ダバッグ見聞録①~到着~
2016.2/28 更新分 1/2 ・2018.4/29 誤字を修正
・今回は全9話で、初日と最終日のみ2話ずつ公開する予定です。
・また、本作とは関係ありませんが、小説投稿サイト「カクヨム」のKADOKAWAノベルスの公式アカウントにて新作を公開しましたので、ご興味ある方はそちらも宜しくお願いいたします。
藍の月の22日。
俺たちは予定通り、ダバッグに向かって出立することになった。
夜が明けると同時に、洗い物などの最低限の仕事だけを済ませて、荷車の準備をする。ふだんより数時間ばかりも早い出発に、ギルルはきょとんと首を傾げていた。
「それじゃあね。アイ=ファがついていれば何の心配もないだろうけど、いちおう気をつけて」
そんな風に俺たちを見送ってくれたのは、レム=ドムである。
日に一度はピコの葉にうずめた肉を攪拌しなければいけないので、ファの家の留守は彼女に託すことになったのだ。
会うたびに野性味を増していくように感じられるレム=ドムに挨拶を返し、俺たちは家を出た。
まずはディン家でトゥール=ディンを拾い、ルウ家の集落を経由して町に下り、ミケルたちと合流する。
ダバッグに向かうメンバーは13名。2台の荷車が満員になるほどの大所帯である。
ファの家の荷車は、手綱をあやつるのがアイ=ファ、乗員は俺、ジーダ、ミケル、マイム、ザッシュマ、の合計6名。
ルウの家の荷車は、手綱をあやつるのがダン=ルティム、乗員はディム=ルティム、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、リミ=ルウ、トゥール=ディン、バルシャ、の合計7名。
宿場町のある南北の主街道から、城下町の城門に面する西の街道に出て、あとはひたすら直進だ。
このような早朝だと、街道には他の旅人の姿も少ない。
そうして荷車を走らせてジェノスの城壁の前を通りすぎると、その後はしばらく鬱蒼とした雑木林にはさまれた道が続いた。
「このジェノスというのは、200年ていど昔に開拓されたばかりの辺境都市だからな。街道だけは立派なものができあがったが、一歩外に出ればこのありさまってわけだ」
荷車に揺られながら、案内役たるザッシュマがそのように解説してくれた。
誰も相づちを打とうとしないので、向かいの席に座った俺が「そうなんですか」と声をあげることにする。
「ジェノスには200年ていどの歴史しかないのですね。80年前に移り住んできた森辺の民が異端者扱いされていたので、もっと古くからこの地にある町なのかと思っていましたよ」
「ああ。もともとははぐれものの西の民がちっぽけな集落を築いていただけの自由国境地帯で、そこに大きなタントの川が発見されたものだから、王都から派遣されたジェノス伯爵家の一派があっという間に占領して、あのご立派なジェノス城を築きあげたんだそうだ」
「それじゃあ、もともとそこに住まっていた人々はどうなったんですか?」
「うん? そりゃあもちろん、役に立ちそうな人間はジェノスの一員として迎えられ、そうでない人間は追放されたんだろう。そら、お前さんが懇意にしている宿屋の主人なんかは、その先住民の血筋であるはずだぞ?」
「え? それはミラノ=マスのことですか?」
「ああ、そうさ。西の民の大半は、氏なんて持っていないからな。シムの文化がまざったのか何なのか、詳しい事情は俺にもわからんが。とにかく、ジェノスで暮らしている氏つきの人間は、みんな自由国境地帯の先住民の血筋であるはずだ」
なるほどなあと俺は感心することになった。
今のところ、氏つきの西の民というのは、ミラノ=マスの一家とシリィ=ロウぐらいしか覚えがない。
