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異世界料理道  作者: EDA
第十七章 ダバッグ見聞録
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休業日③~告白~

2016.2/10 更新分 1/1

 ヤミル=レイたちがいないぶん、ふだんより人手は不足していたが、時間だけはたっぷり確保できていたので、その日も十分なゆとりをもって下ごしらえと勉強会を終えることができた。


 下りの四の刻の半、ルウ家の人々に別れを告げて、森辺の道を北に急ぐ。

 あとはトゥール=ディンとユン=スドラを自宅に送って、本日の仕事は終了だ。


「今日は本当に素晴らしい1日でした。同行を許してくださってありがとうございます、アスタ」


 と、弾んだ声でユン=スドラが喋りかけてくる。

 荷台のほうに目をやると、トゥール=ディンは敷物の上で丸くなってしまっており、喋り相手を失ったユン=スドラが御者台の横にまで身を乗り出していた。

 サイドテールにした灰褐色の髪が揺れており、青い瞳は熱っぽく潤んでいる。


「いや、お礼には及ばないよ。同行を許したのは俺じゃなく、ライエルファム=スドラなんだから」


「いえ、それでもわたしのような未熟者の同行を許してくださったのですから、アスタにも感謝の気持ちを捧げずにはいられません。……ただ、ダバッグへの同行が許されなかったことだけは、いまだに口惜しい限りですけれど……」


「うん、まあ、今日みたいに半日ていどならともかく、まるまる2日では難しいんだろうねえ。代価が発生するわけでもないんだし、スドラの家長としては当然の判断なのじゃないかな」


「ですが、家人の数にそれほどの差はないはずのディン家では、トゥール=ディンの同行が許されました。家長ライエルファムは、ディンの家長ほど聡明ではないということなのでしょう」


「そんなことはないよ。ライエルファム=スドラの聡明さと果断さには、ファの家は何度も助けられているんだから」


「……それでは、家長に許しをもらえなかったわたしの側に問題がある、ということなのでしょうね」


 と、今度はたちまちしょぼんとした顔になってしまう。

 素直なのはこの少女の美点なのであろうが、こういう場合はどうにも取り扱いに困ってしまう俺である。

 なおかつレイナ=ルウには、あまり甘い顔を見せないほうがいいとも忠告されている。そうなると、ますます俺は自縄自縛の状態に陥ってしまうのだった。


「えーっとね……別に誰に問題があるという話じゃなくってさ。人にはそれぞれの仕事があるんだから、それを果たすのに力を尽くすべきだと思うよ?」


「……わたしはアスタを困らせてしまいましたか?」


「いや、別にそういうわけではないのだけれど」


「申し訳ありません。自分の感情にとらわれるあまり、浅ましい姿をお見せしてしまいました」


 そう言って、ユン=スドラはくすんと小さく鼻をすすった。


「わたしはただ、アスタに同行できればどんなに幸福だろうと思ってしまっただけなのです。……そんな自分の気持ちばかりを重んじて家長を非難するなんて、確かに許される話ではありませんね。わたしはとても自分の浅ましさを恥ずかしく思います」


