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異世界料理道  作者: EDA
第十五章 巡りゆく日々
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黒の月の二十六日④~宴~

2015.12/14 更新分 1/1 2015.12/29 誤字を修正

・今回の更新は本日分で終了となります。更新再開まで少々お待ちください。

・なお、12/18にホビージャパン様のサイトで書き下ろしの特別短編が掲載されることになりました。詳細は活動報告にてご確認をお願いいたします。

 そうして日は没し、生誕の宴はしめやかに開催される運びとなった。


「我がルティムの長たるダン=ルティムは、今日という日に41の齢を重ねることになった。これだけ長きに渡って家長が健やかなる生を歩むことができたのは、血族たる我々にとってもまたとなき喜びである」


 そのダン=ルティムの子息たるガズラン=ルティムが、かがり火に照らされる同胞たちに朗々たる声で呼びかけている。


「これからも、家長はその大いなる力で我らを導いてくれるだろう。今宵は家長ダン=ルティムが健やかなる1年を過ごせたことを祝い、母なる森にその感謝を示したいと思う。……家長ダン=ルティムに、祝福を」


「祝福を!」の声が唱和され、果実酒の土瓶が掲げられる。

 息子のかたわらでにこにこと笑っていた本日の主役も、もちろん同じように土瓶を振り上げた。


「今日の祝いに駆けつけてくれたルウ、レイ、ミン、マァム、ムファ、リリンの眷族たちにも感謝の言葉を述べさせていただこう! そして本日はルティムとルウの女衆らと、それにルティムの友たるファの家のアスタ、それを手伝うディンの女衆、ルウの客人たるドムのレム=ドムが祝いの料理を準備してくれた! この美味そうな料理を大いに喰らってくれるがいい!」


 ルウの集落ほどではないが、ルティムにも家の前にちょっとした広場がある。さすがに簡易型のかまどを組む時間はなかったので、そのあちこちに布の敷物が敷かれて料理がどっさり並べられていた。


 以前の祝宴ではゴヌモキの葉を皿代わりにしていたが、現在はルウ家が宴のために大量の木皿を準備している。それを借り受けて、まずはシーラ=ルウたちが作りあげたステーキや肉野菜炒め、それに大量の焼きポイタンが供されることになった。

 そして分家のかまどの間から、レイナ=ルウたちの作った照り焼き肉のスープが運ばれてきて、慌ただしく回されていく。


 ガズラン=ルティムらの婚儀の祝宴に比べれば半数ていどの人数であるが、盛況なことに変わりはない。

 宴の開始が宣告されてからわずか数分で、そこにはもう凄まじいまでの賑わいと熱気がたちこめることになった。


「ダン=ルティム、最初の特別献立をお持ちしました」


 明々と燃える儀式の火の前にどっかりと陣取ったダン=ルティムの前に、俺はトゥール=ディンとともに平鍋を運んでいった。


「おお、アスタよ、ご苦労であったな!」


 女衆らの摘んだ色とりどりの花に囲まれたダン=ルティムが、いっそう嬉しそうに破顔する。


「うむ、辛そうな匂いだ! これは何日か前にルウ家で味見をしたあの料理だな?」


「はい。名前は『ギバ・カレー』といいます。だいぶん味も完成されてきたので、まずはこちらをお召し上がりください」


 蓋を開けると、煮込まれたカレーの香りが一気に拡散した。

 いったいどのような料理が運ばれてきたのかと、周囲の者たちもわらわら集まってくる。


「こちらは味が強いので、焼いたポイタンをひたして食べるのが作法となっています」


「ふむふむ。相変わらず腹の減る匂いだな!」


 俺が木皿にすくい取った『ギバ・カレー』に、ダン=ルティムは焼きポイタンをどぼんと突っ込んだ。

 そしてそれを恐れげもなく豪快に噛みちぎる。


「ほう! これはまたずいぶんと様変わりしたではないか! 問題なく美味いと思えるぞ、アスタよ!」


「ありがとうございます。少しは期待に応えられましたか?」


「うむ! いささか奇妙な味だが、美味いことに間違いはない! それに辛いので、よけいに果実酒が進んでしまうな!」


 ガハハと愉快げに笑いながら、ダン=ルティムは周囲の血族らを見回した。


「お前たちも味を見てみるがいい! 匂いは強烈だが、これは美味いぞ!」


 次々と差し出される木皿に、その場に居合わせたルティムの女衆が『ギバ・カレー』を注いでいく。

 みんなの顔が驚きに染まるのを確認してから、俺はかまどの間へと引き返した。


「よし、それじゃあそいつも運んじゃおう」


「はい」


 トゥール=ディンに手を借りて、今まで火にかけていた鉄鍋を外に持ち出す。

 見た目よりは力持ちのトゥール=ディンであるが、その面には若干疲れの色が見える。朝はファの家で宿屋に卸す料理の作製、日中は宿場町で屋台の仕事、昼下がりから現在までは宴の下準備と、普段以上に仕事の詰まった1日であったのだ。


