没落の系譜(五)
2015.10/20 更新分1/1
・今回の更新はここまでです。
・ずいぶん番外編が長くなってしまいましたが、次回の更新で第30章は終了となります。今少しおつきあいいただければ幸いであります。
「我らの力を、不遜なる痴れ者どもに思い知らせてやるのだ……」
森の陰に潜みながら、ザッツ=スンはそのようにつぶやいていた。
ドムの集落を逃げ出した、その翌々日のことである。
ディガとドッドは、ザッツ=スンのもとから逃げ去っていた。
この場にいるのは、ザッツ=スンとテイ=スンのみだ。
もうしばらくしたら、目の前の獣道に商団が通りかかる。それを合図に森の奥へと引き返し、ギバ寄せの実でギバを招き寄せる。そうして10年前と同じように商団の荷を強奪する計略であった。
今さらこのような真似をして何になるのかはわからない。
きっとザッツ=スンは、病魔によってすでに正気を失ってしまっているのだろう。
その肉体も、本来であればとっくに死を迎えているはずである。
しかし――ザッツ=スンは、ザッツ=スンとしての力を留めていた。
その眼光と声音には、壮健であった時代と何も変わらぬ力が満ちている。
痛みと疲労を消す黒い《禁忌の葉》をかじりながら、ザッツ=スンは悪鬼のごとく笑っていた。
「悪逆なるルウ家め……尊大なる貴族どもめ……貴様らは、このザッツ=スンの足もとにひれ伏すのだ……」
ザッツ=スンとテイ=スンは、今日この森で朽ちるのだろう。
テイ=スンは、それを確信していた。
青の月の15日、モルガの森を通ってシムに向かう商団があるので、10年前と同じようにその案内役を頼みたい――スン家にそのような言葉を届けてきたカミュア=ヨシュという男は、町の人間であるにも拘わらず、森辺の狩人にも劣らない力の気配を漂わせた男であった。
そしてこの話は、トゥラン伯爵を通さずに、ジェノス侯爵の名で依頼されている。
おそらくは、今度こそスン家の罪を暴くための策謀であったのだろう。
商団には、手練れの猛者どもが同行しているに違いない。
病身のザッツ=スンと年老いたテイ=スンのみでは、いかにギバ寄せの実を使おうとも、返り討ちにされるだけのはずだった。
(……すべては森の定めし運命だ)
テイ=スンはそのように思っていた。
十数年ぶりにギバを狩った昂揚や、ドムの家で見た甘い夢など、残らずその胸中からは去っていた。
ザッツ=スンとテイ=スンは、今日この場で町の人間たちに生命を絶たれるのだ。
これがザッツ=スンとテイ=スンの運命なのだった。
「来たぞ……」
ザッツ=スンが、熱く爛れたような声音で囁く。
樹木の向こうに、大勢の人間たちの歩く姿が垣間見えた。
10年前と同程度、30名ばかりの商団だ。
何台もの荷車を、何頭ものトトスに引かせている。
それに、数名ばかりの森辺の民も同行しているようだった。
「ふん……森辺の背信者どもめがともにあるならば、念入りにギバを集めてやらねばな……仕損じるのではないぞ、テイ=スンよ……?」
「はい」
「スン家に力を取り戻すのだ……森辺に君臨するのは、我の血族でなければならぬのだ……」
「はい」
それが正しき道ならば、森があの者たちではなくザッツ=スンを選ぶだろう。
そのようなことを考えるでもなしに考えながら、テイ=スンは右手に携えたギバ寄せの実に小刀の柄を振り下ろした。
◇
甘い香りが、テイ=スンの五体を包み込んでいる。
そのむせかえるほどに強烈な香りとともに、テイ=スンは森を駆けていた。
背後には、絶望の足音が轟いている。
折りよく、このあたりのギバはみな飢えていた。
樹木の間を駆け回り、時には高い枝から枝へと身を移していくと、狂乱したギバが次々と集まってきた。
その数は、10頭近くにも及んだだろう。
これだけの数のギバに襲われては、あのカミュア=ヨシュたちも危ういかもしれない。
