藍の月の六日③~家~
2016.1/20 更新分 1/1
下りの二の刻の半、俺たちは定刻通りにルウの集落へと帰りついた。
すると、何やら集落がざわついていた。
広場の片隅に人だかりができている。男衆らの留守をあずかる女衆らと幼子たちである。
いったいどうしたのだろうと思いつつ御者台から降りて、手綱を手にそちらへ近づいていくと――気配を察して人垣が割れ、その向こうに奇っ怪なものが見えた。
巨大なギバを腹の上に抱きかかえて横たわる、ミダの姿である。
「ミダ! アンタ、何をやってんのサ!」
ルウ家の荷車から飛び出したツヴァイが、ちょろちょろとそちらに駆け寄っていく。
しかしミダは地面にぶっ倒れたまま、ぶはーっぶはーっと大きく息をつくばかりで答えることができない。
「どういうことなの!? 誰か説明しておくれヨ!」
いきりたつツヴァイの前に、3名の狩人が進み出る。
狩人の、いずれも小柄な少年たちである。
ルド=ルウとシン=ルウと、それにジーダだ。
「どういうことって、見たまんまだよ。ここまでギバを担いできて、それで力尽きちまったのさ」
頭の後ろで手を組んだルド=ルウがそのように答えると、ツヴァイがそちらをキッとにらみつける。
「アタシには、ギバに押しつぶされてるようにしか見えないけどネ! どうして誰もそいつをどけてやらないのサ!」
「そいつはミダの仕事だからだよ。俺たちだって、3人がかりで2頭のでっけーギバを運んできたんだぜ?」
「それが何だっての!? だいたい、どうしてミダがギバなんて運んでるのサ!」
「ミダは、今日から狩人の仕事に参加することになったのだ」
と、今度はシン=ルウが静かに声をあげる。
「しかし、このように日が高い内から走る力を失ってしまったため、皆で仕留めたギバを持ち帰る仕事を受け持つことになった。ここで俺たちが力を貸してしまったら、いっそうミダは役に立たなかったことになってしまうが、それでもかまわないのか?」
「だからって――!」と、ツヴァイがわめきたてようとする。
そこで、ミダとギバの巨体が揺れ動いた。
「大丈夫だよ……ミダも仕事を果たすんだよ……?」
そうして半身を起こしたミダは、全身が汗と土に汚れていた。
抱えているギバは、少なく見積もっても80キロはあっただろう。俺ひとりでは持ち上げることもできなそうなサイズだ。
「むやみに走り回るから力が尽きちまうんだよ。ちっとは後先を考えろっての」
「うん……」
「本当に運べんのか? 親父たちが帰ってくる前に皮剥ぎと内臓抜きぐらいは終わらせておかねーと、一足先に戻ってきた意味がなくなっちまうんだぞ?」
「運べるよ……ミダも仕事を頑張るんだよ……?」
ぷるぷると震えながら、ミダが身を起こす。
その姿を見て、ツヴァイは「フン!」と鼻を鳴らした。
「元気じゃないのサ。だったらとっとと運んじまいなヨ。アンタみたいなデカブツが転がってたら邪魔でしかたがないんだから」
「うん……ツヴァイ、ありがとうだよ……?」
「アンタに礼を言われる筋合いはないヨ!」
ぷいっとそっぽを向きながら、ツヴァイはそこから動こうとしない。
そして俺の背後では、荷台から顔を覗かせたヤミル=レイが静かにミダを見つめていた。
そうしてみんなに見守られながら、ミダはよたよたと本家の裏へとギバを運んでいく。
ほっと息をつきながら、俺たちもゆっくりとそれに追従することにした。
「よー、アスタ、レイナ姉、おつかされさん。今日も無事に仕事を果たせたみたいだな」
「うん、こちらは問題なかったよ。……ミダもついに森に入ることになったんだね」
「あー、だけどむやみに走り回るばっかりで何の役にも立たなかったなー。気配を殺すこともできねーから、危うくギバを逃がしそうになっちまったしよ」
