ルウ家の青空食堂②~開店~
2016.3/25 更新分 1/1 ・2018.4/29 誤字を修正
『ギバのモツ鍋』の屋台は、盛況であった。
やはり物珍しさというのは大事なのだろう。20の席では行列ができてしまうぐらい、その場には大勢のお客さんたちが詰めかけてきてしまったのである。
それでいて、こちらの屋台の客足が極端に落ちることはなかった。お客さんの大半は、やはり汁物とあわせて既存の軽食をも所望してくれたのだ。
ただし、赤銅貨3枚という一番の高額商品である『ギバ・バーガー』の屋台のみは若干客足が鈍ったようであるが、それでも根強い人気を持つ商品でもあるので、売れ残りを心配するほどの停滞ぶりではない。
「えい、もういいから料理を売ってくれ! 席がないなら、立ったまま食う!」
と、しまいには立ち食いを始めるお客さんまで出現してしまった。
複数の料理を購入したお客さんなどは、卓の片隅だけを拝借して、立ったまま食べている。そうして立ち食いのお客さんがキャパいっぱいになっても、なかなか行列が短くなることはなかった。
ゆとりをもって準備したはずの木皿と木匙は常に30組すべてが使用されることになり、皿洗いの係は皿を洗うよりもまず空いた皿をすみやかに回収できるよう、ひたすら客席を見回るほうがメインの仕事になってしまっている。なかなかのめまぐるしさである。
そんな騒ぎの中、ひょっこり現れたのは《西風亭》のユーミであった。
「うわー、何なの、これ? せっかく店を抜け出してこれたってのに、満席じゃん」
「やあ、いらっしゃい。やっぱりお目当ては『ギバのモツ鍋』かな?」
「そりゃもちろん! 新しい料理を売りに出すんなら味を確認しないわけにはいかないっしょ! ……だけど、順番待ちかあ。まさか、売り切れになっちゃったりしないよね?」
「さすがに今ならまだ大丈夫だよ。ついさっきひとつ目の鍋が空になったばかりだし」
何せ80人前であるので、巨大な鉄鍋に3杯分、たっぷり準備してきているのである。
しかし、中天を前にして鍋ひとつ分が空になってしまったのだから、閉店を待たずして売り切れになることも必定であるようだった。
「あっ! ユーミおねえちゃんだ!」
と、そこに元気な女の子の声が響きわたる。
ドーラの親父さんを引き連れた、ターラである。
「よ、ターラじゃん。親父さんも、おひさしぶり」
「ああ、ユーミ。ちょっとひさしぶりだね。元気そうで何よりだ」
ユーミとターラはなかなかの仲良しさんであるので、ついには親父さんまでその輪に取りこまれたらしい。
「親父さんたちも来てくださったんですね。ありがとうございます」
「当たり前じゃないか。新しい料理は持ち帰ることができないって話だったから、仲間連中とおたがいの店を留守番し合うように取り決めたんだよ。この前、うちのかまどで作ってくれた汁物なんかは本当に絶品だったからなあ」
「ほんと、ギバは汁物でも美味しいよね! しかも今日の料理はギバの臓物を使ってるんでしょ? あたしはけっこうキミュスの臓物料理なんかも好きなんだよねー」
と、ユーミも笑顔で相づちを打つ。
何だかユーミまで親父さんの家族のように見えてしまい、実に微笑ましい。
「しかしこいつはすごい人出だね。売り切れちまわない内に並んでおこう。……あ、アスタ、俺とターラにぎばまんをひとつずつ頼むよ」
「あ、こっちもぎばまんをひとつねー?」
ということで、ユーミらは和気あいあいと『ギバまん』をぱくつきながら行列に並ぶことになった。
本当に盛況である。
こっそり盗み見たところ、東と南の民は同じ卓につかないよう自主的に右と左で分かれており、おかしな騒ぎが起こる気配もない。ただ楽しそうなざわめきが伝わってくるばかりだ。
それに、『ギバのモツ鍋』ではジャガルの民が忌避するシムの食材チットの実が使われているわけであるが、そんなことは知ってか知らずか、むしろ東より南の民のほうが人数でまさっているようにすら感じられる。やっぱりタウ油というやつは、特にジャガルのお客さんを引き寄せるものであるらしい。
「どうしたのです? そんなにあちらが心配なのですか?」