「ごめんね。これと最後のもう一品を運んだら、トゥール=ディンも宴を楽しんでおくれよ」


「いえ。わたしはあくまでかまど番の手伝いですから。……それに、見知った人間も少ないので、アスタのそばを離れてしまうと何をどうしていいかもわかりません」


 そういえば、トゥール=ディンの見知っている屋台のメンバーは、みんなそれぞれ配膳の仕事に勤しんでいるのだ。

 人々の間を慎重にすりぬけながら、俺はトゥール=ディンに笑いかける。


「それじゃあ仕事の後は一緒に宴を楽しもう。俺もルティムでは本家の人たちしか知り合いがいないから、少々身の置きどころに困っていたんだよ」


「はい」とトゥール=ディンはほっとしたように微笑む。

 夕暮れ時にやってきたアイ=ファは、おそらくかまど番の仕事から解放されたレム=ドムあたりとどこかで宴を楽しんでいるはずだ。そちらと合流すれば、トゥール=ディンが心細くなることもないだろう。


 そうしてダン=ルティムのもとに辿り着くと、そこには俺の見知った少年たちがいた。

 ルド=ルウとラウ=レイである。


「やあ、ふたりも来てたんだね」


「おお、ひさかたぶりだな、アスタよ! この黄色くて辛い料理もなかなか美味かったぞ! そっちの料理も美味そうな匂いがしているな!」


 ルド=ルウは先日に会ったばかりであったが、ラウ=レイのほうはちょっとひさびさであった。

 しかし、そちらも変わりはないようだ。中性的だが勇ましい細面に屈託のない笑みを浮かべている。


「お気に召すかな? これは『ギバ・カレー』以上にお試しの料理なんだよね」


 すでに『ギバ・カレー』の鍋は空になっていたので、俺は新たなる鍋をダン=ルティムの前に置いた。


「ダン=ルティム、これがさきほどお話しした料理です」


「おお、ギバの脳に目玉だな!? まったくとんでもない料理を用意してくれたものだ!」


 ダン=ルティムの目は好奇心で爛々と光っていた。


「どこに目玉や脳が沈んでおるのだ? タラパの色でさっぱりわからん!」


「こちらで木皿に取り分けます。お気に召すといいんですが」


 煮汁は、タラパを主体にしていた。

 ミャームーとピコの葉、それにシムの香草もたっぷり使っているので、臭みのほうは問題ないはずだ。

 そして、肝心の脳と目玉も、俺は若干の手を加えていた。

 ただ煮込むのではなく、事前に頭骨ごと表面を火で炙ってから鍋に投じたのだ。


 脳も目玉も、とにかく食感が独特に過ぎるのである。ゆえに、表面を焼いて多少の噛み応えを確保してから、鍋で煮込んで熱を通したのだ。

 とりあえずは、これがここ数日間の俺の成果であった。


「ええと、どこに行っちゃったかな?」


 頭骨は出汁をとった後に廃棄してしまったので、目玉と脳はくりぬいて鍋に投じていた。

 それをタラパのスープの中から探しあてて、目玉はそのまま、脳は4分の1ていどに切り分けて木皿によそう。


「どうぞ。美味ではなく珍味と称される部位ですが」


「珍味か! まあ食べてみないことには文句も言えん!」


 笑いながら、やはり恐れげもなく、まずは脳のほうを口に運ぶ。

 それをくにくにと噛みながら、「ふむ」とダン=ルティムは目を丸くした。


「確かにこれは奇妙な味わいだ。まあ内臓の料理と似たようなものか」


「どれどれ」とラウ=レイおよびルド=ルウも手をのばす。

 そちらも似たような反応であった。


「ああ、悪くはないな。……というか、煮汁のほうは格段に美味いぞ!」


「ああ、美味いなこりゃ。脳とかいうのは、妙にねっとりしてるけどよ」


 それでは、目玉のほうはいかがであろうか。

 2頭分のギバで4つの目玉しか準備できなかったが、その内の3つはこの好奇心旺盛な人々の口に投じられることになった。


「うーむ、ほめるほど美味くはないが、まあ普通か」


「そうだなー。普通の肉より美味いことはねーな」


「悪くはない! というか、やっぱり煮汁が美味い!」


 現時点では、これぐらいの評価が限界であるようだった。

 まあ、不味いとは言われなかったのでよしとしておこうと思う。


 そこに、大きな木皿を手にしたモルン=ルティムが近づいてきた。


「アスタ、こちらも焼きあがりました。……ダン父さん、これがギバの舌なんだってよ?」


「舌? 舌まで喰らうのか?」


 ダン=ルティムにはあらかじめ通達しておいたので、驚いたのはラウ=レイであった。


 本日のギバ・タンは、シールの果汁ばかりでなく、それをベースにした調味料を使用している。炒めたアリアのみじん切りと、塩、砂糖、ピコの葉、果実酒を配合して作製した塩ダレだ。


