ダバッグ見聞録④~ラマムのしずく亭~
2016.3/2 更新分 1/1
数刻をかけてマロッタの牧場を見物しつくした俺たちは、今宵の宿を求めるべく、宿場の区域へと移動していた。
たくさんの建物が立ち並び、たくさんの人々が往来する、ジェノスの宿場町にも負けない賑わいである。が、敷地面積で言えば、ジェノスの半分ていどであるらしい。
「そりゃあジェノスは交易の要だろうけど、このダバッグはそのジェノスへの足がかりに過ぎないからな。ジェノスから西に向かう連中や、西からジェノスに向かう連中が一晩休むだけの場所に過ぎないんだよ、ダバッグってのは」
「なるほど。……でも、ジェノスが200年前に建立されるまでは、このダバッグがセルヴァで最東端の町であったということですよね? それなら、200年前まではこのダバッグが交易の要だったということですか?」
「違うな。ジェノスが建立されるまで、ダバッグから東に向かう街道は存在しなかった。で、南や北に通ずる道はいまだに作られていない。道がなければ、交易もへったくれもないだろう? そもそもカロンの肉しか売りのないダバッグじゃあ、シムやジャガルの連中が好きこのんで寄ってくる理由もないんだよ」
つまり、ジェノスが交易の要として栄えるまでは、ダバッグは文字通りカロンを育てるだけの僻地でしかなかった、ということらしい。
シムやジャガルと繫がる街道が作られることもなく、ひたすら西側の町にだけカロンを売っていた。それが、ジェノスが栄えたために、中継地点の宿場町としての存在価値を得ることになった、というわけだ。
「そんなわけで、宿場町としてはジェノス以上に急ごしらえってわけだ。それでもまあ、ジェノスに行き来する人間が多いおかげで、宿屋の数もそれなりだがね」
雑然とした町の中で、ザッシュマは笑いながらそう言った。
「だから、これだけの人数でも宿に困ることはないだろう。ちっとばっかり高くついても、女や子供が安心して眠れるような宿がお望みだろうな?」
「はい、そこは安全第一でお願いしたいです」
「それでもって、あとは美味い食事だな。よし、それじゃあ俺についてきてくれ。なかなか上等な料理を出す宿屋には心当たりがあるんだよ」
ここでもジェノスの宿場町と同様にトトスを走らせることは禁じられていたので、アイ=ファとディム=ルティムがそれぞれ手綱を持ってザッシュマの後を追うことになった。
で、俺も旅情を満喫したかったのでともに歩くことにしたのだが、荷車を降りるなりアイ=ファににらみつけられてしまった。
「何も危ないことはしないから、そんな目で見ないでくれよ。人混みはジェノスの宿場町でなれてるからさ」
「しかしこの町の住人は、良きにつけ悪しきにつけ森辺の狩人を恐れる気持ちが薄いようだ。歩きたいなら、ふだん以上に気を張って歩け」
「はい、了解いたしました」
しかしこのダバッグでは、町の入口に門衛を立たせて来訪者を選別している。どこかで木の柵を乗り越えて領内に侵入することは容易いのであろうが、それでも何となく、ジェノスよりは無頼漢が少ないように感じられた。
歩いている人間の大半は西の民で、商人風の身なりをした者が多く、刀を下げている者などは数えるほどしかいない。なおかつ、フードつきマントを着込んだ東の民はちらほらと見受けられるのだが、南の民に関しては今のところまったくと言っていいほど見当たらなかった。
「東の民は自分たちで身を守るすべを持っているが、西や南の民はちょっとした旅でも護衛役や案内人を雇わなきゃならないからな。ジェノスを訪れる南の民も、わざわざダバッグにまで立ち寄る気持ちにはなれず、まっすぐ故郷に帰っちまうんだろう」
「へえ、東の民には剣術の達人が多いのですか?」
サンジュラの姿を思い出しながら俺はそのように問うてみたが、ザッシュマの答えは「否」であった。
