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異世界料理道  作者: EDA
第十五章 巡りゆく日々
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序 ~紅蓮の記憶~

2015.11/17 更新分 1/2

・今回の更新は8話分で、本日だけ2話を同時に公開いたします。

 気づくと俺は、灼熱と真紅の中にいた。


 全身が熱く、視界が真っ赤に染まっている。まるで俺自身が炎そのものに変じてしまったかのような、そこは灼熱の感覚と真紅の情景だけが支配する世界であった。


 熱い。

 地獄のように熱い。

 それ以外のことは、まともに考えることができない。


 身体はどこも動かず、声さえ出ない。

 こんな地獄の中でどうして正気を保っていられるのか、それが不思議なぐらいであった。


 いや、俺は本当に正気であったのだろうか。

 そもそも「俺」とは誰であっただろうか。


 人間らしい思考や感情などといったものはとっくにどろどろと溶け崩れて、もはや俺は紅蓮の世界でただ熱い熱いと苦しむだけの無意味な存在に成り下がってしまっていた。


 その中で、たったひとつだけ失われていない感覚がある。

 右手――たぶん右手の指先に握られた、固くて細い木の手触りだ。

 今ではそのほのかな感触だけが、俺を俺たらしめている唯一のよすがであった。

 この感触を失ったとき、きっと俺という存在はこの世界の中で完全に燃えつきてしまうのだろう。


(これは、親父の三徳包丁だ)


 そんな思いも、すぐに散り散りになってしまいそうになる。

 俺は地獄のような苦悶の中で、ひたすらその思いにだけ取りすがった。


(俺の家は、たぶん悪党どもに火をつけられて……俺は、親父が何よりも大事にしていた三徳包丁を取り戻すために、玲奈が止めるのも聞かずに炎の中に飛びこんじまったんだ……)


 だからこのように苦しむことになってしまったのか。

 あんな火の海に飛び込んで助かるわけはないのに、どうして俺はあのような真似に及んでしまったのか――今となっては、その前後の記憶も曖昧になってしまっていた。


 赤い炎と黒煙に満たされた店の中に、無我夢中で俺は飛び込んだ。

 すぐに手足に火が燃え移り、衣服や皮膚を焦がす嫌な臭いがした。

 しかしそれも、もっと圧倒的な黒い煙によって有耶無耶にされてしまう。


 肺の中が、黒煙で満たされた。

 酸素が欠乏し、意識が遠ざかった。


 そんな中で、奇跡的にまだ燃えていなかった三徳包丁をひっつかみ――それから記憶は寸断され、今の状況に直結している。


 呼吸もできず、全身を焼かれていく。その途上で時間の進行が止まり、俺の感覚だけが同じ場所に取り残されたかのようだった。


(これは、罰なのか? 自分の生命を粗末にして、家族や幼馴染を悲しませることになった――途方もない大馬鹿に対する罰だとでもいうのか?)


 俺だって、好きでみんなを悲しませたわけじゃない。

 気づいたら、勝手に身体が動いてしまっていたのだ。

 まるで、何かに導かれるように――そうする以外に道はないと、そのような思いに頭を満たされてしまったのだ。


 だけどきっと、こんな地獄にもいつか終わりは告げられるだろう。

 俺は、建物が崩壊して自分の身体を押し潰す、その感覚もはっきり覚えていた。

 どんなにもがいても、どんなに三徳包丁の存在に取りすがっても、やがて俺という存在は消えてなくなる。


 たった17年間しか生きられず、最後の最後で大きく道を踏み外してしまった俺という大馬鹿の存在は、もうすぐ木っ端微塵に砕け散ってしまうのだ。


 それが嫌なら――

 今度はあの光の中に飛び込むしかない。


 光?