「その後は続々と近隣の区域から移住者が集められて、現在のジェノスの土台が築かれた。それでシムやジャガルの連中と通商を結び、どんどん町を発展させていって、100年がかりで辺境一の大都市にまで成り上がったわけさ」
そうしてジェノス家は侯爵の爵位を、ダレイム、トゥラン、サトゥラスの三家は伯爵の爵位を授かることになった。
で――それからまもなくギバの被害に苦しむことになり、そして、森辺の民を領民として迎え入れることになったわけだ。
「そう考えたら、ずいぶん変転を繰り返してきた町なんですね、ジェノスっていうのは」
「そうだな。そして今も変転の真っ最中というわけだ」
愉快そうに言ってから、ザッシュマがふと顔を寄せてきた。
「それにしても、さっきから喋っているのは俺たちばかりだな。ずいぶん辛気臭い旅じゃないか?」
それには、3つの理由があった。
まずひとつは、アイ=ファがいつも以上に真剣な様子で荷車の運転に専念していること。
もうひとつは、もともとジーダが寡黙な気性であるということ。
そして最後のひとつは――ミケルとマイムが親子喧嘩の渦中にあるためである。
「父さんが、宿場町で屋台を出すことを許してくれないんです!」
数日前に宿場町で顔を合わせたとき、マイムはそのように述べていた。
「宿場町には無法者が多いから、わたしのような子供が店を出すのは危険だと言い張って……ようやくみなさんにお披露目できるような料理が完成しそうのに、ひどいです」
「ああ、だけど、確かに宿場町は色々と物騒な事件も多いみたいだからねえ。俺たちなんかは、むしろ恐れられる側だから危険な目にあわずに済んでいるらしいんだよ」
「それはわかります。でも、それなら護衛役を雇えばいいではないですか? だけど父さんは、安い銅貨で雇える人間なんて信用ならないって言うんです」
それならザッシュマに相談してみれば、誰か信用の置ける人間を紹介してもらえるのではないだろうか?
そうも思うが、ミケルを抜きにして話を進めたら、よけい話がこじれてしまうかもしれない。だから俺は、いつでも不機嫌そうに見えるミケルにいつその提案をしようかと、朝から機会をうかがっているさなかであったのだった。
そんなわけで、ミケルとマイムはまったく口をきこうともしないまま、対角線上の位置でそれぞれそっぽを向いてしまっている。
俺はザッシュマに一言告げてから、御者台のほうに足を向けることにした。
「アイ=ファ、そちらはどんな具合いだ?」
「どうもこうもない。ゆけどもゆけども、周りは林だな」
しっかりと整備された石の道は、ゆるやかな曲線を描きつつ、ひたすら西へとのびている。
ジェノスからダバッグへの道程はおよそ半日、明け方に出発すれば中天には到着できるであろう、という話であった。
なおかつ道は一本径であり、迷う恐れもない。
「なあ、余裕があったらアイ=ファも会話に参加してくれないか? 俺自身は困っていないんだけど、ダバッグに到着する前にこの空気を打開しておきたいんだ」
「余裕は、ない。私が気を抜けばどのような危険を招いてしまうかもわからないからな」
アイ=ファがここまで張り詰めてしまっているのは、バナームの使節団が毒虫に襲われてトトスを何頭か失ってしまった、という話を聞いたためであった。
大事なギルルにそんな悲運をもたらしてなるものかと、アイ=ファは狩人の気迫で手綱を握っているのである。
「いや、だけど、毒虫っていうのは地面を這いずって接近してくるらしいじゃないか? 用心すべきは走行中じゃなく休憩中だって話だっただろう?」
「常に用心するに越したことはなかろう。お前は気にせず休んでいろ」
俺のほうを見ようともしない。その横顔は真剣そのものだった。