辛辣なことを言いながら、ルド=ルウの様子はふだん通りである。
シン=ルウもジーダもそれは同様で、ことさらミダを責めようとする気配はない。
それでも狩人の先達として、むやみに力を貸すことはできなかったのだろう。
「ま、スンの集落では罠に掛かったギバを持ち帰るぐらいで、狩人らしい仕事をしたことはなかったみたいだからな。ようやく森に出ることが許されたんで、気合いが空回りしちまったんじゃねーのかな」
「あれだけの怪力だ。きちんと学べば、ミダもいずれ立派な狩人になれるだろう。何も焦ることはない」
「そうだよな。だいたいミダはルウの集落の力比べであそこまで勝ち抜いたんだから、立派な狩人になってもらわねーと格好がつかねーや」
そのように語り合うルド=ルウとシン=ルウのかたわらで、ジーダはひとり無言であった。
なので、ギルルの手綱を引きつつ、俺はそちらに声をかけてみる。
「ジーダと顔を合わせるのはひさしぶりだね。肩の怪我はもうよくなったのかな?」
「ああ」
「そちらは立派にギバ狩りの仕事を果たしているみたいじゃないか。バルシャはとても喜んでいたよ」
「そうか」
赤い蓬髪と黄色い瞳を持つジーダは、相変わらず寡黙で不機嫌そうだった。
どことなく、ダルム=ルウを思わせるたたずまいである。その内に激しやすい心情を秘めつつ、あまり多くは語ろうとしない、そういう部分が共通しているのかもしれなかった。
「やあ、お疲れさん。今日もばっちり稼いできたかい?」
家の裏では、バルシャが待ちかまえていた。
すでにジーダとは顔を合わせていたのか、おたがいに相手を気にする風でもない。
「今日も城下町で使う料理のお勉強をするんだろう? あたしなんかは、お邪魔かね?」
「いえ、そんなことはありませんよ」
歓迎の宴までは、残り4日。
そのための修練も、いよいよ大詰めに差しかかっていた。
「そんじゃーな。俺たちはミダに皮剥ぎと内臓抜きの仕事を教えてやらなきゃなんねーからよ」
ルド=ルウたちは、解体室へと消えていく。
俺たちも、自分たちの仕事に取りかかることにした。
「そういえば、歓迎の宴には森辺の族長も招かれているんだよね。三族長の代表としては、やっぱりドンダ=ルウが参席するのかな?」
かまどの間にて仕事の準備を進めながら俺が尋ねると、一番近くにいたララ=ルウが「ううん」と答えてくれた。
「昨日だか一昨日だかに話してたけど、ダリ=サウティが出向くことになったみたいよ。ザザ家はちょうど休息の期間だったからグラフ=ザザかなって話になりかけてたんだけど、集まるのが夕暮れ時だったら仕事の後でも間に合うからって、ダリ=サウティが名乗りをあげたみたい」
「へえ、そうなんだ?」
「うん。ドンダ父さんなんかは毎日ここで作られた試食品の残りを食べさせられてたから、もう満足しちゃってるんじゃない? 全部の料理に納得できてるわけでもないみたいだし」
「そうだろうね。これはあくまで貴族のための料理なんだから、それが当然だよ。ダリ=サウティがガッカリしないといいんだけど」
それでもドンダ=ルウは、ルウの集落で研鑽に励むことを了承してくれたのだった。
森辺の民にとって、これは貴族たちとの正しい関係性を継続していくための、いわば外交手段でもあるのだ。
族長たちに真意を質したわけではないが、この仕事をすんなり引き受けたということは、つまりそういうことなのだろうと俺は信じている。
以前の晩餐会での別れ際、(……まったく、ふざけた領主だな)と、ふてぶてしく笑っていたドンダ=ルウの顔を思い出す。
あれはまるで、好敵手を見出したかのような、そんな勇猛なる笑顔であった。
ジェノスの貴族たちは、倒すべき敵ではない。しかし、森辺の民が森辺の民として生きていくには、何とかしておたがいが納得のいく信頼関係を構築していかなければならないのだろうと思う。
