ダバッグ見聞録⑧~謀略~
2016.3/6 更新分 1/2
「お待たせいたしました。こちらがギバ肉の料理となります」
横長の卓の上に、5枚の木皿を並べていく。
『ギバ・ベーコンエッグ』がふた皿、ホットドッグもどきがふた皿、そして素のベーコンと干し肉と腸詰め肉の盛り合わせがひと皿だ。
それらの皿を前にしたディゴラは「ほほう」と目を細め、メイロスのほうは無言のまま額にしわを寄せる。
「焼いた肉の香りが素晴らしいですな。いや、これはカロンにも劣らない芳しさであります」
「お味のほうもお気に召せば幸いです」
俺は一礼して、アイ=ファたちとともに席へと戻る。
ギバ肉への忌避感などは微塵もない様子で、ディゴラはまずホットドッグもどきのほうにかぶりついた。
大きく口を動かしながら、その目はやがて驚きに見開かれていく。
いっぽう、『ギバ・ベーコンエッグ』を口に運んだメイロスのほうは、やはり無言のまま額のしわを深めていく。
そのまましばらく、ふたりは黙々と料理を食べ続けた。
その間に、ななめ後方に陣取っていたダン=ルティムが「アスタよ」とこっそり呼びかけてくる。
「ああ、はい。まだギバの肉は残っていますので、宿に帰ったらかまどを貸してもらえないかどうか交渉してみましょう。宿が無理なら、帰りがけにはマロッタの牧場に寄るつもりですし」
「なんと! またお前さんは俺の心を読んだのだな、アスタよ!」
俺はダン=ルティムににっこり笑いかけてから正面に向きなおった。
そこで待ち受けていたのは、ほとんど呆然としたディゴラの顔であった。
「ファの家のアスタ殿……これは、驚くほど美味でありました……ギバの肉とは、これほどまでに美味であったのですね」
「カロンの美味しさを誰よりも知る皆さんにそう思っていただけたなら、とても嬉しいです」
「いや、本当に驚くべき味でありました。しかも、燻製された肉であるにも拘わらず、これほどまでに美味であるとは……使っている香草などはカロンの干し肉とさほど変わらないようであるのに、どうしてここまでの味を保てるのでしょう?」
「それは保存性よりも味を重んじた燻製肉なのです。脂身などは、けっこうな瑞々しさを残しているでしょう? まだ保存の具合については検証中ですが、ひと月も持てば上等なのではないかと。……それに、使っている部位も足ではなく胸の肉ですしね」
「なるほど。しかし、こちらの腸詰め肉というのはどうなのでしょう? こちらもこのやわらかい干し肉に負けない瑞々しさのようですが」
「そちらはもう少し持つと思います。脂身はたっぷり使っていますが、燻す時間は通常の干し肉と変わりませんので」
「ううむ。こちらの皿に載っている固い干し肉が、通常の足肉の干し肉ですな? こちらとて、カロンの干し肉に劣る味わいではありません」
言葉の内容は十分以上のものであったが、俺としてはその表情のほうが気になってしまった。
ギバ肉の味を大絶賛しながら、ディゴラは妙にしょげきった面持ちになってしまっていたのである。
「……これは由々しき事態でありますな」
と、そのかたわらから初めてメイロスが声をあげた。
その風貌にぴったりの、カサカサにしわがれた声だ。
「ジェノスにおいて、これほど美味なる肉が出回り始めてしまったとは……しかもあなたはこの肉をダバッグでも売りに出したいとお考えになっているのですな、ファの家のアスタとやら?」
「あ、はい。ですが、ギバ肉はこの先、値段が上がっていってしまう恐れがありますので、今すぐに取り引きを、というつもりではなかったのです。それに、美味なるカロンの肉がいくらでも食べられるダバッグにおいて、ギバの肉が売れるかどうかという問題もありますし」
「それでは、ダバッグ以外の町で売りに出される心づもりであられるのでしょうかな? 最近のジェノスはついにバナームとの通商を再開したと聞いておりますが」
さすがに外務官ともなると、そこのあたりの事情も十分にわきまえているらしい。
俺は素直に「はい」とうなずいておくことにした。
「幸い、自分たちもバナームの人々と少し縁を持つことができましたので、そちらで商売をできないものかと考えている部分はあります」
「由々しきことですな……むろん、あなたには何の悪意も存在しないのでしょうが……」
悪意という強い言葉に、俺は驚かされてしまった。
やっぱりこれはダバッグに対しての宣戦布告である、という風に受け取られてしまったのだろうか。
