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異世界料理道  作者: EDA
第二章 半人前の料理道
31/1677

③月下の幕間劇(下)

2014.10/2 一部文章を修正。ストーリーに変更はありません。

2014.10/29 誤字を修正。

「ちょっと、ヴィナ=ルウさん……!」


 パニックのあまり、思わず敬称をつけてしまった。

 その間にも、なめらかな皮膚が俺の五体にぬるぬるとからみついてくる。

 ものすごく柔らかくて、弾力があって、しかもその芯にしっかりとした力強さを有した、女性の肉体が、である。


「ルウの家に、婿入りなんてしないで……レイナは可愛い娘だけれど、わたしだって、そんなに悪い女じゃないでしょう……?」


 いや、悪いです! まったく別の意味ででしょうけども!

 毛皮の敷布に押し倒されて、全身をまさぐられていく。指先ではなく、身体を使って。身体が、身体をまさぐっていく。俺の肉体は、その柔らかくも乱暴な感触に、今にも四散してしまいそうだった。


 恐怖とよく似た感情が、俺の背筋を凍りつかせている。

 そして、その裏側には、きっとまったく正反対の激情がこびりついている。


 苦しいほどに心臓が脈打ち、だんだんと息が詰まっていく。

 香草とは違う甘い香りが、脳細胞を麻痺させていく。


 これはもう、火のついたライターを掲げて、ガソリンの海を泳いでいるようなものだ。

 ひとたびその炎が燃えひろがったら――たぶん、俺は俺でなくなる。


「わたしもルウ家の女だから、これまで色んな男衆と見合わされてきたわ……でも、そんなのは全部、打ち捨ててきたの……婿をとったり、嫁に入ったりしてしまったら、もう、この森辺から永遠に出られなくなってしまうだろうから……」


 熱い息とともに、言葉が俺の咽喉もとに吹きかけられる。


「わたしは、ここで終わりたくない……ジバ婆は、あなたの料理を食べて、逆のことを思ったみたいだけど……わたしは、アスタの料理を食べて、ここじゃない別の世界を感じたわ。わたしはそこに、行ってみたい……あなたと、あなたの世界に行きたいと思ったのよ……」


 ふっ――と、熱と感触が遠ざかった。

 ヴィナ=ルウが、身体を起こしたのだ。

 しかし、それは終わりに向けての前準備でしかなかった。


「わたしを、あなたのものにして……そして、あなたはわたしのものになって……」


 燭台の、オレンジ色の火に灯されて。

 ヴィナ=ルウは、胸もとに巻きつけられた布地に手をかけた。


 ほとんど霧散しかけていた理性の粒子をかき集め。

 俺は下から、その手首をひっつかむ。


「駄目ですよ! 未婚の女性が裸身をさらすのは禁忌なんでしょう? それは――駄目です」


 色の淡い鳶色の瞳が、じいっと俺を見下ろしてくる。

 炎の色を反射させて、ゆらゆらと揺れるその瞳は……何だか、泣いているようにも見えてしまった。


 実際のところは、わからない。

 ただ、ヴィナ=ルウは俺の指をもぎ離そうともせず、その唇を開こうともせず、静かに俺を見つめ続け――


 やがて、するりと俺の上からいなくなった。


「……わたしでは、魅力が足りなかったかしら……」


 横座りになり、俺に半分背中を見せるような格好で、目線を下のほうに落とす。

 俺はゆっくり身を起こしつつ、「魅力とかそういう話ではないと思います」と応じた。


「俺は自分がどういう理由で、どういう方法でこんな見も知らぬ場所に飛ばされてきたのか、全然わかっていないんです。もしかしたら、そんな風に思い込んでるだけの狂人であるかもしれないんです。そんな身の上で、果たせるかもわからない約束をしたり、誰かと深い仲になったりってのは……やっぱり、無理ですよ」


「……だから、あのアイ=ファを娶る気にもなれなかったのぉ?」


 ようやく落ち着いてきた心臓が、またおかしな感じでバウンドする。

 なんて心臓に悪い夜だろう。


「どうなんでしょうね。よくわかりません。あいつのことは、とても大事に思ってますけど」


「正直ねぇ。……わたしに死ねと言ってるみたい……」


「そ、そんなつもりはまったくないです」


「そうかしら。……森辺で20にもなって未婚の女衆なんて、よほど性根が腐ってるか、家の害にしかならない女だけなのよぉ……」


 と、その指先が恨めしそうに毛皮をむしる。


「そんなおかしな目で見られてまで守ってきた操を、じゃけんに突き返されるなんて……あああ、本当に死にたくなってきたわぁ……」


「あ、あの、ヴィナ=ルウ……?」


「……これであなたがもしレイナの婿にでも入ってきたら、わたしは二人とも殺してしまうかもしれないわねぇ……」


 実に恐ろしいことをいとも容易く言ってのけながら、ヴィナ=ルウは果実酒の土瓶を手にゆらりと立ち上がった。


「そしてアイ=ファを娶るようなことがあったら、どうしようかしらぁ……あの娘が相手じゃあ、わたしのほうが殺されてしまいそうだし……やっぱりあなたを誘惑して、あなたと一緒に殺してもらうのが一番幸福な道かしらねぇ……」


