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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
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第十一話 モルガの白き王

2015.10/28 更新分 1/1 ・今回は全5回の更新となります。

2016.2/10 「ジェム=ルティム」の名前を「ディム=ルティム」に変更いたしました。

「うむ……こいつはひどい目にあった」


 そのようにつぶやきながら、ダン=ルティムはむくりと上体を起こした。

 夕暮れの近い、森の奥底である。

 足もとは石まじりの砂場であり、右手の方向からはどうどうと水の流れる音が聞こえてくる。ここは名も知れぬ川の川べりであるようだった。


 視線を背後に飛ばしてみると、暗緑色の茂みがかなりの高みにまで威容を広げている。

 茂みに覆われていてわかりにくいが、これは断崖の壁面であるのだ。

 この茂みをばりばりと突き破りながら、ダン=ルティムたちはこの川べりまで滑落してきたのだった。


 その際に、枝葉で傷つけられてしまったのだろう。顔や腕のあちこちがちくちくと痛む。

 が、目玉や指先に取り返しのつかぬ負傷はなかったので、どうということはなかった。


「おい、ディム=ルティムよ。お前さんは大丈夫か? 生命があるなら返事をしてみろ」


 と、ダン=ルティムは周囲の状況を確認してから、腕の中の少年に呼びかけてみた。

 黒褐色の長い髪をした少年が「うう……」と苦しげな声をあげる。


「とりあえず生きてはおったか。いったん地面に下ろさせてもらうぞ?」


 言いながら、少年の身体をそっと地面に横たえる。

 とたんに少年は、「ううっ」とさらに苦しげな声をもらした。


「暴れるな。ひょっとしたら、あばらが何本かやられているのやもしれん。無用に動くと、折れたあばらに内臓を傷つけられてしまうぞ?」


「家長……ダン=ルティム……」


 少年の力を失った目がダン=ルティムを見上げてくる。


「申し訳ありません……俺が判断を誤ったばかりに……」


「気に病むな。お前さんを正しく導くのが俺の仕事であったのだからな。この不始末は、すべて俺の責任だ」


 そのように答えると、少年の瞳には涙が浮かんできてしまった。


「本当に申し訳ありません……もしも家長の身に何かあったら、俺はルティムのみんなに顔向けできません……」


「だからそれはこちらの台詞だというのに。頼むから、俺より先に死んでくれるなよ?」


 ディム=ルティムは、13になったばかりの見習いの狩人であった。

 ゆえに、ダン=ルティムが狩人としての手ほどきをしていたのだ。


 現在ルティムの集落は、休息が明けたばかりの時期にある。集落のそばの恵みは手ひどく食い荒らされて、まだしばらくギバが寄ってきそうになかったので、ルティムの狩人は1日で戻れる限界ぎりぎりの森の奥深くにまで足をのばして罠を仕掛けていた。昨日仕掛けたその罠にギバが掛かっているかどうか、本日は手分けをしてその確認におもむいてきたところであったのだ。


 その罠に、1頭のギバが掛かっていた。

 図体は大きいががりがりに痩せこけた、年寄りのギバである。

 毛皮はすりきれ、角は2本とも折れてしまっている。そんな年老いたギバが、左の後ろ足を蔓草の罠に巻かれて、木の枝に高々と吊り上げられていた。


「ずいぶん弱り果てたギバですね。あれなら俺ひとりでもとどめをさすことはできるでしょう」


 茂みの陰からその姿を確認したディム=ルティムは、そのように言いながら立ち上がろうとした。

 その腕を、ダン=ルティムは横から引っつかむ。


「いや、あのギバは危険だな。弓の準備はしてこなかったので、ガズランらと合流してからまた戻ってくることにしよう」


「何故ですか? あのように弱ったギバに弓など必要ないでしょう? 刀で首を掻き切ってやれば済むことです」


「待て待て。死に瀕したギバというのは、時としてとてつもない力を発揮するものなのだ。しかもあのギバは飢えきったところで罠に掛かってしまい、相当に気が立っているようだしな」


「どこがですか? もはや死んでいるかのように、ぴくりとも動かないではないですか?」


「それは、力を溜め込んでいる最中なのであろうよ。俺には、匂いでわかるのだ」


「……匂い?」


「ああ。ギバ怒るとほのかに甘酸っぱい匂いを発するのだ。これで人間の姿を目にしたら、最後の力を振り絞って怒りを爆発させてしまうやもしれん」


 ダン=ルティムはそのように説明したのだが、ディム=ルティムは「納得いきません」と首を横に振った。


「俺が森に入ったばかりの若造だからといって、そこまで用心する必要はないでしょう。俺だって、狩人になるための修練を積んできたのです」


「別にかたわらにあるのがどのような狩人でも、俺は同じことを言っておるよ。お前さんの力を見くびっているわけではない」


「だったら――俺があのギバを仕留めたら、牙と毛皮は俺の家にいただけますか? 角は失われているし毛皮もすりきれてしまっていますが、まあ俺のような若造の最初の獲物としてはあれぐらいが相応でしょう」


 少年の目に、若々しくも向こう見ずな激情の光がきらめく。

 が、ダン=ルティムは「ふむ?」と首を傾げるしかなかった。


「ルウの集落では、その働きによって牙や毛皮の分配を定めているという話ではないですか? 強い狩人は多くの富を得て、弱い狩人は貧しさにあえぐ。そうした厳しい生活こそがルウの力となったのではないかと俺には思えます」


「そいつはどうであろうかな。血族の間では等分に富を分配するというほうが、森辺では普通であるはずだ。そうでない氏族はルウ家と北の一族ぐらいであろうと俺は考えているが」


