黒の月の二十二日④~狩人の資格~
2015.12/9 更新分 1/1
ファの家に到着すると、「昨日は遅くまで居残っていたので、今日は早めに戻らなくてはならないのです」と言い残し、トゥール=ディンは自分の家に帰っていった。
残されたのは、俺とレム=ドムとユン=スドラのみである。
ユン=スドラとて馴染みの深い相手ではないが、それでも初対面の相手――しかもヤミル=レイから気を抜くなと言われた相手とふたりきりになるよりは心強いかななどと考えながら、俺は晩餐の準備に取りかかることにした。
「えーと、今日はそれほど凝った料理を作る予定もないのですが、北の集落ではまだ今まで通りの食事を続けているのですよね、レム=ドム?」
「ええ。ポイタンの焼き方だけは早く教わりたいものだと考えている人間は少なくないわ」
レム=ドムは主張の強い胸の下で腕を組み、俺の姿を皮肉っぽく見下ろしてくる。
「それでもルティムの男衆らから血抜きなどの技術を習ったので、ずいぶん晩餐の様相も変わってきたけれどね。……あれはあなたが森辺にもたらした技術なのよね、アスタ?」
「ええ。だけどそれは特別な技術ではなく、町では当たり前に行われているはずですよ」
レム=ドムの目が、いぶかしそうに細められる。
「アスタ、あなたは何歳なのかしら?」
「え? 俺は17歳ですが」
「そう。ならばわたしよりふたつも年長ね。だったらその堅苦しい言葉づかいはあらためてもらえないものかしら?」
年少かもとは思ったが、わずか15歳であったのか。
ルド=ルウやモルン=ルティムと同い年とは、ちょっと驚きだ。
「えーと、ちなみに君は何歳なのかな、ユン=スドラ?」
「は、はい! わたしも15歳です!」
俺はまじまじと両者の姿を見比べてしまう。
身長は160センチ足らずでいかにも女の子らしい容姿をしたユン=スドラと、身長は180センチ近くもあり俺以上に逞しい体格をしたレム=ドムなのである。
まるで別種の生き物みたいに雰囲気の異なる組み合わせであった。
「だったら確かに君だけ特別扱いするわけにはいかないね。あらためまして、どうぞよろしく、レム=ドム」
「ええ、こちらこそ」
ユン=スドラ以外の人目がなくなっても、レム=ドムの様子が変わることはなかった。
どこか人を食ったような、取りすましたたたずまいだ。
べつだん悪人だとも思えないが、ヤミル=レイの他にこういった森辺の女衆と相対するのは初めてのことなので、いささか落ち着かない。
だけどまあ、気にせず仕事を進めることにした。
「それじゃあ、晩餐の支度を始めるよ。まずは汁物の準備だね」
最初はナナールの灰汁抜きだ。
ホウレンソウとよく似たこの野菜はえぐみが強く、なおかつこのまま使うとキシキシと軋むような食感になってしまうので、こうしたひと手間が必要なのだった。
だけどそれほどの手間でもない。塩を入れたお湯でざっと茹であげて、冷水にさらすだけである。
そうして灰汁抜きしたナナールと、アリアとネェノンとチャッチを切り刻み、ギバのモモ肉とともにやや少なめの水でじっくり煮込む。
「ギバの肉は弱めの火で時間をかけて煮込むと格段にやわらかくなるし、それに旨みが煮汁に広がるんだ。で、肉や野菜から出る濁った汁は雑味になってしまうので、あらかじめ取り除いておくわけだね」
ビギナークラスのレム=ドムのために、俺はこまかく説明をしながら準備を進めた。
このていどの手順はすでにわきまえているだろうに、ユン=スドラのほうが熱心にうなずいている。
「で、火が消えてしまわないように弱火を維持しながら、今度は隣のかまどで焼きポイタンの準備だね。……スドラでは、ポイタンにギーゴをまぜたりはしているのかな?」
「い、いえ! そこまで贅沢に野菜を使う必要はない、と家長に定められました!」
「そっか。毎日のことだと、確かにギーゴの値段も馬鹿にならないしね。……最近のファの家でも、ギーゴじゃなくてフワノをまぜたりしているんだよ」
「フワノ? それはあの、煮詰めて乾かしたポイタンのような粉ですね?」
「うん。ポイタンとフワノをまぜると食感が変わるんで、色々と試しているところなんだ。ギーゴをまぜるよりは安上がりだし」