「東の民ってのは毒草の使い手として名高いから、それを襲おうとする野盗も少ないんだよ。迷信深い老人なんかは、いまだに東の民を呪術師だとか魔法使いだとか言って恐れているぐらいなんだからな」
なるほどなあと俺は納得する。
そういえば、シュミラルの率いる《銀の壺》も護衛役などを引き連れている様子はなかったし、ここまでの道程でもジェノスの宿場町でも単独で旅をするシム人の姿は珍しくなかったのだ。
そんな風にザッシュマとの雑談を楽しみながらてくてく石敷きの道を歩いていると、とある露店の商品が俺の目の端に引っかかった。
「あ、ちょっと待ってください! あの店を見てきてもいいですか?」
「何だ、食事だったら宿屋まで我慢しておけよ?」
「食事ではありません。あの、革細工のお店です」
反対側から、アイ=ファがまた無言でにらみつけてくる。
「実は前々から探していた品があるんだよ。ジェノスでは手頃なのを見つけられなかったんで、見てきたら駄目かなあ?」
アイ=ファは無言のまま、ギルルの手綱をザッシュマに託した。
そんなアイ=ファに守られながら、俺は目当ての露店へと近づく。
革細工の露店である。
布の敷物の上に、実にさまざまな商品が広げられている。さすがカロンの町だけあって、種類も品数もジェノスの宿場町の比ではない。
その中から、俺は目当ての商品を取り上げた。
四角い革製の鞄だ。
大きさは、25センチ×40センチほどで、厚みは15センチほど。木の板に革を張った頑丈な造りで、留め具は金具を使ったベルト状になっている。
取っ手と肩掛けが両方備えられているので、これなら持ち運びにも苦労はないだろう。
「すいません。ちょっと中身を拝見してもいいですか?」
丸い顔をした店番の女性が「どうぞ」と微笑んでくれたので、俺はいそいそと留め具を外した。
当然のこと、中身は空っぽだ。
内側にも、カロンの革がびっしり張りつけられている。
留め具や蝶番の具合にも不備はなく、密閉性もなかなかのようだ。
「いいですね。これはおいくらなんですか?」
「そいつは白銅貨6枚ですね」
白銅貨6枚。
俺の感覚では、日本円で12000円といったところか。
あんまり革細工を購入する機会はないのだが、大きな革袋が白銅貨1・5枚、トトス用の革鞭が白銅貨2枚、鞍と腹帯と手綱がセットで白銅貨5枚、といった値段を考えると――そんなに割高ではないように感じられる。そもそも俺の故郷では革製品ももっと高額であったのでなおさらだ。
「アイ=ファ、こいつを購入してもいいかなあ?」
俺が問うと、アイ=ファは不機嫌そうに目を細めた。
「お前の力で稼いだ銅貨は好きにつかえと、何べん同じことを言わせるつもりだ?」
「そうは言っても、宿場町での稼ぎはファの家の資産だろ? 家長の許しを得るのは当然じゃないか?」
「いいからお前の好きにしろ。……しかし、そのようなものを何に使うのだ?」
「そりゃあもちろん、調理器具を持ち運ぶときに使うんだよ。前々から、調理刀のための鞄が欲しかったんだ」
俺の言葉に、アイ=ファはふっと表情をやわらげた。
「……その中には、お前の父親の刀も含まれるのだろうな」
「え? うん、当然そうなるな」
「ならば、心置きなく買うがいい。それはお前に必要なものだ」
「わかった。ありがとう」
俺は腰の袋から言われた通りの額を差し出し、無事に革鞄を購入することができた。
さっそくそいつを肩に掛けながら、みんなのもとに舞い戻る。
「ああ、荷物入れですか。それはいい品を見つけましたね」
荷台から顔を覗かせたマイムがにこやかに笑いかけてきてくれた。
そちらに向かって、「そうだろう?」と俺は革鞄を掲げてみせる。
「マイムが使っている荷物入れを見て以来、俺もずっと探していたんだよ。これで調理刀の持ち運びも安心だ」
「ええ、よい刀は料理人の生命ですからね」
そうして5分ばかりも歩を進めて、いよいよあたりに夕闇のとばりが降り始めた頃、ザッシュマが「ここだな」と足を止めた。
3階建ての、かなり立派な宿屋である。