そんなことを考えていると、「お待たせー!」という元気いっぱいの声とともに、小さな女の子がかまどの間に飛び込んできた。
本日、宿場町の仕事は非番であった、リミ=ルウである。
「ララ、ありがとね。やっとこっちも仕事が終わったから交代するよー」
「はいはい」とララ=ルウは肩をすくめて、かまどの間を出ていこうとする。
あまりルウ家の女衆ばかりを借りていては家の仕事に支障が出てしまうので、今回の歓迎会でもララ=ルウは居残り組になってしまったのだ。よって、こうして宿場町での仕事を終えた後は、リミ=ルウが交代でかまど番をつとめる段取りになっていたのである。
「あれ? ヴィナ姉も来たの? 誰かに何か用事?」
と、ララ=ルウの声が背後から聞こえてくる。
振り返ると、ルウ家の長姉がかまどの間の入口に立っていた。
「うん……ちょっとアスタに用事があったんだけどぉ……今は忙しいかしらぁ……?」
「俺ですか? いえ、かまいませんよ」
作業台の上に必要な食材を並べていた俺は、何の気もなしにそちらへと足を向ける。
が、ヴィナ=ルウのほうは何だかいつもと様子が違っていた。
ややうつむき気味で、栗色の髪の先に指先をからめている。何とも悩ましげな面持ちである。
「どうしたんです? 何か問題でも?」
「ううん……別に問題ってわけじゃないんだけどぉ……」
そのように言いながら、ヴィナ=ルウは後ずさっていく。
それを追って、俺もかまどの間を出ることになった。
「ええっとねぇ……今日はぎばかれーを宿屋の主人たちに食べさせてきたのでしょう……? 評判のほうはどうだったのかしらぁ……?」
「『ギバ・カレー』ですか? ええ、あんな馴染みのない料理のわりには、おおむね好評だったと思います。まあ、ネイル以外は物珍しさ半分といったところなのでしょうけれども」
「そう……だけど、アスタとしてはあれで完成なのよねぇ……?」
「そうですね。また新たな香草とでも出会わない限り、大きく味が変わることはないと思います。どちらかというと、あとは香草以外の部分でどれぐらい美味しく作れるかってところが重要になってくるでしょうね」
「……宿屋の主人たちも、香草以外は自分たちで作りあげるのよねぇ……?」
「そうですよ。もちろん作り方の助言はしてきましたけれども」
何だか話の行き先がまったく見えなかった。
ヴィナ=ルウはやたらともじもじしており、伏し目がちになった表情と身をよじる姿が必要以上に色っぽい。
「あの……変な質問かもしれないけどぉ……わたしって、宿屋の主人たちに比べたら、いったいどれぐらいの腕前なのかしらぁ……?」
「腕前? かまど番としてのですか? うーん、そうですねえ……言葉を飾らずに言うならば、ちょうど互角ぐらいなのではないでしょうか」
より正確に言うならば、テリア=マスやシルよりは上回っており、ネイルやナウディスよりは劣っている、というぐらいの印象である。
ルウの集落では人並み以下とされていたヴィナ=ルウも、この数ヶ月間でそこまで腕を上げることがかなったのだ。
そして、3日に1度のローテーションでも勉強会に参加し続ければ、いずれはネイルたちにも負けない技術と知識を得ることはできるように思う。
「そっかぁ……わたしやララでも、それぐらいの腕前を身につけることはかなったのねぇ……」
「はい。城下町での仕事ではまたレイナ=ルウたちをお借りしてしまうので、ヴィナ=ルウやララ=ルウには助力をお願いできませんでしたけど、それは決して腕前の問題でそうなったわけではありません」
ただし、その代わりに助力をお願いしたトゥール=ディン、アマ・ミン=ルティム、モルン=ルティムの3名は、ヴィナ=ルウよりも確かな腕を持っているかもしれない。