ポイタンのしっかりした噛み応えと、フワノのもっちりした噛み応え、この配合加減でちょっと面白い料理が作れるのではないかな、と俺はひそかに目論んでいた。
が、まだまだ研究中のことなので、今日はいつも通り平べったく焼きあげることにする。
「そうしたら、次はいよいよ肉料理だね。こちらではアリアとネェノンとプラ、それにギバの胸肉を使う」
献立は、『タラパ風味の甘酢あんかけ』である。
肉と野菜はしっかりと炒めて、最後にママリアの酢と砂糖とタウ油、それにタラパとアリアでこしらえた特製の甘酢にチャッチ粉でとろみをつけたものを掛ける。
まだ日が暮れるにはゆとりがあったので、試食用の分だけを焼きあげて、それを2名の見習いかまど番に差し出してみせた。
「どうだろう? 酸味は抑えてあるから食べにくいことはないと思うんだけど」
ユン=スドラはおずおずと、レム=ドムは恐れ気もなく手をのばしてくる。
「ああ、とても美味です。アスタの手並みはいつも素晴らしいですね」
と、一口食べるなりユン=スドラはそのように言ってくれた。
頬は赤く、瞳は潤んでいる。
「砂糖というのは、素晴らしい食材です。塩よりも高価なのだから使いすぎるなと、わたしはいつも家の者に注意されてしまいます」
「あ、ユン=スドラは甘い味がお好みなのかな?」
「はい、大好きです」
頬を赤らめたまま、にこりと微笑む。
なんとなく、森辺の女衆にしては新鮮な反応だなと俺は心中でこっそり思った。
そんな中、レム=ドムは「奇妙な味ね」と言い捨てる。
「あのトゥール=ディンが作った食事にこのような味はなかったわ。これだったら、わたしは塩とピコの葉をまぶしただけの肉のほうが好きかもしれない」
「うん、砂糖の甘さも酢の酸味も、これまで森辺には存在しなかった味だからね。あまり馴染めない人も少なくはないと思う」
幸いなことに、アイ=ファはわりあい最初から砂糖も酢も嫌がらなかったので、俺は色々と味見を頼んでしまっている。
そうして甘酢あんかけの肉団子をこしらえたときなんかは、なかなかご機嫌もうるわしく見えたものである。
「そういえば、北の集落のみなさんは森辺の民としても特に質実な生活に身を置いているという話を聞いたことがあるんだけど。香草や調味料を買うことに抵抗はないのかな?」
「質実というのは、無駄なことに銅貨を使わないということなのじゃないの? 美味なる料理が一族にとって無駄なものではないと判じられれば、別に銅貨を惜しむことはないでしょう。わたしたちは、ルウ家に次ぐ豊かさを有しているはずなのだから」
そのように言ってから、レム=ドムはちらりとユン=スドラを見た。
「だけどスドラの家などは、ファの家の仕事を手伝ったり肉を売ったりすることでたいそうな富を手にしているそうね? たいした数のギバを狩ってもいない小さな氏族が北の一族よりも大きな富を得ているというのは、やはり奇妙な気分だわ」
「はい。スドラには9名の家人しかいませんので、1日に1頭のギバを狩れば何とか生きていくことができます。しかしわたしたちは、ファの家のおかげで強い力を得ることができました」
レム=ドムを恐れる風でもなく、ユン=スドラは瞳を輝かせている。
「それで今では、男衆らが手傷を負うことなく、2日で3頭のギバを狩ることも珍しくはなくなりました。リィも子供を孕むことができましたし、きっと今後はさらなる力をつけていくこともできるでしょう」
「そういえば、スドラは分家も眷族も絶えてるんだよね? 君はリィ=スドラの妹さんか何かなのかな?」
俺が声をあげると、たちまちユン=スドラは頬を染めてしまう。
が、その口から語られるのは、森辺の厳しい内情であった。
「いえ、リィはもともと分家の血筋であり、わたしはかつてスドラの眷族であったミーマの血筋です。そうして血の絶えそうになった分家と眷族の人間が全員本家の家人となることで、スドラは何とか滅びずに済んだのです。……そうでなかったら、スドラは血の縁もない氏族の家人となって生きながらえるしか道がなかったのでしょう」
「……なるほどね」
森辺の民は、血の縁を重んじる。それゆえに、栄える家と衰える家が両極端であるように俺には感じられていた。
