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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
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第十二話 ディンの家のかまど番

2015.10/29 更新分 1/1

 朝、トゥール=ディンは森辺の道を駆けていた。

 朝というか、夜明け前である。太陽はいまだ森の向こうから姿を現してはおらず、世界は青灰色の薄闇に包まれている。


 本当は昨晩の内に用を果たしたかったのだが、家人のジャス=ディンに強くたしなめられてしまったため、夜の明けるのを待ち焦がれて家を飛び出したのだった。


 向かう先は、ファの家である。

 どうしても、アスタに届けたい言葉があったのだ。


 息を切らしつつ駆けていくと、ようやくファの家が見えてきた。

 どの家からもぽつんと孤立した、小さな家である。


 額の汗をぬぐいながら、ファの家の前に立つ。

 そこでようやく、トゥール=ディンの本来の気の弱さが顔を出してきた。


 このような時間に家を訪れて、迷惑がられたりはしないだろうか?

 トゥール=ディンにとっては一大事であっても、アスタたちにとってはどれほどのことなのかもわからないのだ。


 トゥール=ディンは逡巡し、その結果として家の横手に回り込むことになった。


(もう目を覚ましているかな……眠ってさえいなければ、そこまで迷惑がられることはないと思うんだけど……)


 非礼は承知で、そっと窓から室内を覗き込む。

 木の格子の隙間から、外よりも薄暗い広間の様子が見て取れた。


 床に敷きつめられたギバの毛皮に、かまどと鉄鍋と水瓶と――

 そして、寄り添い合って眠るふたつの人影。


 トゥール=ディンはあわてて首を引っ込めて、そのまま地面にしゃがみこむ。


(え……どうして広間なんかで眠っているの?)


 ようやくおさまりかけていた心臓が、またどくどくと暴れ始める。

 ファの家にはふたりの家人しかいないのだから、あれはまぎれもなくアスタとアイ=ファであろう。


 アスタとアイ=ファは、広間の真ん中で眠りに落ちていた。

 そして――トゥール=ディンの見間違えでなければ、アイ=ファはアスタの左腕をぎゅっと抱え込みながら、その肩に頭をのせて眠っているように思えた。


(ふ、ふたりは別に夫婦ではないんだよね? それなのに、あんな風に寄り添い合って眠るものなのかな……?)


 なんだか頬まで熱くなってきてしまう。

 見てはいけないものを見てしまったような気分だ。

 もしかしたら、薄暗かったので何かを見間違えてしまったのかもしれない――そのように思いながら、トゥール=ディンはそろそろと身を起こした。


 そして意を決し、再び窓へと顔を近づける。

 すると――

 とても強い光を宿した青い瞳が、格子のすぐ向こう側からまじまじと自分を見つめ返してきた。


「きゃーっ!」と悲鳴をあげて尻もちをついてしまう。

 それでもなお、青い瞳はトゥール=ディンの姿を見つめ続けた。


「お前はディン家の娘だな。このような時間にどうしたのだ?」


 アイ=ファである。

 ほんのつい先ほどまで安らかに寝息をたてていたはずのアイ=ファが、じいっとトゥール=ディンを見つめていた。


「どうしたんだよ? 窓の外に誰かいるのか?」


 と、あくびまじりの声が聞こえたかと思うと、アイ=ファの隣にアスタの姿まで現れる。


「あれ、トゥール=ディンじゃないか? いったいどうしたんだい?」


 普段通りの穏やかで優しげな声だった。

 それでもやっぱり、トゥール=ディンはしばらくその場から立ち上がることもできなかった。


               ◇


「気配がしたので窓の外を確認してみたら、この娘が家の中を覗き込もうとしていたところだったのだ」


 上座で片膝あぐらをかきながら、アイ=ファはこともなげにそのように述べてきた。


「まあ、息遣いを殺そうともしていなかったので、何か害意のある人間だとは思わなかったが、それにしても、いささか驚かされることにはなった」


 それでもトゥール=ディンのほうがその何万倍も驚かされただろうと思う。

 アイ=ファの隣に座したアスタは、呆れたように笑っていた。


「本当に頼もしい家長様だな。俺はちっとも気づかなかったよ。トゥール=ディンのほうこそ、びっくりしたろ?」


「いえ……」


 ここはファの家の広間であった。

 とにかく何か用事があるのだろうと、アイ=ファたちはトゥール=ディンを家に招き入れてくれたのだ。

 玄関口で丸まったトトスの視線を背中に感じつつ、トゥール=ディンはひたすら身体を縮めるばかりである。


「それで? こんな朝からどうしたんだい? 何か俺たちに急用だったのかな?」


「はい……実はその……今度、リッドの女衆がジーンに嫁入りすることになったのです……」


 深くうつむき、前髪ごしにアスタの様子をうかがいながら、トゥール=ディンはそのように答えてみせる。

 アスタは不思議そうに小首を傾げた。


「ジーンっていうのは北の集落の氏族だよね。リッドっていうのは聞いたことがないけど、やっぱりそれもザザ家の眷族なのかな?」


「はい……ザザの眷族としてはもっとも南に家をかまえる氏族で……リッドとディンは、スンと血の縁を交わす前からの眷族であったのです」


「ふうん。それじゃあリッドはディンのそばに家をかまえているってことなのかな? そうだとすると、北の集落はずいぶん遠いように感じられるけど」


「そうです……ですから、これまでディンやリッドはスンとしか縁を結んでおらず、北の氏族とはほとんど交流がなかったのですが……スン家を失った現在では血の縁というものがまったくなくなってしまうため、北の氏族とも新たに絆を結ぶ必要ができてしまったのです」