が、テイ=スンらのもたらす運命にあの者たちが飲み込まれてしまうなら、それも森の導きだ。
ギバたちに追いつかれぬよう道を選んで走りながら、テイ=スンはそのように考える。
真っ直ぐに走れば人間よりも速く駆けることのできるギバであるが、左右上下に揺さぶってやれば、そうそう追いつかれることもない。
追いつかれたところで自分の生命が散るだけのことなので、テイ=スンは無心に駆けることができた。
そうして眼前にようやく峡谷の岩場が見えてきたところで、テイ=スンは高い木の上によじ登った。
目標を失ったギバたちが、雷鳴のような声で吠えている。
胸が、焼けるように熱い。
存外に、体力を使い切ってしまったようだ。
テイ=スンも、この年で51歳なのである。
(来たか……)
岩場に、商団が現れた。
そうと思った瞬間、別の木の上からギバ寄せの実が投じられた。
どうやらザッツ=スンも首尾よくここまで逃げきれてこれたらしい。
テイ=スンはなるべく殻が粉々になってしまわぬよう気をつけながらギバ寄せの実を割り、同じように眼下の者たちへとそれを投げつけた。
ギバの咆哮が、森に轟く。
散開しかけていたギバたちは、破滅の使者と化して商団の者たちへと躍りかかっていった。
まずは案内役の狩人たちが、地に倒れていく。
見通しのいい岩場で複数のギバに突進されれば、抗いようもない。何頭かのギバを道連れにしつつ、狩人たちは次々と倒れ伏していった。
しかし。
その間に、商団の人間たちは奇妙な動きを見せていた。
荷台に繋がれていたトトスの手綱を断ち切って、解放し始めたのだ。
トトスたちは、その半数以上がギバよりも速く駆けて逃げ散っていった。
そして、残された男たちは荷車の上に這い上がる。
何人かの男たちが間に合わずにギバの角で突かれたが、そのほとんどは屋根の上に逃げのびたようだった。
その荷車に体当たりをかまそうとするギバたちに、矢が射かけられる。
その男たちは、全員が外套の下に弓と矢を隠し持っていたのだ。
中には、荷車の中から引っ張り出した長槍でギバを突く者もいた。
荷車が横転してしまったら、素早く地面に降り立って刀を振りかざす。そうしてギバがひるんだ隙に、今度は横倒しになった荷車の上に乗る。
ギバは、自分の頭より高い位置に飛び上がることができない。
どんなに怪力で、俊敏であっても、骨の仕組みがそのようにできあがっているようなのだ。
男たちは、そういったギバの習性を知りつくしていた。
その上で、十数頭にも及ぶギバたちと果敢に戦っていた。
これでは、少なくとも彼らが全滅することはないだろう。
「おのれ……小癪な都の住人どもめッ!」
怒号をあげながら、ザッツ=スンが岩場に降り立った。
それでテイ=スンも、ザッツ=スンの後を追った。
きっとあの男たちを荷車の上から引きずり下ろすつもりなのだろう。狩人でないあの男たちに、平地でギバを退ける力量までは備わっていないはずだ。
しかし、その場にはあの男もいた。
金褐色の髪を持つ長身の男、カミュア=ヨシュだ。
あの男は、森辺の狩人にも劣らない力を持っている。
ギバの背後から荷車に肉迫するザッツ=スンに気づいてか、カミュ=ヨシュが岩場に降りた。
たちまちギバが襲いかかるが、それはひらりと回避してしまう。
そうしてザッツ=スンが革鞘に収められたままの長剣で打ちすえられ、地に沈む姿を、テイ=スンは走りながら確認した。
カミュア=ヨシュには、テイ=スンもかなわない。
ザッツ=スンの運命は森に託し、テイ=スンは別の荷車に飛び上がった。
3名の男たちが、相対してくる。
その内の2名を、テイ=スンは荷車の下に叩き落とした。
そして、最後のひとり、灰色の布を顔に巻きつけた奇妙な男が、長槍を捨てて腰に手をのばす。
灰色の、月光のように冷たい双眸をした男であった。
男は2本の刀を携えており、それを左右の手にそれぞれかざした。
「お前もスン家の人間か、老人よ」
