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異世界料理道  作者: EDA
第十八章 藍の月と紫の月
315/1675

サウティ家の受難⑦~決着~

2016.4/2 更新分 1/1

 のちに聞いた話である。


 俺たちがサウティの集落に招かれて4日目、藍の月の最終日たる31日、その日は中天から妙に森の中がざわめいていたという。


 誰もが変事の予感を嗅ぎ取っていた。

 しかし、狩人たちのやるべきことに変わりはなかった。


 サウティとその眷族たる狩人たちは、昨日や一昨日と同じようにギバ除けの香りを纏い、森の中に散った。

 その数は16名。深手を負った7名を除くフルメンバーである。

 その内の半数とて、何らかの手傷は負っている。

 しかし、血の縁も持たないルウの狩人たちだけに一族の運命を託すことはできなかった。


 16名が4名ずつ分かれて、打ち合わせの通りに森を進んでいく。

 この2日間でおびただしい数のギバを狩っていたので、森にギバの気配は薄かった。

 そうであるにも拘わらず、妙に森はざわめいている。

 まるで森そのものが胎動しているかのようだ。


 胸中に広がる不安と戦慄をねじ伏せながら、狩人たちは森を進んだ。

「それ」を発見したのはヴェラの若き家長であった。

 森の主との闘いで元の家長が狩人としての力を失っていたために、弱冠18歳の彼が家長を継ぐことになったのだ。


 彼が発見したのは、巨大な穴だった。

 太い樹木の根もとが掘り起こされて、怪物の黒き口のごとき巨大な穴が穿たれていたのである。


 中天の少し前に短い雨があったはずであるのに、こんもりと積み上げられた土は乾いている。

 なおかつそこには、ギバの好むギーゴのごとき植物の根が粉々に砕かれて混ざっていた。


 近い時間に、ギバがこの場所を掘り起こしたのだ。

 しかもそれは、通常のギバではありえないような大きさの穴であった。


 若き家長の合図を受けて、狩人のひとりが草笛を短く鳴らす。

 遠くから、それに応じる音色が聞こえた。


 いっそう神経を研ぎすましながら、彼らは森を突き進んだ。

 しばらく行くと、5名の狩人たちが北の方角から近づいてきた。

 いや、その内のひとりはすでに狩人の仕事から身を引いたルティムの長老ラー=ルティムであった。


「北の方角にギバの気配はない。お主らが痕跡を見つけたのなら、主めは東か南に抜けたのであろう」


 一同は再び二手に分かれて、東と南に進路を取った。

 ラー=ルティムは、東に向かうヴェラの家長と同行することになった。

 ギバ除けの実の香りに鼻を潰されないよう、ラー=ルティムは風上を駆けている。


「このあたりにも主めの臭いは残っていないな。東に向かいつつ、少しずつ南に下るべきであろう」


「ラー=ルティムは、そこまで正確に主めの臭いを嗅ぎ取ることができるのか?」


「普段であれば、そこまで正確にはわからぬ。しかし、昨日までに近在のギバを一掃したためか、このあたりにはほとんどギバの臭いが残っていないのだ」


 老齢でもまったく衰えることのない眼光を周囲に差し向けつつ、ラー=ルティムはそのように応じた。


「なおかつ、森の主めは常に怒り狂ったギバの臭いを撒き散らしているからな。他のギバと取り違える恐れもない」


「そうか。ならばその調子で――」


 ヴェラの家長がそのように言いかけたとき、ラー=ルティムは無言で口もとに手をやった。

 一気に緊張が走り抜け、狩人たちは気配を探る。

 ラー=ルティムは、まっすぐ東の方向に指先をのばした。

 得たりと、狩人のひとりがするすると木に登っていく。


 しばらくの後、遥かな高みから、ピイイイイィィィッ――と草笛を吹き鳴らす音色が響き渡った。


 森の主を、発見したのだ。

 残された狩人たちは、腰に吊るしていた金物を打ち合わせつつ、森を東の方向に駆けた。

 折れた刀や宿場町でもらい受けた屑鉄でこしらえた鳴り物である。

 そうして鳴り物を鳴らしながら、力の限り、咆哮をあげる。


 金の鳴り物も、野太い人間の咆哮も、ギバが嫌がる音色である。さらにギバ除けの香りまで纏った彼らは、こうして森の主を追い立てるのが仕事であった。


