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異世界料理道  作者: EDA
第十七章 ダバッグ見聞録
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ダバッグ見聞録⑥~就寝~

2016.3/4 更新分 1/1

 その後は新たな波乱に見舞われることもなく、俺たちはそれぞれの部屋で就寝することになった。


「かんぬきさえ掛けておけば、物盗りに踏み入られることもないだろうけどな。ま、油断せずに一夜を過ごしてくれ」


 4つの部屋に、12名の仲間たちがぞろぞろと引っ込んでいく。集落の外で過ごす初めての夜に、リミ=ルウなどはとてもはしゃいだ顔をしており、トゥール=ディンなどはたいそう不安げな面持ちをしていた。


 だけどきっと、肉体面における疲労はみんな同一であろう。俺も気分は昂揚していたが、身体のほうは疲れきっている。今夜は夢も見ずにぐっすりと眠れそうであった。


「アスタよ、少し待て」


 と、ダン=ルティムに続いて入室しようとした俺は、アイ=ファに呼び止められることになった。


「眠る前に、話がある。……お前たちは、先に休んでいてくれ」


 ディム=ルティムはうろんげな顔つきをしていたが、何も言わずに部屋の中へと消えていった。

 すべての扉は閉ざされて、通路には俺とアイ=ファだけが取り残される。


 階段の登りしなと通路の一番奥にひとつずつ燭台が掲げられているのみなので、あたりはかなりの暗がりである。

 その暗がりの中で、アイ=ファは静かに俺を見つめ返してきた。


「どうしたんだ? 何かの確認か?」


「うむ。こちらの部屋は左右の壁際に寝床が作られていたが、それはお前の部屋も同様か?」


「ああ、うん、たぶん同じ造りだと思うよ」


「そうか。ならば、お前は右側の寝床で眠れ。私は左側の寝床で眠る」


 今ひとつ意味がわからなかった。

 室内には左右の壁際に二段ベッドがそれぞれ設えられているのだが、その位置取りにどのような意味が生じるのだろうか。


「……お前の部屋は左側にあるだろうが? だから、私たちがその位置を選べば壁一枚を隔てつつも、もっとも近しい場所で眠ることができる。危急の際は、壁を叩いて私に知らせろ」


「ああ、そういうことか」


 俺は思わず笑ってしまった。


「かんぬきがあるんだから、そこまでの心配は無用だろう? 仮に扉を壊して押し入ってこようとするような連中がいたら、俺が目を覚ますよりも早くアイ=ファやダン=ルティムが気づいてくれるだろうし」


