サウティ家の受難⑥~三日目~
2016.4/1 更新分 1/1
翌日も、森の主が姿を現すことはなかった。
前日に大量のギバを狩りつくしたせいか、森はとても静かであったという。それでも狩人らは、合計で20頭近いギバを狩ったそうだ。
「これだけギバが少なくなれば、森の主めも喜び勇んで舞い戻ってくることだろう。この近辺にはまだまだ豊かな恵みが残されているのだからな」
ドンダ=ルウは、そのように語っていた。
本日も狩人たちは若干早めに帰還してきており、かまど番のほうも、サウティの女衆らが手馴れてきたこともあって、かなりのゆとりをもって晩餐の準備を仕上げることができた。
すべての仕事を終えて日没を待つ、そんな休息のひとときに、俺はようやくガズラン=ルティムと言葉を交わすことができた。
せっかくひさびさに顔を合わせることができたのに、俺たちはなかなか旧交を温める機会を得られなかったのだ。
「どうしました? 何やら思い悩んでいるような面持ちですね、アスタ?」
昨晩のユン=スドラとの一件で得た感情が、顔に出てしまっていたのかもしれない。
俺は「いえ」と首を振ってみせる。
「いいんです。俺はきっと、もっと思い悩むべきなんです」
「……何か私で力になれることがあれば、いつでも声をかけてください」
とても温かい微笑をたたえながら、ガズラン=ルティムはそのように言ってくれた。
俺たちがたたずんでいるのは、集落の真ん中にある広場の片隅であった。
世界には薄紫色のヴェールがかかり、どこかで野鳥が鳴いている。晩餐を始めるまで、あと半刻ほどの時間があるだろう。
「ガズラン=ルティムこそ、お身体のほうは大丈夫ですか? 手傷を負ったりはしていなくても、ここ数日は普段以上の力を振り絞っているのでしょう?」
「はい。ですが私も狩人ですので、ジェノスの貴族たちを相手取るよりはよほど心も満たされます。いずれはまた、そちらでも頭を悩ませることになるのでしょうから」
「またサイクレウスのように陰謀を仕掛けてくる貴族が登場するだろう、という意味ですか?」
「いえ。貴族や町の人間と関わるという、それ自体が森辺の民には試練になるでしょう。80年もの間、おたがいを忌避していたのですから、それは避け難い道なのだと思います」
言いながら、ガズラン=ルティムはまた微笑む。
「ですが、試練とは苦しいばかりのものではありません。この森の主の討伐にしても同じことです。言ってみれば、人間にとっては生きるという行為そのものが試練であり、幸福や充足というものもその試練の内にあるのではないかと私は考えています」
ルティムの家長を拝命したことによって、ガズラン=ルティムにはいっそうの風格と落ち着きが宿ったように感じられた。
以前から、どっしりと大地に根を張った大樹のような人柄であったが、いまや森や山そのものを思わせる風格だ。
「ルウ家の商売もたいそうな評判を呼んでいるそうですね。それはきっと、森辺の民と町の人々とを今まで以上に強い力で結び合わせてくれるでしょう。これもすべてはアスタの力あってのことです」
「そんなことはないですよ。俺みたいな存在を受け入れてくれた森辺の民なのですから、きっと町の人々や貴族ともうまくやっていけるはずです」
するとそこに、ふたつの人影が近づいてきた。
狩人にしてはほっそりとした、ルド=ルウとラウ=レイのコンビである。
「何だ、神妙な顔をして何を語らっているのだ? 面白い話なら、俺もまぜろ」
初日に手傷を負ってしまったラウ=レイであるが、翌日にはもう力を取り戻していた。ただしその金褐色の頭には灰色の包帯が巻かれている。彼の負った裂傷は、10針も縫う深手であったのだ。
「ラウ=レイにとってはどうだろうね。森辺の行く末について語らっていたんだけど」
「森辺の行く末? 俺たち狩人はギバを狩り、お前たちかまど番は美味い食事をこしらえる。それ以外のことはどうでもいいだろうが?」
「うん、ラウ=レイはそれで正しいと思うよ」
「何だ! 同い年のくせに偉そうな口をきくやつだな!」
ラウ=レイが怒ってヘッドロックを仕掛けてくる。
そんな光景を眺めながら、ルド=ルウは「なあなあ」と声をあげてきた。
「今日の当番はリミとシーラ=ルウだったよな? あのちびはどこに行っちまったんだ?」
「リミ=ルウならかまどのほうでアイ=ファと喋ってたよ。あのふたりも、ふだんはなかなか会話をする機会がないからね」
