貴婦人の甘き集い②~才覚~
2016.4/19 更新分 1/1
「それじゃあ次は、リミが作るね!」
そのように宣言したリミ=ルウがちょこちょことかまどの間を飛び出していき、食料庫から必要な食材をたずさえて舞い戻ってきた。
ルウ家ではどのような菓子をこしらえているのか、という俺に問いかけに、彼女が率先して応えてくれたのである。
「あんまり時間がないから、ぷりんじゃなくってチャッチのおもちにするね! リミも最近は水じゃなくってカロンの乳を使ってるの!」
「へえ、そいつは美味しそうだね」
チャッチ餅というのは、かつて俺が城下町の晩餐会でこしらえた、わらび餅の簡易版のごとき菓子だ。
ジャガイモに似たチャッチからでんぷん(と思われる)の成分を抽出しているので、そのように命名した。幼い頃に母親が作ってくれた、片栗粉の餅の応用である。
チャッチからでんぷんを抽出するのが手間であるが、それ以降の手順はシンプルだ。チャッチ粉を砂糖と一緒に水で煮て、それを冷やせばもう完成である。それをリミ=ルウは、水でなくカロン乳で煮ているのだという話であった。
なおかつリミ=ルウは、砂糖のみではなく2種の食材も追加していた。
落花生を思わせるラマンパの実を砕いたものと、それにシナモンを思わせる香草のパウダーだ。
「これであのパナムのあまーい蜜っていうのもかけるとすっごく美味しいんだけど、蜜は高いからあまり使うなってミーア・レイ母さんに言われてるの。だからそのぶん、砂糖をいっぱい入れておいたよ!」
俺が作製したときはみたらしの餡をメインの味にしていたため、餅そのものにはあまり砂糖を加えなかったのだ。
そうしてほどよく煮えたチャッチ餅の素を、水を張った鍋に流し込み、固まるそばから適当な大きさにちぎっていく。
やがて木皿には、ぷるぷると震える乳白色のチャッチ餅が山積みにされた。
「ずいぶんたくさん作ったんだね。試食には多すぎるように感じられるけど」
「いーのいーの! 半分は残しておいてね?」
何か悪戯でもたくらんでいるような顔でリミ=ルウは笑っている。
しかし、ルウ家の年長組もそれをいぶかしがっている様子はなかったので、俺もそれ以上は追及しないことにした。
「では、いただきます」
小さな木皿にいったん取り分けてから、俺はあらためてチャッチ餅を口に運ぶ。
香草のパウダーはひかえめであったので、ほんのり香るていどである。
しかしその香りが、いっそうの甘さを際立たせているように感じられた。
やはりチャッチ餅は、粘り気がなくぷちぷちと噛み切れる感触が心地好い。
なおかつ、落花生に似たラマンパの実がときたまカリッと異なる食感を添えてくれるのが、トゥール=ディンの菓子と同様にいいアクセントになっていた。
それに、カロン乳が素晴らしい風味を生み出している。
俺としては、ミルクとナッツとシナモンを使用した、和洋折衷のユニークなお菓子を堪能している気分であった。
「これは、あの……アスタのこしらえたチャッチの菓子にも負けない美味しさですね?」
おずおずとトゥール=ディンが発言する。
もちろん俺は、そちらに向かってにっこりと微笑んでみせた。
「本当だね。おおもとは俺の教えたものだとしても、この応用力は素晴らしいよ。リミ=ルウもトゥール=ディンも、それだけ甘いお菓子が好きだから、上達も早かったってことなんだろうね」
「ひょっとしたら、アスタはあまり甘い菓子というものを好いていなかったのですか?」
レイナ=ルウが不思議そうに問うてくる。
そちらに向かって、俺は「いや」と首を振ってみせた。
「好きか嫌いかでいえば好きなんだけど、自分でその味を研究するほど強い関心は持てなかったってところかな。故郷では、俺も人の作る菓子を味わうばっかりで、自分で作ってみようとはしなかったんだよ」
