千客万来
2016.2/12 更新分 1/1 ・2018.2/9 誤字を修正
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
永遠に明けることはないのではないかと思えたその一夜も、時間が過ぎればきちんと明けて、俺たちはまた新しい一日を迎えることになった。
眠る前も眠った後も頭の中にはずっとアイ=ファの存在が居座っていて、まったく心身を休められた気がしない。それでいて、気持ちはやたらと昂揚しているような――いや、行き場のない熱情がぐるぐると体内を駆け巡っているような、そんなおかしな感覚であった。
解決なんて、何もしちゃいない。
客観的には、何ひとつ事態は進展していないように見えてしまうだろう。
だけど俺たちは、たがいの気持ちを知ってしまったのだ。
相手の存在を伴侶にしたい、と。
状況さえ許せば、そうしたくてたまらないのだ、ということを。
(まあ、アイ=ファのほうはやっぱり男目線だったけどな)
俺が女衆であれば嫁にしたい、だなんて、本当にアイ=ファらしい言だと思う。
そして、そんなアイ=ファを限りなく愛おしいと思う。
そんなわけで、翌朝はまともにアイ=ファの顔を見返せないような心境であった。
こちらがそんな状態であったので、アイ=ファがどんな様子であったのかもわからない。俺たちは黙々と、ふだんと変わりなく朝の仕事を進めて、日常の中に埋没しようとした。
俺たちがどんな思いにとらわれたって、世界は規則的に動いている。俺たちは日常を生きながら、自分たちの気持ちと向き合っていかなくてはならないのだ。
それでも俺は、アイ=ファと行動を別にする前に問うておかなくてはならないことがあった。
「そういえばさ、このままユン=スドラには仕事を頼み続けていいものなんだろうか?」
森の端でピコの葉を摘みながら、俺はそのように問うてみた。
アイ=ファは俺に背中を向けたまま、静かに言う。
「スドラの家長がそれを望んでいるのならば、是非もあるまい。正式に嫁入りを願われたわけでもないのに、ユン=スドラを追い払う理由はないということだ」
「そうか。それが森辺の習わしだっていうんなら、俺も従うしかないけど……でも、本当にいいのかな?」
「いいも悪いもない。スドラの家長から嫁入りの話を願われたら、私がファの家の家長として答えを返す。それ以外に道はなかろう」
お前はどんな風に答えを返すつもりなんだ? と聞いてみたかった。
だけど俺は、実際に聞いたりはしなかった。
俺の気持ちはアイ=ファに伝えたし、アイ=ファの気持ちもすでに聞いている。その上でアイ=ファがどのような答えを返そうとも、俺は俺の気持ちに準ずるしかなかった。
そうして俺たちは、さまざまな感情を抱え込みながら、また新たな日々を過ごしていくことになったのだった。
◇
で、宿場町における商売である。
俺たちは、ついに第13期目の営業日を迎えることになった。
日付としては、藍の月の12日から21日まで。この10日間を乗り越えたのちには、いよいよダバッグへと旅立つことになるのだ。
その10日間は、とりわけ慌ただしく過ぎ去っていった。
商売繁盛なのは嬉しい話であるのだが、なんというか、ふだんと比べても妙に珍客の多い日々であるように感じられた。
その珍客の第1号が現れたのは、営業初日の中天前であった。
「よお、元気そうにやっているな、アスタ」
旅用の長マントに、革の鎧と布の服。厳つい髭面に大柄な体躯をあわせもつその御仁は、かつて俺たちも大変お世話になった《守護人》のザッシュマであった。
「ああ、ザッシュマ。ずいぶんおひさしぶりですね。いつジェノスに戻られたのですか?」
「2日前だよ。実は、バナームの使節団の守護をおおせつかっていたのさ」
彼は2ヶ月ほど前、サイクレウスにまつわる騒動が終局を迎えたのち、あのカミュア=ヨシュとともにウェルハイドの護衛としてバナームに発っていたのである。
「その後はバナームを拠点にして、ちまちまと銅貨を稼いでいたんだがな。バナーム侯爵家が使節団の護衛役を募集していたもんだから、ひさびさにジェノスの様子を見てみようと思って志願したんだよ」
