サウティ家の受難④~夜~
2016.3/30 更新分 1/1
そうしてサウティ家における晩餐はつつがなく終了され、食器や鉄鍋などは余所から集まってきた女衆らの手によって片付けられた。
3名の幼子たちはそれぞれの部屋に戻らされて、広間にはダリ=サウティとモガ=サウティ、それに客分たる狩人とかまど番だけが取り残される。
「それでは、今日の狩りについて、もう少し詳しく話を聞かせてもらいたいのだが。実際にあの主めと対峙して、みなはどのような思いを抱いたのだろうか?」
「あー、あいつは本当にすげーギバだよな。俺と親父とダルム兄が3人がかりで仕留められなかったギバなんて初めてだよ!」
ダリ=サウティの問いかけに、ルド=ルウが率先して答えを返す。
「ジーダとバルシャの矢だってぶすぶす刺さってたし、アイ=ファやガズラン=ルティムの刀だって首やら背中やらを叩き斬ってたし、どうしてあれでくたばらねーんだろ」
「あれは毛皮も脂も肉も分厚くて、なかなか矢や刀も急所にまで届かないのだろう。まるで固い地面にでも刀を突きたてているような手応えであったしな」
そのように答えたのは、晩餐の間ずっと静かにしていたアイ=ファであった。
その言葉を受けて、ドンダ=ルウが「ルド」と呼びかける。
「明日からは、貴様もバルシャの組に入れ」
「え? 何でだよ! 弓なんてふたりもいりゃあ十分だろ? ていうか、弓なんて刀以上に効いてなかったじゃん!」
「それは、狙う場所が悪かったせいだ。明日からは、あいつの右目だけを狙え」
「右目?」
「ああ。あいつは左目を失っていた。右目を潰せば、かなりの動きを封じることができる」
「本当か? 俺たちと対峙したときには、両目ともそろっていたはずだが」
ダリ=サウティが発言すると、ドンダ=ルウは「ああ」とうなずいた。
「まだ新しい傷で、しかもあれは刀傷だった。おそらく昨日までにサウティの狩人らがつけた傷なのだろう。あれは、サウティの手柄だ」
「……そうだとしたら、俺たちも少しは報われたな」
「だから、最初にその弱みをつく。目を奪えば、いっそうギバ寄せやギバ除けの実を有効に使うことができるだろう」
「ちぇーっ! どうせだったら、刀で仕留める側に回りたかったなー。ダン=ルティムだって、明日は自分も刀をふるいたいって言ってたぜー?」
「馬鹿を抜かすな。ひとりひとりが自分の仕事を果たさない限り、あいつを仕留めることはできねえ。ギバを嗅ぎわける鼻も、目を潰す弓矢も、この際には一本の刀より重要なんだよ」
そう言って、ドンダ=ルウはぐびりと果実酒をあおった。
「どのみち、貴様の細腕でふるわれる刀なんぞでは、あいつの生命にまでは届かねえだろう。わかったら、黙って弓の準備をしておけ」
「何だよー。だったらアイ=ファなんて、俺より細腕だぜ? アイ=ファにも弓をまかせるのか?」
「アイ=ファは明日からギバ寄せの実を扱うことになる。それじゃあ身を潜めて矢を放つこともできねえだろうが?」
その言葉に、アイ=ファがきらりと青い瞳を光らせた。
「ドンダ=ルウよ、その件に関して、ひとつ提案があるのだが」
「何だ、貴様もロクでもねえことを言いだしそうだな」
「ドンダ=ルウにとってはそうかもしれない。……所定の場所にギバ寄せの実の罠を張ったら、その後はこの身にもギバ寄せの香りを纏おうかと思うのだが、どうであろう?」
俺は思わず驚きの声をあげてしまいそうになった。
ドンダ=ルウは、静かに燃える目でアイ=ファをねめつける。
「こんな大勢の狩人がいる場で、貴様は『贄狩り』をしようってのか……?」
「そうだ。ギバ寄せの実の香りを嗅いだギバは正気を失い、凶暴さを増してしまうので、本来であればこのような際に『贄狩り』をするべきではない。ギバ寄せの実の香りは人間の匂いと混ざり合うことで、いっそうギバを興奮させてしまうものであるらしいからな」