「なるほど。菓子というのは、やはり普通の料理と一線を画する存在であるのですね」
「うん。俺の故郷では、料理人と菓子職人ってのは別の存在として扱われている面が強かったぐらいだね。もちろん、菓子こみで優れた料理を作る料理人もたくさんいたんだろうけど、俺や親父はそういう料理人ではなかったからさ」
感じ入ったように、レイナ=ルウはうなずいている。
そのかたわらから、リミ=ルウが慌てたように声をあげた。
「ちょっとツヴァイ、全部食べちゃったらだめだよ? それはドンダ父さんとダルム兄のために作ったんだから!」
「族長と次兄に? フン、男衆がこんな甘ったるいものを喜ぶのかネ? ディンの家長だって、そこの娘が作った甘いポイタンを嫌がったっていうんでショ?」
言いながら、ツヴァイはチャッチ餅をぽいぽい口の中に放り込んでいく。
「だめだってばー!」と、リミ=ルウはその細っこい身体を羽交い絞めにした。すでに12歳でありながら、ララ=ルウよりもリミ=ルウのほうに身長の近いツヴァイである。
「ドンダ父さんもダルム兄も、怪我が治るまでは果実酒を飲めなくなっちゃったんだよ! そしたら何だか甘い菓子をたくさん食べるようになったみたいだから、晩餐の前に持っていってあげるの! 怪我を治すためにはたくさん食べなきゃとか言ってたし!」
「ああ、なるほど……他の料理だけじゃなく、果実酒との取り合わせっていうのも大事だったのでしょうね」
そのように言いながらトゥール=ディンに向きなおったのは、ヤミル=レイであった。
「トゥール=ディン、あなたが叱責されたのもそれが原因だったのじゃない? あのように甘いポイタンと一緒に果実酒を飲んでいたら、甘さが殺されて酸っぱさばかりが感じられてしまいそうだし……むしろ、そうして果実酒を美味しく飲めなくなってしまったことに、男衆らは怒っていたのではないかしら?」
そしてヤミル=レイは、その視線をぐるりとヴィナ=ルウのほうに差し向ける。
「そう考えると、あなたがあまり甘いポイタンを美味と思えなかったのも、大酒飲みであることが関係しているのかもしれないわね」
「いちいちよけいなことを言う女ねぇ……わたしは宴のときぐらいしか果実酒は口にしないわよぉ……? それだったら、シーラ=ルウなんかはわたしよりも甘い菓子が口に合わないってことになっちゃうじゃなぁい……?」
「わ、わたしもそこまで普段から果実酒を口にしているわけではないのですが」
気の毒なシーラ=ルウがそのように発言したところで、今度はリミ=ルウがトゥール=ディンを振り返った。
「ね、トゥール=ディン、さっきのポイタンをもう一回作ってよ! それで一緒に、ドンダ父さんのところに持っていこう!」
「ええ? 族長にわたしの料理をですか……? だ、だけど、もしも族長を怒らせるようなことになってしまったら、わたしは……」
「絶対そんなことないってばー。ドンダ父さんもダルム兄も喜ぶよ! 塩からい干し肉を食べると果実酒を飲みたくなっちゃうから、甘い菓子のほうがまだましだーとか言ってたもん!」
トゥール=ディンは困惑しきった様子で俺のほうに視線を向けてきた。
俺は笑って、そのほっそりとした肩を叩いてみせる。
「作ってあげなよ。甘い砂糖も、乳も、乳脂も、塩や肉には足りない栄養をたくさん持ってるんだ。傷を癒すには、色んな栄養を取り込むべきだと思う。……それに、ディンの家長にもこれまでのことをすべて伝えるべきだろうね」
「これまでのこと……?」
「うん。トゥール=ディンの作った甘い焼きポイタンは、肉や酒と一緒に食べるべき料理じゃなかった。でも、日中の軽食で口にしたり、晩餐の後で食べるぶんには、何の問題もないはずさ。なんなら、晩餐で果実酒を飲まない人間のぶんだけ作るっていうやり方でもいいんじゃないのかな」
