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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
258/1679

      北の果てより(下)

2015.11/1 更新分 1/1

・第30章もこれにて完結となります。長々とおつきあいいただきありがとうございました。次から本編に戻りますので、更新再開まで少々お待ちくださいませ。

「ウライア=ファル、無念そうでしたが、怒り買わず、良かったです」


 宴の後、シュミラルにあてがわれた寝所において、ラダジッドがそのように言った。

 ごうごうと燃える暖炉の炎を見つめながら、シュミラルは首を振ってみせる。


「ウライア=ファル、激しやすい、ですが、理なく怒ること、ありません。……だから、余計に苦しいです」


 北の民は、荒ぶる民である。西の民には、蛮族と恐れられてもいる。

 しかし、猛々しい魂を有する一族であったとしても、その全員が道理のわからぬ無法者であるはずがない。己の感情や欲望に実直であるというのは、美点にも欠点にもなりうる、単なる特性に過ぎないはずだった。


 そういう意味では、マヒュドラの民はジャガルの民に近い一族であるのかもしれない。

 ジャガルの民も感情が豊かで、すぐに大きな声をあげる。シムの美徳とはかけ離れた一族であり、シムとの国境では現在もなお刀が交えられている。


 そんなジャガルの民に対してさえ、シュミラルは憎む気持ちを持っていなかった。

 それはむろん、シュミラルが国境区域からは遠く離れた平和な草原の生まれであるゆえなのだろうが――自分の生活とは関わりのない戦を理由にして、ジャガルの民を憎んだり恨んだりする気持ちにはなれなかった。


 どうしてシムとジャガルは、そしてセルヴァとマヒュドラは、いつまでも争い続けなくてはならないのだろうか。

 領土の奪い合いというのは、王国にとってそんなにも必要な行為なのだろうか。

 より多くの富を得るために必要な戦いであるというのなら、刀を取らずに戦うことはできないのだろうか。


 普段から胸に溜めているそんな思いを、シュミラルはいっそう痛切に噛みしめることになった。


「シュミラル、私、思うのですが――」


 と、ラダジッドが何かを言いかけた。

 しかし、シュミラルが振り返ると、ほんの少しだけ眉をひそめて、言葉を改める。


「西の言葉では上手く伝えられそうにない。今だけ故郷の言葉で語らせてもらう」


「ああ。かまわないよ、ラダジッド」


 シュミラルも故郷の言葉で応じてみせると、ラダジッドは大きくうなずいた。


「今さらシュミラルの気持ちが動かないということはわかりきっている。だけど、もう一度だけ問わせてもらいたい。シュミラルは、そこまであの森辺の女衆に魂を奪われてしまったのか? 偉大なる父、《銀の壺》の前団長の築いた商いの道をねじ曲げねばならないほどに?」


「ああ。こればかりは私自身にもどうしようもない話なんだ。みんなには悪いと思っているし、私自身も胸の張り裂けそうな痛みを感じてもいる」


「それは見ているだけでわかる。そうでなかったら、《銀の壺》に残ってほしいと思うこともなかっただろう。……しかし、私はあの森辺の女衆とはまともに口をきいたこともないので、よくわからないのだ。あの女衆の、いったいどこにそれほどの価値があるのだろうか?」


「……その女性の価値を言葉で述べることなど可能なのだろうか?」


「わからない。しかし、あの女衆は異国の民であるし、それに――東の民にとっては、その、何というか……」


「見目は決して麗しくない。身体に肉がつきすぎている。ラダジッドは、そのように言いたいのだろうか?」


「ああ。気を悪くさせてしまったら、すまない」


「何も謝る必要はない。東の、特に草原では、むやみに肉をつけすぎることをよしとはしていないからね」


 シュミラルは、我慢がきかずに口もとをほころばせてしまった。


「ラダジッドよ、私はヴィナ=ルウの外見ではなく、その内面に心を魅了されてしまったのだ」


「ああ、それはもちろんそうなのだろうが――」


「そしてそればかりでなく、私は彼女の外見を美しいとも感じているのだよ」


 その言葉に、ラダジッドはますます驚いたようだった。

 口もとに微笑をたたえたまま、シュミラルは言葉を重ねてみせる。


「思うに、人間の外見というものは、その内面によっても大きく左右されるのではないのかな。顔立ちや肉付きなどというのは二の次で、その表情や目の輝き、笑い方、声の響きなど、そういったものが肝要であると思えるのだ。……だから私は、ヴィナ=ルウの内面を知る前から彼女に魅了されていたし、その外見を美しいとも感じていた」