「北の一族というのは、ザザやジーンやドムのことですね? そうだからこそ、彼らもルウ家に劣らぬほどの卓越した力を得ることができたのでしょう。……そして、我々ルティムとて狩人の数では彼らに負けていないのですから、もっともっと強い力を得ることはできるはずです」


「そうかもしれんし、そうではないかもしれん。が、とりあえず俺はルティムの習わしを改めるつもりはない」


 笑いながら、ダン=ルティムは少年の頭を軽く叩いてやった。


「まあ、お前さんがそのように考えているのなら、いずれガズランに話してみるがいい。ルティムの行く末を担うのはお前さんたちなのだからな。俺が家長を退いたのちは、お前さんたちがどのような道を進んでいくのかを楽しく見守らせてもらう」


「……ならば、その場でお見守りください」


 そう言い捨てるや、ディム=ルティムは身をひるがえして茂みから飛び出した。

 完全に虚をつかれてしまったダン=ルティムは、一瞬遅れてディム=ルティムの後を追う。


「馬鹿者! そのギバに近づくな!」


 ダン=ルティムは、ルティムの集落でもっとも足が速い。ので、十歩と進まぬ内に少年の肩まで手が届きそうであったが――それでは遅かった。ディム=ルティムの姿を認めた瞬間にギバは狂ったように暴れだし、その勢いで蔓草の結ばれた枝がぼきりと折れてしまっていた。


「うわ!」とディム=ルティムが立ちすくむ。

 蔓草と折れた枝を引きながら、ギバは跳躍してディム=ルティムの胸もとに体当たりを食らわせる。


 ギバに角が残っていたら、その一撃でディム=ルティムは絶命していただろう。

 ディム=ルティムの真後ろにいたダン=ルティムは、正面からその身体を受け止める格好になった。


「うむ。これは逃げの一手だな」


 ダン=ルティムは少年の身体を抱きかかえたまま、迷うことなくギバに背を向けた。


 窮屈な場所に逃げ込めば、ギバに追いつかれることはない。

 そう考えて、ダン=ルティムは茂みの中に身を投じたのだが――ここは、滅多に足を踏み入れない森の最奥部であった。背後にギバの足音を聞きながら右に左にと逃げまどっているうちに、まったく覚えのない場所に出てしまい、そして、茂みに隠された断崖から滑り落ちることになってしまったのだった。


「まったく迂闊なことであった。お前さんを無用の危険に巻き込んでしまい、俺はとても申し訳なく思っているぞ」


 砂場に横たわった少年の頭に手を置きながら、ダン=ルティムはそのように言ってみせた。

 ディム=ルティムは、ついにその瞳から涙をこぼしてしまう。


「どうしてダン=ルティムがそのように詫びるのですか……? 悪いのは、すべて考えの足りていなかった俺ではないですか……?」


「だから、そういう未熟者を正しく導くのが俺の役目であったのだ。俺もそうして先達に導かれてきたというのに、まったく不甲斐ないことだ」


 右手側に流れる、大きな川。その向こうには、背後の茂みよりもなお鬱蒼とした森の威容があった。

 モルガの山である。

 何人たりとも立ち入ることを許されていない、これがモルガの山であった。

 森辺でもかなり南寄りに位置するルティムの集落からは、こうして半日をかけて足をのばすだけでモルガの山を間近に見ることがかなったのだった。


 しかし、山麓の森に住むことを許された森辺の民ですら、モルガの山に踏み入るのは禁忌とされていた。

 モルガを荒らせば、その災厄はジェノスを滅亡させる。そのような伝承が、この地には残されていたのである。


 モルガの山には、ギバよりも恐ろしい獣が棲んでいる。ギバはそれらの獣から居場所を追われて、山麓の森にまで追いやられたという話であるのだ。


 そんな森の最果てに追い詰められた上での、この苦境であった。


(ふむ……これはなかなか剣呑な事態だな)


 そのようなことを考えながら、ダン=ルティムは我が身を見下ろした。

 砂場に両足を投げ出した格好で座り込んでいる。その右の足首に大きな違和感があった。

 痛みというよりも、熱を感じる。外見的におかしなところはなかったが、もしかしたら骨が外れているのかもしれなかった。


(処置を間違えると骨を折ったり筋を切ってしまうこともある、と父ラーは言っていたな。そして、正しく骨をはめなおすまでは決して体重をかけてはならじ、と)


 そしてディム=ルティムは、どうやらあばらを何本かやられている。

 あたりにはすでに夕闇が降りかけており、風に冷たさがまじり始めている。

 今すぐに帰り支度をしなければ、日没までに集落へと帰りつくことも難しいだろう。


(もしかしたら、今日この日が森に魂を返す日であったのかもしれんな)


 ダン=ルティムは、ごくあっさりとその考えに行きついていた。

 ギバに襲われたとき、ディム=ルティムの身体を放り捨てて、刀を抜くべきだったのかもしれない。そうした判断をひとつ間違えただけで、狩人はたやすく森へと魂を返すことになるのだ。


(そうだとしたら、ディム=ルティムには本当に悪いことをしてしまった)


 ダン=ルティムは5人もの子をなしており、末妹のモルンを除けば全員がすでに伴侶を娶っている。長兄のガズランも立派な狩人に成長しており、明日からでもルティムを導くことは可能であるはずだった。


 しかし、ディム=ルティムはこれからの人間だ。

 このような場で生命を散らしてしまうのは、さぞかし無念なことだろう。まだ見習いの13歳では、森に朽ちる覚悟なども育っているはずがなかった。


(ならば、この身にかけても守ってやる他ないな。一晩を越せるように火の準備でもしておくか)


