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異世界料理道  作者: EDA
第十五章 巡りゆく日々
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森辺への客人①~ルウの家の勉強会~

2015.11/20 更新分 1/1

 2日後の、黒の月の21日。

 その日も元気に屋台の商売に取り組んでいると、ちょっと珍しい客人があった。

 ダレイム伯爵家の料理長、ヤンである。


「おひさしぶりです、アスタ殿」


「ああ、おひさしぶりです。今日はどうされたのですか?」


「今日から新しい人間が屋台で働くことになったので、少し早めに宿場町へと下りてきたのです。いちおうアスタ殿にも挨拶をさせていただきたく思います」


 ヤンはミケルよりも年配の、痩せぎすで初老の男性である。

 やたらと堅苦しい気性をしているが、料理に関してはひとかたならぬ情熱を抱いている人物だ。


 そのヤンの背後には、2名の女性がひっそりと控えていた。

 どちらもまだ若い。やや背が高くて生真面目そうな面立ちをしているほうは俺と同じぐらいの年齢で、小柄で少し気の強そうな面立ちをしているほうはそれよりも2、3歳ほど幼い感じだった。


「こちらはもともとポルアース殿の侍女として働いていたシェイラで、こちらは先日からダレイム伯爵邸で働くことになったニコラです」


 年長のほうがシェイラで、年少のほうがニコラだ。

 シェイラのほうはおどおどと、ニコラのほうはぶすっとした顔でそれぞれ頭を下げてくる。


「俺は森辺の民、ファの家のアスタというものです。どうぞよろしくお願いいたします」


 とはいえ、これまでヤンの屋台で働いていた者たちなどは名前も知らされていなかったし、新作の料理が発表されたときぐらいしかヤンの屋台に立ち寄る機会もない。今後もそれほど強い縁は生まれないのだろうなと思った。


 が――シェイラの口から意想外の言葉が飛び出すことになった。


「あの……アイ=ファ様は、ご壮健でいらっしゃいますか?」


「え? どうしてあなたがアイ=ファの名をご存じなのですか?」


「はい……実はわたしは、ポルアース様とアイ=ファ様がトゥラン伯爵邸にアスタ様をお迎えにあがる際、一度だけダレイムのお屋敷でアイ=ファ様と言葉を交わす機会が得られたのです」


 言いながら、何故か頬を赤らめるシェイラである。


「きっとアイ=ファ様はわたしの名や姿などお記憶に留めてはいらっしゃらないでしょうが……わたしは日々、アイ=ファ様のご壮健をセルヴァにお祈りしておりました」


「そうでしたか。それはありがとうございます」


 何にせよ、アイ=ファに対して好意的な印象を抱いてくれているなら幸いだ。

 俺は相方のヤミル=レイに屋台を託し、あらためてヤンたちの前に立った。


「そういえばですね、実は今日、ミケルとその娘さんのマイムという女の子を森辺の家に招くことになったのです」


「何ですと? ミケル殿が、何故アスタ殿の家に?」


「えーっと、話せば長くなるのですが、要するにマイムという娘さんが俺の腕前に興味を持ってくれたようなのですね。ミケルはそれの付き添いとして、しぶしぶ同伴するだけなのですが」


「そうですか……ミケル殿が、アスタ殿のもとに……」


 ヤンもまた、ミケルの料理人時代を知る人物であったのだ。

 悩ましげに視線を足もとに落としつつ、ヤンは小さく息をつく。


「ミケル殿は、本当に素晴らしい料理人でありました。《白き衣の乙女亭》というのは小さいながらもとても質の高い料理店であり、ミケル殿は長らくその店で料理長をつとめておられたのです」


「はい」


「それが、トゥラン伯爵などに見初められたばかりに、あのような目に……料理人の腕の筋を断つなどという、どうしてそのように惨たらしい真似ができるのでしょう。わたしには理解できません」


