森辺への客人③~ささやかな再会~
2015.11/22 更新分 1/1
「あれ? みなさん、どうされたんですか?」
ルウの集落での勉強会を終えてファの家に戻ると、6名ばかりの女衆らが俺たちを待ちかまえていた。
フォウ、ラン、ディン、そして最近姿を見せるようになったリッドの女衆たちである。
その中で、たしかラン家の壮年の女衆が白い歯を見せて笑いかけてくる。
「どうしたもこうしたも、今日は町から客人を連れてくるって話だっただろう? そいつを歓迎しようと思って、こうして集まったのさ」
「はあ、そうなのですか」
俺は御者台から降り、ギルルを荷車から解放する。
その間に、連れの人々も続々と荷台から降り始めた。
マイム、ミケル、トゥール=ディン、リィ=スドラの4名である。
リィ=スドラは途中で下車して自分の家に戻るのが常であったのだが、本日は「最後まで見届けさせていただきます」と同行してきたのだった。
「始めまして、森辺の皆様方。わたしはトゥランのマイムで、こちらは父のミケルと申します」
マイムが深々と頭を下げると、女衆らも口々に名前を名乗った。
俺が名前を覚えきれているのは、ジャス=ディンとサリス・ラン=フォウの2名のみであった。
彼女たちはルウ家の人々ほど町からの客人になれていないので、興味津々の様子か、あるいは警戒気味の表情に二分されている。その内の前者にあたるラン家の女衆がまた笑顔でトゥール=ディンに呼びかけた。
「今日はあんたもファの家の晩餐をこさえるんだろう? あたしらにも味見をさせてほしいんだけど、いかがなもんかね?」
「えー? こちらでもですか? ……わかりました。頑張ります!」
この道中で、マイムはすっかり回復していた。
ルウの集落を出るまではずっとしょんぼりしていたのだが、途中で「アスタの家ではもっときちんとした料理を作ってみせます!」と奮起してみせたのである。
その姿を見ているだけで、俺は武者震いしそうになってしまう。
「それじゃあ皆さんは裏のかまどでお待ちください。マイムとミケルは家の中にどうぞ。食料庫にご案内します」
日没までは、残り2時間弱を残すばかりである。客人をふくめても4名分の晩餐ならばどうということはないが、汁物料理にはなるべく早く手をつけておきたい。
「そうだ、マイムには汁物料理をお願いできないかなあ? それでそいつを温めている間に、俺がその他の調理をお披露目する、という形でどうだろう?」
「わかりました。承ります」
ルウ本家に比べれば実にささやかな食料庫において、マイムは真剣な視線を巡らせる。
そうしてマイムが選んだのは、アリアとティノとネェノンとミャームー――そして、フワノの粉とキミュスの卵であった。
「ふむ。ついにミャームーを使うんだね」
「はい? ついにとは?」
「いや、俺はけっこうミャームーのお世話になっているんだけど、今のところマイムはまったく使おうとしていなかったからさ」
「ミャームーは香りが強いので、調和させるのがとても難しいように思うのです。アスタはそんなミャームーを見事に使いこなしているので、すごいと思います」
「うーん、俺としてはミャームーに頼りすぎているのかなという気がしなくもないんだけどね」
「そんなことはありません! ……きっとギバ肉は風味が強いのでミャームーが合うのでしょう。キミュスやカロンの足肉では、ミャームーの香りに負けてしまいがちなのです」
そのようなことを言いながら、マイムは食材を積んだ籠を持ち上げた。
俺はまたモモ肉を所望されたので、それを手に家の裏のかまどへと案内をする。
「とりあえずギバ肉を煮込んで出汁をとらせていただきますね」
家から運んだ鉄鍋に水を張り、薄切りにしたモモ肉を煮込んでいく。
とたんに浮いてきた大量の灰汁に、マイムは目を丸くした。
「すごい灰汁ですね! さっきはちっとも気づきませんでした!」
「ああ、さっきは果実酒で煮込んでいたからね。別に雑味は感じなかったけど」
「そうですね。……だけどやっぱり、そういうところでも味が壊されていたのかもしれません」
真剣な面持ちでうなずきつつ、マイムは入念に灰汁を取り始める。
アイ=ファが帰還したのは、そのタイミングであった。
「……何だ、ずいぶんな大人数なのだな」
