城下町へ①~未知なる食材~
2015.12/28 更新分 1/1
・今回は7回分の更新です。
黒の月の27日。
宿場町での商売を終えた俺たちは、約束通りに城下町へと向かうことになった。
目的は、トゥラン伯爵邸の食料庫にあふれかえっているという未知なる食材を吟味するためである。
あまり大勢で押しかけるのも何だったので、同行するメンバーは、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、トゥール=ディン、そして護衛のために町まで下りてきたアイ=ファの4名のみであった。
城門で自分たちの荷車を預けたのち、ポルアースと合流して箱型の車に乗り換える。もちろん通行証は案内役たるポルアースが準備してくれていた。
「よし、それでは出発しよう」
ポルアースの号令とともに、トトス車はしずしずと動き始めた。
ひとり緊張の面持ちをしているトゥール=ディンに、俺は「大丈夫かい?」と呼びかけてみる。
「はい、大丈夫です。……でも、まさか自分が貴族とともに城下町へと足を踏み入れることになるなんて、まったく想像することもできませんでした」
同乗しているポルアースの耳をはばかってだろう、トゥール=ディンは小声でぼしょぼしょと言葉を返してきた。
前回の来訪時にはレイナ=ルウがほぼ同じことを言っていたなあと、俺は懐かしく思いながらうなずき返してみせる。
「そうだろうね。森辺の民だったら、誰でも最初はそんな風に思うはずさ。……でも、俺の独断でトゥール=ディンにも手伝いをお願いしちゃったけど迷惑ではなかったかな?」
「迷惑だなんて……あれだけ大勢いる女衆の中からわたしのようなものを選んでくれたのですから、こんな光栄なことはありません。わたしは誇らしい気持ちで胸がいっぱいです」
そう言って、トゥール=ディンは幸福そうに微笑んでくれた。
俺たちは、来月の藍の月にバナームからやってくる使節団のために、歓迎の料理を準備する仕事を引き受けることになった。だから俺は、その手伝いを頼むことが確定しているこの3名に今日も同行を願ったのだった。
これから訪れるサイクレウス秘蔵の食料庫に、即戦力となりうるような食材は存在するのか。ポルアースに強引に押し切られて来訪を承諾したようなものであるが、まあなかなか好奇心をかきたてられる展開ではあろう。
「歓迎会に参加する人数は、おそらく2、30名ていどで収まると思うよ。もちろん僕もダレイム家の代表として参加させていただくからね!」
と、本日もご機嫌のポルアースが向かいの席から声を投げかけてきた。
「本来であればもっと大がかりな祝宴を執り行う必要があるのだけれども、どうせ使節団の皆様がたも10日や半月はジェノスに逗留されるのだから、それはまた追々に、ということになったんだ。城をあげての宴となってしまうと、100人やら200人やらの人数になってしまうからさ。それではあまりにアスタ殿の負担が大きくなってしまうしねえ」
「そうですね。6種類の料理を100人分というのは、それだけでかなり大変そうです」
「いやいや、その人数の宴であれば、さすがに一品ずつを順番に、などという食べ方はしないけどね。その代わりに、気軽につまめる副菜をふくめてさらにたくさんの種類の料理が必要になってしまうけどさ」
それでもきっと、森辺の宴とはまったく異なる様相になるのだろう。
同胞たちが、笑顔でギバの料理を食べている。昨晩のルティム家における宴の情景が、俺の脳裏にはまだくっきりと残されていた。
「まあ何にせよ、歓迎会の当日が楽しみだ! それに本日の下調べもね。どれほど期待を高めても、アスタ殿が失望するようなことにはならないと思うよ?」
「はい。楽しみにしています」
そうして30分ばかりも揺られていると、やがてトトスの車は停止した。
トゥラン伯爵邸に到着したのだ。
「うわー、やっぱりいつ見ても大きいね!」
真っ先に車から飛び降りたリミ=ルウが、巨大な煉瓦造りの屋敷を見上げながら言う。
リミ=ルウとレイナ=ルウにとっては2度目の、俺とアイ=ファにとっては4度目の来訪であった。
1度目は、虜囚とそれを救う救世主として。
2度目は、サイクレウスと対決する森辺の民の代表として。
3度目は、本日と同じくかまど番と護衛役として。