たとえばルウ家やかつてのスン家などは、眷族を含めて100余名の大所帯であった。その中で、親筋のルウ家やスン家は30名前後の大きな家であり、末端の眷族などは10名足らずの小さな氏族であったりする。
それでも眷族が多ければ嫁取りや婿取りをして力を保つことはできるが、小さな氏族同士だとけっきょく先細りして、最終的にはスドラのようにひとつの家に統合されてしまうのだろう。
俺などから見ていると、もっと頻繁にさまざまな家と血の縁を結んでしまえば心強かろうに――とか思えてしまうのだが、話はそれほど単純なものではない。血の縁を結ぶというのは、森辺の民にとって文字通り「家族になる」ということなのだ。
血を分けた親兄弟と同じぐらい大事な存在と思い、そのためには生命をかけることができるか。それぐらいの覚悟がなければ、きっと眷族としての絆を結ぶことはできないのだろうと思う。
そうして強大な力を得たのがルウ家であり、その絆をないがしろにしたために衰退してしまったのがスン家であるのだ、きっと。
「……だけど、たったふたりの家人しか有していないというのは、この森辺でもファの家ぐらいなのでしょうね」
と、レム=ドムが皮肉っぽい声で言った。
「ドムも本家はわたしと家長のふたりきりだけど、分家を合わせれば11人だわ。そして眷族は70名近くも存在する。たったふたりの家人だけで、ファの家は滅びの日を待ち受けている、ということなのよね?」
「でも! ファの家だって嫁や婿を取れば家族が増えます! そうすれば自然に眷族を得ることもできるのですから、決して滅ぶようなことにはなりません!」
俺が何かを言う前に、ユン=スドラが強い口調でそのように申し立てた。
驚いて振り返ると、小柄な少女が肩を怒らせてレム=ドムをにらみつけている。
それは何だか、トイプードルがドーベルマンに立ち向かっているような様相であった。
「……そうね。いまやファの家はどの氏族よりも莫大な富をたくわえているのだから、その力で眷族を迎えることもできるでしょう」
しかしレム=ドムは、悪びれた様子もなく肩をすくめている。
「べつだんわたしは、ファの家を貶めようと考えているわけではないのよ? 他の氏族のやりかたに口をはさむ気もないし――気にさわったのなら謝罪しておくわ、アスタ」
「そう言ってもらえるなら文句はないよ。……だから君も矛先を収めてもらえるかな、ユン=スドラ?」
俺の言葉に、ユン=スドラはハッとしたように振り返った。
で、またお顔を真っ赤に染めてしまう。
「も、申し訳ありません! わたしなどが差し出口をきいてしまって……お恥ずかしい限りです」
「いやあ、気にしないでいいよ」などと答えつつ、俺もいくぶん閉口することになった。
妙に皮肉っぽいレム=ドムと過剰にファの家を擁護するユン=スドラの取り合わせで、何だか少しだけ精神が胃もたれを起こしそうであった。
ファの家の行く末については、あまり余人に触れてほしくはない心境の俺なのである。
「……それじゃあ汁物料理の続きに取りかかろうかな」
こんなときは、仕事に集中だ。
俺は台の上に置いておいた土瓶を取り上げた。
先日、乳脂を作製するために脂肪分を取り除いた、脱脂乳である。
そいつをひと瓶、まるまる鉄鍋に注いでみせる。
「あ、それがカロンの乳というものですか?」
「うん。乳脂をこしらえると乳が余ってしまうから、こうして頻繁に使う羽目になっちゃうんだよね」
出汁で白濁していたスープが、はっきりとした乳白色に染まる。
それを沸騰させないように気をつけながら、俺は塩とピコの葉と、そして少量のタウ油を加えた。
で、最後にポイタンでとろみをつければ完成だ。
本当は乳脂とフワノ粉できちんとしたホワイトソースをこしらえたいところだが、そこで乳脂を消費すると堂々巡りになってしまうのである。
「スドラではカロンの乳を買っていないんだよね? この料理を味見したことはあったかな?」
「はい、以前に一度だけ。……あ、でも、許されるなら今日も味見をさせていただきたいです!」
「うん、お好きなだけどうぞ」
俺は木皿にカロン乳のスープをすくい、ふたりに差し出してみせた。
見た目はクリームシチューと大差のない、とろりとした質感である。
しかし乳脂は使っていないしカロン乳も脱脂乳であるので、飲み口はけっこうスッキリしている。