が、そこで飛び抜けた実力を持っているのはトゥール=ディンのみなので、ルティム家の誰かがヴィナ=ルウに変更されても問題はないはずであった。
「城下町のことはどうでもいいんだけどぉ……あのねぇ……それじゃあわたしでもぎばかれーを美味しく作ることはできるのかしらぁ……?」
「はい? ……ええまあ、宿屋のご主人たちと同じぐらいには美味しく仕上げられるのではないでしょうか。そんなに失敗の目立つ料理でもないので、どちらにせよそこまでの差は生じないと思われます」
「そう……」とヴィナ=ルウはいっそううつむいてしまう。
その顔はますます物思わしげになり――そして、その指先が髪ではなく手首の飾り物を弄り始める。
やわらかいピンク色をした、厄災除けのシムの腕飾りだ。
それでようやく、俺は思い至ることができた。
「……とはいえ、ちょっとした工夫で味がよくなることに間違いはありませんからね。城下町での仕事が終わったら、俺が個人的に手ほどきをしてあげましょうか?」
「いいわよぉ……そんなつもりでアスタに声をかけたわけじゃないんだからぁ……」
「そうですか? まあまだ時間はありますから、俺なんかが手を出さなくても自然に上達はするでしょうけども」
「……時間っていったい何のことよぉ……」
うっかり失言をしてしまった。
ヴィナ=ルウのお顔が、ほんのり桜色に染まってしまっている。
「いえ、何でもありません。とにかくヴィナ=ルウだったらカレーでも何でも美味しく作ることはできるようになりますよ」
ヴィナ=ルウは、恨みがましい目つきで俺のほうににじり寄ってこようとした。
そのとき、ふいに横合いから陽気な声が投げかけられてきた。
「アスタもヴィナ姉も何やってんだよ? こんな早くに仕事が終わっちまったのか?」
ヴィナ=ルウは「きゃあ」と緊迫感のない声をあげてすくみあがる。
解体室から、ルド=ルウがひょっこり顔をのぞかせていた。
「ル、ルド……あなた、聞いてたのぉ……?」
「んー? ぎばかれーがどうしたとかそんな言葉しか聞こえなかったよ。聞かれてまずい話でもしてたのか?」
「そ、そんなことはないけどぉ……」
「ぎばかれーって美味いよな! 味見をしてる内に俺は大好きになっちまったよ! あのシュミラルとかいうシム人も、ジェノスに帰ってきたら大喜びするんじゃねーのかなー」
ヴィナ=ルウはいっそう真っ赤になってしまい、俺とルド=ルウをにらみつけてから足早に立ち去っていってしまった。
そのなよやかな背中を見送りつつ、ルド=ルウは「にっひっひ」と笑う。
「ったく、20にもなるってのにガキみてーなところがあるよな、ヴィナ姉は。あれじゃあ嫁入りが遅れるわけだ」
「そんなことないよ。きちんと自分の気持ちに向き合おうとしてるんだから立派じゃないか」
俺のような朴念仁がそのようなことを述べるのは分不相応であったが、それは正直な気持ちであった。
シュミラルがジェノスを離れて、はや3ヶ月。半年で戻るという約束の日まで、ちょうど半分ぐらいが過ぎ去ったことになる。
あの誠実で心優しい異国の友人は、いったい今頃どのような気持ちでどのあたりを放浪しているのだろう。
そんなことを考えながら、俺はみんなの待つかまどの間に戻ることにした。
◇
「今日も晩餐をありがとうね。ありがたくいただいていくわ」
夜である。
本日もレム=ドムは、日がとっぷりと暮れてからファの家にやってきた。
その手には、彼女自身がこさえた木の盆に、本日の晩餐と火を灯した燭台が載せられている。
「ねえ、レム=ドム。それほど離れていないとは言っても、夜の道を歩くのは危険だろう? もうちょっと明るい内に来ることはできないのかい?」
「悪いわね。鍛錬をしていると時間を過ぎるのも忘れてしまうのよ。なるべくあなたたちの晩餐を邪魔しないように気をつけるわ」