ローテーションで一緒の屋台になったトゥール=ディンが不思議そうに問うてきたので、俺はそちらに「いや」と返してみせた。
「心配というか、楽しそうだなって思ってさ。皿を下げたり、それを洗ったり、俺も故郷ではそういう仕事をやっていたから」
「…………」
「うん? どうかしたかな?」
「いえ……ただ、アスタが故郷の話をしてくれるのはとても珍しいので、少し驚いてしまいました」
言いながら、トゥール=ディンははにかむように微笑んだ。
見る人間を優しい心地にさせてくれる、とても魅力的な笑顔である。
そのとき、「お待たせしました」という明るい声を横合いからかけられた。
ようやく中天になったので、ユン=スドラとアマ・ミン=ルティムがやってきてくれたのだ。
「今日はすごい人出ですね。ツヴァイ、お疲れ様でした」
「フン。こっちはいつもより客が少ないぐらいだけどネ」
「シーラ=ルウに様子を聞いてきます。ずっとひとりで大変だったろうけど、もう少し待っていてくださいね」
アマ・ミン=ルティムは青空食堂のほうに消えていき、ユン=スドラはにこにことしながら俺の顔を見上げてくる。
「わたしはどちらの屋台につきましょう? ご指示をお願いします、アスタ」
「うん、それじゃあ『ポイタン巻き』のほうをお願いするよ。ヤミル=レイには『ギバまん』のほうに来てもらって、トゥール=ディンと交代ね。俺はちょっと向こうの様子を見てくるから」
俺はユン=スドラに対して、これまで通り接するように心がけていた。
誰もが彼女は俺に好意を抱いているはずだと申し述べてくるが、具体的に本人からアプローチされたわけではないし、もともと彼女とは節度のある距離を保っている。変に冷たく接するのも何か間違っている気がするし、今のところはこれより最善の手は思いつかなかった。
(恋愛感情を持ってくれているかもしれない女衆に、自分が同じ気持ちを持てない場合、森辺の男衆としてはどのようにふるまうのが相応なのか、誰かに聞いてみるべきなのかなあ)
そうも思うが、こと色恋沙汰に関しては誰に尋ねるのが適切なのか、俺には今ひとつ判断しかねたのだった。
20代の半ばまで独り身をつらぬいていたガズラン=ルティムは森辺で特殊な存在であるように思えるし、ルド=ルウなどは色気よりも食い気のほうがまさっている印象である。純朴そうなシン=ルウをこのような案件で頼るのははばかられる感じがしたし、誰よりも直情的なラウ=レイにも期待はかけられそうにない。
(いや、そもそも家長のライエルファム=スドラには『長い目で見てほしい』って言われてるんだから、それをできない理由を説明するにはアイ=ファへの気持ちを話さなきゃならなくなるんだもんな。そんな気恥ずかしいこと、これ以上はできそうにないや)
思わずこぼれそうになる溜息を呑みくだしつつ、俺は革張りの屋根の下にまで移動した。
20名分の座席しかない空間に、30名ばかりのお客さんたちが寄り集まって、木皿の汁をすすっている。ララ=ルウは『ギバ・バーガー』の屋台に移動し、『ギバのモツ鍋』の屋台はアマ・ミン=ルティム、そして皿洗いの役目はシーラ=ルウが果たしていた。
「お疲れ様です。どんな感じですか?」
「はい。鉄鍋の2杯目も残りはあと半分ほどになってしまいました。このままですと、あと一刻ほどで料理は売り切れてしまうでしょうね。大部分のお客は半人前しか注文していないのに、ずいぶんな売れ行きです」
洗った木皿を布でぬぐいつつ、シーラ=ルウが微笑み返してくる。
その木皿もすみやかにアマ・ミン=ルティムへと手渡されて、待ちかねていたお客さんへとモツ鍋の汁が注がれた。
「えーと、1日の営業時間がおよそ3時間半って考えると……営業時間の3分の2ていどで売り切れる計算になりますね。そうすると、明日からは1・5倍の量を準備しても売り切ることはできるかもしれません」
「どうでしょう? 今日は物珍しさだけで売れているのかもしれませんが」
「今日のお客さんが満足そうな様子をしていれば、明日以降も注文してくれるでしょう。そこのあたりはいかがですか?」