アクセントは、ブラックペッパー代わりのピコの葉だ。
《キミュスの尻尾亭》や《西風亭》に伝授した料理と、レシピはほとんど変わらない。
「ああ、やはりこちらも非常に美味です」
ユン=スドラは至福の表情で、レム=ドムのほうは片眉を吊り上げていた。
「……これは、カロンという獣の乳を使っているのね?」
「そうだよ。お気に召したかな?」
「ええ。これは何だか力のつきそうな味がするわ」
レム=ドムは、自分の好みというものをはっきり備えている人間であるらしかった。
悪く言えば偏食家であるということだが、それはまた、美味か否かを判断できる感性と舌を持っている、という捉え方もできる。
(案外、こういう人のほうが料理を作るのに向いてたりするんだよな)
そんなことを考えていると、ユン=スドラのほうがせわしなくふたつの鉄鍋を見比べ始めた。
「あの……そちらの肉料理はタラパの赤で、こちらの汁物はカロン乳の白で……とても彩りが美しいですね?」
「うん、料理は見た目も大事だからねえ」
「……それに、タラパの酸っぱさとカロン乳の甘さは、おたがいを引き立ててくれるようにも感じられます」
「そう、ママリアの酢の酸味だけだと『カロン乳のスープ』の味とぶつかっちゃいそうだったから、タラパを多めに使ったんだよね」
なかなか鋭い指摘をするではないかと、俺は驚かされた。
ユン=スドラは、頭をなでられた子犬のように微笑んでいる。
そのとき――じゃりっと砂を踏む音が聞こえた。
「あ、アイ=ファ、おかえり――って、どうしたんだよ、おい!」
俺は一気に動揺して大声をあげてしまった。
「何がだ?」とアイ=ファは不機嫌そうな視線を向けてくる。
何がだも何も、アイ=ファの様子は尋常でなかった。
いつもきっちりまとめあげている髪がくしゃくしゃになっているし、毛皮のマントも手足も土だらけ、そして口もとにはうっすら血がにじんでしまっている。
ただ、その立ち姿は力強く、眼光の鋭さにも変わりはない。それで俺も、胸中の不安を何とか抑制することができた。
「2頭のギバにはさみうちにされてしまってな。1頭は仕留めたが、1頭は取り逃がしてしまった。……おかしな体勢で刀を打ち込んでしまったために、このざまだ」
と、アイ=ファはいきなり大刀を抜き放った。
俺は思わず息を呑んでしまう。
アイ=ファの刀は、真ん中のあたりでぽっきり折られてしまっていたのだ。
「あちこち手傷を負わせてまともに血抜きをすることもできなかったので、肉と毛皮はフォウの家に譲ってきた」
「そうか……大きな怪我はないようで何よりだよ」
「ふん。小さな怪我は負ってしまったがな」
そのように言ってから、アイ=ファは荒っぽく唾を吐き捨てた。
否――それは唾ではなく、血であった。
唇だけでなく、口の中もざっくり切ってしまっているらしい。
「アスタ、今宵の晩餐にチットの実などは使っておらぬだろうな?」
「う、うん。今のところは使っていないよ」
「決して使うな。この口でチットの実などを食したらとんでもないことになってしまう」
『ギバ・カレー』の研究をルウの勉強会で留めておいて良かったと、俺は心底から思うことができた。
そんな中、アイ=ファの不機嫌そうな目が俺のかたわらへと向けられる。
「ところで、お前はドム家の女衆だな? お前はルウの集落で手ほどきを受けるのではなかったか?」
「ええ……よくわたしがドムの人間だとわかったわね、ファの家のアイ=ファ」
俺は驚いて振り返る。
レム=ドムの様子が一変していた。
といっても、べつだん悪い風に変化したわけではない。
かといって、いい風に変化したとも思えない。
レム=ドムは、奇妙に熱っぽい眼差しでアイ=ファを見つめ、奇妙に勇ましい笑みをその口もとに浮かべていた。
「森辺において、ギバの骨を飾り物にしているのはドム家ぐらいのものであろう。それに、ドムの女衆がルウの集落にやってくるという話はアスタから聞いていたからな。……そのお前が、どうしてファの家でアスタに手ほどきを受けているのだ?」
「わたしはあなたに会いたかったのよ、アイ=ファ」
俺は、ますます驚いた。
この娘は、かまど番の腕を上げるためにやってきたのではなかったのか?
