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異世界料理道  作者: EDA
第一章 異世界の見習い料理人
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⑦祝福の夜(下)

「うん。ギバの肉だよ。おいしいでしょう? もっと食べようね」


 レイナ=ルウも、少し涙声になってしまっている。

 リミ=ルウなどは、器を抱えたまま、声もなくぼろぼろと涙をこぼしてしまっている。

 そして、アイ=ファは――


 アイ=ファは、食事の手を止めて、少しうつむき、きつくまぶたを閉ざしていた。


「それじゃあ、お肉だけ食べてみようか? この赤いのは果実酒の蜜で、とっても甘くておいしいんだよ」


 何口かのふやかした肉を食べ終えたところで、レイナ=ルウが『ギバ・バーグ』をそのまま切りわけて、老婆の口に運ぶ。

 たぶん、前歯は全滅してしまっているのだろう。ぽっかりと空洞みたいな口を開けて、ジバ婆さんは『ギバ・バーグ』を口にふくんだ。

 もにゅもにゅもにゅ、と明らかに勢いを増した感じで、ジバ婆さんは肉を咀嚼する。


「本当に美味しい……美味しいよ……ギバがこんなに美味しいだなんて……」


「こんなものの、どこが美味いんだ? こんなグズグズに腐り果てたような肉は、人間の食い物じゃねえッ!」


 雷鳴のような怒号が響いた。

 家長のドンダ=ルウだった。

 誰よりも早く自分のぶんの食事を食べ終えたらしいドンダ=ルウは、空になった器を投げ出し、やけくそのように果実酒をあおる。


「果実酒なんざかけてやがるから、甘たるくて仕方がねえし、アリアも腐ってるみてえにぐしゃぐしゃだ! おい! こいつはギバの足だけじゃなく、肩だか背中だかの肉まで使っているとか抜かしていたなあ?」


 たてがみのような蓬髪をたなびかせ、岩塊のような顔に険悪なしわを刻みつけながら、ドンダ=ルウは大声でわめいた。


「ギバの胴体なんぞを喰らうのは、腐肉喰らいのムントだけだッ! 俺様は森のけだものじゃねえッ! 人間だッ! 誇り高き森辺の狩人なんだ! その俺様にムントと同じものを食わせるなんざあ、いったいどういう了見なんだよ!?」


「ぎゃんぎゃんと喧しい子だねえ。……それじゃあ家長を継ぐ前と一緒じゃないかい……?」


 しわの中に隠れたジバ婆さんの目が、ゆっくりと家長のほうに向けられる。


 ドンダ=ルウは、家長である――が、それと同時に、この大男は最長老の孫でもあるはずなのだ。

 自分の半分も体積のなさそうな老婆を、大男は火のような目でにらみ返す。


「……これがムントの食べ物だったら、ムントのほうが人間より上等ってことになってしまうねえ……まあ案外、森ではそれが真実なのかもしれないけどさ……」


 心なしか、老婆の声はさきほどよりも力を増しているように感じられた。


「……でも、お前がそう考えているなら、それはそれでかまわないんだよ、家長のドンダ。何を正しいと思うかは、人間それぞれの自由なんだから……この婆にとっては、この肉が正しいってことなのさ……」