「それは……ほとんどの者が満足そうな顔をしているように、わたしには感じられます」
そのように言って、シーラ=ルウはいっそう明るく微笑んだ。
めっきり表情の明るくなってきたシーラ=ルウであるが、そんな彼女にしてみても珍しいぐらいの朗らかな微笑み方である。
「わたしたちルウ家の人間はトゥール=ディンから学ぶまでギバの臓物を食べる習わしがありませんでしたが、どうやら町の人間は臓物料理にまったく抵抗がないようなのですね」
「ああ、西でも南でも東でも、それぞれキミュスやカロンやギャマなどの臓物が食べられているようですね。あまり保存がきかないので、宿場町で売られている様子はありませんけど」
「普通の肉を欲する声もなくはないようですが、おおむねは満足してもらえているようです。早くこの光景をレイナ=ルウにも見せてあげたく思います」
中には果実酒を持参している者までいるので、なんだかちょっとした宴のような騒ぎになってしまっている。
しかし、「とっとと席を空けろよ!」と並んでいるお客さんなどが不満の声を響かせると、「やめろよ、衛兵なんかを呼ばれたら料理を食えなくなっちまうぞ?」と別のお客さんが掣肘してくれる。
とある卓では、仕事仲間らしい壮年のジャガル人たちが笑い声を響かせていた。
別の卓では、若い男女が身を寄せ合って楽しそうに料理をすすっている。
ドーラの親父さんたちのような親子連れも珍しくはないようだ。
東の民は、相変わらず寡黙に食事を進めている。
きっとこれこそがレイナ=ルウの見たかった光景なのだろう。
本当に、明日の到来が待ち遠しいところだ。
そんなことを考えていると、「おい」と不機嫌そうな声で呼びかけられた。
噂をすれば何とやら、革の鎧を着込んだ衛兵がひとり近づいてきたのだ。
賑やかにしていたお客さんたちが、いくぶん鼻白んだ様子で静かになる。
「ずいぶんな騒ぎだな。この屋台の主人は誰だ?」
「はい。本日はわたしが取り仕切っています」
シーラ=ルウが、穏やかな表情で進み出た。
衛兵は、シーラ=ルウのほっそりした姿をじろじろと眺め回す。
「ならばお前に通達させてもらう。この店の商いにはいささか問題が見受けられるので、明日以降は見直してもらおう」
「問題ですか? それはどのような?」
「この、屋根を張られた区域がお前たちの借り受けた場所であろう? あそこの座席からはみだした者たちなどは、明らかにその区域を越えている。明日以降も同じ商売をするつもりならば、もうひと区間の分、場所代を払うべきであろう」
言われた方向に、俺とシーラ=ルウは視線を転じる。
確かに、青空食堂の向こう側は空き地であったので気にしていなかったが、立ち食いをしているお客さんの何名かは明らかに屋根の下からはみ出してしまっていた。
「なるほど。本来であれば、あそこは別の店が屋台を出す区域ということですね。そのように大事なことを見落としてしまっていたことを、非常に申し訳なく思います」
そのように言って、シーラ=ルウは深々と頭を垂れた。
それから、若い衛兵の不機嫌そうな顔を静かに見上げる。
「しかし、すでに領域を侵してしまっている以上、今日から場所代を追加で払うべきなのではないでしょうか? わたしたちは、ジェノスの法に従います」
「今日のところは、まあかまわんだろう。しかし、どのみち席はまったく足りていないようではないか? どうせなら、隣の区域の分まで席を用意してしまえばいい。そうすれば、席を空けろとわめく人間も減るだろうしな」
態度はいくぶん横柄であるが、なかなか親切な衛兵なのだなと俺は感心することになった。
で、そんなことを考えていたら、今度はその視線が俺のほうに差し向けられてきた。
「……お前のほうも息災にやっているようだな、ファの家のアスタよ。まったく、こんな北の端まで賑やかになってしまって、巡回する俺たちは手間が増えるばかりだ」
「え? あなたは――」
と、言いかけたところで、唐突に俺は思い出した。
この衛兵は、俺たちがまだサイクレウスともめていた頃、森辺の狩人の扮装をした野盗や、町で刀を抜いてしまったジーダについてを問い質すためにやってきた、あの衛兵たちのひとりであったのだ。