閉口気味のアイ=ファに、女衆らが口々に挨拶をする。
そして、巨大なギバを背負ったアイ=ファの前に、ひとりの女衆が進み出た。
サリス・ラン=フォウだ。
「お帰りなさい、アイ=ファ。どこも怪我はない?」
「……うむ」
「よかったわ。……母なる森よ、その慈愛に心よりの感謝を捧げます」
「サリス・ラン=フォウ、そのような祈りは家族にのみ向けるべきであろう」
「ごめんなさい。でも、アイ=ファはわたしにとって家族と同じぐらい大事な存在だから……」
俺がリフレイアに捕らわれていた間に、アイ=ファは幼馴染と和解を果たしていたのだった。
アイ=ファの態度に変化はないが、サリス・ラン=フォウのほうは親愛の念を隠そうともしていない。どちらかといえば大人しげではかなげなサリス・ラン=フォウであるのだが、そんな彼女が人目もはばからずアイ=ファに親しげに接している姿は、見ていてとても温かい気持ちになる。
などと考えていたら、いくぶん頬を赤くしたアイ=ファに足を蹴られた。
「えーと、俺は何か蹴られるような粗相をしてしまったでしょうか?」
「やかましい」
サリス・ラン=フォウは、くすりとひかえめに笑っている。
そこでマイムが「あっ!」と声をあげた。
「おひさしぶりです! あの、わたしのことを覚えていらっしゃいますか?」
「うむ?」
アイ=ファがけげんそうにマイムを見る。
灰汁を取っていたレードルを手に、マイムはぺこりと頭を下げた。
「わたしはトゥランのマイムと申します。アスタを捜し出すことができて本当によかったですね?」
「お前はひょっとして……トゥランで出会った、あのときの娘か?」
「はい!」とマイムは瞳を輝かせる。
驚いたのは、俺であった。
「ふ、ふたりは顔見知りだったのかい? どうしてまた?」
「うむ。リフレイアという娘にお前がさらわれたとき、私はトゥランの領内を捜索していたと話したであろうが? そのときに、この娘とは顔を合わせることになったのだ」
「覚えていてくださったのですね。嬉しいです」
「トゥランにおいて、少しでも私たちに情けをかけてくれたのはお前ぐらいであったからな。……そうか、トゥランのミケルの娘とはお前のことであったのか」
感慨深そうに言って、アイ=ファはマイムとミケルの姿を見比べる。
「やはり正しき心を持つ親のもとでは、子も正しく育つのだな。恩人たるミケルとその娘をファの家の客人として迎えることができて、私もとても嬉しく思っている」
「恩人?」
今度はマイムが首を傾げる番であった。
アイ=ファはそれ以上口を開こうとしなかったので、代わりに俺が説明をしてみせる。
「俺がトゥラン伯爵の屋敷に捕らわれていることを突き止めてくれたのはジーダっていう人なんだけどね、そのジーダに屋敷の場所を教えてくれたのは他ならぬミケルなんだよ。だからミケルは俺にとって生命の恩人なんだ」
「えーっ! 父さん、そんなことは一言も言ってなかったじゃん!」
「……俺は何もしていない。問われたことに答えただけだ」
苦りきった表情でミケルは言い捨てる。
その脇腹を肘で小突いてから、マイムはアイ=ファに微笑みかけてきた。
「何だか不思議な縁ですね。わたし、あなたのことがずっと気になっていたんです。あのときは、ただ無法者に同胞をかどわかされたのだとしか聞かされていませんでしたけど――あなたはアスタの家族であったのですね」
「うむ。私はファの家の家長、アイ=ファというものだ」
「ファの家のアイ=ファ……わたし、アイ=ファやアスタと出会えたことを、何度でもセルヴァに感謝したいと思います」
マイムは何だか大人びた表情でそのように言った。
その真っ直ぐな視線を受け止めながら、アイ=ファはまた「うむ」とうなずく。
「では、私は自分の仕事に取りかからせていただく。今宵の晩餐を楽しみにしているぞ、トゥランのマイムよ」
「はい! ……うわあ、それがギバなんですね! こんなに大きな獣を狩ることができるなんてすごいなあ」
もとの無邪気な様子を取り戻して、マイムがアイ=ファの背を覗き込む。
アイ=ファに背負われているのは、7、80キロはありそうな巨大なギバであった。
