サウティ家の受難⑤~二日目~
2016.3/31 更新分 1/1 2016.6/21 誤字を修正
そうしてサウティ家で迎えた初めての夜は、無事に明けた。
日の出とともに起床したら、晩餐の片付けに、薪やピコの葉の採取、そして商売の下ごしらえである。
ルウ家の班は、ここで先んじてルウの集落に向かうことになった。
戦力を分散させたままでは商売の下ごしらえにも支障が出てしまうし、どのみちルウの集落を経由して宿場町に向かうのだから、先に移動して悪いことはない。ということで、のちに俺たちと合流することを約束して、ここで別行動と相成ったのだった。
いっぽうファの家は、この時間帯が正念場である。
ルウ家には宿屋の料理をおまかせしてしまうので、こちらの仕事でまで手を借りるわけにはいかない。俺、トゥール=ディン、ヤミル=レイ、ユン=スドラ、レム=ドムの5名、そしてサウティおよびヴェラの女衆に手を借りながら、140食分の『ポイタン巻き』、120食分の『ギバまん』、30食分の『ギバ・カツサンド』をこの場で仕上げなければならないのだ。
昨日の内に済ませておいたのは、肉の切り分けと、あとは『ポイタン巻き』のためのタレの作製のみであった。
ポイタンは数日分を煮詰めてはあるものの、残りの作業はこの2時間ばかりで完了させねばならない。
「それじゃあ昨日の打ち合わせ通り、トゥール=ディンとユン=スドラは『ギバまん』を、レム=ドムはポイタンの焼き作業をお願いするよ。俺は『ギバ・カツ』を担当するので、ヤミル=レイはその補助をお願いします」
トゥール=ディンとレム=ドムは毎日この作業を手伝ってくれているので、それぞれサウティの女衆らを指南する小隊長に任命させていただくことにした。
そして俺は初参加のヤミル=レイのみを助手として、まずはカツの揚げ作業を仕上げてしまう。こちらは30食分なので、どうという作業量でもない。
それが済んだら、トゥール=ディンらと合流して『ギバまん』の作製だ。
サウティの女衆らに頼めるのは肉挽きと野菜の切り作業ぐらいであるので、それを使った餡の作製と、そしてフワノの生地の作製は、手馴れた俺たちでこなさなくてはならない。
そちらの目処があるていどついたらレム=ドムから焼いたポイタンを受け取って、『ギバ・カツサンド』を完成させる。
油を切ったカツにソースを塗りつけて、刻んだティノと一緒にはさみこみ、形が崩れないよう木箱に詰めていく。
『ポイタン巻き』は現地で焼きあげる料理なので、ポイタンが焼きあがったらそれで完成だ。袋に詰めた肉や土瓶に詰めたタレとともに、荷車へと収納する。
最後は全員で、『ギバまん』の餡をフワノの生地で包み込む作業に従事した。
時間は、ぎりぎりいっぱいである。
完成した『ギバまん』を蒸し籠に詰め込みながら、ヤミル=レイは溜息をついていた。
「これで、普段は宿屋の料理も一日置きに受け持っていたのよね? まったく信じ難い話だわ」
「いやあ、近所のフォウやランやスドラの人たちはもう仕事の手順をわきまえているので、何の問題もありませんよ。レム=ドムも、ご覧の通りの手際ですし」
「ルウの集落でも毎朝このような騒ぎなのでしょうね。わたしは駆り出されなくて幸いだったわ」
ともあれ、料理は完成した。
束ね役のミル・フェイ=サウティに礼を言い、俺たちは慌ただしくルウの集落へと出立する。
ルウの集落でも、とりたてて問題は起きていなかった。
ただ、主力の狩人が不在のため、昨日はギバの収穫が半分に落ちてしまっている。これが続くと、臓物のストックは早々に尽きてしまうやもしれないという話であった。
「まあ、リリンやマァムの家にまで足をのばせば確保はできるのでしょうが。何にせよ、ドンダ父さんたちが一日も早く無事に仕事を果たせるように祈るばかりです」
別れ際に、レイナ=ルウはそのように言っていた。
そうして宿場町に到着したら、今日も元気に商売だ。
ありがたいことに、客足はまったく落ちていなかった。
さすがに2日ばかりでは物珍しさも減退しなかったらしい。むしろ評判が評判を呼び、いくぶん勢いが増してきたぐらいかもしれない。