 気づくと、荒れ狂う紅蓮の向こうにかそけき金色の光が灯っていた。

 ごうごうとうなりをあげる炎の中ではあまりにか細い、ちょっと乱暴に扱ったらすぐに消えてしまいそうな、淡くぼんやりとした光である。


 俺はまた、何かに導かれるようにその光のもとへと這い寄っていった。


 本当にそんな光が存在するのか、そこに近づくのが本当に正しいことなのか、そんな疑念を感じる余地もなく、俺は三徳包丁を握りしめたまま、そのか細くて温かい光を欲した。


 そして――

 俺の意識は、いささかならず乱暴に現世へと引き戻されることになった。


             ◇


「おい、しっかりしろ! 目を覚ませ、アスタ!」


 アイ=ファが俺の肩をつかみ、がくがくと揺さぶっていた。

 世界が正常な色彩を取り戻していき、やがて褐色の綺麗な細面で俺の視界がうめつくされていく。


「大丈夫……なんでもないよ……」


 別人のようにかすれた声が出た。

 間近に迫ったアイ=ファの目が、青く爛々と光っている。


「何が大丈夫だ! いいから、これを飲め!」


 と、口もとに柄杓が突きつけられた。

 冷たい水がものすごい勢いで口の中に入ってきて、俺は溺れそうになってしまう。

 だが、それで今度こそ俺はしっかり覚醒することができた。

 左手を床につき、重い身体を何とか引き起こしてみせる。


「大丈夫だ……ちょっと悪い夢を見ていただけなんだ。何の心配もいらないよ」


「本当に大丈夫か?」


 アイ=ファの両手が俺の頬を包み込み、その顔がまたぐっと鼻先に寄せられてくる。

 その青い瞳を見つめ返しながら、俺は「大丈夫だ」と繰り返した。


 アイ=ファは小さく息をつき、俺の顔から手を離した。

 そして今度は、壊れ物でも扱うかのように俺の身体をそっと抱きすくめてきた。


「あまり心配をさせるな……何か病魔にでも憑かれたのかと思ってしまったではないか」


「ごめん。俺はうなされていたのかな?」


「うなされているどころの騒ぎではなかった。身をよじり、全身に脂汗をかきながら、熱い熱いとずっと譫言を口走っていたのだ」


 アイ=ファに触れている部分から、その体温がゆっくり流れ込んでくる。

 その温もりが、身体に残っていた悪夢の残滓を完全に駆逐してくれた。


 鼻からは、アイ=ファの髪の甘い香りが忍び込んでくる。

 視界の半分はアイ=ファの金褐色の髪にふさがれて、もう半分には薄明るいファの家の様相が見えていた。

 感覚のぼやけていた手足にも力が満ちてくる。


 もう大丈夫だ。

 アイ=ファさえいてくれたら――俺は絶望せずに、生きていくことができる。


「……実は、前の世界で生命を失うときの夢を見ていたんだ」


 アイ=ファは答えず、俺を抱きすくめる両腕にぎゅっと力を込めてきた。


「再認識させられたよ。俺はやっぱり、一回生命を失ってるんだなって。……まあこんな話、お前以外の誰にも話せないけど」


「過去の話などどうでもよい。お前はファの家のアスタとしてこの森辺に生きているのだ、アスタ」


「うん。それがどれほど幸福でかけがえのないことか、それを再認識させられたんだよ」


 俺はアイ=ファの頭にぽんと手を置いた。

 アイ=ファはむずかるように、ぐりぐりと頬に額をおしつけてくる。


 その幸福な痛みに身をゆだねながら、俺は思っていた。

 もう絶対に間違えたりはしない――と。


 この生命が尽きるその日まで、悔いのない生を送るのだ。

 取り返しのつかない失敗をしてしまった、この痛みを絶対に忘れることなく、自分と自分のそばにいてくれる人々のために、力を惜しまず生き続けるのだ。


 そんな思いを噛みしめながら、俺はアイ=ファのやわらかい髪をなでた。


「さ、それじゃあ朝の仕事に取りかかろうか。今日からまた慌ただしい10日間の始まりだ」


「…………」


「ん? どうした?」


「窓からは、いまだ日の光も差し込んではいない」


 アイ=ファの腕に、いっそうの力がこめられていく。


「夜明けとともに仕事を始める。それが森辺の習わしであり、ファの家も例外ではないのだ」


「う、うん、だけどもうこれだけ薄明るくなってるんだから、家の外には日が差してるんじゃないのかな」


「しかしその光はまだ家の中には差し込んできていない」


 そう言って、アイ=ファは肋骨がきしむぐらいの力であらためて俺の身体を抱きすくめてきたのだった。

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