いやしかし、ジェノスはともかくバナームなどはもともとカロンの産地であるのだから、ダバッグとの間に大きな取り引きなどは存在しないように思える。俺たちがバナームにギバ肉を売りに出しても、ダバッグが損をするとは考えにくかった。
「メイロス殿、ここは我々も腹を割って話すべきでありましょう。このファの家のアスタ殿という御方は、信頼の置ける人物であるようですし」
そう言って、ディゴラは少し居住まいを正した。
「アスタ殿、恥をしのんで打ち明けさせていただきますが……現在のダバッグは、いささかならず危機的な状況に陥ってしまっているのです」
「危機的な状況?」
「はい。アスタ殿らは他ならぬジェノスの民なのですから、もちろん聞き及んでいることでしょう。灰の月に、ジェノスのトゥラン伯爵が失脚した顛末を。あれがそもそもの始まりであったのです」
太ましい身体をゆすりながら、ディゴラはそのように言葉を重ねた。
「実はそのトゥラン伯爵という人物は、ジェノスで買い付けている食料の流通を一手に取り仕切っていたのです。我がダバッグから買い付ける肉や乳に関しても、すべてはトゥラン伯爵を通しての商売であったのですよ」
「はい。そのあたりのことは聞き及んでいます。森辺の民は、そのトゥランの前当主と強い関わりを持ってしまっていたもので」
「ああ、森辺の一部の人間とトゥラン伯爵が結託して、何やら悪事に手を染めていたそうですな。しかし、こと商売に関して、トゥラン伯爵は誠実かつ公正な人物でありました。我々にとっては理想的といってもよいほどの商売相手であったのです」
それはまあ、対外的にはサイクレウスがそういう評価を得ることもあるだろう。特にサイクレウスは食材の買い入れに銅貨を惜しまなかったようなので、ダバッグにとっては相当の上客であったはずだ。
「ですが、トゥラン伯爵は失脚してしまいました。それ以降は、別の人物がダバッグとの商売を取り仕切るようになったのです。それでわたくしどもは、思いも寄らぬ窮地に立たされてしまったわけですね」
「窮地ですか。いったいどうされたのです?」
「はい。簡単に言えば、その人物にこちらの商品を買い叩かれてしまっているのです。具体的な数字は伏せておきますが、これまでの生活を維持するのが困難なほどにカロンの値を下げられてしまいました」
「それは――」と俺は絶句してしまう。
確かにアルマも似たような話をしていたが、そこまで差し迫った状況であるなどとは、まったく想像することもできなかった。
「特に最近はバナームとの通商が始まったことで、よけいに苦しい状況になってきてしまいました。文句があるならば今後はバナームからカロンを買いつけることにする、とほとんど恫喝されるような勢いでありまして……」
「それはあまりに無法な話ではないですか。どうしてそんな一方的な要求を突きつけられることになってしまったのですか?」
「わかりません。ただ、トゥラン伯爵の代わりに商売を取り仕切ることになった人間がとりわけ悪辣であった、ということなのでしょう。我々にとってもっとも近しい商売相手は他ならぬジェノスであるのですから、そちらとの通商を打ち切られてしまったら、何名かの牧場主が首をくくることになってしまいます」
「それがわかっているからこそ、あそこまで高圧的な商売ができるのでしょう。バナームという新たな商売相手を得た現在、ジェノスにとってはダバッグなどいつ切り捨てても惜しくはない存在であるということです」
陰鬱なる声音でメイロスがそのように言葉を添える。
俺はもう、すっかり混乱しまくることになってしまっていた。
(サイクレウスの代わりに商売を取り仕切るって、それはトルストの仕事であるはずだ。あの気弱で真面目そうなトルストが、そんな脅迫まがいの商売を持ちかけてるってのか?)
とはいえ、俺もそこまでトルストの人となりをわきまえているわけではない。顔を合わせたのは3回ていどであるし、個人的に言葉を交わしたことなどせいぜい数分ていどであるのだから。
それにまた、トルストはサイクレウスのようにひとりで食材の流通を担っているわけではない。あるていどはジェノス侯爵の力を頼っているはずであるし、また、配下の人間がいるならそちらにも仕事を割り振っているはずだ。
そして、ジェノス侯爵マルスタインについては、トルスト以上に不明な部分が多い。どこかカミュア=ヨシュにも通ずる謎めいた人物であるし、計算高さについては並々ならぬものを持っているように感じられる。
(トルスト自身か、その部下か、あるいはマルスタインの謀略で、ダバッグの人たちが苦しめられているんだろうか?)