「まったくですね。……そういえば、ミケルが奇禍にあわれたのはどれぐらい昔の話だったのでしょうか?」


「今からおよそ5年ほど昔の話ですな。当時から、ミケル殿の腕は城下町でも3本の指に入るものとわたしは確信しておりました」


 5年前か。

 それから5年間、ミケルはトゥラン領の炭焼き小屋で働いてきたのだろうか。


《玄翁亭》で初めて出会ったとき、ミケルは昼から泥酔していた。

 そして、料理人として生きていきたいならジェノスなんかに居座るべきではないと吠えていた。

 そんなミケルが、どのような思いで幼い娘を育ててきたのか――俺のような若輩者には、想像することさえ難しかった。


「もしもミケル殿に手ほどきを受けていたなら、その娘御もさぞかし料理の腕が立つのでしょうな。その娘御はまだお若いのですか?」


「はい、今年で10歳だそうです」


「そうですか。トゥランの先代当主が裁かれたことによって、ミケル殿も自分の娘御を料理人として本格的に育てる決断をしたのやもしれません。将来が楽しみなことです」


 そうしてまた物思わしげに息をついてから、ヤンは頭を下げてきた。


「わたしもそれに負けぬよう自分の仕事に励みたいと思います。それでは、お忙しいところを失礼いたしました」


「いえ。わざわざありがとうございました」


 俺は『ギバ肉のポイタン巻き』の屋台に戻った。

 すると、隣の『ギバ・バーガー』の屋台に陣取っていたリミ=ルウが「ねえねえ」と呼びかけてくる。


「アスタ、今のって城下町の料理人の人だよね?」


「うん、ダレイム伯爵家の料理長であるヤンって人だよ。一緒にいた娘さんたちは、今日から屋台で働く新人さんらしい」


「そっかー。何だか悲しそうな顔をした女の人だったね」


「え? あの背の高いほうの人?」


「ううん。もうひとりのちっちゃい女の人」


 俺とは言葉を交わさなかったニコラという娘さんか。

 俺には気の強そうな娘さんだとしか思えなかったが、リミ=ルウには違う風に見えたらしい。

 まあ俺の目は節穴認定されてしまっているので、きっとリミ=ルウの印象のほうが正しいのだろう。


「まあ生きていれば色々あるからね。……あ、ヤミル=レイ、忙しいところをひとりにさせちゃって申し訳ありませんでした」


「別にどうということはないわ。3人のお客がくじを引いていかなかったから、その分を抜いておいてもらえるかしら?」


「了解であります」


 外れくじは料理の総数と同じ数だけを準備しているので、くじを引かないお客さんがいた場合はその分を抜いておかなければならないのだ。

 特別献立である『ギバ・カツサンド』の残りは半数の15個ていどであるようだった。


「あ、ターラだ! わーい、いらっしゃーい」


「あ、リミ=ルウだ! ひさしぶりだねー」


 そこにターラがやってきた。

 言うまでもなく、リミ=ルウが宿場町の商売を手伝うことが許されて、本人と同じぐらい喜んでいたのはこのターラである。

 にこにこと笑顔を振りまきながら、ターラは屋台と屋台の間に立った。


「今日はたくさん買うから籠を持ってきたよ! えーっとね、ポイタン巻きを5つと、ぎばばーがーとぎばまんを2つずつ、あとミャームー焼きを1つください!」


「うわ、ほんとにすごい量だね?」


「うん! ターラのと父さんのと、布屋のおじさん、鍋屋のおじさん、ミシルおばあちゃん、あとは宿屋のおじさんとかに手が離せないから代わりに買ってきておくれって頼まれたの! 父さんと鍋屋のおじさんはポイタン巻きを2つずつ食べるんだってー」