「だ、だけど、高価な食材を使っておきながら、家長や酒を好む男衆に食べさせない、というのはあまりにも……」
「果実酒だって、ひと瓶で赤銅貨1枚はするじゃないか? つまむていどの量だったら、お菓子もそれほどの銅貨はかからないと思うよ。お酒を好きな人はお酒を楽しみ、甘いものを好きな人はお菓子を楽しむ、それは別に不公平な話ではないんじゃないかな」
「そーだよ! ルウの家でもね、怪我をするまではドンダ父さんもダルム兄も甘いお菓子はちょびっとしか食べてなかったよ。あとは女衆とルドだけで食べてたの!」
それでもまだトゥール=ディンがもじもじしていると、ずっと沈黙を守っていたスフィラ=ザザが静かにその前に進み出た。
「トゥール=ディン。ディンの家長が甘いポイタンを好まない、というのならそれでかまわないでしょう。でも、それはあくまで好みの問題であり、決してあなたの料理が不出来なわけではありません。家族との間に誤解が生じてしまったのなら、あなたは何としてでもそれを解くべきだと思います」
さきほどの恍惚とした表情などは微塵もなく、スフィラ=ザザは厳しい面持ちでそのように言い継いだ。
「男衆が甘いポイタンを好まないというのなら、女衆のためにそれをこしらえなさい。わたしもこの場で甘いポイタンの作り方を学び、それを家族にこしらえたいと思います。……ザザの眷族たるあなたがこれほどの腕を持っているのだということを改めて思い知らされて、わたしはとても誇り高い気持ちを得ることができました」
どうやらトゥール=ディンの抱えていた問題も、解決の目処が立ったようだった。
トゥール=ディンは俺とリミ=ルウとスフィラ=ザザの姿を涙の浮かんだ目で見比べてから、「ありがとうございます……」と小さな声で言った。
「それじゃあ今度は食材の分量なんかを俺たちに説明しながら作っておくれよ。そうしたら、ザザやルティムやレイやスドラでも、美味しいお菓子で家族に喜んでもらうことができるようになるから」
そのように言ってから、今度は俺がトゥール=ディンとリミ=ルウの姿を見比べることになった。
「それでさ、実はふたりに相談があるんだけど」
◇
数刻の後、俺はユン=スドラをスドラの家に、トゥール=ディンをディンの家に送り届けて、ファの家に向かっていた。
ディンの家長には俺からも説明を補足しようかと提案したのだが、トゥール=ディンは「大丈夫です」と言っていた。ならば、余所の家の俺がしゃしゃり出ることはない。きっとトゥール=ディンは、大事な家族たちと理解し合うことができるだろう。彼女が新たな涙を流すまで、俺の出番が巡ってくることはないはずだ。
(森辺には意外に甘党の人も少なくはないみたいだから、お菓子作りのムーブメントが巻き起こるかもな)
しかし砂糖はそれなりに高価な食材であるし、いちおう糖分の過剰摂取の危険性も伝えてはおいた。糖度の高い果実酒をがぶ飲みにしている森辺の民なので、体質的にそこまでの心配はないだろう。甘いお菓子も毒ではなく薬にしてほしい、と願う。
(でも、うちの家長はあんまり甘いお菓子に関心はないみたいだったしな。俺がトゥール=ディンやリミ=ルウに先を越されるのも当然の結果ってわけか)
そんなことを考えながら、俺はギルルを木につなぎ、家の横に駐めた荷車から必要な物資を運搬した。本日の晩餐と明後日の商売で使う数々の食材と、使用済みの鉄板や蒸し籠などだ。
それらを玄関の前に置き、何の気もなしに戸板を叩く。
「アイ=ファ、帰ったぞ。起きてるか?」
すると中からは、アイ=ファならぬ女衆の声が返ってきた。
「あ、少々お待ちください! すぐに済みますので、絶対に戸板は開けないようお願いいたします!」
それはどうやら、サリス・ラン=フォウの声であるようだった。
