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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
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     没落の系譜(四)

2015.10/19 更新分 1/1

 それから、10年ばかりの歳月が過ぎ去った。

 ザッツ=スンは病に倒れ、ミギィ=スンは森に朽ち――そうして族長の座はズーロ=スンに引き継がれ、スン家は堕落の一途を辿ったのだった。


 しかし、ザッツ=スンの執念までもが霧散したわけではない。

 髪は抜け落ち、骨と皮ばかりの身体と成り果て、《禁忌の葉》ばかりをかじりながら、それでもザッツ=スンの目から執念の炎が消え去ることはなかったのである。


「力を……力を蓄えるのだ……いつかこの我の病が癒えるまでは……」


 スンの集落は、ザッツ=スンの打ち立てた掟に縛られ続けている。

 けっきょく族長の座がズーロ=スンに移っただけで、スンの集落には何の変化も訪れなかったのだ。


 そんな中、本家の子たちはそれ相応の成長を遂げていた。


 ヤミル=スンは、毒蛇のように笑う娘になった。

 ディガ=スンは、虚栄心の塊のような若者になった。

 ドッド=スンは、酒を飲まなければ何をなすこともできない軟弱者になった。

 ミダ=スンは、食べることにしか興味を持てないようであった。

 ツヴァイ=スンは、銅貨を稼ぐことが人間の生きる意味だと信じているようであった。


 そして、族長を継いだズーロ=スンは、脆弱な気性はそのままに、立ち居振る舞いばかりが尊大になり――オウラや、分家の者たちは、誰しもが硝子玉のような目になっていた。

 スンの集落に生きる限り、ザッツ=スンの支配から逃れられる者はなかったのだ。


 また、ザッツ=スンの願いとは裏腹に、スン家が力を増していくことはなかった。

 まるでザッ=スンの執念から逃げるように、若くして病を得る者が後を絶たなかったのである。


 最初の内は、モルガの恵みに毒があるのでは、という疑いがもたれた。

 その後は、ギバの数が少ないために、その内臓までをも喰らうようになったのが原因なのでは、と囁かれた。


 しかし、やがては誰もが何も気にしなくなっていた。

 それが森の裁きであるならば、ただ従うのみ――無言のままに、そのような思いを抱いていたのかもしれない。

 何にせよ、同じものをぞんぶんに喰らっている本家の者たちが、ザッツ=スン以外はきわめて健やかに生きているのだから、原因は他にあるのだろうとも思われた。


 要するに、生きようと願う力を失った者たちが順番に生命を散らしていっているだけなのだろう、とテイ=スンはそのように考えている。


 テイ=スンとともに罪を重ねてきた男衆もひとりずつ数を減じていき、10年が経つ頃には誰もいなくなっていた。

 これでは農村や商団を襲うこともかなわない。

 それまでに蓄えていた富も、酒や肉を買うために少しずつ目減りしていった。


 そうしてスン家は、堕落と頽廃の道を転げ落ちていき――

 その、滅びの夜を迎えることになったのである。


                ◇


「お前たちは、今日からこの地で生きるのだ」


 ディック=ドムが、そのように述べていた。

 ここは彼が治める、ドムの集落であった。


 テイ=スンのかたわらには、ディガ=スンとドッド=スンの姿がある。

 いや――すでにスンの氏は奪われていた。

 テイと、ディガと、ドッドである。

 テイたちは、腕と足を革の帯で縛められつつ、ドムの家長の前に立たされていたのだった。


「森辺の狩人として、ギバを狩れ。そうして正しく生きることのみが、お前たちにとっての償いとなる」


 これから17になるという若さでありながら、ディック=ドムにはすでに家長としての風格と力が備わっているようだった。

 その黒い火のような瞳ににらみつけられ、ディガとドッドは震えている。


 スンの家は、滅びてしまったのだ。