 これには純粋なる賞賛のお言葉がいただけた。


「これは美味いぞ! 普通に肉だな!」


「いや、普通の肉より美味いんじゃねーか?」


「うむ、これは美味い!」


 やはり森辺の民には脳や目玉より肉々しい肉のほうが好まれるようだ。

 まあ、俺としても異存はない。扱いなれない脳や目玉は、収穫のたびに研鑽を積むしかないだろう。


「ダン=ルティム、こちらもどうぞ」


 と、レイナ=ルウたちがスープやステーキを運んでくる。

 それらの料理を味わいながら、ダン=ルティムは実にご満悦の様子であった。


「どの料理も美味くてたまらんな! アスタたちには、本当に感謝しておるぞ!」


「こちらこそ、こんなに大事な日のかまどをまかせていただいて光栄です」


「うむ! 今日は素晴らしき生誕の日だ! ……しかし、料理はこれですべてではないのだろう?」


 くいいるように、ダン=ルティムが俺を見つめてくる。

 そちらに、俺は笑いかけてみせた。


「もちろんです。特別献立の最後の一品が残っていますので、その分の隙間は空けておいてください」


「俺の胃袋はまだ三分目だ! できれば一刻も早くその料理を味わわせてもらいたいものだな!」


「では、少々お待ちを」


 俺はトゥール=ディンとともにかまどの間へ引き返した。

 研究中の『ギバ・カレー』や脳、目玉、舌の料理は、言ってみれば前菜である。

 俺としては、この最後の特別献立こそが、ダン=ルティムへの心づくしであった。


 保温のために点けていたかまどの火を消し、トゥール=ディンとふたりで鍋を持ち上げる。

 そうしてかまどの間を出ると、アイ=ファとばったり出くわした。


「あれ? レム=ドムと一緒じゃなかったのか?」


「あのうつけ者めは、適当に放り出してきた。がぶがぶと果実酒を飲むので手をつけられなくなってしまったのだ」


 また過剰なるスキンシップの餌食になってしまったのだろうか。せっかくの宴であるのに、げんなりしたお顔になってしまっている。


「きちんと料理は食べてるか? こっちの鍋には近づいてこなかったみたいだけど」


「まだかれーや香草は口の傷にしみるからな。……そちらの料理では辛い香草など使っておるまいな?」


「うん。香りづけの香草だけだよ」


「ならば、その料理をいただこう。ダン=ルティムの後でな」


 そんなわけで、俺たちは3人連れでダン=ルティムのもとに向かうことになった。


 人々は、大いに宴を楽しんでいるようだ。

 オウラとツヴァイは、身を寄せ合ってレイナ=ルウのスープを味わっている。

 みんな配膳の仕事が終わったのか、モルン=ルティムも若い女衆らと談笑していた。


 ガズラン=ルティムは、アマ・ミン=ルティムとともにある。

 その正面にたたずんでいるやたらと巨大な人影は、きっとマァム家のジィ=マァムだろう。彼も客人としてこの宴に参席していたのだ。

 いったい何の話をしているのか。とりあえず、ガズラン夫妻はとても幸福そうに微笑みながらジィ=マァムと言葉を交わしている様子だった。


 なんとなく、ルウの集落での収穫祭を思い起こさせる情景である。

 まあ、俺としてはガズラン=ルティムらの婚儀とその収穫祭ぐらいしか宴に参加した経験がないので、無理からぬことだろう。


 あの夜は、ダルム=ルウからの言葉で心を揺らすことになった。

 だけど今日は、こんなに安らいだ気持ちで宴を楽しむことができている。

 かたわらのアイ=ファの姿をそっと盗み見ながら、俺はダン=ルティムのもとへと足を急がせた。


「おお、待ちくたびれてしまったぞ、アスタ!」


 にこにこと笑うダン=ルティムの隣に、新たな客人が増えていた。

 ダン=ルティムに劣らぬ体格で、どっかりあぐらをかいている。それはルウの家長たるドンダ=ルウであった。


 さすがルティムの家長のお祝いともなると、親筋の家長がみずから出向いてくるものなのか。相変わらず、この両名が並ぶと圧巻の一言であった。