男が、冷たい声音で問うてくる。
「投降しろ。お前の罪は、ジェノスの法が裁く」
そんなもので、裁かれてたまるか。
テイ=スンを裁くのは、森だ。
テイ=スンは、ドム家から奪ってきた刀を振りかざした。
その斬撃が、右の刀によって弾き返され――そして、左の刀がテイ=スンの胴体をななめに叩き斬った。
火のような熱さが、胸と腹に爆発する。
テイ=スンは、斬りかかった勢いのままに、男の肩口へとつかみかかった。
背後は、断崖だ。
落ちれば、まず助からない。
死にたくなければ、テイ=スンを殺すしかあるまい。
「放せ」
それでも男は冷静に言い、テイ=スンの胸もとを拳で突いてきた。
まるで、10年前のあの男に、テイ=スンがそうしたときのように。
あの男は、テイ=スンの首飾りとともに落ちていった。
テイ=スンは、指先にからんだ男の外套とともに落ちることになった。
あの男は憎悪に狂った目をしていたが、自分はどのような目で男の姿を見ているのだろう。
やはり、硝子玉のような目をしているのだろうか。
冷たい灰色の瞳に見つめられながら、テイ=スンは断崖の下に墜落した。
途中で岩から生えていた木に背中を打たれ、また落ちる。
断崖の壁に肩が当たり、それから後はごろごろと転がるようにして落ち、最後に全身を叩きつけられた。
視界に暗黒と真紅が入り乱れる。
激痛というよりも、全身が火に包まれているように熱かった。
自分が呼吸をしているのかもわからない。
頭の中を、さまざまな想念が駆けていく。
これが死か。
暗黒の向こうで、妻が悲しげに微笑んでいた。
オウラは、硝子玉のような目をしていた。
ツヴァイは、不機嫌そうに口をへの字にしていた。
幼かった頃のディガとドッドが泣いている。まん丸のミダが、一心不乱にモルガの恵みを貪っている。ヤミルは、冷たく笑っている。ズーロ=スンは、ザッツ=スンの影におびえながらも、ふんぞり返っている。
それらの姿が幼くなったり年をとったりめまぐるしく変化しながら、口々にテイ=スンへと語りかけてきた。
(あなたは自分の信じた道をお進みください)
(母さん、早くよくなるといいね)
(俺は父ザッツのように果敢にはふるまえない……どうせ俺は、生まれぞこないなんだ)
(テイ=スン! ミギィ=スンを何とかしてよ!)
(このままじゃあ、俺たちあいつになぶり殺されちゃうよ……)
(テイ=スン……何か悲しいことでもあったのかな……?)
(テイ爺は、どうせ先代家長の言いなりなんでしょ?)
さまざまな光景、さまざまな言葉が頭の中を通りすぎていく。
その中で、冷たく冴えわたった女の声がテイ=スンの魂を鋭く刺した。
(ザッツ=スンがわたしにスン家の運命を負わせようというのなら、わたしはわたしのやり方でスン家を導いてみせるわ)
その瞳には、一種楽しげにも見える光が宿っていた。
しかし、楽しかったはずがない。
あの娘は、あんなに幼かった頃からスン家の運命を負わされていたのだ。
テイ=スンには、その苦しみを察することができなかった。
どうしてこの娘はこんな人間に育ってしまったのだろうと、いぶかしく思っていたぐらいであったのだ。
(だから俺を殺したのか?)
復讐に燃える双眸が、テイ=スンの魂を焦がす。
(お前にそんな資格があったのか? すべてを森に託すなどと述べながら、お前はスン家の未来を暗黒に閉ざしたのだ!)
そうなのか。
スン家を滅ぼしたのは、やはりテイ=スンであったのか。
あのままヤミルがミギィ=スンを娶り、ふたりでともにスン家の運命を負っていたなら――スン家は滅ばずに済んだのだろうか?
硝子玉のように感情をなくしたオウラの瞳にも、再び明るい光が宿ったのだろうか?
ディガもドッドも、狩人としての誇りを手にすることができたのだろうか?
ミダもツヴァイも、もっと人間らしい人間に育つことができたのだろうか?
森辺の民は、光に満ちた生を手に入れることができたのだろうか?