「そんなことはわかっている。しかし、スン家での一件のようなことがないとも限るまい。あのときは、私よりもお前のほうが早く異変を察知することになったではないか」


 それは遥かなる昔日に行われた家長会議の一件のことか。

 確かにまあ、あのときは俺が嗅覚によっていち早く異変を察知することができた。が、ダン=ルティムがともにあれば、そんな心配も不要であろう。

 しかしまた、これ以上アイ=ファに口答えする気にもなれなかった。


「わかったよ。用心しておくから、心配しないでくれ」


「用心をするのは私たちの仕事だ。お前はゆっくりと身体を休めればそれでいい」


「了解いたしました。それじゃあ、また明日な」


 あくびを噛み殺しつつ、俺は扉に手をかけようとした。

 しかしアイ=ファに再度「待て」と呼び止められてしまう。


「アスタ、お前は……眠そうだな?」


「うん? まあ、ほどほどにね。ふだんだったら、とっくに眠ってる頃合いだろうし」


「そうか。ならば、眠るがいい」


 そんな風に言いながら、アイ=ファの唇はほんの少しだけとがりかけていた。


「どうしたんだ? 何かあるなら、話しておいてくれよ」


「何もない。ただ、眠る前にはお前と言葉を交わすのが日頃の行いであったから、いささか物足りなく感じただけだ」


 言いながら、アイ=ファの唇はますますとがっていく。


「それに、今日は朝から夜まで常に余所の人間がともにあり、お前とはほとんど会話らしい会話もしていないように思える」


「……確かに、言われてみればその通りだな」


 とても温かい気持ちに満たされながら、俺は扉にのばしかけていた手を引っ込めた。


「それじゃあ寝る前に少しおしゃべりしていこうか。……アイ=ファのほうは眠くないのか?」


「べつだん、ふだんと変わりはない」


 とがりかけていた唇を定位置に戻しつつ、アイ=ファは扉と扉の間の壁にもたれかかった。

 俺もアイ=ファを見つめながら、同じように背中をつける。


「じゃあ、何の話をしようか? ここはやっぱりダバッグについてかな?」


「知らん。いつも通り、お前が好きなことを話せばいい」


 人を引き止めておきながら、実にそっけない家長殿である。

 俺はこっそり苦笑しつつ、頭の中で話題を探した。


「晩餐のとき、アイ=ファは全然料理の感想を口にしていなかったけど、やっぱりあんまり好みに合わなかったのかな?」


「うむ。ダン=ルティムの言う通り、森辺の民はギバの肉を食べるべきなのだろう。あれらの肉は、食べすぎると身体の毒になるように感じられた」


「ああ、カロンの脂はギバの脂よりちょいと重たい感じだったもんな。……そういえば、ダン=ルティムもふだんよりほんの少しだけ食べる量を控えているように感じられたっけ」


「そうであろう。なおかつあれらの料理は血抜きをしていないギバ肉に比べれば格段に美味であるはずなのに、私には何だか物足りなく感じられてならなかった」


 ダン=ルティムはそれなりに満足そうな様子をしていたが、アイ=ファのほうにははっきりと不満が残っている様子であった。

 まあ、かまど番たる女衆らと違って、森辺の狩人たちに異郷の料理をありがたがる理由は一片も存在しない、ということか。


「うーん、きっとディム=ルティムも同じような感想なんだろうな。ちょっと申し訳ない気分になってきてしまったよ」


「そのようなことはこの地に来る前から予想はついていたので、どうということはない。申し訳なく思うなら、明日の晩餐で美味い食事を作れ」


「うん。森辺に帰りつく頃には日が暮れてるだろうけど、せいいっぱい頑張らせていただくよ」


 俺はアイ=ファの横顔に笑いかけた。

 アイ=ファはちらりと俺のほうを見てから、また正面に視線を戻してしまう。


「でも、カロン料理がお口に合わなかったとなると、旅の楽しさも半減だな」


「私は護衛役としてこの場にあるのだ。仕事に楽しいも苦しいもない」


「そうなのか? ダン=ルティムなんかはとても楽しそうにしているけど」


「あれはダン=ルティムがそういう人柄であるに過ぎん。ディム=ルティムやジーダなどは、きっと私と同じ心情であろう」


「うーん、そいつはつくづく残念だなあ。アイ=ファにもこの旅を楽しんでもらえれば良かったんだけど」


 俺の言葉に、またアイ=ファは横目の視線をよこしてくる。


「これはかまど番のための旅であろう? 護衛役の私たちが楽しみを覚える必要はどこにもない」


「それはそうかもしれないけどさ。森辺の民にとっては、これぐらいの小旅行でも滅多にない一大事じゃないか? 俺なんかはとても楽しみにしていたし、実際に楽しかったから、自分ばかりが楽しんでいたなら申し訳ないなと思えちゃうのさ」


「…………」


「まあアイ=ファにしてみれば、大事なギバ狩りの仕事を放り捨ててまで同行しなくちゃならなかったんだもんな。そういう意味でも、本当に申し訳なく――」


「楽しい」


「え?」


「今、楽しい」


 きょとんとする俺に向かって、アイ=ファはぶっきらぼうに言い捨てる。


「朝からほとんど言葉を交わしていなかったせいか、今こうしてお前と言葉を交わしていることが、とても楽しく感じられる。それに、これからまた別々の場所に離れて眠らなければならぬのかと思うと、よけいに今のこの時間が貴重で得難いもののように感じられてしまう」


「そ、そうなのか? むしろ不機嫌そうに見えるぐらいなんだけど」


「それは、お前の目が節穴だからだ」


 燭台の光の下で、俺はアイ=ファの顔をじっと見つめ返すことになった。

 不機嫌そうと言ったのは言葉のあやで、アイ=ファはひたすら無表情なばかりである。その青い瞳も、とても静かだ。


「それにまた、お前やリミ=ルウが楽しそうにしている姿を見るのは、私にとって深い喜びだ。そういう意味でも、私にとっては幸福な一日だった。だから、お前がそのように詫びる必要はまったくない」


