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異世界料理道  作者: EDA
第十八章 藍の月と紫の月
316/1680

サウティ家の受難⑧~森の力~

2016.4/3 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開までしばらくお待ちください。

 そんなわけで。

 俺たちが宿場町での商売を終えてサウティの集落に帰りつくと、そこにはすでに森の主の巨体が横たえられていたのだった。


 狩人たちは、森に入って早々に森の主と遭遇してしまい、それから一刻足らずで決着をつけることになったらしい。

 負傷者は、多数。特にアイ=ファとドンダ=ルウが深手を負ってしまったとのことで、俺は喜びよりもまず深い心痛を得ることになった。


 アイ=ファは、肋骨を折っていた。

 俺が集落に戻った頃には、胸の下を包帯でぐるぐる巻きにされた上で、眠りに落ちていた。痛み止めのロムの葉を処方されたのだ。


「しかし、かつて同じようにギバの突進をくらったディム=ルティムなどと比べれば、よほど軽い手傷であるようだ。ひと月もすれば、狩人としての力を取り戻すことができるだろう」


 ダン=ルティムはそのように笑っていた。


 いっぽうのドンダ=ルウは、主の牙で右肩をえぐられてしまったらしい。

 幸いなことに骨や筋に重大な損傷はなく、こちらはふた月ほどで回復するだろうという話であった。


 そんな話でひとしきり心をかき乱されてから、俺たちは改めて森の主と向かい合うことになった。


 確かに途方もなく巨大なギバである。

 ダバッグで見たどのカロンよりも巨大であったと思う。


 目算で、体高は170センチ、体長は2メートル半、身体の厚みは大人ふたりが両腕をのばしても囲えるかわからないぐらい。角と牙などは、俺の腕と変わらないぐらいの太さと長さである。広場の真ん中に横たえられたその姿は、まごうことなき小山そのものであった。


 そしてこの主のほうも、全身が傷だらけだ。

 水瓶の水で洗ったらしいが、血の臭いも濃く漂っている。両目を失い、顔の右半分が潰れており、前足は両方とも肘の部分で断ち切られている。それ以外にも、おびただしい数の刀と矢の傷を負っていた。


 そして特筆すべきは、咽喉もとに突きたてられた刀である。

 80センチはあろうかという蛮刀の刀身が、まるまる主の首にうずまっていたのだ。

 体内に残っていた矢や杭はすべて引き抜かれていたが、この刀だけは肉が締まってしまい、どうしても抜けなかったらしい。

 驚くべきことに、これはアイ=ファが撃ち込んだ刀であり、そしてこれが致命傷になったのだという話であった。


「その後も主めはひとしきり暴れていたのだがな、俺たちが刀を叩き込む前に、勝手に力尽きてしまったのだ」


 ラウ=レイが、不満そうな顔でそのようにぼやいていた。

 そこに歩み寄ってきたのは、ダリ=サウティである。


「アスタたちに、最後の仕事を頼みたい。この主めの肉を使って、なんとかこの夜の晩餐を作ってはもらえないだろうか?」


「ええ? この肉を使うのですか? でも、これだけ傷を負ってしまったギバの肉は、相当に味が落ちてしまいますよ?」


「どんなに美味でなかろうとも、かまわない。ただ、サウティの眷族全員の口に入れられるようにしてほしい。俺たちは、失った力をこやつから取り戻さなくてはならないのだ」


 ダリ=サウティは静かだがとても強い眼差しでそのように言った。

 俺はもう一度森の主の姿を検分してから、「わかりました」とうなずいてみせる。


「それでも可能な限りは美味しく仕上げられるように努力してみます。手の空いている女衆にご協力を願えますか?」


「むろんだ。これから眷族をすべて呼び集めるので、何人使ってくれてもかまわない。……どうかよろしくお願いする」


 そうしてダリ=サウティは周囲に控えていた狩人らに「主の皮を剥げ!」と命じた。


                  ◇


 言うまでもなく、それはとてつもない大仕事であった。

 何せサウティの一族は総勢で68名、客分の俺たちは19名、この時点で87名分にもなってしまうのである。汁物料理に関しては毎日それだけの量を準備していたが、今回はそれ以上の労力が必要となるだろう。