「そっか。ま、おんなじ集落に住んでなけりゃあ、そうそう顔を合わせることはねーもんな」
頭の後ろで腕を組みながら、ルド=ルウはそう言った。
「ジバ婆も、アスタやアイ=ファに会いたがってたぜ? アスタなんかは毎日ルウの集落に寄ってたんだから、顔ぐらい見せてやれよ」
「ああ、俺だけ抜けがけしたらアイ=ファに悪いかと思ってさ」
「何も悪いことはねーだろ。ていうか、アイ=ファだってもっとルウの集落に顔を出せばいいんだよ。ジバ婆やちびリミが会いたがってるんだからさ」
何だか森の主を討伐するという大仕事のさなかとも思えぬ、なごやかな雰囲気であった。
ようやく俺の首を解放してくれたラウ=レイが「ふん!」と鼻を鳴らす。
「そういえば、家人でもない人間とこのように毎日顔を突き合わせるのは珍しいことだ。何だか毎日が宴のようで、俺はなかなか面白いと思っていた」
「あー、いつも以上に豪勢な晩餐も食えるしな。俺もちっとばかりは楽しいなーと思ってたよ」
「うむ。ルウやルティムやサウティの人間と一緒に狩りをするのも初めてなので、それも楽しいぞ!」
そのようなことを言いながら、ラウ=レイが俺に向きなおる。
「それに、アイ=ファもな! あいつは本当に大した狩人だ! ギバ寄せの実なんぞを使っているから俺たち以上に危険な仕事を果たしているはずなのに、手傷のひとつも負わないとはどういうことだ!」
「そりゃあそれぐらいの腕前がなかったら、たったひとりで一日に一頭のギバを狩ることなんてできねーだろ。あいつはすげー狩人だよ」
「うむ! 収穫祭では、絶対に力比べで負かしてやるぞ! ……アスタよ、次の収穫祭にもお前たちは顔を出すのだろうな?」
「え? いやあ、今のところは何も言われてないから、未定だけど」
「そんなことが許されるか! 勝ち逃げは許さないぞ!」
むきになるラウ=レイが可笑しくて、俺はついつい笑ってしまった。
「だったらドンダ=ルウに進言しておいておくれよ。力比べを観戦するのは心臓に悪いけど、ルウの祭には参加したいからさ」
「進言しよう! ドンダ=ルウはどこに行った!?」
「ドンダ=ルウは、父ダンやダリ=サウティと何やら語らっていたようです。話は晩餐の後でもいいのではないでしょうか?」
「そうか。忘れずに伝えておかねばな。……うん? あいつはひとりで何をやっているのだ?」
と、ラウ=レイが夕闇の向こうを透かし見る。
見ると、広場の真ん中をツヴァイがひとりでとぼとぼと歩いていた。
「ああ」とうなずいてガズラン=ルティムがそちらに足を向けたので、俺たちもぞろぞろ追従する。
「ツヴァイ、大丈夫ですか?」
ツヴァイは振り返り、きつい目つきでガズラン=ルティムをにらみつけた。
「大丈夫って何がサ? アンタなんかに心配されるいわれはないヨ」
「お前、家長に対してその言葉はないだろう」
たちまちラウ=レイが柳眉を逆立てたので、ガズラン=ルティムは「いいのです」とそれを押し留めた。
「この仕事も、明日か明後日にはきっと終わるでしょう。それまであなたも頑張ってください、ツヴァイ」
「……どうしてそんなことが言いきれるのサ? 森の主とかいう大ギバがいつ現れるかなんて、誰にもわからないことでショ?」
「どうしてと問われると、ギバの習性についてこまかい説明をしなければならなくなりますが、とにかく近日中に森の主は現れると思います。……そしてそのときこそ、私たちは死力を尽くして森の主を討ち倒すでしょう」
「……フン」と言ったきり、ツヴァイはうつむいてしまった。
その表情はふだん通りの仏頂面であるが、どことなくしょんぼりしているように見えなくもない。
「ツヴァイは、家に残したオウラが心配なのですよ」
俺の視線を受けて、ガズラン=ルティムがそのように説明してくれた。
「ツヴァイとオウラはルティムの本家で預かっていますが、今はオウラ以外の全員が家を離れています。なのでオウラも分家に身を寄せることになっているのですね」
「ああ、なるほど」
ガズラン=ルティムとダン=ルティムとラー=ルティムは狩人として、ツヴァイとアマ・ミン=ルティムはかまど番としてこのサウティの集落に留まっている。そして末妹のモルン=ルティムはいまだに北の集落であるから、確かにオウラを除く全員がルティム本家を離れてしまっていることになるのだ。