「そっか。本当にありがとうね。『ギバ・カツサンド』のくじはどうする?」


「全部引くー! 父さんたちは、きっと2回くじを引きたくてポイタン巻きを2つ買うんだよー?」


 それでも『ギバ・カツサンド』の当選率は、およそ13分の1なのである。10食分の注文でいくつの当たりくじを引くことができるか、ターラの運気の試しどころであった。


「当たるといいねー?」とにこやかに笑いながら、リミ=ルウが木筒を差し出した。


「父さんのぶーん! 鍋屋のおじさんのぶーん!」と元気のよい声をあげつつ、ターラが次々とくじを引いていく。


 見ているだけで目尻の下がりそうな微笑ましい情景である。


 が、なかなか当たりくじは出ない。

 運命の女神がターラに微笑みかけたのは、最後の最後であった。


「ミシルおばあちゃんのぶーん!」と10回目に引いた木の棒に、ようやく赤い印が現出したのである。

 ターラは一瞬きょとんとしてから、「やったー!」と飛び跳ねた。


「よかったねー。でもターラは残念だったね?」


「ううん! ミシルおばあちゃんは油っこいぎばかつさんどよりぎばまんのほうが好きだから、もしも当たったらターラに譲ってくれるって言ってたの!」


「そうなんだー? なら、よかったね!」


 リミ=ルウも一緒になってぴょんぴょん飛び回っている。

 微笑ましさのあまり溶け崩れてしまいそうな俺であった。


「それじゃあ『ポイタン巻き』の1食分を『ギバ・カツサンド』に変更だね? 値段が赤銅貨3枚になっちゃうけど大丈夫?」


「うん! おねがいします!」


 ということで、俺たちは4食分の『ポイタン巻き』を作製することになった。

 完成した料理が次々に草籠へと収められていく。


「あ、そうだ。アスタ、あのことをターラに言わなきゃいけないんじゃなかったの?」


 リミ=ルウに呼びかけられて、俺も思い出した。

 ターラは不思議そうに俺とリミ=ルウの顔を見比べる。


「どうしたの? ターラに何かお話?」


「うん、実はね、今日トゥランの知り合いが2人ほど、森辺の集落を訪れることになったんだよ」


「へえ、そうなんだ! いいなー、ターラも行きたいなー」


「ターラは前にもそんな風に言ってくれてたよね。だから、事前に伝えておこうと思ってさ」


 ターラはあんまり理解していない様子で首を傾げていた。


「いや、以前は貴族たちとの関係性も落ち着いてなかったから、危なくてターラを招待することもできないって話だっただろう? だけどあれからひと月ぐらいが経って状況も変わってきたからさ。……ターラはまだ森辺に遊びに来たいって思ってくれているのかな?」


「うん! ……だけど、母さんたちはダメって言うんだろうなあ」


「そうだね。もう特別に危険なことはなくなったけど、それでもやっぱり森辺にはギバとかムントとかが潜んでるから、気軽に遊びに来れる場所ではないと思う」


 俺は膝を折り、ターラの小さな顔を正面から見つめた。


「でも、荷車に乗って行き来すれば道中で危険なことはないし、ファの家やルウの家の周囲では日中からギバやムントが出ることはないから、何も危ないことはない。……だから後は、ターラのお母さんとかが安心して送り出せるかどうかって話なんだと思うんだよね」


「うん……」


「だからいつか、ターラがドーラの親父さんなんかと一緒に集落に来ることはできないか、今からちょっとずつ相談していけばいいんじゃないかな。このひと月ぐらいで森辺の民と町の人たちはずいぶん仲良くなれた気がするから、あともう少しだけおたがいを信頼し合うことができれば、ターラが森辺に遊びに来ることもできるようになると思うんだ」


「うん」とターラがうなずく。

 その目には、俺が予想していたよりも遥かにしっかりとした理解の光が灯っていた。


 ターラだって、数ヵ月前までは森辺の民を恐れていた町の人間なのだ。

 周りの人間がどうしてそこまで心配するのか、それがわかっていないわけではないのだろう。


「今日森辺にやってくるのも、ターラよりちょっと年上の女の子とそのお父さんなんだよ。そういう人たちでも森辺の集落を訪れたりすることはあるんだって、親父さんやお母さんたちに話してみてくれるかな? そういう話を聞くと、きっとみんなもいっそう安心できると思うし」