「いや、ですからその……」


「家の戸を3回叩いて相手を呼びだすのは、契を結びましょうという合図なの」


 するりするりと滑るような足取りで、ヴィナ=ルウは玄関口に戻っていく。


「了承する場合は扉を開けて、拒否する場合はそのまま無視する。それが、森の掟なのよぉ」


 履物を履き、扉に手をかけて、半分その肢体を外に出しながら、俺に横顔を向けてくる。


「あなたはわたしを受け容れた。だから、わたしはあきらめないわぁ。……それではよい夢を、アスタ。契の約束を忘れないでねぇ……」


 カタコトと扉が閉められて、静寂が回帰する。


 それでようやく、俺は脱力することができた。


「ああもう、なんてお姉さんだよっ! いまいちキャラがつかめねえし! ほんとに、勘弁してくれぇ……」


 たらふく食べたギバ肉のカロリーを根こそぎ強奪された気分だ。

 俺は敷布にへたりこみ、まだいくぶん桃色がかっている頭を振って正気を呼びさます。


(色事にうつつを抜かしてる場合じゃねえんだよっ! 俺は今、料理人としての誇りがズタボロで……!)とか、無理矢理にでも思考をシリアスな方向に引き戻そうとした、その瞬間。


 今度は、壁を、ドンと叩かれた。


(今度は何だよ!)


 先ほどの教訓を活かし、心の中だけで返事をする。

 だけど、いま鳴ったのは、壁だ。

 俺がいるのとは反対側、燭台を灯していないほうの、窓のある壁だ。


 扉を3回ノックが契の合図だったら、壁ドン1回は何の合図だ? 食事を持ってこいってことか? イチャイチャしてんじゃねえっていう抗議のアピールか?


 いや、何にせよ、独立した建造物の壁が叩かれたのである。炊事小屋は裏手のはずだし、屋外にたたずむ何者かが、手か足で壁を叩く。そんな行為に、何の意味がある?


 窓の外は闇に包まれたまま、誰の姿を浮きあがらせようともしない。


(もう知らん! 用があるなら声をかけろ声を!)


 俺はあらためて、大の字に寝転がった。

 それ以降は戸板も壁も鳴らぬまま、夜の静寂が降りてくる。


 すると――会話の声が、うっすらと聞こえてきた。

 やはり屋外に誰かいるのか。


 内容まではわからないが、何かを言い争っているかのような声だ。

 片方は男で、片方は女。

 ひょっとしたら、ヴィナ=ルウがここから出ていく姿を何者かが見とがめて詰問でもしているのだろうか?


 だったらなおさら、関わり合うべきではない。俺はまぶたも閉ざしてしまい、寝られるものなら寝てしまおうと思った。燭台は火を灯したままだが、アイ=ファが戻ってくれば始末してくれるだろう。


(そういえば、アイ=ファのやつはずいぶん遅いなあ……)


 旧交を温めるのはけっこうだが、森辺の民にとってはもうけっこうな夜半であるはずだ。身体の弱っているジバ婆さんにあんまり無理をさせないほうがいいんじゃないのかなあ、それともジバ婆さんのほうがアイ=ファを解放してくれないのかなあ、などとつらつら考えながら、俺は睡魔に身をゆだね――


