休業日④~想い~
2016.2/11 更新分 1/1
「……大丈夫ですか、アスタ? ずいぶん暗いお顔をしているようですけれど」
別れ際、トゥール=ディンはたいそう心配そうにそう言ってくれた。
「大丈夫だよ。少し疲れただけだから。……トゥール=ディンこそ、ずいぶん疲れていたんだろう? できるだけゆっくり身体を休めてね?」
「はい。すっかり寝入ってしまってお恥ずかしい限りです」
感じやすい頬を赤らめつつ、トゥール=ディンはぴょこんと頭を下げる。
「それでは、明日からもまたよろしくお願いいたします」
「うん、こちらこそ。また明日ね」
ギルルに革鞭を入れ、俺はディンの家から森辺の道へと引き返した。
その間も、頭の中にはライエルファム=スドラから受け取った言葉がぐるぐると渦を巻いている。
自分の素性にこだわる必要などない、というのはライエルファム=スドラの言う通りなのだろう。いつ消えるかわからない、なんて、いつ死ぬかわからない、というのと同義であるのだから、俺にだけ与えられている特別な宿命というわけでもない。そんなことは、これまでにもう何度となく考えさせられている。
そして、自分のような異分子が子供を残すことなど許されるのか、という点についても――俺はここまで森辺やジェノスの内情をひっかき回してしまったのだから、今さら心配したって始まらないだろう。仮に俺が子供を残したとしても、俺ほど人騒がせな人間に育つことはそうそうないだろうなと思えてしまう。
(だけど、俺が子供を残すなんて、そんなことを実感を持って考えることはできないよなあ……)
元の故郷では、まだそのようなことを思い悩む年齢に達していない俺なのである。
だけどここは、森辺の集落だ。伴侶を娶ることは15歳から許されている。だから俺は、森辺の習わしに則って、大いに思い悩む他ないのだろう。
しかし――そうなると、俺の煩悶はたったひとつの点に集約されてしまうのだった。
(よその家から嫁を迎えるなんて、そんな真似ができるはずはないんだ。自分の行く末について心配するのをやめたとしても、それだけは無理だ)
ギルルに革鞭を入れながら、俺は深々と溜息をつく。
そうして思い悩んでいる内に、もうファの家が見えてきてしまった。ディンの家とファの家は、トトスなら数分の距離であるのだ。
もうアイ=ファは帰っているだろうかと、俺は御者台を降りて家の戸板に手をかける。
そうしておそるおそる指先に力を入れようとすると――突然頭上でガサリという不穏な音が鳴った。
「あら、アスタ。今日は帰りが早かったのね」
どきどきと脈打つ心臓に手を当てながら、俺はそちらを振り返った。
家のすぐ脇に立っている木の上から、見覚えのある女衆の顔がひょっこり覗いている。
「レ、レム=ドムか。びっくりしたなあ。そんなところで何をやってるんだい?」
「何って、木から木へと渡っていく修練よ。ギバを追うときや探すときに必要な力なのよ、これは」
そんな風に言いながら、自分の身長よりも高い位置からレム=ドムは地面に降り立った。
野生の豹のようにしなやかな身のこなしである。
「どうしたの? なんだか浮かない顔をしているようだけれど、ダレイムで何かあったのかしら?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。色々と考えなきゃいけないことができちゃって」
「ふうん?」とレム=ドムはいぶかしげに首を傾げる。
もともとワイルドな風貌をしているレム=ドムであるが、この数日で彼女はいっそう精悍になっていた。180センチ近い長身には力がみなぎっているし、目つきの鋭さにも磨きがかかっている。
「わたしもちょっとアスタに相談があったのだけれど、その様子なら日を改めたほうがよさそうね」
「俺に相談? 朝方の仕事についてかな?」
