第十三話 北の果てより(上)
2015.10/30 更新分 1/1
白雪の重なった険しい山道を、トトスに引かれた荷車が何台も駆けていた。
ターレス連山の、峡谷の底である。
かろうじて荷車が通れるていどの山道の両側には、やはり白雪のこびついた黒い断崖が切り立っている。
永久に溶けることはないという、ターレスの雪である。
この険しい山の連なりが、北方からの氷雪を食い止めて、西の王国に豊潤な恵みをもたらしているのだ。
この山中は、すでに北の王国マヒュドラの版図であった。
世界を真横に分断する、この山の連なりから北方がマヒュドラとなり、南方がセルヴァの版図となるのだ。
セルヴァにおける最北の城塞都市アブーフからは、わずか2日の距離である。
このあたりでは、マヒュドラとセルヴァの戦も珍しくはない。
そんな危険な国境の領域を、彼ら――シュミラル=ジ=サドィムティーノ率いる商団《銀の壺》は疾駆しているのだった。
《銀の壺》の団員は、総勢で10名。
その10名が2名ずつに分かれて、5台の荷車に乗っている。
2頭引きの、大きな箱型の荷車である。
故郷のシムを離れて、はや4ヶ月半。荷車には故郷から携えてきたさまざまな商品と、その後に買いつけたさまざまな商品が山のように積まれている。
西の王国との交易の要、ジェノスの町を出立してからは、およそひと月半ほどが経過し、今日は灰の月の14日だった。
真っ直ぐこのターレスの山を目指していれば、きっとひと月ていどの道程であっただろうが、その間に位置するアブーフやベヘットなどでも何日か商売のために留まっていたので、それだけの時間が過ぎ去っていた。
《銀の壺》にとって一番重要な商売相手は、もちろんセルヴァの王都アルグラッドである。
それに次ぐのが、やはりジェノスの町であろう。
その2ヶ所だけは、ひと月以上も腰を据えて商売に取り組むことになる。
それ以外の町においては数日ばかり滞在するのみであったが、このマヒュドラを訪れるのも、彼らにとっては欠かせぬ商売であった。
マヒュドラとセルヴァは、長年の仇国同士である。
その間に交わされるのは刀のみで、決して商売が成立するような間柄ではない。
それゆえに、北と西の間を繋ぐのは、そのどちらとも友好的な関係を結んでいる東の王国シムの民のみなのであった。
「シュミラル。太陽、落ちてきました」
先頭の荷車において手綱を握っていた同胞が、御者台から声をかけてくる。
《銀の壺》の団員は西の言葉を勉強中であるため、なるべく日常でも故郷の言葉を使わないように心がけていた。
「道、暗いです。今日、目的の地、到着、可能でしょうか?」
言葉とともに吐き出される息が、白い。
アブーフのあたりでもだいぶ世界は寒冷の地の様相を呈していたが、このターレスの山中はもはや別世界である。
シュミラルも同胞たちも、革の外套の下には防寒用の毛皮の装束をきっちり着込んでいた。
シュミラルは御者台の横から顔だけを出し、吹きすさぶ寒風を頬に感じつつ、周囲の情景にざっと視線を巡らせる。
「問題ありません。ムナポスの集落、まもなくです」
「山、風景、変わりません。なのに、わかるですか?」
「わかります。10回ほども、通った道なので」
シュミラルは、幼い頃から父とともにこの道を通っていた。
シムの故郷からジェノスへ、ジェノスからアブーフへ、それからこのムナポスに立ち寄ってからセルヴァの王都アルグラッドへ――という道のりは、シュミラルの父が長年をかけて構築した販路の道なのである。
およそ1年をかけて異国を巡り、故郷に帰る。このような暮らしに身を置いてから、すでに15年以上の歳月が過ぎているはずだった。
その暮らしに、大きな変化が訪れるのかどうか。
それが知れるには、あと4ヶ月以上の時間が残されていた。
(ヴィナ=ルウは、いったいどのような気持ちで過ごしているだろう)
ふっとそんなことを考えてしまう。
そのとき、荷車がおかしな揺れを見せた。
車輪が石でも踏んだのかと思ったが、そうではなくトトスたちの足が乱れているように感じられた。