 そして、がばりと身を起こした。

 この声は、もしかしたらアイ=ファなのではないかと思えてきてしまったのだ。


 こんな夜半にそうそう出歩く人間がいるとも思えないし、ルウ家から戻ってきたアイ=ファを何者かが待ち伏せしていたとすれば、平仄は合う。


 そんな風に考えたら、もう確認もせぬままに寝ていることはできなかった。

 何せ、外から聞こえてくる声は、明らかに男女で言い争っている声であったのだから。


 そっと覗いて、アイ=ファでなかったら三猿を決めこもう。

 そう決断して、俺は玄関口に向かった。


 音がしないように戸板を開けて、月明かりだけが頼りの外界に忍び出る。

 声が聞こえたのは、建物の左側からだ。

 方向としては、ルウ家のあるほうと一緒だ。


 抜き足、差し足、忍び足、で、左側の壁に回りこむ。

 そうして、そろりと覗いてみると――

 果たして、そこにいるのはアイ=ファであった。

 壁にもたれて、腕を組み、正面にいる相手の顔をにらみすえている。


 その正面にいる男は、次兄のダルム=ルウだ。

 父親とそっくりの目つきをした、若い狼みたいな男前の青年。

 そいつが、壁に手をついて、上からアイ=ファの顔を覗きこむような体勢を取っていた。

 そっちの壁ドンだったのか。


 アイ=ファは身長170足らずで、そいつは180近くありそうだったから、頭半分ぐらいの身長差である。

 それでもアイ=ファは臆しもせず、冷ややかに相手をにらみ返していたが、男の顔は、哂っていた。

 笑っているんではなく、哂っていた。

 いつでも冷たい無表情だった男が、アイ=ファを小馬鹿にするように哂っていた。


「……お前のような女衆が『ギバ狩り』を気取ったって、滑稽なだけなんだよ、アイ=ファ……」


 そんな声が、うっすらと聞こえた。


「誰もがお前を哂っているぜ? 父親の亡霊に取り憑かれたあわれな女が、ギバの毛皮を着て『ギバ狩り』の真似事をしているってな。……なあ、お前はどうして、そこまでルウの家を遠ざけようとしているんだ?」


「…………」


「この2年間はたまたま上手くいったかもしれないが、そんな生活は長いこと続きはしない。老いて、剣を持てなくなったら、どうするつもりだ? ルウとスンを敵に回したら、誰もお前を助けちゃくれないぜ? 今のうちに、素直に股ぐらを開いときゃあ、一生安楽な生活が送れるのによ。婆さんになったら、誰も相手にしちゃくれねえんだぜ……?」


 あと1センチでもこいつの顔がアイ=ファに近づいたら声をかけよう。そう決断することで、俺は腹の底に蠢く激情のうねりを何とか誤魔化すことができた。


 俺みたいに非力な男が加勢したところで、アイ=ファの足手まといにしかならないということは目に見えている。だから、それ以上は近づくんじゃないぞ糞野郎め。


「それとも、ひょっとして……お前、本当はあの夜に、ディガ=スンを退けることなんてできなかったんじゃないのか? それであのボンクラに未練ができちまって、他の男に嫁げなくなったんじゃ……」


「いくら何でも、そいつは妄想を爆発させすぎだろっ!」


 気づくと俺は、怒声を張り上げてしまっていた。

 ダルム=ルウは、1ミリたりとも動いていない。

 だけど、黙っていられるわけがなかった。


「アスタ。……何をしているのだ、お前は」


 アイ=ファが、とても冷ややかに俺を見る。


「ひっこんでいろ、馬鹿者め。先に寝ていろと言っただろうが」


 アイ=ファの反応は、まあこんなもんだろう。

 そして、男のほうはというと――

 路傍の石でも見るみたいに俺を一瞥して、そのままアイ=ファに向きなおってしまった。


「そうなんだったら、素直にそう言えよ、アイ=ファ。いくら何でも、あんなボンクラのお下がりに情けをかけてやる気にはなれねえからなあ。だけど、もしもお前が……」


「あんな小物感まるだしの御仁にアイ=ファがどうこうされるわけねえだろうが! あんたのその目は節穴か!? それともアイ=ファを挑発してんのか? 口説こうとしてんのか喧嘩を売ろうとしてんのか、ハッキリしねえとアイ=ファだって困るだろうがよっ!」


「――男衆みたいな口を叩くなよ、ムント。かまどを守るしか能がないなら、黙ってかまどを守ってろ」


 こちらを見ようともしないまま、面倒くさげにそいつはそう言い捨てた。

 俺は、3歩ほど近づいてやる。


「ムントってのは、俺のことかい? 見たこともない動物に例えられても怒りようがないけどな。いいから、とっとと帰ってくれよ。そんだけ接近してるのにアイ=ファの迷惑そうな顔が見えないのか?」


 ダルム=ルウは冷たく口もとを歪めて、いっそうアイ=ファに顔を近づけた。

 もはや、鼻先が触れそうな距離である。

 激情が、言葉となって俺の口から噴きこぼれる。


「おい! だったら言ってやるけどな! ギバを狩るしか能がないなら、お前こそ黙ってギバを狩ってろよ! 一丁前に女を口説こうとしてるんじゃねえっ!」


 男の顔から、表情が消え去った。

 その手がすうっと壁から離れ、傾いていた重心が真っ直ぐに伸びる。

 そして。

 その指先が、腰の小刀に伸ばされた。


「ムント。貴様は、森辺の狩人を愚弄する気か?」


「愚弄なんてしてねえだろ! だったらお前は愚弄するつもりで、俺にかまどを守ってろとか言ったのか? ああ、俺はかまどを守るよ! それが俺の仕事だからな! その仕事も一人前にこなせないうちに、女なんか口説いていられるかってんだ!」