とても苦い感情が、腹の底から這いあがってくる。
俺は唇を噛みしめながら、レイナ=ルウの向こう側に座っているザッシュマの様子をうかがってみた。
たしかマロッタの牧場ではジェノスに卸すカロンを受け持っているという話であったので、窮地に立たされるとしたらその筆頭になってしまうはずであるのだ。
しかしザッシュマは無精髭の濃い下顎を撫でながら、実に取りすました目つきでディゴラたちのほうを見返しているばかりであった。
「ですから、そのような状況でこれほどまでに美味なるギバ肉がジェノスやバナームで流通してしまうとなると……さまざまな意味で、我々はいっそう苦しい立場に置かれてしまうのです」
ほとんど泣きそうな顔になりながら、ディゴラはそのように言葉を重ねる。
「現時点でもギバの料理というものはジェノスの宿場町で高い評判を呼び、カロンの足肉が少しばかり売り上げを落とすことになっています。もしもこの先、カロンの足肉や干し肉などジェノスでは不要、ということになってしまったら、ますますダバッグはジェノスにとって価値の薄い存在になってしまいます……」
「い、いえ、ギバの収穫量には限りがありますので、そこまでカロン肉の市場を奪うことにはならないと思います」
しかし――それでも森辺の民は、日に50頭前後のギバを狩っている。
それらの大部分を町で売りさばくことが可能になれば、どれほど豊かな生活を得られるものか、それを見果てぬ目標として、俺たちは懸命に成果をあげようとしているのである。
カロン肉の需要を断つような結果にはならなくとも、相応のダメージを与えてしまう可能性はぬぐえない。それでも、どちらの肉に価値を求めるかは顧客の決めることなので、必要以上に罪悪感を感じる必要はない、と俺は信じてやってきたのだが――今回の話は、また別問題であった。
「……申し訳ありませんが、ちょっとこちらに相談する時間をいただけませんか?」
しばし逡巡したのち、俺はそのように切り出すことにした。
すっかり悲嘆の面持ちになっていたディゴラは「はい?」と不思議そうな顔をする。
「ギバ肉の商売に関しては、自分ひとりでは決めかねる部分が多いのです。なので、この場を借りて少しだけ打ち合わせをする時間をいただきたいのです」
「はあ……こちらには急ぎの仕事もございませんので、どうぞご随意に」
溜息まじりに、ディゴラはそう言った。
「それに、ついつい泣き言を申してしまいましたが、わたくしとて商人の端くれであります。どうぞ情には流されず、あなたはあなたの信ずる道をお進みください、ファの家のアスタ殿」
「はい、ありがとうございます」
そうして俺は最前列に陣取っていたメンバー、アイ=ファとレイナ=ルウとザッシュマを引き連れて、広い部屋の片隅に寄り集まることになった。
残されたメンバーの何名かがディゴラたちと世間話を始めたのを確認してから、俺は小声でザッシュマに呼びかける。
「あの、これはいったいどういうことなんでしょう? ジェノスの宿場町ではカロン肉の値段も変わっていないのに、取り引きの額が大幅に下げられているなんて、ちょっとおかしな話じゃないですか?」
「ああ。城下町のほうでも、カロンの料理は以前と同じ値段で売られているな。……だからきっと、どこかの誰かがその差額分で私腹を肥やしてるってことなんだろう」
「やっぱりそういう話になりますよね。でも、サイクレウスの後事を託されることになったトルストという御仁は、そこまで悪辣な人物ではないように思えるのですが」
「さてな。俺はそのトルストとかいう貴族とは面識がないので、何とも言えん。しかし、けっきょくはそいつもトゥラン伯爵家の血筋なのだろう?」
「ええ。ですがそのトルストという人物は、ザッシュマが言うところの堅苦しい貴族に分類される御仁だと思えてならないんです」
「堅苦しいから善良ということにはならんし、また、ダバッグに損を与えたからといって悪辣ということにもならん。その貴族は、ジェノスの益になるよう尽力しているだけかもしれんぞ」
そんな風に言いながら、ザッシュマは肩をすくめるばかりである。
大事な家族たちが窮地に立たされてしまってもかまわないのだろうかと内心で首をひねりながら、俺はレイナ=ルウのほうに視線を転じる。
「レイナ=ルウはどう思う? 申し訳ないけど、この場にいるルウ家の代表として意見を聞かせてほしい」