 そのように考えて、ダン=ルティムは立ち上がろうとした。

 その者がふわりと姿を現したのは、まさにその瞬間であった。

 腰を浮かせた中途半端な体勢のまま、ダン=ルティムはきょとんと目を丸くしてしまう。


「お前さんは……まさか、あのときのあいつか?」


 ダン=ルティムは、驚きを込めてその者に呼びかける。

 幻影のように出現したその者は、理知的に輝く瞳で静かにダン=ルティムを見つめ返してくるばかりであった。


              ◇


 ダン=ルティムがその者と出会ったのは、今から25年も前――ようやく一人前の狩人と認められた15歳の頃だった。


 そのときは、今以上にひどい有り様であった。今日と同じように森の最果てまで足をのばしたところで飢えたギバの集団に襲われて、やはり断崖から突き落とされてしまったのだ。


 崖下に転落したダン=ルティムは、かろうじて生命を落とすことはなかった。しかし、右の腿をギバの角でえぐられてしまい、びっくりするほど大量の血を失うことになった。


 着ていたものを破って傷口を縛ったが、身体に力を入れることができない。そのときも茂みに覆われた断崖の下であったので、ダン=ルティムはその樹木の1本にもたれかかりながら、眼前に立ちはだかるモルガの威容をぼんやり見つめることになった。


(うむ……今日が森に魂を返す日であったのか)


 そのときもそのように考えていた。

 あたりは、すでに薄暗い。一緒にいた2名の狩人はきっと生命を落としてしまっただろうし、他の場所に散っていた狩人たちにもダン=ルティムを捜索する時間は残されていないはずだった。


 このような身体で、一夜を無事に過ごせるはずがない。

 この血の臭いを嗅ぎつけて、いずれムントやギーズも寄ってくるだろう。それを追い払う力すら、今のダン=ルティムには残されていなかった。


(ああ、せめてルティムに自分の血を残したかった……かえすがえすも、それだけが心残りだなあ)


 ダン=ルティムは、15になると同時に嫁を娶っていた。

 相手は2歳年長の、分家の女衆であった。

 絶対に自分が幸せにするからと2年前から言い続けて、ついに先月、婚儀をあげることがかなったのだ。


 もうあの身体を抱きしめることもできないのか。

 自分が森に朽ちてしまったら、妻は別の男衆と添い遂げることになってしまうのか。

 そのように考えたら、悔しさのあまり涙がにじんできた。

 幸せにするという約定を果たせない、自分の無力さが腹立たしくてしかたがなかった。


 そのとき――何の物音もないままに、静かな気配が右手側に出現した。

 かすむ目でそちらを振り返ると、驚くべき存在がその場には立ちはだかっていた。


「な、何だお前は? いったいどこから現れたのだ?」


 その者は、何も答えず、ただ静かにダン=ルティムを見返してくる。

 それもそのはず、それは純白の毛皮と強靭な四肢を持つ、人間ならぬ野の獣であったのだ。


 ギバではない。ムントでもない。それはダン=ルティムが初めて目にする獣であった。


 体長は、まだ身体の育ちきっていないダン=ルティムとそれほど変わらないぐらいもあっただろう。その逞しくもすらりとした身体には、一面に純白の毛皮が生えている。首が長く、鼻面が突き出ており、大きな三角の耳がぴんと立っている。なんというか、作り物のように美しい立ち姿であった。


 目のふちの皮膚は黒色であり、そこに黄色い瞳が静かに光っている。

 四肢の爪はムントよりも鋭そうだ。

 そして、その肉体からはムントどころかギバをも凌駕する圧倒的なまでの生命力が感じられた。


「まさかお前は、噂に聞くヴァルブの狼なのか? ヴァルブの狼が山麓にまで姿を現すことはないとされているのだが――」


「…………」


「それに、見事な毛並みだな! ヴァルブの狼は灰色の毛皮をしていると聞いていたが、伝承というのはあてにならぬものなのだなあ」


「…………」


 当然のこと、獣は何も答えなかった。

 しかし、その黄色い瞳にはずいぶん理知的な光が灯っていたので、人間の言葉ぐらい理解することはできるんじゃないのかなと思えてならなかった。


 そんなことを考えている内に、獣はじりっとダン=ルティムのほうに近づいてこようとした。

 ダン=ルティムは、慌ててそちらのほうに手の平をかざす。


「待ってくれ! お前さんは、腹が空いているのか? そうだとしても、俺を喰らうのは勘弁してほしいのだが」


「…………」


「生命を惜しんでいるわけではない。しかし、人間の味を覚えたヴァルブの狼は、その後も人間を襲い続けるという伝承が残っているのだ。お前さんがヴァルブの狼だとしたら、俺もお前さんにだけは喰われるわけにはいかん。……俺の死が森辺の同胞たちに災厄を招いてしまうだなんて、そんなのは絶対に耐えられないことだからな!」


「…………」


「俺には狩人としての誇りと鉄の刀がある。傷ついているとはいえ、お前さんにとってもたやすく討ち取れる相手ではないはずだ。それに――なんとなく、俺はお前さんと生命のやり取りをする気持ちになれんのだ」


 ヴァルブの狼は、ほんの少しだけ首を傾けた。

 それはまるで、ダン=ルティムの言葉をいぶかしんでいるかのような仕草であった。


「頼む! 本来お前さんの狩場はこの川の向こう側、モルガの山の奥深くなのだろう? 俺たちだってお前さんたちの狩場は荒らしていないのだから、なんとか俺の願いを聞き入れてはくれぬか?」


 すると――白き狼は、ぷいっとそっぽを向いて、その場から立ち去ってしまった。


 ダン=ルティムは安堵の息をつき、背後の樹木にあらためてぐったりともたれかかる。

 大きな声を出してしまったので、わずかに残されていた体力も相当に削られてしまったようだった。


(なんとも不思議な獣であったな……まるで人間が獣に変じたような、そんな不思議な目つきをしていた)


