愛くるしい、リミ=ルウ。
見事なまでに、多種多様だ。
一対の夫婦から、これほど多彩な子どもたちが生まれてくるとは、実に興味深い。
「で、婿入りする気にはなれねえの? なんなら、俺がレイナ姉あたりをおびきだしてやってもいいけど」
ルウ家の家屋を通りこし、それを右手に見ながら、少し灌木の多い道を進んでいく。
「もしくは、レイナ姉が水浴びしてるとこに飛び込んでみるとかさ。ほら、未婚の女の素っ裸を見たら、目玉を潰すか、あるいは嫁に迎えるべし、とかいう意味のわかんねえ掟があるじゃん? レイナ姉なんか気が弱いから、そうなったらもう嫁入りするしかないって思い詰めちまうよ、きっと」
「そんなことで思い詰めさせたくないよ! というか、俺の目玉が潰される未来しか見えない」
「でも、襲って孕ませるよりは簡単だろ?」
「大前提が、間違いすぎてるんだよ……ルド=ルウ、君はもっと姉君にとっての幸福とは何か、という点を真剣に考察するべきだ」
「幸福じゃんよ。毎日あんな美味い飯を食えるようになるんだから!」
発言はトリッキーに過ぎるけど、そういう発言を差しはさんでくるから憎めないんだよなあ。……って、俺が単純すぎるのか?
でも、俺は正直、昨晩のドンダ=ルウによる全否定がけっこう心に食いこんでいたので、こんな言葉を聞かされるとずいぶん癒されてしまうのだ。
「うーん。それじゃあ、最後の手段としては……あの馬鹿親父を納得させてみる、とかな」
「いや、だから、そもそも俺には婿入りの意志がないわけで……」
「そうじゃねえよ。飯の美味さを納得させるんだよ」
俺は思わず、少年の横顔をまじまじと見つめやってしまった。
そんな目線には気づかぬまま、ルド=ルウは頭の後ろで手を組んで、両足を投げ出すみたい歩き方で歩いている。
「あのギバの肉、俺はすっげー美味いと思ったけど、親父は甘いとか柔らかいとか勝手な文句をつけてたじゃん? そしたら、甘くもなく柔らかくもない飯を作れば、親父もグウの音も出ないんじゃね? そんで、親父があんたの腕前を認めたら、うちの女衆があんたの真似をした飯を作っても、文句を言わなくなる――って、やっぱりこいつが一番無理っぽいよな」
たとえ一番無理っぽくても、俺が望むのはその道なのだ。
しかし、その道筋が見つからない。
「……だけどもう、君の父君は俺にかまどの番をまかせてくれたりはしないだろうね」
「んー? そんなことねえだろ。今度こそ美味い飯を作ってみせるから、かまどをまかせやがれ!とでも言ってやれば、絶対乗ってくんだろ。そんなこと言われて黙ってられる親父じゃねえもん」
「……そうなのかい?」
「おいおいやめとけよ! それで下手打って両手の指を削がれちまったらどうすんだ? それこそお前の飯が一生食えなくなっちまうじゃん! ……嫌だぜ、そんなのは?」
本当にもう、そのすべすべのほっぺにちゅーでもしたろうかなとか思ってしまった。
しかし、俺とこの少年のどちらかが新たな世界にでも目覚めてしまったら困るので、やめておく。
(そうか……本当に相手が乗ってくれるなら、別の料理でリベンジを……!)