 草笛の合図を聞いたのだろう、南の側からも同じ音色が近づいてくる。


「狩り場はこのまま東の方向だ! 生命にかえても南には逃がすな!」


 叫びながら、ヴェラの家長は森を駆ける。

 追いつけるものなら、森の主に斬りかかってやろう、というぐらいの気持ちであった。

 しかし、どこまで進んでもその禍々しい姿は見えてこない。ギバは狩人よりも俊敏に森を駆けることができるのである。


「主はやや北側に向かってしまっている! このままでは狩り場からそれるぞ!」


 後ろのほうから、ラー=ルティムの声が聞こえてくる。

 さしものラー=ルティムも、若き狩人たちと同じ力で森を駆けることはできないのだ。

 ラー=ルティムの声に応じて、狩人のひとりがピッピッと何回かに分けて草笛を吹いた。北に逃がすな、という合図である。


 その頃には、ヴェラの家長たちにも森の主の痕跡を見出すことができていた。

 あちこちの細い木がなぎ倒されて、覚えのない道が切り開かれていたのだ。


 いっそうの力を得て、狩人たちは疾駆する。

 気づけば、北や南からも同胞たちの咆哮が迫っていた。

 16名の全員が、森の主を追い立てているのだ。

 その囲い込みが突破されていなければ、そろそろ森の主も彼らが作りあげた第一の狩り場に到達している頃合いであるはずだった。


                   ◇


「森の主が近づいてきているぞ!」


 そのようにわめいたのは、木の上に陣取っていたダン=ルティムであった。

 梢の陰に潜んでその声を聞いていたのは、ルド=ルウとバルシャとジーダの弓兵部隊である。


「この臭いは主めに間違いない! 方角は、西だ!」


「西か。それなら、こっちの道だな」


 3名の狩人は梢から這い出して、慌ただしく移動する。

 このあたりの森にはギバ寄せとギバ除けの実を使い、森の主が特定の場所を通るように罠を張っているのだ。

 北と南と西の三方で、ひと筋ずつ道を残している。森の主がギバ寄せの香りを好み、ギバ除けの香りを嫌うなら、必ずそれらの道のどれかを辿ってくるはずであった。


 3名は、その内の西側の道を南側からのぞむ茂みに潜り込む。

 この位置なら、森の主の右目を狙えるはずだ。

 もちろん凄まじい勢いで迫ってくるギバの右目を正確に狙えるはずもないので、右の側面からひたすら頭部に向けて矢を放つ算段であった。


「さあ、いつでも来やがれってんだ」


 つぶやきながら、ルド=ルウは弓に矢をつがえた。

 弓矢は、ルド=ルウがもっとも得意とする武器であった。

 本人としては刀や鉈をふるうのを好んでいたが、父ドンダ=ルウが言う通り、ルド=ルウは身体が小さいため、狩人としては非力の部類である。それゆえに、13歳の頃からずっと弓の腕を磨いてきたのだ。


 父や兄たちのように、斬撃でギバの首をへし折れるような力は持たない。

 しかし、小刀で咽喉をかき切る素早さは持っているし、弓の腕なら誰にも負けない。それがルド=ルウの自負であった。


(……ただ、こいつとはいずれ決着をつけなきゃな)


 そのように思いながら、ジーダの姿を盗み見る。

 このマサラの山の狩人は、ルド=ルウにも匹敵するほどの弓の腕を持っていたのである。

 たわむれに的あての勝負などをしてみても、毎回決着をつけることがかなわないのだ。


(次の収穫祭では、絶対にこいつも力比べに参加させてやる。年下で、しかも俺よりちっこいやつに負けるわけにはいかねーからな)


 そんな思いを最後に、ルド=ルウは意識を集中した。

 身体からは力を抜き、無人の空間に矢をかまえる。


 しばらくすると、西の方向から狩人たちの雄叫びが聞こえてきた。

 ギバを追い立てる狩人の咆哮だ。

 草笛の音色もはっきりと聞こえてくる。


「来るぞ!」


 ダン=ルティムが大声でわめいた。

 いくばくもなく、猛烈な気配が西側から伝わってくる。


 息を止め、ルド=ルウは弓を引き絞った。

 視界の端に、黒くて巨大な影が映る。


 あとは心の導くままに、やじりの方向を修正し、矢を放った。

 刀を獲物に突きたてるのと同じ感覚が全身を駆け巡っていく。


(当たった)