「だったら、そのような真似は――」
「いや、最後まで聞いてくれ。晩餐の前に、ダン=ルティムとラー=ルティムが言っていたのだ。あの主めは最初から怒りの臭いを発していたとな。そうであるからこそ、あの主めは大勢の人間を恐れることもなく、あのように自分から突進してくるのだろう。ギバ寄せの香りを嗅ぐ前から、あの主めは正気を失ってしまっているのだ。……ならば、『贄狩り』を行っても危険の度合いに変わりはないように思う」
「…………」
「そして、どれほど入念に罠を仕掛けても、けっきょくは今日のように正面からぶつかることにもなりかねない。そのときに、私がギバ寄せの香りを纏っていれば、あの主めの動きを読むことも容易くなるであろう」
「だけどそれって、あいつが真っ直ぐアイ=ファばっかりを追い回すってことだろ? さすがに危ないんじゃねーか?」
ルド=ルウが言うと、アイ=ファは「いや」と首を横に振った。
「私は逃げに徹すれば、そうそうギバにも追いつかれたりはしない。事前に目を奪うことができれば、なおさらにな。危険を感じたら、すぐに角の届かぬ木の上に逃げる」
「あいつだったら、どんな木でも押し倒しちまいそうだけど」
「そのときは別の木に飛び移る。確かに私はこの中でもっとも刀をふるう力が弱いのだろうから、そちらのほうが役に立てると思うのだ」
ドンダ=ルウは、しばらく無言であった。
他の狩人たちも、ドンダ=ルウの決定を待つかのように口を閉ざす。
しかし、しばらくの後にその静寂を破ったのは、ドンダ=ルウのもうひとりの息子であった。
「別にかまわないだろう。そうして自分の生命を軽んじるのが、こいつのやり方なのだ」
ダルム=ルウである。
狼のごとき眼光を持つルウ家の次兄は、その鋭い眼差しでアイ=ファを見据えていた。
「そしてルウの狩人は、決して生命を軽んじない。主めの牙がこいつの身体をえぐる前に、俺たちが仕留めればそれで済む話だ」
「うーん、ダルム兄が言っても説得力はいまいちだよな。ダルム兄だって、重んじるのは他人の生命ばっかりじゃん? いっつも他人を守るために自分が手傷を負ってるしよー」
茶化すようにルド=ルウが言ったが、ダルム=ルウはアイ=ファから視線を外さなかった。
それを静かに見返しながら、アイ=ファが口を開く。
「私は生命を軽んじているつもりはない。自分にとって、最善の道を選んでいるつもりだ。……そして、ルウ家の狩人たちも力を尽くしてくれるのならば、どのようなギバでも討ちもらすことはないだろうと信じている」
「……貴様は本当に、あの主に追われても逃げきる自信があるのだな?」
底ごもる声でドンダ=ルウが問うた。
「むろんだ」とアイ=ファは大きくうなずく。
「ならば、それも計略に練りこもう。それは、貴様にしか果たせぬ仕事だ」
ドンダ=ルウは、常よりも力のこもった声でそう言った。
「ダリ=サウティよ。サウティには、ギバ除けの実を使ってギバを追い込む技があるのだな?」
「ああ。いわば『贄狩り』の対をなす技だ。その身にギバ除けの香りを纏い、望みの場所にまでギバを追い立てる」
「ならば、サウティに残っている狩人たちは全員がギバ除けの香りを纏い、ギバを狩り場にまで追い立てろ。ダン=ルティムとラー=ルティムがその助けとなる」
言いながら、ドンダ=ルウはルド=ルウのほうに視線を移した。
「追い立てられてきたギバどもは、まずは貴様たちが弓と矢で応じろ。主めを除くギバどもにはせっかくの罠を荒らされないよう、できるだけその場で仕留める必要がある」
「ああ、主の他にもどっさりギバが追い立てられてくるんだろうなー。そいつはなかなか楽しい仕事かもしれねーや」