「ううん。もうちょっと入り組んだ話なの」
「いいよ。俺も少し別のことを考えて頭を冷やしたいから、何でも話してくれ」
「そう?」とレム=ドムは力強い足取りで俺に近づいてきた。
人の耳をはばかるような相談事なのだろうか。その肉感的な唇が、俺の耳もとに寄せられてくる。
「それじゃあお言葉に甘えて、相談させてもらうけれど……ちょっと突拍子もない話だから、驚かないでね?」
「うん」
「わたしをあなたの嫁にしてもらうことって、果たして可能だったりするのかしら?」
俺は驚きのあまりおもいきりのけぞって、その拍子に後頭部を戸板に叩きつけることになってしまった。
無言で頭を抱え込む俺に、レム=ドムはまた顔を寄せてくる。
「馬鹿ねえ。だから驚かないでって言ったのに。大丈夫? 怪我をしていない?」
「い、い、いきなり何を言い出すんだよ! 俺をからかってるのか!?」
「恩義のあるあなたをからかうわけないじゃない。わたしがそれほど不誠実な人間に見えるというの?」
心外そうに言い、逞しい腕を胸の前で組む。
「わたしは本気よ。もちろんそんな未来が訪れないことを願ってはいるけれど、最悪の事態を想定しておかないわけにもいかないでしょう?」
「いったいどんな事態を想定したら、レム=ドムが俺に嫁入りを願うことになってしまうんだい?」
「それはもちろん、このさき永久にディックとわかりあえなかったときよ」
腕を組んだまま、レム=ドムは筋肉の張った肩をすくめる。
「わたしだって、ドムの家を捨てる気持ちにはなれない。でも、狩人になりたいという願いを捨てる気持ちにもなれないの。どうにかしてディックとわかりあえるようにできる限りの努力をするつもりではいるけれど、それでもディックがわたしの願いを聞き入れてくれるかはわからないでしょう?」
「うん、そこまでの筋立てに異論はないよ」
「じゃあ、このまま何年もドムの家に帰ることができなかったら、わたしはどうなるの? ひたすら修練を積みながら、それでも森に入ることも許されず、無意味に朽ちていくだけじゃない。だったら、どこかの家の家人にしてもらう他ないのよ」
「そこまでも理解できる。でも、嫁入りの話は理解できない」
「ドムの家は、族長筋たるザザの家ともっとも近しい氏族のひとつだわ。そのドムの家長の怒りを買ったわたしの存在を受け入れてくれる家なんて、この森辺にはファの家ぐらいしかないと思うのよ」
あくまでも平然と、レム=ドムはそう言った。
「で、ただ家人になるだけじゃあ、やっぱりファの家もディックの怒りを買ってしまうかもしれないでしょう? でも、嫁に入りたいという話だったら、森辺の民として認めざるを得ないじゃない? 伴侶を娶って子供をなすというのは、森辺の女衆にとってもっとも大事な仕事とされているのだから」
「でも、レム=ドムは狩人になりたいんだろう? だったら、子供を作ることもできないじゃないか」
「だからこそ、伴侶とするならあなたしかありえないのよ、アスタ。だってあなたは、誰を嫁に迎えるつもりもないんでしょう?」
「そ、そんな話を誰に聞いたのかな?」
「誰って、ルウの集落で世話になっていたとき、噂で聞いたのよ。あなたはそれで、ルウの女衆の嫁入りを断ったのじゃないの?」
そんなことが噂になっているのかと、俺は息を呑むことになった。
しかし俺は正式に嫁入りを願われたわけではないし、ヴィナ=ルウやレイナ=ルウがそのようなことを公言するとも思えない。いったいそれは、誰を根とする噂話なのだろう。
「ああ、別にそんな話がおおっぴらに出回っているわけではないのよ? 正確に言うなら、内緒話を立ち聞きしてしまっただけなの」
「参考までに、それは誰と誰の内緒話だったのかな?」
「名前まではわからないわ。赤い髪をした本家の娘と、まだ若い分家の男衆ね」
ならばそれは、ララ=ルウとシン=ルウなのかもしれない。
