黒の月の二十二日①~ご報告~
2015.12/7 更新分 1/2 12/14 誤字を修正
・本日から更新を再開いたします。
・今回は9話分で、初回のみ2話の更新となります。
黒の月の22日。
マイムとミケルを客人として迎えた、その翌日である。
その日も俺は、何事もなく定刻通りに宿場町へと向かうことになった。
途中でスコールのような大雨に見舞われつつ、それが過ぎ去ればまた強く日が差してきて、風も心地好い。
ギルルの足取りも軽快だ。
ただ、荷車に乗ったトゥール=ディンの表情がいささか暗い。
「大丈夫かい、トゥール=ディン? ずいぶん元気がないみたいだけど」
「え? ……いえ、そのようなことはないつもりなのですが……」
「……やっぱりマイムのことが気にかかってしまっているのかな?」
昨日、マイムがこしらえたミャームーのスープを口にしたとき、トゥール=ディンは驚きのあまり言葉を失い、そうして無言のままディンの家に帰っていってしまったのである。
俺にとってはかけがえのない出会いであったとしても、他のみんなにとってはそうでなかったかもしれない。マイムの腕前があれほどのものであったと予測できていなかった俺には、その部分だけが非常に気がかりであったのだった。
「それはもちろん、気にかからないわけはありません。自分と変わらないていどの年齢でしかない娘があのような料理を作ることができるというのは、やはり驚きでした」
「そうだろうね。俺も驚いたよ」
「本当に、驚かされるだけでなく、自分の至らなさを痛いほどに思い知らされてしまいます」
あまり力のない声で言い、小さく息をつく気配がする。
ギルルの手綱を握りながら、俺はますます心配になってしまった。
「だけど、マイムは物心がついたときからミケルに料理の手ほどきを受けていたみたいだからさ。それで、ミケルは城下町でも指折りの料理人であったわけだし――」
「ええ。そのような娘と自分を比べることのほうが、おこがましい話なのでしょうね」
「いや、あのね、トゥール=ディン」
「大丈夫です。別にそれで自分を卑下したりはしていません」
そうしてトゥール=ディンの声が接近してきたかと思うと、急に御者台の横合いから小さな顔がひょっこり覗いてきた。
「何か心配をさせてしまいましたか? わたしはただ、どうすればもっと料理の腕を上げることはできるかと、それを思い悩んでいただけなのです」
トゥール=ディンの目が、むしろ俺を心配するかのように見つめてくる。
その綺麗な瞳をじっと見返していると、トゥール=ディンはにわかに頬を赤らめて進行方向に視線を転じた。
「わたしにはまだ腕を上げる余地があると言ってくれたアスタの言葉を信じたいと思います。自分を卑下したって、それで料理が美味しくなるわけではありませんから」
「うん、トゥール=ディンがそんな風に考えているなら何よりだよ」
トゥール=ディンは前を向いたまま、はにかむように微笑んだ。
その笑顔からは、確かに負の感情など一切感じられなかった。
「わたしもアスタやあの娘のように、誰からも美味しいと思ってもらえるような料理を作れるよう頑張りたいと思います。……これからもどうぞ手ほどきをよろしくお願いいたします、アスタ」
「うん、こちらこそよろしく」
やっぱり根っこはしっかりとしているトゥール=ディンなのだ。
マイムの存在が彼女に悪い影響を与えなくてよかったと、俺は内心で安堵の息をつくことになった。
(さて、レイナ=ルウたちのほうは大丈夫かな)
やがて荷車はルウの集落に到着する。
すると、本家の前でたたずんでいたレイナ=ルウとシーラ=ルウが小走りに近づいてきた。
「おはようございます! アスタ、こちらの料理の味を見ていただけませんか?」
「え? 何だい、その料理は?」
驚く俺のもとに、レイナ=ルウの手にした木皿が差し出されてくる。
木皿には、ギバの肉片が浮いた赤褐色のスープがほんの一口分だけ注がれていた。
「昨日、アスタたちが家に戻った後、わたしとシーラ=ルウですーぷに色々と味を加えてみたのです。アスタの正直な感想を聞かせていただきたく思います」
レイナ=ルウは気迫のこもった表情をしており、シーラ=ルウも静かに強く瞳を光らせている。
何が何だかもわからないまま、俺は木皿を受け取った。
果実酒やタラパの香りが芳しい。
肉はバラ肉で、煮込まれる前に表面を焼かれているようだった。
一緒に添えられていた木匙でその肉片とスープを食させていただき、俺は「うん」とうなずいてみせる。
「これは美味しいね。果実酒をベースにして、タラパとアリアとネェノンと……それに、タウ油や砂糖やミャームーも使っているんだね。いや、これは肉の味付けで使われているのかな?」
「はい。以前アスタに教えていただいたギバの照り焼きです。その照り焼きと調和するようなすーぷを目指したのですが、いかがでしょう?」
「いやあ美味しいよ。見事に調和しているんじゃないのかな」
