運命の少女
2016.1/3 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
明けて、黒の月の30日。
屋台の商売の、12期目の開始の日であった。
「ふーん、それじゃあレム=ドムは朝方の仕事だけ手伝って、夜はスドラの空き家で寝泊りすることになったんだ? なんだか大変な生活だねー」
『ミャームー焼き』の屋台でティノを刻みながら、ララ=ルウが語りかけてくる。
同じように『ポイタン巻き』の屋台でティノを刻みながら、俺は「うん」と応じてみせた。
「まあ、仕事の代価として晩餐と干し肉を分けてあげることになったからさ。当面は不自由なく暮らしていけるんじゃないかな」
「でも、15歳の女衆がひとりぼっちで生きていくなんて考えられないよ。あたしだったら1日だって御免だなー」
そんな風に言いながら、ララ=ルウは俺の身体ごしにトゥール=ディンへと視線を飛ばしてくる。
「そういえば、ディンとドムは眷族同士なんだよね? そっちで泊めてあげたりはできないの?」
「はい。ザザの眷族にはレム=ドムに力を添えぬようにという通告が回ってきてしまったのです」
「そっかー。北の連中ってやっぱり石頭だなあ。あんたなんか、けっこうレム=ドムとは仲良くしてたから気まずいんじゃない?」
「ええ。気まずいというよりは心配ですし、それに、さびしいです」
言葉の通り、トゥール=ディンはさびしげに微笑する。
年の近いこの両名は、この2ヶ月弱ですっかり打ち解けていた。
最初の出会いはスンの集落で、火傷をしてしまったトゥール=ディンをララ=ルウが介抱してあげていたのも、今となってはいい思い出だ。
「ま、女衆が狩人になるなんて、なかなか許されることじゃないもんね。アイ=ファだって、そのせいでドンダ父さんたちとずっとギスギスしてたわけだし。そんな苦労をしてまで狩人になりたいなんて、やっぱりあたしにはわかんないなー」
「そういえば、ディック=ドムはドンダ=ルウのところにも行ったんだよね? ドンダ=ルウはどんな感じだったのかな?」
「んー? よその家のことだからって、あんまり口出しする気はないみたいだよ。レム=ドムがファの家に泊まりたいって言い出したときも、すんなり了承してたしね」
そのように言ってから、ララ=ルウは形のよい眉をひそめる。
「ただ、ジザ兄はやっぱりちょっと嫌そうな顔をしてたかな。ジザ兄は、ドンダ父さんよりも石頭だからね」
ジザ=ルウか。
向こうが近づいてこないのをいいことに、俺は彼との確執を放置してしまっている。
最後に心情を打ち明け合ったのは、たしか家長会議の直前であったから――もう4ヶ月近くも経過してしまっているのだ。
俺は俺で、言葉ではなく行動で自分の考えを示してきたつもりであるのだが、俺のような異国人が森辺の行く末を左右するのは正しくない、と主張していたジザ=ルウは、現在どのような心情でいるのだろう。
ガズラン=ルティムがルティムの家長となったように、いずれはジザ=ルウがルウの家長を継ぐことになる。そしてルウの家長とは、いまや百余名の眷族の長というだけでなく、三族長の一を担う立場であるのだ。
『ギバ・カツ』を口にしたとき、ジザ=ルウは「美味だ」と言ってくれた。
あれは彼の真情であるように思えた。
しかし、それだけで安心しきるわけにはいかないのだろう、と俺は思っている。
「お待たせいたしました。交代のお時間です」
と、そこにリィ=スドラとユン=スドラがやってきた。
本日は中天きっかりの到着であった。
「お疲れさまです。新しい干し肉や腸詰め肉の評判はいかがでしたか?」
「はい。干し肉は問題なく喜ばれました。やわらかい腸詰め肉は、晩餐で使うべきではないかという声が多かったようですね」
「そうですか。やっぱり固い干し肉を食べる習慣が失われてしまうのは不安ですものね」
そしてそれは俺自身がみんなに触れ回った不安でもある。
噛む力と歯の頑丈さを保持するために、固い干し肉の存在は不可欠であるように、俺には思えてしまうのだ。
「わかりました。腸詰め肉は城下町や他の町での商品になりえないものか、こちらで検討してみます。それじゃあ屋台の仕事はおまかせしますね」
「あ、お待ちください、アスタ。実は、今日の働きぶりを見て、それで問題がないようでしたら、明日からはユンひとりに仕事をまかせようかと考えているのですが、いかがでしょう?」