 だから、ダン=ルティムはあの獣と生命をぶつけ合う気持ちになれなかったのだろうか。

 狩人の刀は、獣を狩るための武器だ。決して人間に向けるべきものではない。あのように人間じみた獣を斬るのは、人間を殺めるのと同じぐらい罪深いことであるように思えた。


 そのとき――右頬のあたりに熱を感じた。

 まぶたを開いたダン=ルティムは、思わず「うわーっ!」と大声をあげてしまう。

 顔のすぐ横に、白き狼の細長い顔があった。


 白き狼は、背後の茂みに回り込んで、そこからダン=ルティムの顔を覗き込んでいたのだ。

 大きな口に何やら朱色がかった果実をくわえながら、黄色く光る目でダン=ルティムを見つめている。


「な、な、何だ? まだ俺に何か用事なのか!?」


 惑乱するダン=ルティムの胸もとに、ぽとんと果実が落とされる。

 ちょっと青臭いが甘い匂いのする、美味そうな果実であった。


「お、俺に食えと言っているのか? しかしな、森辺の民は森の恵みを口にすることを禁じられているのだ」


「…………」


 黄色い瞳が、不思議そうにまばたきをする。

 湿り気のある黒い鼻が頬に触れてしまいそうなほどの至近距離である。


「森辺の民がモルガの恵みを荒らしてしまうと、そのぶんギバが飢えることになる。そうすると、飢えたギバによっていっそうジェノスの田畑が荒らされてしまうため、俺たちはモルガの恵みを口にすることを厳しく禁じられているのだ」


「…………」


 白き狼は、ダン=ルティムの胸に載った果実を再びくわえた。

 白い牙が生えそろった、大きな口である。

 その牙で、白き狼は朱色の果実を噛み砕いた。


「ふむ。お前さんもギバと同じように、肉ばかりでなく果実を喰らうのだな。……いや、せっかくの好意を無にしてしまって申し訳なかった」


 本当に言葉が伝わっているとは信じ難かったが、とりあえずはそのように述べてみせた。

 白き狼は、がさがさと音を鳴らして背後の茂みへと消えていく。


「ああ驚いた。……しかし、野の獣が弱った人間に救いの手を差しのべるだなんて、そんな話が本当にありうるのだろうか?」


 ひとりごちつつ、また木の幹に寄りかかる。

 すると、間を置かずに白き狼が舞い戻ってきた。

 その口にくわえられていたのは――なんと、七色に鱗を光らせる蛇である。

 白き狼のとがった鼻面に余った身体を巻きつかせつつ、シャーッと牙を剥いている。


「……ううむ。南の黒き森に暮らしていた時代は、蛇でも蜥蜴でも喰らっていたらしいがな。しかしこの森辺ではその蛇もまたギバの餌となるので、食することを禁じられているのだ」


「…………」


 幸いなことに、白き狼はその蛇をダン=ルティムの胸もとに落とすことなく、茂みの中へと戻っていった。

 あの狼は、蛇を喰らうのだろうか。まあ今のは毒を持っていない蛇であったので、食べて悪いことはないのであろうが。


(この森に、俺たちが食べていい食糧など存在しないのだ。人間に食べられるものは、たいていギバも食べられるからな)


 例外は、強い香りを持つピコやリーロの香草ぐらいのものである。あとは食用でないラナの葉やグリギの実――それに、熱冷ましのロムの葉ぐらいであろうか。どれも現在のダン=ルティムには無用のものばかりだ。


 そのようなことを考えていると、今度は騒乱の気配が背後から近づいてきた。

 立ち上がる力は残されていなかったので、感覚の鈍ってきた指先で刀の柄をつかむ。


「むう!?」


 白と黒褐色の塊が、眼前の砂場に落ちてきた。

 白き狼と、ギバである。

 しかもこのギバは――さきほどダン=ルティムたちを襲ったうちの1頭だ。同胞が負わせた刀傷が、眉間のあたりにざっくりと残されている。


 体長は狼と同じぐらい、胴体の図太さはその倍ほどもありそうな、大物のギバであった。

 そのギバの咽喉もとに、白き狼は牙を食い込ませている。

 ギバは怒りと苦悶の咆哮をあげていた。


 身体は倍ほども太いのだから、きっと力ではギバのほうがまさっていただろう。

 しかし咽喉もとに噛みつかれていると、ギバの角や牙は白き狼に届かない。死に物狂いで暴れても、白き狼はその動きに合わせて巧みに力を逃がすばかりであった。


 ブギアアァァッ……と物凄い雄叫びをあげて、ギバががくりと崩れ落ちる。

 すかさず白き狼はその顔面を前足でおさえつけつつ、ギバの咽喉もとをばりばりと噛み破った。


 真っ赤な鮮血がほとばしり、ギバはそのまま動かなくなる。

 ギバの返り血で真っ赤に染まりながら、白き狼はダン=ルティムを振り返った。


「見事な手並みだ。聞きしにまさる力だな。いや、感服した」


 腰の刀から手を離し、ダン=ルティムは白き狼に笑いかける。


「そいつはお前さんの獲物だ。思う存分、喰らうがいい」


「…………」


「どうした? お前さんは、ギバを喰らうのだろう? だからこそ、ギバはお前さんたちを恐れて山麓に棲家を移したのだと聞いているぞ?」


 白き狼はまたちょっと首を傾けてから、巨大なギバのほうに向きなおった。

 その牙が、ギバの腹のど真ん中を食い破る。


「ほう。お前さんは、臓物を喰らうのか」


 白き狼は、一心にギバの腹の中身をあさっていた。

 強い血の臭いがダン=ルティムのほうにまで漂ってくる。

 その間に、世界はいよいよ夕闇に包まれつつあった。


(みんなはそろそろ集落に帰りついた頃合いであろうかな……)