 しかし黒くて巨大な影は、その速度をゆるめることなく、ルド=ルウたちの眼前を走り抜けていった。

 ルド=ルウは、弓を肩にかけて茂みを飛び出す。

 同じように、ジーダとバルシャも姿を現した。


「一発ずつしか放てなかったが、全員の矢が主の顔面をとらえたようだ。しかし、目玉を潰せたかどうかはわからんな」


 主の消えていった方角を見ながら、ジーダがつぶやいた。

 そこにダン=ルティムが、ひらりと舞い降りてくる。ルティムの元・家長は右足一本で見事に着地して、その手の杖を振り上げた。


「さあ、刀を鞘に収めておくのもここまでであろう! あとは主めを追い詰めて仕留めるばかりだ!」


 3名の狩人は、得たりと森の主を追う。

 それをひょこひょこと追いながら、「ずるいぞ、俺を置いていくな!」とダン=ルティムは不満の声をほとばしらせた。


                   ◇


 森の主が、ついに現れた。

 第一の狩り場で待ち受けていた4名の狩人たちは、刀を抜いて獣道に立ちはだかる。

 ドンダ=ルウ、ダルム=ルウ、ガズラン=ルティム、ラウ=レイの4名である。


「いいか! 狙うのは足だ!」


 打ち合わせ通り、ルウ家の2名が右側に、残りの2名が左側に身を寄せる。

 切り開かれた森の中を、森の主が突進してくる。


 途方もない巨大さである。

 地面に足をついた状態で、その頭はドンダ=ルウの肩に届くぐらいの高みにある。

 胴体の幅は、人間が両手を広げたぐらいもあるだろう。

 角や牙などは、人間の腕よりも太いぐらいかもしれない。


 ルウ家に飾られている毛皮のギバよりも、スン家に飾られている頭骨のギバよりも、それは巨大なギバであった。

 ということは――森辺の民がこの80年で相対してきた中で、もっとも巨大なギバであるということだ。


「来るぞ!」


 一声叫ぶや、ドンダ=ルウは渾身の力で刀を振り払った。

 低い体勢で、刀を真横にふるう格好である。


 鈍い音色が響きわたり、ドンダ=ルウの身体は吹き飛ばされた。

 同じ音色が3回響き、すべての狩人が同じように跳ね飛ばされた。


 ある者は樹木に背中を叩きつけられ、ある者は草むらに投げ出され、苦悶の声を呑み込みながら体勢を立て直す。


 森の主は、消えていた。

 ただ、転々と血の跡が東の方向に残されている。


「くそっ! 信じ難い化け物だな!」


 ラウ=レイが、折れた刀を地面に叩きつける。

 ドンダ=ルウの刀もへし折られてしまっていた。


「ふん」と鼻息を噴きながら、ドンダ=ルウは新たな刀を鞘から引き抜いた。

 全力で森を駆ける主の足を狙えば、その勢いで刀を折られることも想定済みであった。


「2本の刀は残ったか。誰も手傷は負っていないか?」


「刀を折られなかった代わりに、手の平の皮を持っていかれた」


 爛々と両目を燃やしながら、ダルム=ルウが父親に右手をかざす。

 その言葉通り、彼の右手は手の平と指の皮がべろりと剥けてしまっていた。


「明日からはしばらく刀を握れそうにない。もちろん今日は、主めを仕留めるまで刀を放すつもりはないがな」


「薬草を塗って布でも巻いておけ。少しはマシになるだろうよ」


 言いながら、ドンダ=ルウは東の方角に目を据える。


「俺の刀は、右の前足を折り砕いたと思う。貴様らはどうだ?」


「折り砕くには至っていない。しかし、右の後ろ足に亀裂ぐらいは入れられたはずだ」


「くそっ! たぶん俺の刀は蹄を傷つけただけだと思う!」


「私の刀は左の腿の筋を断ち切って、骨をわずかに傷つけたていどだと思います」


「十分な成果だ。あとはこの場で待ち受ける」


 すると、新しい刀を抜きながらラウ=レイが不満げな声をあげた。