衛兵の顔などいちいち覚えてはいられないのだが、この御仁は小隊長たる小男に代わって長々と口上を述べていた人物であったので、かろうじて記憶に残っていた。
「――どうも、おひさしぶりです。その節はお世話になりました」
「ふん。俺は宿場町の巡回が役目なのだから、毎日のようにお前たちの姿を見ているぞ? お前たちにしてみれば、衛兵などどれも見分けはつかないのだろうがな」
「いやまあ、そのように兜をかぶっておられると、なかなか見分けが難しいもので……でも、あなたのことは覚えておりますよ。ドーラの親父さんの店の前でお話をさせていただいた御方ですよね?」
「ふん」と若い衛兵は下唇を突き出した。
この人物は、おそらく護民兵団の公正さを信じていたのだ。それが、俺たちと言葉を交わした数日後には兵団長たるシルエルの大罪が暴かれて、のちには副団長と2名の大隊長までもが裁かれることになった。当時のジェノスを脅かしていたのは、まぎれもなく彼の上官たちだったのである。
いったい彼の胸にはどのような思いが去来することになったのか。
もちろん俺がそのようなことを問うことはなかったし、彼のほうも心情を打ち明けてこようとはしなかった。
「……お前たちが店を広げたおかげで、露店の区域にもゆとりがなくなってきてしまったな」
と、若き衛兵は青空食堂の向こう側へと視線を転じる。
俺たちは宿場町の最北端に店をかまえているので、その向こうには何もない。あと4、5件の屋台が店を出せるぐらいのスペースが残されており、その向こう側は鬱蒼とした雑木林だ。
「おそらく近日中にあちらの林は伐採されることになるだろう。町のごろつきどもが日銭を稼ぐために大挙してやってくるかもしれんが、もめごとなどを起こすのではないぞ?」
「了解しました。気をつけます」
そのように答えてから、俺はささやかなる疑念を口にした。
「でも、いきなりそのように屋台が増えるものなのですか? 俺はもうこれで5ヶ月ぐらいは店を出させてもらっていますが、あまり変動を感じたことはありません」
「それは増えるだろう。来月は紫の月なのだから」
俺はきょとんとしてしまった。
衛兵は、いぶかしそうに俺を振り返る。
「紫の月には、太陽神の転生祭が執り行われる。祭であれば、人も屋台も増えるのが当然であろうが? ましてやジェノスはこの近辺でもっとも豊かな町であるのだから、あちこちから祭を楽しもうという人間が大勢集まってくるものなのだ」
「へえ、ジェノスにもそういうお祭が存在するのですね」
俺は大いに好奇心をそそられてしまった。
しかし、衛兵のほうはますます不機嫌そうな面持ちになってしまっている。
「俺たちにしてみれば、余計な仕事が増すばかりだ。どうせ家族と過ごす時間などは作れず、町であやしげな余所者を追い回す仕事に従事することになるのだからな。……おい、祭の場でも騒ぎなど起こすのではないぞ?」
「はい、了解いたしました」
若い衛兵はもう一度「ふん」と鼻を鳴らしてから、その場を立ち去っていった。
それと入れ替わりで、何枚かの木皿を抱えたララ=ルウがとことこと近づいてくる。
「あれ? ララ=ルウは『ギバ・バーガー』のほうに移ったんじゃなかったっけ?」
「シーラ=ルウが動けなそうだったから、空になった皿を集めてきたんだよ。さ、とっとと洗っちゃおう」
気づけば、アマ・ミン=ルティムの陣取った屋台の前には、さらなる行列ができてしまっていた。
これは確かに、座席や木皿を追加で準備する必要があるのかもしれない。
俺たちは、3人がかりで木皿と木匙を洗浄することになった。
「ねえ、ぎばばーがーのほうはあんまり忙しくないからさ、何かの用事で呼ばれるまではあたしもこっちにいたほうがいいんじゃない? ひとりが席を見回って、ひとりが洗い物に専念したほうが、効率いいと思うんだけど」
「そうですね。洗い物をする人間が、必要なときだけあちらを手伝うことにしましょうか。……あ、ツヴァイはずっとぎばばーがーのほうを任せてしまっているので、交代してきたほうがいいでしょうね」
