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異世界料理道  作者: EDA
第十五章 巡りゆく日々
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黒の月の二十二日③~その名はライエルファム~

2015.12/8 更新分 1/1

『ギバ・カレー』の感想は、実にさまざまであった。


 辛さはけっこう抑えていたのでそこに不満の声をあげる者はいなかったが、「どこか物足りない」「シチューのほうが美味である」「もっと肉が欲しい」と、否定的なニュアンスが多かったのは否めない。


 ただし、「不味い」と発言する者はひとりとしていなかった。

 そして、チットの実を使った料理と同じように「何かまた食べたくなる味だ」と言ってくれる者もいた。


 改良を重ねれば、森辺の民にもこの料理を美味しいと思ってもらうことは可能かもしれない。

 そんな結果を胸に、その日の勉強会は幕を閉じることになった。


 そして――


「おお、何だ? 何やら奇妙な香りが充満しているな!」


 突如としてかまどの間の入口に登場する者があった。

 ダン=ルティムである。

 本日は扉も開け放しであったので、その四角い空間が丸っこい身体でふさがれることになった。


「ふむ! また新しい料理を考案していたのだな! よかったら俺にも味を見させてはくれまいか?」


 大きなお目々が期待に輝きまくっている。

 鉄鍋には、かろうじてまだ少量のルーが残っていた。


「はい、お口に合うかはわかりませんが、よかったらどうぞ」


「それはありがたい! ルウ家の女衆らよ、かまどの間に踏み入ってもかまわぬか?」


「ええ、どうぞぉ……」


 ヴィナ=ルウの許可を得て、ダン=ルティムがひょこひょこ入室してくる。

 当然のこと、右の足首はまだ完治していないので杖をついたままである。


「ううむ、面妖な香りだ! しかし腹の減る香りだな!」


 俺が木皿にすくった『ギバ・カレー』を、ダン=ルティムが口にする。


「うむ、美味い! ……のか、これは?」


「どうでしょう? それを是非ともお聞きしたいところなのですが」


「美味い気はする! 少なくともこの料理を晩餐に出されて不満に思うことはないだろう! ……しかし何となく、もっと美味いだろうという思いを裏切られたような心地もしてしまうな」


「それは、この香りに期待感をかきたてられるということでしょうか?」


「そうだな。この香りには何か引きつけられるものがある!」


 ならば後は、味を改良するだけでその期待に応えられる可能性はある。

 俺はいっそう力を得ることができた。


「それではその期待に応えられるように頑張ります。そのときはまた味見をお願いいたしますね」


「味見だったらいつでも請け負うぞ! 是非とも美味い料理を完成させてくれ!」


「……それで、今日はどうされたのですか、家長?」


 穏やかに微笑みつつアマ・ミン=ルティムが問いかけると、「おお!」と家長殿は手を打った。


「そうだそうだ忘れていた。実は北の集落までドムの女衆を迎えにいっていたのだ。こちらに呼んでもかまわんかな?」


「あらぁ、外で待たせておくのは気の毒よぉ、ダン=ルティム……どうぞこちらに呼んであげてくださいなぁ……」


「うむ! 許しが出たぞ! こちらに参るがいい!」


 すらりとした人影が、かまどの間に入り込んでくる。

 これがドム家の女衆かと、俺は目を見張ることになった。


 背の高い女衆である。俺より10センチ近くも大きいだろう。

 それに長身なばかりでなく、えらく逞しい身体つきをしている。しなやかですらりとした体格なのだが、肩や上腕にはしっかりと筋肉が張っており、腹筋もばっちり割れている。大腿筋の発達した両足などは、まるでカモシカのようだ。


 だが、逞しい女性ならバルシャで見慣れている。

 それに彼女はただ逞しいだけでなく、実に女性らしいプロポーションをも有していた。


 背筋や臀部がしっかりしているせいか、腰のくびれがものすごく強調されているし、それに、有り体に言って胸が大きい。アイ=ファを一回り大柄にして、さらに筋肉を増量させたような、それは精悍さと優美さをあわせもつ野生の豹みたいに美しい立ち姿であった。