「いや、俺たちのことはどうでもいいんだけど……」
「こちらの心配はいらないわよ。ギバに出くわしたら、木の上に逃げるから」
にやりと不敵な笑みを浮かべつつ、レム=ドムは優雅に身をひるがえす。
「それじゃあ、また明日ね。アイ=ファにもよろしく伝えておいてちょうだい」
俺は溜息をつき、戸板を閉めた。
けげんそうに首をもたげているギルルの頭をぽんぽんと叩いてから、晩餐の並べられた広間へと帰還する。
「帰ったか。ご苦労であったな」
上座に陣取ったアイ=ファが鷹揚に語りかけてくる。
自分の席につきながら、俺はそちらを見つめ返した。
「レム=ドムが家を出てもう7日だな。いったいいつまでこんな生活を続けるつもりなんだろう」
「知らん。レム=ドムにはレム=ドムの考えがあるのだろう。余人が口をはさむ問題ではない」
「そうは言っても、心配じゃないか。ディック=ドムはレム=ドムに劣らず強情そうだし。どっちも折れなかったら、永久にレム=ドムは家に戻ることができなくなっちまうんだぞ?」
「……女衆の身で狩人を志すというのはそういうことだ。私とて、母には最後まで反対されていた」
そのように言ってから、アイ=ファはふっと憂いげな目つきになる。
「それでも父は私を狩人として育てあげてくれたから、私のほうがレム=ドムよりは恵まれているのかもしれんが――何にせよ、この苦しみを乗り越えない限り、森辺で女衆が狩人を志すことはかなわぬのだ」
「バルシャなんかは、そういう苦しみとも無縁であったみたいだけどな。まあマサラのことはよくわからないけど」
「森辺には森辺の習わしがあり、マサラにはマサラの習わしがある。それを比べても詮無きことであろう。……食事が冷めてしまうぞ、アスタよ」
「ああ、うん」
とはいえ、晩餐もすでに終わりに差しかかっていた。
アイ=ファのほうも、木皿はほとんど空になりかけている。
「今日の晩餐はどうだった? ここしばらく試食ばかりさせて申し訳なかったから、腕によりをかけたつもりなんだけど」
気を取り直してそのように問いかけると、何故かしらじろりとにらまれてしまった。
「……私が不満げに食べているようにでも見えるのか、お前は?」
「いや、とても満足そうにしているなあとお見受けしておりますけれども」
「だったらいちいちそのようなことを問うな」
本日の献立はひさびさのハンバーグであったので、確かに野暮な質問であったかもしれない。
「それじゃあ、昨日までの試食に関してはどうだったのかな? 貴族のために考案した料理だったから、手放しで賞賛はできない気分だっただろう?」
「そのようなことはない。あれらの料理が晩餐で出されても、私が不満の声をあげることはないだろう」
「それでも、すべての料理が気に入ったわけではないんじゃないか?」
俺の言葉に、アイ=ファは可愛らしく首を傾げる。
「そうだな……少なくとも、あの前菜や菓子とかいう料理は、あまり必要でないように思える」
「うん、生魚の前菜と甘い菓子はしかたないよな。リミ=ルウなんかは、甘い菓子が大好きみたいだけど」
「あとは、ポイタンの料理だな。最初は何と奇妙な料理を作るのだと驚かされたものであったが……数日もすれば、とりたてて不満はなくなった」
それは、前々から俺が開発を進めていた料理のことであった。
ポイタンとフワノをブレンドさせて、さらにキミュスの卵まで加えることで、俺はこれまでとまったく異なるポイタンの食べ方を考案してみせたのである。せっかくなので、俺はその料理も城下町でお披露目させていただこうと目論んでいたのだった。
「肉の料理と汁物は文句なく美味い。野菜の料理は……まあ、特別に嫌がる理由はない、といったところか」
一生懸命考えながら、アイ=ファはさらにそのように答えてくれた。