これといって変事はなかったが、唯一特筆すべきは《南の大樹亭》のナウディスがひさかたぶりにお客として訪れてくれたことだった。
「ううむ。確かにこれは美味ですな。ギバの臓物というものは肉にも劣らぬ味わいであるようです」
《南の大樹亭》においてもこの青空食堂については大いに語られていたようなので、どれほどのものなのかと確認しにおもむいてくれたのだろう。
ちょっとだけ仕事を抜けさせていただいた俺は、忙しそうに働いているシーラ=ルウやヴィナ=ルウの代わりに「ありがとうございます」と礼を言ってみせた。
「しかしこれはルウ家の料理なのですな? アスタは屋台で汁物を売りに出すつもりはないのでしょうかな?」
「いえ、ゆくゆくは出してみたいと思っています。汁物というよりは、普通の皿に盛った料理を」
それならば、ルウ家とバッティングすることもないだろう。
こちらも一人前か半人前かを選べる料理にすれば、汁物と一緒に注文してもらうこともできる。そうすれば、いっそう献立の組み合わせにも幅ができるはずだ。
「ふむ。ならば、わたしからひとつ願いたいことがあるのですが」
「はい? 何でしょう?」
「できることならば、ぎばかれーを屋台でも売ってほしいのです」
それは意外な申し出であった。
俺としても目の前でカレーの売れ具合を確認したい心境ではあったが、ただでさえ4つの宿屋で売られている料理であるので、あまり乱発しては飽きられてしまうかな、という懸念があったのだ。
「わたしの宿においても、ぎばかれーはそれなりの売れ行きを見せております。ですがやはり、南の民のお客さまにはこれをシム料理と思って忌避する方々が少なくないのです」
「はい。となると、注文しているのは西の民のお客さんばかりなのでしょうか?」
「半数は西の民、残りの半数が東の民、南の民はほんの数人、というぐらいでありましょうかな」
「あ、そうか。《南の大樹亭》にはギバ料理を目当てに東の民も多少は訪れるという話でしたね。……でも、これだけギバ料理を扱う宿屋が増えても、まだその数は減っていないのですか?」
「はいはい。口はばったいことを申すようですが、ギバ料理を扱っている宿屋の中ではわたしの店が一番の大口でありますからな。とりわけ《玄翁亭》は小さな宿でありますため、そこに入りきれなかった東の民というのはなかなかの数にのぼるようなのです」
《玄翁亭》も、そこまで繁盛しているのか。
俺としては、とてもありがたい話であった。
「わたしとて、ジャガルの血をひいてはおりますが、セルヴァに魂を捧げた西の民であります。東の生まれのお客さまであろうと忌避する気持ちはありません。……ですがやっぱり、わたしの宿は南のお客さまの憩いの場であってほしいのです。《南の大樹亭》で準備する料理は、ジャガルのお客さまにこそ一番に喜んでいただきたいのです」
「はい」
「ですが、ぎばかれーは他のギバ料理に比べて、売れ行きがのびません。これはジャガルのお客さまの大半が、ぎばかれーをシム料理と思ってしまっているからです。……しかしこれはシムの香草をふんだんには使っているものの、シム料理ではなくアスタの故郷の料理であるはずですな?」
「はい。シム生まれのお客さんにも、とても物珍しがられているはずです」
「その事実を、もっともっと宿場町の人々に知らしめてほしいのです。ぎばかれーはシムの料理ではなく、森辺の民にして渡来の民たるアスタの料理であるということを」
『ギバのモツ鍋』をすすりながら、ナウディスは熱っぽくそのように述べた。
「この料理にはジャガルから仕入れたタウ油と砂糖が使われております。しかしこれもまたジャガル料理ではなく森辺の民の料理です。森辺の民は、ジャガルの食材もシムの食材もわけへだてなく使っている。それを知らしめることができれば、ぎばかれーはシム料理でなく森辺の料理なのだと知らしめることもできると思うのです」
「なるほど。言わんとしていることは理解できたように思います」
俺は笑顔でナウディスにうなずき返してみせた。