金褐色の前髪が風になぶられて、秀でた額がさらけ出されている。鼻が高くて、顎の細い、とても端正な横顔だ。なめらかな頬にはしみひとつなく、鋭い光をたたえた瞳は金色の長い睫毛に彩られている。
綺麗な顔だな、とあらためて思ってしまった。
綺麗なだけではない、狩人としての鋭さと女性らしいやわらかさを混在させた、アイ=ファならではの優美さだ。
「……まだ何か私に用事があるのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど」
「ならば、荷台でおとなしくしていろ。……そのように見つめられていると、気が散ってしかたがない」
俺は赤面してしまう前に、家長の言に従うことにした。
10日前のあの夜以来、アイ=ファに大きな変化はない。
しかし、小さな変化はあるのかもしれない。
どうも今までとは異なるタイミングで優しくされたり冷たくされたり、何やら調子を外される場面が増えてきてしまったのである。
だけどそれは、俺のほうも同様なのかもしれなかった。
とりあえず、会話の途中でアイ=ファの姿に見とれてしまうなんて、ここ数ヵ月ではなかったことであろうと思う。
「なるほど、お前さんも森辺でうまくやっているのだな。そいつは何よりだ」
席に戻ると、ザッシュマはその社交性を発揮してジーダに語りかけていた。
赤い蓬髪に黄色い瞳、いまだ14歳で体格も小柄ながら、森辺の民に負けない力と迫力を有する狩人の少年は、ふだん通りの仏頂面でぽつぽつと言葉を返している。
「マサラってのは近場に大きな町もないから、これまでは近づいたこともないんだが。マサラに巣食うガージェの豹ってのは、ギバに劣らず凶悪な獣なんだろう?」
「ああ。とても危険だ」
「でも、マサラでとれるバロバロの鳥ってのは絶品らしいな。そうとう値の張る肉らしいが、たしか仕事仲間がそんなようなことを言っていた覚えがある」
「ああ。とても美味い」
「そうか。俺もいつかは口にしてみたいものだ。……で、お前さんたちは、まだ当分森辺に留まるつもりなのか?」
「ああ。その予定だ」
「なるほど。まあ、住む場所が変わっても故郷は故郷だ。不自由がないなら、急いで戻る必要もあるまいよ」
そのように会話をしめくくり、ザッシュマがまた俺のほうに顔を寄せてくる。
「このマサラの狩人も森辺の狩人に劣らず愛想がないようだ。あちらの荷車を走らせている大きな狩人などは、なかなか愉快そうな人間に見えたのだがな」
「あれはダン=ルティムといって、ザッシュマもご存じのガズラン=ルティムのお父上でありますよ」
「ガズラン=ルティム? ……ああ、あの真面目くさった森辺の狩人か。これはまたずいぶん似ていない親子もいたものだ」
そのように言ってから、ザッシュマは髭面に朗らかな笑みを浮かべた。
「あのガズラン=ルティムとは一度酒でも酌み交わしてみたいと思っていたが、まさかその父親とその機会が得られるとは思わなかった。こいつは夜が楽しみだ」
「ええ、きっとダン=ルティムとなら話も弾むと思います」
「ふむ。それならいっそあちらの荷車に乗り込むべきだったかな。美しい女衆も2名ほど顔をそろえていたようだし」
俺が驚いて見返すと、ザッシュマはいっそう楽しそうに笑った。
「森辺の民と悶着を起こすつもりはないから、そんな心配そうな顔をする必要はない。しかし、どうせなら仏頂面の狩人や老人より、若くて美しい女衆と同席したほうが気持ちも安らぐというものじゃないか?」
そういえば、ザッシュマは初対面のヴィナ=ルウを銅貨で買おうとするそぶりを見せたことがあるのである。
あれは豪放な商団の長を演じていただけなのかと思っていたが、案外ザッシュマの地であったのかもしれない。
「なんだかザッシュマはご機嫌なようですね。やはりひさびさの帰郷が嬉しいのでしょうか?」
「そうだな。美味いカロンの肉が食えるのは嬉しいよ」