「それで討ちもらしたギバどもは、俺とダルム、それにガズラン=ルティムとラウ=レイで始末をつける。主めが現れるまで、貴様たちの仕事はないと思え」
その言葉は、アイ=ファとミダに向けられたものだった。
「主めが現れたら、俺たちは胴体でなく足を狙う。それで少しでも動きを鈍らせることがかなえば、仕掛けた罠もいっそうの力を持つだろう。……しかし、その罠をも打ち破られたときは、貴様たちの出番となる」
「うむ」
「うん……」
「真正面からぶつかって吹き飛ばされなかったのは貴様だけだ、ミダ。明日は棍棒に鉄の杭を植えて、それで主めの頭を狙え。それならば、主めの頭蓋を叩き割ることもできるかもしれん」
「うん……ミダは頑張るんだよ……?」
「しかし、あの主めはどこまで傷つければ動きが止まるのかもわからん。足を折られても頭を割られても、変わらず暴れ続けるかもしれん。そのとき、初めて貴様の覚悟を懸けることになる」
ドンダ=ルウの双眸が、アイ=ファひとりに固定される。
「これだけの陣を張って、なおも主めが生き永らえたときは、貴様が主めを再び俺たちのもとに導くのだ。そのときこそ、俺たちの刀は主めの生命に届くだろう」
「うむ」とアイ=ファは沈着きわまりない様子でうなずいた。
それを見据えて、土瓶の果実酒をあおってから、ドンダ=ルウは言った。
「そうして全員が十全に力をふるえば、必ずや森の主めを討ちとることはできる。誰の生命を損なわれることもなく、俺たちは森の主を討つ。森辺の狩人の誇りに懸けてな」
◇
「何か言いたそうな顔をしているな、アスタよ」
四畳半ていどの小さな部屋で、いつものように壁にもたれたアイ=ファがそのように呼びかけてくる。
ヴェラの分家の一室である。一枚壁を隔てた向こう側では、バルシャとジーダが寝支度をしているはずであった。
アイ=ファの正面に腰をおろしながら、俺は「うん……」と力なくうなずいてみせる。
「何だ。言いたいことがあるのならば、それは隠さず口にせよ。それが私たちの間に交わされた約定であろうが?」
「いや、何か言いたいというよりは、自分の立場のしんどさを噛みしめているだけなんだけどな」
「よくわからんな。何をそのように気に病んでいるのだ?」
「何を気に病むって、どんなに危険な状況でもアイ=ファを信じてただ待つしかないっていう、この現状をだよ」
不思議そうに、アイ=ファは小首を傾げる。
本当に俺の心境など理解できていないような様子である。
「アイ=ファが自分から言い出したことなんだから、本当に自信があるんだろうなとは思う。お前が自分の生命を軽んじるような人間じゃないってことは、俺が一番よくわかっているつもりなんだから」
「うむ」
「だから、むやみに心配をしてしまうのは、お前を信頼していない証拠ってことになってしまうんだろう? でも、信頼していたって心配なものは心配なんだよ」
「やっぱりよくわからんな。家人を心配するのは、当たり前のことだ」
アイ=ファは肩をすくめつつ、長い髪をほどきにかかった。
「信頼しながら、心配すればいい。それが家で狩人の帰りを待つ者の役割だ」
「ずいぶん簡単に言ってくれるなあ」
俺は深々と溜息をつき、そんな俺を見つめながらアイ=ファは微笑した。
「それでもお前はそうして私を信頼し、心配してくれている。私は十分に満足だし幸福だぞ、アスタよ」
「ああそうかい。だったら『贄狩りなんてやめてくれ』という言葉を必死に呑みこんでいる甲斐もあるよ」
「うむ。そのような言葉はとっとと胃の腑に落とし込んでしまうがいい」
笑いを含んだ声で言い、アイ=ファはこぼれ落ちる金褐色の髪を優雅にかきあげた。
「今日もアスタの料理で強き力を得ることができた。次に相対したときには、必ずや森の主めを仕留めてみせよう。ドンダ=ルウらの力があれば、何も恐れる理由はない」