規模としては、ヤンがかまどを預かる《タントの恵み亭》と同じぐらいかもしれない。
ちなみに名前は《ラマムのしずく亭》であるとのことだ。
部屋の空き具合にも問題はなかったので、そこがこの一夜の宿に決定されることになった。
まずは主人の案内で、宿屋の裏手へと導かれる。
なんとそこには、専用のトトス小屋と荷車を保管するための倉庫まで備えつけられていたのだった。
「おや、このトトスらには焼き印を押していないのですな?」
主人の問いかけに、俺が「はい」とうなずいてみせる。
「その代わりに、このトトスたちには目印の首飾りをつけているのですが、これだけではまずいでしょうか?」
ギルルとルウルウの首にはそれぞれギバの牙や角の首飾りが下げられている。かつてアイ=ファが焼き印を押すことを断固として許さなかった、その結果である。
「いえいえ、他に焼き印を押していないトトスなどはお預かりしておりませんので、他のお客様と取り違える恐れはございません。ご安心してお預けください」
すでに宿屋の代金を前払いで受け取っていた主人は、にこにこと笑いながらそのように言ってくれた。
同じように荷車も鍵つきの倉庫に預けて、宿屋に舞い戻る。
俺たちにあてがわれたのは、2階の4部屋であった。
「こちらはすべて4名様用の部屋となっております。ご就寝の際は、内側からかんぬきをお掛けください」
そのように言い置いて、ご主人は階下に下りていく。
その背中を見送りながら、ザッシュマは「さて」と下顎を撫でた。
「幸い男女の数はほぼ変わらないぐらいだから、ふた部屋ずつで分かれるか。護衛役も、適当に割り振ろう」
ここで少しだけ波乱が起きた。
男女別、という部分でアイ=ファが難色を示したのである。
「何も心配することはあるまいよ。アスタの身は、俺たちがしっかり守ってやるからな!」
ダン=ルティムは笑顔でそう言ったが、アイ=ファは「しかし……」と眉をひそめている。
その姿を見て、ザッシュマが俺の耳もとに口を寄せてきた。
「おい、お前さんたちは、ひょっとしたら夫婦であったのか? だったら今からでももうひと部屋、余分に借りることは可能だと思うが……」
「い、いえ、別にそういうわけではなく、アイ=ファはただ家人の俺と寝床を別にするのが不安なだけなのだと思います」
「そうなのか。森辺の習わしというのは今ひとつよくわからんな」
俺たちがそんな風に囁き合っている間に、今度はディム=ルティムが「おい」と声をあげた。
「家人を案ずる気持ちはわからなくもないが、俺たちの仕事はこの場にいる全員を守ることにあるのだぞ? 俺やダン=ルティムが女衆と同じ部屋で眠るわけにはいかないのだから、お前はお前の仕事を果たすべきだろう」
「……それはそうなのだろうと思うが……」
「それに、アスタの身はダン=ルティムが守ると言っている。お前はダン=ルティムの言葉を疑うつもりなのか?」
ディム=ルティムの幼げな顔に、ぴりっと苛立ちの色が走る。
そうしてアイ=ファは口をつぐむことになり、ダン=ルティムはガハハと笑うことになった。
「そんなにアスタが心配ならば、アイ=ファは隣の部屋で眠るがいい! 壁一枚を隔てるだけなら、少しは心も安らごう」
ということで、角部屋は俺とルティム家の2名、隣がアイ=ファと年少組のリミ=ルウ、トゥール=ディン、マイム、お次がバルシャとレイナ=ルウ、シーラ=ルウ、最後がザッシュマ、ジーダ、ミケル、という部屋割りで落ち着くことになった。
各人はそれぞれの部屋に散っていき、最後まで無念そうに立ちつくしていたアイ=ファも、押し黙ったままきびすを返そうとする。
俺は一言かけておきたくて、「アイ=ファ」とその手首をひっつかまえた。
すると――驚くぐらいの勢いで、その手はぴしゃりとはねのけられてしまった。
「ア、アイ=ファ?」
思わず立ちすくむ俺のほうに、アイ=ファのほうこそが愕然とした面持ちで振り返る。