「何の用事かは知らぬが、今日の私はいささか不機嫌だ。込み入った話ならば日をあらためてほしいものだな」
そのように言い捨てて、アイ=ファは頭の皮紐を乱暴に取り去った。
解放された金褐色の髪が、きらきらと背中や胸もとに流れ落ちていく。
「あなたはずいぶん美しいのね、アイ=ファ……そんなに大きな女衆ではないと聞いていたけれど、際立って筋肉がついているわけでもないし……そのような目つきをしていなければ、そこらの女衆よりもよほど見目は麗しいじゃない?」
「……そんな戯れ言を抜かすのがお前の用事なのか、ドムの女衆よ」
「わたしはレム=ドムよ。ドムの家長ディック=ドムの妹、レム=ドム。……わたしはこの森辺で唯一の女狩人であるファの家のアイ=ファに会いたくてやってきたの」
レム=ドムが、肉感的な唇をぺろりとなめる。
それはまるで、獲物を見つけた肉食獣のような仕草であった。
「ふん。お前のほうは、女衆にしてはずいぶん鍛えられた身体をしているようだな、レム=ドムよ。ドムの集落では、何か力を使う仕事でもまかされているのか?」
「あら、そう思う? ……まあ確かに、わたしとあなたが並んで立ったら、誰もがわたしのほうこそを女狩人と思い込んでしまうかもしれないわねえ?」
アイ=ファは気のない表情で、ほどいたばかりの髪をまたくくり始めた。
俺とユン=スドラは、この不穏なやりとりをじっと見守るばかりである。
「男衆ならば、わたしより身体が小さくてもわたしより力が強いこともあるでしょう。忌々しいことに、男衆と女衆では最初からそういう差が生じてしまうものなのだから。……でも、同じ女衆であったら、身体が大きいほうがより強い力を持てるものなのじゃないかしら?」
「確かにそれだけ立派な体格をしていれば、お前のほうが重い荷物を運べるやもしれんな。……だが、それがどうしたというのだ? お前が何を言わんとしているのか、私にはさっぱりわからないのだが」
「何も難しい話じゃないわ。わたしはただ、あなたに手合わせを願いたいだけなのよ」
「手合わせ?」
「そう、狩人の力比べね」
レム=ドムはいっそう勇ましく笑う。
が――とたんにアイ=ファはすべての興味を失った様子で、レム=ドムから視線を外した。
「くだらんな。そのような余興にかまけているひまはない。アスタ、私は家の中で身を清めてくるので、しばらくは入ってくるのではないぞ」
「待ってよ、アイ=ファ。あなたにとっては余興でも、わたしにとってはこの先の生を定める重要な行いであるのよ?」
じゃらりと骨の飾り物を鳴らしながら、レム=ドムは歩を進めた。
アイ=ファはとても面倒くさそうに横目でその姿を見る。
「女衆が狩人の力比べなどをして何になるというのだ。力比べとは、森にその力を示す際か、あるいは修練のためにのみ行うべき行為であるのだ」
「だからこれは、わたしの力を森に示す儀式であると同時に、狩人としての修練でもあるのよ」
レム=ドムは、唇を吊り上げて笑う。
「あなたは狩人として恥ずるところのない収穫をあげているのでしょう? そんなあなたよりもわたしの力がまされば、それはわたしにも狩人としての力が備わっている、ということになるのじゃないかしら?」
「……その言葉に間違いはないが、しかし、わたしが狩人でもない女衆に遅れを取ることはない」
「どうしてそんな風に断言できるの? わたしはこれでも自分なりに修練を積んできたのよ?」
「狩人でない女衆としては、お前に並ぶ人間はないかもしれない。また、相手が町の人間であれば、たいていの男は屈服させることができるだろう。……だけどそれはそれだけの話だ。いっぱしの狩人が相手では、お前には何も為すすべはない」