「シュミラル」
御者台の同胞が少し抑制を欠いた声をあげる。
彼はシュミラル以上に若いため、つい心を揺らしてしまったのだろう。
シュミラルは無言でうなずいてから御者台の脇をすりぬけて、一息にトトスの背に飛び乗った。
その胴体の革帯に留められた金具を蹴り上げ、トトスを荷車から解放する。
トトスの片方を失った御者台の同胞は、残ったトトスが足を痛める前に荷車を停止させることに成功できたようだった。
が、それを確認するいとまもなく、シュミラルはトトスを走らせる。
重荷を失ったトトスは倍する勢いで山道を駆けた。
人間の重みを背に感じた時点で、トトスの怯えは消え去ったようだった。
このトトスとて、長きの時をシュミラルとともに過ごしてきた歴戦の旅人なのである。
(あれか)
トトスの足を乱させた原因が、右手の断崖から滑落してきていた。
暗灰色の、巨大な影――ムフルの大熊であろう。
白い雪を水しぶきのように飛散させながら、その巨大な影がシュミラルたちに迫ってきた。
並の人間よりも、ふた回りは大きい。なかなかの大物である。
5本の爪が生えたその手の平などは、シュミラルの頭よりも大きいぐらいだった。
ウゴアアァァァァ……という地鳴りのような咆哮をあげながら、ムフルの大熊が躍りかかってくる。
その巨体からは想像もつかないような俊敏さである。
しかし、俊敏さならばトトスのほうが上だ。
シュミラルは手綱を操って、トトスの首を左側に向けた。
大熊の爪が、外套すれすれの空間を走り抜けていく。
そのままシュミラルは左手側に突き進んだ。
わずか3歩で、目の前はもう断崖の壁だ。
あまり夜目のきかないトトスの代わりに手綱を操り、左側の胴だけを蹴る。
得たりと、トトスが左の足で壁を蹴り、翼ある鳥のごとく跳躍した。
ムフルの大熊は、背後から追ってきている。
さらにシュミラルが右の胴を蹴ってやると、トトスは空中で右足を振り下ろし、大熊の顔面をまともに蹴り抜いた。
きっと目玉のひとつも鉤爪でえぐられたのだろう。大熊は後方にのけぞりながら、苦悶の咆哮をほとばしらせた。
シュミラルはトトスとともに地面に降り立ち、襲撃者に向きなおる。
ムフルの大熊は、赤黒い鮮血を撒き散らしながら両腕を振り上げた。
その動きが、途中でぴたりと静止する。
白い息を吐きながら、やがてムフルの大熊は背中から地面に倒れ込んだ。
その向こう側には、シュミラルと同じようにトトスに跨った同胞の姿があった。
「シュミラル、無事ですね?」
「はい」
トトスの上にのびた上半身の影が長い。
副団長の、ラダジッド=ギ=ナファシアールである。
ラダジッドの手には、彼の得意とするシムの吹き矢が握られていた。
「困りましたね。大熊、動かさなければ、荷車、通れません」
きちんと感情の抑制された声で、ラダジッドはそのように言った。
ラダジッドもかなりの年月を《銀の壺》で過ごしていたため、ムフルの大熊ごときで心を揺らしたりはしていなかった。
しかし、シュミラルが察知した気配にはまだ気づいていないらしい。
「大丈夫です。彼ら、ムフルの大熊、運んでくれるでしょう」
シュミラルが言うと、ラダジッドは吹き矢を懐に戻しつつ周囲に視線を巡らせた。
ムフルの大熊を思わせる巨大な人影が、次々と断崖の斜面を滑り下りてくるところであった。
『おお、東からの客人か! 俺たちの取り逃がした獲物が迷惑をかけてしまったようだな!』
北の言葉が山中に響きわたる。
ムフルの大熊ではない。
それはムフルの大熊のごとき、マヒュドラの巨人たちだった。
人数は5名。その中で、ひときわ大きな体躯をした男がシュミラルの前に進み出てくる。
金色の髪に、紫色の瞳。赤く雪焼けした、なめし革のような皮膚。
東の民は西の民よりも長身の人間が多いが、北の民はそれを上回り、しかも筋骨隆々の体格を有している。それでムフルの大熊から剥ぎ取った毛皮で装束をこしらえているものだから、遠目にはまったく大熊と見分けがつかないぐらいであった。