「いや、今日一日はあたしとシーラ=ルウがこの仕事を受け持って、要領をつかんだほうがいいんじゃないかな? で、それを明日の当番のレイナ姉やリミに伝えるの。まずはルウ家の全員がきっちり仕事を覚えないとさ、いちおうルティムの親筋なんだし」
「わかりました。では、ツヴァイとアマ・ミン=ルティムのほうで交代をしてもらいましょう」
やはり通常の屋台とは勝手が違うので、さまざまな試行錯誤が必要なようだ。
しかし今のところは、俺が口を差しはさむスキもない。能動的なララ=ルウと常に冷静なシーラ=ルウは、なかなかの名コンビであるように感じられた。
「あ、アスタ、こちらにおられたのですね」
と、一歩引いたところでシーラ=ルウらの奮闘ぶりを拝見していた俺に、また何者かが呼びかけてくる。
今度は声だけでその正体も判然とした。マイムがミケルとともに来訪してくれたのだ。
「やあ、マイム。それにミケルも、ご来店ありがとうございます」
「えへへ。すでに味見はさせていただきましたけど、もっとたくさん食べたかったので来ちゃいました」
マイムもミケルも『ギバのモツ鍋』ばかりでなく、もう一種の料理を手にしていた。マイムは『ギバのポイタン巻き』で、ミケルは『ギバ・カツサンド』である。
「席はいっぱいなのですね。あの、こちらに荷物を置かせていただいてもよろしいですか?」
「おう! 隣のこいつは手癖が悪いから、大事な食事を食われちまわないように気をつけな!」
陽気なジャガルのお客さんの了承を得て、ふたりは卓の隅に布の手ぬぐいを敷き、そこにそれぞれの料理を置いた。
で、湯気をたてているモツ鍋をすする。
「うーん、やっぱり美味しいです! チットの実とタウ油ってこんなに合うものなのですね!」
「ふん。城下町なら珍しい取り合わせでもないのだがな」
今日は仕事を抜け出してきたのだろう。衣服を炭で汚したミケルは、仏頂面でモツを噛んでいる。
ふたりの冷戦は無事に終わりを迎えたので、マイムはすっかりご機嫌の様子である。
自分の仕事に戻る前に、俺はその件についてちょっと触れてみることにした。
「そういえば、マイムが屋台を出すときはバルシャが護衛役を受け持ってくれるんだよね? 日取りなんかは、そろそろ決まったのかな?」
ダバッグからの帰り道は、行き道と別の取り合わせで荷車に乗り込むことにした。それで同席した両名は大いに意気投合し、その果てにそんな約束を交わし合うことになったわけである。
「狩りの仕事は朝方だけだし、薪割りなんかは空いた時間で片付けられるからね。きちんと日当をもらえるなら、むしろありがたいぐらいだよ」
バルシャは笑いながらそのように言っていた。
バルシャであれば腕っぷしは確かであるし、信頼の置ける人柄であるということも太鼓判を押すことができる。
かつては《赤髭党》の一員であったことや、サイクレウスとの因縁、そしてサイクレウスを打倒するためにバルシャが受け持った役割などを聞かされると、ミケルも不承不承ながらその事実を認めざるを得なかったのだった。
「ああ、その件について、バルシャに言伝をお願いしたかったのです。申し訳ないのですが、屋台の仕事に関してはもう少しだけ時間をいただきたいのだとお伝えできませんか?」
「え? 何か他に問題でも出てきてしまったのかい?」
「いえ。せっかくなので、カロン乳を食材として使いたくなってしまったのです。どのように使うかはまだ漠然としか決まっていないのですけれど」
そう言って、マイムはにっこり微笑んだ。
「でも、うかうかしていると年が明けてしまいますものね。遅くとも、転生祭には間に合わせたいと思います」
「転生祭か。ちょうどついさっきその名前を耳にしたんだけど、それはどういうお祭なのかな?」
「え? 太陽神の転生祭ですよ? ……ああそうか、アスタは渡来の民なのでしたね。転生祭というのは、一年の終わりと始まりを祝う祭のことです。大事なのは、紫の月の最後の一日と、銀の月の最初の一日ですが、紫の月の半ばぐらいからはもう祭が始まって、この宿場町などもとても賑やかになるのですよ」