ユン=スドラの研修期間が始まって、今日で8日目である。
俺の見る限りでも、ユン=スドラの働きぶりに不満はない。
「ええ。俺としては問題ないと思っています。リィ=スドラにもお墨付きをいただければ完璧ですね」
「では、今日は1日、手を出さずにユンの仕事を見守りたいと思います」
俺はうなずき、ユン=スドラを振り返る。
「それじゃあ頑張ってね、ユン=スドラ。君ならきっと大丈夫だから」
「はい! ありがとうございます!」
お顔を真っ赤に染めながら、ユン=スドラは灰褐色の頭をぴょこんと下げる。
すると、その背後に立ちはだかっていたレイナ=ルウと真正面から視線がぶつかった。
「……アスタ、宿屋に参りましょう」
「そ、そうだね。それでは、行ってまいります」
トゥール=ディンやヤミル=レイにも別れを告げて、俺は屋台から離脱した。
人のあふれる街道を歩きつつ、レイナ=ルウの横顔がいささかピリピリしているのは、きっと俺の勘違いではないだろう。
「アスタ、このようなことを進言するのは、あまり気が進まないのですが」
「う、うん、何かな?」
「あのユン=スドラという娘とは、もう少しつきあい方を考えたほうがいいように思えます」
「つきあい方? うーん、俺は雇い主として適切な距離を保っているつもりなんだけど……」
歩きながら、レイナ=ルウはきろりと横目で視線を飛ばしてくる。
「アスタは異国の生まれです。森辺には、アスタのように物腰のやわらかい男衆はあまりいません。だからあのユン=スドラも勘違いしてしまうのではないでしょうか」
「勘違い? 何を?」
「自分がアスタに好意を抱かれている、という勘違いです」
レイナ=ルウがここまで直截な言葉をぶつけてくるとは、俺にも予想できていなかった。
しずしずと歩いているレイナ=ルウの冷徹なる横顔を、俺はいささか困惑気味に見つめ返す。
「実は俺も、けっこう最初の内からユン=スドラとは適切な距離を保つように心がけていたんだよ。だから、そんな心配はいらないかな、と思っていたんだけど……」
「それではまだ配慮が足りていなかったようですね。あるいはアスタの態度など関係なく、あの娘は最初からアスタの嫁になりたいと願っていたのかもしれませんが」
ますます切れ味を増していくレイナ=ルウの言葉と眼光に、俺はいっそうたじろいでしまう。
「アスタは誰を嫁に娶るつもりもない、と仰っていましたよね。その心情に、変わりはありませんか?」
「う、うん。今でも同じ気持ちだよ」
「本当に?」
「本当さ」
「ならば、今よりもいっそう気持ちを引き締めて、あの娘と接するべきでしょうね」
そのように言ってから、レイナ=ルウはふっと息をついた。
「色々と差し出口をきいてしまって申し訳ありません。でも、スドラを友と思うなら、アスタも慎重にふるまうべきだと思ってしまったのです」
「うん。とてもありがたい助言だったよ。今後は今よりもっと気をつけることにする。約束するよ」
「……ありがとうございます」
空気が重い。
と、思った瞬間、いきなりレイナ=ルウはこちらを振り返り、にっこり笑いかけてきた。
「ようやく胸のつかえが取れました。この後の仕事もよろしくお願いいたします、アスタ」
「うん、こちらこそ」
俺は相当どぎまぎしてしまったが、すぐにレイナ=ルウの心情を察することができた。
レイナ=ルウだって、きっと俺に対してはひとかたならぬ気持ちを抱いてくれていたはずなのだ。
その気持ちに俺が応えられなかったため、レイナ=ルウは打ち沈んだり妙にはしゃいだり、情緒の不安定な時期が長く続いていた。
それがいつしか、料理の腕を磨くことに邁進するようになり、おたがいに屈託なく語り合えるような関係性を取り戻すことができた。
そんな中、ユン=スドラという少女が現れて、俺に好意を抱いているようだと察してしまったら――いったいどのような気持ちになるだろう。
俺は、誰に対しても誠実にふるまわなくてはならないのだ。
ことと次第によったら、俺はスドラの家長ライエルファム=スドラともしっかり語り合う時間を作るべきかもしれなかった。
◇
「あれ? ダレイム家の車だ」
一刻の後、俺とレイナ=ルウは《玄翁亭》の前にいた。