 それに、鼻が高くてくっきりとしたその顔立ちも、いささか目つきが鋭すぎるものの、十分に整っている。

 黒い髪を高い位置でひっつめており、そこからこぼれた毛先がシャープな頬にかかっており、何とはなしに色っぽい。

 ギバの頭骨をかぶったりはしておらず、ただ、ギバの肋骨や大腿骨で作られた飾り物をくびれた腰に巻きつけている。


 なかなかインパクトのある風貌をした女衆であった。

 しかし、じろじろと俺たちを見回してくるその目つきには、いくぶん子供っぽいものが感じられる。

 長身で大人びた風貌をしているが、もしかしたら俺よりは年少なのかもしれないな、と思った。


「これはドム本家の家長ディック=ドムの妹で、レム=ドムという者だ。これから、少なくとも北の集落の休息の期間が明けるまではルウの集落に留まることになったので、面倒を見てやるがいい」


 ダン=ルティムの言葉に、レム=ドムと呼ばれた女衆は静かに頭を下げた。

 当然、事前に話は通されていたのだろう。ルウ家の女衆らは、みんな落ち着いた表情をしている。


「ずいぶん大勢の人間がいるが、ルウ本家の人間はこのヴィナ=ルウとレイナ=ルウだ。そちらの女衆は客分のバルシャで――あとたしか、お前さんもルウの分家の女衆であったな?」


「はい。シーラ=ルウと申します」


「うむ! あとは俺の息子の嫁であるアマ・ミンと、家人のツヴァイ、レイ家の家人ヤミル=レイ、以上がルウの眷族だ。それにファの家のアスタと、アスタを手伝うスドラとディンの女衆、だな」


「トゥール=ディンね? あなたの腕前はジーンとリッドの婚儀の祝宴でぞんぶんに楽しませてもらったわ」


 と――ついにレム=ドムがその口を開いた。

 語気は強いのに少し咽喉にからんだような、勇ましくも艶っぽい声である。

 その風貌には、ぴったりと似合った声であるようだった。


「それに、ヤミル=レイとツヴァイ……あなたたちとも、どこかの祝宴で何度か顔は合わせているはずね」


 そう言って、レム=ドムはふてぶてしく微笑した。


「あらかじめ言わせておいてもらうけど、わたしはあなたたちが嫌いだわ、ヤミル=レイにツヴァイ」


「…………」


「あなたたちはもう裁かれているのだから、それを責めるつもりはない。だけど、10年以上にも渡って眷族をあざむいてきたスン本家の人間を、わたしは好きになることができないの。それだけは、あらかじめ言わせておいてもらうわ」


「うむ! 誰を好こうが嫌おうが、それはお前さんの勝手だぞ、レム=ドムよ」


 豪快に笑いながら、ダン=ルティムはレム=ドムの顔を覗き込んだ。

 両者の身長差は、数センチほどしかない。


「ただし、この両名はもうスン家の人間ではないし、そしてツヴァイにいたっては俺の大事な家人だ。嫌うのは勝手だが、悪意を向けることは許されぬぞ?」


 笑っているのに、ダン=ルティムの瞳は炯々と光っていた。

 その瞳を見つめ返しながら、レム=ドムは「ええ」とうなずく。


「だからこそ、自分の気持ちを先に伝えておいたのよ。わたしは彼女たちに冷たく素っ気ない態度を取るだろうけど、族長たちの意向に逆らうつもりはない、ということを知っておいてほしかったの」