「なあ、ただ待つのではなく、俺たちも次の狩り場に向かったほうがいいのではないか? そうすれば、アイ=ファやミダと挟み撃ちにできるではないか?」


「あの場には幾重にも罠を張ったため、これだけの人間が自由に動ける足場がない。そうでなければ、俺だって無駄口を叩かずに主めを追っている」


 双眸から青い炎を噴きあげながら、ドンダ=ルウはそのように答えた。


「だから俺たちは、ただ待てばいい。主めを仕留めたという報告か、あるいは主めを引き連れたアイ=ファの到着をな」


                 ◇


「来たな」とアイ=ファは木の上でつぶやいた。

 森の主が突進してくる姿が、遠目にうかがえる。


 森の主は、激しく傷ついていた。

 顔面には3本の矢が突きたてられており、ものすごい勢いで森を走りつつ、その足もとはおぼつかない。何本かの足を折られているのだろう。


 それにその背には折れた矢が何本も刺さっているし、毛皮のあちこちには赤黒く血が固まっている。主はこの数日で、普通のギバでは何度生命を落としても足りないぐらいの傷を負っているのだ。


 しかし、その巨大な身体から発散される生命力には陰りの気配すら感じられなかった。

 まるで森そのものが凝り固まり、ギバの形を作っているかのようだ。


「油断するなよ、ミダ。あの勢いでは、やはりすべての罠が打ち破られてしまうかもしれん」


「うん……ミダは頑張るんだよ……?」


 ミダはアイ=ファの足もとにいた。

 もしも森の主がすべての罠を打ち破ったのなら、アイ=ファの纏ったギバ寄せの香りにひかれて、ミダのもとに殺到してくるはずだ。

 それでミダの棍棒が決着をつけることがかなわなければ、アイ=ファが地に降り、ドンダ=ルウたちのもとまで森の主を導いていくことになる。


 他のギバに罠を荒らされない内に主を迎えることができたのは僥倖であったが――アイ=ファはこの凄まじい力を持つ存在が途中で息絶える姿を想像することはできなかった。


 この森の主を仕留めることができるのは、狩人の刀だけだ。

 そのような確信めいた思いが、アイ=ファの胸には宿っていた。


「うふう……」とミダが吐息をもらす。

 狩り場に、森の主が現れたのだ。

 左右を樹木にはさまれた獣道を、森の主は変わらぬ勢いで突進してくる。


 その前足が、バキリと地面を踏み抜いた。

 土や枯れ草をかぶせておいた板が、主の重みに割れ砕けたのだ。

 さらにその下には、罠を作動させるための縄が張られている。

 罠は正常に作動して、グリギの杭を植えられた巨大な板が、右の方向から主に襲いかかった。

 板の裏には巨大な岩がくくりつけられていたため、グリギの杭は狩人の斬撃にも劣らぬ勢いで主の胴体に突き刺さる。


 しかし、主の突進は止まらない。

 同じ罠が、今度は逆の側から主を襲ったが、結果は変わらなかった。

 いちどきは主の巨体に突き刺さった杭の罠も、しばらく走る内にその勢いで地面に落ちてしまう。


 次の罠は、捕縛の網であった。

 主が該当の場所に至った時点で、アイ=ファが手もとの蔓草を断ち切る。それで蔓草に支えられていた岩塊が下に落ち、荒縄の網が主の巨体をからめ取る仕組みである。

 だが、サウティの女衆らが編んだ荒縄はあっけなくぶちぶちと引きちぎられ、主を持ち上げることもかなわなかった。


 それを見届けたのち、アイ=ファは次の蔓草を切る。

 今度は、岩落としの仕掛けだ。

 荒縄の網でひとまとめにされた岩塊が、ものすごい勢いで落下してくる。


 岩塊は、まともに主の背中を打った。

 質量でいえば、主の巨体にも負けない岩塊である。

 並のギバであれば、その一撃で五体が弾け飛んでいただろう。

 めしゃりと肉の潰れる音色が、アイ=ファのほうにまで聞こえてきた。

 が、岩塊はそのまま地面に落ち、主めの動きは止まらなかった。


(やはり駄目か)