「ああ、いや、えーっと……」


「こんな浅ましい女衆に、アスタの仕事を手伝う資格は存在しないのでしょうか?」


 瞳に涙をためながら、ユン=スドラがさらに身を乗り出してくる。

 ギルルの手綱をあやつりながら、俺は小さく溜息をつくことになった。


「俺の仕事を手伝うのに、そんなたいそうな資格なんて必要ないよ。ただ、自分の行いを反省したなら、同じ失敗を繰り返さないように心がけるべきだろうね」


「はい。そのお言葉を忘れぬよう、しっかり胸に刻みつけておきたいと思います」


 実に生真面目な面持ちで、自分に言いきかせるようにユン=スドラはそう宣言した。

 いくぶん森辺の女衆らしからぬ部分もあるが、根っこは善良で屈託のないユン=スドラなのである。それがわかっているからこそ、俺も扱いに困ってしまうのだった。


「ああ、スドラの家が見えてきたね。……あ、あれはスドラの男衆かな?」


「そのようですね。今日も全員、無事なようです。……母なる森よ、その大いなる慈愛に感謝を捧げます」


 ユン=スドラが祈りを捧げている間に、スドラの家へと到着した。

 グリギの棒に四肢をくくられたギバが2頭、4名の男衆らによって運ばれている。その中から、もっとも小柄な男衆が荷車のほうに近づいてきた。


「帰ったか、ユン。アスタも息災なようで何よりだ」


「おひさしぶりです、ライエルファム=スドラ。そちらもお早いお帰りでしたね」


「うむ。2頭とも血抜きに成功できたはずなので、この上ない収穫と言えるだろう。今日の晩餐は、また臓物と頭の鍋だな」


 10名ていどの家人しかいないスドラ家ならば、2頭分の臓物と脳と目玉だけで十分な量の晩餐を作ることができるだろう。ファの家でも大量の臓物を持て余すことはしょっちゅうなので、最近は腸詰め肉の具材に転用はできぬかと思案している最中であった。


「それではわたしは失礼いたします。明日からの仕事もどうぞよろしくお願いいたします、アスタ」


 と、ユン=スドラは丁寧におじぎをしてから、びゅーっと立ち去ってしまう。

 さきほど家長は聡明でないなどと発言したものだから、ばつが悪くなってしまったのだろうか。


「そういえば、リィ=スドラのお加減はいかがですか? ……あ、ユン=スドラからも問題はないとは聞いているのですけれども」


「そうだな。いくぶん食事の味が変わってきてしまったと嘆いてはいたが、それ以外に大きな問題はないようだ」


「ああ、人によっては匂いだけでも吐き気をもよおしたりしてしまうらしいですね。ふだん以上に体力をつけないといけないのに食事が食べにくくなってしまうなんて、本当に大変なんだろうなと思います」


「うむ。しかしリィの場合は肉を焼く匂いや甘い砂糖の味が苦痛になるだけのようだ。砂糖を入れないギバの鍋なら苦痛もなく食べられるようなので、まだしも楽なほうなのだろう」


 そのように言ってから、ライエルファム=スドラは子猿のような顔に気難しげなしわを刻んだ。


「アスタよ、お前はそうして毎日のようにリィを気づかってくれているそうだな。血の縁も持たないスドラの家にそこまでの気をかけてくれていることを、俺は非常に感謝している」


「いえ、スドラの家にはさんざん世話になっているのですから、当然のことです」


「お前は正しく、そして性根の優しい人間だ、アスタ。お前のような人間を友と呼べることを、俺は誇りに思っている」


 と、ますます気難しげな面持ちになるライエルファム=スドラである。

 実直で、森辺の民にしては雄弁なほうでもあるが、こういう際には感情を見せないようにする奥ゆかしい御仁であるのだ。


「それではな。明日からも、ユンを頼む」


 そう言って、ライエルファム=スドラも俺に背を向けようとした。

 俺は「お待ちください」と声をあげ、御者台から地面に降り立つ。

 他に人の影はなく、荷台ではトゥール=ディンがすやすやと眠っている。これはスドラの家長と腹を割って話す絶好の機会なのではないかと俺は思い至ったのだった。


「実は、ユン=スドラのことでちょっとご相談があったのです。宿場町の仕事に関して、彼女は実によくやってくれているのですが……彼女はどうして、あそこまでかまど番の仕事に熱意を燃やしているのでしょうね?」


「どうしてとは? 美味なる食事は森辺の民にさらなる力を与えるであろうと説いたのはお前ではないか、アスタよ?」


「ええ、それはその通りなのですが、家や宿場町で美味なる食事を作るかまど番としては、すでにユン=スドラも十分な腕前を持っていますよね? それなのに、彼女はまだまだ満ち足りていない様子なのです」