「しかしあの女衆には、シュミラルを婿に迎える気持ちがあるのかもわからない。それに、森辺の民というのは同族以外の人間を受け入れる習わしを有してもいないのだろう?」


 ラダジッドはここが正念場とばかりに、シュミラルのほうに身を寄せてくる。


「シュミラルの婿入りは、けっきょく断られてしまうかもしれない。そうしたら、《銀の壺》はこれまで通りにマヒュドラとも商売を続けることができる。それをウライア=ファルに告げなかったのは、何故だ?」


「それは……そのような未来は考えたくもなかったし、私はヴィナ=ルウに手ひどく拒絶されてもなかなか婿入りを諦める気持ちにはなれないだろうと思ったからだよ」


「拒絶されても求婚し続けるのか?」


「拒絶されないことを、私は毎晩シムに祈っている」


「……その願いが成就されたらシュミラルはセルヴァの子となってしまうのに、シムが聞き入れてくれるものなのかな」


 ラダジッドは、天を仰ぎつつ息をついた。


「しかし、シュミラルの覚悟のほどはわかった。何度も同じ話を蒸し返してしまって済まない」


「謝らないでくれ。謝るべきは、私のほうであるはずだ」


「シュミラルだって謝る必要はない。……しかし、恋の病にきく薬草はシムにもないという西の言葉を思い出してしまうな。いつでも沈着で商人としての誇りを何よりも重んじるシュミラルが、恋する娘にそこまで魂を奪われることになってしまったのだから」


「ラダジッド、少し恥ずかしいのだが」


「初心なことを言うな。あなたはもっと若いうちから女衆に親しんでおくべきだったのだ、シュミラル」


 ラダジッドはシュミラルより3歳年長であり、故郷には妻と3人の子を持っていた。

《銀の壺》の半数は、ラダジッドと同じように伴侶を娶っている。シュミラルの父とて若いうちから妻を得て、シュミラルをこの世界に生み落としてくれたのだ。


 故郷に家族を待たせている。その思いが、より強い力をもたらしてくれたりもするのだろう。

 シュミラルも、愛する人間を伴侶としたい。

 ただ、見初めた相手がたまたま異国の女衆であっただけなのだ。


 そうしてしばしの沈黙が落ちたとき、扉が外から叩かれた。


『シュミラル様、もうお眠りになられてしまったでしょうか……?』


 分厚い扉の向こうから聞こえてくる、それはティオン=ファルの声であった。


『いえ、起きています。どうぞ』


 北の言葉で応じると、扉がゆっくりと開かれた。

 うつむき加減に入室してきたティオン=ファルが、ラダジッドの姿を認めて、ハッと立ちつくす。


『も、申し訳ありません。何か大事なお話の最中でありましたか……?』


『はい。今後のこと、少し話していました。御用、何でしょうか?』


 ティオン=ファルは、困惑の表情で口をつぐんでしまう。

 その姿を見て、ラダジッドは毛皮の敷物から腰を上げた。


『話、終わりました。私、部屋、戻ります』


『い、いえ、わたくしのような者のために、そのようなお気遣いは……』


『明日、早いので、眠るべき、思ったのです。シュミラル、失礼します』


『はい』


 ラダジッドはティオン=ファルの脇をすりぬけて部屋を出ていった。

 団長のシュミラルには個室が与えられていたが、他の同胞たちは3名ずつの寝所をあてがわれていたのである。


 シュミラルは敷物に座したまま、あらためてティオン=ファルを見た。


『席、どうぞ。御用、何でしょう?』


『いえ……わたくしは、その……』


 ティオン=ファルはしばらく苦しげに身をよじってから、やがてシュミラルの目の前に崩れ落ちるようにして身を沈めてきた。


『シュミラル様……シュミラル様は、本当に西の民に婿入りしてしまうのでしょうか……?』


『はい。そのように願っています』


『それは……それは、どうしてなのでしょう? 神を乗り換えてまで異国の民に婿入りするなどというのは、そうそうありえる話とも思えないのですが……』


『はい。異国の民、通じてしまった場合、子のみを女に託し、男は故郷に帰る、多いようです』


 そうして異国の血が混ざることはあっても、友好国である限りは迫害されたりもしない。シムにはセルヴァやマヒュドラとの混血が、セルヴァにはシムやジャガルとの混血が、それほど数多くはなくとも確かに存在するのである。


