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異世界料理道  作者: EDA
第十六章 星はなけれども
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城下町へ③~異世界の味~

2015.12/30 更新分 1/1 12/31 誤字修正

「時間が惜しいので、簡単な焼き料理を作らせていただきます」


 数々の食材と調理器具を前に、ヴァルカスはそう宣言した。

 その足もとには、小姓たちに運ばせた水瓶も置かれている。長らく厨として使われていなかったこの場所には、水の準備がなかったのだ。

 その水で調理器具をしっかり洗ってから、香草や調味料の土瓶を並べ、これでようやく用意が整ったらしい。


「……ところでアスタ殿、そちらに控えた女衆らはあなたの従者なのですか?」


「従者ではなく、調理助手です。できれば彼女たちにも味見をさせていただきたいのですが」


「……正しく味を判別する舌をお持ちならかまいませんよ」


 言いながら、ヴァルカスは上衣の懐に手を差し込んだ。

 そこから引っ張り出されたのは、小さく折りたたまれた白い布である。


 手ぬぐいか、あるいは帽子でもかぶるのかなと思ったが、少し違った。それは、目と鼻と口のところにだけ穴の空いた、布の覆面であったのだ。

 言葉を失う俺たちに、丸い穴の向こう側からヴァルカスが視線を飛ばしてくる。


「汗の一滴でも垂れてしまえば、料理の味が変わってしまいます。料理人としては当然の心がまえでありましょう」


 俺はポルアースを振り返ったが、彼もぽかんとヴァルカスの奇行を見守っていた。

 ということは、やはりこれはヴァルカスならではの作法であったのだろう。


「では、調理を始めます」


 口の周囲を圧迫されているために少しくぐもった感じになった声で、ヴァルカスはそう言った。

 そして、再び食料庫へと足を向ける。


 彼はカロンやキミュスの肉を運ばせてこなかったので、きっと生け簀の魚を使うつもりなのだろう。俺たちは、ぞろぞろと彼に追従することになった。


 生け簀の部屋に入ったヴァルカスは、壁にたてかけてあった柄つきの網を取り、静かな目つきで魚たちを睥睨する。


 生け簀の中には、4種類ほどの魚が放されているようだった。

 イワナのように細長い体型で、黄褐色に白い斑点のついた鱗の魚。

 クロダイか、あるいはティラピアのように黒ずんでいて円形の体型をした魚。

 黄色や赤色がまだらになった、沖縄のイラブチャーのようにずんぐりとした魚。

 そして、ライギョのように図太く大きな身体をした、エメラルドグリーンの魚。


 最後のライギョみたいなやつだけがひとつの生け簀をまるごと占領しており、残りのふたつに3種の魚がいりまじって泳いでいる。

 その中から、ヴァルカスは30センチはあろうかというイワナのような魚を選んで、1尾だけすくいあげた。

 それを間近で観察し、細長い胴体の弾力まで指先で確認してから、網ごと厨に引き返す。


「ほんとに魚を食べるんだねー。いったいどんな味がするんだろ?」


 俺の背後でリミ=ルウがアイ=ファにこっそり囁きかけている。


 ヴァルカスは、網から解放した魚に生きたまま塩をもみこみ、それを水瓶の水で洗い流した。きっとぬめりを取っているのだろう。

 そして、まだぴちぴちと動いている魚の身体をまな板に押しつけつつ、魚用の調理刀を取り上げる。


 その刃先が至極なめらかに腹の中へと差し込まれ、そのまますうっと咽喉もとまで切り開いてしまう。

 そうして内臓を引っこ抜き、背骨に残った血合いも爪でぐりぐり引き剥がす。

 俺の知る捌き方とそれほど違いのない手順だ。


 そいつをもう1度洗い清めてから、今度は最初の切り口に指先をこじいれて、そのまま一気に皮をひん剥く。

 女性のように華奢な指先をしているが、なかなかの腕力である。


「いやあ、見事な手並みだね。生きた魚を調理するところを拝見するのは初めてのことだよ」


 ポルアースが無邪気に声をあげたが、ヴァルカスは答えなかった。

 丸裸になった魚は頭を落とされ、三枚に下ろされていく。

 頭と中骨は屑入れの壺に投じられ、残った右身と左身は黒い香草に包みこまれた。


 ヴァルカスは手を洗い、かまどのひとつに火を点し、小ぶりの平鍋を温め始める。