 集落にはまだ分家の人間が半数以上も残されていたが、少なくとも、族長筋としてのスン家は滅んだ。

 本家の人間は氏を奪われ、他の氏族に血の縁を持つ分家の人間はそちらの家人となり、そして、ザッツ=スンとズーロ=スンは罪人として裁かれることになった。


 ジェノスに通達したのちに、両者は頭の皮を剥がされるのだという。

 スン家の者たちが重ねてきた罪は、ザッツ=スンとズーロ=スンの生命によって贖われるのだ。

 それ以外の者たちは、「正しく生きよ」とのみ命じられた。


「明日からは狩人としての仕事を果たしてもらう。その末に、お前たちが森辺の民としての誇りを取り戻せたときは、ドムの氏を授けると約束しよう」


 そうしてテイたちは手足を繋がれたまま、ドムの分家の家で眠らされることになった。

 小さな部屋に、3人が一緒に詰め込まれる。扉の外では、きっと男衆らが交代で見張りに立つのだろう。


 月明かりの差し込む部屋の中で、ディガとドッドはまだ呆けているようだった。

 また、テイ自身も己を取り巻く状況をしっかり理解しきれているわけではなかった。


 スンの家が、滅んでしまったのだ。

 どれほど力を失っても、ザッツ=スンの怨念にまみれながら、決して潰えることのなかったスンの家が、一夜にして、あっさりと。


 むろん、このような日が来るという予感がないわけではなかった。

 ザッツ=スンが病に倒れ、ミギィ=スンを失った時点で、スン家は滅ぶ他なかったのだ。


 ザッツ=スンの意志を継ぐ者が現れない限り、スン家に永らえる道はなかった。

 モルガの森を荒らし始めてから、すでに14年――それだけの期間、秘密を守るために、スン家は眷族へと婿や嫁を出すことを禁じていた。このままでいけば、いずれ眷族らの不審を買い、見捨てられるか、秘密を暴かれるかしていたに違いない。


 だが、それを待つまでもなく、スンの家は滅ぶことになった。

 滅ぼしたのは、ルウの家とファの家だ。

 むしろ、ルウの家はそれに力を添えただけで、たったふたりの家人しか持たないファの家こそが、スンの家を滅ぼすことになったのだった。


(しかし……本当にそうなのだろうか?)


 ファの家には、確かにスン家を滅ぼすだけの力があった。

 しかし、それをスンの集落に招き寄せたのは、ヤミルだ。

 もしかしたら――ヤミルこそが、スン家を滅ぼしたのではないだろうか?


 ファの家の富を我が物にしようというズーロ=スンの欲望を逆手に取り、浅ましい思いにかられたディガやドッドを利用して、ヤミルこそがスン家に滅びをもたらしたのではないだろうか?


(そうだとしても、何もおかしいことはない)


 幼き頃からザッツ=スンに目をかけられ、ミギィ=スンには嫁になるべしと詰め寄られ、ヤミルはその身にスン家の執念を負わされることになったのだ。

 ヤミルとしては、その執念の受け皿となってスン家に君臨するか、あるいはスン家を滅ぼすかの道しかなかったのだろう。

 そうでなければ、あのヤミルがむざむざと墓穴を掘るようには思えなかった。


(ファの家の者たちは、ギバの肉を銅貨と換えて、森辺に豊かさをもたらそうと目論んでいるのだという……ザッツ=スンは、数々の禁忌を踏みにじって力を得ようとしたが、あの者たちは森辺の民として正しく生きながらそれを得ようとしているのだ)


 そのように迂遠なやり口で、何年かかれば結果を得られるのかはわからない。

 しかしスン家は、14年もの歳月をかけながら、何も成すことができなかったのだ。


 モルガの恵みを食い荒らし、狩人としての仕事を打ち捨てて、安楽な生をむさぼりながら、スンの家は何を得たか。

 森辺の民としての誇りを持たない民を生み出しただけだ。

 ギバの脅威から解放されても、生きる気力を失って生命を落とす人間が増えたので、血族の人数だってろくに増えてはいない。


 ファの家の者たちの目論見が成功すれば、飢えて死ぬ人間も減り、森辺の民はこれまで以上の力で狩人としての誇りを示すことができるかもしれない。


 ファの家は、まさしくスン家を滅ぼすに足る力を持った家であったのだ。


(しかし……そのようなことが可能なのだろうか)