 ただし、マヒュドラとジャガルはあまりに遠い位置にあり、間にはセルヴァの領土が広がっているために、いっさい行き来はされていないはずだ。

 それでもマヒュドラにはシムとの混血が、ジャガルにはセルヴァとの混血が存在するのだろう。


『しかし、私、婿入りを望むのは、森辺の民です。森辺の民、婚前、通じ合うこと、掟、許しません。ならば、私、婿入りする他、ないのです』


『それでしたら、女衆のほうがシュミラル様に嫁入りすればよいのでは……?』


『その女衆、森辺の族長、娘なのです。娘、森辺、捨てること、族長、許さないでしょう』


 そしてまた、森辺の民というのは神ではなく森を母とする一族でもあるようだった。

 仕える神を乗り換えることはできても、森辺の民に森を捨てることはできないのだ、きっと。


 ヴィナ=ルウにだって、森を捨てることはできないに違いない。

 森を捨ててしまったら、きっとヴィナ=ルウはヴィナ=ルウでなくなってしまうのだろう。


(……故郷ですごす時間より、旅をしている時間のほうが長いのねぇ……それは素敵な人生だとも思えるわぁ……)


 あの日の別れ際、ヴィナ=ルウはそのように言っていた。


(わたしは森辺の外の世界に憧れていたから、そんな人生を羨ましいとも思う……でも、やっぱり……わたしは森辺の民なのよぉ……)


 ヴィナ=ルウはまったく表情を動かそうとしなかったが、あれはきっと彼女にとって心からの言葉だったのだろうと思う。


 ヴィナ=ルウは、外の世界に憧れていたのだ。

 森辺の集落では満たされない、何か痛切な飢餓感を抱いていたのだろう。

 それでも彼女は、森辺の民であるという運命を受け入れる決断を下したのだった。


 もしかしたら――シュミラルは、ヴィナ=ルウのそういう部分に心を引かれてしまったのかもしれない。

 現在の自分、現在の環境、現在の生活に鬱屈しながら、何をどうすることもできない自分の無力さを嘆いているような――それでいて、そういった思いをひた隠しにしながら、懸命に明るく生きている。そのけなげさとしたたかさ、弱さと強さの危うい均衡にこそ、シュミラルは魅了されたのかもしれなかった。


 それでシュミラルは、強く思ったのだ。

 あなたは、そのままでいいのだと。

 何も変わる必要はない。現在の自分を捨てる必要はない。ヴィナ=ルウはヴィナ=ルウのままで、十分に魅力的な存在なのだ――と。


 それをヴィナ=ルウに知ってほしかった。

 現在の、ありのままのヴィナ=ルウを受け入れたいと願っている男が、ここに存在するということを。


 その上で、ヴィナ=ルウがまだ外の世界への憧憬を捨てきれないというのなら、自分が少しはその力になれると思う。

 森辺の掟が許す範囲で、西や東の領土に足をのばしてしまえばいいのだ。


 自分には、ギバを狩る力は備わっていない。

 ギバの潜む森の奥深くでは、トトスを自由に操ることも難しいと思えるからだ。


 しかし自分には、安全に旅を続ける力は備わっている。

 トトスがかたわらにある限り、野盗や野の獣など、決して寄せつけはしない。

 トトスが自由に動ける空間であるならば、凶悪なムフルの大熊を打ち倒すことさえ可能であるのだ。


 そして、東の民には他の王国の民たちに魔法、魔術と恐れられるわざ――毒と薬の知識もある。正しき道を進む星読みの知識もある。西や南の商人であれば、《守護人》などの護衛なくして旅を続けることも難しいが、東の民は自らの力のみで世界中を駆け巡ることが可能であるのだ。