「うん、わかった。ターラのために色々ありがとう、アスタおにいちゃん」


「いや、俺やリミ=ルウだってターラを森辺に招待したいと思ってるからさ。ね、リミ=ルウ?」


「うん! そうしたら、リミもターラのお家に遊びに行きたいなあ」


 ターラは嬉しそうに微笑んだ。


「そうなったら、ほんとに嬉しいね」


「嬉しいね」


「うん」


「うん」


 森辺の少女と宿場町の少女は、きらきらと瞳を輝かせながらおたがいを見つめ合っていた。

 大人たちも、こうしてしっかりとおたがいを見つめ合うべきなのだろう。


 別に森辺の狩人たちと宿場町の人々が仲良く手を取り合う姿が見たいわけじゃない――かつてカミュア=ヨシュはそのように言っていたが、俺はその姿を見たかった。森辺にも宿場町にも大切な人たちがいる俺にとっては、それこそが最高の結果だと思えてならなかったのだった。


                ◇


 そうして俺たちが屋台の仕事を終えて後片付けを始めていると、約束通り二の刻にミケルとマイムはやってきた。


「今日はよろしくお願いいたします、アスタ!」


 上気した面を深々と下げてくる。そんな少女のほっそりとした手の先には、何やら巨大な革の鞄がさげられていた。

 ちょっとしたトランクのような造りをした四角い鞄だ。だいぶん古びているが、蝶番や取っ手には金属の使われている立派な品である。


「こちらこそよろしくね。……その鞄には、調理器具でも入っているのかな?」


「はい、父さんが譲ってくれたものです」


 その父さんは、本日も果てしなく仏頂面であった。

 仏頂面選手権を開催したら、間違いなく町の代表はこのミケルかミラノ=マスだろう。森辺の代表格たるドンダ=ルウやグラフ=ザザともいい勝負を繰り広げられそうだ。


「それじゃあ荷車に乗って待っててもらえるかな。この後は買い出しや両替なんかを済まさないといけないので。……ミケルも、こちらにどうぞ」


 ミケルは無言のまま後をついてくる。

 森辺の集落で俺が調理をするさまを見学したいなどと言い出した娘の行状をどのように思っているのか。強く止める様子がない代わりに喜んでいる様子もない。


「最初はルウという氏族の集落なのですよね?」


「うん。俺は毎日ルウの集落で商売用の下ごしらえや勉強会などをしているからさ。まずはそこでおたがいの手並みを見せ合おうかなと思って。……ルウ家の人たちにも味見をお願いしていいんだよね?」


「はい! がっかりさせてしまわないよう頑張ります!」


「じゃあ食材のほうはどうしようか? 必要だったら、キミュスやカロンの肉を宿屋で分けてもらおうかと考えているんだけど」


「……許されるならば、わたしはギバの肉を使ってみたいです」


 マイムの瞳は期待に輝いている。

 それこそ、俺にとっても望むところであった。


「わかった。それじゃあファの家の肉を分けてあげるよ。……では、またのちほど」


「はい!」


 マイムはいったい、ギバの肉でどのような料理をこしらえてくれるのだろう。

 知らず内、俺の胸は恋する乙女のように高鳴ってしまっていた。


                ◇


 そうして俺たちは、無事にルウの集落へと到着した。


 カミュア=ヨシュ、レイト少年、シュミラル、ジーダ、バルシャ――それに、近衛兵団に護衛されたリフレイアとサンジュラ。俺の知る限り、森辺の集落に足を踏み入れた町の人間はそれぐらいのものだ。