と、ひそかに闘争心を燃やす俺のかたわらで、ルド=ルウは「あーあ」とぼやく。
「やっぱりここは、あんたが婿入りするのが一番簡単だよ。おすすめはレイナ姉だね。年齢もたぶん同じぐらいだろ?」
「いや、どうやら同い年ではあるようだけれども。でも、やっぱりそんな理由で嫁とか婿とかの話になるのは、おかしいよ。俺はもっと、自分に誠実に生きていきたいね」
自分の気持ちに、誠実に。
自分の心に、忠実に。
ルド=ルウは「あっそ」と、つまらなそうに言い捨てた。
「あ、あそこに戸板みたいなのが立ってんだろ? あの板の向こうが水場だよ。俺は仕事を手伝わされたくないから、帰るぜ?」
「わかった、ありがとう。……あ、今さらだけど、この首飾りもありがとう。昨日は本当に嬉しかったよ」
「何だそりゃ? こっちが祝福してんのに礼を言ってどうすんだよ? そいつはあんたの、正当な取り分だろ」
べーっと小生意気に舌を出して、くるんときびすを返してしまう。
やっぱり血筋かな。あの愛くるしい末妹と一緒で、擬音がよく似合う元気な仕草である。
さて。行く手を見ると、確かに灌木にたてかけられるようにして、何枚かの戸板がずらりと並べられていた。
何の目的でこのような場所に戸板なんぞを干しているのかはわからないが、その向こうからは水の跳ねる涼しげな音色と、女衆の華やいだ声も聞こえてくる。
(リベンジにせよ何にせよ、まずは、アイ=ファの了承をいただかないとな)
その説得の言葉を考えながら、俺は水場へと近づいていった。
ずいぶん楽しげな声である。笑っているのは、リミ=ルウだろう。朝から元気なことだ。
「すいません。アイ=ファはこちらにお邪魔してますか?」
戸板の陰から、ひょいっとそちらを覗きこむ。
すると、当人が目の前に立っていた。
アイ=ファが、目の前に立っていた。
大きな布で金褐色の髪をかき回しながら、アイ=ファがきょとんと俺を見返してきた。
俺の視界が、アイ=ファの姿で埋めつくされている。
そのクリーミーなチョコレートみたいになめらかな色合いで、俺の視界が綺麗に埋めつくされてしまっている。
――俺がこの異世界にやってきて、初めて顔を合わせた人間が、アイ=ファだ。
だから俺は、このアイ=ファこそが森辺の集落のスタンダードな人間である、と当初は思い込んでいたのだが。実のところ、それは完全なる誤謬であった。
アイ=ファは、スタンダードではない。
むしろ、イレギュラーな存在だ。
女だてらに蛮刀を振り回し、森の奥地でギバを狩る、もしかしたらこの集落で唯一の、女狩人であったのだ。
だから俺は、アイ=ファの他にアイ=ファのような人間を見たことがない。
野生の山猫みたいな目つきをして、男のように果断に振る舞う、こんなに勇猛で、力強く、生命力と闘争心をみなぎらせた女の子を、俺はこの森辺の集落でアイ=ファの他に見出すことはできなかった。
それはもう、外見からして、はっきりと違うのである。
この集落の女衆、特に未婚の若い女性たちはかなり露出度の高い服を着ているので、普段の生活からでもその違いを察することは容易かった。
こんなに研ぎ澄まれた身体をしている女衆は、アイ=ファの他にいない。
もちろん女衆とはいえ、森に入って香草や薪を集めたり、鉈をふるって薪を割ったり、重い鉄鍋や水瓶を運搬したり、と過酷な労働に従事しているため、怠惰に肥え太っている者などはほぼ皆無と言ってもいい。
それでも、やはり違うのだ。
森を走り、鋼の蛮刀を扱って、凶暴なギバを狩る。そのための鍛錬で、まるでその肉体こそが鋼であるかのように、アイ=ファの身体は研ぎ澄まされている。
骨格などは、むしろ華奢にさえ見えるし、腕も足も胴体も、特別に太いこともない。男のように逞しい体格をしているわけでもない。
しかし、その内には強靭に練られた実戦的な筋肉が秘められている。
革鞭のように引き締まり、無駄肉のない、アイ=ファの身体。
不自然なダイエットではなく、過酷な狩猟の仕事によって研ぎ澄まされた、細身の体躯。
それでいて、若い女性としての優美さや柔らかさを完全に失ってしまったわけでもなく、発達した背筋から、ぎゅっと引き締まった腰まわりを経て、躍動感あふれる脚線にまで至るラインなどは、いまだに時としてドキリとさせられることがある。
野生の豹のように、アイ=ファは綺麗だった。
優秀なアスリートのように、その肉体は美しかった。
ひとりの女の子としても、アイ=ファは魅力的だった。
動物としても、人間としても、そしてひとりの女性としても――それは綺麗で、調和のとれた、美しい身体だと、俺は普段からひそかに感じ入ってしまっていたのだ。
で。
そんなアイ=ファの綺麗な身体で、俺の視界が埋めつくされてしまっていた。
あちこちに白い傷跡を浮かばせながら、なおもなめらかに光り輝くその褐色の肢体が、余計な不純物を帯びることなく、今、俺の眼前にさらけ出されてしまっている。
まあ要するに、アイ=ファは素っ裸だったわけである。
岩場の上で仁王立ちになり、金褐色の濡れた頭を大きな布でかき回していた体勢で硬直し、その裸身を真正面から俺の眼前にさらけだしてしまっていたのだ。
その背後では、さらに複数の女衆が裸身でたわむれており、俺の姿に気づくなりその何人かが黄色い悲鳴をあげたようだが、俺にはしっかりと知覚することができなかった。
それは何故かと問うならば。
高速回転のビデオフィルムみたいに血の気を顔に上昇させた我が女主人が、恥じらいの表情と羅刹のごとき形相をうまい感じに組み合わせたお顔になって、渾身の右フックを俺のこめかみに叩きつけてきたからである。