②月下の幕間劇(上)
2014.10/30 誤字を修正。2015.3/5 誤字を修正。
そうして時は、現在に至る。
アイ=ファは俺に「先に寝ていろ」と告げてジバ婆さんの寝所におもむき、俺は眠れぬ夜を過ごしている。でかい空き家に寝転がって、ひとりでジタバタとあがいている。
(毒って言い草は何なんだよ! 畜生、あのギバ親父……ひとりでスッキリした顔をしやがって!)
おそらく、ドンダ=ルウは、次々と俺たちに祝福を授けようとする家族の姿を見て、不安になってしまったのだ。家族の頭がおかしくなってしまったのか――あるいは自分が狂ってしまったのか、と。
しかし、長兄ジザの言葉を聞き、その答えを得ることができた。
いみじくも、最初にジバ婆さんが言っていた通り、「美味いかどうかなど人それぞれなのだ」と。
それで、安心することができた。
誰も狂ってなどいなかった、と安堵することができたのだ、きっと。
しかし。
それはつまり、彼が本気で『ギバ・バーグ』を「不味い」と感じていた、ということになる。
(そりゃあ好みは人それぞれだからな! ハンバーグがお気に召さない人間だっているだろうさ)
長兄ジザと、次兄ダルムは、何を考えているかわからない。もしかしたら、俺やアイ=ファに対する反発から、「美味い」と言いたくないだけなのかもしれない。
しかし、三姉のララ=ルウなどは――本当に、『ギバ・バーグ』が好みに合わなかったのだろう。
『焼きポイタン』や『ギバ・スープ』のことは褒めてくれたのだから、その言葉に嘘や誤魔化しはないと思う。
(だけど、それなら……『ギバ・バーグ』よりも、血抜きもしてない肉で作ったギバ鍋や焼肉のほうが美味い、っていうのか……?)
俺の敗北感の根底にあるのは、きっとそれだ。
俺は、驕っているのだろうか?
こんなことで敗北感を感じるのは、間違っているのだろうか?
歯噛みしながら、胸もとに手を当てる。
リミ=ルウが作ってくれた、首飾り……8つの牙や角が、じゃらりと心地好い音色を鳴らした。
この異世界で初めて得た、代価。
12名中の8名までもが、俺の料理を「美味い」と認めてくれたのだ。
それは、誇っていいことだろう。
とてもじゃないが、この牙や角をポイタンやアリアなどと引き換えてしまう気持ちにはなれない。
本当は、そうして自分の血肉にすることが、一番正しいことなのかもしれないが。そんな風に決断できる日は、まだまだ当分やってこないと思う。
これは、俺の存在が認められた、証しなのだ。
俺の存在には価値があると、彼らは認めてくれたのだ。
嬉しいと思う。
誇らしいと思う。
こんな異世界でも、俺は存在していいのだ――と、許された気持ちになる。
しかし。
それと同時に、俺は俺の仕事を否定されてしまった。
悔しかった。
口惜しかった。
まるで、自分の全存在を否定されたかのような気分だ。
それは、「人それぞれ好みは異なる」などという一般論で片付けられるような気持ちではなかった。
特に――俺の料理を「毒だ」と言い捨ててくれた、家長のドンダ=ルウ。
あのギバが化けたかのような大男だけは、このまま放っておけない、と思う。
(だけど、それじゃあ、どうしたらいいってんだ――?)