 その他にも、10年前と数ヵ月前に1度ずつ、シムを目指す商団やそれを偽装した集団なども足を踏み入れていたが、彼らは集落には立ち寄らず、森の奥へと分け行ったばかりである。

 あと、ズーロ=スンたちが捕らわれていたザザの集落に何者かが忍び込んだことなどもあったが、それも除外していいだろう。


 何はともあれ、町の人間を客人として招くのは椿事であった。

 それでも昔日のカミュアらは頻繁に訪れていたし、現在ではジーダたちが住みついているのだから、ルウの集落の人々に大きな動揺はなかった。


「到着しました。ここがルウ家の集落です」


 本家の裏手のかまどの間の前で、俺はそのように宣言した。

 荷車から降り立ったマイムは「うわあ……」と周囲の情景を見回していく。


「すごい……本当に森の中なのですね」


「うん。それでもこのあたりにはギバの餌になるような実りはないそうだから、心配はいらないよ」


 そこに、ミーア・レイ母さんが笑顔で近づいてくる。


「ご苦労さま、アスタ。……それに町の客人たちも、ようこそルウの家に。あたしはルウ本家の家長ドンダ=ルウの伴侶でミーア・レイ=ルウってもんだ。お行儀のいい口はきけないけど、あんたたちを歓迎いたしますよ」


「は、初めまして! わたしはトゥランのマイムで、こっちは父のミケルです」


 マイムはぺこりと頭を下げ、ミケルはうっそりと下顎を引くような仕草をする。

 ミーア・レイ母さんは、やはり笑顔でその姿を見比べた。


「見たところ、鋼を身に帯びてはいないようだね。そのでっかい荷物の中身は食料かね? 刀かね?」


「あ、これは調理用の刀や匙などです」


「それじゃあいったんあたしが預かって、かまどの間に入れさせてもらうよ。森辺には、客人に刀を持たせたまま家の中に入れてはいけない習わしがあるもんでね」


 俺やアイ=ファに対しては免除されつつある、森辺の習わしである。

 マイムはほんの一瞬だけ不安そうな顔をしたが、何も言わずに革の鞄をミーア・レイ母さんに引き渡した。


「ありがとう。あんたはいい娘だね。……さ、かまどの間に案内するよ。こちらにどうぞ」


 ミーア・レイ母さんの案内で、マイムとミケルはかまどの間に導かれていく。

 その間に俺たちも荷を下ろしたり、汚れた鉄板や鉄鍋を洗う仕事に従事した。


 今日のルウ家のメンバーは、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、ツヴァイ、モルン=ルティムの4名である。間に1日置いているので、一昨日とはリミ=ルウ以外が同じ顔ぶれだ。

 ここに我が店のメンバー4名にミーア・レイ母さんおよびシーラ=ルウが加わってしまうとかまどの間もいっぱいになってしまうので、バルシャは参加を遠慮するとのことであった。