「うん。よく考えたら、アイ=ファがドンダ=ルウたちと一緒に狩りをするなんてすごい話だよな」
「うむ。ルウ家の狩人がどれほどの力を有しているものか、今日は私もまざまざと感じ取ることができた」
そのように言って、アイ=ファは満足げな吐息をもらす。
「ガズラン=ルティムもルド=ルウも、ダルム=ルウもラウ=レイも、みな卓越した力を持つ狩人だ。その中でも、やはりドンダ=ルウは――やはり私の父にも劣らぬ狩人なのだろう。あのような傑物を族長として仰ぐことができる身を誇らしく思う」
「ふうん。その話を聞いていると、小さな氏族の出なのにそこまですごい力を持っていたアイ=ファの父親のほうに感心してしまうけどな」
「当たり前だ。私の父ギルは森辺で一番の狩人であったのだからな」
そんな子供っぽいことを言うアイ=ファが、俺には何だかとてつもなく愛おしかった。
何にせよ、アイ=ファの側には何の迷いも恐れもないらしい。
危険な『贄狩り』を嫌っているはずのドンダ=ルウさえ、アイ=ファの言葉を退けようとはしなかったのだ。
それだけドンダ=ルウもアイ=ファの力量を信頼しており、なおかつ、そこまでの手を尽くさねば森の主を討ち取ることは難しい、と考えているのだろう。
ならば俺も、アイ=ファやドンダ=ルウたちを心配しながら信頼する他なかった。
俺にできるのは、美味しい晩餐を準備してアイ=ファたちの苦労をねぎらうことだけなのだ。
「では、明日に備えて眠ることにするか」
「そうだな」と俺はうなずき返そうとした。
すると――窓の外から、時ならぬ喧騒の気配が伝わってきた。
いや、喧騒といっては言いすぎであろうか。それは、押し潜めた声で言い争う男女の声であるようだった。
一瞬おたがいの目を見交わしてから、俺とアイ=ファはそっと窓のほうに忍び寄る。
青白い月明かりの下、隣の家との間のスペースで、長身の男衆とほっそりした女衆が向かい合っていた。
俺の視力では、そのシルエットぐらいしか確認することはできない。
しかしその声から察するに、それはダルム=ルウとシーラ=ルウであるようだった。
「だから、お前は何が言いたいのだ? 文句があるならば、はっきりとそれを口にするがいい」
不機嫌そうなダルム=ルウの声。
それに応じるシーラ=ルウの声は、切なげであり悲しげであった。
「文句などではありません。わたしはただ、ダルム=ルウの無事を願っているだけです」
「そのようには聞こえなかった。俺などルウの集落に戻ってしまえと言わんばかりの言い草だったではないか?」
「そんなことは……ただ、他者ばかりでなく自分の身も大事にしてほしいと、そのように述べただけなのです」
「……俺が自分の身も守れぬ未熟者だと言いたいのか?」
「違います。でも、ダルム=ルウはかつてシンを守るためにも手傷を負ってしまいましたし……」
「またその話か。いつまでそんな昔のことを蒸し返すつもりなのだ」
ダルム=ルウの声が、いっそう苛立ちの響きを帯びる。
が、シーラ=ルウのほうに詰め寄りかけたダルム=ルウは、そこで思いなおしたように動きを止めた。
「シーラ=ルウ、お前は本家の人間に文句をつけるような気性ではないはずだ。それぐらいのことは、俺にもわかる」
「……はい」
「しかしお前は、ときたま意味のわからないことを言って、俺を苛立たせる。その理由が、俺にはわからないのだ」
「…………」
「お前はきっと、気が小さいから言葉を飾ってしまうのだろう。本家だの分家だの考える必要はないから、言いたいことがあるならもっとわかりやすい言葉で語れ」
不機嫌そうな調子は相変わらずであったが、それは普段のダルム=ルウからはあまり感じられない響きをも含んでいるような気がした。