「ち、違う! 今のは――いきなり後ろから手をつかまれたので、驚いてしまっただけなのだ!」
「そ、そうなのか?」
アイ=ファはきつく唇を噛みしめてから、いきなり両手で俺の両手首をひっつかんできた。
「この通りだ。決してお前に触れられるのを忌避したわけではない。本当に、少し驚いただけなのだ」
「わ、わかったよ。別にアイ=ファの言葉を疑ったりはしていないって」
言いながら、俺は自分の鼓動が速くなっていくのを抑えることができなかった。
そういえば、こうしてアイ=ファと直接的に触れ合うのは、10日以上ぶりのことであったのだ。
べつだん、アイ=ファに触れるのを避けていたわけではない。同じ家に住む家人といえども、そうそう身体に触れる機会などはない、というだけのことだ。
ただ――俺がリフレイアにさらわれて以来、別々の場所で眠っても、朝方にはぴったりとアイ=ファが寄り添っていることが多かった。その風習がこの10日間ばかりは絶えていた。それだけの話である。
「……お前も私を忌避したりはしていないか?」
「あ、当たり前だろ? そんなわけあるはずないじゃないか」
アイ=ファは眉根を寄せながら、俺の両手首をぎゅうっと握りしめてきた。
「しかしお前は、少し苦しそうな顔をしているように見える。血の流れもいささかならず速くなっているようだ」
「お、俺の脈拍を計測しないでくれ!」
そうして俺がわめきかけたとき、遠い場所で扉の開かれる音色が響いた。
とたんにアイ=ファの指先は俺の手首から離れていき、ザッシュマの声が近づいてくる。
「何だ、まだ部屋に入っていなかったのか? 俺はちょっと寄合所に出向いて商会の連中に挨拶をしてくるよ。向こうの都合が悪くなければ、なるべく明日の早い時間に面会を申し込みたいんだよな?」
「は、はい! 中天には出立しなければなりませんので!」
「わかった。それじゃあ、ちっとばっかり部屋で休んでいてくれ。そいつが済んだら晩飯にしよう」
陽気に言いながら、ザッシュマは階段を下りていく。
しばしの沈黙ののち、アイ=ファは再びきびすを返した。
「では、またのちほどな。ダン=ルティムらに迷惑をかけるのではないぞ?」
「あ、ああ、了解だよ」
扉の向こうに、アイ=ファの姿が消えていく。
アイ=ファは少しうつむいていたので、その表情はマントの襟に隠されてしまっていた。
俺は大きく息をつき、胸の鼓動がしばし落ち着くのを待ってから、ダン=ルティムらの待つ部屋へと足を向けることにした。
◇
それから半刻の後。
首尾よく明日の面会の約束を取りつけてきたザッシュマが戻るのを待ち、俺たちはいよいよ階下の食堂へと出陣することになった。
食堂も、やはり大きくて立派な造りをしている。そろそろ日の暮れる頃合いであったので、客の入りも上々だ。
13名の団体連れである俺たちは、少し席を詰めてもらって、ふたつの巨大な卓を専有させていただくことになった。
申し合わせたわけでもなく、男女で分かれて席につく。俺の隣に陣取ったダン=ルティムは、「いったいどのようなものを食わされるのかな!」とはしゃいでいた。
「森辺のみなさんがたは、カロン料理の好みなんてあるはずもないよな。あんたは何か要望などあるかね、ミケルよ?」
ザッシュマの問いに、ミケルは「いや」と首を横に振る。
「せっかくダバッグの生まれである人間がいるのだから、俺などが差し出口をきく必要はあるまい」
「そうかい。だったら、まかせてもらおうかね」
ザッシュマは笑顔で食堂の娘さんを呼びつけた。
実にふくふくとした健康的な外見の娘さんが「はあい」と席をぬって近づいてくる。今のところ、このダバッグでは平均以上に細身の人間を見かけていない気がした。
「カロンの背中と腰の焼肉を大皿で2枚ずつ、足肉の煮付けを大皿で1枚ずつ、フワノは人数分を焼いてくれ。それに、ここでは野菜の乳漬けを扱っていたはずだよな?」
「はあい、今日の野菜はアリアとネェノンとティノですよお」