 役目を終えた小刀を、アイ=ファは腰に戻す。

 主とミダとの間には、もういくばくかの距離しか残されていない。

 ミダは棍棒の柄を握りなおす。


 残るは、最後の罠である。

 主の前足が、それを踏み抜いた。

 主の巨体が、ずぶりと地面に沈み込む。


 陥穽、落とし穴の罠である。

 森辺の民にとっては一番ありふれた仕掛けだ。

 ギバは、自分の頭よりも高い場所に飛ぶことができない。その身体のつくりを利用しての罠であった。


 念を入れて深く掘られた穴に、主が前のめりの体勢で沈み込んでいく。

 だが、次の瞬間、主は跳躍した。

 まだ固い大地に残されていた後ろ足で、おもいきり前方に跳躍してきたのだ。


 穴の幅は、主の体長の倍ほどもあっただろう。

 しかし、主が落ちることはなかった。

 土と草と石だけがばらばらと穴の中に崩れ落ちていき、主は大地に着地する。


 その跳躍の勢いを残したまま、主はミダに襲いかかった。

 ミダは恐怖の表情も見せず、棍棒を両手で真上から振り下ろした。

 ごしゃっと鈍い音色が響き、ついに主の突進が止まる。

 頭部を打ち砕かれながら、主は地面に鼻面を突っ込んだ。

 地震いのような衝撃が、木の上のアイ=ファにまで伝わってきた。


「やっつけたのかな……?」


 棍棒を握りしめたまま、ミダがつぶやく。

 棍棒に植えられた鉄の杭は、深々と主の顔面に突き刺さっていた。

 とどめに咽喉をかき切るべきか、とアイ=ファが腰を浮かせかけたとき――突如として、主が身を起こした。杭で顔面をつらぬかれながら、棍棒を握りしめたミダもろとも、首を大きく跳ねあげたのだ。


 その勢いで杭は抜け、主の背中に落ちたミダは、そのまま「うああああ……」とか細い声をあげながら落とし穴の下に転がり落ちていった。


(本当に、なんという生命力だ)


 内心でつぶやきながら、アイ=ファは木の上から跳躍した。

 高々ともたげられた主の鼻面を踏み、それを蹴って、落とし穴の罠を飛び越える。


 あとはもう、後も見ずに森を駆けた。

 たちまち主が背後に迫ってくるのを気配で感じる。

 どうやらろくな助走もなしに落とし穴を飛び越えてしまったらしい。ミダのためには、それも幸いであった。


(ドンダ=ルウの言っていた通りだ。目を潰され、足を折られ、頭を割られても、主の動きは止まらない)


 ずっと木の上から様子をうかがっていたので、アイ=ファは正確に主の状態を見て取ることができていた。

 右の前足はおかしな方向に曲がっていたし、後ろ足も、その両方が何らかの手傷を負っていた。その顔に刺さった矢の内の一本は確実に右目を奪っていたし、そして、ミダの一撃は顔面の骨を粉砕していた。