「それでは他の宿屋のご主人たちにもご意見をいただいて、それで心を定めたいと思います。……ただ、ルウ家のほうもまだこの食堂を開いたばかりですので、それが落ち着くまでは差しひかえておこうかな、と思っているのですよね」
「何も明日ただちに店を広げる必要はないでしょうな。しかし、まもなく太陽神の復活祭が訪れます。商いに生きる者として、この好機を逃すことはできないはずですぞ?」
と、ナウディスは鹿爪らしくそのように言った。
「ぎばかれーに関してはわたし個人の要望でありますので、アスタのお心におまかせいたします。ですが、たとえぎばかれーでなくとも、アスタは店を広げるべきだと思われます。ギバの美味しさをこの世に広めたいと念じておられるのなら、これ以上の好機はないはずですからな」
「はあ。復活祭の折には、そこまで大勢の人がジェノスを訪れるのでしょうか?」
「はいはい。少なく見積もっても、宿や屋台を利用するお客さまは倍以上にも増えるはずですな。わたしの店でも人を雇って、その時期だけは屋台を出しているほどですぞ?」
「倍以上、ですか」
それはなかなかとてつもない話であった。
森辺の民の屋台は、現時点でも3、400人ものお客さんを毎日迎えているのである。
それに、拡張したばかりの青空食堂であるが、倍以上のお客さんに詰めかけられたら、またキャパオーバーを起こす羽目になってしまう。
ということは、その期間だけでも座席をさらに拡張しなければならない、ということだ。
ならば確かに、ファの家もそれに合わせて新しい献立を準備するべきなのかもしれなかった。
「わかりました。貴重な情報をありがとうございます。ナウディスの言葉を心に留めて、最善の道を探したいと思います」
「いえいえ、アスタとはもう数ヵ月に及ぶ間柄なのですからな。これからも、アスタの成功はわたしの成功につながり、わたしの成功はアスタの成功につながる、そんな関係を続けさせていただきたく思います」
ナウディスというのは、信頼の置ける商売仲間と呼ぶのが一番しっくりくる存在であるのかもしれない。
情がからんでいないわけではないが、ミラノ=マスやネイルやユーミなどと比べると、情ではなくおたがいの仕事に対する尊敬と信頼の念から結ばれた間柄であるように感じられるのだ。
ある意味では、それはポルアースにも通ずる感覚なのかもしれなかった。
そんな感じでナウディスは去っていき、それ以降はごく平穏に、かつ慌ただしくその日の商売は幕を閉じることになった。
◇
そして商売が終われば、サウティの集落に帰還だ。
ルウ家の女衆は、レイナ=ルウとララ=ルウに交代された。
「レイナ=ルウ、申し訳ないけど、汁物の下ごしらえをお願いできるかな? 分量はトゥール=ディンが把握しているので」
「了承いたしました。アスタはどこに行かれるのですか?」
「俺は外のかまどを拝借して、商売用のカレーの素を作製しなければならないんだ」
現在、カレーの素は4つの宿屋に卸されている。まだその注文数は合計で100食ていどであったものの、毎日のこととなれば、なかなかの分量にのぼるのである。
香辛料を挽いて炒る作業は、日常的に近在の女衆の手を借りて膨大な量を片付けてある。本日なさねばならないのは、それをカレーの素に仕上げる作業であった。
ヤミル=レイを調理助手に任命し、まずはアリアを刻んでいく。それを香辛料とともに乳脂で炒めて、最後にフワノを添加する。作業自体に難しいところはないが、数日分の量を仕上げるとなると、なかなかの手間なのである。
で――そうして鉄鍋にたっぷりのスパイスを炒めていると、あちらこちらから集まってくる者たちがあった。
サウティとヴェラの女衆や幼子たちだ。
これだけ盛大に香草の香りを撒き散らしていたら、それは不審がられるのが当然であろう。心配は不要ですよと告げてあげたかったが、彼女たちは遠巻きに俺たちをうかがうばかりで、なかなか声の届く場所にまでは近づいてきてくれなかった。
「アスタよ、これはいったい何の騒ぎであるのかな?」