「へえ。それで、リッドがジーンに嫁入りを?」


「はい……ジーンでは、スンの集落に残された分家のものたちに狩人としての手ほどきをするために、若い男衆を何人か出していたので……そこにリッドの女衆を招き、見合わせたそうです」


「お見合いか! それで縁談がまとまったのなら、めでたいことだねえ」


 とてもやわらかい顔で微笑みつつ、またアスタは小首を傾げる。


「それで? とてもめでたい話だけど、それをどうして俺たちに告げようと思ったのかな?」


「ええ……実は……」


 トゥール=ディンは、いっそう身体を縮めてしまう。


「わたしが……いえ、わたしたちディン家の女衆が、その婚儀の宴のかまど番を任されることになったのです……」


「ふうん?」とうなずきかけてから、途中でアスタは目を丸くした。


「え? だけど、ディン家では血抜きをしたギバ肉で、俺の手ほどきをした料理を作っているんだよね? そんなディン家をわざわざかまど番に選んだってことは、もしかして――」


「はい。アスタが森辺にもたらした食事にはどれほどの力があるのか、それを見極めるために、ディン家にかまど番を任せたいのだと……グラフ=ザザは、そのように述べていたそうです」


「それはすごいね! 大役じゃないか!」


 アスタは瞳を輝かせて、身を乗り出してくる。

 その姿を認めて、トゥール=ディンはようやく全身に込めていた力を抜くことができた。


「その報は、今日の内にルウやサウティにも届けられるという話でした。ですから、その前に自分の口でアスタたちに伝えたくて、ついついこのように無作法な時間に家を訪れてしまったのです……本当に申し訳ありませんでした」


「謝る必要なんて全然ないよ! そいつはものすごい話じゃないか!」


 そのように言ってから、アスタはにこりと笑ってくれた。


「それに、トゥール=ディンがそんな風に考えて家を訪れてくれたことはとても嬉しいよ。ありがとう、トゥール=ディン」


「いえ……」


 その言葉だけで、トゥール=ディンはすべてが報われたような気がした。

 思わず涙ぐんでしまい、それを隠すためにいっそううつむく。


「聞いたか、アイ=ファ? あのグラフ=ザザが、ついにそこまで美味なる料理というものに興味をもってくれたんだ! こいつは朗報だな!」


「うむ。きっとあの、ズーロ=スンらを招いたルウ家での晩餐でアスタの力を思い知らされたのであろうな。あれはそれぐらいの力を持つ晩餐であった」


 落ち着いた声音で、アイ=ファが応じている。

 しかしそこにも、アスタを誇りに思う気持ちがはっきりとにじんでいた。


「ディンの娘よ、わざわざ夜明け前からそのような言葉を届けてくれたことに、私からも礼の言葉を言わせてもらいたい」


「い、いえ……それであの、わたしからファの家長アイ=ファにお願いしたい話があるのですが……」


 どきどきと脈打つ左胸に手を添えながら、トゥール=ディンはそのように述べてみせた。


「ディン家の女衆で、どのような料理を作るべきか、話し合ったのです……それで、あの……それが正しい料理であるかをアスタに判じてもらうために……きょ、今日のファの家の晩餐を、わ、わたしに作らせてもらえませんか!?」


 最後は、無用に声が大きくなってしまった。

 そうして、そろそろと視線を持ち上げてみると――アイ=ファは、想像よりも遥かに優しげな眼差しで自分を見つめてくれていた。


「いっこうにかまわんぞ。ディン家の女衆がどのような料理を作るのか、私にとってもそれは非常に気になるところであるからな」


               ◇


 トゥール=ディンは、スンの分家に生を受けた娘であった。

 母親はディン家の家長の末妹で、スンの分家に嫁入りを果たしたのだ。


 当時のスン家は族長筋であったので、それは誇らしい出来事であるはずだった。

 しかしスン家は森辺の禁忌を踏みにじり、先代族長ザッツ=スンの打ち立てた禍々しい掟に縛られた一族であった。

 その掟が打ち立てられたのは、10歳のトゥール=ディンが生まれる数年前であったという。


 だからトゥール=ディンは、物心がつくと同時に、これは秘密の掟なのだときつく教えこまれることになった。

 この秘密が他の氏族に露見することになれば、スンの人間は全員頭の皮を剥がされるのだ、と。


 どうして族長筋のスン家だけがそのような秘密を抱え込まなくてはならないのか?