 俺は何だか胸が詰まってしまい、「そうか」としか答えることができなかった。

 そんな中、アイ=ファはさらに言葉を重ねてくる。


「そのようなことよりも、アスタよ、私はひとつ、お前に打ち明けておかなければならないことがある」


「うん、何だい?」


「晩餐の前に、私はお前の手を振り払ってしまった。あの一件についてだ」


「あれは、いきなり後ろから手をつかまれて驚いただけなんだろう? 自分でそう言っていたじゃないか」


「その通りだ。別に虚言を吐いたつもりはない。……しかし、自分の気持ちや考えをすべて伝えたわけではない。だからそれを伝えておこうと思う」


 とても静かな声で言いながら、アイ=ファは少しだけ俺のほうに顔を寄せてきた。


「おそらく、以前までの私であったら、あそこまで驚くことはなかったであろう。しかし……10日ほど前にあのような話をしたために、私の心情に変化が訪れてしまったようなのだ」


「心情の変化って……俺と触れ合うのが苦痛になってきたってことか?」


「そんなことはありえないと言ったはずだ。お前は私の言葉を疑うのか?」


 少し怒ったような声で言い、アイ=ファは俺の頬にそっと右手をのばしてきた。

 温かい手の平に左の頬を覆われて、俺は心臓をどきつかせてしまう。


「この通り、きちんと心の準備をしておけばどうということはない。だが、何の前触れもなしに腕などをつかまれてしまうと、なんだか刀を突きつけられたような心地になってしまうのだ」


「そうか。だったらアイ=ファを驚かせてしまわないように、今後は気をつけるよ」


「そうではない。そのように思われたくないから、このように説明しているのだ」


 俺の頬に手をあてたまま、アイ=ファはまた唇をとがらせ始めた。


「同じようなことが起こった際、私はまた同じようなふるまいに出てしまうかもしれんが、それはお前を忌避してのことではない。だからお前は何も気にせず、これまで通りにふるまえばいい。私が少し心を乱してしまっているからといって、お前がこれまで通りにふるまえなくなるのは、嫌なのだ」