「わたしは口喧嘩ではなく力比べを挑みに来たのだけどねえ、アイ=ファ?」
「くどいな」とアイ=ファは言い捨てる。
「今日の私は不機嫌だと言ったはずだ。痛い目にあいたくなければ、大人しくかまど番の仕事を――」
その言葉の途中で、レム=ドムが動いた。
地面を蹴り、3メートルばかりもあったアイ=ファとの距離を一息に詰めたのだ。
ユン=スドラが悲鳴をあげ、俺の腕に取りすがってくる。
アイ=ファは慌てず身をひねり、レム=ドムの急襲をやりすごした。
レム=ドムは、獣のような敏捷さで再びアイ=ファに向きなおる。
「さすがにこのていどでは顔色も変えないわね。でも、わたしが並の女衆でないことは伝わったかしら?」
「……どうやら痛い目を見ないとわからないらしいな」
まったく動じていない声で言い、アイ=ファは狩人の衣を脱ぎ捨てた。
レム=ドムの姿に視線を据えたまま、それをかたわらの木の枝に引っ掛ける。
「や、やめてください、レム=ドム! 森辺の民が相争うなど、決して許されないことです!」
ユン=スドラが気丈に声をあげる。
が、その手はぎゅうっと俺の左腕を抱き込んだままであった。
「これは喧嘩じゃなく、狩人の力比べよ。相手に傷を負わせることなく、手の平か足の裏以外を地につかせれば、勝ち……それでいいのよね、アイ=ファ?」
「うむ。お前が狩人ではないということを除けば、それで間違いはない」
アイ=ファが答えると同時に、再びレム=ドムが襲いかかった。
その長い腕が、アイ=ファをとらえんと左右から突き出される。
アイ=ファは優雅にステップを踏み、それを左手側に受け流した。
そして、レム=ドムの左手首を引っ捕まえる。
レム=ドムは、身体全身をねじるようにしてそれを振り払った。
弾かれたような勢いで、アイ=ファは後方に飛びすさる。
その右のかかとが、地面に築かれたかまどに触れた。
すでに火は落としているが、まだ熱い鉄鍋がその上には載っている。
それに気づいてか気づかずか、レム=ドムは三たび飛びかかった。
「ああっ!」とユン=スドラが悲鳴をあげる。
アイ=ファが身をかわしたら、きっとレム=ドムがかまどに突っ込む羽目になっただろう。
俺でさえ、反射的に目をつぶってしまいそうになった。
しかし、やっぱりアイ=ファは動じていなかった。
そして、レム=ドムの突進をかわそうともしなかった。
アイ=ファは身を沈めてレム=ドムの両腕を頭上にやりすごすと、そのまま相手の引き締まった腰に組みついて、右手の方向に身体をねじったのだった。
レム=ドムの身体がふわりと浮き上がり、かまどとすれすれの空間を横切って、背中から地面に叩きつけられる。
一瞬だけブリッジの体勢になったアイ=ファは、そのままバク転の要領で地面に着地する。
レム=ドムの突進の勢いを利用したのであろうが、まるでプロレスのように鮮やかな投げっぷりであった。
「これで気は済んだか? まったく浅はかな女衆だ」
そのように言ってから、アイ=ファはじろりと俺たちのほうをにらみつけてきた。
「ところで、お前はスドラの女衆であったな? 嫁入り前の人間がそのように他の氏族の人間と身を寄せ合うのは、森辺の習わしに反するはずであるが」
「え?」と気の抜けた声をあげてから、ユン=スドラは俺のもとから飛びはなれた。
その顔が、かつてないほど真っ赤に染まってしまう。
「も、も、申し訳ありませんでした! つ、つい我を見失ってしまって……」