「そうだったんですね。そちらもお元気そうで何よりです」
「ああ。少なくともお前さんたちほど慌ただしい日々ではなかっただろうな」
屋台に詰めかけたお客さんがたの姿を見渡しながら、ザッシュマはにやりと笑う。
「見たところ、以前よりもずいぶん西の民の客も増えたようじゃないか。生命を張って貴族にたてついた甲斐もあったな」
「はい。これをきっかけに、ジェノスの人たちともっといい関係性を築ければなと思っています。……そういえば、カミュアはどうしているんでしょう? 何か連絡などはありましたか?」
「いや? ひさびさにアブーフにでも出向いてくるかとバナームを出てったきりで、音沙汰はないな。まあ、生きていればそのうちジェノスにも顔を出すだろうさ」
そのように言ってから、ザッシュマはちょいちょいと俺を指先で招くような仕草をした。
「ところでポルアース殿に聞いたんだが、お前さんたちはダバッグに旅立つ予定があるんだって?」
「ああ、はい。俺たちは生きたカロンというものを見たことがなかったので、ちょっと見識を広げに行こうかと」
「そいつは見上げた心意気だ。西でカロンを食うならダバッグが一番だからな」
何やら楽しそうに言い、さらに顔を寄せてくる。
「そこで物は相談なんだが、俺を案内役で雇う気はないか?」
「案内役? でも、ザッシュマは荒事の専門家なのでしょう?」
「荒事は森辺の狩人たちにまかせるよ。ま、ジェノスからダバッグなんてたった半日の道程だし、近所を根城にしてる野盗の集団もない。何にしたって刀を抜くような事態にはならないだろうさ」
「それなら、なおさらザッシュマを雇う甲斐もないように思えるのですが」
「だから、護衛役ではなく案内役を買って出ようとしてるんだよ。護衛役だと《守護人》として相応の代価をいただかなきゃならなくなるが、案内役ならそれほどお前さんたちの懐を痛めることにもならないだろうからな」
このザッシュマはカミュア=ヨシュと同様、西の王国に認められた正規の《守護人》なのである。
もぐりの《守護人》とは異なり依頼人を裏切ることはないし、腕も立つ。こういう正規の《守護人》を雇えるのは、よほど豊かな商人か貴族のみである、という評判であったのだった。
「確かに不慣れな土地に出向くには案内人というものが必要になる、と聞いていますけれど……でも、どうしてわざわざザッシュマのほうからそのような話を願い出てくれるのですか?」
「それはな、俺がダバッグの生まれだからだよ。仕事にでもかこつけないと、なかなか故郷に出向くこともできない身の上でね」
「ああ、ザッシュマはダバッグの生まれだったのですか。……そういえば、かつてメルフリードは『ダバッグのハーン』などと名乗っていましたね?」
「お、なかなか物覚えがいいじゃないか。そうだよ、あれは俺の出自を騙っていただいていたのさ」
メルフリードは偽名で《守護人》をよそおい、このザッシュマは商団の長をよそおっていた。今となってはずいぶん懐かしく感じられるエピソードである。
「俺の家もカロンの牧場をやってるんだけどな。そいつを放り捨てて身を立てちまったもんだから、親父なんかはいまだに口をきこうともしない。母親なんかは、ま、それなりに歓迎もしてくれるんだがね」
「……それは何だか微笑ましいお話ですね」
俺が言うと、ザッシュマは「うるせえよ」と照れくさそうに言い捨てた。
「そういうことなら、了承いたしました。案内役についてはトゥランのミケルという方に一任していたので、その方と相談してみます」
「ああ、よろしく頼むよ。代価は相場でかまわないからよ」
そう言って、ザッシュマは城下町でなく南の通りへと歩み去っていった。
◇
その次の珍客が訪れたのは数日後、やはり中天の少し前のことであった。
城下町の方角から立派な箱型のトトス車が近づいてきて、町の入口で停車する。ひさびさにポルアースのご来訪かなと思ったが、それはダレイム伯爵家ではなくジェノス侯爵家の家紋を掲げており、そこから現れたのはバナームの貴族ウェルハイドであった。
「アスタ殿、先日は素晴らしい食事をありがとうございました。おかげで頑迷なる同胞たちの目を覚ますことがかないました」