 自分には、ヴィナ=ルウを守る力がある。

 この生命にかけても、ヴィナ=ルウの身は守ってみせよう。

 そうして、もしもともに旅をして、自分の生まれた故郷の草原を一目でもヴィナ=ルウに見せることができたなら――そんな幸福なことはないと思う。


『シュミラル様……』


 ティオン=ファルに名を呼ばれて、シュミラルは我に返った。

 そして、愕然とする。

 ティオン=ファルは、シュミラルの目の前で子供のようにぽろぽろと涙をこぼし始めていたのである。


『シュミラル様は、本当にその女衆を愛されてしまったのですね……』


『はい』


 まったくわけもわからぬまま、シュミラルはうなずき返した。


『ならば、シュミラル様とは明日の朝を最後に、もう二度とお会いすることはできなくなるのでしょう……そのように考えたら、胸が潰れてしまいそうです……』


『何故ですか?』


 ティオン=ファルは、ぷるぷると頭を振る。


『シュミラル様を、愛していたから……などとは、とうてい言えません……わたくしには、家族や故郷を捨て去る覚悟もないのですから……それに、シュミラル様に婿入りを願うような真似もできません……わたくしは、世界中を自由に駆け巡るシュミラル様の存在を、何よりもかけがえのないものと思っていたのです……』


『はい』


『たとえムナポスとの商売を断ち切っても、シュミラル様は西や東の領土を自由に駆け巡るのでしょう……自由な鳥のように生きる、そんなシュミラル様の姿を目にすることができなくなってしまうのが、わたくしには悲しいのです……』


 自分の他にも、ムナポスを訪れる商人は数多くあるはずだ。

 その中には、《銀の壺》のように西の領土を駆け巡りつつ、ムナポスに恵みをもたらす商団だってあるだろう。

 それにそもそも自分は団長であるだけで、ラダジッドたちとてムナポスを訪れることはできなくなってしまうのだから、シュミラルだけを特別扱いするいわれはどこにもない。


 しかしシュミラルは、そのような小理屈を並べ立てる気持ちにはなれなかった。

 ティオン=ファルが名指しでシュミラルの存在だけを重んじるなら、それはつまりそういうことなのだ。


 シュミラルは、苦い痛みをまた胸いっぱいに味わうことになった。


『申し訳ありません……詮無きことを言ってしまいました……どうぞごゆっくりお休みください……』


 ティオン=ファルは力なく立ち上がり、シュミラルに背を向けた。

 そのほっそりとした背中に、シュミラルは『いえ』と呼びかける。


『ティオン=ファル、謝る必要、ありません。私は――』


 その後は、言葉が続かなかった。

 シュミラルの胸の内に満ちた思いを、北の言葉でどのように語ればいいのかわからなくなってしまったのだ。


 きっとティオン=ファルは、シュミラルがヴィナ=ルウに抱いてしまったのと同じ気持ちを、シュミラルに対して抱いてしまったのだろう。

 しかしシュミラルは、すでに気持ちをヴィナ=ルウに捧げてしまった。

 ティオン=ファルの気持ちに応えることはできない。


 シュミラルの魂が自由であったなら、ティオン=ファルを嫁にして故郷に迎えることも、彼女の父がそれを許さないならせめてシュミラルの子をその身に与えることも可能であるのだが――それはもはや、かなわないことなのだ。


 このように複雑な心情を、シュミラルの拙い北の言葉で伝えることは、どうしてもできそうになかった。


『失礼いたします……どうぞこの夜のことはお忘れください……』


 ティオン=ファルの姿が、扉の向こうに消えていく。

 シュミラルは途方もなく苦い痛みを抱えながら、これで最後となる北の地における一夜を過ごすことになった。


              ◇


 そして、翌日である。

 予定通り、《銀の壺》は夜明けとともにムナポスの集落を発つことになった。


 あたりはまだ薄暗いが、空に雲の影はない。本日も快晴のようである。

 それでもひゅうひゅうと身を切る北の地の風を全身に感じながら、シュミラルたちは出立の準備を急いだ。


 小屋で眠っていたトトスたちを荷車につなぎ、荷の無事を確かめる。

 あくびを噛み殺しながら、何名かの北の民たちがそれを見守っていた。


 長年続いた通商を一方的に打ち切ろうというシュミラルたちを、裏切り者と罵る者もいない。ただ彼らはひたすら残念そうであり、わずかに悲しそうであった。


 腹芸のできぬ北の民であるのだから、その表に現れているのが心情のすべてであるのだろう。

 もちろんシュミラルがセルヴァに神を乗り換えたのちに、どこかで相まみえるようなことになれば、何の躊躇もなく刀を振り下ろすに違いない。彼らは果断で猛々しい北の民であるのだ。