わからない。
テイ=スンなどに、そのようなことがわかるわけもなかった。
裁くのは――森なのだ。
「う……」
そしてテイ=スンは、覚醒した。
生々しいまでの悪夢が去ると、今度は悪夢のような現実が待ちかまえていた。
(わたしは……まだ生きているのか?)
身体のどこにも力が入らない。
ただ火のような熱が全身に満ちていた。
しびれきった指先に、だんだん感覚が蘇ってくる。
テイ=スンは、片手に刀を、もう片手に革の外套を握りしめているようだった。
どくどくと、岩清水のように鮮血が流れていく。
首をねじると、真っ赤に染まった自分の胴体が見えた。
あばら骨が見えかねないほどの、深い傷であった。
しかし――それでもテイ=スンは生きていた。
(森はまだ……わたしの魂を召そうとはしないのか……?)
世界はすでに、薄闇に包まれ始めていた。
夜が、近づいているのだ。
どうやらずいぶん長い時間を悪夢の中で過ごしていたらしい。
ならば――このまま横たわっているだけで、ムントが決着をつけてくれるだろう。
そのように考えて、まぶたを閉ざそうとしたとき、魂の裏側に何者かの視線を感じた。
それは悲しげな妻の目であったか、硝子玉のようなオウラの目であったか、不機嫌そうなツヴァイの目であったか――あるいは、ようやく人間らしい光を取り戻したヤミルの目であったか――
何にせよ、テイ=スンは泥のように重い身体を地面から引きはがすことになった。
(違う……それではいけないのだ)
何が森に運命を託すだ。
そのような言葉は、最後まで懸命に生きた者だけに許される言葉なのだ。
テイ=スンは、何にも懸命になっていない。
かつては家族と自分のために、どのような無念でも抱え込んで生きていくのだと力を振り絞っていたが、今のテイ=スンは何もかもを運命におしつけて、放埒に生きながらえているだけの存在だった。
(裁くのは、森だ……運命を定めるのは、森だ……だからこそ、我々は己の生きるべき道を懸命に歩まなくてはならないのだ……そうでなくては、森に生きる資格はないのだ)
テイ=スンは、自分の血にまみれた懐をまさぐった。
ザッツ=スンから預かっていた《禁忌の葉》をかじり、立ち上がる。
(ふん……まったく痛みなど消えはしないではないか)
それでもテイ=スンは、立ち上がることができた。
刀を腰の鞘に収め、男から奪った革の外套を肩に掛ける。
(まずはこの傷をふさぐのだ。そして……)
そして、己の運命を見出そう。
テイ=スンは、いよいよ暗く垂れこめていく世界に、血まみれの足を踏み出した。
◇
テイ=スンは、己の運命をファの家のアスタに求めた。
迷ったが、あの不思議な異国生まれの若者こそが、己の運命を見出す相手に相応しい気がしてならなかったのだ。
ザッツ=スンの理想を打ち砕いたのは、あの若者である。
それはルウの家長ドンダ=ルウとファの家長アイ=ファの力あってのものであったのだろうが、中核をなすのはあのアスタである。最初はドンダ=ルウがアスタの存在を刀としてスン家を滅ぼしたように思えたが、真実はその逆であるように思えてきてしまったのだった。
ザッツ=スンは、本当に間違えていたのか。
スン家を滅ぼしたファの家とルウの家は、正しく森辺の行く末を担うことが可能であるのか。
それを見定めるために、テイ=スンは宿場町に下りた。
「これであなたの料理を食べさせていただけるのでしょうか?」
刀を捨てると、アスタは料理を差し出してくれた。
臭みのないギバ肉と丸く焼かれたポイタンで作られた、不思議な料理だ。
口にすると、えもいわれぬ感覚が口の中に広がった。
家長会議で味わった料理とも比べ物にならぬほどの、それは美味なる料理であった。
(これならば、確かにジェノスの者たちの気持ちすら動かすことは可能であるのかもしれん)
テイ=スンは、満足した。
だから、最後の仕事を果たすことにした。
スン家の最後の生き残りとして、この魂を捧げるのだ。
テイ=スンは地を蹴り、アスタにつかみかかった。
その際に、周囲を囲んでいた狩人たちに背中と右肩をえぐられたが、どうということはなかった。
きっとテイ=スンの肉体は、ザッツ=スンと同じように、すでに生きる力を失っているのだ。死んだ肉体に真の死をもたらすには、もっともっと決定的な破壊が必要となるのだろう。
鉄鍋を使ってルウの末弟の斬撃をふせぎ、アスタの咽喉もとを左手で締めあげる。
そしてテイ=スンは、笑ってみせた。