 悪逆なるルウ家を討ち倒すため――そして、凶悪なる北の一族をしっかりと従わせることのできる力を得るためなのだと、大人たちはそのように述べていた。


 これは正しいことなのだ。

 スン家は森辺の民を正しい道に導かなくてはならないのだ。

 そのために、今は苦しくとも秘密を守り通さなくてはならないのだ。


 そのように述べながら、大人たちはみんな虚ろな目をしていた。

 宴などで集落に招かれる眷族のものたちはみんな猛々しく、強い力に満ちあふれているのに、スン家のものたちはみんな生気に乏しかった。


 しかし、トゥール=ディンにとっては、それが世界のすべてであった。

 母などは、こんな生には耐えられぬとばかりに幼いトゥール=ディンを残して他界してしまったが、それを嘆くことも許されなかった。


 そこに、ルウ家の女衆らとアスタが現れたのだ。


 家長会議の日の夜に、スン家の秘密は暴かれることになった。

 トゥール=ディンの世界は、粉々に打ち砕かれることになった。


 これでみんな、頭の皮を剥がされることになるのだ。

 その絶望に打ちひしがれながら、それでもトゥール=ディンはとてつもない解放感を得ることもできた。


 これで母のもとにゆくことができる。

 もう他の氏族の目に怯えずに済む。

 そんなことを思いながら、トゥール=ディンはわんわんと泣くことができた。

 そのように感情を爆発させたのは、たぶん赤子のとき以来だった。


 しかし、トゥール=ディンたちが処断されることはなかった。

 本家のものたちは氏を奪われることになったが、眷族に強い血の縁を持つ分家の人間は、その家の家人となることが許されたのだ。


 そうして森辺の民として正しく生きていくことが、トゥール=ディンたちにとっては贖いになるのだという。

 トゥール=ディンは、父とともにディン家の家人となった。

 そこで、厳しくも温かい新たな家族に囲まれながら、新たな生を歩むことになった。


 それから、およそふた月ほどが経過し、今に至る。


 スン家に代わって親筋となったザザ家は、ファの家の行いに疑念を呈する立場であった。

 それでもディン家は、かろうじてアスタに血抜きと料理の手ほどきを受けることを許された。

 ファの家の行いは、森辺にとって薬となるのか毒となるのか。それを見極めるために、ディンの家はファの家と縁を結ぶことが特別に許されたのだ。


 そして、今回の事態である。

 ディンの家はファの家から何を得たのか。それを示すべしと、ザザ家の家長であり新たな族長のひとりであるグラフ=ザザに命じられた。


 自分たちがしくじれば、やっぱりファの家は間違っているのだと断じられてしまうかもしれない。

 その責任に押し潰されそうになりながら、トゥール=ディンは婚儀の宴にのぞむことを決断したのだった。


               ◇


 灰の月の13日。

 トゥール=ディンは、大きな鉄鍋と3名分の食材を引き板に載せて、夕暮れ前にあらためてファの家を訪れた。


 が、ファの家で待ちかまえていたのは家長のアイ=ファのみであった。


「ああ、ご苦労であったな、ディンの娘よ」


 ファの家は、ディンの家と同様に昨日から休息の期間に入っていたのだ。

 どうやら修練の途中であったらしい。家の横手で大刀をふるっていたアイ=ファが、静かにトゥール=ディンを見返してくる。


「かまども薪も鉄鍋も好きに使ってくれてかまわない。水瓶も、朝の内に満たしておいた」


「あ、ありがとうございます。……アスタはまだ宿場町から戻っていないのですね」


「うむ。今日は日が沈む寸前まで戻らぬと言っていた」


「え?」


「晩餐をお前に任せることができるのなら、時間いっぱいまでルウの集落で女衆らに料理の手ほどきをしてやろうと思う、と言っていたのだ」


 トゥール=ディンは、言葉を失うことになった。

 その様子を見て、アイ=ファはけげんそうに首を傾げる。


「どうしたのだ? ひょっとしたら、晩餐を作るのにはアスタの助力も必要であったのだろうか?」


「い、いえ。アスタに助力を頼んでは意味がありませんので、それはわたしひとりでやりとげるつもりでしたが……」


 ただトゥール=ディンは、あまりこのアイ=ファと言葉を交わしたことがなかったので、いささかならず気後れしてしまったばかりであった。


 アイ=ファは刀を鞘に収めつつ、トゥール=ディンにうなずきかけてくる。


「案ずるな。何か重い荷を運ぶ際などには、私が力を添えてやろう。アスタを家人として迎えるまでは私もかまどの番を果たしていたのだから、お前を困らせるような失敗は犯さない」


「はい……」


「かまどはどちらを使うのだ? いちおう家の中にも外にも薪は準備しておいたが」


「あ、それでは外のかまどを使わせていただこうと思います」


 アイ=ファの導きで、家の裏手に回り込む。

 そこでトゥール=ディンはちょっと驚きに目を見開くことになった。


 ファの家の裏手には、ふたつのかまどが存在する。そのかまどの上に大きな革の屋根が張られており、なおかつ丸太と割り板で組んだ作業台と思しきものが家の壁に接する形で据えられていたのだ。