『うむ。まごうことなき東の民であるようだな。しかし掟に従って、まずはそれを証し立ててもらおうか』
『はい』
北の言葉で応じつつ、シュミラルは指先を組み合わせてみせた。
『私、シュミラル=ジ=サドゥムティーノ、東方神シムの子であること、ここに誓います』
西の民は、北の領土に足を踏み込むことを許されていない。
しかし、東と西の混血では、外見から素性を知ることもできなくなってしまうため、北の領土では常にこうして自分が東の民であることを示す必要が生じるのである。
ゆえに――もしもシュミラルが西方神セルヴァに神を乗り換えてしまったら、二度とこの北の地で商売をすることも許されなくなってしまうのだった。
『ふん。わずかふたりでこいつを仕留めたのか? そいつは大した手際だが、まさかこの肉を食えなくするような毒を使ったりはしていないだろうな?』
『はい。バナギウズの毒、熱すれば、消えます』
ラダジッドも、北の言葉で答えている。
《銀の壺》は西の王国を中心に商売をしていたので、北の言葉を操れるのは最古参の3名のみだった。
残りの7名は、神への誓いの言葉を習得しているばかりである。
『ああ、お前たちは《銀の壺》か。こいつはいい。長もさぞかし喜ぶことだろう。また色々と愉快な品で俺たちを楽しませてくれるのだろうな?』
『はい。お気に召せば、幸いです』
シュミラルがその男と言葉を交わしている間に、残りの4名は大急ぎで大熊の咽喉をかき切り、血抜きをしていた。
人をも喰らうムフルの大熊の肉を、マヒュドラの民たちは大いに喰らうのである。肉食の獣を忌避する西の民たちには、そういった部分も「蛮族」と感じられてしまうのだろう。
『それではムナポスの集落に案内しよう。歓迎するぞ、東の民の商人たちよ』
なめし革のような顔に豪放な笑いをたたえながら、男はそのように言った。
こうしてシュミラルたちは、無事にムナポスの客人となることができたのだった。
◇
ムナポスの集落は、そこから半刻ほど進んだ場所にあった。
ターレスの山に踏み入ってからは、およそ半日。マヒュドラの領土の中では、最もセルヴァの領土に近い集落のひとつであろう。
しかしこの集落を訪れるには、さきほどの峡谷の底を辿ってくる他ない。身を隠す場所もない谷底の道で、しかも人喰いの大熊まで頻繁に出没するとあって、この数十年はセルヴァに攻め入られたこともない、という話であった。
集落自体は、150名ていどの民が住まうばかりの、小さなものである。
ただし、西の民が進軍してこないかを見張るという役割を担わされているため、小さいながらもマヒュドラの要所とされている。住人の数が減じてくると、王都からの命令により別の集落から人間が呼び寄せられるらしい。
この数十年は平和であっても、その前はこの地も戦乱の区域であったのだ。
むしろその頃はマヒュドラのほうこそが山を下りて西の領土を襲っており、そのためにアブーフの城塞都市が築かれたのだという。
それ以降は、マヒュドラも侵攻の拠点を別に移し――そうしてこのムナポスの集落は、東の王国との通商の窓口、という新たな存在理由を見出すことになったのだった。
その長は、古来よりこの集落の長の血筋であったというファル家の家長、ウライア=ファルなる壮年の男衆である。
『よくぞ参ったな、東よりの客人たちよ。其方の名前は、たしかシュミラルであったな?』
『はい。シュミラル=ジ=サドゥムティーノです』
シュミラルは、1年半に1度の割合でこの集落を訪れている。ここ10年ほどは、ずっとこのウライア=ファルがムナポスの長をつとめているはずだった。
年齢は、四十路を越えたぐらいであろうか。大半の北の民がそうであるように、金色の髪と紫色の瞳を持つ赤ら顔の大男である。
上背はシュミラルよりも高く、横幅などは倍ほどもありそうだ。
暗灰色の毛皮でできた装束を着込んでおり、首や腕には牙と爪の飾り物を巻いている。ターレスの山に住まう男衆は、総じて狩人なのだった。