 それで鍋に熱が回ると、再び手を洗って、最初に剥いた皮と赤みがかった香草を投じ入れた。


 皮からにじんだ脂分がぱちぱちと音をたて始める。

 脂が出つくすと皮は捨ててしまい、香草に包まれた魚の身を鍋の底にそっと横たえる。


 酸味のある香りが、厨に広がった。

 これはあの、俺が『ギバ・カレー』で不採用にした、タイ料理を喚起させる香草だ。


 皮から出る脂など量はたかが知れているので、香草はすぐに焦げた臭いまで発散し始める。

 しかしヴァルカスはかまわずに、弱火で時間をかけてじっくり両面に火を通した。


 覆面の奥から覗くグリーンの瞳は、これまでと打って変わって真剣そのものだ。

 手際にはまったくよどみがない。


 そうして両面を焼いたのち、ヴァルカスはおもむろに青みがかった土瓶を取り上げた。

 中身は、カロン乳だ。

 ここでカロン乳を使うのか、と俺は少し驚いてしまう。


 ヴァルカスはその土瓶の中身を陶磁の杯になみなみと注ぐと、そこにひとつまみの塩と砂糖を投じてから、鉄鍋に回し入れた。

 脂分と水分が喧嘩して、ばちばちと景気のいい音色をたて始める。


「……カロンの乳にあの黒い香草というのは、ティマロという料理人と同じ手際ですね?」


 レイナ=ルウがこっそり耳打ちしてきた。

 もう2ヶ月近くも経っているのに、レイナ=ルウもしっかりこの香草の香りを覚えていたらしい。


 ヴァルカスはさらに、そこに何種類かの香草を投じた。

 すり潰したりはせずに、鍋の上でバリバリと割り砕いてそのまま混入させたのだ。

 実に無造作な手つきだが、きっと分量はきっちり計算されているのだろう。どの香草も途中で割り砕くのはやめて、手に残った分は惜しげもなく屑入れに捨ててしまう。


 微量な油分はカロン乳に制圧され、後にはぐつぐつと煮える音色だけが響く。

 その音色を聞きながら、ヴァルカスは30秒ほど動かなくなった。

 そして、いきなりスイッチがオンになったかのように、木べらで具材をすくいあげる。


 黒い香草の破片と白いカロン乳にまみれた2枚の身が、陶磁の皿にぺたりと置かれた。

 そのごみ屑みたいに無残な衣が、木べらで綺麗にこそぎ落とされていく。

 その下から現れたのは、熱の通った白身の肉だ。

 香草で守られていたためか、そちらには焦げ跡のひとつもない。


 それを別の皿に移動させると、ヴァルカスはまた入念に手を洗い、1センチぐらいの厚みでななめに切り分けていった。

 切った身は断面が露出するよう並べかえ、さらにその上に銀の匙で赤いものをちょんちょんと載せていく。

 小さな壺の中に収められていたそれは、どうやらアロウの実をすり潰して煮込んだジャムであるようだった。


「……完成です」


 ヴァルカスが、作業台から身を離す。


「熱の逃げやすい料理ですので、味見はお早めにどうぞ」


「いやあ、見事な手際だったよ! ……ただ、味の想像がつかない料理だねえ」


 ポルアースが率先して皿のほうに近づいていく。

 俺たちも、それに追従した。


「我が《銀星堂》では前菜として扱われている料理です。持ち帰れる魚には限りがありますので、数日置きにしか扱うことはできませんが」


 言いながら、ヴァルカスは白覆面を引き剥いだ。

 白い面は汗に濡れ、褐色の長い髪がぺたりとはりついてしまっている。


「それでは、いただこう! まったくこいつは役得だなあ」


 三股に分かれたフォークのような銀の器具で、ポルアースが料理を口に運ぶ。

 その目が、くわっと見開かれた。


「この料理は――いや、アスタ殿が口にする前に感想を述べるのは控えるべきかな」


 俺は木製の匙を取り、落としてしまわないよう気をつけながらその料理をすくい取った。

 どうということのない、白身魚の切り身である。

 焼き料理と謳っていたが、切り身自体は鉄鍋に触れていないので、蒸し焼きにされたかのような仕上がりだ。

 カロンの乳でしっとりと濡れており、イチゴのごときアロウのジャムが載せられているのが不可思議である。

 そして、何種類もの香草が投じられているので、香りのほうは複雑きわまりない。


 そうしてじっくりと外観も拝見してから、俺はその切り身を口の中に入れてみた。

 とたん――複雑な香りが複雑な味とともに、ぶわっと拡散する。


(こいつは――)