 暗い部屋の中にうずくまりながら、ぼんやり思う。

 昨晩の家長会議で出された、ファの家の食事――それを、テイもスンの本家で口にすることになった。


 悪臭のないギバの肉と、汁ではなく平たく焼かれたポイタンによって作られた、不可思議な料理である。

 作ったのは、ファの家のアスタたちに手ほどきをされた、スンの分家の女衆らだ。


 あれは確かに、驚きに足る料理であった。

 だが、スンの人間たちは、宿場町で売られている肉の味を知っている。

 特に本家の者たちは、悪臭のひどいギバの肉は分家に押し付けて、カロンやキミュスの肉などを食することが多かった。


 アスタがスンの女衆らに伝えた料理は、それを上回るほど美味であるようにも感じられたが――あれで本当に、宿場町の人間たちの心を動かすことができるのだろうか。


 テイには、わからなかった。

 ただ確かなのは、スンの家は滅んでしまったのだという、その一点のみであった。


               ◇



 翌日からは、ディック=ドムの宣言通りにギバ狩りの仕事をさせられることになった。

 革帯の拘束を解かれて、狩人の衣と、刀を与えられる。


 ディガとドッドは、死人のような顔色になってしまっていた。

 このふたりは、まともにギバ狩りの仕事を果たしたことがないのだ。


「それでも罠に掛かったギバを捕らえたことぐらいはあるのだろう? まずはその仕事を果たしてもらう」


 ドムには、7名の狩人がいた。

 思ったよりは、少ない人数だ。

 ギバの頭骨を深々とかぶり、誰もが立派な体格をしていたが、あまり年老いた者はいないように感じられる。


 きっとこの北の集落には、かつてのスンの集落と同じように、おびただしいほどのギバが潜んでいるのだろう。

 だから男衆は年老いる前に、みんな森に朽ちてしまうのだ。

 スンの者たちが打ち捨ててきた苛烈な生を、彼らは今でも生き抜いているのである。


「では、行くぞ」


 ディック=ドムの号令のもと、森に踏み込む。

 踏み込んで、すぐに二手に分かれることになった。

 テイたちと行動をともにする4名と、残りの3名だ。


 ディック=ドムは、テイたちと同じ組だった。

 テイたちが逃げ出そうとしたときは、ディック=ドムが粛清の刃をふるうことになるのだろう。

 ディック=ドムの雄渾な肉体には、かつてのミギィ=スンにも劣らぬ生命力があふれかえっていた。


(ルウの家長に、ルティムの家長、このディック=ドムに、グラフ=ザザ……それにファの女狩人や、ルウの末弟など、スンの集落の外では、これほどまでに力を持った狩人たちが育っていたのだ)


 これではスン家に太刀打ちできるはずがない。

 やはりスン家は、10年前から滅びる運命にあったのだろう。

 ザッツ=スンが病を得て、ミギィ=スンを失うことになった、あの年から。


(ならば……ヤミルだけでなく、わたしもスン家の滅びに加担したようなものか……)