 ダン=ルティムは本家の長兄であり、そして本家に他の男子は存在しなかった。

 このままダン=ルティムが森に朽ちれば、いったん妹が家長となって婿を取るか、あるいはもっとも血の近い分家に本家を継がせるしかないだろう。


(妹はレイ家に嫁入りしたいと言っていたのに、悪いことをしてしまった)


 妻も妹も、泣いているだろうか。

 父ラーはどうであろう。人前で涙をこぼしたりはしないだろうが、その悲しみの深さは妻や妹にも負けないはずであった。


 森に朽ちる覚悟は固めつつ、呼吸が止まるその瞬間まですべてをあきらめるつもりはないが――ダン=ルティムの心だって、いずれは悲しみの気持ちに塗り潰されるはずだ。


 覚悟を固めるという行為と、もっと生きたいと願う気持ちは、決して相反するものではないと思う。むしろ、生命を大事にしない狩人は狩人失格だ。もっと生きたいと願いながら、それでも森に朽ちる覚悟を胸に秘めつつ、1頭でも多くのギバを狩る――それが森辺の狩人なのだった。


(だから俺とて、死を恐れたりはしない……だけど俺は、まだ15歳なのだ! 愛する女衆を嫁に娶ったばかりで、いまだ自分の子をなすこともできていないのだ! 森よ……慈悲あらば、この一夜を乗りきれるだけの力をこの身に与えてくれ!)


 そのようなことを考えながら、ダン=ルティムの肉体からはじわじわと力が抜け落ちていってしまっている。

 せめて、ひとたびの食事とひとたびの眠りがあれば、この身に力も戻るものを――と、ダン=ルティムは息をつく。


 そのとき、白き狼がギバのもとを離れた。

 ゆったりとした足取りで、川のほうに歩を進めていく。その姿を、ダン=ルティムはかすむ目で追い続けた。


 いったい何をするのかと思いきや、白き狼はどうどうと流れる川の流れに、その上半身をどぶんと投じてしまう。

 音色からして、川の流れはなかなかの強さであろう。川べりに残った後ろ足が必死に身体を支えているのが、何やら愉快な有り様である。


 そうしてしばらくの時間を過ごした後、白き狼は水面から身体を引き起こし、ぶるぶると首を振って水滴を払った。

 そして、またダン=ルティムのほうに近づいてくる。


「身を清めたのか? つくづく賢いやつなのだな、お前さんは」


 すっかりもとの白さを取り戻した狼は、ぎりぎりダン=ルティムの刀が届かないあたりで足を折り、砂場に身を横たえた。

 その黄色い瞳が、じっとダン=ルティムを見つめてくる。


 ダン=ルティムは、その姿からギバのほうへと視線を転じた。

 巨大なギバが、砂場に倒れ伏している。

 腹の中身は、ほとんど空っぽになるまで喰らい尽くされてしまったようだ。

 だが、それ以外は咽喉もとを噛み破られているばかりである。


「お前さんは、ギバの臓物しか喰らわぬのか? まあ、自分よりも大きなギバをひとりで喰らい尽くせるわけもないが」


「…………」


「まもなく夜になる。そうすればムントやギーズが寄ってきて、朝にはこのギバも骨しか残らぬであろうな」


「…………」


「その前に、この肉を少し分けてもらってもかまわんだろうか?」


 白き狼は、折りたたんだ前足の上に顎をのせて、静かにまぶたを閉ざした。


 その穏やかな顔を見つめつつ、よし――とダン=ルティムは腹をくくる。

 最後まで、生きるということにしがみついてやろう。

 じょじょに力を失っていきながら、ただ漫然と死を迎えるなどというのは、自分の気性にも森辺の狩人の習わしにもそぐわない。


 そうと決めるや、ダン=ルティムは身体をねじって背後の茂みへと頭を突っ込んだ。

 立ち上がる力はないので、そのままずるずると茂みの中へと這いずっていく。


 なるべく水気のない落ち枝を選んで、それを茂みの外へと放り捨てた。

 細い枝しか落ちていないので、足りない分は茂みの枝葉に体重をかけてべきべきとへし折ってみせる。

 それらもすべて茂みの外に投じてから、力を振り絞って砂場に這いずり出た。


 そこら中に散らばっていた枝を一箇所に集め、ふうっと大きく息をつく。

 足の傷は、ずきずきと痛んでいる。

 なんとなく、体温が下がってきているようだ。

 血とともに、身体の熱も外に逃げだしてしまったのだろうか。

 額には、脂汗が浮かんでいた。


(それでも、生きるのだ)


 ダン=ルティムは砂場に爪をたて、今度はギバの亡骸のほうに這っていった。

 小刀を抜き、ギバの後ろ足のつけねにそれを突きたてる。

 なかなか刃が入っていかなかったので、刀の尻を腰にあて、体重をかけてずぶずぶと押し込んだ。


 そうして毛皮と肉を裂き、後ろ足を胴体からもぎ取る。

 ダン=ルティムの足よりも太い、短くも立派な足だった。

 それを胸もとに抱え込み、もとの位置へと帰還する。


 ここからがまた大仕事だった。

 毛皮を剥ぎ取らなくてはならないのだ。

 いっそのこと毛皮ごと焼いてくれようかとも思ったが、川まで這いずる力は残されていない。毒草の上などを歩いたかもしれないギバの毛皮を洗いもせずに口にしてしまうのは、あまりに危険なことのように思えた。


