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異世界料理道  作者: EDA
第十五章 巡りゆく日々
262/1675

黒の月の十九日①~日は過ぎゆきて~

2015.11/17 更新分 2/2

 そうして黒の月の19日は始まった。

 10日ごとに訪れる休業日を経て、本日からまた商いの日々である。


 数えてみたら、屋台の商売もこれが11期目の契約であった。

 ということは、すでに100日ばかりも俺たちは屋台の仕事をしていることになる。


 もちろん諸事情があって契約中に休業する日もあったし、時には半月以上も店を開けなかった時期もある。記念すべき屋台の開店日から数えれば、あと1週間ほどで4ヶ月に到達するぐらいの歳月がすでに過ぎ去っていた。


 俺がファの家に住みついてからは、およそ5ヶ月。

 ジェノスの貴族サイクレウスとの争乱におおよその決着がついて、無事にファの家へと戻ることができた灰の月の5日からは、およそ1ヶ月半だ。

 この1ヶ月半の間に、俺たちの周りでは実にさまざまな変転が巻き起こっていた。


 まずは罪人たちの処遇である。

 サイクレウスとその弟シルエルは、ジェノスの法で裁かれることになった。

 その審問は10日間にも及んだが、ジェノスの領主マルスタインから告げられていた約定は、おおむね守られることになったのだった。


 サイクレウスに与えられたのは終身の禁固刑であり、シルエルに与えられたのは20年の苦役の刑であった。

 貴族に死罪よりも重い苦役の刑が与えられることはないと聞き及んでいたのに、今回は特別にその刑が執行されたのだという。

 どうもシルエルは審問の場でも狂乱し、ジェノスの法務官や西方神セルヴァを口汚く罵る事態に至ってしまったらしい。


 そしてズーロ=スンにも、10年の苦役の刑が言い渡されることになった。

 苦役の刑とは、鉱山などでも特に危険な区域に放り込まれ、奴隷よりも過酷な仕事に従事させられる刑罰である、とのことであったが――それがどんな場所であるかは、誰にも知らされない。万が一にも罪人を救おうと目論む者たちにその居場所を悟られぬよう、いったんセルヴァの王都に護送されたのち、一切の身分を剥ぎ取られてそれぞれの働き場へと割り振られるのだそうだ。


 10年を生き抜いた者はいないという苦役の刑をやりとげて、ズーロ=スンが再び森辺の集落に戻ってくることはかなうのか。

 その答えは、10年後まで決して得られることはない。


 そして、サイクレウスたちへの処断が下されたのち、マサラのバルシャは解放されることになった。

 この点においても、マルスタインとの約束は守られたのだ。


 だが、その処置には森辺の民ばかりでなく市井の人々をも懐柔しようという思惑が存在したらしい。

 要するに、《赤髭党》の所業とされていたいくつかの事件はサイクレウスたちによって示唆されたザッツ=スンらの悪行であったという事実を大々的に公表すると同時に、《赤髭党》の残党たるバルシャに恩赦を与えてみせたのである。


 俺の周囲で大きな動きはなかったが、宿場町の一部や他の町などではそれこそ大騒ぎになっていたらしい。

 それぐらい、当時の《赤髭党》というのは市井の人々から英雄視されていたようなのだ。

 そんな《赤髭党》が他者の生命を害したという罪をかぶせられて処断されたのだから、それを無念に思っていた人々は決して少なくなかったに違いない。


 ジェノス侯爵マルスタインは、そんな人々の無念を晴らすとともにバルシャを解放し、ジェノスの支配層に対する不満や反感を少しでもやわらげようと試みたのだろう。


 何にせよ《赤髭党》の誇りは救われたのである。


「まったくあの領主様は、転んでもただでは起きないなあ」と皮肉っぽい笑みを浮かべつつ、カミュア=ヨシュの瞳にも満足そうな光が宿っていた。


 そのカミュア=ヨシュは、サイクレウスたちが裁かれるのを待ってから、ウェルハイドの故郷バナームへと旅立っていった。

 宣言通りそちらで仕事を見つけたのか、この1ヶ月ほどは姿を見せていない。今回は、レイト少年とともに数ヶ月単位で西の領土を放浪するつもりだと、風来坊は風来坊の生活に回帰していったのである。


 そして、俺たちだ。

 俺たちの商売にも、かなりの変転が訪れてしまっていた。

 いったい何から説明すればいいのか困ってしまうぐらい、それはもう激動の日々であったのだ。


 まず最初に取り沙汰されたのは「ギバ肉の価格」についてであった。


 サイクレウスたちの審問が始まるのを待っている空白の期間に、ポルアースがマルスタインの代理人として俺とそれに縁ある宿場町の人々に面談を求めてきたのである。


「《黒き風》とかいう死罪人たちが捕縛されたら、アスタ殿たちはまた屋台の商売を再開させる予定なのだろう? その前に、ちょっと考えてもらいたいことがあるのだよ」


 本来、領主の代理人として森辺の民と交渉するのは、近衛兵団団長メルフリードの役割である。

 しかし今回は内容が内容だけに、俺たちの商売について一番熟知しているポルアースに白羽の矢が立てられたようだった。


 場所は《キミュスの尻尾亭》で、そこには《玄翁亭》の主人ネイルと《南の大樹亭》の主人ナウディスも招かれることになった。

 これは彼らにとっても密接に関係のある話であったのだ。


「端的に言ってしまうとね、ギバの肉の値段というものを見直していただきたいのだよ」


 ギバ肉は現在、カロンの足肉と同じていどの値段で売りに出されている。

 宿屋に卸されている生鮮肉しかり、屋台で売られている料理もしかりである。

 その価格設定に問題がある、という話であった。


「ギバの肉は、カロンの胴体にも匹敵するぐらい美味じゃないか? それがカロンの足肉や皮なしのキミュスなんかと大差のない値段で売られてしまうというのは、ちょっと問題になってしまうのだよね」