そろそろ俺とアイ=ファも苦い記憶は払拭して、フラットな気持ちでこの屋敷に足を踏み込むべき頃合いなのだろうな、と俺は内心でひそかに考えていた。
「ようこそ、トゥラン伯爵邸に……トルスト様がお待ちしております……」
両開きの扉をくぐると、本日もシフォン=チェルが俺たちを出迎えてくれた。
蜂蜜色の巻き毛と紫色の瞳、それに抜けるような白い肌を持つ、北の王国マヒュドラの民たる女性である。
「君はたしかリフレイア姫の従者として正式に屋敷に留まることになったのだよね? その君が相変わらず客人の案内役をおおせつかっているのかな?」
絨毯敷きの回廊を歩きながらポルアースが問いかけると、シフォン=チェルは「はい……」と微笑した。
「トルスト様は、あまり多くの従者を招きいれてはおりませんので……もっとも古参の人間であるわたくしが案内役をおおせつかっております……」
「ふむ。トルスト殿は倹約家であられるようだからね。そこを買われてリフレイア姫の後見役を任じられることになったのだろう」
べつだん皮肉めいた感じでもなく、ポルアースはそう言った。
お行儀のよい笑顔をそちらに返しつつ、シフォン=チェルはちらりと俺を見る。
「おひさしぶりです」とその目が語っていた。
だから俺も、無言の笑顔で会釈を返してみせた。
やがて回廊の突き当たりで、シフォン=チェルは足を止める。
2名の兵士に守られたその執務室に、トルストはいた。
「ああ、ポルアース殿、よくぞいらした。……それに森辺の皆様がたも」
パグ犬のごとき、くしゅっとした顔をした小柄で初老の男性である。
良くも悪くも貴族らしい威厳はなく、それにいつでもくたびれた表情をしている。なんとなく、以前に顔を合わせたときよりもその傾向が強くなっているように見受けられた。
だだっ広いが装飾性に乏しいその執務室も、そんな彼にはぴったりと似合っているように感じられる。黒くて大きな木造りの卓には、俺がこの世界で初めて見る羊皮紙みたいな書類の束がどっさり積まれていた。
「厨も食料庫も好きにご覧になってくだされ。兵士らの手配はすでに済ませておりますでな。……それと、アスタ殿」
「はい、何でしょう?」
「貴殿とヤン殿の尽力の甲斐あって、食料庫からあふれかえった食材もいくばくかは銅貨に換えることがかないました。悪しき因縁のあるトゥラン伯爵家のために力を添えてくださったこと、このトルストは決して忘れぬでしょう」
溜息で構成されているかのような声音でトルストはそう言った。
「本日ご覧になる食料庫のほうでも宿場町で受け入れられるような食材が存在しないものか、しかと吟味をお願いいたします。わたしはもう、食材の山を眺めているだけで頭痛が止まらないほどなのです」
さして交流があるわけでもない俺にそんな弱音を吐くほどに、トルストは参ってしまっているようであった。
サイクレウスが失脚してしまったために、山のような食材の使い道がなくなってしまった。そして、それを維持するだけの財政も破綻しつつある。こんなトゥラン伯爵家を立て直すために、彼は日々尽力しているのである。
もともとはサイクレウスに排斥されていた不遇の身でありながら、家の窮地にはこうして身を粉にして働いている。このトルストという人物は、ポルアースと並んで傲慢な貴族像をくつがえしてくれるような存在なのかもしれなかった。
「それとですな、これは無理に聞き入れていただく必要はないのですが」
「ええ、何でしょうか?」
「ご当主が、アスタ殿に面会したいと申し出ておられるのです。お嫌でなければ、よろしくお願いいたします」
俺はポルアースを振り返った。
ポルアースは、丸っこい肩をひとつすくめる。
「トルスト殿のお許しがあれば、誰でもリフレイア姫に会うことはできるのだよ。もちろん兵士の監視つきだけれどね」
「そうですか」
もしかしたら、もう一生顔を合わせる機会はないのではないかとすら思っていたリフレイアである。
彼女が望むなら、俺のほうに異存はなかった。
「それじゃあ厨に向かう前に挨拶をしておこうか。トルスト殿はまだ執務の最中であられるのかな?」
「はい。きっとわたしの生命が尽きるまで仕事が終わることはないのでしょう」
悲愴感たっぷりのトルストをその場に残し、俺たちは執務室を出た。