 もちろんレイナ=ルウやシーラ=ルウやトゥール=ディンなども、卓越した腕前を有しながら、さらなる上達を目指して仕事への意欲を燃やしている。

 が、それは決して森辺の女衆としてはスタンダードな有り様ではないはずだ。そうだからこそ、彼女たちだけがマイムやヴァルカスの料理に心を揺らされたのだろうと思う。


 ならばやっぱり、俺に対して特別な感情を持ってしまっているために、それを仕事への熱情に転化しているのか、とも思えるのだが――俺としても、いまひとつユン=スドラの真意が汲み取れないのである。


 彼女の料理に対する熱情に雑念が混ざっていないのならば、俺だってわけへだてなく力になりたいと思っている。

 だから俺は、彼女をよく知るライエルファム=スドラに意見を聞こうと思いたったのだが――ライエルファム=スドラは、ますますいぶかしそうな顔になりながら「ふむ」と声をあげた。


「どうしてそのように熱意を燃やしているかといえば、それはやはりアスタに認められたいからなのではないだろうかな」


「どうして俺などに? 俺に認められたって、何の得にもなりはしないではないですか?」


「損得の話ではなかろう。男衆に心を引かれるというのは、そういうものだ」


「……はい?」


「あいつはアスタの嫁として相応しい力を得たいと考えているのだろう。そう思えば、あのように熱心なのもうなずける話ではないか」


 俺は数秒ほど絶句することになった。


「……ユン=スドラが俺の嫁になりたがっているだなんて、そんなことがありうるのでしょうか?」


「ありうるというか、それ以外にどう見えると言うのだ?」


 と、ライエルファム=スドラは眉をひそめる。


「まさかお前はそれに気づいていなかったというのか、アスタよ? それはずいぶん……頼りない話だな」


「ラ、ライエルファム=スドラはユン=スドラの気持ちに気づいていたのですか?」


「気づいていた。というか、そうであるからこそ、宿場町の仕事を手伝いたいなどと言い出したのだろうなと思っていた」


 半分呆れ気味の仏頂面で、ライエルファム=スドラはそう言った。


「まあ、男女の縁も森の導きだ。数少ない未婚の女衆を嫁に出してはスドラも滅びに近づいてしまうが、それで大恩あるファの家が滅びをまぬがれるなら何の不満の持ちようもない。それ以上に、ファの家と血の縁を結べるものなら、それはスドラにとってまたとない誇りにもなりうるだろう」


「ちょ、ちょっとお待ちください! 俺はユン=スドラを嫁として迎えるつもりは――」


「むろん最後に選ぶのはアスタだ。たとえ嫁入りを断られたとしてもファとスドラの友誼には何の変わりもないと、今の内に宣言させてもらおう」


 しかつめらしく、ライエルファム=スドラはうなずく。

 しかし俺はまだ平静な気持ちを取り戻せずにいた。


「そ、それでしたら、やはりこれ以上ユン=スドラに仕事を手伝ってもらうわけにもいかなくなってしまいますね? 俺には彼女を娶る気持ちがないのですから――」


「まだ俺はユンから何も願われていない。あいつが嫁入りを願ったときは俺から正式に話を通させてもらうから、それまでは何を気にする必要もなかろう」


「いえ、ですが――」


「ユンもまだ15になったばかりであるからな。ユンに嫁としての資格があるか否か、アスタもゆっくり見定めてくれ」


 いかにも実直な森辺の民らしい言い分である。

 これはいよいよ、俺のほうこそが筋を通さねばならない場面であるようだった。


「ライエルファム=スドラ、俺の気持ちはすでに定まっています。非常に申し訳ないのですが、俺が彼女を嫁に娶ることはありえません。ですから、彼女がそういう気持ちであるならば、今の内に距離を取るべきではないでしょうか?」