「そうですね……商売についてなど、わたしにはあまりわからないのですが……ただ、牧場で聞いた『損をするのは平民ばかりだ』という言葉とは合致する話であるようですね」
そうだ、確かにアルマはそのように言っていた。
そこまで彼は深刻そうな様子ではなかったが、ここ最近で彼らが損をし始めたというのは、すでに聞いた話であったのだ。
「だったらやっぱり、ジェノスの誰かが謀略でダバッグの人たちを陥れようとしてるってことなのかな……」
「おいおい、謀略ってのは言いすぎじゃないか? 力のある人間が力のない人間を従えるのはこの世の常ってもんだ。さっきの話がまるごと真実であったとしても、ジェノスはダバッグよりも強い力を持っているっていうだけの話なんだろうさ」
人を食った笑みを浮かべつつ、ザッシュマがそのように述べる。
その言葉が、くすぶっていた俺の胸に火をつけた。
「そうだとしても、そこに謀略めいた話が絡んでいたら、俺には黙っていられません。たとえばトルストの部下か何かが独断でダバッグの人たちを脅迫して、私腹を肥やしていたとしたら、それは見過ごせない話じゃないですか?」
「どうだろうな。それで謀略が成功してるなら、それはそいつの手柄だとも考えられるぞ?」
「……それが本当の本心なのですか? サイクレウスの謀略を暴くのに尽力してくれたザッシュマの言葉とは思えないのですが」
「あれは正式に依頼を受けての仕事だったからな。俺は雇い主たるメルフリード殿のために力を尽くしたに過ぎんよ」
俺は何となく、ザッシュマに裏切られたような心地になってしまっていた。
この旅で、俺はこれまで以上に強い信頼と友愛を抱くようになっていたのに――ザッシュマの口から、そんな言葉を聞きたくはなかった。
「わかりました。それなら俺は俺の流儀でやらせてもらいます」
そのように宣言してから、俺はアイ=ファを振り返った。
アイ=ファはとても静かな目で、俺のことを見返してくれた。
「商売については、すべてお前に一任している。さきほどの者たちも述べていた通り、お前はお前の信ずる道を進むがいい」
「わかった。ありがとう、アイ=ファ」
もちろん俺だって、分不相応のふるまいに出るつもりはない。少しばかりジェノスの貴族と面識を得ただけで、それを自分の力と取り違えるような真似はつつしむべきであろう。
だけどそれでも、真実を明るみに引っ張り出す一助にぐらいはなれるはずだ。
そんな思いを胸に、俺はディゴラたちのもとに戻ることにした。
「あの、ギバ肉の味見に関しては、すでに望みを果たすことができました。いつの日か、きちんと商売の約束をできるようになりましたら、またあらためてお話をさせていただきたく思います」
「はい。その頃には余所の町から肉を買う力などは残っていないやもしれませんが、またのご来訪を楽しみにしております」
力ない笑顔で、ディゴラはそう言った。
頭の中身を整理しながら、「それでですね」と俺は言葉を重ねてみせる。
「ジェノスにおけるカロンの買い付けに関してですが、もしかしたら、自分も少しだけ力になれるかもしれません」
「アスタ殿が、我々の力に?」
「はい。現在の有り様がジェノスの総意であった場合は、誰にどうすることもできないでしょうが、もしもそれが一個人の謀略であった場合は――きっと、事態を正しい姿に戻すことができると思います」
ディゴラはきょとんと目を丸くしており、メイロスはうろんげに眉をひそめている。
「トゥランの前当主が失脚したのち、ジェノス侯爵は食材の流通に関しての健全化を推し進める方策であるようでした。対外的には誠実かつ公正であったトゥランの前当主も、ジェノスの内部にあっては決して誠実でも公正でもなかったのです。前当主からその仕事を引き継いだ人物は、ジェノス内における食材の流通がもっと正しく機能するようにとジェノス侯爵から特命を受けているはずなのですよ」
「はあ……」
「ですから、ダバッグからカロンを買い叩く、という行為がジェノス侯爵自身の意向であった場合はそれまでですが、もしも後任者やその近くにいる人間が独断でそのようなふるまいに出ているとしたら、それはきっとジェノス侯爵から掣肘されることになると思います」
「しかし、ジェノスの益になることならば、たとえ何者かの独断であっても、ジェノス侯爵の怒りに触れることにはならないのではないでしょうかね」