彼女は負傷したアイ=ファを心配して、ここ数日何かと姿を見せるようになっていたのである。だから彼女が来訪していることに不思議はないのだが、「絶対に」とはどういう了見なのだろう。
とにかく待つしかあるまいと、俺は玄関の前で立ちつくす。
サリス・ラン=フォウの言う「少々」とは、およそ2分ほどであった。
「お待たせいたしました。お仕事、お疲れさまです」
「ああ、どうも――」と言いかけて、俺は目を丸くすることになった。
彼女の足もとから、言語を絶して愛くるしい存在がちょこんと顔を覗かせていたのである。
「すみません。この子に乳をやっていたもので……これはわたしの子で、アイム=フォウと申します」
「うわあ、もう歩けるぐらい大きくなっていたんですね。初めまして……じゃなくて、こんにちは、アイム=フォウ」
初めてサリス・ラン=フォウと出会ったとき、彼女はこの幼子を胸に抱いていた。そのときは、なんて小さく弱々しい赤ん坊だろう、と少なからず心配させられたものであるが――その幼子はしっかりと自分の足で立ち、母親の服をきゅっとつかんだまま半身を隠し、きょとんとした顔で俺のことを見上げていた。
小さいことは小さいのだろうと思う。しかしその手足にはふくふくと肉がつき、顔にも元気そうに血が通っている。くっきりとした青い瞳で、ようやく生えそろってきたやわらかそうな髪は、淡い褐色。幼子用の貫頭衣みたいな服を着させられて、おなかのところには太い帯を巻かれている。
なんとも愛くるしい幼子である。
身長なんかは、それほど長身でもないサリス・ラン=フォウの膝と腰の中間ぐらいにしか至っていない。その小さな顔などは、片方の手の平で簡単に包み込めてしまいそうだ。
「可愛いですね。アイム=フォウは何歳ですか?」
「この紫の月で、ちょうど1歳になります。ファの家からもたらされた恵みによって、ここまで育てることがかないました」
幸福そうに言いながら、サリス・ラン=フォウは愛しい我が子をその手にすくい取った。
「いささか身体は小さいですが、もう飢えを心配することもありません。アイ=ファとアスタには本当に感謝しています」
「いえ、こんなに可愛いお子さんが無事に育つことができて、俺も本当に嬉しいです」
なかなか視線を離すことができず、俺はアイム=フォウに笑いかけてみせた。
アイム=フォウはきょとんとしたままであるが、その表情がまた愛くるしい。そのほっぺたをつついてあげたくてたまらなかったが、外から帰ってきたばかりの汚れた手でそんな乱暴な真似を働く気にはとうていなれなかった。
「あ、荷物を運び込むところであったのですね。申し訳ありません。わたしも手伝いましょう」
「いえいえ、荷物より大事な存在を抱えておられるのですから、お気遣いなく。どうぞ座っていてください」
俺はいそいそと運搬作業を再開することにした。
それでようやく、親愛なる家長との対面を果たす。
「戻ったよ。怪我の具合はどんな感じだ?」
「大事ない。動かなければ、痛みも感じないからな」
アイ=ファは壁にもたれて座り込み、自分の膝に頬杖をついた体勢で俺にうなずきかけてきた。
その胸の下にはきつく包帯が巻かれたままであるが、それ以外は普段通りのアイ=ファである。印象としては、運動不足で力をもてあましている感じだ。
その力強い姿にほっと息をつきつつ、俺は荷物を食料庫にしまいこんだ。
その間にサリス・ラン=フォウはアイ=ファのかたわらに膝を折り、アイム=フォウを解放する。
とたんにアイム=フォウは、よちよちとアイ=ファに近づいて、そのしなやかな左腕に取りすがった。
「まあ、駄目よ、アイム。アイ=ファは怪我をしているのだから……」
「別にかまわん。この幼子もまだ私に痛手を与えるほどの力を有してはいないだろう」
そのように言いながら、アイ=ファは妙に身体をこわばらせていた。