しばらくしてからそんな風に声をかけてきてくれたのは、サウティの長老モガ=サウティであった。
フワノを投じたスパイスにざくざくと木べらを入れつつ、「はい」と俺は応じてみせる。
「これも商売用の下ごしらえです。はた迷惑な香りを撒き散らしてしまって申し訳ありません」
「いや、べつだん不快なわけではないが……しかし、強烈な香りであることに間違いはなかろうな。これならば、ギバ除けの実を使わずとも森の主を集落から遠ざけることもできよう」
モガ=サウティは微笑していたので、俺はほっと息をつくことができた。
「お嫌でなければ、こちらの料理もいずれ晩餐でお出ししましょうか? ルティム家のお祝いでもお披露目したのですが、そのときはなかなか好評だったのですよ」
「うむ、興味深い。もしかしたら、これはシムの香草なのだろうかな?」
「ええ。城下町から買ったものです」
「なるほど……なんとなく、儂の肉体がこの香りを欲しているように感ぜられるのだよ」
そのように言って、モガ=サウティは少し遠い目つきをした。
「昔日に、サウティでもトトスとともに暮らすようになったとき、儂は思ったのだ。このトトスというものは妙に親しみが感じられるし、男衆はみな苦もなく乗りこなすことができる。それはもしかしたら、儂らの中に眠るシムの血がそうさせるのではないか、とな」
「ああ、森辺の民にはシムとジャガルの血が流れているのかもしれない、というお話ですね? 確かにトトスというものは、シムの民がとりわけ巧みに扱えるそうですね」
「うむ。森辺には、いくばくかのシムの言葉や習わしも残っておるようだしな。ジャガルの黒き森を故郷としながら、そのようにシムの習わしが伝えられているということは、やはりシムの血が入っているという証左なのやもしれん」
モガ=サウティは、ますます透き通った笑みを浮かべる。
それはどことなくジバ婆さんを思い出させる笑い方であった。
「儂は70の齢を数えるが、黒き森の時代は知らぬ。儂が生まれる10年前に、黒き森は燃えてしまったからな。……儂らの祖は黒き森でシムとジャガルの血が合わさって生まれ、その子たる儂らはセルヴァの領土でギバを狩っている。思えば、不思議な巡り合わせであることだ」
「言ってみれば、それはシムとジャガルとセルヴァを繋ぐ存在たりえる、ということなのではないでしょうかね。仲間外れのマヒュドラには申し訳ないですが、俺はそんな風にも感じたりします」
昼間のナウディスとの会話を思い出しつつ、俺はそのように答えてみせた。
そんな俺を見返しながら、モガ=サウティはまた微笑む。
「ほんの数ヵ月前までは、儂らはどの王国の民とも繋がってはおらなんだ。どこの民とも、おたがいを忌避する悪縁しか結ぶことはできなかったのだ。それを正しい形に結びなおしてくれたのはお主たちなのだよ、アスタ」
「はい。ドンダ=ルウやガズラン=ルティムやアイ=ファたちのおかげですね」
「ならば、それらの者たちをまず結び合わせたのがお主なのだろうな、アスタよ」
モガ=サウティは遠巻きにこちらをうかがっていた幼子たちを招き寄せ、その小さな頭にしわ深い手を置いた。
「そして今、お主はその輪にサウティをも取り入れてくれた。感謝しているぞ、アスタよ」
「それも、ダリ=サウティが血の縁を持たないルウやファの家を頼ってくれたからですよ」
煮詰まったスパイスを特製の大皿に移し替えながら、俺はモガ=サウティに笑顔を返す。
「サウティの友になることができたら、俺はとても嬉しく思います。……このあとはまた晩餐の準備に取りかかるので、楽しみにしていてね?」
後半の言葉は幼子たちに向けたものだった。
幼子たちは、笑顔で「うん!」とうなずいてくれた。
◇
狩人たちが森から帰還したのは、それから2時間ばかりが経過した頃合いであった。
太陽はずいぶんと西側に傾きかけていたが、それでも日没にはまだ1時間近くも残されていただろう。
狩人たちは、驚きと歓呼の声に迎えられることになった。
森の主を仕留めたわけではない。その代わりに、尋常でない数のギバを携えて凱旋してきたのである。