ララ=ルウはその卓越した洞察力で俺たちのややこしい関係性を把握していた様子であるし、シン=ルウが相手であれば、家族の恥を広める結果にもならないと考えるだろう。
「で、あの内緒話は、真実であったのかしら? アスタが誰を娶る気持ちもないというのは本当なの?」
「うん、まあ……一口で説明するのは難しいけど、そう思ってもらって差し支えはないと思うよ。だから、レム=ドムを娶るわけにもいかないんだけど……」
「大丈夫よ。わたしの場合は、形だけの婚儀なのだから。そうすれば、おたがいにもう伴侶を娶れと周囲からせっつかれることもなくなるじゃない?」
レム=ドムは、俺に偽装結婚を申し入れようという算段であったのか。
これはもう、森辺の民としては言語道断の非常識な考えであるといえるだろう。
「君はとんでもないことを考えるんだねえ、レム=ドム……」
「そうかしら? 誰も傷つかない妙案であると思うのだけれど」
言いながら、レム=ドムは組んでいた腕をほどいて、また俺のほうに身を寄せてきた。
そのやや吊りあがり気味の大きな目が、何やらあやしげな光をたたえている。
「それにね、これもあまり大きな声で言える話ではないけれど……子供を孕まないように気をつけながら快楽をむさぼる手段なんて、いくらでもあるのよ? 宿場町なんかでは、それを商いにしている人間がいるぐらいなのだから……」
「そ、それはなかなか驚くべき話だね?」
「そうかしら? まあ、婚儀もあげていない人間がそうやって快楽をむさぼるのは、この森辺では強い禁忌とされているけれど……アスタが望むなら、その方法を教えてあげてもいいわよ?」
「望まないよ! 禁忌は犯すべきじゃない!」
俺よりも長身で、俺よりも逞しいレム=ドムである。彼女がよからぬ思いを行動に移そうと考えたら、それを腕力で制止させることは不可能だろう。俺は戸板にぴったりと背をつけて、降参の意思表示をしてみせた。
レム=ドムは肉食獣のように舌なめずりをしてから、「そう?」と咽喉にからんだ声で言う。
「残念ね。アスタには世話になっているから、その恩返しをしたいという気持ちもあったのだけれど……」
「だったら頼むから俺の気持ちを尊重してくれ! レム=ドムを嫁に娶ることはできないんだ!」
「……声が大きいわよ、アスタ」
そう言って、レム=ドムは残念そうに身を引いた。
それと同時に、じゃりっと砂を踏む音色が響く。
俺は大いに錯乱しつつ、その音色のあがった方向に視線を巡らせた。
家の裏手から、予想通りの人物が姿を現したところであった。
「さっきからお前たちは何をしているのだ? 仕事が済んだのならばギルルを荷車から解放してやるべきであろうが?」
「ア……アイ=ファ、帰っていたのか?」
「私は家の裏でギバの皮を剥いでいた。そのようなことにも気づいていなかったのか?」
まぶたを半分下げた不機嫌そうな面持ちで、アイ=ファがずかずかと接近してくる。
きっとレム=ドムは最初からアイ=ファの存在にも気づいていたのだろう。悪びれた様子もなく、そちらに微笑みかける。
「アスタを叱らないであげて、アイ=ファ。わたしが声をかけてしまったばかりに、アスタも仕事を失念してしまったのよ」
「ならばそれはアスタの責任だ。話をしながらでも仕事を果たすことはできよう」
言いながら、アイ=ファは荷車の留め具を外して、ギルルを解放した。
で――ギルルの手綱を木の枝に結びつつ、横目で俺をねめつけてくる。
「それで、何の話をしていたのだ? 嫁入りがどうのと聞こえたようだが」
「わたしがアスタに尋ねたのよ。万が一のときは、わたしを嫁に迎えてはくれないかってね」
「レ、レム=ドム、おい、ちょっと――!」
「何よ? 嫁入りには家長の承諾が必要なのだから、アイ=ファぬきで話を進めることはできないのよ?」
そしてレム=ドムは、俺に語ったのと同じ内容をアイ=ファに伝え始めた。