「当初はジェノス城から派遣された財務官や外務官などと10人がかりで前当主の後始末に忙殺されていたらしいよ。それに比べればずいぶん落ち着いたのだろうけれども、まあ気の毒としか言いようがないよねえ」
「そんなに大変な騒ぎだったのですね。貴族の執務というのがどういうものなのか、自分には見当もつかないのですが」
「執務といっても、けっきょくすべては食材がらみの話ばかりさ。サイクレウスは呆れるほど手広く商売の手を広げていたし、しかもそいつを自分ひとりで処理していたものだから、こうして当人がいなくなると収拾がつかなくなってしまうらしい。……ま、サイクレウスはそれだけ他者を信用していなかったし、また、その仕事をひとりでこなせるような能力も持ち合わせていた、ということなのだろうねえ」
それだけの能力があったから、サイクレウスはマルスタインにも重宝され――そして、身に余る野心をも抱くことになってしまったのだろうか。
「何でもね、城下町の名高い料理店では、いったんサイクレウスのもとを経由してから食材が割り振られていたらしいよ。サイクレウスに縁がなければ独自で割高の食材を仕入れないといけなくなるから、どの店も必死になってサイクレウスとの縁を繋ごうとしていたわけさ。まあそういう料理店にはこれまで通りに食材を流しつつ、これまで冷遇されていた店や人々にも食材がいき渡るように手配されたんだけど、驚くべきことに、それでも有り余る食材がこのトゥラン伯爵邸には取り残されてしまったのだよね」
「それはものすごい話ですよね。要するに、サイクレウスひとりのためにそれだけの食材が確保されていた、ということなのでしょう?」
「うん。美味なる料理を作りあげるという目的のために、おびただしい量の食材が湯水のごとく使われていたわけさ。おまけにサイクレウスは偏執的なまでの独占欲を持っていたから、食材を溜め込むだけ溜め込んで腐らせていた、という面も大いにあったらしい」
てくてくと歩きながら、ポルアースはそう言った。
「だから、そういう無駄を許さずに、ありあまる食材もきちんと銅貨に換えることができれば、みんなが幸福になれるということだね。食材だって、使われずに捨てられるよりも美味しい料理として人間の胃袋に収まったほうが幸福だろうしねえ」
「本当ですね。それには心から同意します」
「だから、美味しい料理を期待しているよ、アスタ殿? 歓迎会ばかりでなく、宿場町でもそれらの食材を使ってくれれば、トルスト殿の心労もずいぶん軽くなることだろう」
そんなことを話している間に、俺たちは屋敷の2階に導かれていた。
ここにも2名の兵士が立っている。案内役のシフォン=チェルがポルアースの来訪を伝えると、その内のひとりがうなずいて扉をノックした。
「リフレイア様、お客人が到着いたしました」
扉が内側から開かれる。
そこに立っていたのは――簡素だが質のよさそうな薄黄色の長衣を纏った、黒き肌の若者であった。
「ようこそいらっしゃいました。アスタ、願いを聞き入れていただき、嬉しく思っています」
「サンジュラ……どうも、おひさしぶりです」
実に複雑な心境で、俺は軽く頭を下げてみせる。
サンジュラは、以前の通りに穏やかに微笑んでいた。
栗色の長い髪と、切れ長の瞳、すらりとした長身痩躯を持つ、東の王国との混血の若者である。
シュミラルもそうであったが、長マントを纏っていないとずいぶん印象が異なって見える。しかもサンジュラが纏っているのは、シムのエスニックな装束ではなく、西の王国の装いだ。
その腰に短剣が下げられているのを見て、アイ=ファがさりげなく俺の横まで進み出てくる。
サンジュラは、微笑みながら室内のほうに腕を差しのべた。
「リフレイア、お待ちしています。どうぞ、お入りください」
扉の向こうは控えの間であったので、そこにレイナ=ルウたちを残し、俺とアイ=ファとポルアースと、それに兵士のひとりだけがさらに奥へと踏み込んだ。
「ああ、おひさしぶりね、アスタ。元気そうで何よりだわ」
部屋の中央に立ったリフレイアが、気取った仕草でスカートの裾をつまむ。
純白でフリルのついた、ドレスのごとき装束である。
まあ貴族の姫君にとっては、部屋着でもこれぐらい華美なのが当たり前なのだろう。それでも飾り物はそれほどつけていないので、以前ほど豪奢な印象はない。