「貴様……」


「今でこそ、俺はアイ=ファの家のかまどをまかされてるけどな。ほんの5日前までは、そのかまどもアイ=ファが守ってたんだ! そいつはひとりでギバを狩って、ひとりでかまどを守ってたんだよ! 男衆の仕事も女衆の仕事もひとりできっちりこなしてたんだぞ? お前にそんな真似ができるのか!?」


 俺は、罪もない家の壁を殴りつけた。


「同じ真似ができないんなら、二度とアイ=ファにふざけた口をきくな!」


「ムント。貴様は……ルウの家に、喧嘩を売るつもりなんだな……?」


 これには、怒るのではなく呆れてしまった。


「だからさ、俺は森辺の民にもルウの家にも文句をつけてるわけじゃないだろ。俺はあんたに言ってるんだ。ダルム=ルウ、あんた個人に言ってるんだよ。俺の恩人であるアイ=ファに失礼な口を叩くなってな」


「……もういいだろう。いいかげんに口を閉ざせ、アスタ」


 溜息まじりの口調でつぶやき、アイ=ファが壁から背中を離した。

 組んでいた腕もほどき、小刀の柄に手をかけたダルム=ルウの前を素通りして、俺のほうに近づいてくる。


「待て、アイ=ファ! まだ俺の話は……!」


「もう十分に承った。何を言われても、私の返事は変わらない」


 と、アイ=ファは俺の隣りに並んでから、いつも通りの仏頂面で、すっと目礼をする。


「度重なる申し入れは光栄の限りだが、私は『ギバ狩り』として生きていくと決めたのだ。ルウの家に、嫁入りはできない」


「お前……」


「そして、嫁入りに関しては家長を通すのが筋であろう。ファの家の家長は私だが、ルウの家の家長はドンダ=ルウであるはず。今後の申し入れは、家長をともなってお願いしたい。……それでは」


 そしてアイ=ファは俺の腕を取り、半ば引きずるようにして歩き始めた。

 ダルム=ルウは同じ体勢で、わなわなと肩を震わせながら、虚空をにらみすえている。


「お、おい、あのまま放っておいても大丈夫なのか?」


 アイ=ファは答えず壁にそって足を進め、角を曲がり、開きっぱなしであった戸板の内に俺を押しこめ、自分もすべりこみ、戸を閉めて、大きなかんぬきをかけてから、ようやく満を持して「この馬鹿者がっ!」と、怒鳴り散らした。