 だが、現時点ではまだシュミラルも東の民であり、十数年に渡って商売を続けてきた商団の長でもある。そのようなシュミラルに悪意を向けてこようとする人間は、ムナポスの集落にひとりとして存在しなかった。


『おおい、待て待て! 長である俺に挨拶もなく行ってしまうつもりか、客人たちよ!』


 と、いよいよ出立の準備が整ったところで、ウライア=ファルが家から出てきた。

 その巨体の後ろには、彼の家族たち――赤い目をしたティオン=ファルも付き従っている。


 シュミラルは、そちらに向かって礼をしてみせた。


『無論、お待ちするつもりでした。ウライア=ファル、これまで、大変、お世話になりました』


『ああ。それはこちらの台詞だな。昨晩も述べた通り、其方たちはムナポスにとって指折りの大事な商売相手であったよ』


 白い息を吐きながら、ウライア=ファルはシュミラルの目の前に立った。

 ラダジッドよりも長身で、大熊のように逞しい巨体である。

 その紫色の瞳が、ひとかたならぬ光をたたえつつ、シュミラルの姿を見下ろしてくる。


『それでな、ひとつ伝えたいことがある。聞いていただけるかな、《銀の壺》の団長シュミラル。……そして、次代の団長ラダジッドよ』


『はい』


『其方たちとは、今後もこれまで通りに商売を続けていきたい。それがムナポスの長ウライア=ファルから其方たちに届ける言葉だ』


 ラダジッドは、ほんの少しだけ不審げに目を細めた。

 ウライア=ファルは、傲然たる様子で腕を組んでいる。


『それは、どういう意味でしょう? 私たち、マヒュドラと商売する、資格、失うはずですが』


『資格を失うのは団長のシュミラルだけなのであろう? まさか其方たちの全員がセルヴァに神を乗り換えるわけではあるまい? そうであるならば、俺も吐いたばかりの言葉を飲み下さねばならなくなるが』


『婿入り、シュミラルのみです。しかし、シュミラル、今後も《銀の壺》です。西の民、マヒュドラ、商売、不可能でしょう?』


『ああ。セルヴァの民となったからには、二度とマヒュドラの地を踏ませることはできん。だが、団員のひとりが西の民であるという理由だけで、《銀の壺》そのものを拒絶する理由にはなるまい。もともと俺たちは、其方たちを通じて西の民と商売をしているようなものなのだからな』


 そう言って、ウライア=ファルは毛皮の装束に包まれた分厚い胸をそらした。


『次回にこの地を訪れる際は、西の民となったシュミラルのみが一番手近なアブーフにでも居残って、仲間たちの帰りを待てばいい。俺たちは、これまで通りに《銀の壺》を歓迎する』


『しかし、マヒュドラの王、それを許しますか?』


『王都でふんぞり返っている者たちの耳に、このように瑣末な話など届くものか! 届いたところで、この商売の責任者は俺だ!』


 ウライア=ファルは、にやりとふてぶてしく笑う。


『同胞のひとりが西の民となったところで、其方たちは俺たちに届ける食糧に毒を仕込んだりはせぬであろう? 俺たちとて、西で売られるそれらの食糧に毒を仕込んだりはしなかったのだからな! だったら、何の不都合もあるまいよ』