『今宵はくつろがれるがよい。明朝にはもう発ってしまうのであろうかな?』
『はい。商売、ありますので』
マヒュドラを中心に商売をする人間であれば、ここからさらに北上をして最果ての都を目指すのであろうが、《銀の壺》はそうではない。このムナポスの集落の長ウライア=ファルが、シュミラルたちにとっては唯一の商談の相手なのだった。
『其方たちは滅多に姿を現さないが、その分どの商人よりも物珍しい品を運んできてくれるからな。西の領土の食糧はもちろん、前回に買いつけた刀や硝子の壺なども、王都でたいそうな評判を呼んだようであるぞ』
『光栄です。マヒュドラ、細工物、こちらでも評判でした』
そのように答えてから、シュミラルは姿勢を改めた。
『そして、刀、評判であったなら、嬉しいです。今回、刀、たくさん余っているのです』
『ほお。鉄が貴重なシムの商人にしては珍しいことだな』
『はい。刀、買い取る約束、破られてしまったのです』
ジェノスの城下町において、貴族サイクレウスと結んでいた商売の話が、一方的に破られてしまったのだ。
そういえば、森辺の民はサイクレウスとの厄介事を片付けることができたのだろうか――と、また少し心を揺らされそうになってしまう。
『ふん。だから言っているだろう。西の民など、信用には値しないとな。あいつらは狡猾で脆弱な、人間のできそこないだ』
不愉快そうに鼻を鳴らし、ウライア=ファルは硝子の杯に注がれた酒を一気に飲み干した。
その酒杯はかつてシュミラルから買い上げたものであり、酒はマヒュドラ産の蒸留酒であろう。
『では、晩餐の前にその商品とやらを拝見させていただこうか』
『はい』
シュミラルの視線に応じて、同胞たちが部屋の入口に積まれていた荷を運んできた。
ここは、ウライア=ファルの家である。内壁には防寒のために何枚もの毛皮が張りつけられており、暖炉では明々と火が燃えている。その火に、数々の商品が照らし出されることになった。
『ふむ……』とウライア=ファルは身を乗り出してくる。
シムの硝子で作られた酒盃に壺、陶磁の皿、細工の美しい木の弓や吹き矢、黒き石の刃を持つ手斧、織り物のたばに、石や銀の飾り物、チットの実や各種の香草――それに、30本あまりの調理刀だ。
さらに横合いに並べられたのは、西の王国で買いつけた品々であった。
カロンやキミュスの革製品に、ギバやガージェの毛皮の敷物。樽に入ったママリアの果実酒。ママリアの酢。袋に入れられたフワノの粉。カロンの乾酪。干したアリア。カロンと、キミュスと、そしてギバの干し肉などなど。食材の豊かなジェノスから買い付けた食品類が主である。
5台ある荷車の、2台が空になるほどの品であった。
このムナポスの集落では、毎回このていどの品が買いつけられているのである。
『そうか。其方たちは、ギャマの肉や乾酪などは運んでこないのであったな』
『はい。ムナポス、遠いので、食材、傷んでしまうのです』
《銀の壺》は、モルガの山の南側を通って、まずはジェノスの町を訪れる。その道のりだとムナポスに辿り着くまでには数ヶ月もかかってしまうので、故郷から持ち出してきたギャマの干し肉や乾酪などはすべて道行きで売り切ってしまっているのだ。
『俺はギャマの乾酪と、それに乳酒が好物なのだがな。カロンの乾酪というやつは、今ひとつ味がぼやけていて好かんのだ』
『カロンの乾酪、不要ですか?』
『いや。俺は好まなくとも都では楽しみに待ち受けている人間もいるだろう。どこにでも物好きというのはいるものだ』
『そうですか。今回、ギバの干し肉、用意したのですが、こちらは如何でしょう?』
『ギバの干し肉? ギバというのは、この毛皮の主だったな。この毛皮はムフルの大熊よりもやわらかく、女衆などには評判がいいのだが、その肉などというものは初めて耳にするな』
『はい。とても美味であったため、買い付けてみたのです。値段、カロンの干し肉、同額です』
シュミラルの視線を受けて、ラダジッドが小刀を引き抜いた。