 いったい何と形容すればいいのだろう。

 香草の辛みと、アロウの酸味と、カロン乳の甘みが、螺旋状にからみあいながら口の中を駆け巡っていく、そんな感覚であった。


 いや、辛みといってもそれは数種類の香草からもたらされたものであり、アロウの酸味にも、レモングラスのごとき香草の酸味が付加されている。

 また、カロン乳の甘みにも砂糖とアロウのわずかな糖分がまざりこみ、どの味がどの食材によってもたらされたものであるかは判別も難しかった。


 そして、その中心に魚がある。

 香草にくるまれて焼かれた魚の旨みが、すべての風味を結びつけているのだ。


 白身魚を香草と一緒に焼き、乳で煮立てたのちにジャムを載せる。これで美味しい料理が作れるわけはない、と俺には思えてしかたがないのだが――これは、料理として成立していた。


 甘みや辛みや酸味や、何なら香草のちょっとした苦みまでもが加わって、ともすれば何もかもが台無しになってしまいそうなのに、ぎりぎりのところで調和を保っている。いったいどのような計算をすればこのような味を生み出せるのか、俺には想像することも難しかった。


 美味いか不味いかの判別は難しい。

 こんな料理が作ってみたいか? と問われたなら、即座に否、と答えられるだろう。

 それでも、不味いとは言いきれない。

 いや、きっと美味なのだ。

 ただ、俺の中で感覚の歯車が噛み合わない。


 ティマロやロイの料理であれば、ここまで混乱させられることもなかった。

 こういうものを美味しいと思う人たちもいるのだろうな、食文化の違いというのは面白いな、と、自分の感性から切り離したところで答えを導きだすことができたのだ。


 しかし、この料理を判別することはできなかった。

 奇妙な味だ。

 複雑な味だ。

 不可思議な味だ。

 そんな感想しか、ひねり出すことができない。


 俺とは異なる方向性に振り切った、それはまさしく異世界の料理ともいうべき存在であったのだった。


「これは……」と、レイナ=ルウが苦しげな声でつぶやいている。

 どうやら俺が驚愕に打ちのめされている間に、みんなも試食を済ませていたらしい。

 レイナ=ルウは、すがるような目で俺を見つめていた。


「アスタ、どうかわたしに教えてください……この料理は、美味なのですか?」


 なんて奇妙な質問であろうか。

 かつてはダン=ルティムも『ギバ・カレー』を試食して「これは美味いのか?」などと言っていた。

 しかしそれともまた異なる、レイナ=ルウの声にはもっと自分でも抑制のきかない感情に満ちみちてしまっていた。


 トゥール=ディンも、何か泣きそうな顔になって俺を見つめている。

 リミ=ルウは、難しげな顔で「うーん」とうなっている。


「なんだかリミにはよくわかんないなあ……あれ? アイ=ファは食べないの?」


「私はかまど番ではないし、城下町の料理にも興味はない」


 木皿の上には、まだ数枚の切り身が残されていた。

 俺は意を決し、それをアイ=ファに差し出してみせる。


「アイ=ファ、もしも嫌じゃなかったら、お前も感想を聞かせてくれないか? かまど番じゃない森辺の民の、率直な意見が聞きたいんだ」


 アイ=ファはけげんそうに眉をひそめたが、何も聞き返そうとはしないまま、指で切り身をつまみ取った。

 それを口に放り入れ、無表情に咀嚼してから、呑みくだす。


「……どうだ?」


「べつだん、どうということもない。私には美味とも思えぬ味わいだ。かといって、ことさら不味いと言いたてるつもりもないがな」


 アイ=ファは実にあっさりとそう言った。

 そして、俺の耳もとに口を寄せてくる。


「さらに言うなら、私たち森辺の民に必要な味だとも思えん。もしもお前がこのような料理を作っていたら、私もジバ婆もドンダ=ルウも心を動かされることはなかっただろう。……お前はお前の信ずる道をいけばよいのだ、アスタ」