(途中で力尽きてしまうとしても、正しい道を進まねば生きながらえることはできんのだ)


 いよいよかすんでいく目をこすり、指先を傷つけてしまわぬよう気をつけながら、ギバの毛皮に刃を入れていく。

 普段ならば何の苦もない皮剥ぎの仕事が、今のダン=ルティムにはとてつもない負担であった。


 それでも何とか半分ぐらいは剥ぐことができたので、剥き出しになった肉を可能な限り薄く削いでいく。

 これもまた、汚れた指で肉をさわらないように注意を払うのがとても難しかった。


 削いだ肉は、狩人の衣に隠し持っていた鉄串や刀子に刺して、地面に立てておく。

 2本の鉄串と3本の刀子を使いきったところで、ダン=ルティムは小刀を鞘に収めた。


 あとは、火の準備だ。

 また狩人の衣から、火つけのラナの葉を引っ張り出す。


「…………」


「ああ、なかなかの手間であろう? 人間がギバの肉を喰らうには、こういった手順が必要なのだ。俺たちの胃袋は、お前さんほど頑丈にできていないのでな」


 気づくと、前足に顎をのせた体勢のまま、白き狼はダン=ルティムのことを見つめていた。


「これから火を灯すが、大丈夫か? 野の獣というやつは、たいてい火を忌避するはずであるのだが」


「…………」


「まあ、お前さんなら大丈夫か」


 ダン=ルティムは地面に積んだ枝の上にラナの葉を置き、その表面を枝の先端ですばやく擦った。

 瞬時にラナの葉は燃えあがり、下側の枝に火を移していく。

 が、やはり生木もまざっているので、ぶすぶすと景気の悪い音をたてている。


「うむ。これではちと心もとないな」


 ダン=ルティムは狩人の衣と胴衣を脱ぎ捨てた。

 その胴衣を引き裂いて、火の中にくべていく。

 やがて炎は大きくなり、それでようやく太めの生木にも火が移ったようだった。


 それを見届けてから、鉄串や刀子に刺した肉を火のそばに移動させる。

 赤い炎がギバの肉を炙り、たまらない匂いが漂い始めた。

 溶けた脂が火に落ちて、いっそう勢いを強めていく。


 空腹感などまるで感じいなかったのに、突然「ぎゅるり」と腹が鳴った。


「ふむ。ようやく俺の身体も生きたいと願い始めたようだ」


 赤い肉が、褐色に焼けていく。

 その匂いを嗅いでいるだけで、口の中が生唾でいっぱいになってしまった。

 腹のほうは、いよいよ激しくわめきたてている。


「そう急くな。生焼けの肉を喰らって痛い目を見るのは御免であろう?」


 己の胃袋に語りかけつつ、素肌に狩人の衣を纏う。

 夜が近づき、冷えてきている。

 そしてそれ以上に、自分の身体は熱を失ってしまっている。

 これしきの炎ではどうにもならないぐらい、ダン=ルティムの身体は冷たく強張り始めていた。


(それでも、生きるのだ)


 余っていた布地で指先を守りつつ、熱い鉄串を引っつかむ。

 ぽたぽたと脂の落ちるギバの肉を、ダン=ルティムは渾身の力でかじり取った。


 ギバの力が、森の精気が、体内に流れ込んでくる。

 目の覚めるような熱であり、味であった。


「うむ、美味い!」


 ギバの脂は、瑞々しく、甘い。

 肉は固く、乱暴な臭いが鼻に抜けていく。


 しかしこれが、森辺の民の糧であった。

 森のもたらす恵みであった。

 ギバの肉など食えたものではない、と町の人間はそのように抜かしているようだが、美味いものは美味いのだ。


 南の黒き森において、先人たちは蜥蜴や蛇の肉を喰らっていたという。

 それがモルガの森辺に移り住み、ギバの肉を喰らえるようになって、狂喜したのだそうだ。


 それはそうだろう。これほど強靭なギバの肉を、己の内に取り入れることができるのだ。臭かろうが固かろうが、これは力の源である。カロンだのキミュスだの、そんな軟弱な肉を喰らって狩人としての仕事が果たせるとは、少なくともダン=ルティムには考えられなかった。


 最初に切った肉は、瞬く間に胃袋へと消えてしまう。

 火が弱まらぬ内にダン=ルティムはさらに肉を切り、それを3回繰り返したところで、火は尽きた。


 図太いギバの足肉を、けっきょく4分の1ぐらいもたいらげてしまった。

 アリアやポイタンはなかったが、普段以上の量を食べることができたような気がした。


 そして――非常な満足感を得るとともに、ダン=ルティムは猛烈なる眠気に襲われることになった。


「うむ……?」


 身体がぐらりと傾ぎ、地面に手をついてしまう。

 心はとても満足しているのに、肉体のほうが危急を告げていた。

 頭から、すうっと血の気が引いていく。

 視界が、一気に暗くなった。


 十分に食べたのだから、次は十分に眠るべきだ――身体のほうが、そのように命じている気がした。


「いや、わかっている。力を取り戻すには、そうするしかないのだろう。だが、ここは森の真っ只中なのだ」


 森はすでに、夜を迎えようとしているのである。

 しっかりとした火の準備もなく眠りに落ちれば、そのまま息絶えることになる。ムントやギーズはいつでも腹を空かせているし、それに――これはあまり知られていないことだが、極限まで飢えたギバなら、人間をも喰らうことがある。人間が無防備に森の中で眠っていれば、それらのいずれかがダン=ルティムの肉体を夜の糧としてしまうことだろう。


「せめて、どこかの高い木の上に――そうすれば、ギバやムントは近づけなくなる」


 ギーズだけが相手ならば、かじられる部位によって一命をとりとめることもあるだろう。しかし、このような場では、駄目だ。


 ダン=ルティムは地面に手をついたまま、全身を襲う虚脱感に耐えた。

 気を抜けば、一瞬で意識を失ってしまいそうだった。

 世界が、ぐらぐらと揺れている。

 どうどうと流れる川の音がじょじょに遠ざかっていく。

 愛する妻や家族らの顔が無秩序に脳裏を過ぎ去っていった。


(森よ、力を――!)