「本当ですか? 余分な味や足りない味などがあるのではないでしょうか?」
レイナ=ルウは御者台の座席に手をかけて、背伸びをするように顔を近づけてくる。
子供のように一生懸命で愛くるしい姿だが、表情はあくまでも真剣だ。
「うーん、そうだなあ……あえて言うなら、というぐらいの言葉しか思いつかないんだけど……」
「はい、それでも十分です」
「えーっとね、果実酒の甘みを活かしたいなら、照り焼きの砂糖はもっとひかえめでもいいかもしれない。それでもうちょっとアリアのみじん切りを増やしたら、いっそう味に深みが出るかもしれないね。……いや、このままでも十分美味しいんだけどさ」
「砂糖を減らしてアリアを増やすのですね。わかりました。試してみます」
力強くうなずくレイナ=ルウに、俺は「どうしたの?」と笑いかける。
「まさか朝から味見を頼まれるとは思わなかったよ。マイムの存在に奮起させられたということなのかな?」
「もちろんです。あのような腕前を見せつけられて奮起しないかまど番など存在しますでしょうか?」
闘志に燃えるレイナ=ルウとシーラ=ルウの後ろでは、ヴィナ=ルウが色っぽく肩をすくめている。さらにその向こうで素知らぬ顔をしているのは、ヤミル=レイとツヴァイだ。
何にせよ、こちらにおいてもマイムの悪い影響などは考えずに済むようであった。
◇
「まったく我が妹ながら、レイナの熱情には感心してしまうわよぉ……あれだけの腕前を持っていながら、まだ満足できないのかしらぁ……」
『ギバ・バーガー』の屋台でヴィナ=ルウが溜息をついている。
『ポイタン巻き』の屋台で俺はその言葉を聞いていた。
「まあレイナ=ルウとシーラ=ルウの向上心は生半可なものではないですからね。マイムの存在が刺激になったのなら何よりです」
「それで試食につきあわされるこっちはたまったもんじゃないわよぉ……これじゃあますます余計な肉がついちゃうじゃない……」
と、切なげに自分のおなかをなで回すヴィナ=ルウである。
俺が見る限りでは余計な肉など微塵も存在しないのだが、ここはあえて触れずにおく。
すると、ひとつ向こうの『ミャームー焼き』の屋台からシーラ=ルウがこちらに声を飛ばしてきた。
「申し訳ありません、ヴィナ=ルウ。自分たちだけで味見を繰り返していてもなかなか正しい道が見えてこないので、できるだけたくさんの方から意見を聞いてみたかったのです」
「別にあなたを責めてるわけじゃないのよぉ、シーラ=ルウ……ただ、これだけ毎日たくさんの料理が売れてるんだから、そんなしゃかりきに頑張らなくてもいいような気がしちゃうのよねぇ……」
「いえ、慢心はできないと思います。宿場町の民たちがもっと巧みにタウ油や砂糖を使いこなせるようになったら、わたしたちの商売もどうなるかわからなくなってしまうのですから」
ヴィナ=ルウの肩ごしに見えるシーラ=ルウの顔は、朝と変わらず静かな熱意に燃えている。
「アスタとて、その件に関しては危惧しておられるのでしょう? いかにギバ肉が美味であっても、こちらには値段が高いという不利な条件が存在するのですから」
「そうですね。今まで調味料と縁のなかった宿場町の人たちがそうそう簡単に使いこなせるようにはならないと思いますが、油断はできないでしょう」
そのように答えてから、俺はシーラ=ルウに笑いかけてみせる。
「でも、あまり思いつめないように気をつけてくださいね? 腕前を上げることばかりに執心していると、手段と目的を取り違えてしまうことにもなりかねませんから。シーラ=ルウやレイナ=ルウはとても真面目で一途な性格をしておられるので、そこだけが少し心配です」
「……はい。肝に銘じておくことにします」
シーラ=ルウはうなずき、鉄板に肉を落とす。
ルウ家でも、『ミャームー焼き』のために鉄板を購入していたのである。
「……だけどあなたもシーラ=ルウたちに劣らず意欲に燃えているようね、アスタ?」
と、かたわらのヤミル=レイがこっそり呼びかけてくる。
「表情なんかはいつもと変わらないけど、目の輝きが違っているわ」
「それはもちろん、これ以上ないぐらい奮起しておりますよ。さっきの言葉は、自分への戒めでもあるのです」
「ふうん……わたしはそこまでかまど番の仕事に意欲を燃やすことはできそうにないわね。レイの家長には悪いけど」
「いやいや、もうひと月以上も勉強会に参加しているのですから、ヤミル=レイの腕前もめきめき上達しているはずですよ。ラウ=レイだって、ご満悦なんじゃないですか?」
「…………」
「あれ? まさかまだ文句などを言われているのですか? だったら俺が一言もの申してあげますよ」
「余計なことはしないでちょうだい。別に家長も不満などは述べていないわ」
すると、耳をそばだてていたらしいヴィナ=ルウが「そうよねぇ……」と笑いを含んだ声で口をはさんできた。