 ライエルファム=スドラは「そうか」と表情を改める。


「アスタには、すでに見初めた女衆が存在するのだな? それならば、ユンにはその旨を伝えておこう」


「い、いえ、そういうわけではなく! 俺はどの女衆も嫁に迎える気持ちがないのです」


「……それはどういう意味であろうか? 嫁を迎えなくては、アスタの血を残すこともかなわなくなってしまうではないか?」


 ライエルファム=スドラの小さな目に浮かぶのは、純然たる疑念と当惑の光であった。

 その真っ直ぐな視線を受け止めて、俺はしっかりと覚悟を固める。


「それこそが、俺の決心の理由です。俺はこの地で嫁を娶ったり子供を残したりする資格があるのか、それを疑問に思ってしまっているのです」


「……ますますわからんな。アスタはこの森辺に骨をうずめる覚悟ではなかったのか? そうでなければ、ファの家の家人になることも許されなかったと思うのだが」


「俺自身は、森辺に骨をうずめる気持ちでいます。ですが、俺自身にもどうにもならない部分が残されてしまっているのですよ」


 そうして俺は、ライエルファム=スドラに語って聞かせることになった。

 とうてい正気の沙汰とも思えない、俺の真なる素性をだ。


 俺はかつて、四大王国の存在しない世界に生きていた。

 そこで、生命を落とすことになってしまった。

 そうして気づくと、このモルガの森辺でひとり行き倒れており、アイ=ファに助けられることになった。


 どうしてこんな不可解な運命が自分の身に訪れたのか、俺自身にも理解できていない。

 だからまた、何の前触れもなく俺はこの世界からも消え失せてしまうかもしれない。

 そんな俺が伴侶や子供を得てしまうというのは、あまりに無責任な話なのではないか――


 ライエルファム=スドラは一言も口をはさまずに、この突拍子もない打ち明け話を最後まで聞いてくれた。


「こんな話は、なかなか信じられるものではないでしょう。だからこれまでは、アイ=ファ以外の人間には話してこなかったのです」


「ふむ……」とライエルファム=スドラはうなり声をあげた。


「何とも驚くべき話を聞かされるものだ……俺の頭では、とうてい理解しきれないな」


「ええ、俺自身にも理解しきれていないのですから、それが当然です」


「……しかし、お前は森辺の民として生きていくと決めたのだろう、アスタよ? 一度死した身であるならば、少なくとも元の故郷に帰ることはできまい」


「はい。そう思って、森辺の民として生きていく決意を固めました」


「だったらやはり、お前は森辺の民なのだ。それ以外のことは、どうでもいい」


 強い口調で言い、ライエルファム=スドラは一歩だけ俺のほうに近づいてくる。


「たとえアスタがシムの民であろうとジャガルの民であろうと、なんならマヒュドラの民であろうと渡来の民であろうと、そんなことはどうでもいいのだ。お前は森辺の民として生きていくと決め、ファの家の家長や森辺の族長たちもそれを認めた。それならば、俺たちには何の不都合も不満もない」


「……俺の話を信じていただけるのですか?」


「少なくとも、アスタは俺に嘘をつくような人間ではない。もしかしたら、どこかで頭でも打って、夢か幻を現実と思いこんでしまっているだけなのかもしれないが、そんなことはどうでもいいのだ」


 ライエルファム=スドラは、まるで怒っているかのような顔になっていた。

 しかし、決して怒っているわけではない。真剣に、真正面から俺という人間と向き合おうとしてくれているのだろうと思う。


「たとえアスタがどのような素性の人間でも、今は森辺の同胞だ。アスタがそう思い、俺たちもそう思っているのだから、それで何も問題はなかろう」


「……ありがとうございます、ライエルファム=スドラ」


 俺は思わず涙ぐみそうになってしまった。

 ライエルファム=スドラはそんな俺を見つめ返しながら、さらに言う。


「ただし、ひとつだけ納得のいかない部分がある」


「え?」


「お前はこの地に子を残すべきだ、アスタ。森辺の民として生きていくならば、それは誰にも等しく与えられる責任と喜びなのだ」


 ライエルファム=スドラは、きっぱりとそう言った。


「いつか消えてしまうかもしれないから、などというのは何の理由にもなりはしない。アスタが消えれば大勢の人間が嘆き悲しむことになってしまうが、残された嫁や子供が粗末に扱われることはありえない。森辺にこれほどの力と喜びを与えてくれたアスタの血族を、俺たちは誰よりも大切に扱うだろう。アスタがそのようなことを心配しているわけではない、と俺は信じたいところだが」