黒い髪に象牙色の肌、俺より少し年長なぐらいの、気品あふれる貴族の若様である。
宴のときよりは質素であるが、それでも真紅の絹の服などを纏っているし、おまけに物々しい近衛兵などを引き連れているものだから、ポルアースよりもいっそう人目を引いてしまう。いまだ貴族を見慣れぬ宿場町の人々は、目引き袖引きでこの若き貴族を迎えることになった。
「商売の最中にお騒がせしてしまって申し訳ない。実は折りいって相談があるのですが、聞き入れていただくことはかないますでしょうか?」
「はあ。自分の力の及ぶことでしたら……」
「それはありがたい。では、あちらの荷車のほうにご足労をお願いします」
俺はちょっと考えたすえ、ヴィナ=ルウに同行を頼むことにした。
貴族からの頼まれごとであれば、族長筋たるルウ家の人間にも話を聞いてもらったほうがよかろうと判断したのだ。
「相談というのは、これのことです」
車の中には、2名の従者が控えていた。その者たちが恭しく捧げてきたのは、巨大な布袋と木箱である。
布袋には見覚えのない暗灰色の粉末が、木箱には3本ずつ2種類の白い土瓶が詰め込まれていた。
「こちらはバナームのフワノで、こちらは同じくママリアの酒と酢です。これらの有効な使い道を、アスタ殿に考えていただきたいのです」
「フワノと果実酒と酢ですか。それなら城下町の料理人のほうが有効に使えるのではないでしょうか?」
「酢に関しては、そうかもしれません。しかし現在、ジェノスではフワノよりもポイタンのほうが主流になってきているのでしょう? 城下町においては、その限りでないという話でありましたが」
「ええ、城下町の人々は安価な食材を好まないので、ポイタンを食することはないかもしれませんね」
「しかしアスタ殿は、そのポイタンとフワノを混ぜることによって、あれほど美味なる料理を作ることができた。それならば、このバナームのフワノの新しい使い道を見出すこともできるのではないでしょうか?」
今ひとつ真意がつかめなかったので詳しく聞いてみたところ、フワノに関しては宿場町でも売りさばく算段であったのだという話であった。
しかし周知の通り、宿場町ではポイタンのほうが主流になりつつある。バナームから買ったフワノにはそれなりの利ざやをつけなければ足が出てしまうので、通常のフワノよりも少しだけ割高にして売り込むつもりであったのだが、これでは売れる目処が立たない。
「それならば、売る相手は城下町の民に絞る他ありませんが、ジェノスのフワノもバナームのフワノもそこまで味が異なるわけではないですからね。物珍しさだけに頼っていては、とうてい当初の目論見以上に売りさばくことはできないでしょう」
「なるほど……でも、それはあなたが思い悩むようなお話なのですか? 売り上げが見込めないと、買い取りの量が減らされてしまうというお話なのでしょうか?」
「いえ、ジェノス侯は約定通りの量で通商を願いたいと言ってくれました。あちらには10年前に僕の父を死に追いやったという負い目があるので、不利な条件でもそのように申し出るしかなかったのでしょう」
しかしそれだと、今度はウェルハイド側の気持ちが収まらないということであった。
生真面目で、なおかつ熱情的な貴族の若君なのである。
「そうですか。では、こちらの果実酒と酢についてはどうなのでしょう? こちらは最初から城下町のみで売りさばく算段であったのですよね?」
「ええ、こちらはあくまで、フワノのついでです。果実酒を料理に使うアスタ殿ならば、これもまた新しい使い道を見いだせるのではないかと思いまして」
そういえば、ジェノスにおいては酒を食材と見なす風習がないのだとミケルは語っていた。あのヴァルカスも、肉をやわらかくするためにぐらいしか果実酒を使っていなかった気がする。唯一の例外は、ティマロが菓子で酒類を風味づけに使用していたことぐらいであろうか。
「ちょっと味見をさせていただきますね」
俺は木箱の土瓶を拝借して、その中身を確認させていただいた。
そして、少なからぬ驚きを覚える。同じママリアを原料にしていても、果実酒は白ワインのような色合いと風味をしており、酢はいっそうワインビネガーに近い味わいであったのである。