平然と会話を交わしつつ、アイ=ファの額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「かまどのかたわらで皮を剥ぐわけにもいかんな。私は向こうで仕事を果たさせてもらう」
「うん、よろしく頼むよ」
アイ=ファは家の横手へと去っていく。
それを追おうとするミケルに、マイムは「どこに行くの?」と声をかけた。
「お前の仕事を見物するのにも飽きた。俺はギバの皮剥ぎとやらを見物させてもらう」
「えーっ! 娘が大役を果たす姿を見届けてくれないの!?」
「何が大役だ。すべてお前が勝手に決めてやっていることだろうが」
ぶっきらぼうに答えつつ、ミケルもその場からいなくなってしまった。
「ちぇーっ」と不満そうな声をあげながら、マイムは再び灰汁取りに励み始める。
「ねえ、あんたはまだしばらくそうやって肉を煮込んでるだけなのかね?」
「え? ああ、はい。あと半刻から一刻ぐらいはじっくり煮込むつもりです」
「それじゃああたしは内臓を洗う仕事でも手伝ってこようかねえ。ファの家にはお世話になってばっかりだし」
そうして女衆の半数ていども姿を消した。
居残ったのは、屋台のメンバーとジャス=ディン、それにリッドの女衆である。
「マイムは俺やファの家について何も聞かされてなかったんだね」
俺が呼びかけると、「はい」とうなずきながらマイムはかまどに薪を追加した。
「アイ=ファがわたしの家を訪れた夜に父さんと話したときも、『森辺の民なんぞに関わるな』としか言われませんでした。トゥラン伯爵家にまつわる騒ぎも、全部町の噂話で聞いただけなんです」
「そうだったのか。……そういえば、ミケルがふたり分の料理を買ってくれるようになったのも、その騒ぎが落ち着いてからだったもんね」
「はい。きっと父さんは森辺の民ではなくトゥラン伯爵家に関わりたくなかったのでしょう。過去にはひどい目にあわされていたのですから、それが当然です」
一瞬だけ目を伏せてから、マイムはにこりと笑いかけてきた。
「でも、そんな父さんが陰では森辺の民に力を貸していたんですね。わたしはそれをとても誇らしく思います」
「うん。ミケルは素晴らしい人だと思うよ」
そんなミケルを俺たちに引き合わせてくれたのは、シュミラルだ。
それでこうしてマイムとも出会うことができたのだから、本当に人の縁とは不思議なものだと思う。
そうしてしばらく静かに言葉を交わしていると、やがてラン家の女衆が慌ただしい足取りで戻ってきた。
「ちょっとアスタ、こっちに来てもらえるかい? 忙しかったら、トゥール=ディンでもいいんだけど」
「え? どうしたんですか?」
「なんかさっきの親父さんが奇妙なことを言い出したんだよ。あたしらじゃあよくわかんないから、あんたたちが聞いてやってくれないかね?」
俺はともかく、トゥール=ディンが何だというのだろう。
とにもかくにも、不安そうな顔をしたトゥール=ディンとともに家の横手へと向かう。
リィ=スドラも無言でついてきたので、マイムのもとにはジャス=ディンとリッドの女衆だけが残ることになった。
「ああ、アスタ。トゥール=ディンも来てくれたのか」
両手を血に濡らしたアイ=ファが俺たちを振り返る。
その面にはべつだん差し迫った表情も浮かんではいなかったので、俺はひとまずほっと胸を撫でおろした。
ミケルも変わらぬ仏頂面で立ちつくしており、女衆らは困惑気味にふたりの姿を見守っている。
そして、木に吊るされたギバは白い裸身をさらしており、足もとに広げられた毛皮には山のような臓物が積まれていた。
「いったいどうされたんですか、ミケル?」
「べつだん、どうもしない。俺はただ、臓物の取り扱いについて質問をしただけだ」
「はあ。臓物の取り扱いについてですか」
だから臓物料理のエキスパートとして認知されているトゥール=ディンにもお呼びがかかったわけだ。
「臓物がどうしました? ギバの臓物は水で洗って、美味しくいただいておりますけれども」
「それはもう聞いた。しかし、肉を腸詰めにしたりはしないのか?」
「腸詰め?」
「お前の料理を食べている内に思い出したのだ。ジェノスでは肉をこまかく刻む食べ方などはまったく流行っていなかったが、そういえばシムではそのような料理も存在したはずだな、と」