「許されざる裏切り者どもめ! スン家を滅ぼした貴様たちに、最後の報いを与えてやる!」
こうして自分が悪逆なる大罪人として森辺の民に処断されれば、宿場町の人間たちが抱いていた怨嗟も少しは解消されるだろう。
テイ=スンたちがジェノスに与えた恐怖と憎悪の念は、森辺の民の手によって晴らされなくてはならないのだ。
ファの家の女狩人と、ルウの眷族たちがテイ=スンとアスタを取り囲む。
この勇猛なる狩人たちならば、自分を討ち損じることもないだろう。
しかし――
「森辺の掟も、都の法も関係ない! 偉大なるザッツ=スンは、それらに代わる新たな掟と秩序を我々にもたらそうとしていたのだ! 大志を理解できぬ愚者どもめ! 都の人間にかしずくことしかできなかった惰弱の徒め! 貴様たちは、都の人間どもを屈服させる唯一の手段を失ってしまったのだ!」
「そんな御託はもう聞き飽きてんだよ! 何が新しい法と秩序だ! てめーらはただの盗人じゃねえか!」
「我々は、不当に奪われた富を取り戻しただけだ! 生命をかけてジェノスの田畑を守った、その報酬を手にしただけだ! 恥ずべきは、我々を森辺に閉じ込めて甘い汁をすすりたいだけすすっていたジェノスの民どもだ!」
叫んでいる内に、何か奇妙な感覚がテイ=スンの心に宿りつつあった。
悪逆なる大罪人として、ぶざまに死に果てる。そのような思いで、テイ=スンは自分たちの罪を告白しているつもりであったのだが――そんな自分の思いをはるかに凌駕する勢いで、次から次へと新たな言葉が自分の口からほとばしっていたのだ。
「ジェノスから与えられた不当な掟を、我々は80年間も守らされてきた! この80年間で、何人の人間が飢えて死んだと思っているのだ!? それでも我々は森の恵みを食することさえ許されず、ただ愚直にギバを狩り続けてきた! そうして、生まれたばかりの幼子も、苦難の生を耐え続けた老人も、ギバとの戦いで傷ついた狩人も――誰が見張っているわけでもないのに森から恵みを得ようともせず、愚直に掟を守りながら、飢えて死んでいったのだ! ジェノスに殺されたのだ! このような運命が正しいなどと、わたしは決して認めない!」
「俺だって、それが正しいとは思っていません! だから、森辺に恵みをもたらすために、このような商売を始めたんです!」
アスタも必死に叫んでいる。
気づくと、テイ=スンは哄笑していた。
まるで――かつてのザッツ=スンやミギィ=スンのように。
「愚かな行為だ! なぜ目の前に果実があふれかえっているというのに、そのように迂遠な真似をせねばならないのだ!? 森の恵みを食することさえできれば、いずれは銅貨さえも必要なくなるのだ! それこそが森を神とする正しき民の生であろう!」
「だけどそれでは、西の田畑がギバに荒らされてしまうじゃないですか! 森辺の民だって西の王国の一員なのですから、おたがいに支え合いながら生きていくのが正しいはずです!」
「ならばこそ、我々にはさらなる力が必要であったのだ! 飢えて死ぬ人間がいなくなれば、森辺の民はさらなる力を得る! それで500名の民が1000名に増えれば、これまで以上にギバを狩ることも可能になり、我々が森の恵みをいくら収穫しようとも、ギバが西の田畑を襲うこともなくなっていたはずだ!」
ザッツ=スンが、自分に取り憑いてしまったのだろうか。
無念の内に死んでいったザッツ=スンが、テイ=スンの口を借りて思いのたけを爆発させているのだろうか。
いや――
それは確かに、テイ=スンの胸にも渦巻いていた無念であり、言葉でもあった。
ザッツ=スンは確かに無慈悲な人間であったが、その根底にあるのは森辺の民としての誇りであった。
それを受け止めきれなかったのは、テイ=スンが弱い人間であったからだ。ザッツ=スンほど強靭な魂を持ち得なかったからだ。森辺の民の行く末よりも、自分と家族の安寧ばかりを重んじてしまうような、そんな人間であったからだ。
ザッツ=スンのすべてが正しかったわけではない。
しかし、すべてが間違っていたとも思わない。
テイ=スンたちが罪を犯す前からジェノスの人間たちは森辺の民を蔑んでいたし、ルウの一族は反抗心を燃やしていた。
テイ=スンとて、それに怒りを感じていないわけではなかったのだ。
それを飲み込んでしまっていたのは、テイ=スンが弱い人間であったからに過ぎない。
どうして自分たちがジェノスの民たちに蔑まれなくてはならないのか?