「ああ、こちらはすぐにでも料理に使えそうですね」
赤ワインと白ワインなら、それはもう別種の食材と言えるぐらいだろう。また、トゥランのママリアで作られた酢などはビネガーとバルサミコの中間みたいな味わいであったので、マヨネーズなどの原料としてはこちらのほうがまだ理想に近いかもしれない。
「フワノのほうは、森辺に持ち帰って色々と研究してみます。……ただ、自分たちは数日後にジェノスを離れる予定ですので、それまではちょっと手をつけられないかもしれませんが……」
「それでかまいません。無理を言っているのはこちらのほうなのですから」
あくまでも生真面目に、ウェルハイドは首肯する。
「それともうひとつ、これはまったくの別件なのですが」
「はい、何でしょう?」
「リーハイム殿は、その後アスタ殿らを困らせたりはしていませんか?」
ウェルハイドの瞳に、いっそう真剣な光が浮かぶ。
「彼は森辺の女衆に冷たくあしらわれて以来、あのように態度を豹変させてしまったそうではないですか。民を統べる貴族としては許し難い話です」
「ああ、その件ですか。はい、こちらは問題ありません。森辺の民と面倒を起こさぬよう、ジェノス侯爵が歯止めをきかせてくれているはずですし」
「ジェノスの統治に関して口は出せませんが、これがバナームの出来事であったのならば、僕も黙ってはいられなかったでしょう。……貴族と生まれついたからには、己を律する気持ちが何よりも大事になるのです。身分違いの相手に懸想することなど、決して許されません」
そう言って、ウェルハイドはちょっと切なげに息をついた。
「それでは、これにて失礼いたします。アスタ殿には、それ相応の褒賞をお支払いできるよう準備しておきますので」
「はい、ご期待にそえるよう頑張ります」
そうしてウェルハイドがトトス車に乗って北の方角に戻っていくと、木箱を抱えたヴィナ=ルウが「ねぇ……」と呼びかけてきた。
「もしかしたら、あれもレイナに懸想していた貴族のひとりなのかしらぁ……?」
「え? どうしてヴィナ=ルウがそんなことを知っているんですか?」
「ルドやラウ=レイが楽しそうに話してたのよぉ……もちろんレイナは迷惑そうな顔をしていたけどねぇ……」
レイナ=ルウには気の毒な話だが、まあ周知の事実にしておくべき事柄なのだろう。ヴィナ=ルウはともかく、ドンダ=ルウの耳には入れておかないと、のちのち面倒なことにもなりかねない。
「それに貴族ばかりじゃなく、ときたま顔を見せていたあの若い料理人も……」
と、そこでヴィナ=ルウはぴたりと口を閉ざした。
その視線の先を追ってみると、旅用のフードつきマントで人相を隠した人物が車の去っていった方角から近づいてきたところであった。
「あ、もしかしてロイですか?」
「よお、ひさしぶりだな」
噂をすれば何とやら、それは城下町の若き料理人ロイであった。
彼はひと月ほど前にマイムの料理を口にして以来、いっさい姿を見せないようになっていたのである。
ひさかたぶりに再会したロイは、いくぶんやつれて以前よりもいっそう目つきが険しくなっているような気がした。
「まったく音沙汰がなかったので、ちょっと心配していたんですよ。身体の調子でも崩していたんですか?」
「身体のほうは何ともねえよ。ここんとこは、ずっと家の厨にこもってたんだ」
そのように言い捨てて、荷物を抱えた俺とヴィナ=ルウの姿を見比べる。
「さっきのはジェノス侯爵家の車だよな。また何か新しい手柄でも立てたのか?」
「いえ、これはバナームのフワノと果実酒と酢です。食材としての新しい使い道を考案してほしいと願われました」
「ふん、そいつは景気のいい話だな」
フードの陰に表情を隠し、ロイは屋台のほうに歩を進めていく。
荷物を片付けてから俺たちも舞い戻ってみると、ロイは『ギバ・バーガー』の屋台でレイナ=ルウから商品を受け取っていた。
次なる客に場所をゆずりつつ、『ギバ・バーガー』に歯を立てる。
それからロイは、深々と嘆息した。
「おい、この料理はアスタじゃなく森辺の女衆がこしらえたものなんだよな?」