「こやつらを狩るのに力を尽くしてしまったので、主めに出くわさぬ内に帰ってきた。毛皮の始末もつけねばならんしな」
自分の体重よりもずいぶん重そうなギバを抱えたアイ=ファがそのように述べる。11名の狩人で、合計6頭のギバを運搬してきたのだ。他の者たちは、ふたりがかりで棒にくくった巨大なギバを抱えている。
しかし話を聞いてみると、これは血抜きに成功したギバと毛皮が無事なギバであり、それ以外のギバは角と牙をもいで打ち捨ててきたらしい。
「それに、サウティの分家や他の眷族の取り分もあるのだからな。全部で何頭のギバを仕留めたのか、途中で馬鹿らしくなって数えるのをやめてしまった」
「俺は数えていたぞ! 持ち帰ったギバは全部で18頭、打ち捨ててきたギバは13頭だ!」
そのように大声をあげたのは、我らがダン=ルティムであった。
「えい、俺はどうしてこのような時期に手傷を負ってしまっているのだ! 俺もみなと一緒に刀をふるいたかったぞ!」
「それではまさか、あなたがただけで31頭ものギバを狩ったと仰るのですか?」
一緒に狩人らを出迎えたミル・フェイ=サウティが愕然とした様子でつぶやく。
それを見下ろしながら、ドンダ=ルウが不機嫌そうに答えた。
「俺たちは、サウティの狩人らが追い立ててきたギバを仕留めたに過ぎん。サウティの狩人らが16名、俺たちが11名、全部で27名もいたのだから、何も驚くには値せんだろう」
「ですが、刀をふるった狩人は10名足らずであるのでしょう……?」
「それでも、全員の力があっての成果だ。だからこそ、角も牙も毛皮も肉も、みなで均等に分けることにしたのだ」
うるさげにドンダ=ルウは言い捨てる。
「それに、こんなやり口では生命がいくつあっても足りんだろう。数日の内に森の主めが姿を現さなければ、我らの力も尽きてしまう。まったく喜んでいられるような状況ではない」
傍目には全員活力がみなぎっているように見受けられるが、それでも相応の負担を強いられたのだろう。どんなに効率のよい狩り方であったとしても、27名で31頭というのは尋常ならぬ捕獲量であるのだ。
なおかつ、幾重もの罠を張り巡らされた狩り場の奥に待機していたアイ=ファとミダのもとにも、けっきょく別方向からギバの群れが押し寄せてきてしまい、刀をふるうことになったらしい。『贄狩り』の効果で我を失ったギバは危険であるが、追うのは苦手で迎え撃つのが得意なミダは、危なげなく何頭ものギバを狩ることができたそうだ。
「こんなにたくさんのギバを狩ったのは初めてなんだよ……?」
と、ミダは嬉しそうに下顎の肉を震わせていた。
自分の選択した『贄狩り』という行為が不幸な結果を招かずに済み、アイ=ファもほっとしている様子である。
アイ=ファとミダが力を合わせてギバの群れを撃退している姿を想像すると、何とはなしに俺も胸が熱くなってしまった。
と――そんなことを考えていると、俺のかたわらをすりぬけてアイ=ファのもとに駆け寄る者があった。
「アイ=ファ、大丈夫なのですか!? こんなにたくさんの血が流れているではないですか!」
その言葉の内容に、俺はギクリと振り返る。
アイ=ファに取りすがっていたのは、ユン=スドラであった。
アイ=ファはけげんそうに眉をひそめ、小柄な少女の青ざめた顔を見下ろす。
「大事ない。これは私でなくギバの血だ」
「ああ、そうだったのですか。申し訳ありません。思わず取り乱してしまいました」
自分の胸もとに手をやって、ユン=スドラは大きく息をつく。
その姿を見返しながら、アイ=ファはますます眉間に深いしわを寄せた。
「どうしてお前がそのように取り乱しているのだ、ユン=スドラよ? 昨日ルウ家の者たちが手傷を負ったときには、そこまで心を乱してはいなかったはずだ」
「ええ? それはもちろんルウ家は族長筋であり、すべての狩人は森辺の同胞でありますが、ファはスドラの友なのですから、どうしても心を乱されてしまいます」
感じやすい頬を赤らめつつ、ユン=スドラはそのように答えた。