「いよいよですね」とレイナ=ルウが真剣な面持ちでつぶやいている。

「楽しみだなー」とリミ=ルウははしゃいでいる。

 あとはトゥール=ディンがいささか不安そうな顔をしているだけで、その他の者たちはおおむね普段通りであった。

 特にツヴァイやヤミル=レイなどは、我関せずといった面持ちである。


「さて、それじゃあ下ごしらえを済ませちゃうので、それまで少々お待ちくださいね」


 俺がかまどの間に踏み込んでいくと、マイムは熱い視線を送ってきた。

 しかしその目は俺を見ていない。見ているのは、俺が食料庫から運んできたギバの肉塊だ。


「……それがギバの肉なのですね」


「うん、こいつはメスのギバの半身だね。オスのギバは気性が荒くて無傷で捕まえることが難しいから、おおむね商売用にはメスのギバが使われているんだ」


 真っ二つに断ち割られた半身の枝肉を、作業台の上にそっと横たえる。

 あばらや背骨の外された、およそ20キロていどの肉塊である。

 足はつながったままなので、まずはこいつを外さなくてはならない。


 これは俺とトゥール=ディンの仕事だ。

 他の女衆らは、すでにそれぞれの仕事に黙々と取りかかっている。

 しかし、マイムは俺の姿のみを注視していた。


「明日の朝に仕事をしやすいように、こいつを部位ごとに切り分けておくんだよ」


 説明しながら、ジャガル産の肉切り刀を肉に入れていく。


「ギバは部位によって味や固さがずいぶん違うんだ。脂身が適度に散っている背中や胸なんかは薄く切って焼き料理に、脂身が周囲に寄ってる足は汁物や刻んで使うことが多いかな」


「はい」


「えーと、マイムはカロンの胴体の肉を扱ったことはあるのかな? 俺は未体験なんであんまり比べることもできないんだけど」


「わたしもキミュスかカロンの足肉以外を使ったことはありません」


 そうなのか。

 となると、しっかり脂ののった肉を使ったことが1度としてないということだ。それでギバ肉をきちんと料理することは可能なのかなと、俺も少しだけ心配になってしまった。


(まあこの娘さんなら大丈夫か)


 4、50分も経つ頃には、すべての作業が完了していた。

 まずは約束通り、俺の手際をマイムに披露しなくてはならない。


「それじゃあ今日は『ロールティノ』のおさらいでもしてみようか。来期からは《キミュスの尻尾亭》での仕事もルウ家に割り振りたいところだしね」


「はい、ありがとうございます」


 どことなく真剣な目つきでシーラ=ルウが静かに頭を下げてくる。

 同じように頭を下げながら、レイナ=ルウは無言だ。

 やはりマイムを迎えるにあたって、この2名が一番気持ちを引き締めているようにうかがえる。


「この献立はね、俺が宿屋に卸している料理なんだ。こまかく刻んだギバ肉をティノに包んで煮込む料理だね。煮汁はタラパを味の基調にしているよ」


「はい。それはあのぎばばーがーという屋台の料理とは異なる料理なのですね?」


「うん。手順は少し似ているけど味はまったくの別物だと思う」


 俺はマイムのための試食分を、他のみんなは自分たちの修練のためにそれぞれ『ロールティノ』をこしらえることになった。

 その中で、ルウ家の女衆らは多めに作ってそれを晩餐にも割り振るつもりだと言っていたので、俺はこの場の束ね役であるミーア・レイ母さんを振り返った。


「あの、これは挽き肉を使った料理なのですけれども、ドンダ=ルウやジザ=ルウは大丈夫なのでしょうか?」


「大丈夫だよ。ろーるてぃのってのはあの汁気たっぷりの料理のことだろう? はんばーぐを汁に沈めるのとおんなじようなもんじゃないか。……それにね、うちの家長たちだってもうこまかく刻んだ肉の美味しさってもんを十分にわきまえていると思うよ? 普通に焼いたり煮込んだりした肉とはんばーぐみたいに刻んだ肉だと、味わいが全然違ってくるもんだからねえ」


「そうですか。それなら良かったです」


「それに最近ではたいてい肉の料理も2種類以上に分けて出してるからね。もう一品、ぶあついすてーきでも出してやれば顎がなまることもないし、いっそう家長たちもご満悦で晩餐を楽しめるだろうさ」


 ご了承をいただけたので、心置きなく『ロールティノ』に取り組むことにした。

 この料理はそれほど目新しい食材も使用しないので、マイムに試食してもらうにも相応しいかなと思えたのである。


「それじゃあまずは具材の下ごしらえからね。ギバのモモ肉や、こうして切り分けたときに余った肉きれや骨に残った分なんかを、肉切り刀でこまかく刻んでいくんだ」


「はい」


「肉を刻み終わったら、塩とピコの葉と刻んだミャームーをあわせて、粘り気が出るまでしっかりこね合わせる。そうしたら、お次はティノをたっぷりの水で茹であげるんだけど、そのときに水には塩を入れておくんだ。分量は、水の1パーセント――いや、100分の1とか100分の2とか、そのていどでいいんだけど」