「大げさだな。人の気持ちなんて変わっていくものなんだから、そこまで深刻にとらえなくてもいいんじゃないか?」


 ぞんぶんに感情を揺らされながら、それでも俺は笑ってみせた。


「昔なんて、俺が頭を撫でただけでも殴りつけてきたじゃないか? それに比べたら、手を払われるぐらい、どうってことないさ」


「ならば、これまで通りにふるまうと誓うか?」


「誓うさ。俺だって、何があってもアイ=ファを避けたりはしないよ」


 言いながら、俺は頬にあてられたアイ=ファの手に自分の手を重ねてみせた。

 ぴくりと一瞬震えながらも、アイ=ファは手をひっこめようとはしなかった。


「……どうだ。きちんと心を整えておけば、このように気持ちを乱されることもない」


 そのように言って、アイ=ファは誇らしげに微笑んできた。

 そのひさびさの笑顔を見た瞬間、俺は衝動的にアイ=ファの身体を抱きすくめてしまいそうになった。

 だけどきっと、それは「これまで通りのふるまい」に含まれないだろう。

 だから俺は何とか自制して、一心にアイ=ファの笑顔を見つめ返した。


「おかしな話を並べたててすまなかったな。しかしお前には心情を隠したくなかったのだ」


「うん、正直に話してくれて嬉しいよ」


「嬉しいと言ってもらえるなら、私も嬉しく思う」


 その言葉通りの表情で目を細めながら、アイ=ファはようやく右手を下ろした。

 俺の左頬から、ゆっくりとアイ=ファの温もりが消えていく。


「では、そろそろ休むか。さきほどの言葉を忘れてはおらぬだろうな?」


「ああ、右側の寝床な。ちなみにアイ=ファは上下のどちらの段なんだ?」


「リミ=ルウが面白がって上の段を選んだので、私は下側だ」


「そうか。それじゃあ俺も下側にするよ」


「うむ」とアイ=ファは厳粛にうなずく。


「それではな。明日に備えて、ゆっくり身体を休ませろ」


「アイ=ファもな。おやすみ」


 最後にアイ=ファの姿を目に焼きつけてから、俺は扉の中に足を踏み入れた。

 とたんに「遅かったな」というディム=ルティムの声が飛んでくる。


「こんなに長々と何を語らっていたのだ? まさか、まだ部屋割りについて文句を抜かしていたわけではないだろうな?」


「そんなんじゃないよ。ちょっと色々と確認事項があったものでね」


 その部屋は6畳ていどの大きさで、左右の壁際には二段ベッドが設置されており、あとはその隙間のささやかなスペースに小さな卓と2脚の椅子が置かれているばかりであった。


 正面の壁には大きな格子戸が設けられており、今は全開となっている。ディム=ルティムはその窓の横木に腰をかけており、ダン=ルティムは左側の寝台ですでにすぴすぴと寝息をたてていた。


「もしかしたら、外の様子を監視していたのかい? まさか寝ずの番をするつもりではないんだろう?」


「そこまでするつもりはない。お前が戻ってくるのを待っていただけだ」


 不機嫌そうに言いながらディム=ルティムは床に降り、両開きの窓をぴたりと閉ざした。

 2階なのだから開けたままでも良いとは思うが、隙間の多い格子戸なので、べつだん通気性に問題はない。


「まあ、俺が眠りこけていてもダン=ルティムがいる限りは何の心配もいらぬがな。お前も、安心して休むがいい」


「わかった。ありがとう。……ディム=ルティムは本当にダン=ルティムのことを信頼しているんだね」


「当たり前だ。ダン=ルティムは森辺で一番の狩人だと俺は信じている」


 挑むように言いながら、ディム=ルティムは俺の正面まで歩を進めてくる。

 毛皮のマントは壁に掛けられていたので、彼は普段よりもいっそうほっそりとして見えた。


「だから、晩餐の前のファの家長の言い草は本当に腹立たしかった。お前の家長は、ダン=ルティムの力を侮っているのではないのか? たとえ手傷を負っていようとも、町の人間などに遅れを取るダン=ルティムではないのだぞ?」


「アイ=ファは決してそんなつもりで言ったんじゃないんだよ。力比べで手合わせしてるんだから、ダン=ルティムの実力は誰よりも知っているはずさ」


「……ファの家長はその力比べでダン=ルティムと互角に近い勝負をしたそうだな。この目で見ない限りはとうてい信じられない話だ」


「俺はこの目で見ていたよ。ディム=ルティムはあの場にいなかったんだね」


 俺の言葉に、ディム=ルティムはいきなり頬をふくらませてしまった。


「俺はその頃まだ12歳で、力比べには参加できなかったのだ。次の収穫祭では、ルティムの狩人として恥ずかしくない力を見せてくれよう」


「そうか。怪我が治ったばかりで大変だろうけど、頑張ってね」


 すると今度は眉尻を下げて、可愛らしい寝息をたてているダン=ルティムのほうに視線を転じる。


「しかし、休息の期間まではあとひと月ていどしか残されていない。いまだ杖を手放せないダン=ルティムがそれまでに完全に力を取り戻すことは、やはり難しいのだろうか……」


「どうだろうね。それでもダン=ルティムが生半可な相手に負ける姿は想像できないけど」


 なんだかディム=ルティムはすっかり子供っぽい表情になってしまっていた。

 まあ13歳という年齢を考えればこちらのほうが自然なぐらいであるのだが、ふだんの張り詰めた表情からは想像もつかないぐらいの幼げな顔つきであった。


「ダン=ルティムは、俺の不始末のせいでこのような手傷を負うことになってしまったのだ。そのせいで家長を下りることにまでなってしまって……そのことが、俺には口惜しくてならない」


「ああ、そうだったんだ? それは――さぞかしつらかっただろうね」


 年上ぶって、俺はディム=ルティムに微笑みかけてみせる。


「でも、ダン=ルティムはガズラン=ルティムに家長の座を引き継がせることができて、ものすごく幸福そうな顔をしていたじゃないか? それに、狩人としての力量と家長としての力量は別物だとも言ってたし。ディム=ルティムがそこまで気に病む必要はないんじゃないのかな」