 それに加えて、下ごしらえにも時間はかかってしまう。

 美味でなくともかまわない、と言われたところで、できうる限りの手は尽くしたい。まともに血抜きをしていない肉を食するならば、まずは塩水で入念に洗い清める必要があった。


 集落からありったけの岩塩を集めてもらい、切り分けた肉を洗っていく。それでも完全に臭みを取ることはできないので、なるべく香りの強い献立を考案する。野菜も全然足りていなかったが、宿場町まで買い出しに行く時間はないので、ルウの集落に備蓄していた食材を運んできてもらうことにした。


 その際に、ルウの集落での仕事を終えたシーラ=ルウ、ララ=ルウ、リミ=ルウの3名が一緒に駆けつけてくれたのは僥倖であった。もともとサウティの集落に留まっていたレイナ=ルウとヴィナ=ルウに合わせて、ルウ家の精鋭が勢ぞろいである。


 それらのメンバーと力を合わせて、サウティの女衆らの指揮を取っていく。まるで鉄火場のような騒ぎであり、時間はあっという間に過ぎ去っていった。


 そうして太陽は西の果てに落ち、眷族の集結した広場には火が燃やされる。

 それからなおも半刻ばかりが過ぎたあたりで、ようやく俺たちは仕事を終えることができた。


「これは、祝勝の宴ではない。俺たちが失った力を取り戻すための、厳粛なる晩餐だ」


 あかあかと燃えるかがり火を背後に、ダリ=サウティはそのように告げた。


「ルウ家を始めとするさまざまな氏族の恩情で、俺たちは滅びからまぬがれることができた。今後は彼らの恩情に報うべく、俺たちはこれまで以上の力をつける必要があるだろう。強大なる森の主の力を、我が身に取り入れるのだ」


 ダリ=サウティの足もとでは、ドンダ=ルウが座している。

 ドンダ=ルウもロムの葉で痛みをおさえているさなかであるはずなのに、その目は普段通りに強く激しく燃えており、いっかな弱っている様子もなかった。


 いっぽう、アイ=ファはまだヴェラの家で眠っていたので、一刻も早くそちらに駆けつけたいという思いを胸に、俺はダリ=サウティの言葉を聞いていた。


「晩餐の前に、まずは力を添えてくれた氏族にサウティから感謝の証を贈りたいと思う」


 ダリ=サウティの言葉を受けて、ミル・フェイ=サウティ率いる女衆らがしずしずとかがり火の前に進み出た。

 ルド=ルウの手を借りて、ドンダ=ルウが大儀そうに立ち上がる。


「まずはルウ家に、森の主の右の角を」


 俺の腕ほどもある主の角が、ミル・フェイ=サウティの手からダリ=サウティの手に、そしてドンダ=ルウの手へと受け渡される。


「そしてルティム家には、右の牙を」


 ガズラン=ルティムが、うやうやしくそれを受け取った。

 ガズラン=ルティムも胸を強打していたが、骨に異常はなかったので、数日も休めば力を取り戻せるだろう、という話であった。


「レイ家には、左の牙を」


 ラウ=レイは、ずいぶん不機嫌そうな面持ちであった。

 ラウ=レイもまた、初日に受けた以上の傷は負わずに済んだらしい。ただ、誰も彼もがあちこちに打撲と擦過傷を負ってしまっている。


「ファ家には、左の角を」


 不在の家長に代わり、俺がそれを受け取った。

 あちこち欠けて傷だらけの、年古りた巨大ギバの角だ。

 さすがにこれだけの大きさとなると、なかなかの重量感である。


「そして、かまど番にも礼をほどこしたい。ディン家には、右足の骨を」


 おずおずと進み出たトゥール=ディンに、巨大な大腿骨が託される。

 数時間前に俺たち自身が肉を外した骨だ。


「スドラ家には、左足の骨を」


 ユン=スドラは、今にも感涙しそうな面持ちでそれを受け取った。

 俺の隣に並びながら、それをぎゅっと胸にかき抱く。


「この角と牙と骨とともに、このたびの話を子や孫にまで伝えていただきたい。ルウとルティムとレイ、ファとディンとスドラは、サウティを滅びから救ったゆえに、これらのものを授かったのだと。……そして我々は、角と牙を外した傷だらけの頭骨とともに、このたびの話を語り継いでいきたいと思う。この身に受けた恩義を、いつまでも忘れぬために」