「それは、このままだとカロンやキミュスの肉が売れなくなってしまう、ということでしょうか?」


「うん、そうさ。キミュスなんかはまだギバ肉よりも安価だから救いがあるけど、カロンの足肉なんかはほぼ同じ価格であるわけだからね。脂身がなくて筋張ったカロンの足肉と、脂のたっぷりのった美味なるギバの肉が同じていどの価格だなんて、まったく勝ち目のない勝負になってしまうじゃないか?」


 それにまた、カロンというのはジェノスがダバッグの町から買い付けている商品でもあった。

 ジェノスはダバッグに野菜や果実酒を売り、ダバッグはジェノスにカロンの肉を売る。この流通のバランスが崩れてしまうのは、両方の町にとってきわめて都合が悪いらしい。

 そこにはどうやら、ジェノスと同じくフワノとママリアの果実酒を特産品としているバナームの存在も絡んでくるようであった。


「もしもカロンの足肉がジェノスでまったく売れなくなってしまったら、ダバッグはバナームとの絆を深めてしまうかもしれない。そうなったらトゥランのフワノや果実酒も大きな商売相手を失ってしまうことになる。……そんなことになったら、ただでさえ大わらわのトルスト殿もひっくり返ってしまうと思うのだよねえ」


 トルストというのは、サイクレウスを失ったトゥラン伯爵家の立て直しを命じられた人物である。

 現当主のリフレイアはすべての権限を封殺され、事実上はトルストがトゥラン家の最高責任者と定められてしまったのだ。


「それにまた、肉屋だけでなく屋台を出している宿場町の民からも、ちらほら不満の声があがっているようだよ? あんなに美味い料理をあんなに安い値段で売りに出されたら太刀打ちできるわけがないってね。……もちろん自由競争というのはそういうものなのだから、いたしかたのない面もある。だけど、森辺の民が宿場町の人々と正しい縁を結びたいと考えているならば、反感を買うのは望ましいことではないはずだよね?」


「ええ、それはもちろんその通りですが――」


「それに、もうひとつ大きな問題がある。このままだと、ギバの肉はごく限られた量しか宿場町で流通させることがかなわなくなってしまうかもしれないんだ」


「ええ? 何故ですか?」


「それはね、ギバの肉がそんなに安価であったなら、城下町の人間が買い占めに走ってしまいかねないからだよ」


 ふにゃふにゃと笑いながら、ポルアースはそのように言った。


「マルスタイン侯爵が、ギバ肉の美味しさを認めただろう? あれで城下町の人々もギバの肉に強い関心を抱くことになってしまったんだ。今はまだ災厄の象徴とされていたギバに対して忌避の感情をぬぐえずにいるけれども、誰かひとりが足を踏み出したらもう止まらなくなってしまうだろうね。で、カロンの胴体と同じぐらい美味であるギバの肉がうんと安価で手に入るなら、いかに裕福な城下町の民だってそちらばかりを求めるようになってしまうかもしれない。そんなことになってしまったら、いよいよダバッグとの関係性も壊滅的に破綻してしまうのだよ」


「はあ……」


「で、ここで内情を明かしてしまうと、すでにサトゥラス伯爵家のリーハイム殿なんかは、ギバ肉の買い入れを本気で検討し始めてしまっている。それを知ったジェノス侯が、今後の混乱を避けるために僕を派遣してきたという次第なわけだね」


 あくまでも朗らかに、ポルアースはそう言った。


「僕だってね、森辺の民との関わりがなかったらリーハイム殿と同じことを考えていたと思うよ。何だったら、安価のギバ肉を丸ごと買い占めて、それを城下町で転売しようぐらいのことは思いついたかもしれない。そうなったら、宿場町でギバ肉を口にする機会もごっそり奪われてしまうわけさ」


「だ、だけど、誰に肉を売るかはこちらで判断することですよね?」


「うん、もちろん。だけど現時点でギバ肉を購入しているのは、こちらのおふた方のみなのだろう? 宿場町の人々がそうやって二の足を踏んでいる間に、ギバ肉の美味しさを認めた城下町の人間が正式に買い取りの話を持ち込んできたとき、それを断る正当な理由が森辺の民には存在するのかな?」


「それは――」


「言ってみれば、それだって自由競争の結末さ。だけどそのような結末を森辺の民が望んでいるとは思えない、ということでジェノス侯は今回このような提案を申し入れてきたわけだよ」


 売る相手が城下町だろうと宿場町だろうと、そこまで大量にギバ肉を購入してくれるなら、森辺の民はたくさんの富を得て、豊かな暮らしを手に入れることができるだろう。


 しかし――

 ギバの肉が安価で買われ、別の人間の手によって転売されるとか、それによって宿場町の人々がギバの肉を口にする機会を失ってしまうとかいうのは、言われるまでもなく、どこか歪んでいるような気がしてしまった。


 顔も知らない城下町の人々よりも、身近な宿場町の人々にこそ食べてほしい。そのように思ってしまうのは俺個人の感傷に過ぎないのかもしれないが、それにしたって、ちょっと危うい話に思えてしまう。


 そしてまた、森辺の民はまだ総意として肉を売る商売をしているわけではないのだ。

 それが正しい行いなのか、森辺に明るい未来をもたらすのか、グラフ=ザザやベイムの家長たちなどは、じっくりと腰を据えてファやルウの行いを見定めようとしてくれている最中なのである。