「そんなことはない。ダン=ルティムほど正しい力で一族を導ける家長は他に存在しないだろう」


 ディム=ルティムは強情に言い張って、首をぶんぶんと横に振った。

 ますます子供めいた仕草である。


「そうだね。でも、そのダン=ルティムが力を認めたんだから、何の心配もいらないと思うよ。二代続いて素晴らしい家長を得ることになったルティム家の未来は安泰さ」


「……本当にそう思うか?」


「うん。本当にそう思うよ」


 ディム=ルティムはしばらく切なげな面持ちで俺の顔をにらみつけていたが、やがて「寝る」と言い捨ててそっぽを向いた。


「お前も眠れ。明日も早いのだろうが? 夜の間は決して勝手に動くのではないぞ?」


「うん、了解。……あ、悪いけど、下の段を譲ってもらえないかなあ?」


 ディム=ルティムは無言のまま身体の向きを変え、木造りの簡素な梯子をのぼっていく。

 俺はほっと息をつきながら、予定通りの寝床へと身を横たえた。


 固い木の上に何枚かの布を敷いただけの寝床だが、きちんと枕まで備えられていたので不満などは持ちようもない。ふかふかの羽毛の敷物などが準備されているのは、きっと城下町ぐらいなのだろう。


 薄手の毛布は腹の上にだけ掛け、俺は左手側に身体を傾ける。

 頑丈そうな、板の壁だ。

 この向こう側で、アイ=ファも同じように身を横たえているのだろう。

 その木の壁にそっと手の平を押し当ててから、俺はまぶたを閉ざすことにした。


(何の前触れもなしに腕などをつかまれてしまうと、刀を突きつけられたような心地になってしまう、か……)


 ゆっくりと遠ざかっていく意識の中で、アイ=ファの言葉や表情がリフレインしていく。


 できることなら嫁にしたいぐらい、アイ=ファの存在に心をひかれている――そんな言葉を聞かされてしまったら、アイ=ファだって気持ちを乱されてしまうのが当然のことだろう。俺だって、性別が逆であったらどれほど幸福であったことか――というアイ=ファの言葉を聞いて、ぞんぶんに気持ちを乱されてしまったのだから。


 俺たちは、伴侶にしたいと思うぐらい、おたがいの存在をかけがえのないものと思っていたのだ。

 それは絶対に、幸福なことであるはずだった。

 たとえ実際にそうすることが難しかったとしても――いや、そうすることが難しいにも拘わらず、変わらぬ気持ちを失わずにいる。そこまでの相手と巡り逢えたことが、不幸なことであるはずはなかった。


 だから、どんなに切なくても、苦しくても、悩ましくても、それを遥かに凌駕する幸福感と喜びを得ることができている。きっとアイ=ファもそうなのだと信じることもできる。それを思えば、じゃけんに手を振り払われたぐらいで、俺の気持ちが負の方向に転がることはなかった。


(俺はお前に出会えて幸せだよ、アイ=ファ)