 決死の思いで、上体を起こす。

 すると――目の前に、白き狼の姿があった。

 その口が、ぞろりと生えた牙を剥き出しにする。


(何だ? まさか、俺を肥え太らせてから喰らうつもりであったのか?)


 その牙が、ダン=ルティムの右肩を噛んだ。

 狩人の衣を通して、その圧倒的なまでの力が伝わってくる。


(おい、やめろ――)


 そのように思ったが、声は出ないし、身体も動かない。

 ダン=ルティムの身体が、軽々と宙に振り上げられた。

 まだ狩人としてはそれほど大きくもないダン=ルティムとはいえ、信じ難いほどの怪力であった。


 そして――

 ダン=ルティムの身体は、何かやわらかいものの上に落ちた。


(うん……?)


 視界が、白く染まっている。

 素肌の胸に、温かい毛皮が触れている。

 どうやらダン=ルティムは、白き狼の背に乗せられているようだった。

 肩に食い込んでいた圧力も、いつの間にか消えている。


「何だ……お前さんは、俺をどうするつもりなのだ……?」


 かすれた声で、ダン=ルティムは問うた。

 とたんに、世界が揺らぎ始めた。

 白き狼が、ダン=ルティムを背に乗せたまま移動を始めたのだ。


 反射的に、ダン=ルティムは白き狼の首を抱きすくめてしまう。

 白き狼は一瞬非難がましくうなり声をあげたが、歩を止めようとはしなかった。

 地面にこぼれたダン=ルティムの足先が、ずるずると砂を掻いている。


(お前はいったい何なのだ……?)


 ふいに、白き狼が跳躍した。

 ダン=ルティムは、死に物狂いでその身体にしがみつく。

 ばさばさと茂みをかきわける音色が聞こえた。

 枝葉が背中や手足をかすめていく。


 そうして気がつくと、ダン=ルティムは静寂に包まれていた。

 時間の感覚が消えている。もしかしたら、いくらか意識を失ってしまっていたのかもしれない。

 しかしダン=ルティムは、まだしっかりと白き狼の首を抱きすくめていた。

 冷えきった身体に、狼の温もりが伝わってきている。


「ここは……?」


 ダン=ルティムは顔を上げて周囲を見回した。

 暗緑色の葉が視界をふさぎ、その隙間から藍色に染まった空が見えた。


 そこは、木の上だった。

 とてつもなく巨大な樹木の、幹と枝の狭間であった。

 枝といっても、その太さはダン=ルティムの胴体より太い。幹などは、10人の人間が手を繋いでようやく囲めるぐらいの太さがありそうだった。


「何だここは……お前はどうやってこんな場所にまで登ってみせたのだ?」


 問うたが、もちろん返事はなかった。

 ただ、うるさそうに首を振っている。


 白き狼はダン=ルティムを背に乗せたまま、木の上でゆったりと身を横たえていた。

 幹から太い枝が生えのびている、そのつけねが平たいくぼみのような形状になっていて、下に落ちる恐れはないようだった。

 ダン=ルティムも、半ば滑り落ちるようにしてそのくぼみの上に下りる。


 枝葉が邪魔ではっきりとはわからなかったが、相当に高い木の上であるようだった。

 ここならば、ギバやムントに襲われることもないだろう。


「呆れたな……お前はいつもこうやって眠りに落ちているのか?」


 大樹の幹に背を預けながら、ダン=ルティムは問いかける。

 白き狼は、答えない。


「いやしかし、お前の本来の棲家はモルガの山の奥深くであるはずだな。山中には、マダラマの大蛇や野人といった獣が潜んでいるのだろう? そういったものたちなら、木の上にでも這いあがってきそうだが。……と、いうよりも、むしろ相手のほうがヴァルブの狼を恐れて木の上に逃げたりしそうだな」


「…………」


「モルガの三すくみという言葉を知っているか? ヴァルブの狼は野人よりも強い、野人はマダラマの大蛇より強い、マダラマの大蛇はヴァルブの狼より強い、これぞモルガの三すくみ、というそうだが……お前さんだったら、野人にもマダラマの大蛇にも遅れを取ることはなさそうだな」


「…………」


「うむ。少しでも休んで力を取り戻すべきなのだろうな。しかし、血を失ってしまったせいか、凍えるように寒いのだ。……重ね重ね申し訳ないが、今少しお前さんの温もりを分けていただいてもかまわないだろうか?」


 言いながら、ダン=ルティムは白き狼のほうに這いずっていった。

 白き狼は、それを忌避しようとはしなかった。

 ダン=ルティムは、その白い毛皮に身体を寄せる。

 まるで母親に抱かれているような安心感がダン=ルティムの心を満たした。


「む……これは何だ?」


 再び猛烈な眠気に襲われながら、ダン=ルティムは白き狼の咽喉もとをまさぐる。

 ひとかかえもあるその太い首には、複雑に編み込まれた蔓草が巻かれていた。

 毛皮にうずもれていたのでまったく気がつかなかったが、ところどころに木の実や綺麗な石までもが編みこまれた立派な首飾りである。


「ふむ……だからお前さんは、無用に火や刀を恐れたりもしない、ということなのであろうかな……?」


 言いながら、とろとろと睡魔に飲み込まれていく。

 そうしてその数奇なる1日は、ようやく終わりを迎えることになったのだった。


              ◇


「あれから25年もの歳月が過ぎ去っているのだ。ヴァルブの狼とは、そこまで寿命の長い種族なのであろうかな?」


 その白き雄渾なる姿を見つめ返しながら、ダン=ルティムは問うた。


「以前に出会ったときよりも、お前さんは少し小さく見える。ならば、あの白き狼ではなくその子か何かと考えるのが自然なのであろうが……しかし、俺のほうが大きくなっているので小さく見えるだけなのかもしれん。なんとも判じ難いところではあるな」