 俺は目を閉じ、胸中に渦巻く疑問や煩悶を腹の底まで押し戻してから、アイ=ファの仏頂面を見つめ返した。


「わかった。ありがとう、アイ=ファ」


 アイ=ファは無言で俺の胸もとを小突いてくる。

 俺は、ポルアースを振り返った。


「俺にはちょっと自分の受けた驚きを上手く言葉にすることができそうにありません。ポルアースのご感想を聞かせていただけませんか?」


「僕かい? 僕はねえ、すごいと思ったよ! なんというか、ジェノスの料理人が目指す美味なる料理というものの到達点を味わわされてしまったかのような心持ちだ!」


 ポルアースは屈託なく笑いながらヴァルカスのほうを見る。


「ヴァルカス殿。僕だって何度かは君の料理を味わったことはあるはずなのだけれども、ここまで驚かされたことはなかった! このトゥラン伯爵邸に存在する食材を自由に使ったら、君はここまで見事な料理を作ることができるのだね! いや、感服したよ!」


「……おほめにあずかり、光栄です」


 気のない表情でヴァルカスは応じる。

 そちらを見つめながら、ポルアースはにんまり笑う。


「だけどね、アスタ殿の作る料理は、やっぱり作法が全然違っているんだ。確かに城下町の人間にとっては粗にして野なる料理であるのかもしれないけれど、ただの物珍しい田舎料理には留まらない。口にしただけで思わず笑みをこぼしてしまうような、そういう美味しさを秘めているのだよ」


「……そうですか」


「うん。そうじゃなかったら、ジェノス侯やリーハイム殿たちだってあそこまでアスタ殿の手際を賞賛することにはならなかったと思う。そして、アスタ殿がヴァルカス殿の料理に驚かされたように、ヴァルカス殿もアスタ殿の料理には驚かされるのじゃないかな」


 やっぱりヴァルカスの表情は動かなかった。

 しかしポルアースは満足げな顔でうなずき、俺のほうに向きなおる。


「さ、それでは今度はアスタ殿の番だね! 美味しい料理を期待しているよ?」


「はい。期待に応えられるよう、頑張ります」


 俺は懐に手を入れて、くたびれた白タオルを引っ張りだした。

 俺には俺の料理を作るしかすべがない。

 それに――ヴァルカスが俺の料理を食べてどのような気持ちを抱くことになるのか、それを確かめずにはいられなかった。


「レイナ=ルウ、平鍋と片手鍋をひとつずつと鉄串を1本、それにお皿を何枚か準備しておいてもらえるかな? トゥール=ディンは、表の人たちにキミュスの卵を3つとカロンの乳脂をひと壺お願いしてから、火の準備を。リミ=ルウは、俺と一緒に他の食材の準備だ」


「りょうかーい!」


 笑顔を取り戻したリミ=ルウが元気いっぱいに声をあげる。

 レイナ=ルウとトゥール=ディンは、それぞれ不安や動揺を払いのけるような仕草を見せてから、無言で準備に取りかかってくれた。


 リミ=ルウと一緒に食料庫へと移動した俺は、必要な食材を選んで小さな調理助手に手渡していく。


「ね、アスタは何を作るの? ギバ肉がないと大変じゃない?」


「そうだね。でも、そのおかげで真っ向から勝負することができるよ」


 屋敷の人間にお願いをすれば、キミュスやカロンの肉を使うことはできる。

 しかし、どうせ使いなれない食材を使うなら、少しでもインパクトを与えたほうがよい結果を導きだせるだろう。これは単純な味比べではなく、ヴァルカスを納得させるための行いなのだから。


 食材の運搬をリミ=ルウに託し、俺はその足で生け簀の間に向かう。

 ヴァルカスが選んだのと同じ魚の中で、なるべく形や大きさも似通ったものを選んで捕獲し、それを網ごと厨に持ち帰った。


「なんと! アスタ殿まで生きた魚を使うのかい!?」


「ええ。俺は島国の生まれですから、魚の扱いにはなれています」


 ヴァルカスは、目をすがめて俺の挙動を身守っていた。

 俺は柄付き網をアイ=ファに託し、腰から三徳包丁を引き抜く。

 これだけは、荷車に置いていく気になれなかったのだ。


(ひさしぶりに借りるよ、親父)