自分たちは、生命を賭してジェノスの田畑を守っているのだ。
どうして自分たちがルウ家の者たちに楯突かれなければならないのか?
ジェノスの貴族たちが、森辺の民をどれほど蔑んでいるか。どれほど侮っているか。そんな怒りとも無縁で乙女のように清らかな生を歩んでいるルウ家の者たちに、屈辱の泥水を飲まされている自分たちが、何故?
「20年の昔から、貴様たちはスン家に牙を剥いてきた。スン家はまず、貴様たちを上回る力を得る必要があったのだ! そうでなくては、ルウ家を怖れる氏族の者どもはスン家の言葉に耳を傾けようとはしなかっただろう。だから我々は、民と富を守りながら、静かに力を蓄え続けたのだ!」
そうだったのか――と、叫びながら思う。
これはザッツ=スンの言葉であり、また、テイ=スン自身の言葉でもあったのだ。
ただひとつ、テイ=スンには許せない存在があった。
それが、ミギィ=スンだ。
ムファの女衆を死に至らしめ、ディガやドッドの魂をねじ曲げ、オウラを侮辱し、ヤミルに毒牙をのばそうとした――あの男だけは、どうしても許すことができない。あのような無法者に跡目を継がせよう、などとザッツ=スンが考えていなければ、何もかもが違う方向に進んでいたはずだった。
(しかし、ザッツ=スンはジェノスの貴族とルウの一族を恐れていた。今ならわかる。ザッツ=スンは、自分の力でどうすることもできない貴族とルウ家に、恐怖していたのだ)
その恐怖が、ザッツ=スンを狂わせた。
ほんの少し――ほんの少しのさじ加減であったのだ。
そして、ザッツ=スンを狂わせたのは自分たちだ。
ミギィ=スンが罪を犯したあの夜に、自分たちが正しく弾劾できていれば――森辺の掟を踏みにじろうというザッツ=スンを、自分たちが正しく説得できていれば――そして、孤独な王者であったザッツ=スンに安らぎを与えられるような、自分たちがそんな存在であったなら、このような結果にはなっていなかったに違いない。
けっきょく自分たちは、ザッツ=スンにすべてを押し付けていただけであったのだ。
ザッツ=スンがあまりに強靭であるがゆえに、自分たちの助力など必要ない、と――そんな風に考えて、手を差しのばすことさえしなかったのだ。
ザッツ=スンは、自分だけの誇りを重んじているように思えた。
そうさせてしまったのは、自分たちだ。
だからザッツ=スンは、己の考えこそが唯一絶対の正しい道であると、そのように考える人間になってしまったのだ。
ルウ家の家長ドンダ=ルウだって、現在はザッツ=スンに劣らぬ支配力を身につけている。ルティムやレイといった眷族の長たちは、そんなドンダ=ルウを誇りに思い、手をたずさえあってともに生きていこうとしているように思える。
自分たちが、そんな風にザッツ=スンの手を取ることができていたなら――きっとザッツ=スンは、その強大なる力でもって、自分たちを正しい方向に導いてくれたのだろう。
「ふざけんな! あいつはあれだけ斬り刻まれながら、平気な顔をして笑ってやがるんだぞ? 首を刎ねられながらアスタの咽喉を握り潰しちまったらどうする気だ!」
気づくと、ルウ家の末弟が自分でない誰かを怒鳴りつけていた。
白い甲冑に身を包んだ、城下町の兵士だ。
その冷たい灰色の瞳に、テイ=スンははっきりと見覚えがあった。
なるほど、あの商団はやはりジェノスの仕掛けた罠だったのである。
「いいぞ! 殺し合え! それこそが貴様たちに相応しい姿だ! 森辺の民とジェノスの民は、どちらかが滅ぶまで憎み合う運命なのだ!」
衝動のおもむくままに、テイ=スンはそのように叫んでいた。
これでいいのだ。
悪逆な大罪人を演じて、自ら滅ぼされようなどという、そんな茶番は必要なかったのだ。