本日から《キミュスの尻尾亭》の仕事もルウ家と1日置きにこなすことになった。その仕事をレイナ=ルウがやりとげたのち、所用があってここまで出向いてきたのである。
「どうしたのでしょう? 別に約束などはしていなかったのですよね?」
「うん。俺たちがこの時間に《玄翁亭》を訪れることすら知らないはずさ。用事があったら、《キミュスの尻尾亭》か屋台のほうに来るはずだけどなあ」
まあ、ポルアースが神出鬼没であるのは今に始まったことではない。何か食材のことでネイルに相談でもあったのかもしれないなと思いなおし、俺は《玄翁亭》の入口をくぐることにした。
「ああ、アスタ、お待ちしておりました。ポルアース様もいらっしゃっておりますよ」
「はい。何かこちらにご用事だったのですか?」
「ええ、お客人を連れて、料理を注文してくださりました。……本来であれば晩餐の時間までアスタの料理は出さないことにしているのですが、どうしてもと願われてしまったので」
表情を隠したネイルの顔の中で、その目にだけ「困ったものだ」という光が浮かんでいた。
「それで、食事はもうお済みになっているのですが、アスタが訪れる旨をお伝えしたら、挨拶をしたいと仰られて、食堂のほうでお待ちしております」
「そうですか。では、お先にご挨拶をば」
以前にはこうしてネイルに案内されて、ミケルと対面した覚えがある。
その同じ食堂で、ポルアースと奇妙な人物が待ち受けていた。その背後には、2名の武官も立ちつくしている。
「おお、アスタ殿! 3日ぶりだね。お元気そうで何よりだ」
食事を終えて、ティータイムと洒落込んでいたらしい。小さな卓には黒っぽい茶の注がれた陶磁の杯がふたつ置かれている。
「いやあ、こちらの客人にアスタ殿の料理を食べさせてあげたくなってしまってね。だけど晩餐の時間に護衛を引き連れて訪れるのは気が引けたから、無理を言って料理を出してもらったのだよ」
「そうだったのですね。屋台ではなく宿屋の料理をご所望であったのですか」
「うん。それも他の屋台ではなく、この店の料理をね。いやあ、辛いけど美味だったよ!」
本日の献立は、『ギバのソテー・アラビアータ風』である。
この《玄翁亭》に卸す料理では容赦なくチットの実を使っているので、さぞかし刺激的なお味であったことだろう。
「実はね、こちらはシム生まれのお客人なんだ」
言われるまでもなく、俺も察していた。
何故ならその人物は店内であるにも拘わらずマントのフードをおろしており、その陰からは黒い下顎が覗いていたからだ。
しかし、東の民にしては背が小さい。座っているのでわかりにくいが、下手をしたら俺より小さいぐらいだろう。
それに、全身を覆ったフードつきマントも旅用のそれではなく、絹か何かでできている上等そうな仕立てであった。
「こちらはね、1年ほど前から城下町に逗留しているアリシュナ=ジ=マフラルーダだ。アリシュナ殿、こちらがさきほどの見事な料理を作りあげた森辺の料理人、アスタ殿だよ」
その人物は軽く一礼してから、ゆったりとした動作でフードをはねのけた。
その下から現れたのは、確かにシム人らしい風貌だ。
黒い髪、黒い瞳、黒い肌。目は切れ長で、鼻が高く、唇は薄い。長い黒髪は右側で三つ編みにして、マントの内側に垂らしている。首飾りや腕飾りばかりでなく、耳や指にも銀や石の飾り物をつけており、東の民としてもいっそうエキゾチックで装飾過多な装いであった。
それに、ずいぶん華奢な体格をしているようだ。
顔も首も指先も、どこもかしこもがほっそりしている。ちょっと乱暴に扱ったらたやすく壊れてしまいそうな、そんな危うさが感じられた。
もしかしたら――と俺は思う。
そしてその疑念は、すぐポルアースの言葉によって解消されることになった。
「彼女はね、星読みのわざを持つ凄腕の占星師なのさ。ゆえあってジェノスに留まっているのだけれど、身分としてはジェノス侯の正式な客人だから、そのように扱っていただけるようお願いするよ」
やっぱりこの人物は、女性であったのだ。
女性ならば、小さすぎることはない。
しかし、東の民の女性を見るのはこれが初めてのことであった。
(いや……もっと背の高い人間でフードをかぶったままだったら、女性かどうかの判別はつかないな。もしかしたら、今までのお客さんでも女性がまじっていたのかもしれない)