 ディアルから肉切り刀を購入して以来、俺はなるべくこの包丁の使用を控えていた。

 しかし、使いなれない調理刀でぶっつけ本番にのぞむ気にはなれない。

 朴の白鞘から三徳包丁を抜き、そいつをまな板に置いてから、俺は柄付き網を受け取った。


 ヴァルカスと同じように、まずは魚に塩をもみこんでぬめりを洗い落とす。

 そうして鉄串を頭に打ち込み、まな板に固定してから腹を裂く。

 魚を三枚におろすぐらい、半年ていどのブランクがあっても何の支障もなかった。


「ふーむ、手馴れたものだねえ! 渡来の民の本領発揮ということか」


 ポルアースの感心しきった声を背中で聞きながら、俺は切り身に塩とピコの葉をまぶしていく。町では有料のピコの葉も、もちろんこの食料庫にはきっちり備えてあったのだ。


 ちなみに切り身から皮は剥がしていない。

 それに、イワナやニジマスと同じように鱗は小さいようなので、そちらの処理も必要ないようだった。


 そうして下味をつけている間に、トゥール=ディンの準備してくれたかまどでキミュスの卵をふたつだけ茹であげる。

 残りのひとつは生のまま、レテンの油とママリアの酢を使ってマヨネーズの作製だ。

 茹でた卵は切り刻み、少量のアリアとマヨネーズを加えて、タルタルソースに仕立てあげる。


「ほうほう。そいつも僕の知らない料理であるようだねえ」


 ポルアースの声はうきうきと弾んでいた。

 その無邪気な様子が、俺の心をずいぶんと励ましてくれている。


 ポルアースにしてみれば、面倒なことを言いだしたヴァルカスを黙らせてほしい、という思いが一番にあるのだろう。

 だけどそれとは別の話で、純粋に俺の料理を楽しみにしてくれている。その心情を疑う気にはなれなかった。


(今さらながら、変わったお人だよな)


 そんなことを考えながら、今度は片手鍋を熱していく。

 熱が通ったら、下味をつけた切り身にフワノ粉をまぶし、乳脂で両面を焼きあげる。


 川魚のムニエルである。

 熱された乳脂と魚の焼ける香りが実に芳しい。

 焼けた切り身を皿に移し、包丁で切り分けてからタルタルソースを掛ければ完成だ。


「お待ちどお様でした。俺の故郷の、ムニエルという料理です」


「ふむふむ。乳脂の香りがたまらないねえ」


 またポルアースが一番乗りで手をのばしてくる。


「おお、これは――! っと、危ない危ない。さ、ヴァルカス殿も味を確かめてみるといい」


 感情のない顔つきで、ヴァルカスはフォークを取り上げた。

 その口に料理が運ばれるのを待ってから、レイナ=ルウらも木匙を取り上げる。

 今回は、アイ=ファも最初から木匙を手にしていた。

 俺は最後に、自分の舌でも味を確かめる。


 悪くない仕上がりであった。

 フワノ粉のおかげで表面はパリッと焼けており、内側の肉はしっとりとやわらかい。もともとおかしな臭みは持たない川魚なのだろう。バターのような乳脂の風味と、タルタルソースの味も阻害されることなく、すっきりと馴染んでいる。


 あともう少しだけ下味をつけるのに時間をかけるか、あるいはいっそタウ油ベースのウスターソースめいたものを一緒に使ってもよかったかな、と思えるぐらいで、ぶっつけ本番としては十分な出来栄えだと思う。


「アスタ殿は、セルヴァの川魚を扱うのは初めてなのだよね? それなのに、どうしてここまで美味なる料理を作ることができるのかなあ?」


「この魚も、俺の故郷には似た感じのやつがいたのですよ。あの生け簀で隔離されていた図太い魚なんかだったら、たぶんどう扱っていいかもわからないと思います」


「感服した! こいつも文句なく美味なる料理だよ。……欲を言うなら、香草をまったく使っていないのがジェノスの流儀からは外れてしまっているかな」


「そうですか。ミャームーとタウ油の味付けにするべきか迷ったのですけどね。こっちのほうが手が込んでいるから城下町の皆さんの口に合うかなと考えてしまったんです」


「ミャームーとタウ油か! そいつも美味そうだ! でも、この料理だって文句なしの美味さだよ! 以前にいただいたキミュスの揚げ物料理にも劣らぬ味わいだった」


 とろけるような笑顔でそのように評しつつ、ポルアースがヴァルカスを振り返る。


「どうかな? これがアスタ殿の腕前なのだよ! 多少ジェノスの流儀から外れてはいても、それを帳消しにできるぐらいの不思議な味わいがある。僕はこの料理を晩餐会で供されても、まったく文句を言う気持ちにはなれないねえ」