何かをもどかしがっているような、あるいは困惑しているような――そんな響きである。
そして次の瞬間、その声ははっきりと驚愕の響きを帯びた。
「何だ、何を泣いているのだ、お前は?」
俺の視力では、シーラ=ルウの表情までは見て取れなかった。
シーラ=ルウは、ただ静かにダルム=ルウの顔を見上げているばかりである。
「すみません。わたしはただ……少し、嬉しくなってしまっただけなのです」
「嬉しいだと? 何を嬉しがることがあると言うのだ?」
「いえ……ダルム=ルウが、わたしなどの言葉を真剣に聞き、なんとかその意味を汲み取ろうと懸命になってくれているのが伝わってきて……すみません、わたしも上手く言葉で伝えることはかなわないようです」
「さっぱりわからん。いいからその涙を止めろ」
「はい」とうなずきながら、シーラ=ルウは涙をぬぐったようだった。
ダルム=ルウは、がりがりと頭をかきむしっている。
「とにかく俺は、自分の生命を軽んじているつもりはない。俺やラウ=レイが手傷を負ったのは、たまたま森の主めとまともにぶつかる位置にいたからだ。ルドやガズラン=ルティムが同じ位置にいたら、あいつらが手傷を負うことになっていただろう」
「はい。ダルム=ルウの言葉を信じたいと思います。……そして、ダルム=ルウが明日も無事に帰ってくることを心から祈っています」
「そんなのは、森辺の女衆として当たり前のことだ」
ダルム=ルウはふてくされたような声で言い、それから深々と溜息をついた。
ダルム=ルウが溜息をつく姿などを見るのは、たぶん初めてのことであったと思う。
「もう泣いてはいないな? だったらとっとと部屋に戻れ。いいかげん、ヴィナだって不審に思っている頃合いだ」
「はい」
そうしてふたつの人影は、俺たちの視界の外に歩み去っていった。
窓の格子から身を離しつつ、俺は再びアイ=ファと目を見交わす。
「えーと……不本意ながらも覗き見の罪を犯してしまったな?」
「べつだんこちらも気配を殺していたわけではないのだから、罪になどならん。気づかぬほうが悪いのだ」
そのように言って、アイ=ファは口をへの字にしてしまった。
「やはりあの次兄めは心の修練が足りていない。シーラ=ルウのような女衆に涙を流させるなど許されぬことだ」
「ああ、アイ=ファはシーラ=ルウがお気に入りなんだっけ」
「うむ。私が男衆であれば、ああいうつつましやかな女衆を――」
と、そこで口をぴたりと閉ざし、俺のほうをにらみつけてくる。
「何だよ? 俺は何も言ってないぞ?」
「……やかましい」と言い捨てて、アイ=ファはその場にどかりと腰を下ろした。
で、その勢いのまま、ごろりと横になってしまう。
「もう眠る。お前も休め。そこの寝具はお前が使うがいい」
「え? いやいや、アイ=ファのほうこそ今日は大変な目に合ったんだから、寝具でぐっすり休んでくれよ」
この部屋はこぢんまりとしていたが、それでもひと組分だけ寝具が準備されていたのだ。
懐かしきルティム家を思い出させるシチュエーションであるが、さすがにこのたびは同衾することもできないだろう。アイ=ファが同じ心情であることにほっとしつつも、家長を差し置いて寝具を使用する気持ちにはなれなかった。
「私はどうということもない。お前のほうこそ、今日は普段以上に力を使ったのであろうが?」
「狩人の仕事に比べればどうってことはないさ。家長にお譲りいたしますよ」
「くどいな」と壁のほうを向いたまま、アイ=ファは横目で俺をにらみつけてくる。
「家長の命が聞けぬのか? 寝具は、お前が使え」
「そっちこそ強情だなあ。アイ=ファだって、寝具はお気に召していたはずじゃないか」
「……そうか」
「うん」
「そうだな。私が間違っていたのかもしれん」