ギバの干し肉をわずかに削り、それを木皿に載せてウライア=ファルに差し出してみせる。
ウライア=ファルは何を警戒する様子もなく、その肉片を大きな口に放り込んだ。
そして、ぎょろりと大きな目をさらに見開く。
『こいつは美味いな! 脂ののった大熊にも負けない旨みだし、それにまったく臭みも感じられないぞ』
『はい。贅沢に、胸や背中の肉、使っているようです。今後、値段、上がっていくと思います』
このように美味な干し肉が、カロンの足肉と同額でいいわけはない。
今後、ギバの肉はカロンの胴体にも負けぬ値段に上がっていくだろう。商人として、シュミラルはその未来を確信していた。
『うむ。これなら都の連中にも文句はないだろう。俺だってひと塊はいただいておこうと思う。……しかし、刀がこれだけの数となると、こちらの代価が足りなくなってしまうかもしれんな』
ウライア=ファルが、ぱんぱんと豪快に手を打ち鳴らす。
すると、部屋の片隅に控えていた男衆が大量の荷をシュミラルたちの前に並べ始めた。
内容は、やはり樽に入った蒸留酒と、メレスと呼ばれる黄色い果実を挽いた粉、アマンサと呼ばれる青い果実、マヒュドラでしか採取されない珍しい香草、北氷海の魚の燻製、小魚の塩漬け、海水から精製された白い粒の塩、狩猟用の鉄の斧――それに、女衆がこしらえた石や牙の飾り物などである。
大半は、商売のために都から届けられたものなのだろう。シュミラルたちの空になった荷車を満たすには十分な量だ。
『あとは都から、わずかばかりの銀貨も預かってはいるがな。少しばかり足りないように感じられるが、如何であろうかな?』
ウライア=ファルから手渡された布の袋の中身をあらためる。
さらに目の前の品の質量も計算して、シュミラルはすみやかに答えてみせた。
『はい。わずかながら、足りていないようです。刀、10本のみにするか、あるいは他の品、減らす他、ありません』
『そうだな。俺の目にも、それぐらいが妥当であろうと見て取れる』
重々しくうなずきつつ、ウライア=ファルはわずかに眉尻を下げた。
『しかし、シムの刀は貴重なので、みすみす見逃してしまうというのも惜しい話だ。大熊の毛皮や肉であれば、この場でいくらでも準備できるのだが……』
『いえ。西の王国、暖かいので、毛皮、あまり売れないのです。また、私たち、温かい西の王国、巡るので、干し肉、傷みやすいのです』
大熊の肉は臭みがあるし、そもそも人を喰らう獣の肉であるので、西の王国では売り物になりえない。ここからすぐにシムへと戻る商団であれば故郷で売りさばくことも可能であるのだが、《銀の壺》が帰郷するのはまだ半年以上も先の話なのである。干し肉の出来が悪ければ、その道程でみんな傷んでしまうだろう。
『忌々しきは、大熊を喰らう勇気もない西の王国だな! しかし、其方たちが運んでくる西の商品も捨て難いから、こればかりはしかたのないことか』
『はい。商人、それぞれの商売、ありますので』
北を主体にする商団であれば、ギャマの肉や乾酪を売ることもできるし、大熊の肉や毛皮を買いつけることもできる。
西を主体にする商団であれば、それらが不可能である代わりに、西の恵みをマヒュドラにもたらすことができる。
どちらが上、という話ではないはずだ。
『それでは、20本の刀以外を買い取ろう。期待に応えられず、申し訳ないことであったな』
『いえ。刀、余ったは、こちら、都合ですので』
シムの刀ならば、きっとセルヴァの王都でも売ることはできるだろう。ジェノスに劣らず、王都では美味なる食事やそのための器具も重宝されているのだ。
『よし、それでは荷を片付けて、晩餐の準備に取りかかれ! 今宵は宴だぞ!』
ウライア=ファルが、声も高らかに宣言をした。
シュミラルたちにとっても1年半ぶりの、マヒュドラの地における宴である。
そしてシュミラルにとっては、これが最後の宴となるはずだ。
その面にはいかなる感情も浮かべないまま、シュミラルは遠い異国の想い人の姿を頭に浮かべつつ、ひっそりと息をつくばかりであった。