「アイ=ファがその身に傷を負ってしまったら、わたしはスドラの家人が傷つくのと同じぐらい胸が痛んでしまいます。アイ=ファが明日からも無事に仕事を果たせるよう、わたしも祈っています」
「…………そうか。お前は気性の優しい人間なのだな、ユン=スドラよ」
低い声で、アイ=ファはそう言った。
「とんでもないことです」とユン=スドラは恥ずかしそうに微笑する。
それを横目に、ドンダ=ルウは「ギバどもを片付けるぞ」と宣言した。
◇
その日の晩餐は、主菜はシンプルにステーキとハンバーグ、汁物はタラパ仕立てのギバ・スープ、副菜は4種の野菜と茸の炒めもの、およびダイコンのごときシィマのサラダであった。
主菜と汁物に関しては、すでにその調理方法をルティムから習っていたサウティの女衆たちのさらなるスキルアップをはかるため、野菜料理に関しては物珍しさと滋養を意識してのチョイスであった。
野菜炒めで使用した野菜は、アリアを除けばズッキーニのごときチャン、ルッコラのごときロヒョイ、パプリカのごときマ・プラ、という城下町から仕入れたもので、茸も贅沢にシイタケモドキとキクラゲモドキを使用している。味付けは、タウ油と砂糖とチャッチ粉と、それに各種の香草で仕上げたオリエンタル風のあんかけだ。
ダイコンのごときシィマのサラダは、梅干のごとき干しキキをもとに作製したドレッシングで和えられており、さっぱり仕立てである。
そしてサウティとヴェラを除く4つの眷族には、人数分のギバ・スープが届けられることになった。
味付けはタラパとミャームーを基調にしたシンプルなものであるが、そちらにはアリアにチャッチにティノにネェノンという馴染みの深い野菜から、野菜炒めと同じく3種の物珍しい野菜を少量ずつ使用している。
これで少しでも、みんなに力を与えることができれば幸いだ。
「どれも美味だな。以前に城下町で食した料理よりも美味であるように思えるぞ、アスタよ」
そのようにのたまうダリ=サウティも、ようやく完全に熱が下がったとのことで、本日からは通常食に移行することになった。
その他の負傷者たちも、特に重傷の2名はいまだ挽き肉の汁物しかすすれなかったが、それ以外の4名は通常食と半々で食べられるぐらいには回復していた。
「サウティとヴェラの人間に限っていえば、あなたがたの料理が大いに慰めになっているようです、ファの家のアスタ」
晩餐の後、片付けの合間にミル・フェイ=サウティはそのように耳打ちしてきてくれた。
「フェイやドーンの者たちも、きっと同じ気持ちでいることでしょう。狩人ばかりでなくかまど番まで呼びつけることにどれほどの意味があるのかとわたしは疑問に思っていた部分もあったのですが、どうやらそれは恥ずべき心得違いであったようです」
相変わらずその表情は厳しく引き締まっていたが、ミル・フェイ=サウティの言葉は俺の気持ちを大いに安らがせてくれた。
そうしてその日は改めて話し合う議題もなかったので、早々にそれぞれの家に引き上げることになったのだが――アイ=ファやバルシャたちとヴェラの分家の敷居をまたごうとしたところで、背後から呼びかけられることになった。
「アスタ、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
ユン=スドラである。
俺は思わず返答に窮してしまい、アイ=ファのほうを振り返る。
アイ=ファは半眼になりながら「あまり遅くなるなよ」と言い捨てて、さっさと戸板の向こうに姿を消してしまった。
「どうしたんだい? 何か仕事の話かな?」
そうであってくれと念じながら、月明かりの下でユン=スドラと向かい合う。
「いえ、そういうわけではありません。ただ、アスタに御礼を述べておきたかったのです」
「御礼?」
「はい。アスタと行動をともにしているおかげで、わたしは実にさまざまなものを見ることができました。また、自分のような者でも同胞たちに力を与えることができるのだと知ることもできました。ずっとスドラの家にこもっているばかりでは、きっとこのような思いを手にすることもできなかったでしょう」