「別にとりたてて用事があったわけではないのだけれどね。こんな機会でもないと顔を合わせることはないだろうから挨拶させてもらおうと思ったのよ」
リフレイアも、俺の記憶にある通りのリフレイアであった。
普通に喋っているだけでこまっしゃくれた感じのする、小さくて綺麗な女の子だ。みずから切り落とした栗色の髪も2ヶ月分だけ長くなり、ちょっとは身長ものびたかもしれない。彼女はまだ10歳かそこらの幼き少女であるのだ。
「ひさしぶりだね。そちらも元気そうで何よりだ」
今やトゥラン伯爵家の当主となりおおせたリフレイアであるが、堅苦しい言葉遣いは以前にたしなめられた記憶があるので、俺はそのように答えてみせた。
そして俺は、思いの外に安堵してしまっている。
リフレイアが、元の通りのリフレイアであったからだ。
晩餐会で見せていた、あの人形のような無表情――あんな姿で迎えられることになっていたら、俺はきっと居たたまれない気持ちになっていたと思う。
「あなたはまた晩餐会の厨番を申しつけられたそうね。まあ、あなたほどの腕前を持っていれば当然のことかもしれないけれど」
「うん。君もその晩餐会には参席するのかな?」
「ええ。バナームと通商を結ぶのにはトゥランのフワノとママリアが欠かせないのだから、当主のわたしが引っ張り出されるのが当然じゃない? ……まあ、あなたの料理が食べられるのなら、わたしにだって文句はないわ」
言いながら、リフレイアはつんと顎をそびやかした。
「ところで、あなたにひとつだけ忠告しておきたいのだけれど、聞き入れてもらえるかしら?」
「忠告? いったい何だろう?」
「別に大した話ではないわ。もしかしたら、あなたにとっては大きなお世話としか言いようのない話なのかもしれないし。……ただ今回はね、少しは貴族らしい料理を準備したほうがバナームの者たちには喜ばれる。それを伝えておきたかったの」
「貴族らしい料理? ……もうちょっと詳しく聞かせてもらえるかな?」
「詳しくも何も、その通りの意味でしかないわよ。前回のあなたの料理はティマロに負けないぐらい美味であったけど、あんまり貴族に相応しい料理だとは思えなかった。そういう意味では、内心で辟易していた人間もいたのじゃないかしら?」
俺はポルアースを振り返った。
「ふむ」とポルアースは肉づきのいい下顎を撫でている。
「それは確かに、アスタ殿は森辺や故郷の作法で料理を作るしかすべがないのだから、貴族らしい献立など望むほうが間違っている。それに前回は、城下町と森辺の食事をおたがいに味わって親睦を深めるというのが主旨であったからね。そういう意味で、アスタ殿の準備した料理は完全に正しかったと思うよ?」
「そう。だけど今回はバナームの使節団を迎える歓迎会なのでしょう? そこでも粗にして野なる森辺の食事を出すのが正しい道なのかしら?」
「どうだろうね。もちろんどこからも文句は出ないだろうけども……うん、だけど、バナームの人々にアスタ殿の腕前を見せつけたいと願うウェルハイド殿の意向には、多少ながらそぐわない面はあるかもしれないね」
なんとなく意味がわかってきた。
あの夜の晩餐会では、もともとギバ料理などに大きな期待はかけられていなかったから、俺に対する評価も甘かったのだ。
それにあれは森辺とジェノスの支配層との和解の場であったから、どんな料理を出されても褒めたたえるべし、という意識が貴族側にはあったに違いない。
しかし今回の使節団は、中立的な立場のお客人である。
いや、むしろウェルハイドからの評判を聞いて、いったいどれほどの料理が出てくるのかと期待している面のほうが強いかもしれない。
「あの晩餐会で、ジェノス侯は味比べをしてもティマロと互角なぐらいだったとか言っていたけど、あなたはそれを額面通りに受け取っているのかしら、アスタ?」
「いや。おためごかしとまではいかないけれど、きっと森辺の民の顔を立ててくれたんだろうなとは思っているよ」
「殊勝な心がけね。ちょっとは残念がる顔が見たかったのに」
人の悪いことを言いながら、リフレイアはほっそりとした肩をすくめる。
「でもまあ、あなたの料理はどれも美味だった。一品ずつの味比べだったら、たぶんわたしはすべての料理であなたに勝ち星をつけていたと思うわ。迷うとしたら、あまりに簡素でありすぎた前菜ぐらいのものかしら」