自分はスン家の最後の生き残りとしてある。
自分は最後まで、ザッツ=スンの執念とともにあるべきなのだ。
そんなテイ=スンを、自分たちの力で討ち倒すことができないのならば、森辺の民に明るい未来などは訪れない。
自分を滅ぼしてみろ。
自らの力で未来を切り開いてみせろ。
そのような思いで、テイ=スンはアスタの首をねじりあげた。
すると――
ファの家の女狩人、アイ=ファがテイ=スンの前に静かに立った。
「そんなにアスタが憎いのか? アスタは、森辺に豊かさをもたらそうとしているだけだ。森辺の民が飢えて死ぬことのないような、そんな豊かさを求めて尽力しているだけだ。スン家が同じ大志を抱いていたというのなら、それを引き継ぐのがアスタであり、ファの家であり、ルウの家である、という風には考えられぬのか?」
「貴様たちは、ジェノスに尻尾を振っているだけだ! いかに豊かさを得ようとも、そのような行為で誇りは取り戻せん!」
「そんなことはありません! 俺は――俺たちは、ジェノスに媚びへつらうわけではなく、ともに生きたいと願っただけです! 法や掟を踏みにじるのではなく、同じ法と掟のもとに生きる同胞としての縁を結びなおしたかっただけです!」
そんなことは、わかりきっている。
しかし、理想を語るだけでは未来は切り開けない。
この者たちは、まだジェノスの貴族たちが――トゥラン伯爵家の当主サイクレウスがどれほど悪辣な人間であるかも知ってはいない。
「同胞だと? 我々を不当に虐げてきたジェノスが、同胞だと!? ふざけるな! ジェノスは、屈服させるべき、敵だ!」
「俺はそうは思いません! アイ=ファやルウの人々だって、そんな風には思っていないはずです! 森辺の民は、自らの意志で掟を守ってきただけなのですから、仮に不当な扱いを受けていたとしても、虐げられてきたなどという意識はないんです! だから、もしもスン家の人々だけが、そんな無念を抱えこんでいたというのなら――それはきっと、ジェノスの城から与えられたものなのでしょう」
アスタは、そのように叫んでいた。
「その無念は、ルウとザザとサウティが引き継ぎます。スン家に代わって族長筋となった彼らが、今後は城とやりとりをしていくんです。スン家だけでは抱えきれなかった無念を、今後は森辺の民の全員で受け止めることになるのでしょう。それでも俺たちは屈せずに、正しい縁を結べるように力を振り絞ります。だから――森辺の行く末を、俺たちに託してくれませんか?」
「……馬鹿か、貴様は?」とテイ=スンは言ってやった。
「森辺の行く末など、知ったことか! わたしはもうすぐ死ぬ! ザッツ=スンはすでに死んだ! スン家の滅んだ世界には、破滅と絶望こそが相応しい! 森辺も、この町も、石の城も、何もかもが滅んでしまえばいいのだ!」
おびただしい量の血が背中の傷から流れ落ちている。
もうテイ=スンの生命はそんなに長くももたないだろう。
もしも森辺の民に、自分のような人間すら討ち倒す力がないというのなら――気の毒だが、アスタもともに魂を返してもらう他ない。
アスタの魂は、きっと森に召されるだろう。
たとえ異国の生まれでも、アスタはれっきとした森辺の民だった。
「……ならば、私の生命も手土産に持っていけ」
と――ふいにアイ=ファが力を失った声で言い、テイ=スンのほうににじり寄ってきた。
「近づくな! そのような戯言でわたしの隙をつこうという気か、ファの家長よ?」
「そのようなつもりはない。家人を目の前で害されながら、おめおめと生き恥をさらす気持ちになれぬだけだ。……アスタを殺すなら、私のことも殺してくれ」
「アイ=ファ! お前、何を言ってるんだよ!」
いかに勇猛に見えても、しょせんは女衆か。