「すごい……ジバ婆が、昔みたいに元気に喋ってる……」


 そうつぶやいたのは、リミ=ルウだった。

 ジバ婆さんの目なき目が、今度はゆっくりとそちらに差しむけられる。


「これはリミも一緒に作ってくれたんだってねえ。……すごく美味しいよ。ありがとうねえ、リミ……」


「ううん!」と首をぷるぷる振って、リミ=ルウは泣きながら残っていたハンバーグを口の中に詰め込み始めた。

 その姿をしばし見守ってから、ジバ婆は「アイ=ファ……そこにいるのかい?」と、つぶやいた。


 俺のすぐ隣りで、アイ=ファがぴくりと肩を震わせる。


「悪いんだけど、婆はもうすっかり目も弱くなっちまったんだよ。こんな暗がりじゃ何も見えやしない……いるなら、こっちに来て顔を見せてくれないかい……?」


 アイ=ファが動こうとしないので、俺は「おい」とその脇腹を肘で小突いてやった。

 アイ=ファは、ものすごく物騒な目つきで俺をにらみ、それから、ゆっくりと立ち上がった。

 何故か、俺の手首をしっかりと握りしめながら。


「あれ? おい? ちょっと!」と騒ぎながら、俺は慌ててスープの器を床に置く。

 問答無用の腕力で引きずられ、俺はアイ=ファとともにジバ婆さんのかたわらに膝をつくことになった。

 ドンダ=ルウが、ものすごい目つきで俺たちをにらみつけている。


「ジバ=ルウ。……ファの家の、アイ=ファだ。こっちのは、家人のアスタ」


 ジバ婆さんは、もちろん俺などには目もくれず、しわくちゃの指先をアイ=ファの顔に伸ばし始めた。

 カサカサの、骨と皮しかないような指が、アイ=ファのなめらかな頬に触れる。


「ああ……ひさしぶりだねえ……いったい何年ぶりだろう……ずっとあんたに会いたかったんだよ、アイ=ファ……」


 近くで見ると、ジバ婆さんはやっぱり干した果実なんかではなく、きちんとした人間なのだということが判然とした。


 顔も指先もしわくちゃで、大きな鼻にも薄い唇にもこまかい亀裂みたいな年輪が刻まれて、前歯がないせいか言葉も聞き取りにくい。

 しかし、そのたるんだまぶたの下には、思いも寄らぬほど明哲な青い瞳が光っており、干した果実みたいな顔には、慈愛に満ちみちた表情が浮かんでいる。


 なんて優しそうな顔だろう。

 なんて柔らかい表情だろう。


 こんなに幸福そうな顔で笑うお婆さんを見たのは、俺は生まれて初めてかもしれない。


「レイナ=ルウ。あんたもこの美味しい食事をいただくといい。……アイ=ファ、婆に食事を食べさせてくれるかい……?」


「……ジバ=ルウがそれを望むのならば」


 アイ=ファがそっとジバ=ルウの腕を取り、レイナ=ルウは目の端の涙をぬぐいながら、立ち上がった。


「何が食べたい? 肉か? ポイタンか?」


「ギバの肉を。……これは本当に美味しい肉だねえ……」


 アイ=ファは何の表情も浮かべぬまま、ちょっとぎこちない手つきで老婆の口に木匙を運んでやった。


「ああ、美味しいよ。……これはあんたが作ってくれたんだってねえ、アイ=ファ……」


「いや。私はほとんど眺めていただけだ。この食事は、ジバ=ルウの家族と、このアスタとで作り上げた」


「……アスタ……」


 と、その糸みたいな目が、俺に向けられる。

 もしかしたら、あの長兄ジザ=ルウも、これぐらい間近で相対すれば、その心情をうかがうことが可能なのだろうか。

 ほとんど見えないぐらいふさがりかけてしまっている老婆の目には、はっきりと歓喜の光が瞬いていた。


「ファの家のアスタ……あんたがこの食事を……?」


「はい。リミ=ルウに頼まれて。……俺の親父は、遠い異国の料理人だったんです。俺はそれを手伝う見習いに過ぎなかったんですけど、お気に召してもらえたのなら、とても嬉しいです」


 ジバ婆さんの手が、ふるふると宙をさまよった。

 アイ=ファに静かな目線を送られ、俺はおっかなびっくりその手を取る。

 枯れ枝よりも枯れ果てた、しかしその内にしっかりと熱を宿したカサカサの指先が、俺の指先を握った。


「ありがとう……この婆は、もう生きているのが、しんどくなっていたんだよ……まともに歩くこともできず、まともにものを食べることもできず……ただ家族に迷惑をかけるだけの老いぼれになっちまって……どうして神様はこの老いぼれの魂をとっとと空の上に連れていってくれないのか、毎日毎日悲しむばかりだったのさ……」


「迷惑なんて……!」と叫びかけたリミ=ルウが、隣りの赤い髪をした姉に頭を小突かれ、おし黙る。


「この婆はね、5歳の頃に、この森へやってきた……南の神ジャガルを捨てて、西の神セルヴァに魂を捧げた、最初の1000人のひとりだったんだよ……」


「――はい」


「だけど、この森辺は好きになれなかった……南の森は、とても豊かで、動物なんかは人間を襲う大猿や毒蛇しかいなかったけど、好きなときに果実をもいで……ときどき土の中の虫を掘り起こしたり、七色に光るトカゲを焼いて食べたりして……都の人間には蛮人と蔑まれていたけれど、でも、とっても幸福だったのさ……」


 ジバ婆さんの目は、もはや俺のこともアイ=ファのことも見ていないようだった。

 ここではないどこかを見つめながら、その澄みわたった瞳がまた少し涙を浮かべている。


「だけど、一族の森は、兵士に焼かれて……あたしたちは、西に逃げた。そうしてこの西の森辺に移り住んだ。ギバを狩れ、と、西の都の人間たちに命じられて、森の恵みに手をつけることも禁じられて……それでも最初、みんなは幸福そうだったんだ。もうトカゲの肉なんて食べる必要はない。腐った果実や茸を拾う必要もない。好きなだけギバの肉を食べられる、人間の作った田畑の恵みを食べられる……ってね……」


「はい……」


 相槌なんて、必要ないのかもしれない。

 老婆の目は、遠い昔日の情景を見ているのだ。


「だけど、この森辺は恐ろしいところだった……最初の1年で、100人の男衆がギバに殺された。次の1年でも、また100人の男衆が殺された。何人も何人も男衆が死んでいって、その次には飢えた女や子どもたちが同じ数だけ死んでいった。最初の何年かで、1000人いた同胞たちの半分以上が死んでいってしまったのさ……」