「いや、まあ、うん」とか不明瞭な言葉を返しつつ、俺はかまどの向こう側を覗き込もうとした。
とたんに、レム=ドムが勢いよく立ち上がる。
「さすがはいっぱしの狩人ね! ここまで簡単にあしらわれるとは思っていなかったわ!」
その顔には、いまだ勇猛なる笑みが張りついていた。
黒い瞳も、それこそ狩人のように燃えている。
「だけど、1度ぐらいの手合わせでわたしを見限ったりはしないわよね、アイ=ファ?」
「この1度で力量の差がわからぬなら、お前に狩人の資質はなしと言う他ないな」
「ふん!」とレム=ドムは腰を落とす。
あれだけ強烈なスープレックスをくらったのに、ダメージらしいダメージはないようだ。
その姿を見て、アイ=ファは不愉快そうに目を細めた。
「もっと痛い目を見たいというなら、場所を移せ。せっかくの晩餐に土でも入ってしまったら何とするつもりだ?」
「うふふ。ようやく真面目に手合わせをする気になってくれたのね? 嬉しいわ、ファの女狩人アイ=ファ」
「……まったく、ろくでもない日だな、今日は」
アイ=ファは前髪をかきあげつつ、憂いに満ちた溜息をついた。
◇
それから数分後。
ファの家に、トトスの鉤爪が地面を蹴る音色が近づいてきた。
「おーい、ひさしぶりだな、アスタ!」
「あれ? ルド=ルウじゃないか?」
ルウ本家の元気な末弟が、手綱を引きしぼってトトスを制止させる。
羽の色がやや淡めなので、これはジドゥラではなくルウルウだ。
「ひさしぶりだね。どうしたんだい?」
「んー。レム=ドムがファの家に向かったってヴィナ姉たちに聞いたからよ。ちょっと様子を見に来たんだ」
ひらりと地面に飛び降りて、俺のかたわらにあったユン=スドラを見る。
「うん? お前は誰だっけ?」
「わたしはスドラ家のユン=スドラと申します」
ユン=スドラは、ちょっと緊張気味の面持ちで頭を下げる。
小さな氏族の一家人にとって、ルウ家の人間というのはそれほど気安く接せられる相手ではないのだろう。
「ふーん。俺はルウ家のルド=ルウだ。よろしくな。……で、レム=ドムのやつはどこに行ったんだ?」
「彼女なら、あそこだよ」
俺は後方を指し示してみせる。
ルド=ルウは、俺の肩ごしにそちらを覗き込む。
レム=ドムは、地面に両手をついてぜいぜいとあえいでいた。
アイ=ファはそのすぐ正面で、息も乱さずに立ちはだかっている。
この数分間で、レム=ドムは10回以上もアイ=ファに投げ飛ばされていたのだった。
「あーあ、やっぱりこうなってたか。そうだと思って、トトスを走らせてきたんだよなー」
「え? ルド=ルウはレム=ドムのことを知っていたのかい?」
「ああ。ほら、前にアスタにころっけさんどを作ってもらったろ? あのとき、ドムの本家で夜を明かすことになったんだよ」
そういえば、灰の月にルド=ルウは北の集落まで足をのばすことになり、その際は俺が弁当として『コロッケサンド』をこしらえてあげたのだった。
「そのときに、あいつは女衆なのに狩人になりたいんだーとか言ってたからよ。アイ=ファと顔を合わせたら力比べでも挑むんじゃねーのかなーって思ってたんだ」
「だ、だったらそれはこっちにも教えておいてほしかったなあ。いきなりアイ=ファに突っかかってきたから、いったい何事かと思ったよ」
「んー。話しておこうとも思ったんだけどな。女衆なのに狩人になりたいなんて、そいつは生半可な覚悟じゃねーだろうからさ。無関係の俺が他の人間に話すのは義理を欠くかなって思っちまったんだよ」
と、悪びれた様子もなくルド=ルウは頭をかく。