 ほんの数日前にもファの家でアスタに料理の手ほどきをしてもらっていたが、そのときにこのようなものは存在しなかった。

 トゥール=ディンの視線を受けて、「ああ」とアイ=ファが声をあげる。


「前々から外のかまどにも屋根と台を作るべきだとアスタと話し合っていたのだ。それでようやく休息の期間が訪れたので、こうして完成させることができた」


「で、でも、休息の期間は昨日からですよね? 昨日と今日のたった2日で完成させてしまったのですか?」


「うむ。修練の他には特に急ぎの仕事もなかったしな」


 言いながら、アイ=ファは作業台の表面をこつこつと叩く。


「この台がななめに傾かぬよう丸太を組むのがいささか手間ではあったが、アリアやポイタンが転がって落ちるようなことはないと思う。不安でなければ、使うがいい」


「は、はい。ありがとうございます」


 台の高さは、アスタの腰の位置あたりに合わせられているのだろう。トゥール=ディンが使うには少し高かったが、それでも地面に布を敷いて座りながら作業するよりは、うんと楽であるように感じられた。


 アイ=ファに見守られながら、持参した食材と道具を台の上に並べていく。

 まずは、汁物料理の下ごしらえであった。


「よいしょ」と鉄鍋をかまどの上に載せる。

 その中身を覗き込みながら、アイ=ファは「ほう」と声をあげる。


「これは、ギバの臓物だな?」


「はい。一昨日にディンの男衆が仕留めてくれたものです。臓物でも、5日ぐらいはピコの葉で保存がきくようですので……」


「そうか。アスタに臓物のさばき方を教えたのはお前であったな、ディン家の娘よ」


 納得したようにうなずきつつ、アイ=ファは鉄鍋から目を離そうとしない。


「しかし、この鍋にはずいぶんさまざまな種類の臓物が詰め込まれているようだ。アスタは部位によって焼いたり茹でたり煮込んだりしていたが、この料理ではすべて煮込んでしまおうという考えであるのか?」


「はい。北の一族に伝えるには、あまりこまごまとした内容にしないほうがよいように思えたので……」


 この鍋には、食用に適する臓物のほとんどすべてが詰め込まれていた。

 アスタいわく、心臓に肝臓、大腸に小腸、胃袋、直腸、コブクロ、肺、腎臓、横隔膜――などである。

 料理の手ほどきの合間にそれらの臓物がどのような名前でどのような役割をもっているのか、アスタはそういったことまで親切に教えてくれたのだ。


「……まずこれは、ギバの脂を使って軽く焼いておきます」


 アイ=ファはいつまでも興味深そうにトゥール=ディンの挙動を見守っていたので、そのように説明しながら作業することにした。

 アスタの真似をしているようでだいぶん気恥ずかしいが、ファの家の家長たるアイ=ファにも料理の内容は正しく知っておいてもらうべきだと思えたのだ。


「そうしてあるていど火が通ったら、今度はタラパのそーすで煮込みます」


 それはあらかじめディン家のかまどで準備してきていた。

 こまかく刻んだアリアとミャームー、それに果実酒と塩とピコの葉を加えて煮込んだ、タラパのソースである。

 ジャス=ディンが宿場町で買ってきてくれた革袋から、それを鉄鍋の中に移す。


「ふむ。アスタの作るタラパの煮込み料理と手順は同一だな」


「はい。……それでわたしは、ここにリーロの葉とチットの実を加えてみることにしました」


「……チットの実?」


 アイ=ファの目が、すっと鋭く細められる。

 言った通りのものを鍋に入れようとしていたトゥール=ディンは、思わずぎくりと身体をすくめてしまった。


「ギ、ギバの臓物は独特の風味を持つ部位が多いので、強い香りと味を持つリーロとチットを入れることにしたのですが……あの、何かお気にさわってしまいましたか?」


「いや。……しかし、質実なる北の一族は、あまり馴染みのない食材を使うことをよしとはしないだろう。チットの実というのは、東の王国シムから伝わるものであるはずであったな?」


「は、はい。ですがチットの実はタウ油ほど珍しくも高価でもないので、ディンの家などでも普通に使われるようになりました。それならば、北の一族にも忌避されないのではと考えたのですが……」


「そうか。きちんと考えられているのだな。仕事の手を止めさせてしまって申し訳なかった。かまわずに続けるがよい」


 そのように答えながら、アイ=ファの眉間に刻まれたしわは消えなかった。


「あの……もしかしたら、アイ=ファはチットの実がお嫌いなのでしょうか……?」


「そのようなことはない。ただ、それを初めて口にしたとき、私はとても痛い目を見させられてしまったのだ」


 と、アイ=ファはすねたような口調で言う。


「以来、その名を聞いたり匂いを嗅いだりしただけで、そのときの痛さを思い出すようになってしまってな。それでもチットの実を使った料理が嫌いなわけではないから、案ずることはない」