ともあれ、ジェノス侯爵の客人ということならば、貴族と同等の扱いをするべきだろう。
「初めまして。森辺の民、ファの家のアスタという者です。お連れのポルアースにはいつもお世話になっております」
「森辺の民……しかし、あなた、渡来の民と聞いています。それで、西の民になる、認められなかったのではないのですか?」
どうやらサンジュラと同じぐらいには西の言葉があやつれるらしい。
それに、とても耳に心地好い、低いが透明感のある声音だった。
「はい。もともとこの大陸の生まれでない人間には四大神の子となる資格はない、とのことで、正式な西の民を名乗ることは許されませんでした。でも、ジェノス侯爵マルスタインの取り計らいで、なんとか森辺の民を名乗ることは許されるようになったのです」
そう、素性の知れない俺は、ジェノスの神祓官たちによって、セルヴァの民を名乗ることを拒絶されてしまったのだった。俺の公的な身分は、今でも「森辺の集落に逗留する渡来の民」なのである。
「故郷、捨てて、ジェノスに住んでいるのですね。ならば、私、同じです」
夜の湖みたいに静かな瞳で、その東の民の少女――アリシュナは、俺の姿をじっと見つめ返してきた。
なんとなく、魂の裏側まで透かし見られているかのような眼差しだ。
「屋台の料理も十分に美味だけれども、やっぱりアリシュナ殿にはシムの食材を使った料理を味わってほしくてね。……そういえば、アスタ殿はもっと香草をふんだんに使った料理を研究中なのだよね? もしかしたら、今度の歓迎の宴ではそれを味わうことができるのかな?」
「いえ、あの料理だと他の献立をどうするべきか悩んでしまうので、使う予定はありません。それに、バナームではジェノスほど香草を使う風習がないのではないですか? あちらはシムとの交流も少ないと聞いたのですが」
「ああ、確かにその通りだねえ。それでもヴァルカス殿はふんだんに香草を使うだろうし、バナームよりの客人を驚嘆たらしめるに違いないけどね」
「そうでしょうね。でも、自分はそれほど香草の使い方には長けていないので、自分にできる範囲で皆さんに喜んでいただけるよう励みたいと思います」
「そうか」とポルアースは納得したように丸っこい顎を撫でさする。
「でも、その香草をふんだんに使った料理とやらも、いずれは味わわせていただきたいものだ。その料理は、この店でも扱われるようになるのだよね?」
「はい。近日中にはお披露目できると思います」
「それじゃあそのときはまたアリシュナ殿をともなって足を運ばせていただこう! ご主人、申し訳ないけどそのときはまたよろしくお願いするよ」
「はい」とネイルはお行儀よく頭を下げる。
これぐらいの我が儘は、貴族としては可愛いものなのだろう。
「で、宴の献立についてはいかがなものかな? 新しい食材たちはお役に立てそうかな?」
「そうですね。まだ決定はしていませんが、何種類かは。……でも新しい食材については、どちらかというと宿場町で使う方向で力を入れたいと考えているのですが」
「それは歓迎の宴で使うよりも宿場町での流通に協力してもらえたほうが、僕たちにしてもありがたいよ。どのような食材を使っても、アスタ殿の料理が目新しいことに変わりはないからね」
実に楽しげな顔で笑ってくれるポルアースである。
「食材が足りなくなったら遠慮なく声をかけておくれよ。研究で使う分の銅貨は不要だから」
「ありがとうございます。……それではひとつお願いがあるのですが、生きた魚を1尾いただくことは可能でしょうかね?」
「え! 生きた魚も使ってくれるのかい!?」
「あ、そちらは宿場町でなく、歓迎の宴で使う分です。せっかくなので、前菜ででも使うことができたら楽しんでいただけるかと」
「それは楽しいね! ヴァルカス殿だって樽か何かに水ごと詰めて持ち帰っているのだろうから、不可能ではないはずだよ」
「そうですか。それではついでに、ヴァルカスに聞いてほしいことがあるのですが――」
俺の質問に、ポルアースはいっそう目を丸くしてしまった。
「なんと! そのような料理が可能なのかね?」
「俺の故郷ではそのような食べ方もありました。でも、ジェノスやバナームの方々には受け入れ難い料理になってしまうでしょうか?」
「そんなことはないよ! 文句があるなら残せばいいのさ! 少なくとも、僕は食べずには済ませられないけどね!」