両手の指を組み合わせながら、ユン=スドラは熱っぽい眼差しで俺を見つめてくる。
「力を失っていたサウティの者たちが、自分たちのこしらえた食事を幸福そうに口にして、じょじょに力を取り戻していく。こんなに自分を誇らしく思えたことは、これまでにありません」
「うん、それは俺も嬉しく思っているよ」
「本当にありがとうございます。わたしにとって、アスタは希望そのものです。これからも、この身が朽ちるまでアスタにお仕えしたく思います」
「いや、ユン=スドラ――」
俺は言いかけたが、ユン=スドラに「いえ」とさえぎられた。
「そういう意味ではありません。あくまでひとりのかまど番として、という意味です。わたしなどがアスタの伴侶を願うのは不相応なことなのでしょうから」
ついにユン=スドラの口から「伴侶」の2文字が飛び出した。
背中に汗を感じつつ、俺はユン=スドラの笑顔を見つめ返す。
「でも、わたしは15になったばかりです。16か17になるまでは、婿を取れとせっつかれることもないでしょう。ですから、それまではアスタの伴侶として相応しい力をつけられるように自分を磨き続けたいと思います」
「ユン=スドラ」と今度こそ俺は声をあげようとした。
しかしそれも「いいえ」とさえぎられてしまう。
「わかっています。今のアスタの心の中に、わたしの居場所などないということは。それでもアスタが他の女衆を嫁に娶るまで、わたしはかすかな希望にすがって生きていきたいのです」
「ユン=スドラ……きみは、ライエルファム=スドラと――」
「いいえ。家長とは何も話していません。話さなくとも、アスタの心はわかります。わたしほどアスタの心を追っている人間はいないのでしょうから。……たったひとりを除いては、ですが」
そのように言って、ユン=スドラはにこりと微笑んだ。
「あんなに素敵な女衆が相手では、わたしに勝ち目などはないのでしょう。それでも、アスタを思う気持ちを止めることはできそうにないのです」
「ユン=スドラ……」と俺は馬鹿のように繰り返した。
「だけど、他の女衆には絶対に負けません。それだけの力を身につけてみせます。ですから、わたしがこの先もおそばにあることをどうか許してやってください。……わたしは、アスタを愛しているのです」
笑顔のまま、ユン=スドラは俺から遠ざかる。
「もしもアスタが意中の相手と結ばれるときは、心の底から最大限の祝福を送ります。その後でひと晩大泣きしてから、わたしはスドラのために伴侶を探します。それでもファとスドラは、永久に変わらず友であり続けるでしょう」
闇の向こうに、ユン=スドラの姿は消え去った。
俺は青白い月を見上げ、胸の中に渦巻く感情をすみずみまで噛みしめてから、ヴェラ家の戸板を叩いた。
燭台をかざしたヴェラの女衆に、昨日と同じ部屋に導かれる。
アイ=ファは寝具の上で、こちらに背を向けて横たわっていた。
今日はアイ=ファが壁際だ。俺は無言のまま、そのかたわらに身を横たえる。
ひさびさに『贄狩り』を行ったため、アイ=ファの身体は蠱惑的なまでに甘い香りに包まれていた。
「戻ったのか、アスタ」
やはりアイ=ファは眠ってなどいなかった。
天井の梁を見上げながら、俺は「ああ」と応じてみせる。
「私に何か言っておくことはあるか、アスタよ?」
「そうだな。一言だけ告げておくべきだろうと思う」
「うむ」
「ユン=スドラは、何もかもわきまえていたよ。その上で、俺の気持ちを尊重したいと言ってくれた」
「……そうか」と壁を向いたまま、アイ=ファはつぶやく。
「あの女衆は、ずいぶん立派な性根をしているな」
「うん、そうだな」
「あのような女衆を伴侶とする者は、またとなき幸福を手にすることができるであろう」
「うん、そうだと思うよ」
アイ=ファの香りと体温をすぐそばに感じながら、俺はまぶたをそっと閉ざした。
「ユン=スドラが伴侶を得るときは、俺も最大限の祝福を送りたいと思う」
アイ=ファはやはり「そうか」としか言わなかった。
そうしてサウティの集落における2度目の夜は、とても静かに過ぎ去っていった。