ザッシュマと同じ理論である。
しかし俺は「いえ」と首を振ってみせた。
「トゥランの前当主の旧悪が暴かれた現在、ジェノス侯爵は非常に対外的な評判を気にかけている時期であるはずなのです。辺境都市でありながらセルヴァでも屈指の豊かさを持つという評判のジェノスは、いくぶん王都から危険視されているようなのですよ」
「はあ……」
「ですから、ジェノスがダバッグに対して経済的な侵略を試みることなど、本来は許されない行為であるはずです。なので、今回の首謀者がジェノス侯爵の目を盗んでダバッグに不当な商売を持ちかけているとしたら、それは粛正の対象にもなりうるのではないでしょうか」
「要するに、あなたは何が仰りたいのでしょうかな、アスタとやら?」
メイロスが、仏頂面で問うてくる。
そちらに向かって、俺は結論を申し述べてみせた。
「何も難しい話ではありません。自分はただ、ジェノス侯爵に現在の状況を伝えたいと思います。すべての決定権は領主たるジェノス侯爵にあるのでしょうから」
「いやいや、何の責もないアスタ殿が侯爵家に陳情などと、そこまで危険な真似をさせてしまうわけには――」
「陳情だなんて、そんな大仰なものではありません。ただ、知り合いの貴族を通じてジェノス侯爵の耳に入れるだけです」
「知り合いの貴族ですか。それはもちろん、わたしとてダバッグ伯爵家の傍流たる血筋でありますが、爵位継承権も持たぬ身では貴族を名乗る心持ちにはなれません。そのていどの人間を頼りにしていては、やはりあなたも身を滅ぼす結果になりかねないでしょう」
メイロスはしわがれた声でそのように言い捨てた。
このダバッグでも、やはり貴族と縁のある血筋でなければ公職にはつけない習わしであるらしい。
そんなメイロスを安心させるために、俺は「そうですか」と笑いかけてみせる。
「でも、心配には及びません。その人物は、ジェノス侯爵と忌憚なくお言葉を交わせる立場であるようですし、これまでも、たびたび森辺の民とジェノス侯爵の橋渡しを担ってくださっていたのです」
「はう?」とディゴラがおかしな声をあげた。
「ちょ、ちょっとお待ちください。ジェノス侯爵と忌憚なく言葉を交わせる立場とは……それはいったいいかなる立場の人物なのでしょうか?」
「それは、ダレイム伯爵家の第二子息で、ポルアースという御方でありますね」
ポルアースは本家の次男坊であるはずだから、爵位継承権だってしっかり持ち合わせていることだろう。
これで安心してもらえたかなと俺は思ったが、案に総意してディゴラはわなわなと震え始めてしまっていた。
「そんな馬鹿な……伯爵家の第二子息などという、そんな立場の御方が貴族ならぬ民と縁を結ぶはずが……」
「ええ、話せば長くなるのですが、たまさかご縁を結ぶことがかなってしまったのです」
「アスタとやら、戯れ言はそこまでにしていただきましょう」
と、強い口調でメイロスが言葉をはさんでくる。
「あるいは、あなたは思い違いをしてしまっているのでしょうな。そのような立場の人間にうかつな言葉を吐いてしまったら、それこそジェノス侯爵に陳情するのと大差のない悲劇が生まれてしまうことでしょう」
「そ、そうですな。御身を大切になさってください、アスタ殿」
ディゴラは何だか青ざめながら、泣き笑いのような顔になってしまっている。
いったいこの過剰な反応は何なのだろうと思っていると、いきなり横合いから豪快な笑い声が聞こえてきた。
メイロスたちは一瞬びくりとしてから、笑い声の主をにらみつける。
笑っているのは、ザッシュマであった。
「失礼した。どうにも話が進まぬようなので、俺が口をはさませてもらってもかまわないかな、アスタよ?」
「はあ」と俺も不信感を込めてザッシュマを見る。
ザッシュマは取りすました顔をかなぐり捨てて、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。
「つまり、平民の中でも下賤とされている森辺の民が貴族などと縁を結んでいるということが、このダバッグのみなさんには信じられないのだろうさ。そこのところを詳しく教えてさしあげれば、きっと納得してもらえるのではないのかな」
「わ、我々は決して森辺の民を下賤だなどとは――」