「ダバッグがどんな町なのか、俺も楽しみにしています」
気づくと、やっぱりザッシュマとばかり話が弾んでしまう。
しかし、それもしかたがないことだろう。せっかくの小旅行だというのに、この荷車で昂揚しているのは俺たちふたりだけであったのだから。
そんなことを考えていると、後ろの隅っこで膝を抱えていたマイムが「うわあ」と大きな声をあげた。
俺はザッシュマをうながして、ふたりでそちらのほうに向かう。
荷車の後部側は幌を上げていたため、そこからは周囲の風景を目にすることができた。
雑木林の一帯を抜けて、あたりには荒涼とした大地が広がり始めていた。
水気のない砂の大地に、あちこちからごつごつとした岩塊が顔をのぞかせている。
実に殺伐とした風景であるが、地平線が見えそうなぐらい広々とした空間は、やはり何かしら人間の心を震わせるものだ。
「すごいですね! ダレイムの畑以外にこんな開けた土地を見るのは初めてのことです!」
マイムが笑顔で俺を振り返ってくる。
俺はマイムが笑ってくれているだけで嬉しかったのだが、ザッシュマは「ふむ」とうろんげに下顎をさすっていた。
「しかしこいつは不毛の荒野だ。水場はないし作物もとれないから、こうして打ち捨てられているのだろう。こんなところで暮らしているのは、毒虫や砂蜥蜴ぐらいのものだぞ?」
「それでも何だか胸を打たれてしまいます! わたしはジェノスを離れるのも初めてのことですので」
「まあ、大半の人間は生まれた場所から一歩も動かず骨をうずめるものなのだからな。物珍しく思うのも当然か」
笑いながら、ザッシュマは身を乗り出して北の方角を透かし見た。
「西の領土は広大だが、人間の暮らせる場所はごく限られている。マヒュドラとの国境では、今も領土の奪い合いで多くの血が流されているんだ。お前さんたちは、平和なジェノスに生まれついたことを感謝するといいぞ」
「はい。すべてはセルヴァの思し召しですね」
その後は2時間置きに休憩を取り、ひたすら西へと駆け続けた。
途中ですれ違った大きな隊商は、きっとジェノスにカロンの肉を売りに行く一団なのだろう。日が高くなるにつれ、単騎でトトスを駆るシムの旅人や、正体不明の荷車ともすれ違う。そのたびにアイ=ファは緊張の色を見せたが、幸い旅人を装った野盗などに刀を向けられることはなかった。
休憩中は毒虫除けの葉を焚いて、疲れた身体を休ませる。多少なりともサスペンションがきいているとはいえ、やはり荷車に揺られているだけでも体力は消耗させられるのだ。とりわけ御者役のアイ=ファとダン=ルティムにはかなりの負担がかかっているはずであったが、そこは強靭なる森辺の狩人である。どちらもトトスの手綱を余人に譲ろうとはしなかった。
そうして2回の休憩をはさみつつ、6時間ばかりも荷車を走らせると――ついに、ダバッグが見えてきた。
「そら、あれが町との境目だ」
ザッシュマが言うのは、南北にのびる木の柵の影であった。
まるで世界を両断するかのように、丸太で作られた木の柵が北から南へとのびているのだ。
だが、あくまで柵は柵である。この距離からでも頑丈そうな造りをしていることは見て取れるが、高さのほうは人間の身長よりも低そうであった。
「そりゃあ、あれはカロンを逃がさないための柵だからな。ダバッグ中の牧場を囲い込めるほどの石塀なんて築けるはずがないだろう? ジェノスの宿場町やダレイムなんかと一緒で、町を守っているのは石塀じゃなく人間さ」
故郷が近づくにつれ、ザッシュマの表情はいよいよ明るくなってきているようである。
そうして半刻ほども荷車を走らせると、ついにダバッグに到着した。