アイ=ファは同じ表情のまま、無言である。
「……で、けっきょくアスタにはその話も断られてしまったわけね。わたしとしては、なかなかの妙案だと思ったのだけれど」
「妙案かどうかは知らぬが、アスタにはアスタの考えや気持ちがある。それにお前は、万が一の事態に備えるよりも、まずは家長と心を通じあわせることを一番に考えるべきなのではないか、レム=ドムよ」
「もちろん毎日、頭が割れるぐらい考えぬいているわ。でも、どうやったらディックにわたしの行動を許してもらえるか、その筋道が見えてこないのよ」
レム=ドムは、溜息まじりにそう言った。
「わたしが正しさを示すには、アイ=ファのように狩人としての力を示すしかない。でも、家長の許しを得ないと狩人としての仕事を果たすことはできない。そして、森に入ってギバと相対しない限り、狩人としての魂を育てることはできない。……これじゃあまるで、モルガの三すくみだわ」
「確かに森に入らねば、狩人としての魂を育むことはできない。しかし、ギバを追わずとも狩人の心得を学ぶことぐらいはできよう」
「どうやって? 女衆が森に入るのを許されているのは、ギバの眠っている朝方から中天までなのよ? ギバのいない森で何を学ぶことができると言うのよ?」
「その答えは、すでに伝えてあるはずだ。もっとも、あの頃はそこまで見越してお前に言葉を与えたわけではないがな」
レム=ドムはいぶかしそうに口をつぐんだ。
それから、「バルシャね」と低くつぶやく。
「バルシャたちは朝方にも森に入って、野の鳥を狩っている。……そう、そういうことだったのね、アイ=ファ」
「獲物がギバであれ鳥であれ、森と一体になれぬ狩人には何も為すことはできん」
レム=ドムは大きくうなずき、アイ=ファに近づこうとした。
が、鋭い眼光で威嚇され、自分自身の身体を抱きすくめる。
「わかったわ、アイ=ファ……それですべてが満たされるわけではないけれど、まずわたしは狩人としての心得を身につけてみせる。ディックと言葉を交わすのは、その後ね」
答えぬアイ=ファに、レム=ドムは色っぽく笑いかけた。
「ありがとう、アイ=ファ。あなたが男衆であったら、わたしは狩人になりたいという願いも忘れて、あなたを愛してしまったかもしれないわ」
「戯れ言を言うな、うつけ者め」
「わたしはちょっとルウの集落まで走ってくるわ。今なら日が落ちる前に帰ってこれるだろうから……アイ=ファ、アスタ、話を聞いてくれて感謝しているわ」
そのように言い放つなり、レム=ドムは弾丸のような勢いで走り去ってしまった。
すっかり毒気を抜かれてしまった俺は、気持ちの整理もつかぬままアイ=ファを振り返る。
「あの、アイ=ファ……」
「用事が済んだのなら仕事に取りかかれ。晩餐の支度はこれからなのだろうが?」
ぷいっとそっぽを向いて、アイ=ファは家の裏に引き返そうとする。
その背に、「待ってくれ」と俺は声をかけた。
「実はアイ=ファに話があるんだ。……いや、ちょっと込み入った話なんで、晩餐の後にゆっくり話したいんだけど……」
「ならばそのときに声をかけろ。意味もなく呼び止めるな」
「うん、ごめん。でも、あらかじめ言っておきたかったんだ」
アイ=ファはうろんげに振り返り、強い目つきで俺をにらみつけてきた。
「本当に込み入った話のようだな。余所の女衆からも嫁入りを願われたのか?」
「よ、よくわかったな? いや、正式に願われたわけでもないんだけど……」
「……お前が自分で決めかねているというのなら、家長として私が判断を下してやろう」
冷たい声で言い放ち、アイ=ファも姿を消してしまう。
長い一夜になりそうだ、と、俺はあらためて溜息をつくことになった。
◇
「……だからまあ、ユン=スドラ本人に気持ちを確かめたわけではないし、正式に嫁入りを願われたわけでもないんだよ」