アイ=ファはがばっと身を起こし、まだ立ったままであった俺と再び相対した。
で、おもむろに俺の胸ぐらをひっつかむや、ずかずかと部屋を横断して、寝具の上に座り込む。
胸ぐらをつかまれた俺も、自然にその場に座らされることになった。
「ア、アイ=ファ?」
「ルティムの家にて、私とお前は同じ寝具で休むことになった。これまで通りにふるまうべきなら、この夜もそれにならうべきなのだろう」
「いやいやいや! 無理にそんなことをするべきではないだろう!」
「何が無理だ? 私とお前の間に結ばれた絆に変わりはない。ならば、おたがいを遠ざけるほうが間違っているのだ」
そのように申し述べて、アイ=ファは寝具に身を横たえた。
そのなめらかな背中のラインを見つめつつ、俺は動悸が止まらない。
俺の背後は壁なので、この窮地から脱するにはアイ=ファの身体をまたぐほかないのだが――そんなことは、きっとこの意固地な家長が許してくれないだろう。
「アスタよ」
「はい!」
「とっとと眠れ。私たちには休息が必要なのだ」
「はい……」
俺は観念して、そろそろと身を横たえる。
壁際に身を寄せれば、ぎりぎりアイ=ファに触れずに済む距離だ。
直立の姿勢で横たわり、じっと天井の梁を見つめる。
ほんのわずかな距離を置いて、アイ=ファの体温がうっすらと伝わってくる。そのほのかな温もりが、死ぬほど俺を落ち着かない心地にさせた。
「……駄目だな」
「え?」
アイ=ファがぐりんとこちらに向き直る気配があった。
真上を向いたまま、俺は横目でそちらをうかがう。
金褐色の髪を頬にからませたアイ=ファが、子供のように唇を噛みながら俺を見つめていた。
「背中を向けているほうが落ち着かない。マダラマの大蛇とでも一緒に寝ているかのようだ」
「俺はマダラマ扱いか」
「そうでないことを確認するために、こうしてお前の姿を目に収める必要があるのだろう」
「……目を開けたままだと眠れないぞ?」
「気持ちが落ち着いたら眠る。お前は気にせず先に眠れ」
「そんなじっくりと見つめられたまま眠れるか! ……なあ、やっぱりおたがいが安らかに眠れるように最善を尽くしたほうがよくないか? 俺もアイ=ファも大事な仕事を控えた身なんだし」
眼球が疲れてきたので、俺を思い切って首ごとアイ=ファのほうを向いた。
20センチばかりの距離を置いて、アイ=ファの秀麗な顔がいっそうくっきりと俺の網膜に映り込む。
「いや……やっぱりこれが正しい姿であったのだ」
と、アイ=ファはふいに口もとをほころばせた。
心なし、肩などにこもっていた力も抜けた様子である。
「お前の存在を身近に感じるのは幸福なことだ。その心情には、欠片ほどの変わりもない」
「……うん」
「いささか胸苦しい圧迫感を感じるが、この胸苦しさを含めて、お前の存在を大事に思う」
胸苦しさ、か。
アイ=ファの心臓も、俺と同じようにどくどくと鼓動を速めてしまっているのだろうか。
そんなことを想像したら、胸苦しいどころか息が詰まりそうなほどであるのだが――俺は、思い悩むのをやめた。
うかつに触れることはできない。だけど、できるだけ身近なところにいたい。俺たちは、はたから見たらとうてい意味のわからない、複雑で危うい場所に自分たちの気持ちを落とし込んでしまったのだ。
可能な限り全身から力を抜いて、俺はアイ=ファに笑いかけてみせた。
「それじゃあ、心安らかに眠れるように努力してみよう。どちらが先に眠れるか競争だな」
「何を言っているのだ、お前は」
くすりと小さく笑ってから、アイ=ファは半分だけまぶたを閉ざす。
俺は身体ごとアイ=ファに向き直り、同じようにまぶたの力を抜く。
まだしばらくは眠れそうになかったが、俺たちは確かに普段以上の幸福感を共有していた。