 そうしてダリ=サウティは、その四角い顔にいつも通りの微笑みをたたえた。


「では、晩餐を始めよう。宴ではないが、ぞんぶんに生の喜びを噛みしめてほしい。……森の恵みに感謝して、火の番をつとめたすべてのかまど番に礼をほどこし、今宵の生命を得る」


 宴ではないので、その場にいる全員が食前の文言を復唱した。

 果実酒の土瓶が掲げられることもなく、粛々と木皿が回されていく。

 そして、あちこちに焚かれたかがり火では、次から次へと肉が焼かれていくことになった。


 さすがに3時間ばかりの調理時間では、焼肉の料理まで仕上げることはかなわなかったのである。

 タウ油と砂糖とミャームーと、そして臭い消しの香草に漬け込まれたギバの肉――森の主の肉が、鉄串に刺されて直接焼かれていく。


 その間に、俺たちは料理を配膳して回った。

 仕上げた料理は、3種類。『ギバ・カレー』と『タラパ仕立てのモツ鍋』と『ペペ肉炒め』である。

 どれも臭みをおさえる強い味付けであり、野菜もふんだんに使っている。疲れた舌は、山ほど準備した焼きポイタンで休めてもらう他ない。


「わはははは! さすがは森の主だな! すさまじい噛み応えだ!」


 あらかた料理を配り終えたところで、そんな笑い声が聞こえてきた。

 アイ=ファのもとに向かおうとしていた俺は、少し迷った末にそちらへと足先を転じる。

 そのかがり火には、もちろんルティムの面々が集結していた。


「ダン=ルティム、お味はいかがですか?」


「おお、アスタ! 呆れるばかりに固い肉だが、味は申し分ない! ほのかに香るギバの臭みも、まあ一興だな!」


「ええ、あの森の主は大きいばかりでなく妙に肉の質が固くて、切り分けるのにも苦労しました」


 しかし、森辺の民にとってはどうということもない固さであろう。ダン=ルティムは大笑いしながら、あばら肉をかじり取っていた。

 こんなに馬鹿でかいスペアリブを調理したのは、俺にしても初めての体験だ。


「それであの、ダン=ルティムにはもういっぺん御礼を述べておきたいのですが――」


「うん? ああ、アイ=ファのことか? たまたまアイ=ファが落ちてきたところに俺が立っていただけのことだ! そんな何度も礼を言われることではない!」


「いえ、その幸運がなかったらと思うと、ぞっとします。ダン=ルティムは、ファの家の恩人です」


「恩ではない! 恩ではないぞ、アスタよ! 俺たちは全員が力を合わせて森の主を討ち取ったのだ! 誰かひとりでも欠けていたら、誰かの生命が失われていたかもしれん。俺たちは全員がおたがいの生命を守り合っていたのだから、誰かが誰かに対して特別な恩を感じる必要などないのだ!」


 そう言って、ダン=ルティムはにんまり笑いかけてきた。


「そしてそれは狩人ばかりの話ではない! お前さんたちがこうして美味い食事をこしらえてくれていたからこそ、俺たちも力を尽くすことができたのだ! そうであるゆえに、ダリ=サウティもディンやスドラのかまど番にまで主の骨を捧げたのであろうよ!」