面倒くさそうにミケルはそう言い継いだ。
「あれは干し肉と同じように、肉を保存するためにあみだされた調理法であるはずだ。しかし臓物は腐りやすいから5日以内に始末せねばならんなどと言っていたので、いぶかしく思って腸詰めにしないのかと問うたまでだ」
「はい、腸詰めにも興味はあったのですが、まだ着手はしていなかったのですよね。保存性を重んじるなら、けっきょく干し肉と同じようにガチガチに干し固めるしかないのでしょうし」
「それは徹底的に水抜きをせねば腐ってしまうのだから、固くなるのが当たり前だ。しかし、こまかく刻んだ肉であるのならば普通の干し肉よりもよほど食べやすいのではないのか?」
「そうですね。でも、森辺の民は顎も歯も頑丈なので、それほどやわらかい肉を欲してはいないのです」
「ふん。……しかし、町の旅人ならば腸詰めの干し肉を欲するのではないか? シムの旅人には腸詰めのギャマの肉を持ち歩くものも少なくはないと聞くぞ?」
俺はちょっと言葉に詰まってしまった。
ミケルはあくまで無愛想に続ける。
「そういえば、お前の屋台では干し肉を売らなくなったのだな。他の料理で十分に稼いでいるから、もうその必要もなくなったというわけか」
「い、いえ、以前にお話しした通り、灰の月から肉の価格を上げることになったもので、干し肉はちっとも売れなくなってしまったのです。カロンの干し肉と大差のない出来栄えなのに価格が1・5倍では、さすがに買い手がつかなかったのでしょう」
「そんな馬鹿な話があるか。宿場町で売られているのはカロンの足の干し肉なのだから、ギバならばもっと上等な干し肉が作れるはずだ」
「うーん、それじゃあこちらの作り方に問題があるのでしょうかね」
ミケルは小さく息をつき、左手で頭をかきむしった。
「燻製室はどこにあるのだ? きっと何か不備でもあるのだろう」
「いえ、そういうものはありません。森辺では、木に吊るした肉を薪やリーロの葉の煙で燻すのです」
「……薪というのは、グリギの木か?」
「いや、特に薪の種類は決まっていません。グリギの木は燻製を作るのに適しているのですか?」
ミケルは今度ははっきりと溜息をついた。
「お前はあれだけさまざまな調理の方法をわきまえておきながら、燻製作りに関してはまったくの素人であるのだな」
「はい。お恥ずかしい限りです」
俺はちょっと興奮して身を乗り出す。
「ミケルは燻製作りに関しても知識をお持ちなのですね。よかったら、その手順をもう少しご教示願えませんか?」
「……ご教示だと?」
「ええ。実は俺も時間を見つけては美味しい干し肉の作り方を研究しているのですが、なかなか進展しないのです。もしもお嫌でなかったら――」
「嫌も何も、このような時間から燻製作りを始めていたら日が暮れてしまうわ。……それに、燻製室もないのにまともな燻製肉が作れるとは思えん」
ぶっきらぼうなミケルの言葉に、リィ=スドラが「あの」と声をあげる。
「燻製室というのは、何か特別な作りの部屋なのでしょうか? 空き家でしたら、スドラの家の周囲にはいくらでも余っているのですが。……人の住まない家はすぐに朽ちてしまうので、有効な使い道があれば幸いです」
「……それがこのように立派な木造りの家なのだったら、さぞかし立派な燻製が作れるだろうさ」
かたわらのファの家を見上げながら、ミケルはそのように応じる。
「だが、今日は時間的にもう無理だ。どうしてもと言うのなら、日を改めろ」
「また別の日に森辺の集落を訪れてくださるのですか?」
驚いて俺が問い返すと、「どうしてもと言うのならな」と鼻にしわを寄せる。
そしてミケルは、不機嫌そうな目をギバのほうに転じた。
「……それと、もうひとつ問うておきたいのだがな。お前たちは、ギバの頭は捨ててしまっているのか?」
「はい? ええ、首から上は扱い方がよくわからないので、ホホ肉を削ぎ取るぐらいで後は捨ててしまっておりますが……」
「惜しい話だな。どんな獣でも、たいていは脳も目玉も舌も珍重されているというのに」
言いながら、ミケルはじろじろと裸身のギバを眺め回す。
「臓物は食うのに頭を食わんというのは奇妙な話だ。扱い方も何も、熱さえ通せば腹を下すことはなかろう」
「それじゃあ、頭骨ごと煮込めばそれで十分なのでしょうか?」