「ああ、そういうお祭だったのか。知らなかったよ、ありがとう」
今日はもう藍の月の27日なのだから、紫の月も目前である。
これは心の躍る話が聞けたものだ。
「それじゃあ、遅くとも来月の半ばまでには料理を完成させる意気込みなんだね? わかった、バルシャにはそう伝えておくよ」
「はい、お願いいたします」
笑顔のマイムと仏頂面のミケル、それに皿洗いにいそしんでいるシーラ=ルウに別れを告げて、俺は自分の仕事に戻ることにした。
ひとりで『ギバまん』の仕事を受け持ってくれていたヤミル=レイが、お客さんに商品を渡しながら、ちらりと俺のほうを見てくる。
「すみません、お待たせしました。補充なんかは大丈夫ですか?」
「ええ、トゥール=ディンが手伝ってくれたわ。何だか今日は普段より売れ行きがいいようね」
「そうですか。あちらのモツ鍋が人目を集めてくれたので、こちらにも余禄が回ってきたのでしょうね」
これが今日限りの勢いで終わらなければ、きっと集客率は格段にアップすることだろう。
これは完全に、レイナ=ルウたちのお手柄である。
「あちらは何だか慌ただしそうね。手伝う羽目にならなくて幸いだわ」
「そうですか? ただ屋台に留まって商品を売るよりは、動きがあってやりがいがあるかもしれませんよ?」
「……ララ=ルウやリミ=ルウなんかはそういう仕事を喜ぶかもしれないけれど、わたしはそういう人間じゃないから」
へえ、と俺は胸中で感心した。
とたんに、ヤミル=レイから冷たい視線を突きつけられる。
「何よ? ルウ家の三姉と末妹、とでも呼ぶべきだった? 名前を覚えた後でそのような呼び方をするのは不自然でしょう?」
「お、俺は何も言っていないじゃないですか?」
「そういうことを言いたそうな顔をしていたじゃない」
すっかり穏やかになったヤミル=レイでも、やはりその洞察力やら何やらは健在であるようだった。
「ところで」とヤミル=レイは同じ目つきのまま言葉を重ねる。
「あなたはあのユン=スドラをどうするつもりなのかしら、アスタ?」
「ど、どうするとは? 俺は別にどうするつもりもありませんが」
「そう。やはり嫁に娶るつもりはないのね」
そこにお客さんが来訪してしまったので、俺は人数分の銅貨を受け取った。
蒸し器から出した『ギバまん』をそれらのお客さんに手渡してから、ヤミル=レイはあらためて俺のほうを見る。
「だったら、わたしがあの娘を焚きつけてあげましょうか? そうしたら、あなたもいちいち思い悩まなくて済むようになるでしょう?」
「た、焚きつけるとは? どういう意味です?」
「だから、向こうに嫁入りを願わせるのよ。それを断れば、あとのことを決めるのはスドラの者たちでしょう? 嫁入りを断られてなお仕事を手伝わせるのか、あるいは別の女衆を準備するのか。何にせよ、あなたが思い悩む必要はなくなるわ」
このあまりにも唐突な申し出に、俺はしばらく言葉が出なかった。
しかしまあ、ヤミル=レイほどの切れ者であれば、何の説明がなくとも正しく状況を見抜くことは可能なのか、と納得する他ない。
「お気遣いはありがたく思います。でも、いったいどうやってユン=スドラを焚きつけようというつもりなのですか?」
「そんなの簡単よ。わたしがアスタに嫁入りを願おうかと考えている、とあの娘に吹きこむの。そうしたら、あの娘も大慌てであなたに嫁入りを願うしかなくなるじゃない?」
「……虚言は罪ですよ、ヤミル=レイ」
「だったらわたしもあの娘のあとで嫁入りを願うわよ。間違ってもわたしなんかを嫁にはしないとあなたが今の内に約束してくれるならね」
そう言って、ヤミル=レイは不敵に唇を吊り上げた。
「そうすれば、すべてが丸く収まるでしょう? あなたは心置きなく仕事に集中できるじゃない」
「仕事には集中しているつもりです。それに、そんな風に謀略を巡らせて人の気持ちや行動に干渉するのは、やっぱりよくないことだと思います」
「ああそう。かないもしない思慕の情なんて、育ちきる前に枯らしてあげたほうが親切だと思うけれどね」
「……それは森辺の民として一般的な考え方なのでしょうか?」