「も、もちろんです。でも、残される嫁や子供の気持ちを考えると――」


「失う苦しみを味わいたくないならば、何も得ずに一生を終えるしかない。俺たちとて、明日には森に朽ちるかもしれぬ身だ。……しかし、そうであるからこそ、なおさら人間は伴侶を娶り、子供を残すべきなのではないか?」


 俺よりも一回りは小さなライエルファム=スドラの身体に、森辺の狩人としての気迫がみなぎっている。

 それはまるで、運命そのものにあらがおうとしているかのような気迫であった。


「もしもアスタがそのようなことを気に病んでしまうのなら、誰とも縁を結ぶべきではなかったのだ。アスタが消えて悲しむのは血族ばかりではない。俺たちスドラや、ルウや、フォウや、多くの人間が嘆き悲しむことになるだろう。それならば、俺たちなどと縁を結ぶべきではなかった、と考えてしまうのか、アスタは?」


「いえ、そんなことは決してありません」


「そうだろう。俺たちだって、そんな苦しみを恐れてアスタとの出会いを悔いるような真似はしない。この世に生がある限り、人間は与えられた生をぞんぶんに生きるべきなのだ」


 そう言って、ライエルファム=スドラはどんと俺の胸を突いてきた。

 その拳には怒りではなく、それでいて俺を叱咤するような強い感情がこめられているような気がした。


「だからアスタは何も心配せず、この森辺で嫁を娶って、子供をなすがいい。それがユンであろうとなかろうと、俺たちスドラは最大限の祝福を与えるだろう」


「ありがとうございます。ライエルファム=スドラにそこまで言っていただけて、俺は言葉にならないほど嬉しく感じています」


 それは心の底からの真情であった。

 しかしこうなると、俺はもうひとつの打ち明け話をも語る必要が出てきてしまった。

 俺が嫁を娶ることのできない、もう半分の理由である。


「なんだ、まだ何か打ち明け話が残っているのか?」


「ええ、はい、これもちょっとややこしい話なのですが……いつ消えてしまうかもわからない、という話を抜きにしても、俺は今、どんな女衆にも恋心を抱けない身なのです」


 言いながら、俺は頬に熱がのぼっていくのを感じた。

 まさかこの件に関して、余人に打ち明ける日がやってこようなどとは夢にも思っていなかったのだ。


 しかし、話すしかないだろう。

 かつてのヴィナ=ルウやレイナ=ルウとはわけが違う。このままでいくと、俺はスドラの家から正式に嫁入りの話を申し込まれてしまいかねないのである。自分の真情を打ち明けぬまま、ただその日を漫然と待ちかまえるわけにはいかなかった。


「では、やはり想い人でも存在していたのか? アスタは誰を嫁に娶る気持ちも持っていなかったというのに、それは難儀な話だな」


「いやあ、実のところ、それが難儀でないようにたまたま折り合いがついていたというか何というか……」


「さっぱり意味がわからんな。想い人がいるならば、嫁取りの話を願い出るがいい。それを断る女衆など、今の森辺にはそうそうあるまい」


「いえ、その相手も伴侶を娶る気持ちは一切持っていないのですよ」


 難しい顔をしていたライエルファム=スドラの目が、きょとんと丸くなる。

 俺はもう、ごまかしようがないぐらい赤面してしまっていた。

 穴があったら入りたいとはこのことだ。


「伴侶を娶る気持ちを持たない女衆など、この森辺にはひとりしか存在しない。……いや、今ではもうひとりそのような考えを抱く女衆も現れてしまったようだが、まさか数日前に出会った娘にそのような想いを抱いてしまったわけではあるまいな?」