「カロンであれば、頭骨を割って脳を剥き出しにしてから煮込むのが一番よく聞く調理法だな。舌のほうはあらかじめ切り外し、たいていは焼き料理に使われる」
「舌にも何か下処理が必要なのではないのですか? ……いや、俺は未経験なのでそのように推測していただけなのですが」
ミケルは横目で俺をにらみつけてくる。
「カロンの舌ならば、最初に表面だけを軽く茹でて、固い皮を削ぎ落としておく。ただし子供のカロンならば皮もやわらかいのでそのまま普通に焼いて調理する。……ギバがどうなのかは、俺は知らん」
俺はアイ=ファを振り返った。
アイ=ファはその指先の汚れをぬぐってから、あらためて小刀を取り上げる。
「食せるものなら、ムントの餌にするのも惜しい話だ。ひとつこのギバで試してみるか」
「それじゃああたしたちはこの臓物を洗っておくよ。いつまでも放っておいたら味が落ちちまうだろうからねえ」
ランの女衆がそのように言い、笑顔でトゥール=ディンを振り返った。
「あんたとアスタはさばき方を見ておいておくれよ。で、それをあたしたちにも教えておくれ」
「はい、わかりました」
毛皮で包んだ臓物を抱えて女衆らは水場へと去っていく。
アイ=ファはまず首から下を解体し、それらを食料庫のピコの葉にうずめてから、ギバの頭と向かい合った。
「まずは舌を切り取るのだな」
家の中に移動して、アイ=ファがギバの頭を検分する。
最近では頭まで綺麗に皮を剥いでいたので、骨や皮下組織が剥き出しになった白い生首である。
ギャラリーは、俺とミケルとトゥール=ディンだ。
「舌はずいぶん咽喉の奥のほうまで繋がっているようだ。下顎を外すのが一番手っ取り早いか」
言いながら、顎の関節に刃先を差し込み、あとはめりめりと引っペがしてしまう。さすがは狩人の怪力である。
そうしてアイ=ファは、ギバの舌を根もとから切り離した。
「ふむ。こうしてみると、ずいぶん巨大なものなのだな」
淡い桃色をした舌を、アイ=ファが指先でつまみあげる。
でろんとした質感の図太い舌だ。長さは20センチばかりもあるだろう。
見ようによってはグロテスクだが、食材として見れば実に美味そうだ。
「とりたてて表面が固いようには感じられないな。これならこのまま食せるのではないか?」
「そうだな。それで気になるようだったら、今後は茹でて皮を向く工程をつけ加えることにしようか」
「うむ。お次は脳か。……しかし、ギバの頭骨は頑丈で、下手に刀を打ち込むと刀身を折られることさえあるのだが」
「もしも頭骨に継ぎ目があるならば、そこから開くことができるはずだ」
ミケルの言葉に、アイ=ファは「ふむ」と首を傾げた。
で、頭骨にべったりと残っている脂のような皮下組織を刀で剥いでいく。
「うむ。継ぎ目はあるな」
頭蓋骨に走る黒い継ぎ目に、アイ=ファは小刀を押し当てた。
意外な容易さで、その刃先がずぶりとめり込む。
そうしてアイ=ファがぐりぐりと刃先をひねると、ギバの頭はぱっくりと左右に分かれてしまった。
それでできた隙間にアイ=ファが指先をこじいれて、ばきばきと完全に断ち割ってしまう。
「何だ、舌は大きいのに脳は小さいのだな」
アイ=ファがその中身をこちらに向けてきた。
頭骨の右側のほうの裏側に、やはり淡い桃色をした丸い脳がぽこんと盛り上がっている。
80キロサイズのギバであったが、その脳は人間の拳ていどの大きさであった。
「これは煮込むのだな? 目玉はどうするのであろう?」
「カロンの場合は、脳と一緒に骨ごと煮込む。骨からも出汁は出るのでちょうど良いのだ」
「なるほど」
アイ=ファは牙と角を切り取ってから、ふたつに分かれた頭骨を鉄鍋に落とし込んだ。
「私の仕事はここまでだな。あとはお前にまかせたぞ、アスタ」
「うん、脳や目玉の調理なんて話にも聞いたことすらないから、ひたすら煮込むしかないんだけどな」
俺は水瓶から水を注ぎ入れ、かまどに火を灯す。
「とりあえず、臭み取りでリーロの葉を少しだけ入れておくか。……うわ、すごい灰汁だなこりゃ」
肉を煮込むより凄まじい勢いで、ぶくぶくと泡が立っていく。
相当な雑味と旨みが混在している証しであろうか。
「舌はどうするのだ? なかなか食いではありそうだが」