 そちらにぺこりと頭を下げてから、俺はダン=ルティムの前に鉄鍋を置く。


「お待たせしました。ギバのあばら肉です」


「うむ! これがなくては始まらぬからなあ!」


 満面に笑みをあふれさせながら、ダン=ルティムが鉄鍋の中身を覗き込んでくる。


「今日は特製のタレを塗って、炭で炙り焼きにしてみました」


 あばら肉についてはあれこれ考えたが、やはりダン=ルティムにはシンプルな焼き肉こそが相応しかろうということで、この献立と相成った。


 タレは《ギバ肉のポイタン巻き》で使っているものとほぼ同一で、さらにママリアの酢も使っている。十分な種類がそろいつつある調味料を駆使して作りあげた、現時点では至上の出来栄えだ。

 肉の下ごしらえでは、塩とピコの葉と、それに何種類かの香草ももみこんである。

 シンプルながらも、ここ最近の修練の成果を詰め込んだ一品であった。


「では、いただくぞ!」


 木皿に取り分けられたあばら肉を、ダン=ルティムがひっつかむ。

 一口で、8割がたの肉がこそぎ取られた。

 肉を噛みながら、ダン=ルティムの顔はいっそう笑みくずれていく。


 一同は遠慮して、ダン=ルティムがその一口を食べ終えるのを待っていた。

 まるで呑みくだすのを惜しむかのようにたっぷりと時間をかけて肉を咀嚼したダン=ルティムは、吠えるような声で「美味い!」と宣言した。


「アスタ! このあばら肉は、これまで食べてきたどのあばら肉よりも美味だぞ!」


「喜んでもらえて、俺も嬉しいです」


 じんわりとした喜びを噛みしめながら、俺はそのように答えてみせた。

「うむ!」と新たなるあばら肉をひっつかみながら、ダン=ルティムはぐるりと視線を巡らせる。


「みなも遠慮せず喰らうがいい! これだけの量があれば取り合いになることもあるまい! 俺と同じものを食って、俺と同じ喜びをわかちあってくれ!」


 あばら肉は、鉄鍋からこぼれそうなぐらいの量を準備していた。

 これぐらいの量がないと、ダン=ルティムも安心してみんなにふるまうことができないだろうなと考えていたのだ。


 待ってましたとばかりにルド=ルウやラウ=レイが手をのばし、遠くのほうからも人々が寄ってくる。

 アイ=ファもドンダ=ルウも手をのばした。

 仕事を終えた俺も、トゥール=ディンとともに手をのばした。


 脂と肉の重なった三枚肉である。

 時間をかけて炙り焼きにした成果でずいぶん油は抜けているが、ジューシーさはまったく損なわれていない。


 ミャームーや香草の香りが芳しく、味は甘辛い。

 タウ油と、砂糖と、チットの実と、ママリアの酢と、みじん切りにしたアリア、すべてが手を取り合って絶妙な味わいを生み出してくれている。


 俺としても、大満足な出来栄えであった。

 だけどこれからも、もっともっと修練を積んでいこう。

 幼きライバルに負けないように――そして、同胞たちのこんな幸福そうな笑顔を見続けていけるように。


 そんなことを考えていると、ダン=ルティムが突然がばっと身を起こした。

 杖で身体を支えつつ、誰にともなく大声を張り上げる。


「今日はまったく素晴らしい日となった! このめでたき日に、皆に伝えたいことがある!」


 それぞれ料理を楽しんでいた人々も、歓声でもってそれに応じた。

 満足そうにうなずきながら、ダン=ルティムはさらに言う。


「ガズランはどこにおる? 俺の前まで進み出よ、ガズラン!」


「はい。どうされました、家長?」


 薄闇の向こうから、大きな人影がすうっと寄ってくる。

 そちらに向かって、ダン=ルティムはガハハと笑いかけた。


「大事な話だ! 親筋たるルウ家の家長ドンダ=ルウもそろっているので、ちょうどいい! 我が血族たるルティムの同胞たちよ! そして、血の縁を結びしルウ、レイ、ミン、マァム、ムファ、リリンの者たちよ! ルティム本家の家長、ダン=ルティムの言葉を聞いてくれ!」