晩餐の片付けを済ませてから、燭台の光の下、俺はそのように打ち明けることになった。
金褐色の髪をほどきながら、アイ=ファは「ふん」と鼻を鳴らす。
「あの娘がお前にどのような気持ちを抱いているか、そんなものはレム=ドムとともに姿を現した最初の日からわかりきっていたことではないか」
「そ、そうなのか? さすがにそんな早い段階から察することはできなかったんだけど……」
「お前の目は節穴だからな」
容赦もへったくれもないお言葉である。
しかしアイ=ファはそのように言いながら、いくぶん鋭さをゆるめた目で俺を見てきた。
「それで? お前の考えはわきまえていたので、私もあえて口をはさもうとは思わなかったのだが。お前がそのように思い悩んでいるということは……考えを変えて、ユン=スドラを嫁を娶りたいということなのか?」
「いや、そうじゃないよ。彼女には悪いけど、やっぱり俺は誰を嫁に娶るつもりにもなれない」
「そうか」と言って、アイ=ファはまぶたを閉ざした。
ふだんであれば、ここで会話は終了だ。
だけど本日は、もう少しだけ踏み込んだ話をしなくてはならない。
俺はくじけそうになる気持ちをしっかり固めなおしつつ、「だけどな」と言い継いだ。
「ライエルファム=スドラの言い分は、森辺の民としてもっともだと思うんだ。いつか消えてしまうかもしれない、なんていう不確定な理由で森辺の民としての責務を果たさないなんて、きっと許されない話なんだろうな、と思う」
「……子を残し、それを育むのが森辺の民としてのつとめである、という話か」
まぶたを閉ざしたまま、アイ=ファは感情のない声で言う。
「もっともな話だが、その仕事を打ち捨てた私には何も言う権利はあるまい」
「アイ=ファはいいんだ。狩人として十分な仕事を果たしているんだから許されるはずだとライエルファム=スドラも言っていた。それに、ディック=ドムも言っていただろう? アイ=ファは特別な存在だってさ」
「しかしお前は、狩人でなくかまど番だ。……なるほどな。だからアスタは子供をなし、それを育むべきだということか」
アイ=ファはゆっくりと長い髪をかきあげる。
そのまぶたは、やはり閉ざされたままだ。
「そうだな……私はかつて、これ以上の家人が増えるのは煩雑に感じられるかもしれない、などと言ってしまった。それを苦にして、お前が嫁取りをためらっているならば――」
「そうじゃない。俺だって、お前が余所の家から婿を取るなんて言い出したら目の前が真っ暗になるかもしれないって言っただろう? その気持ちは……今でもまったく変わっていないんだよ」
アイ=ファの静かな面を見つめながら、俺は心臓が早鐘のように打ち始めるのを感じていた。
言葉を間違えてはいけない。
かといって、言葉を濁すわけにもいかない。
これはきっと、俺たちにとって一番繊細で扱いの難しい話であるはずなのだ。
「これまでは、それで何の不都合もなかったけど、スドラや他の家と関わることによって、これはファの家の中だけで済む話じゃなくなってきた……ということだと思うんだ」
「…………」
「お前はファの家の家長だろ。それだったら、何も言う権利もないどころか、家人の行動について責任を取らなきゃならない立場であるはずだ。俺が余所の家からの嫁入りを拒むなら、お前もその理由を正しく知っておく必要があるはずだろう? だから俺は……森辺の民の一員として、ファの家の家人として、自分の気持ちや考えをしっかりアイ=ファに打ち明けておかなきゃならないと思うんだ」
「……ずいぶん大仰な言い様だな。今さら私に何を打ち明けようというつもりなのだ?」
「俺が嫁を娶らない、その理由をだよ」
心臓が口から飛び出してしまいそうであった。
だけど俺は、言わなくてはならないのだ。
ライエルファム=スドラや、ヴィナ=ルウや、たぶんレイナ=ルウやララ=ルウあたりも察してしまっている、この胸中の真実を。