新たな『ギバ・バーガー』をこさえていたレイナ=ルウがいぶかしげに振り返る。
「はい。元はアスタの料理ですが、今ではわたしたちだけで作っています」
「お前たちはちょっと前まで、肉の血抜きすら知らなかったってんだろ? それでどうしてこんなに上等な料理を作れるようになったんだ?」
以前はレイナ=ルウに対して平素にふるまうことすら難しかったロイが、今日は普通に口をきいている。
いや、もしかしたらロイは相手がレイナ=ルウであるということさえ認識していないのかもしれなかった。
「どうしてと問われても答えようはありませんが……わたしたちはアスタの料理に感銘を受け、自分たちでも美味なる料理を作りたいと強く願ったまでです」
「強く願えばかなうってもんでもないだろうがよ?」
「ええ。ですが、願ってそれを行動に移さなければ、いっそう成就される見込みはなくなると思います」
ジャガルの民のお客さんに商品を手渡しながら、レイナ=ルウは静かにそう答えた。
「……あなたはたしか、城下町の料理人でありましたね?」
「ああ? それが何だってんだ?」
「それならば、あなたもあのヴァルカスという料理人のような料理を作りたいと願っているのでしょうか?」
ロイは愕然としたようにレイナ=ルウを見る。
「ちょっと待て。何でお前がヴァルカスなんかの名前を知ってるんだ?」
「わたしたちは、この間――」
レイナ=ルウが答えかけたとき、シムの民のお客さんが銅貨を差し出してきた。
それで、ツヴァイとともに『ミャームー焼き』の屋台を受け持っていたヴィナ=ルウが見かねたように近づいてくる。
「レイナ……おしゃべりがしたいなら代わってあげようかぁ……? そろそろアマ・ミン=ルティムも来てくれる頃だろうしねぇ……」
レイナ=ルウは「うん」とうなずき、目の前の仕事だけはきっちりこなしてから、ロイをともなって屋台を離れた。
ヴィナ=ルウの視線を受けて、俺も再び屋台を離れる。
「わたしたちは藍の月の10日に、城下町でヴァルカスとともにかまどを預かったのです。あなたは何も聞かされていなかったのですね」
屋台から離れた雑木林で、レイナ=ルウがそのように説明していた。
そこに俺も加わって、バナームの使節団についての詳細を述べてみせる。
「なるほどな。家の外じゃあそんな愉快なことが巻き起こってたのか。ま、ティマロと違ってあのヴァルカスが俺なんざに声をかけるはずもねえしな」
自嘲するように、ロイは言い捨てる。
その、いくぶん頬のこけてしまった横顔を、レイナ=ルウはじっと見つめている。
「では、もう一度お聞かせください。あなたはヴァルカスのような料理を作りたいと願っているのですか?」
「ヴァルカスの料理か。そうだな。城下町で料理人なんざを気取っていたら、あいつを目標にするしかないだろうよ。あいつぐらいさまざまな食材を自由自在に使いこなせる料理人は、他に存在しねえんだ」
ロイはフードをはねのけて、手入れのされていない褐色の髪をかきむしった。
「だけど……俺にとって一番美味いと思えたのは、《白き衣の乙女亭》で食べたミケルの料理だ」
「ああ、あなたはミケルと同じ店で働いていたという話でしたね」
「そうだよ。あの人は、ヴァルカスほどたくさんの食材は扱えない。《白き衣の乙女亭》なんて、ヴァルカスたちを雇っていた料理屋やトゥラン伯爵邸に比べればちっぽけな店だったからな。……だけど俺には、あの人の料理こそが一番だと思えちまったんだ」
「だからあなたは、あのマイムという娘の料理を口にして以来、姿を見せなくなってしまったのですか。二度と食べられないと思っていたミケルの料理の味を思い出して、衝撃を受けてしまったのですね」
ロイは火のような目つきでレイナ=ルウをにらみつけた。
レイナ=ルウは、静かにそれを見つめ返す。
「それならば、ミケルに教えを乞えばよいのではないのですか? ミケルは片腕が不自由になってしまったそうですが、ああして自分の娘に料理の手ほどきをしています」
「そんなことをして何になるっていうんだよ? ミケルの技はあの小さな娘に引き継がせることができたんだ。俺なんざが弟子入りしたところで……俺は、ミケルにはなれねえ」