 それでも森の主は、こうしてアイ=ファの後を追ってきていた。


 全力で森を駆けながら、アイ=ファは素早く後方をうかがい見る。

 さすがに手傷を負っているので、数日前よりも動きは鈍っている。これなら茂みの中に身を投じなくても、追いつかれることはないだろう。

 が、追いつかれる恐れがない代わりに、アイ=ファがどれほど全力で駆けても、主めはぴったりと追いすがってきていた。


 その顔面は、血まみれだ。

 形が崩れて、いくぶん右側に歪んでいるように見える。

 双眸は、血を噴きこぼさせる赤い穴である。

 しかし、二本の角と二本の牙は、なんの痛手も受けずに禍々しくそそりたっていた。


 視界がきかず、なおかつ足が不自由であるために、左右の樹木にぶつかりながら、それをなぎ倒す勢いで森を駆けている。

 もしもアイ=ファが木の根に足でも取られたら、その図太い足でぺしゃんこに潰されるか、あるいは背中に牙を突きたてられることになるだろう。


 それでもアイ=ファは臆することなく、森を駆けた。

 すると、眼前に何よりも頼もしい狩人たちの姿が見えてきた。


 3名の狩人が横に引き、ひとりだけが獣道の真ん中に立ちはだかっている。

 ドンダ=ルウである。

 刀を握りしめたドンダ=ルウは、その双眸を青く燃やしながら、地面に片方の膝をついた。


 アイ=ファは残っていた力を振り絞り、ドンダ=ルウを目指す。

 アイ=ファが一瞬でも早く辿りつけば、それだけドンダ=ルウの負う危険は軽くなるのだ。


 アイ=ファは、ドンダ=ルウのもとに跳んだ。

 狩人の衣に包まれたその右肩を、右足で踏む。

 すかさずドンダ=ルウが身を起こし、その反動を利用して、アイ=ファは左側の樹木の枝に跳びついた。


 ドンダ=ルウは、逆側の草むらに身を投じている。

 その身体をぎりぎりかすめながら、森の主は獣道を走り抜けた。

 が、ゆるく湾曲した獣道を曲がりきれず、大樹に頭から衝突する。

 左右に引いたガズラン=ルティムらが、通りすぎざまに再び主の足に斬りかかっていたのだ。


 高い木の上でその幹にしがみつきながら、アイ=ファはぜいぜいと荒い息をついた。

 大した道のりでもなかったのに、肺が破れてしまいそうなほどであった。


 ドンダ=ルウやガズラン=ルティムらが、刀を握りなおしつつ身を起こす。

 そのとき、「おらあっ!」という威勢のいい声があがった。

 新たに出現した狩人が、のそりと起きあがろうとした主の首に真横から大刀を突きたてる。


 弓の仕事を終えた、ルド=ルウであった。

 道の向こうから駆けつけてきたルド=ルウは、その勢いのまま斬りかかったのだろう。大刀は、その刀身の半分ぐらいが主の首に埋まっていた。


 仕留めたか、とドンダ=ルウらもそちらに殺到する。

 が、彼らが取り囲むより早く、突如として主が咆哮をあげた。

 ギバは、めったに声をあげない。しかしそれは、ギバ自身が恐れるはずの、地鳴りのごとき野太い咆哮であった。


 びりびりと空気が震えて、森に潜んでいた鳥たちがいっせいに飛び立っていく。

 ムントやギーズなどがいたなら、やはり同じように逃げまどっていたことだろう。

 それはまるで、地の底から蘇った災厄神が目覚めの咆哮をあげたかのような恐ろしさであった。


「うわあっ!」と叫んだルド=ルウが、茂みの向こうに跳ね飛ばされてしまう。

 その首に刀を埋め込まれたまま、さらに主は咆哮をあげた。

 咆哮をあげながら、ぐるりとこちらのほうに向きなおる。

 ギバ寄せの実の香り――アイ=ファの存在を、求めているのだ。

 赤い穴と化したその双眸ににらみすえられたような気がして、さしものアイ=ファの背筋にも戦慄が走り抜けた。


「怪物め!」とダルム=ルウが斬りかかる。

 横合いから、右の後ろ足を狙っての斬撃であった。

 しかし主は首を巡らせ、巨大な角でダルム=ルウの刀を弾き返す。

 それだけで鋼の刀は真っ二つに折れて、ダルム=ルウは肩から地面に落ちることになった。


 同時にガズラン=ルティムも斬りかかっていたが、それは俊敏に跳びすさることで回避してしまう。

 そして、たたらを踏んだガズラン=ルティムが体勢を整えるより早く、横合いから牙を繰り出す。

 ガズラン=ルティムはかろうじて身をひねり致命的な一撃だけはまぬがれたが、牙の側面で胸を叩かれ、小石のように宙を舞うことになった。


「呆れたね! どうして両目を潰されているのに、そんな真似ができるんだい!?」


 アイ=ファには見えない位置から、バルシャが叫んでいた。

 同時に、主の巨体に新たな矢がぶすぶすと突きたてられる。

 しかし主は痛痒を覚えた様子もなく、一番手近にいたラウ=レイへと襲いかかった。


「くそっ!」