 宿場町の人々をないがしろにして貴族とばかり懇意にするというのは、森辺の民の気風に合致する行いだとはとうてい思えなかった。


「それにね、宿屋の諸君らなどはご存じの通り、ジェノスにおけるキミュスの飼育や販売にだって、ダバッグへの配慮から大きな制限をかけられているんだ。たとえばキミュスを飼育するにはジェノス城への届け出が必須であるし、現在のところ、それはダレイムの農村部と城下町の一部でしか認められていない。また、キミュスの料理はカロンより安い値で売らなくてはならないという取り決めもあったはずだよね?」


「ええ。結果的に、キミュスよりもカロンの料理を売ったほうが宿屋や屋台の人間にとってはいい稼ぎになるという、そういった値段に取り決められておりますな」


 初めて間近に接するという貴族を前にいくぶん緊張の色を漂わせつつ、それでもナウディスが決然と答える。


「ですが、ギバに関してはどうなのでしょうかな。もとよりギバの肉というのは部位によって値段が変わっておりましたから、現時点でも胸や背中の肉などはカロンの足肉よりも高額なのであります。また、アスタから買った料理についてもアスタ分の利ざやが生じるので、カロンの料理よりは割高になっているのですぞ?」


「うん。カロンの料理が赤銅貨4枚だとしたらギバの料理は5枚、だったっけ? それでもカロンの胴体の肉を使うよりはよほど割安な値段になっているだろうねえ」


 鷹揚に笑うポルアースに対して、今度は無表情のネイルが応じる。


「確かに現在、ギバ肉を使った料理は圧倒的な人気を誇っております。このままではカロンやキミュスの肉を仕入れる必要もなくなってしまうのではないかと思えていたところですので、ジェノス侯爵が憂慮するお気持ちもわからなくはないのですが――しかしそれでも、あまりに値段が跳ね上がってしまえば、宿場町でギバの料理を売ることもかなわなくなってしまうでしょうね」


「もちろん、いきなりカロンの胴体と同じ値段にしろ、などというつもりはないよ? ただ、ダバッグの肉屋や他の料理を売っている人々の気持ちをなだめるためにも、ちょっと値段を見直してほしいのさ。それでもアスタ殿の料理やギバの肉が売れ続ければ、誰にも文句は言えなくなるだろうし。……それに、僕の正直な感想を言わせてもらえるなら、少しぐらい値上がりしたところでアスタ殿の料理が売れなくなることはありえないよ。だって、アスタ殿の料理はあれほどまでに美味なのだから!」


「はあ……」


「それで、もしもお客が不満を述べるようなら、今の話を包み隠さず打ち明けてしまえばいい。このままだと貴族たちにギバ肉を買い占められてしまいそうだから、しかたなく値上げの要請に応じたんだってさ。そうすれば、誰からも文句は出ないと思うよ?」


 ネイルとナウディスは押し黙り、それぞれの考えに打ち沈む様子であった。

 その難しげな顔を見やりつつ、ポルアースは快活に言葉を重ねていく。


「でね、実はもうひとつ、これは嘆願としてアスタ殿たちに届けたい言葉があるのだけれども」


「ジェノス侯爵が、俺たちに嘆願ですか?」


「そう。アスタ殿には多少の話が伝わっていると思うけれども、トゥラン伯爵家に届けられる山のような食材の処分について協力を願いたいのだよ」


 サイクレウスはこれまで、病的とも思えるような独占欲でもってさまざまな食材を買い占めてきた。

 しかしそのサイクレウスは投獄され、食材の大半は無用の長物と成り果てた。が、他国や他の町と結んできた商売の契約を一方的に打ち切ってしまってはジェノスそのものが信用を失ってしまうということで、今でも伯爵家には毎日のように膨大な量の食材が届けられているそうなのである。


「何とか不義理のそしりを受けぬ範囲でその商売は縮小していく予定なのだけれども、向こう数ヶ月は問答無用で食材が届いてしまうしね。それに、かなうことならせっかく結ばれていた他国との縁は上手く活かしていきたいじゃないか? 届いた食材を上手くジェノスの領内で使いきることができれば何の問題もないわけだしさ。……そのために、アスタ殿のお力を拝借したいのだよ」


「それはもしかしたら、宿場町の料理に城下町で使われていた食材を取り入れてほしい、というお話なのでしょうか?」


「そう、まさにその通り! 我がダレイム家の料理長ヤンが乳脂や焼きポイタンを流通させるためにそれを使った料理を宿場町で売りに出していただろう? あれをもっと大がかりにした感じで、宿場町の民に未知なる食材の味を知らしめてほしいのだよ。もちろんこちらでもサトゥラス家を通してさまざまな宿屋や料理屋に働きかけるつもりではあるけれども、そこにアスタ殿にもご協力をいただきたいわけさ」


 この言葉に、ちょっと目の色を変えたナウディスが身を乗り出してきた。


「横から失礼いたしますぞ。それはひょっとして、タウ油ばかりでなくジャガルの砂糖や蜜なども宿場町で扱うことができるようになる、というお話なのでしょうかな?」


「そうだね。1個で赤銅貨5枚もするミンミの実やひとかたまりで白銅貨2枚もするギャマの乾酪なんかはなかなか買い手がつかないだろうけど、ジャガルの蜜や砂糖、レテンの油、ママリアの酢といった調味料なんかは宿場町の人々にも喜ばれるのじゃないのかなあ」