テイ=スンを滅ぼすのは、この女狩人ではないらしい。
アイ=ファは大刀を捨て、残された小刀をテイ=スンのほうに差し出してくる。
「この刀で、私の生命を絶つがいい。できれば、アスタよりも先に私を殺してくれ。……アスタの死ぬ姿は、見たくない」
「待て! 近づくな! 貴様などの奸計には乗らんぞ! わたしにではなくこの小僧に刀を渡すつもりだな!?」
「何を言っている。アスタには女衆ていどの力しかない。いかに深手を負っていようとも、アスタより素早くこの刀を受け取ることぐらいは容易であろう?」
「動くな!」とテイ=スンは叫んでみせる。
「わたしの右腕は動かぬのだ! 貴様たちの刀が、右肩の筋を断ってしまったのだろう。だからわたしには、ひとりの人間を道連れにすることしかできん! この小僧は今すぐにくびり殺してくれるから、死にたいのならば自ら咽喉を突いて死ね!」
「そうか……やはりお前の右腕は動かせぬのか、テイ=スン」
アイ=ファがそのようにつぶやいたとき。
テイ=スンの左腕に、熱い感覚が走り抜けた。
それと同時に肘から先に力が入らなくなり、アスタの身柄をアイ=ファに奪われてしまう。
そして――
さらに熱い感覚が、咽喉の下にも走り抜けた。
視界が、白い光に包まれる。
とたんに、背中に何かがぶつかってきた。
否、テイ=スンはもともと樹木にもたれて立っていたはずである。
どうやらテイ=スンは、自分でも気づかぬ内に地面へと倒れ込んでいたようだった。
「誇りを失った恥知らずめ。……己の子を飢えで失う苦しみなど、スン家でぬくぬくと生きてきた貴様などにわかるものか」
光の向こうで、黒い影がそのように喋っている。
どんな姿をしているのかもわからないが、森辺の民であることに間違いはないらしい。
ならば、何も過不足はなかった。
(ようやく、終わったか……)
急速に意識が薄らいでいく。
白い光がじょじょに暗黒に塗り潰されていき――再び懐かしい家族や血族たちの姿がテイ=スンの脳裏を過ぎ去っていった。
(オウラ、ツヴァイ……ミダ、ディガ、ドッド……お前たちはスンの氏を捨て、同胞たちと新たな生を生きていくがいい……)
(ヤミル、お前もだ……お前もこれ以上、スンの氏に縛られる必要はない……)
(ズーロ=スン……お前は族長として、スン家に殉じるしかないのだろうな……気の毒だが、それでもお前の魂は森に召されるだろう……わたしやザッツ=スンの魂は、きっとセルヴァの矛槍によって打ち砕かれてしまうのだろうから……それに比べれば幸福であると、覚悟を固めるがいい……)
テイ=スンの言葉にみんなが口々に返事をしてくれているようだったが、それを聞き取る力は残されていなかった。
そしてその向こうから、妙にまざまざとした声が響いてくる。
「テイ=スン……家長会議の夜に、アイ=ファに力を貸してくれたのは、あなたなのですか?」
黒い影がふたつ、自分を見下ろしてきているような気がする。
もしかしたら、これはアスタとアイ=ファであろうか。
それも死に際の幻影であったのか、それとも最後に見る現実の情景であったのか、何も判然とはせぬまま、テイ=スンは笑ってみせた。
自分を優しい人間だなどと勘違いはせぬことだ。
べつだん自分は、アイ=ファの身を案じて救いの手をのばしたわけではない。ただ、血族であるディガたちの手を汚させたくなかっただけであったのだ。
(わたしはそういうちっぽけな人間なのだよ、アスタ……)
スン家の時代は、ようやくこれで真の終わりを迎えることができる。
残りの苦労は、お前たちが担うのだ。
願わくば――その行く末に、光あれ。
そのような思いにとらわれながら、テイ=スンはやわらかくて温かい暗黒にその身と魂を委ねることにした。