 ラウ=レイは身を沈め、地面を転がることでその突撃から逃れた。

 なおかつ、地面を転がりながら引き抜いた小刀を主の首に突きたてる。

 むろん、それでも主が地に沈むことはなかった。


 ダルム=ルウとガズラン=ルティムは、刀を杖にのろのろと立ち上がる。

 そちらに向かって、ドンダ=ルウが「近づくな!」と怒号をあびせた。


「こやつも最後の力を振り絞ろうとしている! うかつに近づくと身体をえぐられるぞ!」


 主の四肢は、そのすべてがおかしな方向を向いていた。

 ルド=ルウの刀の刺さった首からは、どくどくと血が流れている。

 それでも主は、力を失っていなかった。

 ひょっとしたら、もうその生命は尽きかけていたのかもしれないが――ドンダ=ルウの言う通り、残された力のすべてをここで爆発させようとしているのかもしれなかった。


「次に動きが止まったとき、渾身の力で刀をふるえ! それで決着をつける!」


「動きが止まったときって、こいつが止まることなどありうるのか!?」


 惑乱しきった、ラウ=レイの声。

 ドンダ=ルウは、両手で刀をかまえながら立ち位置を変えた。


「動きは、俺が止める!」


 ドンダ=ルウは、主とアイ=ファのしがみついている木を繋ぐ直線の真ん中に立ちはだかっていた。

 主がなおもアイ=ファの存在を追っていることに、ドンダ=ルウも気づいていたのだ。

 アイ=ファは呼吸を整えながら、自身も木の上で刀を抜いた。

 ひとつの策略が、まるで天啓のように脳裏に閃いたのだ。


 ぎゅおおおおぉぉぉっ…………と、凄まじい咆哮もろとも、森の主が大地を蹴る。

 主は真っ直ぐアイ=ファのほうに、つまりはドンダ=ルウのほうに突進した。


「くらえっ!」


 ドンダ=ルウが低い体勢で、大刀を真横になぎはらう。

 血がしぶき、二本の前足が宙に舞った。

 しかし、主の突進は止まらなかった。

 牙の一本が、ドンダ=ルウの右肩をえぐる。


 その瞬間、アイ=ファは木から飛び降りていた。

 ドンダ=ルウの背中と主の鼻面が眼前に迫る。

 肩をえぐられたドンダ=ルウの右腕と胴体の隙間を狙って、アイ=ファは刀を真っ直ぐ突き出した。


 刀がずぶりと、主の咽喉もとにめりこむ。

 しかしもちろん、そのていどの攻撃で主の突進は止まらない。

 主とアイ=ファとドンダ=ルウは、もつれあいながら大樹に激突することになった。


 アイ=ファの体内から、めきっと嫌な音色が聞こえてくる。

 おそらく、あばらがへし折られたのだろう。

 しかしアイ=ファは、刀を離さなかった。

 刀の尻が大樹の幹にぶちあたり、その刀身が根もとまで主の首に埋まるまで、アイ=ファは刀を離さなかった。


「……なんて無茶をしやがるんだ、貴様は」


 主と大樹にはさまれた格好で、頭上から降ってくるドンダ=ルウの声を聞く。

 突進の力を利用すれば、こうして深手を負わせることもできるはずだし、ドンダ=ルウが少しでも主の力を削いでくれれば、生命を落とすこともなかろうと思い至ったのだ――そのように答えたかったが、声が出なかった。


「おい、二人とも生きているだろうな!? 今そいつをどかしてやるぞ!」


 主の巨体の向こうから、ラウ=レイの声が聞こえてくる。

 いや、まだだ――とアイ=ファは答えようとした。

 その瞬間、主が後ろ足で立ち上がった。


 信じ難い力で翻弄され、アイ=ファは空中に投げ出された。

 目の端を、同じように放り出されたドンダ=ルウの姿が通りすぎていった。


 刀の柄から手が離れ、森と空と大地がくるくるとアイ=ファの周りを回転していく。

 いったいどれだけの高みに放り出されたのか、永久とも思える時間、アイ=ファは空中を浮遊した。


 頭から落ちたら、死はまぬがれないだろう。

 だからアイ=ファは半ば無意識の内に頭を抱え込み、背中を丸めていた。

 絶対に、生きて帰るのだ。

 ほとんど失いかけた意識の中で、アイ=ファはその思いだけに取りすがっていた。


 そして――

 アイ=ファの身体は、とても温かくて力強い何者かの両腕に、ふわりと抱き止められることになった。


「ううむ。せっかく駆けつけたというのに、仕事は終わってしまったか!」


 ダン=ルティムである。

 アイ=ファがぼんやり見上げると、青い空を背景にダン=ルティムが笑っていた。


「まあ、全員が生きながらえたのなら、よしとするか! サウティの集落に帰るとしよう!」


 やはり返事もできぬまま、アイ=ファは視線を巡らせる。


 両方の前足を失い、図太い首を大刀でつらぬかれた森の主は、最後の力をも使い果たして、森の中にその巨体を横たえていた。

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