と、そこまで考えが及んだ時。
トン、トン、トン――と、3回ほど玄関口の戸が叩かれた。
「はい、どうぞ?」
アイ=ファかな、とも思ったが、あいつがノックなどするだろうか。
というか、この世界にもノックという行為が存在することを、俺はこのとき初めて知った。
ということは、きっとアイ=ファではないのだろう。
「かんぬきは掛けていませんよ? どうぞ」と声をあげながら、俺はしかたなく立ち上がった。
リミ=ルウは、たしかアイ=ファとともにジバ=ルウの寝所におもむいているはずである。
と、いうことは……嫌でもレイナ=ルウの無邪気な笑顔が頭に浮かんできてしまう。
家長のドンダ=ルウに反抗して、真っ先にジバ婆さんの行為に倣ったのは、彼女だ。彼女は何だか調理中もその後もやたらと憧憬の眼差しをくれていたと思う。まだそれほど誰とも交流を深めてはいないこの状況で、わざわざ俺を訪ねてくる人間など、彼女以外には想像がつかなかった。
しかし、あんな可愛らしい顔をしていて、あんな恵まれたスタイルをしていて、しかもあんな悩殺的な衣装をしか身につけていない娘さんと、こんな夜更けに二人きりで顔を合わせるなんて、いささかならず気が進まないのだが。かといって、無視してしまうわけにもいかないだろう。
いやいや案外、長兄ジザだとか、次兄ダルムだとかの剣呑な相手かもしれないぞ、と心を引き締めつつ、俺はそろりと戸を引き開けた。
そこに立っていたのは、レイナ=ルウではなく、ジザ=ルウでもダルム=ルウでもなく、ある意味ではそれよりも危険な、危険すぎるお相手であった。
「開けてくれてありがとう。とても嬉しいわぁ、アスタ……」
その色っぽい声だけで、もうどこの誰かは判別できてしまう。
ほんのちょっとしか開けなかった戸の隙間から、反則級なまでに恵まれた肢体が、するりと滑りこんでくる。
「ど、どうしたんですか、ヴィナ=ルウ――」さん、と付け加えそうになり、やめておく。この世界では、個人名にそういった敬称をつける風習はないようなので。
「あなたに会いたかったのよぉ、アスタ……あなたには、聞きたいことがあったから……」
「聞きたいこと、ですか?」
戸惑う俺に流し目をよこしつつ、男衆よりは簡単な作りをしている革の履物を脱ぎ捨てる。許可はしてないけど、入室する気まんまんである。
「レイナに先を越されなくて良かったわぁ。お取り込み中だったらどうしようかと、これでも心配したのよぉ……」
「レ、レイナ=ルウが俺のもとを訪れる理由なんてどこにもないですよ? 彼女とは、一緒に料理を作っただけの間柄ですから」
そしてあなたとはそれ以上に希薄な間柄ですよね、という含みでそう応じたのだが、ヴィナ姉さんは「うふふ」と艶かしく笑う。
「あの娘はもう、すっかりあなたに心を奪われてしまったわよぉ? 本当に気づいていなかったのぉ? ずいぶん鈍感なのね、アスタは……」
「いやあ、ですから、その」
「心配しないでぇ。わたしは婿取りに来たわけじゃないんだからぁ……とにかく、座って話しましょう……?」
しゅるりと、その太くもなく細くもなく適度な筋肉の上に適度な脂肪分ののった実用的かつ観賞性にも優れた右腕が、俺の左腕にからみついてくる。
わーにん、わーにん、と頭の中で警報が鳴りまくっていた。
とにかくこの女性は、色気が過剰すぎるのである。腕一本にも不必要な装飾語をつけまくらないと済まないぐらい、その肢体はどこもかしこも艶っぽく、女性らしい起伏にとんでいて、理性を保ちたければもう目でもつぶっているしかない、というフェロモンの塊みたいな存在なのだった。
その目はとろんと眠たげに細められており、ピンク色の唇は、ほどよく肉感的である。卵形のなめらかな顔に、細くてすんなりと伸びた首、くっきりと浮かんだ鎖骨の線、丸みをおびた右の肩に長く伸ばした栗色の髪がまとわりつき――この超絶的なまでの至近距離では、もうそれ以上は視線を下げる気にもなれない。下げたら、何かが終わってしまいそうだ。
「……座りましょう?」
もう一度同じことを言って、部屋の奥まで俺を引っ張っていこうとする。
さすがは毎日を易からぬ仕事に従事している森辺の民だけあって、力はけっこう強いのだ。それに、下手に逆らったら、拘束された左腕がその危険な肢体のどこに触れてしまうやも知れず、俺は諾々と連行される他なかった。