 大声で言いながら、ダン=ルティムは左手の果実酒の土瓶を振り上げる。


「俺は今日、ルティムの家長の座を息子ガズラン=ルティムに譲り渡すことを、ここに宣言する!」


 歓声が、ぴたりと鳴りやんだ。

 ガズラン=ルティムが、穏やかな面持ちでさらに歩を進めてくる。


「どうされたのですか、父ダンよ? 父ダンが家長の座から身を引くには、まだあまりにも早すぎると思われます」


「そんなことはない! 俺は今こそが引き際と考えている!」


 力強く笑ったまま、ダン=ルティムは息子に視線を据えた。


「俺は足を痛めたために、ひと月以上も狩人としての仕事を休むことになった。そのおかげで、お前さんがどれほどの力をつけたか十分に知る機会を得たのだ! お前さんならば、俺よりもよほど正しく血族を導いていくことができるだろう、ガズランよ!」


「いや、しかし――」


「俺の足は、もうひと月ほども養生すれば元通りに治ると言われている。そのときは、ひとりの狩人としてルティムの力となる! 俺の父ラーとて、狩人としての力を失う前に、息子たる俺に家長の座を譲り渡したのだ! それが家長として、そして父としてどれほど幸福な気持ちを得られることなのか、若いお前さんにはまだわからぬだろうな、ガズランよ!」


 そこでぐびりと果実酒を飲んでから、ダン=ルティムは土瓶をガズラン=ルティムに突きつけた。


「俺の右足が力を取り戻したのち、お前さんと狩人の力比べをすれば、まだまだ俺が土をつけられることもないだろう! しかし、家長としての資質と狩人としての資質は同一ではない! お前さんは、家長としてならばすでに俺を越える力を身につけているのだ!」


「…………」


「祝福の酒を受け取れ! ルティムの家長ダン=ルティムはこの夜、長兄のガズラン=ルティムに家長の座を譲り渡す!」


 ガズラン=ルティムは無言でまぶたを閉ざす。

 胸のざわめくような沈黙が落ち――そうして次にまぶたを開いたとき、ガズラン=ルティムの瞳にはかつてないほど力強い光が宿っていた。


 とても静かで、とても穏やかで、それでいてその奥に凛然とした覚悟を秘めたその眼差しは、どこか祖父のラー=ルティムにも通ずる鷹のような鋭さが加わったようにも感じられた。