 ヴァルカスが、ゆらりと俺に近づいてきた。

 その目はすがめられたままで、射るように俺を見つめている。


「……これが渡来の民の作法ということですか」


「はい。故郷で学んだ、俺の国の料理です」


「シムやジャガルや、それに王都アルグラッドにだって、不可思議な料理を作る料理人はたくさんいます。しかし、わたしはそれらの料理人に自分が劣っているなどとは、ついぞ感じたこともありません」


「はい」


「もちろんあなたにだって、自分が劣っているとは思いません。火加減にも味付けにも、まだまだ改良の余地は残されているでしょう」


「はい、その通りだと思います。ただ、俺がどういう料理人なのかということは十分に伝えられたんじゃないかと思っています」


「ええ、はっきり理解することができました」


 ヴァルカスは、さらに接近してきた。

 無表情で不気味だが、アイ=ファが動かないということは、きっと悪意を発散させたりはしていないのだろう。


 と――そんなことを考えていたら、いきなり両手の指先をわしづかみにされてしまった。


「撤回いたします」


「は、はい? 何でしょう?」


「これまでに述べてきた数々の言葉を、すべて撤回させていただきます」


 緑色の目が、くいいるように俺を見ている。

 女性のように優美な指先でありながら、俺の手に伝わってくるのは革のようにざらざらとした感触である。

 長年の水仕事で皮膚の固くなった、職人の手だ。


「渡来の民の技術というものを、わたしはすっかり見誤っていました。あなたにはどのような食材でも好きに使う権利があります。そして、あなたと同じ日に厨をあずかることのできるこの身を光栄に思います、アスタ殿」


「そ、それはありがとうございます」


「……このような気持ちを抱くことになったのは、ひょっとしたら5年ぶりかもしれません」


 表情のない細面が、さらにぐぐっと接近してくる。


「あなたはわたしと作法が異なる。それにきっと、目指している場所も違っている。それなのに――いや、それゆえに、わたしは心が騒いでなりません。わたしにこのような気持ちを抱かせた人間は、これまでたったひとりしか存在しませんでした」


「そ、それはもしかしたら、ミケルという料理人のことですか?」


 ヴァルカスの目が、ジザ=ルウみたいに極限まで細められる。


「アスタ殿、あなたはまさか――」


「いえ、俺の師匠は父親です。ミケルともご縁はありましたが、料理の手ほどきを受けたことはありません」


「そうですか。ミケル殿は、わたしにとって唯一にして最大の好敵手でありました。その見果てぬ好敵手を手もとに取り戻した気分です」


「ヴァルカスとやら、害意がなくともそろそろ私の家人から身を離してはもらえぬだろうか?」


 と、ついにアイ=ファが警告の声をあげてくれた。

 最後にぎゅうっと俺の手を握りしめてから、名残惜しそうにヴァルカスは引き下がっていく。


「失礼いたしました。あまりのことに、つい平常心を失ってしまったようです」


 俺はほっと安堵の息をつきつつ、あらためてヴァルカスと向かい合った。


「俺もあなたと同じ日に厨をあずかることができて光栄です、ヴァルカス。よかったら、歓迎会の当日は多めに料理を作って、おたがいの料理を味見してみませんか?」


「願ってもないことです。あなたと出会えた今日という日を、わたしは生涯忘れぬことでしょう」


 そのように言ってから、ふいにヴァルカスは口もとをほころばせた。

 そうすると、もとは端正な顔立ちなので、いきなり優しげな雰囲気になってしまう。


「……ですが、あなたはまだお若い。今の段階ではあなたにわたしより上等な料理をこしらえることは不可能でしょうね、アスタ殿」


 そうしてヴァルカスは、別人のように優しげな顔になりながらそのように宣言してのけたのだった。

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