「はい」


「ガゼの家は滅んだ。リーマの家も滅んだ。その後はスンの家とルウの家が民を導いて、何とか今の生活を築きあげることができた……ギバを狩ってその肉を喰らい、牙と角を売って田畑の恵みを買う。そうしてあたしたちはこの森辺で生きていくすべをようやく身につけることができたんだけど……あたしはずっと、あたしの生まれた森に帰りたかったんだ」


 気づくともうほとんどの人間が食事を終えて、静かに最長老の言葉に耳を傾けていた。


「だけどもう、あたしたちの森は燃えてしまったし、あたしたちの森を知る人間もどんどん死んでいって、ついにはあたしひとりになっちまった……さびしくって、悲しくって、こんなにたくさんの家族に囲まれながら、あたしはいつでもこの森辺じゃない森のことばかり考えていた……ギバの肉なんてちっとも美味くない。田畑で作った人間の恵みなんてちっとも美味くない。そんなことを考えていたら、この歯が1本、また1本と抜けていって、ギバの肉が食えなくなった。ああ、西の神の怒りに触れたんだ……でもこれでようやくみんなのところに帰れるんだ……なんて、そんな風に考えて……早く南の森に帰りたい、としか考えられなくなっちまったんだよ……」


 カサカサにひびわれた手が、意外な力で俺の指を握ってくる。

 いつのまにか、青く透徹した瞳が、また俺のことを見ていた。


「あたしは死んだ家族や燃えた森のことばかりを考えていた。だけど今日、生きている家族やこの森辺のことを考えることができた。あたしの魂はもう南方神ジャガルではなく、西方神セルヴァに捧げられたんだ。あたしは生きている家族とともに、ギバの肉を食って生きていくんだ……生きていかなきゃいけないんだ……そんな当たり前のことを、ようやく思い出すことができたんだよ……」


「……きっと、歯が抜けて美味しいものを食べられなくなったから、気持ちが弱っていただけですよ」


 俺の間抜けな返答に、アイ=ファが少しぎょっとしたような顔をする。

 しかたがないではないか。俺は一介の見習い料理人なのだ。苛烈な85年を生きてきた森辺の最長老と高尚な会話を繰り広げるスキルなど持ち合わせていない。


「そんな風に弱ってしまうまでは、きちんと今の人たちを大事に思えていたはずです。そうでなきゃ、アイ=ファやリミ=ルウたちがこんなに必死になることもなかったでしょう。彼女たちが、心底からあなたを助けたい、あなたに生きる喜びを思い出させてあげたいって願ったから、俺もなけなしの力を貸してあげようと思えるようになったんですよ」


 ジバ婆さんは無言のまま、アイ=ファを振り返った。

 アイ=ファはちょっと唇を噛みながら、怒っているような目つきで婆さんをにらみ返している。


「お礼は、彼女たちに言ってあげてください。俺はもう、自分の料理を美味しいと言ってもらえただけで大満足です」


「美味しかったよ。……本当に美味しかった……ギバの肉なんて大嫌いだったこの婆が、ポイタンなんて人間の食べるものじゃないと思っていたこの婆が、もっと食べたい……この森で生きていきたい……と思えるようになったぐらいなんだからね……」


 ジバ婆さんは静かに笑い、「アイ=ファ、婆の首飾りを外しておくれ」と囁いた。

 アイ=ファは怒ったような顔のまま、言われた通りに首飾りを外して、婆さんの小さな手に握らせてやる。

 小枝のような指先が、ぷるぷる震えながら、ギバの牙と角を紐から抜き取った。


「ルウの家のジバ=ルウから、ファの家のアイ=ファと、家人アスタに祝福を……どうか、受け取っておくれ……」


 三つしかない牙と角の、それぞれ一つずつが俺とアイ=ファに差しだされる。


「おい、ジバ婆、それは――ッ!」と声を荒げるドンダ=ルウに、ジバ婆さんは背中を向けたまま、笑う。


「森辺の民の生命を司る、ギバの牙と角さ……この牙と角が、大恩ある人間の血肉となり、生命となることを願い……ルウの家のジバ=ルウは、あんたたちの魂を祝福する」


 それは、俺がこの異世界で初めて得る――自分の仕事への、形ある代価だった。

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― 新着の感想 ―
今更だがギバの角と牙の首飾りは角と牙に穴を空けているのだろうか だとしたら町で売るときに価値が下がってしまいそうなものだが
[気になる点] https://ncode.syosetu.com/n3125cg/25/ ・「……とはいえ、ルウの家が他家の人間にかまどをまかすなど、西神セルヴァに剣を捧げて以来の大椿事だろう。家長…
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