「ふむ。なかなかややこしい性格をしておるようだな、お前さんは」


 ダン=ルティムは、にんまり笑う。


「だがまあ、お前さんのように率直な人間は嫌いではない。機会があれば、お前さんにもツヴァイの可愛らしさを知ってほしいものだな!」


「そんなもん、逆さに振ったって出てきやしないヨ」


 下唇を突き出して、ツヴァイがそのように言い捨てた。

 ヤミル=レイも取りすました無表情で、レム=ドムの言葉を受け流すことに決めたようだ。


「それじゃあそろそろ俺たちはおいとまいたしますね。ツヴァイもヤミル=レイもお疲れ様でした」


 これ以上話がこじれない内にと、俺はそのように声をあげることにした。

 すると――レム=ドムの黒い瞳が、俺のほうに向けられてきた。


「ファの家のアスタ……よかったら、わたしもファの家に連れていってもらえないかしら?」


「え?」


「わたしはかまど番の修練を積みに来たの。だったら、あなたから手ほどきを受けるのが一番の近道でしょう?」


 レム=ドムが微笑していた。

 皮肉っぽい、あんまりよろしくない感じのする笑い方だ。


「こちらは別にかまいませんけど、でもあなたはルウの集落に逗留するのですよね、レム=ドム?」


「ええ。帰りは自分の足で戻るから心配は不要よ。……それでも何か問題はあるかしら、ダン=ルティム?」


「ふむ? べつだん問題はあるまいよ。晩餐までには戻って、一族の長たるドンダ=ルウに挨拶をするのだぞ?」


「了承したわ。……それではよろしくね、ファの家のアスタ」


「はあ……」


 何だかよくわからないまま、そのように決定されてしまった。

 だけどまあ、修練を積みたいというのなら好きなだけ積んでいただこう。


「それでは失礼いたします。みなさん、お疲れ様でした」


 ルウ家の女衆と、それにこのまま明朝まで居残るアマ・ミン=ルティムを残して、俺たちは外に出た。

 とたんに、ダン=ルティムが再び「おお!」と手を打った。


「そうだそうだ。もうひとつ大事な話を忘れておった! アスタよ、4日後の黒の月の26日にルティムのかまどをまかせたいと思っているのだが、了承してもらえるだろうかな?」


「ルティムの家のかまどを? それはもちろんかまいませんが、でも何故ですか?」


「うむ! 実はその日は俺の生誕の祝いの日なのだ!」


 杖をついたまま、ダン=ルティムは腹をそらせる。


「何でもお前さんはルウ家でもララ=ルウやティト・ミン=ルウの生誕の日を素晴らしい料理で彩ったそうではないか! ならばと俺も願い出ることにしたのだ!」


「生誕の日なのですか。それはおめでとうございます」


「祝福されるにはまだ早い! 引き受けてくれるのだな?」


「もちろんです。お断りする理由がないじゃないですか」


 その日も翌日も商売の予定であるが、少し時間を切り詰めればどうにかできるはずだ。

 そうやって、俺は灰の月にもティト・ミン婆さんの生誕の日を祝福したのである。


「恩に着るぞ! これでいっそう幸福な気分で生誕の日を迎えることができる!」


 巨大な手の平で背中をバンバン叩かれる。

 肺腑がぺしゃんこになりそうな力加減であったが、ダン=ルティムの笑顔を見ているとこちらまで自然に笑顔になってしまった。


「おお、そうだ。レム=ドムよ、よかったらお前さんもその日は祝宴に参加するがいい。すべての眷族から客を招く予定であるので、行きも帰りもルウ家の家人が荷車で運んでくれよう」