「そうですか……」


 赤くて小さなチットの実は、強烈な辛みを持つ食材である。が、分量さえ間違えなければ、ピコの葉と同様に適度な刺激を舌に与えてくれる。ディンにもそれを嫌がる人間はいなかったので、アイ=ファがそのように難しい顔をしているのが不思議であり可笑しくもあった。


(アスタが分量を間違えたりはしないと思うんだけど……いったい何があったんだろう)


 そのようなことを考えながら、鍋の中身をかきまぜる。

 チットの実と一緒に入れたリーロの葉は、干し肉を作るときに使う香草である。アスタは肉の風味を抑えたいときにこの葉を使うと言っていたので、トゥール=ディンは臓物の汁物料理でこれを使うことに決めたのだ。


 タラパのソースには、他の料理のときよりも多めのミャームーを使ってもいる。これぐらい念入りに香りを強めにしておくと、初めての人間でもギバの臓物を食べやすいように思えたのだった。


「あとは弱い火でゆっくり煮込んで、最後にまた塩とピコの葉で味付けをするだけです。……その間に、他の料理の準備をしたいと思います」


「うむ」


「まずは肉団子と野菜炒めを作ります」


「はんばーぐではなく、肉団子か」


「はい。はんばーぐより手間がかからないので、ディンの家でも肉団子を作ることは多いのです」


 肉を刻んで、塩とピコの葉とともに入念にこねていく。

 ポイタンやフワノの粉やキミュスの卵などを入れる作り方もあるが、今回は何も入れないことにした。

 この段階で粘り気が出るまでよくこねれば、そうそう形が崩れたりすることもないのだ。


「野菜炒めは、アリア、ティノ、プラ、ネェノンを使います」


「ふむ。なかなか豪勢だな」


「はい。婚儀の宴ですので、これぐらいの贅沢は許されるかと」


 料理には彩りも大切なのだ、とアスタは語っていた。

 濃い緑色をしたプラや淡い朱色をしたネェノンを使うと、確かにただ野菜を炒めただけの料理も華やかに見える。


 そうして肉団子にかけるためのソースを果実酒で作製していると、アイ=ファがまた声をかけてきた。


「ディン家の娘よ、そういえば私はまだお前の名前を覚えていなかったのだ。よかったら、それを私に教えてはもらえぬか?」


「え……? わ、わたしはトゥール=ディンですが……」


「トゥール=ディンか。優しげでよい名だな」


 アイ=ファらしからぬことを言いながら、トゥール=ディンのほうに近づいてくる。


「トゥール=ディンよ、お前はルウ家の女衆ほどアスタと親交を結ぶ時間はなかったはずだが、それでもずいぶんとアスタに思いを寄せているようだな」


「え……」とトゥール=ディンは後ずさりそうになる。

 しかし、果実酒のソースが煮詰まりかけていたので、それもかなわなかった。


「わ、わたしは確かにアスタを敬愛しています……で、でも、それは誰にも恥じることのない真情だと自分では思っているのですが……」


「むろん、その通りなのだろう。だからこそ、お前には一言告げておきたかったのだ」


 真剣な面持ちで、アイ=ファがさらに近づいてくる。

 トゥール=ディンは、足が震えてしまいそうだった。


 しかし――トゥール=ディンを見つめながら、アイ=ファはふいにぎこちなく微笑みを浮かべた。


「お前がアスタのことをそれほどまでに大事に思ってくれていることを、私は嬉しく思っている。そのお前の優しき心情に、私は礼の言葉を述べさせてもらいたい」


「ええ……? それはいったい、どういうお話なのでしょう……?」


 困惑のきわみに陥りながら、トゥール=ディンは焦げついてしまいそうなソースを肉団子の皿に移した。

 アイ=ファは目を細めて微笑している。


「アスタが貴族の館から無事に救い出されて集落に戻ってきたとき、お前は涙を流して喜んでくれたではないか? それで私は、お前もそれほどまでにアスタの身を案じてくれていたのだなと、胸を打たれることになったのだ」