ならば、試してみるのも一興であろうか。
しかしまずは、ヴァルカスの答えを聞いてからだ。
あのイワナのような淡水魚は、生食が可能か否か――をである。
「いやあ、ますます歓迎の宴が楽しみになってきてしまったなあ。あ、そうそう、宴の日取りもようやく決定されたのだよ。歓迎の宴は藍の月の10日に執り行われることになったから、よろしくね?」
「藍の月の10日というと……今日が30日なので、ちょうど10日後ですか」
「うん。本来、旅の吉日は月の15日とされているのだけれどね。このアリシュナ殿にもっと吉なる日はないものか星を読んでもらい、それで藍の月の8日が出立の日と定められたんだ。で、2日をかけてジェノスを目指していただき、到着した10日の夜に歓迎の宴、という段取りだ」
ちょうど10日後なら、奇しくも屋台の店も休業日である。
この世界の星とやらも、なかなか気の利いたことをしてくれるものだ。
「あ、こちらでばかり盛り上がってしまって申し訳なかったね、アリシュナ殿。さぞかし退屈されていたことだろう」
「いえ」
「このアリシュナ殿も、歓迎の宴には参席される予定なんだ。さっきの料理に負けないものが供されることを願っているよ、アスタ殿?」
そのように言って、ポルアースはにこーっと俺に笑いかけてきた。
「ところで、今日はご主人に何か新しい料理を試食させるために訪れたのだよね? よかったら、僕たちにもそいつを味見させてもらえないかなあ?」
「ええ、大丈夫ですよ。というか、これはもともとポルアースにも味見をお願いしたかった食材なのです」
そう考えれば、ここでポルアースと出会えたのも僥倖であった。
そんなことを思いながら、俺は手に携えていた小さめの革袋を持ち上げてみせる。
「ネイル、木皿と刀をお借りしてもよろしいですか?」
ネイルが要望に応えてくれたので、俺は木皿の上に革袋の中身を広げてみせた。
といっても、2本ばかりの腸詰め肉に過ぎない。顔なじみの人々に配り歩いてしまったので、残りはこれだけなのだ。
「これは、こまかく刻んだ肉を燻製にしたものです。城下町や他の町で売り物になるうるかどうか、ご意見を聞いてみたかったのですよね」
ポルアースはいささか拍子抜けしてしまった様子であったが、俺が切り分けた腸詰め肉を口にすると目の色が変わった。
「これは美味だね! さすが燻製にしているだけあって、ギバ肉の旨みが凝縮されている!」
「ああ、本当に美味です。ギャマの腸詰め肉にも劣る味わいではありません」
ネイルも満足そうに目を細めている。
ただひとり、東の民に他ならないアリシュナのみが無言で無表情であった。
「いかがですか? 東の方々は普段からギャマの腸詰め肉を食されているそうなので、ご意見をいただければありがたいのですが」
アリシュナは、静かすぎる瞳で俺を見る。
「とても美味です。でも、私、ギャマの味、知らないのです」
「え?」
「私、東の民です。でも、西の地で生まれたのです」
言っている意味がよくわからなかった。
それをポルアースが補足してくれる。
「いや、このアリシュナ殿はご家族とともに東の王国を出奔された身でね。セルヴァに神を乗り換えたわけではないのだが、故郷には戻らずずっと西の領土を放浪していたそうなんだ。一時期は、西の王都アルグラッドにも留まっておられたのだよね?」
「はい。20年前、家族、シムを追放されました。17年前、私、生まれました。……そして、1年前、最後の家族、祖父が亡くなったのです」
「御祖父はこのジェノスで身罷られてしまったそうなのだよ。それで行くあてのなくなったアリシュナ殿は、占星師としての腕を買われて、ジェノス侯の正式な客人として城下町に身を寄せることになったわけだね」
そんな人生もありうるのか。
しかし、シムを追放された、というのはどういうことなのだろう――と考えていると、その心中の疑問に答えるかのようにアリシュナが口を開いた。
「私の祖父、高名な占星師でした。しかし、藩主の滅亡、読み解いてしまっため、怒りに触れ、シムを追放されてしまったのです」
「藩主というのは、その領土の主ということだ。シムは7つの領土に分かれていて、それぞれに藩主というものが存在するのだよ」
ポルアースの言葉に、アリシュナはうなずく。