 とろとろとまどろみながら、俺はそのように考えた。

 そしてそのまま眠りに落ちてしまったのだろうと思う。


 ゆえに、最初は何が起きたのかもわからなかった。

 時間の感覚も消失している。

 ただ、気づくと俺は暗がりの中でダン=ルティムの高笑いを聞いていた。


「うわははは! 何やら騒がしいと思ったら、お前たちはあのときの無法者だな! いったいどのような目論見で俺たちの寝所にもぐりこんできたのだ?」


 何か夢でも見ているのだろうかという心持ちで、俺はのろのろと身を起こした。

 まだ燭台の火は消えておらず、室内には頼りないオレンジ色の光がたゆたっている。

 その中で、ダン=ルティムが仁王立ちになっていた。


「ダン=ルティム……いったいどうしたんですか?」


「おお、起こしてしまったか! 何でもないのだ! アスタは眠っているがいい!」


 そうは言っても、ダン=ルティムの大声を聞いているだけで眠気はひいていってしまう。

 それでもまだ夢うつつであった俺は、視線を下方に転じることで、ようやくはっきり覚醒することができた。


 ダン=ルティムの太い足に、ひとりの男が踏み潰されていたのだ。

 げっ歯類のような顔つきで、頬には古傷が見える。あの晩餐のときにちょっかいをかけてきた小男だ。

 小男は苦悶に顔を引き歪めており、そして、少し離れたところには抜き身の短剣が転がっていた。


「おい、あまり暴れるな。俺の足はまだ手傷が治りきっておらんから、力加減が難しいのだ。あまり暴れると背骨を踏み砕いてしまうやもしれんぞ?」


 手足をばたばたと動かしながら、小男は「ぐええ」と濁ったうめき声を床に垂れ流す。

 さらに目が暗がりになれてくると、ダン=ルティムの背後に別の人影を見出すことができた。

 ディム=ルティムが、やはり見覚えのある大男の腕をねじりあげて、床の上に組み伏せていたのだ。


「どうやら建物の上から縄でも垂らして侵入してきたらしい。窓にはかんぬきも掛けられないからな」


 寝る前には子供っぽい表情を見せていたディム=ルティムも、狩人の眼光になっていた。


「くそっ! 離しやがれ! 他の部屋の女どもがどうなってもかまわねえってのか!?」


 必死の形相で、大男がわめく。

 次の瞬間、ごきりと不気味な音色が響いた。

 ディム=ルティムが、大男の肩の骨を外したらしい。

 大男は、可聴範囲ぎりぎりの甲高い悲鳴をほとばしらせた。


「おい、ディム=ルティムよ、むやみに罪人を傷つけるものではない」


「はい。ですがこの者らは許しもなく寝所に踏み入ってきた上、刀まで抜いています。右腕と足の指を切り落とされても文句は言えぬ身でありましょう」


「ここは森辺ではないのだから、都の法に従わせるべきだ。……それに、むやみに傷つけると悲鳴がやかましいではないか」


 そのように言いながら、ダン=ルティムは「ふわあ」と大あくびをした。

 あれだけ大酒をかっくらって気持ちよさそうに眠りこけていたはずであるのに、やはり町の人間が森辺の狩人を出し抜くことは不可能であるらしい。


「さて。こやつらは5人連れであったはずだな。他の部屋の様子でも見てくるか。アスタよ、悪いが革紐を取ってくれ。狩人の衣の隠し袋に何本か入っているはずだ」


「はい」


 言われずとも、俺も他のみんなの安否こそが一番の気がかりであった。

 こんなに心強い狩人たちに守られているのだから、何も心配をする必要はないのであろうが、それでもやっぱり無事な姿を見るまでは胸が騒いでしまう。


 ということで、俺たちは2名の無法者の手足を革紐でくくり、全員一緒に部屋を出ることになった。

 完全に静まりかえった通路を歩き、まずは隣室の扉をダン=ルティムが叩く。


「おおい、アイ=ファよ。そちらに変わりはないか?」


 しばしの静寂ののち、ガタゴトとかんぬきの外される音色が響いた。

 現れたのは、リミ=ルウの笑顔である。


「あ、アスタたちも無事だったんだね! よかったー! こっちもみんなアイ=ファがやっつけてくれたよー?」


 リミ=ルウの頭を撫でながら部屋の中を拝見させていただくと、ちょうど俺たちと同じように賊を拘束し終えたらしいアイ=ファが、優雅に立ち上がるところであった。

 もちろんアイ=ファも就寝中であったため、狩人の衣は纏っておらず、金褐色の髪がふわりとたなびいている。その姿の変わらぬ優美さと力強さを確認して、俺はようやく安堵の息をつくことができた。


「何だ、残りの連中は全部こちらの部屋に押しかけていたのか」


 ダン=ルティムは笑いながら言い、アイ=ファは「うむ?」と小首を傾げた。呆れたことに、アイ=ファの足もとには3名もの無法者が転がされていたのだった。


「こちらには2名の賊が押しかけてきたのだ。他に仲間がいなければ、これで全員だな」


「ああ、そういうことか。……お前たちも、もう心配はいらぬぞ」


 そう言って、アイ=ファはあらぬ方向にうなずきかける。見ると、寝台から下りたマイムとトゥール=ディンがまるで姉妹のようにぴったりと身を寄せ合って小さく肩を震わせていた。