 ナウディスが、いきなり俺の指先をつかんできた。


「アスタよ、ジャガルの砂糖などを使ったらわたしの店で売られている料理は飛躍的に質が高まるのではないでしょうかな?」


「そうですね。俺の故郷でも『肉チャッチ』や『ギバの角煮』に似た料理には砂糖がふんだんに使われていました」


 しかし宿場町には砂糖が存在しなかったので、俺は糖度の高い果実酒だけを頼りにしていたのである。

 甘く煮付ける肉じゃがや豚の角煮から着想を得た料理なのだから、砂糖を使えるようになるならば本当にありがたい。


「それならば、多少の値上がりがあってもこれまで通りにアスタの料理を売り続けることは可能だと思われます。あの美味なる『ギバの角煮』に砂糖の甘さが加えられるなど、想像しただけで胸が高鳴ってしまいますからな!」


「あ、ナウディスも砂糖の味をご存じなのですね」


「むろんです。幼き頃は母に連れられて父の故郷を何度も訪れておりましたからな。……だからわたしは、ジャガルの砂糖を買い占めているジェノスの貴族たちの行状を前々から忌まわしく思っておったのです」


 後半は、囁くような声になっていた。

 ポルアースは聞こえているのかいないのか、変わらぬ表情でにこにこと笑っている。


「ちょうど現在は、フワノの代わりにポイタンが流通されつつある時期だからね。1食分では赤銅貨1枚にも満たない差額でも、1日に100食も200食も売る宿屋においてはそれなりの差額になるはずだろう? その浮いた銅貨を使って色々な食材を買い付けてくれるとありがたいところだね」


 ナウディスとネイルは無言でポルアースを見る。

 ポルアースの目は、何やら子供のようにきらきらと輝いていた。


「そうして宿場町にさまざまな食材の味が浸透されれば、やがて市井の人々も砂糖やシムの香草などを求めるようになるかもしれない。そうなったら、他国との商いも縮小するどころか拡大する道さえ開けるわけさ。……僕はね、これを契機に城下町ばかりでなく宿場町やダレイム、トゥランなどでも美食を尊ぶ気風が蔓延しないかなあと期待しているのだよね」


「美食を尊ぶ気風、ですか?」


「うん。もうちょっとやわらかい言葉で言うと、美味しいものを食べる喜びを知るっていうことかな」


 それは、俺が森辺の民に伝えたかったことだ。

 俺は驚きに息を呑み、ポルアースは楽しそうに笑う。


「ジェノスは非常に豊かな町だ。こんなに誰も彼もが不自由なく肉を食べられる町なんて、西の版図でもごく限られていると思う。それをもう一歩おし進めて、気軽に世界中の料理が食べられる町になったら、いっそう多くの旅人がこのジェノスを訪れるようになるのじゃないのかな。タウ油や砂糖を使ったジャガルの料理、香草をたっぷり使ったシムの料理、レテンの油やママリアの酢やさまざまな野菜を使ったセルヴァの料理――それを城下町だけでなく宿場町でも口にすることができるようになれば、ジェノスは今よりも豊かな町であると世界に誇ることができるようになると思うのだよ」


「……マルスタイン侯爵は、そこまでの展望をもって俺たちに呼びかけているわけですか?」


「うん? いや? いま言ったのは全部僕個人の展望だけれども」


 と、ポルアースがふくよかな頬を震わせる。


「でも、ジェノス侯もそれぐらいのことはすでに考えているのだろうね。だからこそ、今回の交渉役をメルフリード殿ではなく僕に託したのだろうと思う。……で、そういった思惑が心中に秘められているからこそ、ギバの肉が城下町に独占されてしまうことをよしとしなかったのかもしれないね」


「……なるほど」


「さらにうがった見方をするならば、ギバの料理を値上げすることによって、美味い料理には今まで以上に銅貨を支払う、という気風が宿場町に生まれることを望んでいるのかもしれない。そうすれば、足肉の倍ぐらいはするカロンの胴体の肉を買うという気風が宿場町に生まれるかもしれないからね」


 なんとも遠大なる展望であった。

 しかしとにかく、そうして俺たちは「ギバ肉の値上げ」に「新たな食材の買い付け」というふたつの大きな変転を迎え入れることになったのだった。


 値上げに関しては、とりあえずギバの料理も生鮮肉もこれまでの1・5倍の値段で売り買いされることになった。

 この数字も、ポルアースから提案された通りのものである。


 肉の値段が1・5倍になるから料理の値段まで1・5倍になるというのは、本来おかしな話であった。それで使う食材の量に変化がなかったら、野菜が値上がっていないぶん、売る側の利益が増えてしまうのだ。

 しかし、屋台の料理の値段としては、むしろそれぐらいが適正なのだという。


「要するに、アスタ殿の料理は最初から安すぎたのだよ! カロンの足肉の料理だって、あれぐらいたっぷりと肉を使っていたらもっと高額にもなりかねないのだから、僕の感覚的には赤銅貨3枚でもまだ安すぎるぐらいだねえ」


 ポルアースはそのように述べていた。

 ともあれ、これまで赤銅貨2枚で売られていた『ギバ・バーガー』と『ミャームー焼き』は1・5倍の価格、赤銅貨3枚で売られることになった。


 いっぽうで、ナウディスたちのほうはもう少し頭をひねる必要が生じた。

 およそ赤銅貨4枚であるカロンの料理に対してギバの料理の値段をいきなり赤銅貨6枚にまで引き上げてしまったら、さすがに手をのばすお客も激減してしまうであろうとの予測が立てられたのだ。


 なので、ナウディスたちはどの料理も半分の量を半分の値段で売ることを基本方針と定めた。

 カロンなら赤銅貨2枚、キミュスなら1・5枚、ギバなら3枚ということだ。

 懐にゆとりがある者はギバ料理を2食分買えばいいし、そうでなければ安価なキミュスの料理と1食分ずつ買えばいい。そういうスタンスである。


 それを聞いて、俺も彼らにならうことにした。

『ギバ・バーガー』と『ミャームー焼き』に関してはすでにルウ家にまかせられる状態に仕上がっていたので、俺のほうでは新たに屋台をふたつ借り入れて、これまでと異なる料理を売りに出す決断をしたのである。