「藩主、星の定めに従って、滅んだようです。しかし、新たな藩主も祖父の力を忌避するかもしれません。だから、私たち、シムに戻ることはできなかったのです」
「それゆえにアリシュナ殿のご家族は、西の地に移り住んでも一箇所に定住することを避けたらしい。糧を得るには占星のわざを披露するしかないけれども、それで評判になってしまうと最終的には貴族や王族に召し抱えられてしまうからね。さぞかし苦労の絶えない生活であったことだろう」
丸っこい顔にもっともらしい表情は浮かべながら、ポルアースはうんうんと首肯する。
「でも、我がジェノスの領主マルスタインは、良くも悪くも占星のわざを余興ぐらいにしか思っていないからね。どんな宣告をされたって、君を恐れるようなことにはならないよ。今後も安心してジェノスで暮らしていくといい」
アリシュナは無言で一礼した。
そして、また俺の顔をじっと見つめてくる。
「ファの家のアスタ。あなた、故郷、恋しくはなりませんか?」
「え? ……そうですね。俺のほうもちょっと複雑ないきさつがあって、この地に骨を埋めるつもりなのです。故郷には、戻れるすべも存在しないようなので」
「……渡来の民ならば、まずはシムかマヒュドラを目指し、北氷海、出ればよいのではないですか?」
「いや、それはいわゆる竜神の民とかいうやつですよね? 俺は海に囲まれた島国の生まれなのですけれど、その竜神の民というやつとは根を別にしているのです」
アリシュナは、すっとまぶたを細めた。
そうすると、睫毛がずいぶん長いことがはっきりと見て取れる。
「アスタ、あなた……星無き民ですか?」
「え?」
「あなたの星、どこにも見えません。星無き民、この世界に星を持たないのです」
そう言って、アリシュナはそのまままぶたを閉ざしてしまった。
「星無き民ならば、確かに故郷、戻るすべはないのでしょう。その故郷、この世界には存在しないのですから」
急速に、俺の心臓がバウンドし始めた。
この少女はもしかして――俺以上に、俺の存在を理解できているのだろうか?
「ポルアース、私、頭痛がしてきました。少し疲れてしまったようです」
「おお、それは大変だ! それでは城下町に戻ることにしよう。……それじゃあ魚については早急に問い合わせてみるからね。それで話が上手く運んだら、明日か明後日には樽に詰めた魚を屋台のほうにお届けするよ」
「ありがとうございます」と応じながら、俺の鼓動は静まらない。
しかしアリシュナは、俺からの呼びかけを拒絶するかのようにフードをかぶりなおしてしまった。
「では失礼しよう。世話になったね、ご主人。アスタ殿、10日後を楽しみにしているよ!」
「はい」
そうしてアリシュナは、ポルアースとともに去っていってしまった。
言葉もなく立ちつくす俺の袖を、レイナ=ルウがくいくいと引いてくる。
「大丈夫ですか? ずいぶん顔色が悪いようですよ」
「……大丈夫、なんでもないよ」
俺はそちらに笑いかけようとしたが、顔がこわばって上手くいかなかった。
なので、平手打ちをして自分の目を覚ますことにしてやった。
「ど、どうしたのです!? 本当に大丈夫なのですか、アスタ!?」
「あいててて……大丈夫だよ。気合いを入れなおしただけだから」
彼女が何を知っているのであれ、俺の行く末に変わりはないのだ。
たとえ第三者に、故郷に戻るすべはないのだと言い切られたところで――そんな絶望は乗り越えた上で、俺は今この場に立っているのである。
(俺は一回死んでいる。俺以外の人間には理解できないだろうけど、それだけは確かなことなんだ)
あの生々しい炎の感触。
生きながら焼かれる地獄のような苦しみ。
そして、この身を粉々に打ち砕く瓦礫の山。
あの苦しみがまやかしであったとは、俺には信ずることができない。
俺は、一回死んでいるのだ。
(だけどそれでも、俺はこうやって二回目の人生を生き直すことができている)
それがどのような運命神の悪戯であれ、俺は再び希望を胸に生きていくことができているのである。
だったら、嘆いているひまはない。忘れられない苦しみをこの胸に抱えつつ、力の限り一歩ずつ進んでいくしか道はないだろう。
「それじゃあ、屋台に戻ろうか。日程も決まったことだし、今日から本格的に歓迎会に向けて献立を練りあげることにするよ」
そのように宣言して、俺はその日も新たな一歩を踏み出したのだった。