「俺はな、アイ=ファ、誰を嫁に娶る気持ちにもなれないんだよ」
「……何度同じことを口にするつもりなのだ、お前は?」
「俺の素性は関係ない。俺が余所の世界から移り住んできた得体の知れない人間だっていうことを差し引いても、俺は、誰を嫁に娶るつもりにもなれないんだ」
「…………」
「俺はな、アイ=ファ……こんなことを言われても、お前は怒るだけかもしれないけれど……」
俺は大きく息をつき、飛び出しそうになる心臓を呑みくだしてから、言った。
「俺は、お前より魅力的な女衆は他に存在しないと思っているんだ」
アイ=ファの表情は動かなかった。
燭台の火によってオレンジ色に照らされたその面に向かって、俺は言葉を重ねてみせる。
「アイ=ファ以外の人間を伴侶にするなんて、俺にはとても考えられない。だから、他の女衆を嫁に迎える気持ちにはなれないし、お前が別の男衆を婿に取るなんて想像したくもない。それが俺の……正直な気持ちなんだ」
「……それは私を伴侶としたい、という意味なのか?」
「いや、違う。……いや、違うわけでもなくて……そりゃあアイ=ファを伴侶にすることができたら、どれほど幸せかと思うけどさ」
なんだかもう血流の勢いが凄まじくて、こめかみのあたりが破裂してしまいそうであった。
アイ=ファがまぶたを閉ざしてくれているのが、僥倖であったかもしれない。
「だけど俺は、アイ=ファの気持ちを一番に尊重したいと思ってる。それは以前に話した通りで、何も変わっていない」
「…………」
「俺は半人前だけど、料理人だ。自分は死ぬまで料理を作り続けると決めている。この一点だけは、どこの誰にも譲れるものじゃない。それで……お前もそれと同じぐらい強い気持ちで狩人の仕事に励んでいると思っているんだよ、俺は」
「…………」
「伴侶を得るために料理人として生きる道を捨てろ、と言われても、俺には従うことができない。だから、俺の伴侶になるために狩人として生きる道を捨てろ、とアイ=ファに願うことはできない。……それが俺の、正直な気持ちだ」
そうして俺が口をつぐむと、室内には沈黙が落ちた。
ジジジ……と獣脂蝋燭の燃える音色だけが耳につく。
一秒がその百倍にも値する重さでもって、俺の頭にのしかかっていた。
心臓に叩かれすぎて、胸郭が痛い。握りしめた拳は汗ばんでしまっている。わけのわからぬ奇声でも張り上げて、この静寂を粉々にしてしまいたいぐらいであった。
それからどれほどの時間が経過したのか――
アイ=ファの桜色をした唇が、ゆっくりと動き始めた。
「私は――」
「うん」
「私は、自分が男衆でお前が女衆ならばどれほど幸福であっただろうと、ずっと考えていた」
「……うん」
「そうすれば、私は愛すべき伴侶を得て、ファの血を森辺に残すこともできた。それはきっと……目がくらむほど幸福な未来なのであろうと、私はずっとそのように考えていたのだ」
そのように言いながら、アイ=ファはようやくそのまぶたをも開き始めた。
何とも判別のし難い激情のくるめいた青い瞳が、真正面から俺を見る。
「これほどまでに余人を大事だと感じたことはない。私にとって、お前はかけがえのない存在だ。お前を失ってしまったら、私は二度と心から笑うこともできなくなってしまうだろう」
「……俺もそう思っているよ、アイ=ファ」
思わず声がかすれてしまった。
アイ=ファはぎゅっとまぶたを閉ざしてから、また俺を見る。
「だけど私は女衆で、お前は男衆だ。お前の伴侶となってしまったら、私は狩人として生きていくことができなくなってしまう。だから……」
「わかってるよ、アイ=ファ。俺は今の、そのままのアイ=ファが何よりも大切なんだ」