「それは光栄です、ダン=ルティム」


 お行儀のよい態度でレム=ドムは礼をする。

 どこか人を食った雰囲気があるレム=ドムであるが、ルティムの家長ダン=ルティムに含むところはないらしい。


 ところで、俺には聞き逃せぬ言葉があった。

 どうも家長の生誕の祝いとは、一家人のララ=ルウたちとは規模が違うものであるらしい。


「あの、ルティムの家人だけではなく客人を招くのですか? 総勢では何名になるのでしょう?」


「なに、大した人数ではない。各眷族から2名ずつで12名、ルティムの家人が27名で、合計39名ほどだな! そこにアスタとアイ=ファとレム=ドムを加えれば42名か」


 そのように言ってから、ダン=ルティムは少し不安そうな顔をした。


「そういえば、ララ=ルウやティト・ミン=ルウのときは本家の家人のみで済んだはずだな。この人数では、いささか難しくなってしまうのだろうか?」


「いえ、ルウ家の女衆にも何名か手伝いを頼めれば――うん、何とかなると思います」


「そうか! ならば頼んだぞ! ガズランもアスタには会いたがっておったからな!」


 ガズラン=ルティムとは、ここひと月ばかり顔を合わせていないのだ。

 元気であることはアマ・ミン=ルティムらにも聞いていたが、俺もそろそろ彼の存在が恋しくなっていたところだった。


「ではよろしくな! 必要な材料はアマ・ミンらに伝えておいてくれ!」


 最後にもういっぺん俺の背中に痛撃を与えてから、ダン=ルティムは表に繋いでいたトトス――ミム・チャーにまたがった。

 右足が使えないのに、実に軽やかな身のこなしである。


「そら、ツヴァイも乗るがいい! 家にはまだまだ仕事が残っているのだぞ!」


「やかましいネ。トトスは揺れるから嫌いなんだヨ」


「文句を言うな! お前さんも少しはトトスで風を切る楽しさを知るがいい!」


 ダン=ルティムに襟首をひっつかまれて、ツヴァイも馬上ならぬトトス上の人となる。


「それではな! みな、息災に!」


 そうしてルティムの家長と家人は風のように立ち去っていった。


「えーと……それじゃあ荷車にどうぞ。ちょっとスドラの家に用事があるので立ち寄らせていただきますよ?」


「ええ」とうなずき、レム=ドムは荷車に乗り込んでいく。

 リィ=スドラとトゥール=ディンもそれに続き、その場には俺とヤミル=レイだけが取り残された。


 木に繋いでおいたギルルに荷車の金具を装着していると、そのヤミル=レイがそっと唇を寄せてくる。


「アスタ。レム=ドムには少し注意しておいたほうがいいわ」


「え?」


「グラフ=ザザもあなたの力を認めつつあるし、そもそも北の集落の連中は搦め手を使ってくるような気性ではないから、何も邪な気持ちはないと思う。……だけど、あのレム=ドムという女衆がそこまでかまど番の仕事に熱心だとは、わたしにはとうてい思えないのよ」


「……レム=ドム個人が、俺に対して邪な気持ちを持っている、と?」


「邪ではないのかもしれない。でも、そんな風に自分の真情を隠しているというだけでも用心する必要はあるでしょう?」


 そのように言って、ヤミル=レイは面白くもなさそうに笑った。


「あの娘はきっと、嘘をつくのにも気持ちを隠すのにも慣れていないのよ。生来の嘘つきあるわたしなんかには、無理をして自分を装っているのがひしひしと感じられてしまうわ」


「それは単にヤミル=レイの洞察力が優れているだけですよ。自分を卑下する必要はありません」


「あなたこそ、わたしやツヴァイを買いかぶってしまっているわ。わたしたちは、ルウやルティムの連中みたいに純真な人間ではないのよ?」


「純真なだけが美点のすべてだとは思いません。たとえ本当に純真でなかったとしても、俺はあなたやツヴァイのことが好きだし大事ですよ、ヤミル=レイ」


 ヤミル=レイは舌打ちをこらえるような表情になり、こまかく編みこまれた髪をかきあげた。


「あなたと言葉を交わすのは疲れるわね、アスタ。それじゃあせいぜい痛い目を見ないようにお気をつけなさい」


「ありがとうございます。明日もよろしくお願いしますね、ヤミル=レイ」


 ひとり立ち去っていくヤミル=レイの優美な後ろ姿を見送ってから、俺は御者台に乗り込んだ。


 確かにレム=ドムという女衆は腹の底に何かを溜めている気配があったが、俺やアイ=ファに害をなすような人間であるとは思いたくなかった。

 彼女の兄であるというディック=ドムも、外見は恐ろしげであったが、サイクレウスとの会見ではともに窮地をくぐり抜けた同胞であるのだ。


(……ていうか、ディック=ドムっていうのはいったい何歳なんだろう。ひょっとしたら、ジザ=ルウとリミ=ルウぐらい年齢の離れた兄妹なのかな)