町の入口で石の街道はぷつりと途切れて、10メートル四方ぐらいの広場がもうけられている。そのまま真っ直ぐ進むと木の柵に行き当たり、そしてそこには槍を掲げた2名の兵士たちが立ちはだかっていた。
よく見ると、そこだけ柵には開閉できるような仕組みがほどこされており、向こう側には木造の建物と木に繋がれたトトスたちの影が見える。
そこは町の裏口であり、彼らはその門衛であるという話であった。
背後の建物は、彼らの詰める兵舎であるそうだ。
アイ=ファとダン=ルティムが柵の手前で荷車を止めると、若いほうの兵士が気負う風でもなく声を張り上げてくる。
「見慣れぬ風体をした連中だな。ダバッグに何用か?」
ジェノスの宿場町の衛兵らとそんなに変わるところのない、革の鎧を着た兵士たちである。
それほど格式張った感じではなく、俺たちを見る目つきも割合に穏やかだ。
「俺たちはジェノスの人間だ。商売のためにダバッグへとやってきた」
まずは案内役たるザッシュマが荷車から降りて、笑顔で兵士たちに近づいていく。
「ちなみに俺だけはダバッグの生まれでね。北地区のマロッタの牧場で生を受けたが、今は《守護人》を生業にしている。そら、これが《守護人》の証たる首飾りだ」
「へえ、マロッタの親父さんにこんな立派な息子がいたのかね。しかも石持ちの《守護人》とは恐れ入った」
兵士のほうもいっそう打ち解けた表情になりつつ、荷車のほうに視線を飛ばしてくる。
「しかし、正規の《守護人》を雇えるなんてたいそうな商団だな。そのわりには、ずいぶん小さな荷車だが」
「なに、なりは小さくても立派な人たちさ。ジェノスの宿場町では知らない人間もいないぐらいだよ」
「そうか。それじゃあとりあえず面通しをさせてもらおうか」
俺たちは、全員荷車から降りることになった。
ダバッグに踏み入るには、ジェノスにはないひとつの審査を受けなくてはならないのである。
「では、右の肩を見せてもらおう」
狩人たちは毛皮のマントをはねのけて、俺はTシャツの袖をまくる。
女衆らは半透明のヴェールをかぶっているだけで肩は剥き出しなので、何もはだける必要はない。本日は革の鎧を纏っているバルシャも、俺と同様に袖をまくるだけで事は済んだ。
西の王国では、罪人に刺青をほどこす習わしが存在するのである。過去に大罪を犯したことはないか、あるいは現在も手配中の大罪人などがまぎれこんだりはしていないか、それを確認するための審査であった。
通りいっぺんの検問に過ぎないが、これでも町の治安を守る一助にはなるのだろう。こういった検問が存在しないゆえに、ジェノスの宿場町には荒くれ者が集まってしまうのだ、という話であった。
「まあ、ジェノスはそういった手間をはぶく代わりに、あれだけ大勢の衛兵に町を守らせているんだろう。すべては領主の匙加減さ」
ザッシュマなどは、そのように語っていた。
ともあれ、検問である。
槍を掲げた兵士たちが、右と左からひとりずつ検分していく。
そのうちの片方が、やがてジーダの前でぴたりと足を止めた。
ザッシュマとは口をきいていなかった、初老の兵士である。
その兵士は、ジーダの顔を覗き込みながら、「うん?」と首を傾げ始めた。
「どうしたね。罪人なんざは混じっていないはずだよ?」
ザッシュマが不審げに呼びかけると、兵士は「ああ」と不明瞭な声をあげた。
「別に罪人と疑っているわけじゃない。ただ……10年も前に手配を解かれた大罪人とそっくりな姿をしているので、ちょっとばっかり驚いただけさ」
ジーダは無言でその兵士の顔を見返している。
すると、少し離れた場所に立っていたバルシャが笑いをふくんだ声をあげた。
「ああ、赤い髪に黄色い目をした西の民なんてそうそういないからねえ。でも、そいつは別人だよ。手配されていた大罪人と比べれば、背丈だってちっとばっかり足りないだろう?」