「あなたがミケルになる必要はありません。わたしがアスタになれないのと、それは同様です。……しかし、ミケルの技を知らずして、あなたはミケルを越えることができるのですか?」
ロイは、打ちのめされた様子で立ちつくす。
それと相対するレイナ=ルウの表情は、あくまでも静かであった。
「まもなくあのマイムという娘は、屋台で料理を売りに出すかもしれません。そうすれば、あなたも再びミケルの味を口にすることができるでしょう。……それであなたが何を得られるかは、あなたの心ひとつだと思います」
ロイは答えず、黙りこくっている。
そして、無言のまま立ち去ってしまった。
その背中を見送りながら、レイナ=ルウはふっと息をつく。
「縁もゆかりもない相手に差し出口をきいてしまいました。わたしはいったい何をしているのでしょうね?」
「いやあ、俺のほうこそ驚いてしまったよ。どうしてロイにああいう言葉をかける気になったのかな?」
「あの料理人は、ロイという名前でしたか。名前を失念するていどの間柄でしかなかったのですよね、わたしたちは」
レイナ=ルウは、思わしげな面持ちで額に手をそえた。
「何でしょうね。わたしもこのひと月ほどはあれこれ思い悩んでいたので、何だか居たたまれなくなってしまったのです。……あのロイという者が苦悩する姿に、自分を重ねてしまったのでしょうか」
「どうだろうね。思い悩んでいるのは、俺も一緒だけど」
「アスタとわたしたちでは、立っている場所が違いすぎます。アスタはあのマイムやヴァルカスたちと同じ場所に立っているのでしょうから」
そのように言ってから、レイナ=ルウはふいににこりと微笑んだ。
「でも、わたしもダレイムを訪れてからは、少し胸が晴れました。それはきっと、今の自分にできる仕事を見つけたからなのでしょう。今、シーラ=ルウとともに新しい料理を作りあげている最中なので、完成したらアスタに味見をお願いしたく思います」
「喜んで。完成の日を楽しみにしているよ」
◇
その翌日には、ひさびさにヤンもやってきてくれた。
「ポルアース殿から歓迎の宴について聞き及びました。アスタ殿は、あのヴァルカス殿と互角の腕前とまで評されたそうですね」
「いやあ、それは過大評価です。俺自身は自分の未熟さとヴァルカスのものすごさを思い知らされたばかりですよ」
「それでも列席した方々の半数ほどは、アスタ殿こそが至上の料理人とお認めになられたようです。わたしなどでは、とうていそのようなお言葉をいただくこともかなわなかったでしょう」
そう言って、ヤンは厳しく口もとを引き締めた。
「わたしは何だか見習いの料理人にでも戻ってしまったかのような心境です。この気持ちを糧に、いっそう励んでいきたいと思います」
ヤンが辞した後は、ディアルがひょっこり姿を現した。
「いやー、あの後はすごかったんだよ? どっちの料理が美味しかったかって、延々と語り合う羽目になっちゃってさ! 貴族より先に退出することもできなかったから、最後には居眠りしそうになっちゃったよ」
「そっか。それは大変だったねえ。……それで、ディアルの感想はどうだったのかな?」
「うーん、僕はねえ、どっちが優れているかとかはよくわかんなかったなあ……香草がそんなに好きじゃないぶん、どっちが好みかっていったら圧倒的にアスタのほうなんだけどね!」
「それは嬉しいよ。どうもありがとう」
「うん! ……でもね、どっちも西の料理だなあとは思ったよ。ジャガルではあんまりカロンの乳とか乾酪とかも使わないからさ。もっとタウ油や砂糖なんかを使ってくれたら嬉しかったかも」
そのように言ってから、ディアルはうっとりと目を閉ざした。
「僕がこれまでで一番美味しいと思ったのは、やっぱりあの宿場町の宿屋で食べた『ギバの角煮』とかいう料理だね。できることなら、毎日だってあの料理を食べに行きたいよ」
「なるほど。でも、夜間に城下町を出るのは禁じられているんだよね?」
お供のラービスの耳をはばかって小声で聞いてみると、ディアルは「そうなの」と不満げな顔をした。
「だから、もうジェノスに何ヶ月も滞在してるのに、たったの2回ぽっちしか口にしてないんだよね。それも日が落ちる前には戻らなくちゃならないから、ゆっくり味わうこともできなかったし!」