「あんな小物を追い詰めてどうする! あのまま刀で斬りつけられたらどうするつもりだったのだ!? 私とて、客人の身として刀は帯びておらぬのだぞ!」


「いや、だって、あいつがあんまり理不尽なことを言うもんだから……」


「あんな戯言は聞き流しておけばよいのだ! どうせあやつには家長の許しなくして好きに振る舞う力などありはせん! それをむやみに、煽りたておって……」


 と、俺は戸板に押しつけられて、おもいきり胸ぐらをひっつかまれてしまう。

 怒りをたたえたアイ=ファの顔が、さっきのダルム=ルウと同じぐらいの距離にまで迫ってくる。


 とたんにアイ=ファの持つ、果実の甘さや香草の清涼さや肉の旨味が混在した香りがすうっと鼻に流れこんできて――わけもなく俺の胸を高鳴らせた。

 いかん。まだヴィナ=ルウからもたらされた衝撃から、完全には回復できていないらしい。理性をかき集めておかないと、これは危険だ。


 そんな俺の動揺などつゆ知らず、アイ=ファは強い目で俺をにらみつけてくる。


「……黙ってギバを狩っていろ、というくだりでは、私のほうこそお前を殴りつけたくなったぞ、アスタ」


「だ、だから最後まで聞いてくれただろ? 仕事に上下などありませんってことを主張したかっただけだよ、俺は」


「そうでなければ、殴っていたわ」


 と、アイ=ファがいきなり身を引いて、俺の胸ぐらから俺の右手首へと指先を移動させる。

 強い力で手首をつかまれ、ぐいっと上まで持ち上げられた。

 壁を殴った拳の皮膚が、ちょっぴり赤くなっている。


「……お前のこの手は、かまどを守るためのものなのだろうが?」


 赤くなった俺の拳に、今度は逆の手の平をそっとかぶせてくる。


「傷ついて、使い物にならなくなったら、どうするつもりなのだ? 短慮は、つつしめ。……この手は、ジバ婆を救った手なのだ」


 アイ=ファの声から、怒りの響きが消えていく。

 そしてアイ=ファは、俺の右手を両手で握ったまま、少し上目づかいで俺を見た。


「アスタ。お前は、かりそめとはいえ、ファの家の人間だ」


「うん? ああ、もちろんだ。ファの家のかまどを預かる、居候さ」


 右手の先が、熱い。

 それはまるで、握った両手からアイ=ファの体温が流れこんでくるかのようで――その不思議な感覚が、何だかとても心地好い。


 ヴィナ=ルウにのしかかられたときは、あんなに背筋が寒かったのに。

 アイ=ファの体温は、俺に安らぎを与えてくれた。


 俺の手を握り、俺の瞳を見て、アイ=ファはつぶやく。


「だから私は、お前に祝福など与えなかった。祝福とは、家族ではなく他家の人間に送るものだからな。……しかしお前は、ジバ婆の魂を救ってくれた。それとともに、私とリミ=ルウをも救ってくれた」


「ああ。俺なんかが役に立てて良かったよ」


「私はお前に、感謝している。何も形にはできないが――その気持ちだけは、信じてほしい」


 燭台からは遠い暗がりなので、アイ=ファがどのような表情をしているのかは、そこまでハッキリわからなかった。


 だけど、青く輝くその瞳と、静かに語られるその言葉は――これまでで一番やわらかく、優しくて、そうしてきちんとアイ=ファらしい力強さも備えていた。


 その、やわらかくて、優しくて、力強い感情の波動みたいなものが、体温とともに俺の中に流れこんできて、心を満たしていくのが、わかった。


「信じるよ。お前にそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」


 そんな言葉が、自然に口からこぼれ落ちた。

 最後にぎゅっと俺の手を握ってから、アイ=ファの指先が離れていく。


「……森辺の最長老をも救ったその手を、あんな俗物のために傷つけるな。そういう部分は、確かにまだまだ半人前なのだな」


「そりゃもちろん。天下御免の半人前だ。だからまだまだ精進が必要なのさ」


 俺は笑ったが、しかし、最後に見たダルム=ルウの青ざめた横顔を思いだし、少し心配になってしまう。


「なあ。俺ってやっぱり、余計なことをしちまったのかな? 無駄にあいつの怒りを買っただけか?」


「……余計であり無駄ではあったが、言葉の内容に間違いはなかっただろう。だからあの男も青ざめるばかりで語る言葉を持てなかったのだ」


 少し伏せられていたアイ=ファの目が、長い睫毛ごしに俺を見る。


「まあ……下らぬ戯言を延々と聞かされていた私にとっては、少なからず胸のすく思いだった」


「そうか。だったら、無駄ではなかったな」


「ふん」とアイ=ファもいつもの調子に戻って、巻きつけ型の履物を脱ぎ始めた。


 脱ぎながら、「そういえば、ルウ家の長姉は何の用事でこの家を訪れたのだ?」と問うてきた。


「……はい?」と俺は小首を傾げやる。

 背中に、びっしりと冷や汗をかきながら。


「ちょうど私が戻ってきたとき、あの女がこの家を出ていくところだったのだ。声をかけようとしたところで、あの次兄めに物陰へと引きずりこまれてしまったので、向こうは気づかなかったようだがな」


 腰を屈めた体勢のまま、今度は逆側の履物を脱ぎ始める。

 その綺麗な金褐色の髪に包まれた後頭部を見下ろしながら、俺は「ナルホド」と答えるしかなかった。


「いや、それが、けっきょく何の用事だったのやら、俺にもわからなかったんだよなあ。どうも酔っぱらってたみたいだし」


「ああ。確かに果実酒の瓶をぶら下げていたな」


 ようやく両方の履物を脱ぎ終えて、アイ=ファがゆっくりと身を起こす。

 そうしてアイ=ファは、ぽん、と俺の肩に手を乗せた。


「では、あの女の言い残した契の約束とは、何のことなのだ?」


 アイ=ファの綺麗な青色の瞳には、驚愕にひきつるあわれな若者の顔がくっきりと映りこんでいた。


 めでたしめでたし。

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― 新着の感想 ―
[一言] ここまでのドンダ=ルウとダルム=ルウの小物っぷりが何とも懐かしい
[一言] 田舎から出て行きたいお姉さんのエッチな誘惑・・・裏山死
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