「それよりも、私のほうがこの幼子に痛手を与えてしまうのが心配だ。私は身動きをしても大丈夫なのだろうか?」
「そんな心配はしなくとも、幼子というのは意外に頑丈なものよ? 傷が痛まないのなら、アイ=ファも抱いてあげてくれない?」
「それは無理だ。私の力で握りつぶしてしまうかもしれん」
「まあ」とサリス・ラン=フォウは楽しそうに笑う。
アイ=ファと幼馴染であったというサリス・ラン=フォウは、和解を果たして以来、見違えるように表情が明るくなっていた。近在の氏族と正常な縁を結びなおすことができて、一番アイ=ファにとって幸福であったのはこの幼馴染との和解であったのだろうな、と俺は思っている。
「申し訳ありません。幼子は家の女衆すべてで育むものなのですから、このような際には家に置いてくるべきであったのですが、今日はできるだけアイ=ファのそばにいたかったので、こうして連れてきてしまったのです」
そんな風に述べるサリス・ラン=フォウの足もとには、編みかけの草籠が置かれていた。ずっとアイ=ファのそばにいられるように、家の仕事を持参してきたのだろう。
もちろん俺にとっては、迷惑どころか涙が出るほどありがたい話であった。1本の肋骨以外は完全に健康になってしまったアイ=ファにとって、最大の敵は孤独と退屈であったのである。
「謝る必要なんてまったくありませんよ。アイ=ファのためにありがとうございます。……あの、よかったら俺にアイム=フォウを抱かせてもらえませんか? 今、手を洗ってきますので」
「もちろんです。アスタに抱いてもらえるなら、光栄です」
俺は水瓶の水で入念に手を清め、おそるおそる幼子の小さな身体をアイ=ファのもとからすくい取った。
なんて軽いのだろう。やろうと思えば、簡単に片腕で支えられそうな重さだ。きっと6、7キロぐらいしかないに違いない。
俺の腕に抱かれながら、アイム=フォウはやっぱりきょとんとした眼差しを向けてくる。まだ白目がほとんど外に出ていなくて、黒目がちというか青目がちの、宝石みたいな瞳である。鼻も口も手足も小さくて、こんなにちっちゃな指にきちんと爪までそろっているのが、むしろ奇跡のように感じられてしまった。
「本当に可愛いですね。今さらですけど、男の子ですか? 女の子ですか?」
「アイムという名で女児なわけがあるか。これだけ森辺で暮らしていながら、まだそのようなこともわからぬのか?」
と、サリス・ラン=フォウではなくアイ=ファのほうが声をあげてくる。
アイム=フォウをあやしながら、俺は笑顔でそちらを振り返った。
「残念ながらわからないよ。女の子みたいに綺麗な顔立ちだけど、眉のあたりはちょっぴり凛々しい感じもするから、なおさら迷ってしまったんだ。これはきっとルド=ルウやラウ=レイにも負けない美男子に育つに違いないぞ」
「ずいぶん幸福そうな顔をしているな。……そういえば、お前は幼子を好いているのだったな、アスタよ」
「うん? そんな話をアイ=ファにしたっけか?」
「した。故郷の店では小さな子供もたくさん訪れていたので好むようになったと言っていたではないか」
「ああ、ターラと初めて出会ったときの話か。いやあ、ここまでちっちゃな子を店に連れてくるお客さんはあんまりいなかったから、それとは関係ないかもな。赤ん坊ってのは、無条件で可愛いもんだろ」
アイ=ファは何となく面白くなさそうに口をへの字にしてしまっている。
アイ=ファはどちらかというと小さな子供を苦手にしていたので、何か癪にさわってしまったのだろうか。
しかし、アイム=フォウがとてつもなく愛くるしい存在であるということは、動かしがたい事実である。かなうならば、いつまでもこの重みを腕に感じていたかった。その嘘みたいにちっちゃなお手々がぺたぺたと俺の顔をさわってきたものだから、なおさらにだ。