「ああ、言葉のあやだから、そこのところは気にしなくていい。要するに、トゥラン伯爵家の前当主サイクレウスを失脚させたのは森辺の民なんだよ、ディゴラ殿にメイロス殿」
押し黙る両名を見て、ザッシュマはいよいよ愉快そうに笑う。
「信じ難い話かもしれないが、それが真実だ。サイクレウスは森辺の民を利用して悪行を働いていたから、その不始末に決着をつけるために、森辺の民はサイクレウスを討ち倒すことになった。その結果として、森辺の民はダレイム伯爵家の第二子息を筆頭とする数々の貴族たちと縁を結ぶことがかなったってわけだな」
「い、いくら何でもそんな馬鹿げた話が――」
「馬鹿げていても、それが真実なんだ。かくいう俺も、別方向からサイクレウスを追い詰めていた一派に属していた身でね。最終的には、森辺の民と手を取り合ってサイクレウスと対決する羽目になったわけさ」
そんな明け透けに語ってしまって大丈夫なのだろうかと、俺は息を詰めながらザッシュマの弁舌を聞くことになった。
「だから何も心配することはない。ダレイム伯爵家の第二子息なんかは、10日と空けずアスタの店まで出向いているそうだからな。ジェノス侯爵への言伝を頼むぐらいは、わけもないだろうさ」
「…………」
「ちなみにこのアスタは城下町で晩餐会の料理番をつとめることもあったから、ジェノス侯爵自身とも面識を得ている。森辺の族長を通じれば、侯爵自身に話を通すことだって容易いだろうさ」
「…………」
「いや、森辺の族長と言葉を交わすのはジェノス侯爵ではなく、その第一子息たるメルフリード殿であったか。まあ、あの御仁であれば侯爵自身よりもいっそう熱心に森辺の民の言葉に耳を傾けてくれることだろう」
「ジェ、ジェノス侯爵家の第一子息――!」
もはやディゴラは死人のような顔色になってしまっていた。
メイロスは、椅子の肘かけを握りしめた状態で、痩せた顔いっぱいに脂汗を浮かべている。
「俺もかの御仁とは縁を持つ身だが、メルフリード殿というのはちょっと空恐ろしいぐらい法や道理を重んじる気性でな。薄汚い謀略で私腹を肥やしている人間などがいるならば、きっと力を惜しまずに断罪の刃をふるってくれるだろう。……ただし、それがジェノス領内の罪人であった場合は、だけどな」
「わ、我々は罪など犯していない!」
ディゴラが椅子を蹴って立ち上がった。
そのでっぷりとした姿を見据えながら、ザッシュマは「そうかい」と笑う。
「だったら、毅然としていればいい。ジェノス侯爵もそのご子息も、ダバッグ領内の揉め事なんかに関心はないだろう。どんなにダバッグの領民が苦しんでいたって、ジェノスには何の関わりもないことだからな」
「…………」
「アスタが一番最初に言った通りだよ。おかしな商売を持ちかけているのが領主自身の意向であるなら、誰にも文句のつけようはない。しかし、それが一個人の謀略であった場合は、その土地の領主に粛正されることになるだろうな」
「ザッシュマよ、けっきょくお前さんは何が言いたいのだ? 俺はそろそろ腹が減ってきてしまったのだが」
そのように発言したのは、ひさびさのダン=ルティムであった。
そちらを振り返りながら、ザッシュマはふてぶてしく笑う。
「牧場の連中は、サイクレウスが失脚して以来、損をするようになったと言っていた。それじゃあその分の得をしたのは誰かって話さ。得をしたのがジェノスかダバッグの領主なら、誰にも文句のつけようはない。しかし、領主の目を盗んで私腹を肥やしているような人間がいるならば、そいつらは領主の手によって断罪されることになるだろう」
「ふむ、やっぱりよくわからん」
ダン=ルティムはそう言ったが、俺にはわかってしまった。
というか、ディゴラたちの顔色を見れば、嫌でも理解せざるを得なかった。
私腹を肥やしていたのはトルストでもその部下でもなく、「ジェノスから肉を買い叩かれている」と虚偽の報告をしていた、この男たちであったのだ。
「近日中に、ジェノス城からダバッグの領主に使者が出されるだろう。脅しまじりにカロンを買い叩いているなんていう悪評をたてられたら、あちらさんも黙ってはいられないだろうからな。真実はどこにあるのか、ふたつの町の領主様たちが手を取り合って解明してくれるだろうさ」
ザッシュマは、笑顔でそのように締めくくった。
ふたりの罪人たちは、呆然としたまま言葉を発することもできなくなってしまったようだった。