「あ、あれは……」


 貴族の館から救い出されたその翌日、ルウの集落に身を寄せていたアスタは、トゥール=ディンたちにも元気な姿を見せるためにひとたびだけ顔を見せてくれたのだ。


 そのときに、トゥール=ディンは声をあげて泣いてしまった。

 アスタが凶賊に捕らわれて、5日間も行方知れずになった。その間、トゥール=ディンは身を裂かれるような苦しみを味わわされることになったのである。


 それで、安堵と喜びのあまり、ついついアスタの胸に取りすがって大泣きしてしまったのだが――思い出すと、全身が火のように熱くなってしまう。


「何も恥じ入ることはない。お前をそれほどまでに心配させたアスタが悪いのだ。不出来な家人に代わって、お前には詫びと礼の言葉を述べさせていただきたいと思う」


「い、いえ、そんなことは……」


「そして、かつてのお前がアスタに手ほどきを受けたいと願ったからこそ、グラフ=ザザの心を動かすことにもなったのだ。すべては森の導きであったのかもしれぬな」


 そのように言ってから、アイ=ファは朱色に染まり始めた空を振り仰ぐ。


「さて、そろそろ日が没してしまいそうだな。残りの料理は家の中で仕上げるべきだと思うが、どうだ?」


「は、はい。そうさせていただこうと思います」


 アイ=ファとは、これほど温かみのある心を持つ女衆であったのか。

 小さからぬ驚きに打たれながら、トゥール=ディンは完成した料理や残りの食材を家の中に運び込むことにした。


 道のほうからゴロゴロと荷車を引く音色が聞こえてきたのは、まさにそのときであった。


「やあ、トゥール=ディン。料理のほうはいかがかな?」


 家の前で荷車から降りたアスタが、にっこり笑いかけてくる。

 さきほどの余韻で頬を少し赤らめつつ、トゥール=ディンは「はい」とうなずいてみせる。


「あとひと品で完成です。アスタ、お疲れ様でした」


「そちらこそお疲れ様。……あ、家長、ただいま帰還いたしました」


「うむ」


 家の入口で腕を組んだアイ=ファが、家長らしい厳格な面持ちでアスタを見返している。

 ただ、その表情とは裏腹に、アイ=ファはとてもやわらかい眼差しをしていた。


 アスタが無事に帰ってきたことを、心から喜んでいるのだろう。

 貴族との争乱には決着がついたが、それを抜きにしても、やはり森辺の民が宿場町に下りるというのは、いくばくかの危険がつきまとうものなのだ。


「では、最後の料理に取りかかります」


 アスタが後片付けをしている間に、トゥール=ディンは屋内のかまどに火を入れた。

 ディンの家から持参してきたギバのラードを鉄鍋に移していると、またアイ=ファが「ほう」と覗き込んでくる。


「最後の料理は、ぎばかつなのか?」


「いえ。わたしの腕前でぎばかつを作るのは難しいですし、北の一族の女衆ではなおさらでしょうから、もっと簡単な揚げ物料理です」


 これももちろん、アスタから教えられた料理であった。

 ルウの集落では『ギバ・カツ』という料理がたいそう好評であるようだったが、これは調理が難しい上に、使う材料の種類も多い。ならば――と、このような料理を考案してくれたのだ。


「名前をつけるとした何だろう。ムニエル風のギバ肉の揚げ焼きってところかなあ」


 アスタは、そのように言っていた。

 平たく切った肉に塩とピコの葉をもみこみ、フワノかポイタンの粉をまぶした上で、ラードで揚げ焼きにする。そういう料理である。


 ハンバーグやステーキなどは、少量の油で焼きあげる。

 カツやコロッケという料理は、温めた油にひたして熱を通す。

 揚げ焼きというのは、その中間にあたる調理法であった。


 肉はアスタがロースと呼ぶ背中の部位を使う。厚さはトゥール=ディンの手の平ぐらいで、それが3分の2ぐらいの薄さになるよう、木の棒で叩いておく。そうしたほうが適度な噛み応えになるし、熱の通りも速いので余分な油を吸わずに済むのだとアスタは言っていた。


 それに塩とピコの葉で味付けをしてポイタンの粉をまんべんなくまぶしたら、熱したラードの中に漬ける。

 ラードの量は、肉が半分つかるていどだ。

 ぱちぱちと弾ける音色が心地好い。


 ひとたびだけアスタに味見をさせてもらった『ギバ・カツ』は確かにとてつもなく美味な料理であったが、この揚げ焼きという料理もトゥール=ディンには十分なご馳走に思えた。