「ああ、はい、たぶんその人ではないと思います」


「それはまた……この森辺でもっとも難儀な相手ではないか」


 ただでさえしわぶかいライエルファム=スドラの顔が、いっそうくしゃくしゃになってしまう。

 が、やはり彼は俺などよりもよっぽど果断な気性をしていた。


「しかしそれならば、選ぶ道はふたつしかあるまい。相手の気持ちを動かすか、あるいは自分があきらめるかだ」


「……はい、そうなのでしょうね。でも俺は、相手の気持ちを一番に尊重したいと思っています」


「ならば、アスタがあきらめる他ないな」


 まさしく一刀両断であった。


「何にせよ、ファの家には家長とアスタしか存在しないのだ。家長が狩人として生きていくと決めたならば、アスタがファの家人として誰かを嫁を娶るしかない。そうすれば、ファの家も滅びずに血を残していくことができるだろう」


「あ、いえ、ですが――」


「ファの家の家長は、女衆であるにも拘わらず、誰よりすぐれた狩人だ。あれほどの力を持つ狩人であるならば、女衆としての生を捨てても許されるだろう。しかしアスタはかまど番だ。自分の仕事を果たしつつ、嫁を娶り子供をなすことは容易い。お前は森辺にその血を残すべきなのだ、アスタよ」


 そう言って、ライエルファム=スドラはふいに一歩ひき退いた。


「何も急ぐ必要はない。ただ、自分にとって正しき道はどこにあるのか、それをもうひとたび考えぬいて、決断するがいい。それまでは、これまで通りにユンを使ってくれるように願う」


 俺には「否」と答えることができなかった。

 たぶん、森辺の民として正しいのは、ライエルファム=スドラのほうなのだ。

 ライエルファム=スドラは、そんな俺の表情をしばらく検分してから背を向けた。


「それではな。アスタの心に1日も早く安息の時が訪れるように願っておく」


「……はい、ありがとうございます」


 ライエルファム=スドラは、ざくざくと音をたてながら家のほうに歩いていく。

 その小さな姿が、何歩もいかぬうちにぴたりと止まった。


「そういえば、さきほどの話はファの家長と俺以外の人間には聞かせていないという話だったな?」


「はい? ええ、その通りです。ここまでしっかりと詳細を語ったのは、アイ=ファとライエルファム=スドラだけですね」


「ドンダ=ルウやガズラン=ルティムにも語ってはいないのか?」


「はい。……やはりみんなにも打ち明けるべきでしょうか?」


「そうは思わんな。聞かされたところで、誰も心は動かさないだろう。重要なのは過去ではなく、今日や明日からのことなのだ。問われぬことに答える必要などどこにもない」


 そのように言いながら、ライエルファム=スドラはちらりと俺を振り返った。


「……しかし、そうは思っても、縁の深いルウやルティムに先んじてアスタの話を聞けたのは、この上なく栄誉なことと思えてしまう。俺などに心情を打ち明けてくれたことを嬉しく思っているぞ、アスタよ」


「そうですか」としか、俺には答えようもなかった。

 俺は俺で、ライエルファム=スドラの誠実さには誠実さで報いるしかない、と思ったまでである。


「それにな、どのような女衆が嫁になろうとも、俺は心から祝福する。その言葉には、一片の偽りもない。ユンでなくとも、ルウの女衆でも、ルティムの女衆でも、フォウの女衆でも……あるいは、頑なに婿取りを拒む女狩人でも、だ」


「え?」


「アスタにとって最良の相手が伴侶となることを、俺は心から願っている。そのことだけは、どうか忘れずにいてくれ。……まあその調子では、ずいぶん遅い嫁取りになってしまいそうだがな」


 そう言って、ぶっきらぼうなスドラの家長は最後にはにかむような笑顔を見せてくれたのだった。

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[一言] アスタの言う「いつ消えるかも分からない」ってのは狩人の「いつ死ぬか分からない」ってのと理屈は同じなんですよね
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