「総じて、美味かったのだ。ただ、肉の料理などはぎばかつ以上に手がこんでいて……何というか、あまり毎日は食べたくないように思える。森辺でも、宴か何かで供されるのが相応しいのではないのかな」
「そうだな。俺もあれらの料理をそのまま森辺で作る気持ちはなかったんだよ。作るとしたら、もっと森辺の民に喜ばれるような味に改良したいところだ」
「ならば、なおさら文句はない」
そう言って、アイ=ファは空になった木皿を敷物に置いた。
この様子なら、歓迎会に参加するダリ=サウティにもほどほどの満足感を与えることは可能であろうか。
ともあれ、その日の晩餐は無事に終了した。
使った食器を片付けながら、俺は「あ、そうだ」とさらに呼びかける。
「そういえば、例の件はどうだろう? ドンダ=ルウからは、なんとか了承をもらうことができたんだけど」
「……ジェノスを離れたいという、あの話か」
同じように食器を片付けていたアイ=ファが目を光らせる。
「ドンダ=ルウが了承したというのは意外であったな。そのダバッグとやらにおもむいたら、2日間は戻れぬのであろう?」
「うん。ドンダ=ルウも最初は渋ってたんだけど、レイナ=ルウとリミ=ルウが数日がかりで説得してくれたらしい。かまど番と同数の狩人を護衛としてつけるってことが、最低限の条件みたいだ」
俺は、ダバッグにまでカロンの牧場を見物に行きたい、という提案をアイ=ファとドンダ=ルウにぶつけてみたのである。
かまどの横に食器を重ねたアイ=ファは、口をへの字にして俺の眼前に立ちはだかる。
「かまど番は、何名がその町に出向きたいと申し出ているのだ? レイナ=ルウとリミ=ルウと、それにシーラ=ルウもいたはずだな」
「ああ、それとアイ=ファが了承してくれるようなら、ディン家にも相談しようと思ってる。だから合計で5名だな」
「……休息の期間でもないのに、5名もの狩人を護衛につけることがかなうのか?」
「えーっとな、ジーダとバルシャは確定してるみたいだ。もともと森辺の民じゃないあのふたりなら、ギバ狩りの仕事をおろそかにすることにもならないし。それに、ジェノスの外から来たあのふたりが一緒なら、旅の道連れとしても心強いしな」
日中にルウ家で聞いた話を思い出しながら、俺はそのように答えてみせる。
「あとはダン=ルティムと、もうひとりルティムから出せるらしいよ。ほら、ダン=ルティムと一緒に怪我をした見習いの狩人が、歓迎の宴でも護衛役をつとめることになってるだろう? ダン=ルティムもその見習い狩人もまだ療養中の身だから、森を離れるのには都合がいいらしい」
「それはつまり、ふたりともにまだ手負いということではないか。手負いの人間に護衛をまかせるのか?」
「手負いでも、野党なんかは森辺の狩人の相手にはならないってことなんじゃないのかな。そもそもその顔ぶれを決めたのもドンダ=ルウだし」
アイ=ファは腕を組み、不満そうに唇をとがらせた。
「それでもまだ4名だ。かまど番の数には1名足りていない」
「うん。ドンダ=ルウとしては、どうせアイ=ファも同行するだろうって考えなんだと思うけど……やっぱり2日間も狩人の仕事を休ませるのはまずいかな?」
「馬鹿を抜かすな。お前ひとりを町の外に出してたまるか」
アイ=ファはがりがりと頭をかきむしる。
「でも、アイ=ファはそんなかまど番の都合で狩人の仕事を休むのは不本意なんだろう?」
「……私は狩人として相応以上のギバを狩っている。休息の期間が明けてからはほぼ毎日1頭ずつのギバを狩っているし、昨日などは2頭を仕留めた」
「うん」
期待と不安をこめながら、俺はアイ=ファを見つめ返す。
アイ=ファはもう一度盛大に唇をとがらせてから、言った。
「そんなにダバッグとやらへおもむくという行為はお前にとって重要なのか? 私には、その一点が理解できぬのだ」