「……そうですね」と俺も笑ってみせた。


「それでは御礼の言葉を言うのはもう差しひかえておきます。みなさん、お疲れ様でした」


「うむ! 終わってみれば、楽しい日々であったな!」


 アイ=ファとドンダ=ルウが深い傷を負っていなければ、俺も心からそのように言えたかもしれない。

 そんなことを考えていたら、ガズラン=ルティムが穏やかに微笑みかけてきた。


「アスタ、もうかまど番の仕事は果たせたのでしょう? では、今度はファの家人としての仕事を果たすべきだと思います」


「……はい。ありがとうございます、ガズラン=ルティム」


 俺はルティム家の面々に一礼して、各種の料理の確保にかかった。

 余れば、俺が食べればいい。とにかくアイ=ファが目覚めたとき、どの料理でも口にできるように準備を整えておきたかった。


 配膳で使った木の板をあらためてつかみ取り、木皿の料理を載せていく。これらの木皿の大半は、青空食堂で使う分の転用であった。


 3種の料理と、焼きポイタン、そして焼きあがった肉もいくつか分けてもらい、いざヴェラの家へと足を向ける。


 その途中で、ルウ家の面々がかがり火を囲んでいる姿を見た。

 ルド=ルウはドンダ=ルウに付き添っているので、5名の女衆と、ダルム=ルウだ。


「食事をするのに女衆の力などいらん! 俺は幼子ではないのだぞ!」


 ダルム=ルウがそのように怒声をあげていた。

 アイ=ファとドンダ=ルウを除けば、ダルム=ルウが一番の深手であっただろう。彼は右の手の平の皮がずるむけになり、左の肩を脱臼しかけたらしい。


「そんなこと言って、大事な料理を地面にこぼしたのは誰よぉ……?」


「そーだよ! 一生懸命作ったんだから、無駄にしちゃだめ!」


 長姉と末妹が元気に応じており、次姉と三姉はくすくす笑っている。

 そして、ダルム=ルウの正面には木皿と木匙をたずさえたシーラ=ルウが膝を折っていた。


 ちょっと見物していきたいシチュエーションであったが、そんなしょうもない想念はねじ伏せて、ヴェラの家へと足を急がせる。

 すると、その道のりでユン=スドラに出くわしてしまった。

 ユン=スドラは巨大な大腿骨を抱えたまま、「ああ、アスタ」と笑いかけてきた。


「やあ、どうしたんだい? 料理を食べないの?」


「何だか胸が詰まってしまって……もう少し気持ちが落ち着いてからでないと、咽喉を通りそうにありません」


「そっか」と俺はうなずいてみせる。

 すると、俺の手にした盆のほうに視線を落とし、ユン=スドラはいっそう朗らかに笑った。


「アイ=ファのもとに向かうのですね? どうぞ行ってあげてください。アイ=ファが目覚めたとき、アスタがそばにいなかったら、さぞかし悲しい気持ちを抱くことになるでしょう」


「うん……」


 それでも俺が逡巡していると、ユン=スドラは可愛らしく小首を傾げた。


「どうされたのですか? アイ=ファを粗雑に扱うようなアスタは、わたしの思うアスタではありません」


 俺は小さく息をつき、「うん」と一言告げてから足を踏み出した。

 しかし、目当ての家の前には、さらなる人物が待ち受けていた。

 さきほどまで忙しそうに立ち働いていたはずの、ミル・フェイ=サウティである。

 家の扉に手をかけていたミル・フェイ=サウティは、静かに俺を見返してきた。


「ミル・フェイ=サウティ、どうしたのですか?」


「いえ。仕事のために全員がこの場を離れてしまったため、様子を見にきたのです。……アスタもアイ=ファの様子を見に来たのですね?」


「はい、そうです」


 ここは俺たちにあてがわれていた分家ではなく、負傷者の集められたヴェラの本家であった。アイ=ファはこの家でヴェラの女衆らに看護されていたのだ。


「深手を負った男衆らも、峠は越えました。森の主も討ち倒せたのですから、サウティも今後は少しずつ力を取り戻していくことができるでしょう」


 そんな風に言いながら、ミル・フェイ=サウティは広場のほうに視線を巡らせた。

 人数的にはルウの宴とも遜色はない。屈強なる狩人と、たおやかな女衆と、その間に生まれた幼子たち、ほんの少数の老人たち――誰もが輪になってかがり火を囲い、主の肉を口に運んでいる。