「それはありがとう。光栄だよ」
「だけどね、6種類の料理の完成度としては、どこかちぐはぐだったと思う。ティマロの料理と順番に食べていたからあまり気にはならなかったけど、アスタの料理だけを立て続けに食べていたら、そのちぐはぐさがもっと不満に思えたかもしれないわ」
「ご明察だね。俺の故郷でも森辺でも、一品ずつ料理を食べていくってのはあんまり主流でない作法なんだよ」
俺は納得し、そして笑うことができた。
「思いがけない忠告をありがとう。俺では貴族に相応しい料理なんてものを作ることはできないかもしれないけれど、今度の晩餐会ではもう少し統一感のある献立を考案してみようかと思うよ」
「そう。わたしは別にバナームの連中がどう思おうとどうでもいいから、あなたの好きなものを作ればいいと思うけれどね」
そのように言ってから、リフレイアは少し奇妙な顔つきをした。
何かを不安がっているような、あるいは咽喉に小骨でも刺さってしまったかのような表情だ。
「ただ……その日はヴァルカスも料理を出すのでしょう? あまり城下町の流儀から外れすぎた料理を出してしまうと、あの偏屈者が歓迎会を無茶苦茶にしてしまうのじゃないかしら」
「へえ? ヴァルカス殿は温和で礼儀正しい人物であったと記憶しているのだけれどもねえ」
興味深そうにポルアースが言うと、リフレイアはまた肩をすくめた。
「料理が関わる場では人が変わってしまうのよ。あの男も今日はこの屋敷に出向いてきているのではないの?」
「うん。アスタ殿と顔合わせをしてもらおうと思い、呼びつけておりますよ」
「だったらその目で確認してみるといいわ。それでアスタが歓迎会で料理を作る気持ちを失ってしまわなければよいけれど」
リフレイアが、じっと俺を見つめてくる。
俺はもう一度、そちらに笑いかけてみせた。
「これはジェノス侯爵と森辺の族長たちの間で取り交わされた約束だからね。俺の一存で取りやめることはできないんだよ」
「ふうん。だったらあの偏屈者に何を言われても気にしないことね。まだ一緒にこの屋敷の厨を預かっていたころ、ティマロなんかは毎日げんなりさせられていたんだから」
もしかしたら、ヴァルカスという人物はミケルのような職人気質の頑固者なのだろうか。
それはそれで、対面が楽しみなところである。
「それじゃあそろそろ厨に向かおうか。アスタ殿たちは日が落ちる前に森辺に帰らなくてはならないのだからね」
ポルアースが一礼して、部屋を出ていく。
リフレイアは「あ」と俺を呼び止めたいかのような声をあげかけた。
しかし、そのままぷいっとそっぽを向いてしまう。
「何でもないわ。それじゃあね、アスタ」
「うん。また歓迎会で」
けっきょく俺もリフレイアも、サイクレウスについて言及することはなかった。
だけどそれは、しかたのないことだっただろう。
そのようなことをあけすけに語り合えるほど、俺たちは強い縁を結んでいたわけではなかったし――そこまで大人でも、そこまで人間ができているわけでもなかったのだから。
「アスタ、本当にありがとうございました。リフレイア、アスタに会えて、とても喜んでいると思います」
だから俺はサンジュラのそんな言葉にも、うまい返事をすることはできなかった。
「さあ、それでは厨と食料庫だ! アスタ殿、またのちほどね!」
「え? ポルアースはどこかに行ってしまわれるのですか?」
「うん? 厨に入る前には身を清めなければならないだろう? 今日は僕も厨に踏み入らせていただくからね!」
そういえば、そんな儀式も待ちかまえていたのだった。
そして、貴族には貴族専用の浴堂というものが存在するらしい。どこからともなく出現した小姓とともにポルアースは立ち去っていき、俺たちは前回もお世話になった浴堂へと導かれることになった。
「わーい、ひさびさだね! このよくどーってやつ、リミはけっこう楽しみにしてたんだー」
「…………」
とても不本意そうな顔になりながら、リミ=ルウに引きずられていくアイ=ファである。
女衆の後には俺も身を清め、上気した顔のポルアースと合流し、今度こそ真なる目的地へと向かう。
トゥラン伯爵邸の誇る、貴族のための厨および食料庫だ。