「あ、揚げ物を作っているのかい? それなら、これを使いなよ」


 と、食糧庫から出てきたアスタが何やら奇妙な器具を手に近づいてくる。

 それは、金属の細い棒を組み合わせて作られた、隙間だらけの平たい板だった。


「これは金網っていってね。この上に揚げた肉を載せておくと、余分な油が下に落ちてくれるんだよ」


「ありがとうございます。使わせていただきます」


 揚がった肉をそちらに移し、次の肉を投じ入れる。

 その間も、アスタはかまどのかたわらに立っていてくれた。


「丸鍋だと、揚げ焼きはひとつずつしか調理できないから不便だよね。ファの家では、平鍋を購入する予定なんだ」


「平鍋?」


「うん。底が平たくなっている鍋だね。宿場町ではあまり見かけないけど、俺の故郷では平鍋のほうが多く使われていたんだ」


 アスタの故郷――それは、どのような国なのだろう。

 その故郷では、アスタなど半人前の見習い料理人に過ぎなかったという。トゥール=ディンには、なかなか信じ難い話であった。


「よし、これで完成です。お待たせしてしまって申し訳ありません」


「申し訳ないことは全然ないよ。トゥール=ディンの料理を食べるのは初めてだから楽しみだなあ」


 そんな言葉を聞かされると、胃袋がきゅっと縮みあがると同時に、耳や頬に熱を感じてしまう。


 ともあれ、料理は完成した。

 油の落ちた肉を木皿に移し、広間の敷物へと並べていく。


 ギバの臓物の汁物料理。

 ギバの肉団子。

 4種の野菜炒め。

 ギバのロースの揚げ焼き料理。

 これに家で焼いてきたポイタンを添えて、終了だ。


 揚げ焼き料理には、輪切りにしたシールの実の汁をかけておく。

 ギバの旨みを凝縮させたかのような揚げ焼き料理には、この酸っぱい果汁がとてもよく合うのだ。


「宴の当日には普通に焼いた肉も用意する予定ですが、趣向をこらした料理というのはこれですべてです」


「うん、これは豪勢な献立だね。俺がルティムの祝宴で用意した献立にもまったく負けてないよ」


 アスタはとても楽しそうに笑っている。

 トゥール=ディンはどきどきと騒ぐ胸もとに手をやりながら、下座に腰を下ろした。


 すでに室内は暗くなっていたので、アイ=ファが燭台に火を灯すのを待ち、アスタがパンと手を打ち合わせる。


「森の恵みに感謝して、火の番をつとめたトゥール=ディンに礼をほどこし、今宵の生命を得る。……いただきます」


 そうしてアスタは、まず臓物の汁物料理に手をのばした。


「へえ。タラパの汁物にモツを使ってるのか。こいつは美味そうだ」


 トゥール=ディンはぎゅっと拳を握り込みながら、アスタが木匙を口に運ぶ姿を見守った。

 アスタの目が、少し驚いたように見開かれる。


「うん、チットの実がほどよくきいてるね。それにこの風味は……リーロの葉を使っているのかな?」


「……はい」


「リーロってタラパに合うんだねえ。とても美味しいよ」


 アスタは気性が優しいので、トゥール=ディンはまだまだ安心できなかった。

 アイ=ファのほうは、難しい顔で汁をすすっている。


「お、こいつはハツで、こっちはハラミか。色々な食感が味わえて楽しいな。なあ、アイ=ファ?」


「うむ。チットの実の分量もちょうどよいようだ」


「チットの実にこだわるなあ。あれ以来、痛い思いは一度もしてないだろう?」


「思い出させるな! 舌が痛んでくるだろうが!」


 怖い顔で、アイ=ファがわめく。

 しかし、いつでも冷静なアイ=ファがそのように感情をあらわにするのは、アスタに対して心を開いている証左に思えた。


「あの……お味のほうは、いかがでしょうか?」


「うん、美味しいよ! これなら初めて臓物料理を食べる人たちにも喜ばれるんじゃないかなあ」


 そのように言いながら、今度は肉団子をつまむ。


「うん、この肉団子も申し分ないね。ソースはシンプルに果実酒ベースか」


 アスタは時おり、意味のわからない言葉を使うことがある。きっとアスタの故郷の言葉なのだろう。


 ともあれ、あとはもうディン家の男衆にも負けない勢いでアスタとアイ=ファは料理をたいらげていった。

 ふたりともほっそりしているのに、なかなかの食欲である。少し作りすぎてしまったかとトゥール=ディンは心配に思っていたのだが、すべての料理は無理なくアスタたちの胃袋におさまったようだった。


「……いかがでしたか? 宴の料理に相応しい献立であったか、率直な意見をお聞かせください」


 自身も何とか皿の上を空にして、トゥール=ディンは問うた。

「ごちそうさまでした」という聞きなれない言葉を発してから、アスタは「うーん」と腕を組む。


「味のほうは申し分なかったよ。正直に言って、トゥール=ディンがここまでのお手並みだとは想像してなかったぐらいだ。ディンやフォウの人たちには、そこまでしっかりと手ほどきをすることもできていなかったからさ」


「……はい」


 アスタはルウの集落に逗留する機会が多く、その間は女衆らとともに商売用の下ごしらえをしたり、晩餐をこしらえたりしていたようなのだ。

 いっぽうで、トゥール=ディンたちはファの家を訪れて、わずかばかりの修練を積むことしかできなかった。自分の家の晩餐は自分の家のかまどでこしらえるのが森辺の習わしであったので、アスタから学んだ技術を家に持ち帰り、それを自分なりに実践してみる他なかったのである。


「その上で、僭越ながら何点か助言しようと思うんだけど」


「はい」


「まず、さっきこれらの料理の他に肉を焼くつもりだと言っていたけど、汁物に関してはどうなのかな?」


「汁物ですか? それはこのタラパの料理以外には考えていませんでしたが……」


「そっか。ルティムの祝宴では俺もタラパのシチューっていう料理を準備したんだけど、これは下ごしらえに時間がかかる上に材料費も馬鹿にならなかったから、それとは別に普通の汁物も準備したんだよね」


 言いながら、アスタは考え深けに下顎を撫でさすっている。


「このタラパの臓物料理も、条件が近いように思えるんだ。宴には、何人ぐらいの眷族が参加するんだっけ?」


「はい。ザザの眷族は70から80ていどであったと思います」


「その人数分の臓物を準備するのは大変だよね。ディンは休息の期間にあるけど、肉や臓物は誰が準備するのかな?」


「はい。休息の期間にあるディンの男衆が眷族の家に出向いて、そちらで血抜きや臓物の取り扱いを手ほどきする予定です。北の集落ではなく、もっと近在の氏族になると思いますが」