「舌は普通に薄切りにして、塩をふって焼いてみよう。みんなで食べればちょうどいい分量なんじゃないかな」
牛タンならば、俺だって食した経験はある。
ギバのタンはどのような味わいなのか、想像しただけでわくわくしてしまった。
火の番はアイ=ファに託して外のかまどに向かうと、「ああ、アスタ」とマイムが笑いかけてくる。
「それがギバの舌ですか! いったいどのような味がするのでしょうね」
「楽しみだよね。そっちはまだ下茹での段階かな?」
「はい。ギバの肉は煮込むほどやわらかくなるというお話でしたので、もう少し頑張りたいと思います」
ちょうどそのとき臓物を洗ってくれていたメンバーも帰ってきたので、俺はギバタンを焼いてみることにした。
かまどには鉄網をセットして、贅沢に炭を使ってみようと思う。
「へえ。こうやってみると、舌もただの肉なんだねえ」
女衆らがスライスされたギバタンを覗き込んでくる。
1センチ弱の厚みでスライスにされたギバタンは、どこからどう見ても美味そうだった。
根もとの不格好な部位は切り落として頭骨の鍋に沈めておいたので、焼肉屋で見る牛タンとほとんど変わらぬ外見である。
「では焼いてみますね」
熱された鉄網にギバタンを1枚ずつ置いていく。
とたんにじゅっという音がほとばしり、溶けた脂が炭に滴った。
十数枚の肉を置き終えると、もう最初のやつはいい感じに色づき始めている。
それでも1センチの厚みなので入念に火を通し、順番に裏返していく。
あたりには、肉と脂の焼けるたまらない匂いが漂っていた。
「またあたしらばっかりいい思いをして、家の連中に悪い気がしちまうねえ」
「いいじゃないか。これでまた明日からはおんなじもんを家族たちにも食べさせることができるんだからさ」
そういえば、この場にいる半数ぐらいは臓物料理の味見に立ち会ったメンバーであるような気がした。
初参加のサリス・ラン=フォウなどは、ちょっと目をぱちくりとさせてしまっている。
「よし、食べごろですね。トゥール=ディン、そこの木皿を取ってもらえるかな?」
「はい」
大きめの木皿に焼けたギバタンを並べていく。
そして最後に、家から持ってきておいたシールの果汁をかけて完成だ。
「どうぞ。熱いので火傷をしないように気をつけてください」
女衆らの手が四方八方からのびてくる。
それらが引っ込むのを待ってから、俺もギバタンをつまみあげた。
焼きたてなので、指を火傷しないうちに素早く口へと放り込む。
濃厚な脂とそれを中和するシールの果汁が、文句なしに美味かった。
とはいえ牛タンよりはさっぱりとした味わいであり、食感はいっそうコリコリとしている。
そして、肉の味は牛よりも強い。
ルウの集落でそこそこ以上に腹はふくれているはずであるのに、これなら何枚でも食べてしまえそうだった。
「どうぞ、ミケルとマイムも味を見てください」
「ありがとうございます!」
マイムは笑顔で、ミケルは仏頂面で肉をつまむ。
「美味しい! これはまた普通の肉とも異なる美味しさですね!」
「そうだねえ。肉と脂が一体になっているというか、他の部位では味わえない食感だね」
これならば、カロンのように表皮を剥く必要もなさそうだ。
こんなに美味しい部位がこんな手軽に味わえるというのに、俺たちはすべて森に打ち捨ててきたのである。
臓物料理のときと同じかそれ以上に、俺は自分の至らなさを恥じることになった。
「よーし、これに負けない料理を作れるように頑張りますね! そろそろ次の作業に移りたいと思います」
「うん。そちらも楽しみにしているよ」
その前にアイ=ファにもこの喜びを――と足を踏み出しかけてから、俺はサリス・ラン=フォウを振り返った。
「あの、俺はマイムの手際を拝見しないといけないので、これをアイ=ファに持っていってあげてもらえますか?」
そうして木皿を差し出してみせると、サリス・ラン=フォウはちょっと当惑したように身じろいでから、にこりと微笑んだ。
「わかりました。きっとアイ=ファも家の中でやきもきしているでしょうね」
「うん、俺もそう思います」
サリス・ラン=フォウはいっそう楽しそうに微笑み、アイ=ファのもとへと走り去っていった。
なんて実りの多い1日だろう、と俺は満足の吐息をつく。