「知らないわよ。わたしは森辺の習わしから外れた場所で生まれ育った人間なのだから」
俺は何度目かの溜息をつくことになった。
するとそこに、新たなる客人たちが近づいてきた。
さきほどの衛兵が登場したときよりも、周囲の人々がいっそう鼻白んだようなどよめきをあげる。北の方角からしずしずと近づいてきたのは、ダレイム伯爵家の紋章を掲げた箱型のトトス車であったのだ。
そこから姿を現したのは、2名の武官を引き連れたポルアースとアリシュナである。
「やあやあ、今日はずいぶん盛況なようだね! あの座席はアスタ殿たちが準備したのかな?」
「はい。正確には、ルウ家の人々が準備したものですが」
「うんうん、ギバは汁物でも美味だからねえ。僕もまた近い内に味わわせていただきたいものだ」
本日もポルアースは元気いっぱいで屈託がなかった。
そんなポルアースのかたわらから、本日は旅用でなく瀟洒な絹のマントを纏ったアリシュナがすっと左手を差し出してくる。
「アスタ。以前の料理、代金です」
「これはご丁寧にありがとうございます。では、こちらも約束のものをお返ししますね」
俺は腰の布袋から、紫色の綺麗な石を取り出してみせた。
旅の安全をつかさどるという、ラピスタなる石である。
「おかげさまで、無事に旅を終えることができました。重ねがさね、ありがとうございます」
「アスタ、得るもの、多かったようですね」
それを指先でつまんだアリシュナは、半透明の小石を陽光で透かし見た。
「善良なる人々との出会い。友人たちとの交流。愛する人間への深まる思い――」
「ちょ、ちょっと、アリシュナ?」
「――それに、小さな困難と、それを排する大きな力。ラピスタ、告げています。アスタの無事と旅の成功、祝福します」
「……はい、ありがとうございます」
俺は冷や汗をかきながら、かたわらのヤミル=レイを盗み見た。
ヤミル=レイは、素知らぬ顔でお客さんたちに商品を渡している。
「あの、本日も商品をお求めでしょうか? 汁物料理はあちらの屋台なのですが」
「いやいや、今日はひさびさに時間が取れたから、このまま例の香草をふんだんに使った料理というやつを食べにいくつもりなのだよ。最近は僕もちょっとばっかりトルスト殿の仕事を手伝うようになってしまったので、いっそう時間を作ることが難しくなってしまってねえ」
「なるほど。ジェノスに流通する食材に関して、ポルアースも本格的に助言をしていこうというお話なのですね? それはきっとトルストもお喜びでしょう」
「うん。いつのまにやら宿場町における食材に関してはこの僕がもっとも事情をわきまえる立場になりおおせてしまったからねえ。何の役職にもついていないのにおかしなものだよ」
そのように言いながら、ポルアースの丸っこい顔は実に楽しげであった。
「その前に、《タントの恵み亭》にいるヤンとも少し打ち合わせがあるからさ。《玄翁亭》に出向くのは二の刻あたりになると思う。もしよかったら、アスタ殿も顔を出してもらえないかなあ? 例のダバッグについてもちょっと伝えておきたいことがあるし」
「わかりました。それでは商売を終えた後、そちらに向かいます」
「ありがとう! ではまたのちほどね!」
ポルアースは意気揚々と、アリシュナはそれに付き従う精霊か何かのようにふわふわとした足取りで、車の中に戻っていく。
それでようやく、ほのかに帯電していたかのような周囲の空気も緩和された。
(いまだにポルアースみたいに気安く宿場町にやってくる貴族は他に見たことがないもんな。リーハイムなんかは、10人近い武官で周囲を固めていたぐらいだし。……俺みたいな平民の料理を目当てに貴族が足を運んでくるなんて、やっぱり常識から外れたことなんだ)
だからこそ、ダバッグのディゴラやメイロスは状況を見誤り、墓穴を掘ることになったのだろう。
俺たちが帰還した翌日には、ザッシュマから報告を受けたメルフリードがさっそくダバッグへと使者を飛ばしたそうなので、俺としても彼らがどういう末路を迎えたのかは知っておきたかった。
ともあれ――本日の商売も中盤戦に差しかかり、いよいよ売れ行きは好調な様子であった。