 そもそもこれまでの料理はギバの肉を180グラムの見当で使用しており、かなりのボリュームを有していたのだ。

 俺が初めて食した『キミュスの肉饅頭』などは、大人用が赤銅貨2枚、子供用が赤銅貨1枚という価格で売られていた。

 それに、ポイタンと乳脂の普及につとめていたヤンなどは、初見のお客さんが手をのばしやすいように、最初からミニサイズの料理を赤銅貨1枚で販売していた。

 ならば俺も同じように、ボリュームと値段の双方を抑えた料理を売りに出してみようと考えたのだ。


 そうして屋台の商売を再開させてから、はやひと月半――

 さまざまな試行錯誤を経て、我が店もルウ家の店もまずは上々の成果を上げることができていた。


               ◇


「それじゃあ行ってくるよ。今日もおたがいに頑張ろう」


「うむ」


 朝方はさんざん騒がせてしまったが、その日も無事にファの家を出発することができた。


 ギルルの引く荷車で森辺の道を駆ける。

 御者台で手綱を握る俺のすぐ後ろには、トゥール=ディンの小さな姿があった。

 彼女は無事にジーン家とリッド家の婚儀の宴のかまど番という大仕事を成し遂げて、ファの家の商売を手伝うことをグラフ=ザザに認めてもらえたのである。


「あの……」


「うん、何だい?」


「いえ、まったく大したことではないのですけれど……」


「うん、何でも遠慮なく言っておくれよ」


「あの……とても気持ちのいい風が吹いていますね?」


 真っ直ぐな道が続いていたので、俺は後方を振り返り、にっこり微笑んでみせた。


「本当だね。今日も気持ちよく仕事に取り組めそうだ」


 トゥール=ディンも、おずおずと笑い返してくる。

 相変わらずシャイな少女であったが、それでも表情は日を重ねるごとに明るくなっていると思う。


 トゥール=ディンが商売に参加してからはまだひと月ていどしか経ってはいなかったが、レイナ=ルウやシーラ=ルウに次ぐかまど番としての腕前を持った彼女は、すでに我が店にとって欠かせぬ戦力となっていた。


 そんなトゥール=ディンとぽつぽつ言葉を交わしている間に、20分ていどでルウの集落に到着する。

 集落では、すでに自分たちの荷車にスタンバイした女衆らが待ち受けていた。


 ルウ家でも、荷車とそれを引く新たなトトスが購入されたのである。

 新たなトトスは、「ジドゥラ」という勇ましげな名前が与えられていた。

 何でもそれは東の王国シムにおいて「赤」を示す言葉であり、このトトスがいくぶん赤っぽい毛並みをしているゆえの命名であったそうだ。


「おはよう、アスタ……今日もよろしくねぇ……?」


 そのジドゥラのかたわらに立っていたヴィナ=ルウが、けだるげかつ色っぽく微笑みかけてくる。

 今日のメンバーは、ヴィナ=ルウ、レイナ=ルウ、ツヴァイであるようだった。


 このうちで固定メンバーはツヴァイのみであり、レイナ=ルウとシーラ=ルウは1日置きの2交代制、ヴィナ=ルウとララ=ルウとリミ=ルウは3交代制のローテーションになっていた。


 ルウ家側の責任者であるレイナ=ルウとシーラ=ルウが交代制になったのは、その一方が集落に居残って、翌日分の下ごしらえをすみやかに開始するためであった。この1ヶ月半ですべてのメンバーが屋台で『ミャームー焼き』をこしらえることができるようになったので、このような編成を組むことが可能になったのだ。


 残りの3姉妹が交代制になったのは、全員が宿場町での仕事を希望したためであり、また、ついに若年たるリミ=ルウも参加することがドンダ=ルウたちに認められたからだ。

 なおかつ、年長組のヴィナ=ルウとレイナ=ルウが毎日いっぺんに宿場町に下りるとルウ本家での仕事に支障をきたしてしまうため、その双方が交代制になった、という背景もあるらしい。