 宴のように放埒な熱気はなかったが、それでも人々は生の喜びを噛みしめつつ、森辺の民に相応しい生命力を森に示していた。


 重いお盆をたずさえながら、俺は「ええ」とミル・フェイ=サウティに笑い返してみせる。


「サウティなら、きっと大丈夫です。これからも色々と大変でしょうけれど、どうか頑張ってください」


「はい」とうなずきつつ、ミル・フェイ=サウティはその場から動こうとしなかった。

 そして、俺のほうに真っ直ぐ視線を向けてくる。


「アスタ、このことは他言無用でお願いしたいのですが――」


「え?」


 驚く俺の目の前で、いきなりミル・フェイ=サウティがひざますいた。

 そのまま両腕を胸の前で交叉させ、俺のほうに深々と頭を垂れてくる。


「アスタたちの尽力によって、サウティは救われました。もしもあなたがたの家に災厄が訪れたときは、この身を捨ててでも力を尽くすことをここにお約束します」


「いや、ミル・フェイ=サウティにそのようなことをされては――」


「はい。わたしも女衆の束ね役として、このような姿を家人に見せるわけにはいかなかったのです」


 言いながら、ミル・フェイ=サウティは立ち上がる。

 その面は相変わらず厳しく引き締まっていたが、その瞳にはうっすらと涙がたたえられているようだった。


「だけどそれが、わたしの本心です。家長ダリも同じように思っているはずです。あなたがたの恩情は、決してこの身が果てるまで忘れません」


「ありがとうございます。サウティの友になれたのなら、とても嬉しいです」


「いえ、あなたがたの友を名乗れるように、わたしたちはこれから尽力するべきなのでしょう」


 あくまでも厳粛に言いながら、ミル・フェイ=サウティは戸板を引き開けた。


「さあ、ヴェラの女衆に代わって、アスタをこの家にお招きします。どうぞお好きにお入りください」


 俺は一礼して、薄暗い屋内に踏み込んだ。

 シューズを脱ぎ、まずは広間を横断して、右の側の通路に向かう。男衆らは左の側で、アイ=ファだけが右の側で寝かされているはずだった。


 いちおう軽くノックをしてから、部屋を覗きこむ。

 数時間前と同じように、アイ=ファは静かに眠っているようだった。

 寝具の上で、仰向けに寝かされている。狩人の衣は外されて、胸の下を包帯で拘束されている。普段は横向きで眠るアイ=ファが仰向けになっているのが、とても痛々しく感じられてしまった。