「あ、駄目だよ、アイム=フォウ。顔は洗ってないからさ、うかつにさわると病気になっちゃうぞ?」
「まあ、アスタは町で毒草でも扱っているのですか?」
と、サリス・ラン=フォウはくすくす笑いだす。
「そこまでの気遣いは不要です。幼子とは、わたしたちが考えている以上に強いものなのですよ?」
「いやあ、こんなに可愛い子を俺の汗やギバの脂なんかで汚してしまうのはしのびないです」
名残惜しいが、そこで幼子を母親に返すことにした。
アイム=フォウは、母親の胸もとにきゅうっとしがみつきつつ、俺とアイ=ファの姿を見比べている。
「アイムという名前も可愛いですね。アイ=ファと似ているのは偶然ですか?」
「……強き狩人になってくれることを願って、このように名づけました」
サリス・ラン=フォウは恥ずかしそうに微笑み、アイ=ファは座ったまま俺の尻を蹴飛ばしてきた。アイ=ファがギルルに父親と似た名前をつけることになったエピソードを思い出して、俺もそのように問うてみたのだ。
しかし、ということは――アイムが生まれた1年前から、サリス・ラン=フォウにはアイ=ファに対する友愛が強く渦巻いていたということになる。
スン家のせいで引き離されてしまっても、決してサリス・ラン=フォウはアイ=ファのことを忘れたりはしていなかったのだ。
たとえ尻を蹴られても、それを確認することができて俺は大満足だった。
「お前はいつまでのんびりとかまえているつもりだ? 晩餐の刻限まで、そこまでゆとりがあるわけでもあるまい」
「はいはい、今すぐに。……かまどに火を入れますけど、危ないようでしたら外のかまどを使いましょうか?」
「いえ、家でも火は使っているので、ご心配には及びません」
ならばと、俺は晩餐の支度に取りかからせていただくことにした。
急かされずとも、日没までにはまだ2時間以上も残されているので心配はない。
「そういえばさ、また城のほうからかまど番の仕事をおおせつかってしまったんだよ」
アリアを刻みながらそのように告げてみせると、アイ=ファはいっそう仏頂面になってしまった。
「前回の歓迎の宴とやらから、まだひと月も経ってはいないではないか。いかに君主筋とはいえ、あまりに気安い申し出ではないか?」
「うーん、あのエルフィリアという貴婦人が甘いお菓子をご所望のようなんだよ。ま、その日の商売は休むしかないけど、城下町での仕事は昼すぎには終わるはずだから、翌日の商売には影響ないさ」
「では、受けるのか?」
「ドンダ=ルウとの協議の結果、その方向で取り組むことになった。もちろん他の族長たちやファの家長であるアイ=ファが反対すれば、その限りではないけど」
「……族長のドンダ=ルウが了承しているならば、私が特に理由もなくあらがうわけにもいかんではないか」
と、ますますアイ=ファは渋い面持ちになってしまう。
「まあ、ジェノス候もなるべく森辺の民の負担にならないよう配慮してくれているみたいだしさ。ギバ肉の扱いや値段に関しても便宜をはかってもらえてるわけだし。リミ=ルウとトゥール=ディンの力を借りて、なんとか乗り切ってみせるよ」
「リミ=ルウとトゥール=ディン?」
「うん。お菓子作りに関してはそのふたりの得意分野みたいだから、今回はその面子で挑んでみようと思うんだ」
ドンダ=ルウの了承は得ているので、あとはディンの家長の返事待ちだ。
なおかつ今回は、俺と2名の調理助手、ではなく、3名の年若き料理人、という形で挑ませていただこうと考えている。
森辺において、料理人の名に値するのは俺ひとりではない。その事実をジェノス城の方々にも正しく認識してほしかったのだ。
「……で、もしグラフ=ザザやダリ=サウティにも異存がなかったら、アイ=ファはどうする?」
「どうとは? 三族長の認めた話を、私の気分だけでくつがえすわけにはいくまい」