 これで、中天から1名が俺とともに屋台を離れる際は、アマ・ミン=ルティムかモルン=ルティムのどちらかが交代で手伝いに来る手はずになっている。

 ふたつの屋台を切り盛りするのに、常に3名の人間が現場に居残れるように人員が強化されたのだ。


 そして、我が店のほうは、というと――


「あ……きょ、今日もよろしくお願いいたします……」


 トゥール=ディンが、俺とは逆のほうを向きながらそのように発言した。

 見ると、我が店のメンバーたる女衆が優雅な足取りでこちらに向かってくるところであった。


「こちらこそ、どうぞよろしくね」


 ヤミル=レイである。

 人員を強化するにあたって、レイ家の家長ラウ=レイがヤミル=レイを使ってくれるようにと頑強に頼みこんできたのだ。


「力はないしぶきっちょな女衆だが、わりあい料理に関しては資質がなくもないようなのだ。こいつがアスタと同じぐらい美味い料理を作れるように指南してやってくれ!」


 若き家長は、そのように言っていた。

 これに、中天から手伝いに来るリィ=スドラを加えた4名が我が店の人員であった。


「それでは出発いたしましょう。荷物が崩れないようによろしくお願いします」


「ええ」


 言葉少なく、ヤミル=レイも荷車に乗り込んでくる。

 トゥール=ディンは、慌てた面持ちで道を空けた。

 それでも以前のように、ヤミル=レイの姿を見ただけで青ざめるようなこともない。


 かつて族長筋であったスンの本家と分家の構成員であったヤミル=レイとトゥール=ディンなのである。

 新たな氏を得て新たな生を生きようとしている、そんなふたりとともに仕事を果たしていくというのも、何やら数奇な巡り合わせであった。


 ともあれ、出発である。

 太陽は、すでにかなりの高みへと昇っていた。

 あらためて森辺の道にギルルを乗り入れつつ、俺は背後のヤミル=レイに呼びかける。


「さっき、シン=ルウの家のほうから歩いてきましたよね。もしかしたら、ミダと会っていたんですか?」


「ええ」


「ミダもずいぶん体力がついてきたみたいですね。そろそろ森に出してもいいころかもなーとかルド=ルウが言っていましたよ」


「そう」


 べつだん不機嫌なわけではない。これが最近の、ヤミル=レイの常態なのである。

 いざというときには以前と変わらぬ舌鋒が飛んでくるが、ふだんの表情はずいぶん穏やかで、思いつめた気配もだいぶん緩和されてきたように感じられる。かつての毒蛇みたいな眼光や冷笑も、今では思い出すのが難しいぐらいであった。


「……それにしても、毎朝毎朝よくこれだけの料理を作りあげられるものね」


 今度はヤミル=レイのほうからそんな風に呼びかけてくる。

 最近は《玄翁亭》と《南の大樹亭》に卸す料理は朝方に作っておく方針になっていたので、荷車にはその分の料理も積まれていたのである。


「どうってことはないですよ。簡単な下ごしらえはフォウやランの人たちが手伝ってくれますし、簡単でない部分はトゥール=ディンの手を借りていますから」


「ふうん。だけどその女衆らにも手伝いの代価が支払われているのよね?」


「安いものです。作業時間もせいぜい2、3時間ていどですからね」


 ただしこのひと月半で、手伝いの給金は大幅にアップさせていた。

 時給赤銅貨2枚で、プラス能力給。7時間以上も拘束していながら代価は赤銅貨6枚であった時代を思えば、2倍以上も上がっていることになる。

 これならば、宿場町で雇われている日銭稼ぎの者たちと大差のない賃金になっているはずだった。


「まあ、ファの家にとってはどうということもない値段なのでしょうね。ルウ家の富は、ついに銀貨20枚以上にもなったそうよ」


「へえ、荷車を2台とトトスを2頭買ってもまだその数字ですか。本格的に商売を始めてからはまだひと月半しか経っていないのに大したものですね」


 ルウ家は屋台の商売用だけではなく、眷族のためにも荷車とトトスを購入していた。そちらは買い出し用の幌のない簡易型の荷車であったそうだが、すべてを換算したら銀貨3枚以上の出費であったはずだ。

 ちなみに銀貨というのは赤銅貨1000枚、白銅貨なら100枚で交換することのできる、宿場町ではもっとも価値の高い貨幣である。


「きっとツヴァイがきちんと銅貨の管理をできているからでしょうね。いや、素晴らしい成果だと思います」


「いちいちツヴァイを持ち上げる必要はないわ。ルウ家がそこまでの富を稼ぐことができたのは、あなたがそれだけの仕事をルウ家に割り振ったからでしょう? ……宿屋に卸す分もファの家で問題なく作りあげることができるなら、それをルウ家に割り振る必要はなかったんじゃないの?」


 宿屋の料理に関しては、かねて計画した通り1日置きにファとルウの家で受け持っていた。

 当初はルウ家が『ギバ・スープ』を、俺が残りの『肉チャッチ』や『ギバのソテー・アラビアータ風』を受け持っていたが、現在はレイナ=ルウらもそれらの料理を作製することが可能になったので、等分に割り振っている。そして現在は《キミュスの尻尾亭》で新たに卸されることになった料理も作製できるように、レイナ=ルウとシーラ=ルウは修練を積んでいる最中であった。


「でも、ルウ家は眷族のためにも荷車やトトスを買ったりして、うまく富を配分していますからね。ファの家ばかりが富を溜め込むよりはよほど健全な姿じゃないですか?」


「……ファの家はどれほどの富を得ることができたの? 聞いてよければ」


「何も隠す気はありませんよ。えーと、現時点での蓄えは銀貨37枚分ほどですね」


「あら、ルウ家の倍にも至っていないのね」


「ええ。ファの家ではルウ家以上に他の氏族から肉を買い上げることが多いですから」


 現在、宿場町で売りに出されているギバの肉の総量は、屋台の料理、宿屋の料理、宿屋に卸される生鮮肉まで合わせて、およそ130キログラムほどである。もっとも収穫率の高いメスのギバで換算すると、これは3頭分ていどの肉になるのだ。


 で、この内のおよそ半分ていどをファの家で準備することになるわけだが、さしものアイ=ファとてそのすべてをまかなえるほどのギバを狩れるわけがない。なおかつファの家は、灰の月の中盤が休息の時期であったのである。

 よって、足りない分は他の氏族から1頭あたり赤銅貨120枚の値で買い取ることになったのだから、それだけでも相当な銅貨を出費しているはずであった。


 まあ裏を返せば、ファの家はそうして肉を買い上げることにより、なんとか他の氏族にも富を配分できている、と言うこともできた。


「何にせよ、それほどの負担もなくそれだけの肉や料理を宿場町で売ることができているのですから万々歳です。何も問題はありませんよ」


 俺は素直にそのように答えることができた。

 人員の強化と作業の効率化。それを見直したことによって、俺たちはこれだけ作業量が増えたにも拘わらず、以前よりも負担のない形で仕事を継続することができていたのである。