そして、アイ=ファもまた――狩人であるアイ=ファをそのまま受け入れている俺だからこそ、そんなにも大事に思ってくれているのだろう。これほど大事に思いながら、それでも嫁取りを願わない俺だから、アイ=ファは俺のことをかけがえのない相手だと思ってくれているのだ、きっと。
胸の詰まるような幸福感と、そしてほろ苦い悲哀を同時に味わわされながら、俺は一心にアイ=ファの面を見つめ返した。
いつのまにか、アイ=ファの面には微笑が浮かんでいた。
それはやっぱり、これ以上ないぐらいの幸福感と悲哀を漂わせた微笑みであるように、俺には感じられてしまった。
「……世の中はままならぬものだな、アスタよ」
「そうだな。本当にそう思うよ」
「だけど私はお前に出会えて幸福だと思っている」
「俺だって、それはおんなじ気持ちだよ」
気づくと俺は、アイ=ファの前に膝を進めてしまっていた。
壁にもたれていたはずのアイ=ファも、いつしか俺のほうに身を乗り出している。
だけど俺たちは、決して相手の身体に手を触れようとはしなかった。
今そんなことをしてしまったら、何かが決壊してしまうかもしれない――アイ=ファの真情はわからなかったが、少なくとも、俺はそのように考えてしまっていた。
「しかし、お前は酔狂な男だな、アスタよ。私のせいで誰を嫁に迎える気持ちにもなれないなどとは……まったく笑い種だ」
ほんの数十センチを隔てた距離で、アイ=ファがつぶやく。
その透き通った笑顔を見つめながら、俺は「そうかな」と答えてみせた。
「何も不思議な話じゃないだろう。お前はダルム=ルウやディガ=スンや、それにガズやラッツの男衆にも嫁取りを願われていたじゃないか?」
「それを言ったら、お前などはルウ家の姉妹やレム=ドムやユン=スドラに願われていたではないか」
「レム=ドムなんて論外だろう。それにヴィナ=ルウも、本当の意味では恋愛感情じゃなかったんだろうと思うよ」
「ふん。それに町でも、お前を慕う女衆には事欠かなかったな」
囁くような声で言いながら、それでもアイ=ファの目は笑っている。
もしかしたら、俺も笑っていたかもしれない。
「言いがかりだな。町のみんなは俺の料理を喜んでくれているだけさ」
「どうであろうかな。まあ確かに、お前ほどの腕前であれば、誰しもが心を動かすことになるのであろうが」
「俺にとっては、それが一番のほめ言葉だよ。まあ……一番嬉しいのは、アイ=ファに喜んでもらえたときだけどな」
アイ=ファは少しだけ押し黙った。
その面から微笑が消え、とても静かだが張り詰めた表情がたちのぼってくる。
「お前ほどすぐれたかまど番は他に存在しないだろう。お前はその力で多くの人間の心を動かしてきた。そんなお前がファの家人であることを、私はとても誇らしく思っている」
「うん、ありがとう」
「しかし……それだけが、お前を大切と思う理由のすべてではない。たとえお前があのミケルのように料理を作る力を失ってしまったとしても……私にとって、お前は何よりも大切な存在なのだ、アスタよ」
頭の奥が痺れるような幸福感を味わわされながら、俺はもう一度「ありがとう」と答えてみせた。
「でも、ずいぶん不吉なことを言うんだな。俺はファの家のかまど番として、生命つきるまで美味しい料理を作り続けていくつもりだよ、アイ=ファ」
「…………」
「どうしたんだ? 言いたいことは、何でも遠慮なく言ってくれ」
アイ=ファの瞳が、少し涙で潤んでいるように感じられた。
いや、燭台の火の加減であろうか。ただ、さまざまな感情を揺らしているということは、絶対に間違っていないと思う。
「アスタ、お前は……」
「うん、何だい?」
「……お前は、私がいずれ狩人としての力を失ってしまったとしても……これまでと同じように、私が一番大切な存在であると思ってくれるのだろうか……?」
万感の思いを込めて、俺は「もちろん」と答えてみせた。
アイ=ファは目を細めながら、これまでで一番幸福そうに笑ってくれた。