「壁と天井のある通路で繋がっているからわかりにくいけれど、厨と食料庫は屋敷の裏手に個別で建てられているんだ。その敷地の規模は、ジェノス城の厨や食料庫にも劣らないほどだろうねえ」
そんなポルアースの解説を聞きながら、扉の前に立つ。
玄関口と大差のない、両開きの巨大な扉だ。
そこに控えていた兵士たちが、一礼をして扉を開く。
「うわあ、おっきいね!」
はしゃいだ声をあげたのは、もちろんリミ=ルウだ。
レイナ=ルウは瞳を輝かせ、トゥール=ディンなどはぽかんとしてしまっている。
巨大な厨である。
設備の質そのものは、以前に拝借した使用人のための厨と大きな違いはない。ただ、その大きさだけがとてつもなかった。
作業台などは、いったいいくつ備えられているのだろう。軽く2ケタはくだらない。片方の壁際には煉瓦造りのかまどと鉄製のオーブンがずらりと設置され、逆側の壁際には鍋やら器やら調理刀やらの器具がこれまたずらりと戸棚に並べられている。
敷地面積は、学校の教室をふたつぶちぬいたぐらいはありそうであった。
天井が高いので、よけいに広く見えるのかもしれない。
壁も床も煉瓦造りで、換気用の小窓があちこちに空いている。
「すごい設備だろう? かつてはここに10名以上の料理人と何十名もの従者が詰め切りになって、毎日当主のために修練に励んでいたわけだよ」
確かにこれがサイクレウスひとりのために準備された設備だというのなら、馬鹿げた浪費だと称するしかなかった。
「これだけの設備を無駄にするのは惜しいから、いっそこの邸宅は迎賓館に造り変えてしまおうかという話もあがっているんだ」
「え? そうしたらリフレイアやトルストはどうなるのですか?」
「トゥラン家はここの他にもあちこち別邸を持っているから、その内のどこかに移り住むのだろうね。こうも大きな邸宅だと、警護や従者の人手も尋常でなくかかってしまうからさ」
リフレイアは、ついに生まれ育った邸宅からも引き離されることになるのか。
湿っぽくなりそうな気持ちをぐっとこらえて、俺はポルアースに呼びかける。
「それで、食料庫というのはどちらにあるのでしょうか?」
「こっちだよ。いよいよ宝の山とご対面だね!」
ポルアースの先導で、厨の奥へと招かれる。
突き当たりの壁には3つの扉が、そして左右の壁にもひとつずつの扉が設置されていた。
「正面の3つは、右から順に野菜の部屋、調味料の部屋、香草の部屋だ。右手側の扉は貯肉室で、さらに燻製室およびカロンやキミュスの飼育小屋にまで通じているけれど、今は空っぽだから用事がないね」
「へえ。ここでは生きたカロンやキミュスまでもが飼育されていたのですか」
「うん。だけど飼料代が馬鹿にならないから、みんな肉にされて売りさばかれてしまったし、新しいカロンやキミュスを買いつけるのも差し止められた。なおかつ最近の食事はすべて小さいほうの厨で作られているそうだから、貯肉庫も空っぽのはずだ」
言いながら、ポルアースは反対側の扉を指し示す。
まだ説明のなされていない、左手側の扉だ。
「なので、まずはこちらから確認してもらえないかな? 野菜や調味料も興味深いけど、この部屋はとにかく圧巻なんだ。サイクレウスの美食に対する執念の結晶といってもいい。僕などは、ひと目見ただけで度肝を抜かれてしまったぐらいだよ」
「そうなのですか」
生きたカロンやキミュスを上回る食材など、俺には想像もつかなかった。
好奇心に目を輝かせるレイナ=ルウたちとともに、扉の前に立つ。
すると、「私が開けよう」とアイ=ファが進み出てきた。
その手が、慎重に扉を開き――とたんにリミ=ルウが「わっ!」と声をあげた。
「なにこれ! なんか変な臭い!」
アイ=ファも眉をひそめている。
だけど俺は、とある予感に心臓をどきつかせていた。
確かに、異臭だ。
俺にとっても、決して心地好いと思える香りではない。
しかし、知らない臭いではなかった。
「まさかこいつは――」
俺は率先してその部屋に踏み込んだ。
そして言葉を失った。
サイクレウスの執念の結晶が、そこにはありありと残されていたのだ。
室内だというのに、そこには俺の胸の高さぐらいにまで煉瓦の塀が張りめぐらされている。
その塀の中ですいすいと泳いでいるのは、俺がこのジェノスで初めて目にする色とりどりの魚たちだった。