「オウラはきちんとルティムの家人として認められているのだろう? だったら何の心配もないではないか」
しかしラウ=レイは、容赦なくそのように言いたてる。
「それに、オウラとお前はもはや親子の縁を切られているのだぞ? それでそのようにオウラばかりを気にかけているから、お前はいつまでもルティムの氏を与えられずにいるのではないのか?」
「うるさいネ! 家人として迎えたその日に氏を与えるようなヤツにうだうだ言われたくないヨ!」
「ヤミル=レイは強い女衆だからな。きっと情の深さも持ち合わせていて、かつての家族らにも強い思いを寄せているのだろうが、そんな素振りはちいとも見せずに毅然とふるまっている。お前もヤミル=レイを見習って、強くあれ」
ツヴァイはむっつりと黙りこんでしまった。
そちらにガズラン=ルティムがゆったりと微笑みかける。
「ツヴァイ。私たちは、オウラに対する情を捨てろと言っているわけではありません。そのオウラに対するのと同じぐらい強い気持ちで、ルティムを家族と思ってほしいのです。そのときこそ、私は家長としてあなたにルティムの氏を与えるでしょう」
「…………」
「あなたはまだ若いから、そのように思うことは難しいかもしれません。でも、いつかその日がやってくると私は信じています。そして私もまた、モルンやアマ・ミンと同じようにあなたやオウラを慈しみたいと願っています」
ツヴァイはもう一度「……フン」と鼻を鳴らして立ち去ってしまった。
その小さな背中を見送りながら、ラウ=レイは首をひねっている。
「あれはスン家の中でもとりわけ強情であるようだな。言葉で諭すより尻でも引っぱたいたほうが早いのではないか?」
「どうでしょう。私は私のやり方で家人を導きたいと思います」
「ああ、ルティムの家長はお前さんだからな! 好きにやるがいいさ」
そんな言葉を交わしていると、シーラ=ルウとアマ・ミン=ルティムが連れ立ってサウティ本家のほうから歩み寄ってきた。
「アスタ、そろそろ汁物を温めなおす頃合いだと思うのですが、いかがでしょう?」
「ああ、そうですね。それじゃあみんな、また後で」
3名の頼もしい狩人たちに別れを告げ、俺たちはかまどの間に足を向ける。
「おふたりはずっとかまどの間に居残っていたのですか?」
「はい。わたしはミル・フェイ=サウティと言葉を交わしていました。シーラ=ルウは、本家の家の中にいたようですね?」
「あ、いえ、わたしは家の横で立ち話をしていました」
そのように答えながら、シーラ=ルウは恥ずかしそうに目を伏せてしまう。
誰と立ち話をしていたのだ? ――などという野暮な質問を、俺とアマ・ミン=ルティムが発することはなかった。
みんなも思い思いにこのひとときを過ごしていたようだ。
かまどの間に向かう道中では、モガ=サウティとラー=ルティムが静かに語らっている姿を見ることができた。
ヤミル=レイは、ミダと語らっていたようだった。
アイ=ファはリミ=ルウと、トゥール=ディンはレム=ドムと、ユン=スドラはサウティの女衆らと、それぞれ親交を深めていた様子だ。
確かに生きるということは、試練の連続なのかもしれない。
だけどその合間にこうやって親しい人々と慈しみ合うことができれば、どんな試練にだって立ち向かえるだろう。
特に森辺の民には、そういった力が備えられている。
深く傷ついたサウティの一族も、いずれは元の力を取り戻すことができるに違いない。
そのように信ずることができるのは、とても幸福なことだった。
そして、そんな森辺の民が自分を同胞と認めてくれたことを、俺はあらためて誇らしく思うことができた。
◇
その日の晩餐は、スペアリブの照り焼きとクリームシチュー、ベーコンとナナールの乳脂ソテー、シーザーサラダを目指した生野菜のサラダ、そしてタラパソースのパスタをお披露目することにした。
「わー、にゅるにゅるー!」とサウティ本家の幼子たちは異形の料理パスタにすっかりはしゃいでしまっている。
そんな彼らにパスタの正しい食べ方を教えていたのは、初めてこの集落にやってきたリミ=ルウだ。ルウの集落にはあまり年の近い血族がいないので、リミ=ルウもとても楽しそうだった。
「このぱすたという料理は本当に不思議だな。これがポイタンでできあがっているとは、いまだに信じられん」
すでに城下町でその料理を口にしていたダリ=サウティは、感心しきった様子でそのように言っていた。