「…………」


「だが、ひとつだけわかることがある。お前さんのその瞳は、25年前に見た者と同じ光を浮かべている、ということだ。だからきっと、お前さんはあのときの白き狼そのものであるか、あるいはその子か何かなのであろう。まったく異なる血筋であるということはないはずだ」


「…………」


「ならば一言、言わせてもらいたい」


 そう言って、ダン=ルティムは深々と頭を下げてみせた。


「あのときの俺は、白き狼の慈悲によって生きながらえることができた。かの者の助力なくして、今の俺はなかっただろう。その点について、俺は深く、深く感謝している」


「…………」


「翌朝、目を覚ますとお前さん――か、お前さんの親か何かは幻のように姿を消してしまっていたからな。俺はけっきょく礼を言うこともできなかったのだ。あの日の無念を晴らすことができて、俺はとても嬉しく思っているぞ?」


 ダン=ルティムは、にっこり笑いかけてみせた。

 白き狼は、静かに黄色い瞳を瞬かせている。


「あの後は、痛む足を引きずりながらも何とか集落に帰りつくことができてな。妻や妹などは大泣きしてしまって、それはもう大変な騒ぎであったのだ! お前さんのことを話してもあんまり信じてくれる者はいなかったが、しかし、お前さんは生命の恩人だ。重ねて礼の言葉を述べさせていただきたい」


「…………」


「お前さんのおかげで、俺は満ち足りた生を生きることができた。残念ながら、妻は早くに亡くしてしまうことになったが、それでも5人もの子をなすことができたのだ! 本当に――本当に、幸福な生であったよ」


「…………」


 白き狼は、けげんそうに首を傾げる。

 そのとき、かたわらのディム=ルティムが弱々しく声をあげた。


「家長……ダン=ルティム……いったい誰と言葉を交わしているのですか……?」


 ダン=ルティムは、その青ざめた顔と白き狼の姿を見比べた。

 それから、ゆっくりとうなずいてみせる。


「そうだな。今のはまるで生きることをあきらめたような言い草であった。もちろん満ち足りた生を生きたからといって、すべてに満足してしまっているわけではない。俺はもっともっと満ち足りて、この身体が弾け散るほどの満足感を得たいのだ! ……だから、何としてでもこの苦境を乗り越えてみせよう」


「…………」


「火の準備などは不要であったな。お前さんのおかげで、俺も正しい道を思い出すことができたぞ。こういう際は、高い木の上で一夜を明かすべきであるのだ」


 そのように語りながら、ダン=ルティムは狩人の衣の内側をまさぐった。

 そうして、ゴヌモキの葉に包まれた干し肉の塊を差し出してみせる。


「あの日以来、俺は干し肉を余分に持ち歩いているのだ! だから後は、安全な寝床さえ確保すれば生きながらえることができる! しかも今回は足の骨が外れただけだから、眠らずに済ますことだってわけはない。夜が明けたら、ギバどもが眠りこけているうちに集落へと帰ればよいのだ」


「…………」


「だから俺が、この傷ついた同胞を一晩守り通してみせよう。……あの夜に、お前さんがそうしてくれたようにな」


 ダン=ルティムは、ゴヌモキの包みをほどいて、その中身を白き狼のほうに放り投げた。


「食ってくれ。干し肉はまだまだ余分があるので遠慮は不要だ。ちいとばっかり塩気がきついので口に合うかはわからんが、あの夜のせめてもの礼の気持ちだ」


「…………」


 白き狼は、しばらくダン=ルティムの顔を見つめてから、足もとの干し肉をひょいっとくわえた。

 ダン=ルティムは満足し、ディム=ルティムの顔を見下ろした。


「ディム=ルティムよ、この身体で日が沈むまでに集落へと戻るのは難しいので、一夜を森で過ごそうと思う。俺を信じて、その生命を預けるか?」


「はい……あなたを信じます、ダン=ルティム……」


「よし」


 ダン=ルティムは可能な限りゆっくりと少年の身体を抱きかかえた。

 苦痛のうめき声をこらえつつ、ディム=ルティムはダン=ルティムの首にすがりついてくる。


「しっかりつかまっているのだぞ。まずは崖の上に這い上がるからな」


「はい……」


 片腕で少年の身体を支えつつ、ゆっくりと身を起こす。

 ずきりと、右の足首が熱くうずいた。

 しかし、25年前のことを思えば、どうということもない。


「それでは、息災にな。またどこかで会える日を楽しみにしているぞ、白き狼よ」


 白き狼は、やはり理知的に黄色い瞳を光らせるばかりであった。

 そちらに笑いかけてから、ダン=ルティムは頭上を振り仰ぐ。


 眼前には高い断崖がそびえたち、周囲には闇のとばりが降り始めていたが、ダン=ルティムの心に不安はなかった。


 生きて、同胞のもとに帰るのだ。

 すべては森が導いてくれよう。


 白き狼に見守られながら、ダン=ルティムは満ち足りた生に向かって最初の一歩を踏み出した。

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