 なるべく平穏な方向に気持ちを傾けつつ、俺は荷車を発進させた。


               ◇


 まずはスドラの集落である。

 スドラの集落は、ファの家から徒歩で10分ていどの場所にある。フォウやランほどではないが、まあご近所さんの部類だろう。

 ルウ家からの帰り道にリィ=スドラをお送りするのはここ最近の日課であったし、そして本日は仕事を引き継ぐ予定の女衆と顔合わせをしなくてはならないのだった。


「おお、わざわざ出向いてもらって済まなかったな、アスタよ」


 家では、家長みずからが待ち受けてくれていた。

 ちょうど狩人の仕事から帰ってきたところなのだろう。他の男衆らが棒に下げたギバを家の裏に運んでいく姿が見える。


「話はリィから聞いているな? 恥ずかしながら、そういうことで別の女衆に仕事を引き継がせてもらいたいのだ」


 スドラの家長は、俺が知る限りでもっとも小柄な壮年の狩人であった。

 身長などは下手をしたらレイナ=ルウより低いぐらいだし、胴体も手足もやたらと細っこい。くせのある黒褐色の髪をざんばらにのばしており、しわくちゃの顔は小猿みたいだ。


 だけどこの人物は、何か説明のしがたい力を持っていると俺は思っている。


 小さな氏族の代表としてフォウとベイムの家長が族長の集まりに参加するようになったのはこの人物のアイディアであったし、つい先日は、眷族でない氏族でも家が近所なら休息の日程を合わせるべし、という提案をしてそれが採用されることになった。


 また、さらにさかのぼるなら、家長会議において真っ先にファの家の行状に賛同したのはこの人物であったし、血抜きと解体、調理の習得に関しても一番積極的であった。


 そして、テイ=スンからこの身を救ってくれた恩人でもある。

 最近ではあまり顔を合わせる機会はないものの、俺とアイ=ファにとってはかけがえのない人物のひとりなのだった。


「はい。リィ=スドラが退いた後のことまで考えていただいて、本当に感謝しています。……あ、その前に、このたびはおめでとうございます」


「よしてくれ。面と向かってそのようなことを言われるのには慣れていない」


 ぶすっとした顔で、しわぶかい額にさらなるしわを寄せてしまう。

 ただ、その目のふちが赤黒く染まっていた。


「それに、女衆を貸し出せば銅貨を得ることができるのだからな。感謝の言葉を口にするべきはこちらのほうだろう」


「いえ、フォウやランの人々なんかはやっぱりそれだけの時間を作るのは難しいようなので、本当に助かります。……肉の調達の件についてもお世話になったばかりですし、本当に感謝のしっぱなしですよ」


 そう、その件についても俺たちはスドラの家長に助けられていたのだった。


 青の月の終わりから白の月の半ばまで、ルウの眷族は休息の期間であったため、しばらく肉を準備することができなかった。

 そしてその次の灰の月では、ファやフォウやスドラなどの家が休息の期間に突入することになったので、俺はどこから肉を調達するべきか、さんざん思い悩む羽目になったわけである。


 家長会議において、ファの家の仕事に賛同する氏族は多数あった。しかしその内で血抜きや解体の技術を学べたのは、近在のフォウ、ラン、スドラ、ガズ、ラッツの5氏族のみであった。のちにザザの眷族であるディンとリッドもそれに加わったが、そちらもけっきょく近在の氏族であったので、休息の期間は重なってしまっていたのだ。


 そんな中、スドラの人々はフォウやランの人々にも呼びかけて、休息の期間は遠方の氏族の家を巡って血抜きと解体の技術を伝授し、商売用の肉を調達する段取りを整えてくれたのだった。


「俺たちはそれ以上のものをファの家から受け取っている。だから、感謝するべきはこちらのほうなのだ」


 しかしスドラの家長は、頑固にそう言い張った。


「リィの仕事と肉を売った代価で、俺たちは富を得た。これだけの富があれば、もはや幼子を飢えさせることもない。……アスタよ、俺はこれまでに2度までも飢えで子供を亡くしているのだ」