「なるほど。まあ、それで十分な量が準備できたとしても、やっぱり普通の汁物があるに越したことはないんじゃないかな。そういうさっぱりした料理があると他の料理の味も引き立つし、それに汁物は効率よく野菜を摂取できるから、そこでアリアなんかをどっさり使うといいと思う」


「はい」


「あとは……すごくこまかい話だけど、肉団子にかける果実酒のソースにはポイタンかフワノの粉を混ぜるといいかもしれない。そうしたら、ソースが肉団子にしっかりからむと思うから」


「はい」


 アスタの言葉を、しっかり心に刻みこんでおく。

 すると、アスタは唐突ににこりと微笑んだ。


「うん、俺に言えるのはそれぐらいかな」


「え?」


「肉団子に関しては、きっとトゥール=ディンもなるべく余計な食材を使いたくないっていう姿勢なんだろうから、どっちでもいいと思う。普通の汁物料理を献立に加えれば、それで十分だと思うよ」


「で、ですが、他に至らない点などは……? 献立の内容だけでなく、味付けなどに関してでも……」


「味付けは、さっきも言った通りに申し分ないよ。今の段階では百点満点なんじゃないかなあ?」


 アスタが問いかけるように視線を飛ばすと、アイ=ファも「うむ」とうなずいた。


「私には、ルティムの祝宴や家長会議で出された料理よりも美味な料理であると感じられた。アスタ本人が手伝ったわけでもないのにこれほどの料理が作れるというのは、驚きに値すると思う」


「そうだよな。さすがに現在のレイナ=ルウたちの手並みには及ばないけど、手ほどきされた時間や内容を考えたら、これは最高の出来栄えだよ」


「それでは……それではわたしも、もっとアスタに手ほどきを受けることができれば、もっと腕を上げることがかなうのでしょうか?」


 トゥール=ディンは、思わず身を乗り出してしまった。

 アスタは驚いたように目を丸くする。


「う、うん。それはもちろん。トゥール=ディンはまだ10歳なんだし、成長の余地はいくらでも残されてるはずだよ」


「それならば……わたしはもっと、アスタに手ほどきを受けたいと願います」


 これは宴が終わるまで、アスタに打ち明けるつもりはなかった。

 しかしトゥール=ディンは、自分の気持ちを抑えることができなくなってしまっていた。


「アスタもグラフ=ザザから聞いているのでしょう? 家人のジャス=ディンが、グラフ=ザザに願い入れてくれたのです……ディン家も宿場町の商売を手伝うことはかなわないか、と……このたびの宴でグラフ=ザザを満足させることができれば、きっとその願いは叶い入れられるはずだと、ジャス=ディンはそのように述べていました」


「うん、確かに俺も聞いているよ。貴族との面倒事が片付くまで、そんな話を取り沙汰している余裕はないって話だったね。……そうか、だからグラフ=ザザも、ようやく重い腰を上げることになったんだね」


「はい……なので、このたびの宴の責任はわたしに負わせると、ジャス=ディンはそのように言ってくれました」


「え? 10歳のトゥール=ディンがかまど番の責任者なのかい?」


「そうです。それでアスタの力を正しく示すことができたなら、グラフ=ザザを始めとする眷族の長たちも、わたしがアスタの仕事を手伝うことを許してくれるだろう、と……自分の望みは自分の力でつかみ取るのだと、ジャス=ディンにはそのように言われました」


 気づかぬうちに、身体が震えていた。

 トゥール=ディンは、それをこらえるために自分の両膝をわしづかみにする。


「ですから……もしもわたしがこのたびの仕事をやりとげることができたら……わたしを、アスタのもとで働かせていただけますか……?」


「うん、もちろんだよ、トゥール=ディン」


 アスタは優しげに微笑みつつ、しかしとても真剣な口調でそのように言ってくれた。


「実はね、ちょうどこちらも人手を増やそうって話になっていたところだったんだ。ルウやルティムからはもうたくさんの人手を出しているし、フォウやランでは女手が余っていないっていう話だったから、レイやミンあたりから借りるしかないかって話に落ち着きそうだったんだけど、トゥール=ディンだったら申し分ないよ」


「……本当ですか?」


「うん。だから、宴のかまど番をしっかりとつとめあげられるように頑張っておくれよ、トゥール=ディン」


 涙がこぼれてしまいそうになった。

 しかし、今は泣くべきではない。トゥール=ディンは、いまだ何を成し遂げたわけでもないのだ。


 もしも宴の仕事を成し遂げて、アスタの仕事を手伝うことがかなったら――そのときは、少しぐらい泣いてしまっても許されるのだろうか。


 そのようなことを考えながら、トゥール=ディンは「ありがとうございます」と述べてみせた。

 アスタとアイ=ファは、そんな自分をこれ以上ないぐらい温かい眼差しで見つめてくれていた。

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