「それじゃあそいつも大皿で1枚ずつ、あとは乾酪の壺焼きをいただこう。壺焼きは人数分でな」
「あれえ、よくお食べになるお客さんだねえ」
おかしそうに笑う娘を横目に、ザッシュマが俺たちを振り返る。
「そういえば、酒はどれだけ必要なのかな? 見たところ、たしなむ人間はそんなに多くないようだが」
名乗り出たのは、ダン=ルティムとバルシャのみであった。
で、バルシャはにんまり笑いながら、隣席のシーラ=ルウの肩を小突く。
「あんたもいける口なんだろう? 町には町の酒の味ってやつがあるんだから、知っておいて損はないんじゃないのかね?」
「そうなのですか? でしたら、わたしもお願いいたします」
そういえば、俺はあんまり女衆が酒をたしなむ姿を見たことがない。シーラ=ルウは、いける口であったのか。
「あれ? ミケルはお飲みにならないんですか?」
と、俺が問いかけると、向かい側のミケルにじろりとにらまれてしまった。
そして、隣の卓からマイムが大きな声をあげてくる。
「父さんはアスタと出会って以来、一口もお酒を飲んでいないんですよー。それまでは、毎日のように明るい内から酔っ払っていたんですけどねー」
ミケルの眼光が愛娘のほうに差し向けられる。
マイムは悪戯っぽく笑いながら、そっぽを向いてしまった。
「それじゃあ果実酒は土瓶で4本だ。残りの連中は、冷やしたゾゾ茶を頼む」
「はあい、それでは少々お待ちくださいねえ」
いったん姿を消した娘さんが、やがて大きな盆を手に舞い戻ってくる。
4本の土瓶と同じ数の酒盃、そして9名分の冷たいゾゾ茶が、その娘さんの手によって給仕された。
「へえ、ゾゾ茶ってのは冷やして飲むこともできるんですね」
「そりゃあそうさ。焼いた肉には冷たい茶だろう? ま、俺はもっぱらこっちだがね」
ザッシュマとバルシャが酒盃に果実酒を注ぎ、それぞれダン=ルティムとシーラ=ルウの前に置く。
ダン=ルティムは不審げに眉を寄せながら、その酒盃に鼻を寄せた。
「町ではわざわざこのように酒を取り分けるのか? それに、こいつは何やら普通でない香りがするな」
「そりゃあ果実酒をそのまま飲むんだったら、自分で買ったほうが安上がりだからな。宿屋では宿屋なりの工夫が凝らされているものなんだよ。お気に召すかどうか、試してみるといい」
そんな風に言いながら、ザッシュマは自分の酒盃を掲げ持った。
「それじゃあ、今回の旅が無事に終わることを祈りつつ、乾杯といこうか」
「お待ちください。この場合、わたしたちは誰に礼をほどこせばよいのでしょう?」
そんな声をあげたのはレイナ=ルウであった。
そういえば、同胞ならぬ人間の手による晩餐を食するというのは、森辺の民にとって大いに習わしから逸脱する行為であるはずなのだ。
これまでも、試食という名目で城下町の料理人たちの料理を食した経験はあるものの、まるまる余人の手による晩餐というのは、正真正銘これが初めてであるはずだった。
「うーん、とりあえず《ラマムのしずく亭》のかまど番、でいいと思うけど、どうだろう?」
「そうですね……では、何に感謝するべきなのでしょう?」
「ああ、『森の恵みに感謝して』って部分ね。……えーと、こいつはギバの料理を売って得た銅貨で食する晩餐だから、そこはやっぱりギバをもたらした森に感謝を捧げるのが正しいんじゃないかなあ?」
酒盃を掲げ持ったまま、ザッシュマはきょとんと目を丸くしている。
「何だ、晩飯を口にするというだけで、ずいぶんややこしい話になっているみたいだな?」
「はい。それだけこれは森辺の民にとって前代未聞の出来事であるということなのですよ」
それでも森辺の族長ドンダ=ルウの許しを得て、俺たちは今この場にいる。
数ヵ月前には誰にも想像しえなかったであろうこの状況を、俺は心から寿ぎたかった。
そうして森辺の民が食前の文言を唱え終わるのを待ち、俺たちはようやく杯を掲げることがかなったのだった。