「わかってるよ。あの大罪人は、10年も前にジェノスで処刑されたはずだからな。……それも半分は、身に覚えのない罪だったらしいけどな」
やはり赤髭ゴラムについての一件は、このダバッグにまで伝わっているらしい。
しかし、このバルシャとジーダがその伴侶と息子であるということなど、きっと夢にも思わないだろう。初老の兵士はちょっと昔を懐かしむような目つきになりながら、残りのメンバーの検分に取りかかった。
「よし、問題はないようだな。……あらためて、ダバッグにようこそ。いい商売をしていってくれ」
「ああ。明日の昼にはまた通らせていただくよ」
ザッシュマの合図で、俺たちは再び荷車に乗り込んだ。
小さな兵舎のわきをすりぬけて、石敷きでなくなった土の道を進み始める。
「さあ、いよいよここからがダバッグだ。まずは道なりに進んでくれ」
道の左右には木造りの小屋がずらりと並んでおり、それらが牧場の様子を隠してしまっていた。
さきほどの遠景ではカロンの姿を確認することができなかったので、俺としては胸が高鳴るばかりである。
「ふん。数年ぶりだってのに、やっぱりここは何にも変わっちゃいないな。……アスタ、まずは宿屋じゃなく俺の家に向かっていいんだよな?」
「はい。時間が惜しいので、最初にカロンの牧場を見学させていただきたいです」
「よし。それじゃあ、あの先にある右手の道に入ってくれ」
「了解した」と御者台のアイ=ファがうなずく。
そうしてアイ=ファが言われた通りにギルルの首を巡らせると、突如として視界が開けた。
木の柵にはさまれた、小さな道である。
その柵の向こうに広がるのは、どちらも青々と草の茂った牧場だ。
後続の荷車からは、「わあ」とか「きゃあ」とかいう驚きの声があがっていた。
きっと、俺と同じものを目にしたのだろう。
その牧場の中をのそのそと徘徊する、巨大な獣の姿を、である。
「あれがカロンか……」
俺は御者台の脇から身を乗り出すことになった。
本当に大きな図体をしている。俺が知るホルスタインと同等かそれ以上の大きさである。
ただしその姿は、牛の類いには似ていない。
これはいったい、なんと形容したらいいのだろうか。
とにかく肉厚の体躯をしており、首も四肢も、ひとしく図太い。
その図太い首の先についているのは、鼻面のせり出た大きな頭部だ。
角やら牙やらは見当たらない。
楕円形をした小さな耳が、頭のてっぺんからちょこんと生えている。
全身を覆う毛皮は茶色と白色のまだらであり、短毛であるためずんぐりとした身体の形状がすっかりあらわになってしまっている。
あえて言うならば――それは、バクに似ているかもしれなかった。
長くのびた鼻面や、いかにも鈍重そうな体型が、あののんびりとしていてつかみどころのない動物を思い出させるのだ。
ただし、俺の知るバクよりもよほど巨体である。
一番大きなやつなどは、体長2メートルほどもありそうだ。
しかし動きは緩慢であり、みんな足もとの草をもそもそと食んでいる。
これが、食材としてはそこそこ扱う機会を得ながらキミュスと同様にまったくその姿を見ることもできなかった、カロンであるようだった。
「……これはまたずいぶんと呑気な獣であるようだな」
と、ふいに御者台からアイ=ファが声をあげる。
「しかし巨大だ。あれが我らに襲いかかってくるようであれば、ギバにも劣らぬ脅威となろう」
「そうだなあ。踏み潰されないように気をつけることにしよう」
「冗談ではないぞ? 手馴れた人間たちの言葉をよく聞き、決して危険のないようにふるまうべきであろう」
「わかってるってば。心配はご無用だ」
笑顔で俺が応じると、アイ=ファに横目でにらまれてしまった。
とにかく俺たちの社会科見学は、そうしてきわめてのんびりと開始されることになったのだった。