燭台を灯した窓の近くで足を止め、そのままずるりと下方に体重をかけてくる。
これまた前述の理由で、俺も一緒に腰を下ろすしかなかったが――けっきょく、俺の配慮など無為の極みであることが知れた。
壁にもたれて腰を下ろすと、ヴィナ姉さんはもう待ちかねていたかのようにべったりと全身でもたれかかってきたのである。
「あの、ですから、その、ちょっと!」と俺が無意味に大声をあげると、つくりものみたいに形のいい指先が、俺の唇をちょんとつついてきた。
「静かに……ちょっと家族には聞かれたくない話をしたいの……」
言葉とともに、ほのかな呼気が耳朶へと忍びこんでくる。
俺の身体はもう、それだけで全身鳥肌だらけになってしまっていた。
もちろん、不快だったからではない。その逆だ。
しかし、どのような感覚であれ、それが自分の意志ではなく一方的かつ強制的に与えられてしまうのは、恐怖感にも似た感情を喚起されてしまうものだ。
薄暗がりで、色気とフェロモンの塊みたいな年上のお姉さんに、べったりとしなだれかかられて、耳に息を吹き込まれる――そんなのは、理性が残っている内は、ただの恐怖体験みたいなもんである。
(ああ――昼間は燻製でも作っていたのかな?)などという埒もない想念が、いささか現実逃避の発露みたいに頭の隅をよぎってく。
何のことはない。ヴィナ=ルウの髪や肢体に纏わりついたリーロの清涼な香りやピコの生の葉のちょっと甘くて刺激的な香りが、俺の鼻腔をも侵蝕し始めたのだ。
(いい匂いだな……でも、なんかちょっと物足りないような……)とか考えたところで、いきなり山猫みたいに燃える目が、俺の脳裏でカッと見開かれた。
半分がた崩落しかけていた理性と正気が、それで一気に緊張を取り戻す。
アイ=ファがいつ戻ってくるかもわからないこの状況で、いつまでもふやけてはいられない。
「あの、お話って何なんですか? 家の人に聞かれたくないなんて、ちょっと穏やかではないですよね?」
「そうよぉ……穏やかでない話をしに来たの」
その、俺の身体とは反対の側にあった左腕が、とん、と床に何かを置いた。
それは、果実酒の土瓶だった。
「ごめんねぇ、ちょっと酔ってるかもしれない……わたしだって、家族のことは大事に思ってるつもりだから……お酒の力でも借りないと、勇気を振り絞ることができなかったのぉ……」
「い、いったい何なんです? あまり厄介なことには巻き込まれたくないんですけれど」
この際は、頼り甲斐のない男と思われたほうが、まだしも安全そうだ。
しかし、ヴィナ=ルウはゆるゆると首を振り、俺の肩にころんと頭を乗せてきた。
「アスタ……あなたは、何者なのぉ……?」
「――はい?」
「その肌の色や顔立ちを見れば、森辺の出身じゃないってことぐらいはわかるけどぉ……でも、石の都には色んな生まれの人間がいるもの。そこまで不思議ってわけじゃないわぁ。……だけど、あなたの作った料理は、不思議」
料理の話か。それならやぶさかではないが、だったらもっと穏便な距離を保ちたい。左腕を圧迫する危険な感触に、せっかく持ち直せた俺の理性がさっきから悲鳴をあげ続けているのである。
「あなたは、この西の王国どころか、アムスホルンの名前すら知らないなんて言ってたわよねぇ? あなたは、ここではないどこか遠くの国で生まれたのよねぇ? ……それはいったい、どこなのかしらぁ……?」
「わ、わかりません。国の名前は日本ですけど、俺がアムスホルンっていう大陸の名前を知らない以上、この大陸に住む誰に聞いたって、日本っていう島国を知らない可能性は高いんだろうなって思ってます」
「島国……そこは、島国なのぉ……?」
「そうですよ。その周囲にはいくつか大陸もありましたけど、アムスホルンなんてのは聞いたこともないです」
「そうなの……素敵ねぇ……」
ヴィナ=ルウの熱をおびた指先が、俺の胸もとにそっと添えられる。
またぞくぞくと悪寒が走り抜けていく。
「アスタ……わたしをその不思議な生まれ故郷に、連れて帰ってくれないかしら……?」
そう言って。
ヴィナ=ルウは、まるでマダラマの大蛇みたいに、全身で俺にからみついてきたのだった。