「重要だとは思う。今後もそうそうカロンの肉を使うことはないかもしれないけれど、乳や乳脂や乾酪なんかは食材として重要だし、俺だけじゃなくレイナ=ルウたちにとってもいい経験になると思うんだ」
それに、もしもこの願いがかなえられた場合は、ミケルやマイムとも同行することができるのである。
ミケルがともにあるならば、さぞかし有意義な旅になることだろう。
また、ジェノスから最も近いダバッグではどのような食文化が育まれているのか、森辺の民はどのように思われているのか、ギバの燻製肉や腸詰め肉はそちらで商品たりえるのか、ということもリサーチすることができる。
決して俺のささやかな好奇心を満たすことだけが目的ではない。そうでなくては、あのドンダ=ルウが愛する娘たちをジェノスの外に出すことなど、決して許さなかっただろう。
「ならば……」とアイ=ファが不本意そうな声をあげる。
「……私も了承しよう」
「本当か? ってことは、アイ=ファも同行してくれるんだよな?」
「当たり前だ」
「やった! ありがとう、アイ=ファ。恩に着るよ!」
アイ=ファは唇をとがらせるのをやめて、不思議そうに俺を見た。
「そんなに嬉しいのか、お前は」
「それはそうだろう。正直、半分がたは断られると思ってたし! ……それに、みんなと一緒に一泊旅行なんて夢想だにしてなかったからさ。あくまで仕事のためとはいえ、素直に嬉しいよ」
アイ=ファは強く眉根を寄せた。
で、いきなり両手で俺の頭をわしづかみにしてくる。
「何だか卑怯だぞ、アスタ」
「ひ、卑怯? いったい何の話だよ?」
アイ=ファの顔が迫り寄ってきて、なおかつ頭をぐしゃぐしゃにかき回されてしまう。
「幼子のように不安そうな顔をしたり、そうかと思えばそのように可愛らしい顔をしたり――」
「か、可愛らしい? 俺が?」
「とにかく卑怯だ。腹が立つ」
「いてててて! 家長、力加減を!」
「やかましい」と言い捨ててから、アイ=ファは俺の頭を解放してくれた。
ほっとしたのも束の間――今度はその狩人としての膂力を秘めたほっそりとした腕が、力まかせに俺の胴体を締め上げてくる。
「ぐわーっ」と叫んでもその腕は離れない。本気であばら骨をへし折られる危機感が俺の脊髄から脳天まで走り抜けていった。
「……お前が気に病んでいなくてよかった」
「うぐががが……え? 何か言ったか?」
「ポルアースの連れてきたシムの娘におかしな話を聞かされた日、お前はとても苦しげな目をしていた。その陰りが心に残っていなくてよかったと言っているのだ」
シムの娘――占星師アリシュナのことか。
いくぶん力のゆるめられたアイ=ファの腕に半ば身体を支えられつつ、俺は「大丈夫だよ」と答えてみせる。
「もともとわかりきっていたことを再確認させられただけだし、何も気にしちゃいないよ。そういえば、《銀の壺》の占星師にも『星が見えない』とか言われたこともあったしな」
「シムの占いなど知ったことではない。お前はこうして私の前に存在している。それがすべてだ」
アイ=ファの甘い香りのする髪が、俺の頬にすりつけられてきた。
「お前も同じように考えてくれていると、私は信じている」
「ああ。その信頼を裏切ったりはしないよ」
俺はそんなに苦しげな顔をしてしまっていたのだろうか。
だったら、アイ=ファに心配をかけてしまったことを反省しよう、と思う。
「それに比べたら、お前の我が儘に振り回されることなど些細なことだ。……しかし、そのように思わせるお前は卑怯だ、アスタ」
「わかったよ。でも、これ以上俺のあばらを痛めつけないでくれよ?」
「……ふん」
アイ=ファはぎゅうっと俺の身体をしめつけてくる。
少しばかりあばらが軋んだが、その痛みまでもが俺には幸福に感じられたのだった。