 そのようなことを考えながら道なき道を進んでいくと、やがてディック=ドムが無言のまま制止の合図を送ってきた。

 ディガとドッドが怯えきった様子で周囲を見回す。


 その瞬間――至極唐突に、森からギバが飛び出してきた。

 飢えに飢えきったギバなのだろう。両目を怒りに燃やしながら、我を失ってテイたちのほうに突進してくる。


「ひいっ!」


 悲鳴をあげて、ディガがうずくまる。

 その背を飛び越えて、テイは刀を振り下ろした。

 鋼の刃が、ギバの首筋に深くめりこむ。


 しかしテイに、一撃でギバを葬る膂力はない。

 刀を弾かれないよう力を込めつつ、テイは身体を左によじった。


 赤い鮮血を撒き散らしながら、ギバがテイのかたわらをすりぬけていく。

 その行き先には、ディック=ドムの姿があった。


 ディック=ドムは、その突進を避けながら刀を振り下ろす。

 テイが斬ったのとは逆の側から、刀身が首筋を断ち切った。

 その衝撃で、首の骨が折れたのだろうか。もんどりうって、ギバは茂みの中に倒れ伏した。

 3名の狩人たちが即座に飛びかかり、とどめの斬撃を振り下ろす。


「……なかなか見事な身のこなしだったではないか」


 刀の血を振り払いながら、ディック=ドムがそのように呼びかけてきた。


「テイよ、お前とてこの何年間かは狩人としての仕事を果たしてはいなかったのであろう?」


「はい」


「しかもお前は、すでに50を越える齢だと聞く。それを考えれば、狩人として申し分ない力量ではないか」


 これといって、答えるべき言葉は見つからなかった。

 ザッツ=スンは、来たるべき日に備えて修練は怠るなと述べていた。テイはその命令に、愚直に従っていたに過ぎない。


「お前ならば、再び狩人としての正しき生を歩めるかもしれんな」


 感情の読みにくい声で言いながら、ディック=ドムは視線を動かす。

 ディガは頭を抱えて地面にうずくまっており、ドッドは呆けたようにへたりこんでしまっていた。

 まるで――ミギィ=スンに棒で打たれていた幼子の頃のようだ。


「もう嫌だ……狩人なんて、俺には無理だ! 頼むから、勘弁してくれえ!」


「何を言っている。ならば、罪人として頭の皮を剥がされたいのか?」


 むしろ不思議そうにディック=ドムが問い返すと、ディガは「ひいっ」といっそう縮こまってしまう。


「ディック=ドムよ、ディガとドッドは幼き頃からスン家の掟に従わされていたのです。彼らの中には、もともと狩人としての誇りなど育ってはいないのです」


 ディック=ドムが、静かにテイを振り返る。


「そうだからといって、女衆のように家の仕事を任せるわけにもいかないのだが」


「それはそうでしょう。しかし、そんな彼らを狩人として鍛えるつもりならば、それは町の人間を鍛えるのと同じぐらいの忍耐が必要になると思われます」


「町の人間を狩人に……それはまた、俺たちにとってもとてつもない試練になりそうだな」


 ディック=ドムは深々と息をついてから、黒い瞳を強く光らせる。


「しかし、それこそがお前たちの罪を見抜けなかった俺たちへの罰となるのだろう。……おい、ディガよ」


 言いざまに、ディック=ドムはディガの襟首をひっつかんでその身体を軽々と引き起こした。

 目をそらそうとするディガの眼前に、自分の顔をぐっと寄せる。


「俺の目を見て答えろ。……ギバが恐ろしいか?」


「ひ、ひいっ!」


「答えるのだ。お前は、ギバが恐ろしいのか?」


「お……恐ろしい……」


「13歳になった男衆は、まずはその身でギバの恐ろしさを知る。お前はようやく、狩人としての一歩目を踏み出したところなのだ」


 黒い火のように両目を燃やしながら、ディック=ドムはそのように続けた。

 ザッツ=スンと同じ色合いの瞳であり、同じぐらいの激しい眼光でありながら、しかしその性質はまったく似ていないように思えた。


「俺も初めて森に入り、その恐ろしさを思い知らされたときは震えが止まらなかった。そしてそれは、わずか4年前のことに過ぎん。お前たちとて、時間さえかければ狩人としての力をつけることはできるはずだ」


「…………」


「強く生きて、罪を償え。その気持ちを忘れなければ、俺たちがお前たちを見捨てることはない」


 ディック=ドムが、ディガの身体を突き放す。

 ディガは、そのままへなへなと崩れ落ちてしまった。


「ムントに毛皮まで食われてしまわれぬよう、狩ったギバはこの場でいったん木に吊るしておく。まずはその仕事を果たせ」


「…………」


「俺の言葉が、聞こえなかったか?」


 ディガとドッドは、青い顔でのろのろと立ち上がる。

 それを見届けてから、ディック=ドムはテイを振り返ってきた。


「お前もだ、テイ。縄の掛け方はわきまえているであろう? それをこの者たちに教えてやれ」


「はい」


 あるいは――この若くも猛々しいドムの家長であるならば、ディガやドッドを正しき道に導けるのかもしれない。

 そのようなことを考えながら、テイはかつての血族たちとともにギバのもとへと歩を進めた。


               ◇


(わたしは、どうするべきなのだろう……?)


 その夜は、なかなか眠ることができなかった。

 ひさびさに狩人としての仕事を果たした昂ぶりと、激変した環境に対する戸惑いで、さしものテイも気持ちを揺さぶられてしまったのかもしれない。


 ディガとドッドは、泥のように眠っている。

 あの後は急襲を受けることもなく、罠に掛かったギバの始末だけで仕事を終えることができた。それでもディガとドッドには、全精力を使い果たしてしまうような大仕事であったのだろう。


 彼らもザッツ=スンの言いつけに従って修練は積んでいたが、まともに森に出たことは一度としてないのだ。テイやミダが罠に掛かったギバを始末する姿を、冷やかし半分で眺めていたばかりなのである。


 木登りや力比べの修練を積んだだけでは、狩人としての魂は育たない。

 彼らは初めて、森の恐ろしさを知ったのだ。

 その恐ろしさを知った後で、男衆は初めて狩人としての誇りと森に対する畏敬の念を手に入れることがかなうのである。

 自分たちもまた森の一部に過ぎない――それを知識でなく、その身をもって知ることが肝要なのだ。


 ディック=ドムならば、彼らを正しく導くことができるかもしれない。

 だが――

 自分は、どうしたらいいのだろう?