 その理由の大なる部分は、やはりルウ家にこれまで以上の仕事を任せられるようになったことと、あとは営業時間の改正にあっただろう。

 これまで俺たちは、準備や後片付けも含めて、5時間半ばかりも宿場町に居座っていた。

 それを、現在では3時間半ていどに短縮しているのである。


 今までは、朝一番のラッシュから中天の間にちょっとした空白の時間が生まれていたし、また、中天のピークが過ぎても定刻まできっちり宿場町に居残っていた。そういった時間を排除して、中天の前後にのみ勝負をかけることにしたのだ。


 それでも問題がないぐらい、屋台の売上は跳ね上がっていた。

 料理の価格を1・5倍に改正して、営業時間も短縮したのに、俺たちの店は倍増以上のお客さんを獲得することに成功できていたのだ。


 それはやっぱりジェノスの貴族たちがギバ肉の味を認めたという効果と、罪人たちが正しく裁かれたことによって森辺の民を忌避する感情が薄らいできたという双方の理由からもたらされたものなのだろうと思う。


 また現在、宿場町には未知なる食材が次々と流通してきて、ちょっとした混乱期を迎えているところでもあった。

 それらの食材の使い方をあるていどわきまえている俺は、かなりのアドバンテージを有しているのだ。それで、ギバ肉の値上げという悪条件をひっくり返すほどのスタートダッシュをかますことができたのだろう。


 いい意味で、現在は正念場なのだ。

 これが歴史の徒花で終わってしまわぬよう、ジェノスの町にギバ肉の料理を定着させる――俺たちの仕事はそういった段階に来ているのだろうという実感があった。


               ◇


 そうこうしている内に、宿場町に到着した。

《キミュスの尻尾亭》から屋台を借り受け、ドーラの親父さんの店で野菜を購入し、完成した料理と生鮮肉を宿屋に運ぶ。大人数の利を活かして、それぞれがそれぞれの役回りを果たす。


 現在は、この世界で言うところの、上りの六の刻――俺の感覚で言うと、午前の11時頃であるはずだった。

 ここから下りの二の刻、午後の2時20分ぐらいまでが、新たに定めた営業時間である。


 このように正確な時間割で動けるのも、ポルアースを通じて城下町から購入した日時計のおかげであった。

 現在、ファの家とルウの家、それに俺の荷車にはひとつずつの日時計が備えられているのだ。


 荷車で持ち込んだ日時計は、所定のスペースに落ち着いたのち、雑木林の日当たりのよい場所に設置する。その角度は、衛兵の許可をもらって木の根もとに印をつけさせていただいている。10分やそこらの誤差は生じてしまうかもしれないが、それでも太陽の位置の目算だけで動いていた頃に比べれば、格段に規則正しい時間割で行動できているはずであった。


 所定の位置では、すでに30名ていどのお客さんたちが待ってくれている。

 商売の再開当時はそれこそ100名近いお客さんが集まって大変な騒ぎになってしまったのだが、そこまで並ばずとも売り切れることはないのだから行動をつつしむように、という言葉が兵士たち――宿場町の衛兵ではなく、当時の俺たちを護衛してくれていた近衛兵団の兵士たちからもたらされて、何とか収束したのである。


 しかしそれでも、毎朝これぐらいのお客さんたちは集まってくれている。

 その大半は、西や東の民よりも我慢のきかない南の民のお客さんたちであった。


「お待たせしてしまって申し訳ありません。すぐに準備しますので、もう少々お待ちくださいね」


 お客さんたちに呼びかけつつ、俺は商売の準備に取りかかった。


 まずはディアルから購入した平鍋に水を張り、火をかける。

 その上に、木の皮を加工して作られた筒状の蒸籠をセットする。

 これもまたポルアースに頼んで城下町から取り寄せてもらった、俺の新しい調理器具であった。


 直径は鉄鍋と同サイズで、固い竹のような木の皮で作られており、底部は目の粗い網状になっている。煮立った鍋からたちのぼる蒸気で食材を蒸すことができる、俺の故郷ではせいろと呼ばれていた蒸籠である。

 その蒸籠を2段セットして、俺は料理に熱が通るのを待った。


 蒸籠の中で眠っているのは、肉饅頭だ。

 俺は『ギバまん』と命名した。

 イメージしたのは、もちろん肉まんである。


 肉はたっぷり120グラムほども使っており、そしてこの料理には城下町から流れてきた食材を駆使してもいた。

 味付けはお馴染みのタウ油がベースであるが、隠し味に果実酒を使っている他、ジャガルの砂糖とレテンの油も使用している。

 具材のほうも、ミンチにしたギバ肉とアリアの他に、ラマンパの実とチャムチャムという野菜を使っていた。


 ラマンパの実は、かつての城下町の晩餐会でティマロが前菜に使っていた、落花生のような食材である。

 これは隠し味というかほのかな風味をつけるために、1人前につき1粒の見当ですり潰したものを加えている。


 チャムチャムという愉快な名前を持つ食材は、どうやら西の王国の他の町から買い付けているものであるらしい。茹でるとほのかに甘くなり、さくっとした独特の食感が生まれる。この食材を、俺はタケノコの代わりとして使うことにした。


 大きさは俺の知る肉まんよりもひと回りは大きく、皮が薄い代わりに具材がたっぷり詰まっている。『ギバ・バーガー』などに比べれば肉の量は3分の2ていどであるが、ボリュームに申し分はないだろう。

 これでお値段は赤銅貨2枚であり、現在は毎日100食分が売れていた。


「大丈夫ですか? 足の上に落とさないように気をつけてくださいね?」


 そんな声に振り返ってみると、トゥール=ディンとヤミル=レイがふたりがかりで鉄板を運んでいるところであった。

 鉄板は、せいぜい12、3キロていどの重量である。それでも森辺の女衆としては極度に腕力の足りていないヤミル=レイには大荷物であったため、トゥール=ディンが力を貸してあげているのだろう。


