プロローグ ~母と父と~
2020.2/1 ・章分けの再編集にともない、第31部分から第28部分に文章を移しました。内容に変更はありません。
ひさしぶりに、夢を見た。
しかし、俺は眠りが深いほうなので、夢を見たって片っ端から忘れてしまうタチなのだ。
だからその夢も、目を覚ますと同時に忘れてしまっていた。
そういえばそんな夢も見たような気がするなあと思い至ったのは、すべてに決着がついた後のことだった。
◇
夢の中で、俺は小学生に入ったばかりぐらいの小さな子どもだった。
親父はビールを飲みながら、テレビでひいきの野球チームを応援している。
母親は、台所に立ってタマネギか何かを刻んでいる。
まるで昭和のホームドラマみたいに、ありふれた情景だ。
母親が急な病で亡くなったのは、俺が7歳、小学2年生の頃であったから、現実と比しても齟齬はない。だから、実際にあった出来事を核にした夢なのだろうと思う。
あんまり野球に興味のなかった俺は、コマーシャルの隙をついて、親父に語りかけた。
「ねえ。どうしてお父さんのほうが上手に料理できるのに、お母さんが晩ごはんを作ってるの?」
俺の家は大衆食堂をやっていたが、その日は週にいっぺんの定休日だったのだろう。そうでもなければ、夕餉の時間に家族全員がそろうことはありえない。
「馬鹿、お前――」と、親父は慌てた様子で顔を寄せてくる。
「いきなり何てこと言うんだよ? 母さんに聞こえたらどうするつもりだ?」
「だからちっちゃな声で喋ってるんじゃん。……ねえ、どうして?」
「お前なあ。……お前は母さんの料理が嫌いなのかよ、明日太?」
「ううん。大好き」と、ぷるぷる首を振る俺、6歳。
我ながら、何とも可愛らしい子どもだったと思う。
「でも、お父さんの料理はもっと好き。お父さんのが、一番おいしいもん」
今だったら、絶対に言わないような台詞である。
そして、言うべき相手も失ってしまった。
「そりゃあまあ……俺はプロの料理人で……美味い料理を作るのが仕事だけどよ……」
と、複雑な顔つきで悩む親父、たぶん三十路の半ばあたり。
おそらく俺の返答次第では鉄拳制裁すら辞さない気持ちでいたのだろうが、こんな発言をする6歳児を殴れるはずがない。ざまあ見やがれ。
「だいたい、お前は毎日まかないで俺の飯を食ってるだろうが? 週にいっぺんぐらい母さんの手料理を食べたいとか思わないのか?」
「食べたくないなんて言ってないじゃん。ただ、不思議だなあって思っただけだよ」
テレビ画面では、とっくに試合が再開されていた。
しかし親父は俺のほうを向いたまま、「うーむ」と腕を組んでしまっている。
「だけどやっぱり、そいつは考え違いってもんだ。家では母さんが料理を作るべきなんだよ」
「なんで?」
「なんでって……それは、俺が料理人だからだよ」
真面目くさった顔つきで、親父はそう言った。
「料理人は、お客に料理を作るのが仕事だ。家で家族に料理を作るのは、料理人じゃなく母さんの仕事なんだよ」
「ふーん……?」
わずか6歳であった俺に、そんな言葉がきちんと理解できたわけもない。
ただ、こんな風に夢にまで見てしまったということは、何かしら印象的な言葉ではあったのだろう。
その1年後に母は亡くなり、もっとずっと母さんの手料理を食べていたかったと、俺は泣いた。