「しかし、他の仲間がいないとも限りません。俺が縄を伝って建物の上を確認してきましょう」


 そのように宣言するなり、ディム=ルティムが部屋を横断して開け放たれた窓のほうに近づいていく。


「では、俺は他の部屋の様子を見てこよう。こやつらをどのように扱うべきか、ザッシュマに相談もせねばならぬからな」


 ダン=ルティムが扉を閉めようとしたので、俺は「あの」と声をあげる。


「俺はここに残ってもいいですか? トゥール=ディンたちが心配ですし」


「うむ。ならばアイ=ファのそばから離れるのではないぞ?」


 ダン=ルティムは杖をつきながら通路を歩いていき、俺は室内に踏み入ろうとした。

 が、足速に寄ってきたアイ=ファによって、通路のほうに押し戻されてしまう。


「待て。お前も手傷などは負っておらぬだろうな、アスタよ?」


「ああ、もちろん。目を覚ましたときにはダン=ルティムたちが賊を制圧してくれていたよ」


「そうか」とうなずいてから、アイ=ファはそばにいたリミ=ルウの頭をポンと叩いた。


「リミ=ルウよ、私は少しアスタと話がある。ディム=ルティムが戻ってくるまで、決して窓のほうに近づくのではないぞ?」


「うん、わかったー!」


 リミ=ルウはてけてけとトゥール=ディンたちのもとに戻っていく。

 3名の賊たちは、いずれも完全に意識を失ってしまっているらしく、手足をくくられた状態でぴくりとも動かない。その様子をもう一度確認してから、アイ=ファは部屋の外に出てきた。


 入れ替わりでダン=ルティムはザッシュマの部屋に消えていき、また通路には俺とアイ=ファだけが取り残される。

 扉を半分だけ閉めたアイ=ファは、リミ=ルウたちの視線から逃れるように、俺を壁側に追いやった。


「どうしたんだ? もしかしたら、危急の合図を出せなかったことを怒ってるのか? 壁を叩く間もなく、賊は制圧されちゃったんだよ」


「そのようなことではない。2名の賊しかいなかったのなら、お前が目を覚ますより早く退治されて当然だ」


 ならば、どうしてそのように思いつめた眼差しをしているのだろう。

 アイ=ファはぎゅっと唇を噛みしめてから、俺の正面に進み出てきた。


「アスタよ、心を整えておけ。私は、整っている」


「え? それはどういう――」


 俺が言い終える前に、アイ=ファの両腕は俺の身体を抱きすくめていた。

 一瞬意識が飛びそうなほど驚いてから、俺はアイ=ファの両肩をつかむ。


「ど、どうしたんだよ? こっちも危険はなかったってば」


「わかっている。それでも、死ぬほど心配であったのだ」


 囁くような声で言い、アイ=ファはさらに力を込めてくる。

 アイ=ファの体温と甘い香りが、すさまじい勢いで俺の心を満たしていった。

 幸福感のあまり、息が詰まってしまいそうなほどである。


「お前が無事でよかった。ダン=ルティムらの力量を侮っているわけではないが、やはり私の目の届かぬところでお前に危険が迫ると、身体を引き裂かれるように苦しくなってしまう」


「危険なことは何もなかったよ。でも、そこまで心配してくれてありがとう」


 言いながら、俺はアイ=ファの肩に置いていた手を片方だけ頭のほうに移動させた。

 やわらかい金褐色の髪に手を置いて、ほんの少しだけアイ=ファの頭を引き寄せる。

 とたんにアイ=ファは「うう」と息をもらし、俺の身体を突き放してきた。


「と、とにかくお前が無事でよかった。もうこの夜に危険が迫ることはなかろうが、油断せずに安らかに眠るのだぞ?」


「油断せずに安らかにって、俺にはちょっと難しい芸当だなあ」


「やかましい。難しくとも、果たすのだ」


 そのように言いながら、アイ=ファは上目づかいに俺の顔をにらみつけてくる。

 長い髪で半ば隠されたその面は、何だか最近のアイ=ファには珍しいぐらい真っ赤に染まってしまっているようだった。

 そしてもちろん俺のほうだって、鏡を見るまでもなく同じような状態になってしまっていることは明白であった。


 そんな感じで、ダバッグの夜はささやかな波乱に見舞われつつも粛々と過ぎ去っていったのだった。

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