「……はい」


「今度こそ、子供を立派に育てあげてみせる。絶望ではなく希望をもってそのように考えることができるのも、みなファの家のおかげであるのだ」


 家長の隣で、リィ=スドラも穏やかに微笑んでいる。

 親子のように年齢の離れた両名であるが、ただそうして立っているだけで、おたがいをどれほど慈しんでいるかが伝わってくるような気がした。


 そこに、「あっ!」という大きな声が響きわたる。

 見ると、家の横手から割った薪を抱えた若い娘が姿を現したところであった。


「ああ、ちょうどよかった。こちらに来てアスタに挨拶をせよ、ユン。……アスタよ、この娘が宿場町の仕事を手伝わせるつもりでいる、ユン=スドラだ」


 ユン=スドラは薪の束を足もとに置き、おずおずとこちらに近づいてくる。

 森辺では黒髪よりも珍しい灰褐色の髪をサイドテールのような形に結った、可愛らしい女の子であった。

 俺よりも年齢は下だろう。ほどほどに小柄でスタイルのいい、ぱっちりとした目と少しすぼまった感じのする唇が印象的な娘さんだ。


 この少女も、かまど番の手ほどきを受けるために何回かはファの家を訪れているはずであった。

 ただ、個人的な交流はほとんどなかったので、特徴的な髪の色をしていなければ記憶に残らなかったかもしれない。


「あの……ユ、ユン=スドラです。色々とご迷惑をかけてしまうかもしれませんが、その、よろしくお願いいたします」


 お顔を真っ赤に染めながら、勢いよく頭を下げてくる。

 ずいぶん緊張しているようだが、それでもまあ元気で健康的な娘さんであるようには思えた。


「ファの家のアスタです。こちらこそよろしくね。……えーと、明日からさっそく働いていただけるのですか?」


「ああ、そちらに不都合がなければ、是非。代価はその働きっぷりで定めてくれればいい」


「だけどスドラは、たしか5名の女衆しかおられないのですよね? その内の2名をお借りしてしまって、本当に大丈夫なのですか?」


「大丈夫だ。足りない部分は男衆が補う。それだけの力を、俺たちは美味い食事から得ているからな」


 むっつりとした表情のまま、スドラの家長は力強く言った。


「それに、この娘で用事が足りなければ正直に述べてくれ。リィが自由に動ける内に、別の人間を準備しなければならないからな」


「ぜ、絶対アスタの力になってみせます! スドラの名を汚すような真似はいたしません!」


 ユン=スドラが熱っぽい眼差しで俺を見つめてくる。

 沈着なリィ=スドラとはずいぶん対照的であるようだが、まあとりたてて不安感をそそられることはない。


「かまど番としての腕前は、それほどリィに劣るものではないと思う。よかったら今日はこのユンを連れ帰り、アスタが仕事をするさまを見せてやってはくれぬか?」


「了解しました。日が暮れるまでに帰してあげればよいのですね? ……君もそれでいいのかな、ユン=スドラ?」


「はい! よろしくお願いいたします!」


 ユン=スドラはもう一度深々と頭を下げてから、俺の視線から逃げるように荷車へと乗り込んでいった。


「それではユン=スドラをおあずかりいたします。……ところであの……前々から聞こう聞こうと思いながら、つい聞きそびれていたことがあるのですが……」


「うむ。何であろうかな?」


「……実はですね、スドラの家長のお名前をお聞きしたいのです」


 スドラの家長は、きょとんと目を丸くしてしまった。

 そうすると、いっそう小猿めいた顔つきになってしまう。


「俺の名前? 俺はアスタに名乗ったことがなかったのか」


「はい。実はそうなのです」


「そうか。まあべつだん名前など知らなくとも縁を結ぶことはできるからな。そういえば、俺もフォウやランの家長の名前などは聞いた覚えがない」


 そう言って、スドラの家長はがりがりと頭をかいた。


「しかしこれだけの時を経て、今さら名を名乗るというのも奇妙な気分だ。……俺の名は、ライエルファム=スドラという」


「え? すいません、もう一度お願いします」


「ライエルファム=スドラだ。古めかしい名前であろう?」


「ふ、古めかしいのでしょうかね。とりあえず、森辺の民でそのように長い名前を聞いたのは初めてのことですが」


「俺の祖父の代ではこういった名前も珍しくはなかったらしい。森辺の民には東の血が混ざっているという伝承が残っているから、その名残なのやもしれんな」


 確かに《銀の壺》のシュミラルやラダジッドも姓のほうはずいぶん複雑で、俺には覚えきれなかったものなのである。


「あまりはっきりと覚えてはいないが、たしか『猛き猿の牙』とかそういう意味合いであったと思う。俺たちの祖は南の森で黒猿という獣を狩っていたらしいから、強き狩人に育つようにという願いがこめられているのだろう。祖父からもらったこの名前を、俺は誇りに思っている」


「はい。素敵な名前だと思います。これからは俺もそのように呼ばせていただきますね、ライエルファム=スドラ」


「うむ。今後もファの家とはよき縁を繋いでいきたいと願っているぞ、アスタよ」


 そう言って、スドラの家長ライエルファム=スドラはしわくちゃの顔をいっそうしわくちゃにして笑ってくれたのだった。

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