「そうか。でも、時間を見つけてはこうして屋台に来てくれるから、俺はとても嬉しく思っているよ?」
ディアルはあっさりと機嫌を取り戻し、「えへへ」と笑った。
「だけどやっぱり、僕は晩餐でもアスタの料理を食べたいからさ。アスタが城下町に招かれるときは、必ず声をかけてよね?」
「いやあ、今後はそうそう城下町に招かれることもないと思うけど」
「なに言ってんのさ! 少なくとも、あの宴にいた貴族の何人かは、アスタを自分の家に招きたいって考えてるはずだよ? むやみにアスタの生活をかき乱すべきではないって、ジェノス侯爵が忠告しなくちゃならないぐらいだったんだから」
それは光栄なる話であった。
それと同時に、マルスタインの気回しをありがたいとも思ってしまう。
「それでもいずれはお呼びがかかるはずだからさ。特にあの、何て言ったっけ? ジェノス侯爵家のお姫様――ほら、第一子息の伴侶とかいう、あの貴婦人」
「ああ、エウリフィアだっけ?」
「そう! そのエウリフィア! あの貴婦人なんかは、まず間違いなくアスタを呼びつけようとするはずだよ。侯爵も第一子息も完全には手綱を握れていないみたいだったし」
メルフリードの奥方は、そこまで俺の料理を気に入ってくれたのか。
まあ、悪い縁にならないことを祈るばかりである。
「だから、そのときは絶対に僕にも話を通してよ? その晩餐会にもぐりこめるよう、あれこれ手立てを考えてみせるから!」
そう言って、ディアルは天使のように微笑んだのだった。
◇
そうして、さらに翌日。
珍客の締めくくりとして登場したのは、なんとシムの占星師アリシュナであった。
「あ、あれ? ようこそいらっしゃいませです」
俺が動揺してしまったのは、最初それがアリシュナと気づくことができなかったからだ。
彼女はポルアースや護衛の武官も引き連れず、なおかつ旅用の古びた革マントを纏って俺の前に姿を現したのである。
「……私、来訪、迷惑でしたか?」
「い、いえ、まさかあなただとは思わなかったもので……その格好は、どうしたんです?」
「普段の格好、目を引くと思い、昔の装束、持ち出してみたのです」
そういえば、彼女はこのジェノスに安住するまでは、家族とともに放浪の生を送っていたはずなのである。
そうして旅装束に身を包んでしまうと、彼女はどこにでもいるシムの旅人にしか見えなかった。ただ、少しばかり小柄であるだけだ。
「ポルアース、多忙です。ゆえに、私、ひとりで来ました」
俺の疑問を先回りして、アリシュナはそのように説明してくれた。
「それはどうもご足労さまです。……えーと、屋台の料理をお求めなのでしょうか?」
「はい。アスタの料理、欲する気持ち、おさえることができませんでした」
完全無欠の無表情で、アリシュナは小さくうなずく。
それからもぞもぞとマントの内側で手を動かし、アリシュナは静かに俺を見た。
「……危急の事態です」
「はい?」
「銅貨、忘れてしまいました」
俺は一瞬、返答に詰まってしまった。
無表情のまま、アリシュナは一礼する。
「帰ります。いずれまた、来訪、お許しください」
「ちょ、ちょっとお待ちを! 城下町に銅貨を取りに戻るのですか?」
「いえ。私、歩く力、弱いです。今日、再び訪れる、難しいです。無念ですが、次の機会、待ちます」
「それなら今日は俺が立て替えておきますよ。次にご来店の際、まとめてお支払いをお願いいたします」
夜の湖みたいに静まりかえったアリシュナの黒い瞳が、じっと俺を見つめ返してくる。
「私、信用、いただけるのですか? 私たち、まだ、縁、薄いです」
「はあ。ですが、城下町にお住まいの方が1枚や2枚の赤銅貨を踏み倒すことはないかなと思えますので」
そのように答えつつ、俺は思わず口もとをほころばせてしまった。
「もしもひと月以内にあなたが現れなかったときは、ジェノス侯爵にでも請求させていただきましょう。あなたは侯爵のお客人というお話でありましたので」
「……信頼、応えたい、強く思います」
アリシュナは複雑なかたちに指先を組み合わせて、深々とおじぎをした。