「なぜ塩を入れるのですか?」


「うん、それは野菜の栄養が外に逃げるのを防ぐのと、あとは色を綺麗に保つためだね。……でもこれは俺の故郷の習わしだから、ティノにどこまで有効なのかはわからないんだ。いちおう俺の故郷では、緑色をした野菜にはのきなみ有効であるとされているんだけど」


「アスタは、渡来の民なのですよね」


 真剣な中におさえがたい好奇心の光をきらめかせつつ、マイムはそのように言った。


「わたしは海など見たこともないので、それだけで何かわくわくしてしまいます。アスタのように不思議な技術を持つ料理人と巡り逢うことができて、わたしは本当に幸せです」


「俺なんかが君にいい影響を与えられるといいんだけど」


「いえ。もう今の時点でアスタの存在はわたしにとってかけがえのないものになっています」


 何とも面はゆい限りである。

 そして、レイナ=ルウの視線がいささか痛い。

 俺は無心でティノを茹であげることにした。


「ティノが茹であがったら、火傷をしないていどに冷ましつつ、固い芯の部分を切っておく。で、さっきの具材を木匙で丸長の形に整えながら載せていく、と。いちおう宿屋で売られている分量にしておくね」


 肉の量は120グラムていど、店頭価格は赤銅貨3枚である。

《キミュスの尻尾亭》ではこの料理が一番の売れ筋であるという。


「そうしたら、ティノで具材を包み込み、それからフィバッハの蔓草で縛っておくんだ」


「料理を紐で縛るのですか! そのような調理方法が城下町に存在するとは聞き及んでいましたけど」


「うん、そうらしいね。紐で縛るか木の針で固定しておかないと、具材がばらばらになっちゃうからさ」


 この蔓草が料理に悪い影響を与えないか、その検証にはなかなか苦労したものなのである。

 ちなみに城下町には、きちんと料理用の紐というものが存在するらしい。


「で、縛った具材は鉄鍋に置いて、薄く切ったアリアとネェノン、それにタラパと一緒に煮込む。煮汁は水と果実酒で、味付けに少々タウ油も入れておく。これを弱火でじっくり煮込んで、最後に味を調えれば完成だ」


 4つのかまどに火が入れられて、室内にはなかなかの熱気がたちこめることになった。


「それじゃあ煮込んでいる間に、今度は君が――うわあっ!」


 と、顔をあげざまに思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。

 俺の正面にあった窓に、みっつの顔がにゅうっと出現していたのである。

 それは、ヴィナ=ルウとララ=ルウとバルシャであった。


「な、何をやっておられるのでしょうか、御三方?」


「えぇ……? それはもちろん、お客人の手並みを拝見に来たのよぉ……」


「そーだよ! アスタより料理が上手いかもしれない人間なんて、そんなの放っておけるわけがないじゃん!」


「まあお邪魔はしないから、あたしらにはかまわず仕事を続けておくれよ」


 バルシャもすっかりルウ本家の家風に染まってしまったようだった。

 微笑ましいことではあるが、ちょっとばっかり心臓に悪い。


 そして、マイムのほうは困惑気味に微笑みつつ俺のことを見つめていた。


「わたしがアスタよりも腕が立つだなんて、おそれ多いことです。そのような話をアスタは周りの方々に吹聴してしまったのですか?」


「いや、何も大げさに話したつもりはないんだけどね」


「きっと落胆させてしまうと思います。だけど、笑われてしまわないように頑張りますね」


 そのように言いながら、マイムは革の鞄を作業台に載せた。

 感じやすい頬を赤らめつつ、その茶色い瞳は意欲に燃えてきらきらと光っている。


「では、わたしも調理に取りかかりたいと思います。ギバの肉を少しだけお分けしていただけますか?」

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