『その申し出、大変ありがたいです。私たち、あなたがたとの商売、大事、思っていました』


 ラダジッドは静かに頭を下げた。


『おたがいがそう思っているのだから、これが正しき道なのだ』


 そのように言ってから、ウライア=ファルはシュミラルのほうに視線を転じてきた。


『そういうわけでな。其方と顔を合わせるのはこれで最後となろうが、セルヴァに神を乗り換えるその瞬間までは、其方の息災を祈らせてもらうぞ、シュミラルよ』


『ありがとうございます。神、乗り換えても、ウライア=ファルの御恩、一生忘れません』


『忘れろ忘れろ! セルヴァの民となったのちには、ともに天を仰ぐこともかなわぬ仇敵と成り果てるのだからな!』


 豪放に笑い声をあげる。そちらにシュミラルはラダジッドよりも深く頭を下げてみせた。

 そして、そのかたわらのティオン=ファルを振り返る。


『ティオン=ファル。あなた、昨夜のこと、忘れてほしい、言いましたが、私、忘れません』


『え……?』


 ティオン=ファルは、最初からずっとシュミラルのことのみを見つめていた。

 その涙ぐんだ紫色の瞳を見つめ返しながら、シュミラルは言葉を重ねてみせる。


『私、マヒュドラの大地、踏みしめる、今日、最後です。ですが、ムナポスの集落のこと、ウライア=ファルのこと、ティオン=ファルのこと――あなたがた、その言葉、その気持ち、決して忘れません』


 眠れぬ夜を過ごしながら、シュミラルは可能な限り正確な心情が伝えられるようにと、言葉を考えていた。

 伝わってほしい、と願いながら、その言葉をゆっくりとつむいでいく。


『私の存在、これまで出会ってきた人間、思う気持ち、思われる気持ち、それらで出来ています。あなたがた、あったから、私、今の私、なれたのです。神、乗り換えて、二度と会えなくとも、その事実、変わりません。あなたがた、かけがえのない存在です』


『シュミラル様……』


『私、北の民、敵、なります。憎まれる、かまいません。四大神の法、動かすこと、できません。……だけど私、あなたがた、絶対、忘れません。それだけ、覚えていてください』


 ティオン=ファルの瞳から、こらえかねたように涙がこぼれた。

 しかし、その面には瑞々しい微笑が浮かんでいた。


『わたくしも、シュミラル様のことは生涯、忘れません……シュミラル様も、このように愚かな女が北の地に生きていたということを、どうぞ記憶の片隅にお留めおきください……』


『ふん』とウライア=ファルが鼻を鳴らした。

 その瞳には、娘を慈しむような光が宿っている。

 もしかしたら――ウライア=ファルは、娘の心情になどとっくに気づいていたのだろうか。


『其方のように風変わりな男のことは、そうそう忘れたりはできぬだろうよ。……二度と俺の前には姿を現してくれるなよ、シュミラル。そうすれば、俺の刀を其方の血で濡らすこともないからな』


『はい。おさらばです。ウライア=ファル。ティオン=ファル。そして、ムナポスの皆様方』


 神妙な面持ちでこのやりとりを見守っていたムナポスの民たちも、やおら大声で口々に別れの挨拶を述べてきた。

 その荒々しい歓声に包まれながら、シュミラルは同胞らとともに荷車へと乗り込んでいく。


 最後に、ティオン=ファルがシュミラルのもとに駆け寄ってきた。


『シュミラル様、どうぞ幸せな婿入りを……わたくしも、この地でともに生きる伴侶を捜します』


『はい』


 そうして《銀の壺》は、ムナポスの集落を出立した。

 シュミラルにとっては、これが最後に踏みしめる氷雪の大地であった。


(さらば、マヒュドラよ。この地は私にとても多くのものをもたらしてくれた)


 北の地におけるすべての縁と、自分の故郷と、神を捨てて、愛する人間を得る。

 それが自分の選んだ道なのだ。


 ヴィナ=ルウの伴侶に相応しい力を得て、ジェノスに戻ろう。

 そのような思いを胸に秘めつつ、シュミラルは同胞たちとともに北の地を駆けた。


 約束の日まで、残されているのは4ヶ月余りであった。

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― 新着の感想 ―
いつか、ギバを狩る森辺の民と熊を狩るマヒュドラの民が集まって宴ができるくらい仲良くなれればいいのにって思わされるくらい、なんか森辺の民と気が合いそうにみえた。 戦争がさっさと終わればいいのになー
シュミラル、この色男めw
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