いくつもの指輪で彩どられた、びっくりするぐらい華奢な指先だ。
「では、どの料理にいたしますか? 俺の店では2種類、ルウ家の店でも2種類、それに特別料理も取りそろえておりますが」
「特別料理」
「はい。くじ引きで当たりを引いたお客様にだけお出しする特別な献立です。『ギバ・カツサンド』といって、とても好評でありますよ?」
アリシュナはゆるゆると首を横に振った。
「私、占星師です。自らの運命、試すこと、許されません」
「そうですか」と俺はまた笑ってしまう。
この娘さんは並のシム人より感情が読みにくく、それゆえか堅苦しく、格式張って見えてしまう。それがこの際には、微笑ましさを生み出す要因になってしまっていた。
「では、どちらの料理にしましょうかね。この『ギバまん』以外は味見もできますので、木皿をお出ししましょうか?」
「いえ。余計な手間、申し訳ないです。そちらの料理、お願いいたします」
「『ギバまん』ですね。承りました」
俺は木製の蒸し籠を開けて、ほかほかの『ギバまん』を取り出してみせた。
「お熱いので、火傷をしないように気をつけてください。こちらの料理は赤銅貨2枚になりますね」
「後日、必ず、お支払いします」
アリシュナはまたひとつうなずき、手を差し出してくる。
その黒くてほっそりとした指先に、俺は『ギバまん』を手渡した。
アリシュナは無表情のまま、そいつをぱくりと頬張った。
その目が、ちらりと俺を見る。
「いかがでしょう? 香草を使っていない料理ですので、物足りなくはありませんか?」
「いえ、美味です。……とても美味です」
「そうですか。ありがとうございます」
しかしやっぱり表情は動かない。
アリシュナは両手で白い『ギバまん』を支えながら、ぱくぱくとそれをたいらげていった。
「宿屋のほうでは、以前にお話しした香草を使った料理が売りに出されています。ポルアースがご多忙でなくなったら、是非そちらもお召し上がりになってみてください」
「はい。とても楽しみ、しています」
『ギバまん』を食べ終えたアリシュナは、また指先を組んで一礼する。
「アスタ、ダバッグに発つ、まもなくですか?」
「はい。藍の月の22日に出発する予定です」
「そうですか。……星読み、不要ですね?」
「そうですね。俺たちはあんまり占いというものを重んじていないので……占星師のかたにこのようなことを言うのは失礼なのかもしれませんが」
「いえ。星読み、希望と絶望、等しく与えます。むやみに頼らない、正しいと思います」
そのように言いながら、アリシュナはまたもぞもぞとマントの中で身体を動かした。
そこからのびた左腕が、俺のほうに差し出されてくる。
「アスタ、これを」
「はい? 何でしょう?」
その華奢だが指の長い手の上には、小さな紫色の石が載せられていた。
人間の親指ぐらいの大きさをした綺麗な石で、ちょっと勾玉みたいな形状をしている。
「旅の安全、つかさどる、ラピスタの石です」
「ああ、いえ、このような贈り物を受け取るわけには――」
「贈り物、違います。旅、終わるまで、預けるだけです」
低くて透き通った声で、アリシュナはそのように述べる。
「ラピスタの石、必ず持ち主のもと、帰る、言われています。これを持ち、旅に出れば、アスタ、必ず帰ります」
「はあ……カエルのお守りみたいなものなのかな」
口の中でつぶやきつつ、しばし逡巡してから、俺はその石を受け取った。
「わかりました。旅から戻ったら、これをアリシュナにお返しすればいいのですね? それなら、赤銅貨2枚の代価と引き換えに、ということにしましょうか」
「はい。かまいません」
アリシュナは、フードの陰でまぶしそうに目を細める。
「アスタ、帰り、待っています。あなたの旅、必ず成功するでしょう」
「ありがとうございます。そちらもお元気で」
「はい」
そうしてアリシュナもまた立ち去っていった。
もしかしたら、彼女はこれを渡すためにこそ、わざわざ俺の屋台を訪れてくれたのだろうか。
そこはかとなく満ち足りた気持ちを覚えながら、俺はラピスタの石を腰の布袋にそっとしまい込む。
とても慌ただしくはあるが、そうして10日間の営業日は平和に過ぎ去っていったのだった。