「いや、そういう話じゃなくってさ。また護衛役として同行を望むのかな、と思って」
「……何を抜かしているのだ、お前は?」
と、アイ=ファの声のトーンが一気に二段階ぐらい低くなってしまった。
「まさか、私をこの家に残して、お前ひとりで城下町に出向こうなどと考えているのではあるまいな……?」
「いや、もちろん護衛役はつけてもらえるよ。ルウの集落は休息の期間が目前でギバの数が減ってきているし、ドンダ=ルウとダルム=ルウも休養中だから、あまり無理はしないようにしているみたいなんだ。だから、1日ぐらいなら護衛役として男衆を出してもいいだろう、という話になって――」
「私とて、狩人の仕事は休んでいる身だ。護衛の役目を余人に譲る理由はない」
「でも、アイ=ファはいちおう怪我人じゃないか? 荷車に揺られると怪我に響くかもしれないし――」
「アスタ」とサリス・ラン=フォウが声をあげてきた。
「それはあまりにアイ=ファの心情を無視した申し出だと思います。自分がアイ=ファの立場であったら、きっとわたしも怒りと悲しみの気持ちを抱くことになっていたでしょう」
「ええ? ど、どうしてですか?」
「……アスタはかつて、その城下町に捕らわれていたのですよ? たとえ城下町の人間のすべてが敵ではない、ということが証しだてられ現在でも、アスタをひとりで向かわせてしまったら、あのときの怒りと悲しみが蘇ってしまうに決まっています」
サリス・ラン=フォウは真っ直ぐ俺のほうを見返しながら、強い口調でそのように言葉を重ねた。
「あのときのアイ=ファがどれほど苦しんでいたか、それを一番近くで見守っていたのはわたしです。実際に危険のあるなしは関係なく、アスタが城下町に出向いている間、アイ=ファは同じ苦しみで胸の中を焼かれてしまうことでしょう。どうかアイ=ファにそのような苦しみを与えないでください」
俺は言葉を失いつつ、アイ=ファのほうに視線を戻した。
アイ=ファは意固地な子供のように、きつく唇を噛んでしまっている。
俺は溜息をこらえながら、そちらに頭を下げることにした。
「ごめん。一番配慮が足りていなかったのは俺みたいだな。なるべく荷車を揺らさないように気をつけるから、同行をお願いするよ」
「……お前に願われるからではなく、私は私の意志で同行をするのだ」
アイ=ファはぷいっと顔をそむけてから、サリス・ラン=フォウに見えないように唇をとがらせた。
そんなアイ=ファのうなじを見つめながら、サリス・ラン=フォウはふっと微笑む。
「アイ=ファは誰よりも猛々しい狩人であると同時に、誰よりも情の深い女衆なのです。ファの家人として、どうかそのことだけは忘れないであげてください、アスタ」
「それではまるで私が聞き分けのない子供のようではないか、サリス・ラン=フォウよ!」
と、顔を赤くしたアイ=ファがサリス・ラン=フォウをにらみつける。
そちらに向かって、サリス・ラン=フォウはにっこりと微笑み返した。
「でも、わたしはアイ=ファのそういうちぐはぐな部分を一番愛おしいと思ってしまうの。アイ=ファをよく知る人間は、みんなそうなのじゃないかしら」
「や、やかましいぞ! サリス・ラン=フォウは、そんな意地悪なことを言う娘ではなかったはずだ!」
「意地悪じゃなくて、ただ本心を語っているだけよ。それにわたしは、もう娘ではなくなってしまったから」
そう言って、サリス・ラン=フォウは愛息のやわらかい髪に頬を押しあてた。
アイム=フォウはわけもわからぬまま、アイ=ファの赤い顔をきょとんと見返している。
アイ=ファがこんな子供っぽい顔を俺以外の人間に見せるのは珍しいことであったが、もちろん俺が嫌な気分になることはなかった。
ともあれ、そうして城下町のお茶会には、アイ=ファも同行することがここに決定されたのだった。