包帯姿は相変わらずの痛々しさであったが、やつれていた顔には肉が戻り、髭も綺麗に剃っている。その大きな身体にも、以前までと遜色のない活力が蘇ったようであった。
「正確には、ポイタンとフワノを混ぜ合わせておりますけどね。ついでにキミュスの卵も使っておりますし」
「そういえば、あのバナームとかいう町の貴族から黒いフワノってやつをいただいたんだよな? あれは料理に使わないのかよ?」
意外に事情通なルド=ルウがそのように発言する。きっとレイナ=ルウあたりから話を聞いているのだろう。
「うん、あれもポイタンと混ぜ合わせることで面白い料理が作れそうなんだけどね。まあ、ウェルハイドもしばらくはジェノスに留まるみたいだし、じっくり取り組ませていただくよ」
「……俺たちが世話をかけたばかりに、アスタの仕事をさまたげてしまっているのだな」
と、ダリ=サウティが申し訳なさそうな顔をしたので、俺は「いいえ」と言ってみせた。
「貴族の期待に応えることも大事なのでしょうが、同胞の危地に力を添えることに比べれば何ほどのものでもありません。しっかりと優先順位をつけて、ひとつひとつの仕事をこなしていきたいと思います」
「そーそー、貴族や町の人間よりもまず俺たちに美味いものを食わせてくれなきゃなー」
日を増すごとに、サウティの食卓は和やかになっていっているようだった。
その中で、ドンダ=ルウの表情だけが重い。
もともと和やかとは言い難い人柄であるが、その瞳には普段以上の激しい炎が渦巻いているように感じられてしまう。ルド=ルウやリミ=ルウがいなかったら、幼子たちは怯えてしまっていたかもしれない。
何となくその様子が気がかりであったので、俺は晩餐の後、アイ=ファとともにドンダ=ルウのもとを訪れることにした。
「何だ、陣中見舞いでも気取ってやがるのか?」
ドンダ=ルウにあてがわれたのはサウティ本家の一室であり、相方はダルム=ルウである。
風貌は異なるが雰囲気の似通った親子を前に、俺は「はい」とうなずいてみせる。
「何だかずいぶん気を張っているご様子であったので……みんなを率いる立場のドンダ=ルウは、きっととてつもない重圧を背負っておられるのでしょうね」
「薄気味悪いことを言いやがるな。貴様なんぞに心配されるほど落ちぶれちゃいねえぞ?」
「心配はしていません。ドンダ=ルウがギバに屈する姿は想像がつきませんので」
これぐらいの軽口は許されるかなと、俺はそのように応じてみせる。
本当は、心配だ。きっと今の森辺には、ドンダ=ルウのような族長こそが必要なのである。決して深い傷は負わずに、無事な姿で戻ってきてほしいと願っている。
「ドンダ=ルウの力を信じています。どうかその強い力でみんなを導いて、この試練に打ち勝ってください」
「言われるまでもねえ。そんな口はばったい言葉は、心の中で念じていれば十分だ」
「それはわかっているつもりなのですが、口に出さないと落ち着かない性分なので、申し訳ありません」
「ふん」とドンダ=ルウは果実酒をあおる。
「この仕事も、あと一日か二日で決着がつくだろう。そうでなきゃ、森の主めは縄張りを余所に移したってことになる。明日にでもジェノスの田畑が踏みにじられないよう、せいぜい森に祈っておけ」
「はい」
「決着は、目の前だ。貴様もしくじるんじゃねえぞ、アイ=ファよ」
「むろんだ。この身にかえても、己の仕事は果たしてみせる」
その言葉に、ドンダ=ルウは「ハッ」と咽喉を鳴らした。
「もうひとつ足りねえな。狩人は、少しでも長く生きながらえてギバを狩り続けるのが仕事だ。そんな若さで森に朽ちちまったら、貴様はこの先永久にぶざまな女狩人として語り継がれていくことになるだろうぜ」
ぴくりとアイ=ファの口もとが震える。
きっと可愛らしく唇をとがらせてしまうのを全力で自制したのだろう。
「この身にかえても、などという言葉は20年早い。貴様はその生命を損なうことなく、狩人の誇りに懸けて、仕事をまっとうしろ。若い貴様には、生きながらえることも仕事のひとつなんだ」
「……了承した」とアイ=ファは強い声で答える。
ダルム=ルウは、そんな問答を無言で聞いている。
ドンダ=ルウはもう一口果実酒をあおってから、月の浮かぶ窓の外へと視線を飛ばした。
そして、にやりとふてぶてしく笑う。
「森の主めの肉は、どんな味がするんだろうな」
そうしてサウティの集落における3度目の夜も、静かに終わった。