 微笑ましい光景だなとか考えていたら、うっすらと額に汗を浮かべたヤミル=レイにきろりとにらまれた。


「何よ。何か言いたそうな顔ね、アスタ」


「い、いえ、そんなことはないですよ。……それじゃあヤミル=レイはこちらで火の番をお願いいたします」


 蒸籠の火の番をヤミル=レイに託し、俺は鉄板のセットされたもう片方の屋台の前に立つ。

 こちらで作製されるのは、一転してシンプルな献立であった。

 タレをからめたギバのバラ肉を鉄板で焼き、それを刻んだティノとともにポイタンの生地で包む。『ミャームー焼き』の簡略版みたいな料理だ。


 こちらはギバ肉を90グラムていどしか使わず、ポイタンの生地も半個分、直径12、3センチていどのサイズである。

 城下町の食材と調理器具を駆使した『ギバまん』に対して、こちらは如何にギバ肉をシンプルに、そしてお手軽に味わえるかを追求した献立であった。


 しかしその分、タレの作製には気合いを入れさせていただいた。

 こちらもタウ油がベースであり、果実酒やアリアやミャームーやチットの実といった馴染みの深い食材を使用しつつ、研究に研究を重ねて理想的なる焼肉のタレの作製に励んだのだ。


 こちらは命名のしようがなかったので、『ギバ肉のポイタン巻き』と呼んでいる。

 お値段は赤銅貨1・5枚であり、こちらは1日に120食が売れている。

 女性や子供の軽食ならこの1食で十分であるし、成人男性でも2食分を購入すれば『ギバ・バーガー』などと同じ値段で同じボリュームを楽しめる。食欲旺盛なジャガルの民であれば、この『ギバ肉のポイタン巻き』と『ギバまん』を1食ずつたいらげてしまうことも珍しくはなかった。

 

 そうして『ギバ肉のポイタン巻き』で使われるキャベツ代わりのティノを刻んでいると、先頭に並んでいたジャガルのお客さんに「おい、まだなのか?」と切なげな目つきで問われてしまった。


「申し訳ありません。まもなく準備ができますので。……あ、それじゃあ特別献立を希望される方がいらっしゃいましたら、今の内に受け付けましょうか?」


「おう! 今日こそは当ててやるからな!」


 俺は、かたわらのトゥール=ディンを振り返った。

 トゥール=ディンは小さくうなずいて、荷車のほうにちょこちょこと駆けていく。

 やがて戻ってきた彼女の手には、何十本もの細い木の棒が差し込まれたひとかかえもある木製の筒が抱えられていた。


「どうぞ」とそれをお客さんに差し出すと、最前列に並んでいた5名がいっせいに手をのばした。

 どうやら全員が特別献立を希望していたらしい。

 20センチていどの長さを持つ棒が、5名分いっぺんに引き抜かれる。


「外れだ」「あーあ」と肩を落とすお客さんたちの中で、1名だけが「当たったぞ!」と快哉の声をあげる。

 見ると、確かに棒の先には赤い点が記されていた。


「おめでとうございます」とトゥール=ディンははにかむように笑い、また荷車のほうに駆けていった。

 今度は大きな木の箱を抱えて戻ってくる。

 その中に封入されていたのは、我が店の第3の商品――特別献立の『ギバ・カツサンド』である。


 内容は、説明するまでもないだろう。森辺の民にも大好評であった『ギバ・カツ』をポイタンの生地ではさみこんだ料理である。

 揚げ物料理を屋台の設備で仕上げるのは色々と手間であったため、これは朝方に家でこしらえているのだ。


 しかし、この料理は宿場町でも好評であった。好評でありすぎた。普通に売りだしたら他の料理が売れなくなってしまうのではないかという危機感をあおられるぐらい、試食の段階で大好評であったのだ。


 しかしまた、『ギバ・カツ』というのは他の料理と比べてやや作製に時間がかかる上、食材費のコストも馬鹿にならない。それに、十分な数が準備できないとまた朝方にとてつもない行列ができてしまうことにもなりかねないので、個数を限定した上で抽選によって販売するという、いささかならず奇異なる販売方法を選択した次第なのである。


 個数は、1日に30個。

 価格は『ギバ・バーガー』などと同じく赤銅貨3枚。

 購入を希望するお客さんにはくじを引いてもらい、外れた場合はその場で別の料理を買っていただく。


 また、そのくじには4つの屋台の料理の総数と同じだけの外れくじが準備されているため、どの時間帯にご来店をいただいても確率に変動はない。


 こんなやり口が受け入れられるかどうか、実際に施行した際にはなかなかの不安であったのだが、お客さんの反応を見る限り、おおむねは楽しんでいただけているようであった。


「くそっ! これでもう3日連続の外れくじだよ。……まあ、こっちの料理も美味いからいいんだけどさ」


 最初にくじを引いたお客さんのひとりが、実に複雑そうな面持ちでそのようにつぶやいていた。


「しかし、好きに食べられないとなると、いっそう食べたくなってしまうもんなんだ。まったく、小憎たらしい売り方を考えついてくれたもんだな」


「あはは。恐縮です」


「明日こそは絶対に当ててやるからな! さ、とっととそっちの料理を食べさせてくれよ」


「はい、少々お待ちくださいませ」


 そろそろ『ギバまん』にも熱が通ったことだろう。

 俺は菜切り刀をまな板に置き、鉄板の火鉢に火を灯した。


「アスタ、こちらは販売を開始いたします」


 と、『ミャームー焼き』の屋台からレイナ=ルウが呼びかけてくる。

 俺はうなずき、肉の詰まった革袋を台の上に引き上げた。


「長らくお待たせいたしました。こちらも販売を開始いたします」


 そうして今日も、俺たちの仕事は至極平穏に始まった。

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