「うむ……?」と、そのまぶたがかすかに震える。

「起こしちゃったか?」と、俺はその枕もとに膝をついた。


 アイ=ファのまぶたが半分だけ持ち上がり、青い瞳がぼんやりと俺を見返してきた。

 その唇が、「アスタ……」と俺の名前を囁く。


「ああ、俺だよ。傷のほうは大丈夫か?」


「うむ……どうということはない……」


 アイ=ファの右手が、ゆっくりと俺のほうにのびてくる。

 その指先が頬に触れる寸前、アイ=ファはぴたりと動きを停止させた。


「……お前に触れても、かまわぬだろうか……?」


「ああ。心の準備はできているよ」


 ぺたりと、アイ=ファの右手が俺の頬を包み込んだ。


「約束通り、私は帰ってきたぞ……次はお前が約束を果たす番だ」


「うん、ちょっと奇妙な取り合わせになっちゃったけど、お口に合うかな」


 俺はアイ=ファに手を貸して、その場に起き上がらせてやった。

 そうして背中にやわらかい布をあてがって、壁にもたせかけてやる。

 ロムの葉が効いているのか、アイ=ファは痛がるそぶりも見せなかった。

 ただ、瞳の焦点が少し合っていない。


「さあ、どれから食べるかな? 味の強い料理ばかりで恐縮なんだけど」


「何でもかまわん。おそらく私は、死ぬほど腹が空いているのだ。傷を癒すために、お前の料理が必要だ……」


「無理に喋らなくていいよ。皿は自分で持てるかな?」


「持てない」とアイ=ファは子供のような声で言った。


「せっかくの料理をこぼすのはしのびない……皿は、お前が持つがいい」


「はいはい、おおせのままに」


 まずは汁物かなと思い、俺は『タラパ仕立てのモツ鍋』をアイ=ファの前に差し出してみせた。

 しかしアイ=ファは俺を見つめたまま木匙を取ろうとしない。


「えーと、もしかしたら、腕を上げるのもしんどいのかな?」


 アイ=ファは答えず、ただ「あーん」と口を小さく開いた。

 アイ=ファが左肘を脱臼したときの再現だ。

 俺はとてつもなく情動をゆさぶられながら、アイ=ファの口に木匙を運んだ。

 ギバのモツをくにゅくにゅ噛みながら、アイ=ファは「辛いな」とぼんやりつぶやく。


「ああ、チットの実もそれなりの量を使っているからな。でも、臭みはほとんど気にならないだろ? これは森の主の臓物なんだぞ」


「うむ、美味い」とアイ=ファはこくりとうなずく。


「臓物でなく、肉も食べたい」


「それじゃあ次は『ペペ肉炒め』かな。こっちも味付けは濃いけど、辛いことはないはずだ」


 アイ=ファは俺の顔を見つめたまま、ゆっくりと料理を食べ続けた。

 が、やがて疲れてしまったのか、どの皿も半分ぐらいが減ったあたりで、かくりと首を傾けてしまう。


「眠いのか? 眠いんだったら、もうひと眠りするといい」


「眠くはない……」とつぶやきながら、アイ=ファはずるずると崩れ落ちていく。

 その身に衝撃を与えてはならじと、俺は慌てて手を添えてやった。

 アイ=ファのむきだしの肩に、手が触れる。

 アイ=ファの身体は、普段よりも少しだけ熱を帯びているようだった。


「よし、横になろうな? 料理は後で温めなおしてやるから」


「眠くはないのだ……それに、横になるより、座っているほうが楽に思える……」


「そうなのか。じゃあそのまま少し休めばいいよ」


 アイ=ファの身体を支えながら、俺も壁にもたれて座ることにした。

 アイ=ファの頭が、ころんと肩の上に乗ってくる。


「うむ……アスタだな……」


「ああ、俺だよ」


 アイ=ファに触れた肩や耳から、その温もりが伝わってくる。

 やっぱり普段よりも熱は出ているようだが、首から上だけが火のように熱く、それ以外が氷のように冷えていた昔日に比べれば、むしろアイ=ファの生命力が強く感じられるぐらいであった。


 そしてまた、アイ=ファの身を案じる気持ちが先に立ち、気恥かしさなどは微塵も感じられない。

 ただひたすらに、アイ=ファの存在が愛おしかった。


「アスタ……私は帰ってきたぞ……」


「うん。手傷は負ってしまったけど、ひと月ぐらい辛抱すれば、また元気になれるはずさ」


「……お前はそれを、喜んでいるのか……?」


「え?」


「……私が狩人としての力を失うことを……お前は望んでいるのではないのか……?」


 俺は少しだけ首を傾げて、アイ=ファの表情を覗きこもうとした。

 しかしここまで密着していると、それも難しい。長い前髪に隠されて、俺にはアイ=ファの口もとしかうかがうことはできなかった。


「そんなことは絶対にないよ。だからこれからも、なるべく手傷を負わないように狩人の仕事に励んでくれ」


「……何故だ……?」


 囁くような、アイ=ファの声。

 俺はアイ=ファの金褐色の髪に、そっと頬を押し当てた。


「アイ=ファにとって、狩人の仕事は生きがいなんだろう? その力をなくしてしまうことを、俺が望むわけないじゃないか」


「…………」


「もしも逆の立場でさ、俺が料理人としての力を失うことをアイ=ファが願ったりしたら、俺は絶望のどん底に突き落とされちまうよ。……だから俺は、絶対にそんなことを願ったりしない」


 アイ=ファは無言のまま、優しい力で俺の頬に頭を押しつけてきた。

 その指先が、とてもおずおずと俺の指先を求めてくる。


「私は本当に……これからもアスタのそばにいていいのだろうか……?」


「いいんだよ。いてくれなきゃ、俺が困る」


「しかし……私さえいなければ、アスタは……」


「アイ=ファがいなければ、なんて、そんな絶望的なことを想像させないでくれ」


 いつになく弱々しいアイ=ファの指先を、俺はぎゅっと握り返してやった。


「アイ=ファじゃないと駄目なんだ。一生、俺のそばにいてくれ。誇り高いファの家の家長として。……それだけが俺の望みだよ」


 アイ=ファは唇を噛みながら、すべての重みを俺に預けてきた。

 俺はアイ=ファの手を握ったまま、その重みをしっかりと受け止めた。


 そうしてサウティの集落における生活は、藍の月とともに終わりを迎えた。

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