「それに、あいつがアイ=ファに突っかかったところで危ないことにはならねーだろうとも思ったしさ」
「うん、まあ、危ないことにはならなかったけどね」
ジィ=マァム、ダルム=ルウ、ラウ=レイといった屈強なる狩人をも退けて、ルウの眷族でも一、二を争うというダン=ルティムとも互角の試合を見せたアイ=ファなのである。
女衆としては規格外の体格を有するレム=ドムでも、アイ=ファに土をつけるどころか汗をかかせることさえかなわないようだった。
「……お前には、狩人としての覚悟や気迫が備わっていないのだ、レム=ドムよ」
そんなレム=ドムの力ない姿を見下ろしながら、アイ=ファは冷ややかに言った。
「どれほど身体が力を得ても、心に力がなければ相手を討ち倒すことはできない。……そしてまた、身体に力があってもそれを使いこなす技がなければ、せいぜい重い荷物を運ぶことしかできない。今のお前と勝負になるのは、いまだ森に入ったこともない見習い狩人の男衆ぐらいであろうな」
「…………」
「だが、それを恥じる必要はない。女衆が狩人の仕事をして喜ばれることはないのだから、お前も女衆としての仕事をまっとうするがいい、レム=ドムよ」
「…………」
アイ=ファは小さく息をつき、身をひるがえそうとした。
その足首を、レム=ドムがつかむ。
「何だ? 自力で立てぬ人間を投げ飛ばすことはできぬぞ?」
「アイ=ファ、あなたは……」
あえぐように、レム=ドムが言う。
「あなたはなんて、素晴らしい狩人なの……?」
「……うむ?」
いぶかしそうに、アイ=ファは眉をひそめる。
そのしなやかな両足を、レム=ドムはいきなり抱きすくめた。
「あなたに会いに来てよかった……わたしはあなたのように立派な狩人になりたいのよ、アイ=ファ……」
地面にへたりこんだままアイ=ファの足を抱きすくめている、そんなレム=ドムの端正な横顔には、何やら恍惚とした表情が浮かんでいるように見えた。
俺はルド=ルウと顔を見合わせてから、慌ててそちらに駆け寄っていく。
「たわけたことを言うな。女衆の身で狩人を志すというのがどれほどの苦難をともなうことか、お前にはまったくわかっていないのだ」
「それでもわたしは、狩人になりたいの……何もしないままこの気持ちをおさえつけることはできないのよ……」
レム=ドムはうっとりと目を閉ざし、アイ=ファのなめらかな太ももに頬ずりをする。
この段に至って、ついにアイ=ファの冷徹な面にも亀裂が入った。
「だったら勝手にするがいい! もとより私には関係のないことだ! ……と、とにかく私からその身を離せ!」
「嫌よ。もう少しだけこのままで……」
アイ=ファはいつになく惑乱した目で俺たちを見た。
「何なのだこれは! アスタ、ルド=ルウ、助けてくれ!」
「んー? 別に嫁入り前でも、女衆同士ならかまわねーんじゃねーの?」
「そういう問題ではない! 何だか背中がぞわぞわするのだ!」
アイ=ファはじゃけんにその頭を突き放そうとしたが、「ううん」と色っぽい声をあげながらレム=ドムは離れようとしない。ここでレム=ドムの鍛えぬかれた筋肉は初めて見せ場を発揮したようだった。
「……何なんだろうな、これ?」
頭をかきながらルド=ルウが俺を見る。
「よくわからないけど、たぶんアイ=ファが格好よすぎたんじゃないだろうか」
そういえば、ギルルが初めてファの家にやってきたとき、颯爽と道を駆けるアイ=ファの姿にご近所の女衆らも黄色い歓声をあげていたものなのである。
そんな感慨にふけっている間も、アイ=ファは「早く助けろ!」と悲痛にわめき続けたのだった。