「つつしんでお受けします」


 ガズラン=ルティムは土瓶を受け取り、果実酒を口にする。

 その姿を満足そうに見やってから、ダン=ルティムは足もとに視線を落とした。


「ドンダ=ルウよ! ルウ家の家長として、お前さんも祝福してくれるだろうな?」


「ふん……まさか俺よりも年若い貴様が先に家長をおりることになろうとはな」


 底ごもる声で言いながら、ドンダ=ルウものそりと立ち上がる。

 その仏頂面を見つめながら、ダン=ルティムはまた豪快に笑い声をあげた。


「たった2歳しか変わらぬのに年長面をするな! それに、今日からお前さんの生誕の日までは、わずか1歳しか変わらぬのだぞ?」


「ハッ!」と咽喉を鳴らしてから、ドンダ=ルウは土瓶を受け取った。


「新しきルティムの家長、ガズラン=ルティムに祝福を」


 そのように宣言して、一口だけ果実酒をあおる。

 すると、5名の狩人たちがそのかたわらに進み出てきた。


 その内のひとりはラウ=レイで、さらにジィ=マァムの姿もある。

 ということは――きっと、ルウの眷族たる氏族の狩人たちなのだろう。

 その全員が祝福の言葉を述べてから果実酒を口にしていく。


「俺は16でレイの家長となった。すでに20と数年も齢を重ねているお前だったら、何の不足もないだろうさ。……新しきルティムの家長、ガズラン=ルティムに祝福を!」


 最後にラウ=レイが宣言して、そこに歓声がかぶさった。

 呆気に取られていたルティムの同胞たちが、我を取り戻したのだ。

 それらの歓声を聞きながら、アイ=ファがガズラン=ルティムの前に進み出る。


「ガズラン=ルティムよ。私は血の縁を持たぬが、どうか祝福させていただきたい」


「ありがとうございます、アイ=ファ。どうかこれからも、アスタとともに変わらずルティムの友であり続けてください」


「うむ」


 重々しくうなずくアイ=ファのかたわらに、俺もあわてて進み出る。

 ガズラン=ルティムは普段通りの穏やかな笑顔を見せてから、同胞たちを振り返った。


「ルティムの同胞よ! 父ダンから譲り受けた家長の名を汚すことなく、すべての力でもって血族を導いていくことをここに誓おう! どうかこのガズラン=ルティムとともに、森辺の民として正しき道を歩んでもらいたい!」


 歓声が、うなりをあげて新しき家長を祝福する。

 そのすさまじい歓声とあふれかえる情念に圧倒されながら、俺はダン=ルティムのほうにも足を向けた。


「ダン=ルティム、こういう場でどういう言葉をお伝えすればいいのか俺にはよくわからないのですが……とにかく、お疲れ様でした」


「うむ! ルティムの友たるアスタらに立ちあってもらうことができて嬉しく思っているぞ、俺は!」


 ダン=ルティムの顔には、ひたすら歓喜の感情が満ちあふれていた。

 ぎょろりとしたどんぐりまなこには、うっすら涙がにじんでいる。

 なんだか胸の詰まるような思いで、それでも俺は笑顔をこしらえてみせた。


「俺のような若輩者には想像もつきませんが、きっとお幸せなのでしょうね、ダン=ルティム?」


「もちろんだ! 今日の森辺で一番幸福な気分でいるのは俺であることに間違いない!」


 そう言って、ダン=ルティムは再び左腕を振り上げた。


「それでは宴の続きだな! まだまだ料理は残っているのだから、最後の一片を喰らい尽くすまで大いに楽しんでくれるがいい!」


 おおっ……と勇ましい歓声が答える。

 その声を聞きながら、俺は何だか頭の芯が痺れるような感覚を抱くことになった。


(リィ=スドラは子供を孕み、ダン=ルティムはガズラン=ルティムに家長を譲り渡した。……こうやって、日々は巡っていくんだろう)


 そして思う。

 今日という日は、もう2度と訪れることはないのだ、と。


 どんなに苦しい日も、どんなに楽しい日も、いずれは過ぎ去って過去のものになっていく。

 俺はかつて故郷でのかけがえのない日々を失ってしまったが、その後にこうして新たな故郷を得て、同胞たちと苦難の日々を乗り越えて、今日という日を迎えることができた。


 もっと苦しいことだって、もっと楽しいことだって、これからも続々と押し寄せてくるのかもしれない。

 だけど俺は、俺にとって大事に思える人々とその苦しみを乗り越えて、その楽しさを分かち合いたいと痛切に願った。


「何を辛気臭い顔をしているのだ! こんなめでたい日にそんな顔をするものではないぞ、アスタよ!」


 背中をどしんと叩かれる。


 ダン=ルティムは笑っていた。

 ガズラン=ルティムも微笑んでいた。


 俺はどんな表情をしていたのだろう。

 もしかしたら、泣き笑いのような表情にでもなってしまっていたのだろうか。


 そんなことを考えていると、アイ=ファが音もなく身を寄せてきた。

 青い瞳が、静かに俺を見つめ返してくる。


「かまど番の仕事は終えたのであろう? あとはお前もルティムの友として宴を楽しめ」


「うん」


 衝動的に、俺はアイ=ファの手を取ってしまった。

 アイ=ファは少しだけいぶかしそうな顔をしたが、それを振り払おうとはしなかった。

 そうして俺を鍋の前まで導いていき、そこから拾いあげたあばら肉を無言で口に突っ込んでくる。


 そいつを一口かじり取ってから、俺は「美味いな」と言ってみせた。

 それでアイ=ファは幼い子供でも見るような目つきになりながら、ようやくにこりと微笑んでくれた。


 俺にとって忘れられない日となった黒の月の26日は、そうしてようやくその終わりに差しかかろうとしていたのだった。

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