「この前だって、レイの家長はわざわざトトスを走らせてルウの集落まで自慢に来たぐらいだものぉ……ヤミル=レイのおかげで、レイ家の女衆らはみんな大層な腕前を身につけることができたってねぇ……」
「そうだったんですか。それならよかったですね」
ヤミル=レイに笑いかけると、横目でにらまれてしまった。
「……アイ=ファがどうしてあなたの足をしきりに蹴るのかがわかった気がするわ」
「え? な、何ですか?」
「何でもないわ。そろそろ肉を焼いたほうがいいんじゃない?」
「はい、了解です」
こうして言葉を交わしている間にも、お客さんはひっきりなしに訪れてくれているのである。
そろそろ交代の時間かなと思ったところで、リィ=スドラとアマ・ミン=ルティムが連れ立って登場した。
「お待たせしました。交代の時間です」
「はい、お疲れ様です、リィ=スドラ」
焼きかけの肉を仕上げてから、俺は身を引いた。
しかし、屋台の横に立ったリィ=スドラは動こうとしない。
「ヤミル=レイ、ほんの少しだけ時間をいただいてもよろしいですか? わたしはアスタにお伝えしなければならないことがあるのです」
「ええ、お好きにどうぞ」
俺は内心で首を傾げつつ、リィ=スドラとともに屋台を離れた。
普段通りの涼しげな眼差しで、リィ=スドラは俺を見つめ返してくる。
「どうされたのですか? リィ=スドラが俺に話だなんて珍しいですね」
「はい。……実はアスタにお詫びを申しあげねばなりません」
そう言って、リィ=スドラは深々と頭を下げてきた。
「このようなことをお伝えするのは非常に心苦しいのですが……わたしはまもなくアスタの仕事を手伝えなくなってしまうのです」
「ええっ!? 何故ですかっ!?」
俺はびっくりして大声をあげてしまった。
リィ=スドラは、頭を下げたまま言葉を重ねる。
「これだけ長きに渡ってアスタの仕事を手伝い、ようやく人並みの働きができるようになってきたというのに……本当に申し訳ない限りです」
「り、理由を聞かせてください。俺は何かスドラ家の信用を失うようなことでもしでかしてしまったでしょうか?」
「まさか、そのようなことがありうるはずはありません。これはスドラの家の、一方的な都合なのです」
リィ=スドラがゆっくりと面を上げる。
その端正な細面には、思いがけないほど澄みわたった微笑みが浮かんでいた。
「実は、身重になってしまったようなのです」
「え?」
「わたしは子供を孕んでしまったようなのです」
俺はとっさに返事ができなくなってしまった。
リィ=スドラは、同じ表情のまま少しだけうつむく。
「まだしばらくは役目を果たすこともできましょうが、遠からず町に下りることはかなわなくなります。ですから、今のうちにお伝えしておこうと――本当に申し訳ありません」
「い、いえ、謝らないでください。それは――それは、素晴らしいことじゃないですか!」
ようやく事態が理解できて、俺の胸にも熱いものがせり上がってきた。
「全然気がつきませんでした。失礼ながらまったく見た目は変わっておられないようですが、いったいいつ頃お生まれになるのでしょう?」
「ようやく自分で知ることのできた段階なのですから、生まれるのは何月も先です。しかし、屋台の商売には覚えることがたくさんあるので、今の内から新しい女衆にわたしの仕事を引き継がせる必要があると思います」
ちょっと真剣な面持ちになりつつ、リィ=スドラはそのように言った。
「もしもアスタに異存がなければ、その女衆はスドラで準備いたします。是非にと名乗りをあげている者がおりますので」
「でも、そうすると引き継ぎの間はふたりいっぺんに町へ下りることになるのですよね? 家の仕事は大丈夫なのですか?」
「しばらくの間なら問題はありません。アスタさえ異存がなければですが」
「もちろんこちらは大助かりです。……でも、リィ=スドラとしばらくお別れになってしまうのはとてもさびしいことですね」
リィ=スドラが屋台の商売を手伝ってくれるようになったのは家長会議の直後からであるから、もう3ヶ月以上は経過しているはずであった。
まだ20を少し越えたていどの若さであるが、沈着で、堅実で、仕事の覚えはとても早かった。いつも賑やかなルウ家の女衆のかたわらで静かに微笑むその姿は、俺にどれだけの安心感を与えてくれたことだろう。
そのようなことを考えていると、リィ=スドラは何かまぶしいものでも見るように目を細めた。
「アスタにそのように言っていただけるのはとても光栄なことです。わたしもアスタから手ほどきを受けられなくなるのはずいぶんと口惜しく……そして、さびしいです」
「そのように言ってもらえて、俺のほうこそ光栄です」
「でも、お別れをするにはまだ時間がかかります。その前に、新たに働く女衆にしっかりと仕事を覚えこませたいと思います。……それまでは変わらぬおつきあいをお願いいたします、アスタ」
そう言って、リィ=スドラはとても優しげに口もとをほころばせてくれたのだった。