(森辺の民として、正しく生きなおす――そんな資格が、わたしにあるのか?)


 テイの手は、罪なき人間の血で汚れている。

 その事実を知る者は、もはやザッツ=スンしか存在しない。

 これでザッツ=スンまでもが断罪されてしまったら――テイは、その秘密をひとりで抱えて生きていくことになるのだ。


(わたしの罪が明かされたところで、今さらオウラやツヴァイたちにまで累が及ぶことはないだろう。わたしたちはすでに縁を切られているし、そうでなくともオウラたちには最初から何も知らされていなかったのだから)


 ならば、告白するべきだ。

 この十数年間で、自分とザッツ=スンがどれほどの罪を犯してきたかを。

 そうすれば、テイにも粛清の刃が振り下ろされるはずだ。


 スン家は滅んでしまったのだから、森辺の行く末は新たな族長筋に託すしかない。

 新たな族長筋として選ばれたルウとサウティとザザならば、自分たちのやり方でジェノスの貴族どもに立ち向かうことができるだろう。

 彼らの力が及ばずに、けっきょく森辺の民が滅んでしまうとしたら――それもまた、森の意志だ。テイには関わりのないことである。


(だが……)と、テイは闇の中に自分の手の平を透かし見た。

 がさがさにひび割れた、年老いた手だ。

 その手に、ギバを叩き斬った感触がまだ残っている。


 吊るされたギバにとどめをさすのではなく、牙と角を振りかざしてくるギバに刀を振り下ろした。これはいったい、何年ぶりの所業であっただろうか。


 ギバとて、森の一部である。

 ギバを憎む気持ちなど、森辺の民は持ち合わせていない。

 おたがいの力をぶつけ合い、勝利したほうがその日の生を得る。力及ばず森に朽ちれば、魂を返すことになる。それはそれだけの話であり、言ってみれば、ギバも森辺の民も等しく母なる森の子らなのだった。


 その生命をぶつけ合う昂揚と躍動を、テイははっきり思い出してしまっていた。

 そうして狩人としての仕事を果たしながら、力尽きるまで生きることができたら――それは、どれほど幸福なことだろう。

 遠く引き離されたかつての家族たちに思いを馳せながら、ディガやドッドとともにそんな生を生きることができたなら――


(しかし、そのように安楽な生を生きることは許されないのだ)


 魂をゆるがすような深甚なる欲求を前に、テイはその思いを飲み下す。

 ザッツ=スンが裁かれたなら、その日に自分も告白しよう。

 自分には、許される資格など存在しないのだ、と。


 そのとき――

 得体の知れない感覚に、テイの背筋がざわついた。

 何だこれはと思う間もなく、女衆の悲鳴が聞こえてくる。


「火よ――ドムの集落が、燃えているわ!」


 テイは、のろのろと身を起こした。

 それと同時に、戸板が外側から荒っぽく引き開けられる。


「何を呑気に眠っているのよ! あんたたちは、それでも森辺の男衆なの!?」


 そこから姿を現したのは、ドム本家の長姉レム=ドムだった。

 長身で頑健な身体つきをしたレム=ドムが、小刀を片手に踏み込んでくる。その気配で、ようやくディガとドッドも目を覚ましたようだった。


「な、何だ!? やっぱり俺たちを処刑するつもりなのか!?」


「馬鹿なことを……いいから、腕をお出しなさい! このまま焼け死にたいんだったら、好きにすればいいけどね!」


 わめきながら、レム=ドムはテイのもとに寄ってきた。

 その手の小刀が、まずは柱にくくりつけられていた革紐を断ち切り、さらに手足の革帯までを断ち切っていく。


「5つの家のすべてから火が出たのよ! 今、ザザやジーンの連中を呼びにやってるから、あんたたちも手伝いなさい!」


 わけもわからぬまま、ディガたちとともに部屋を出る。

 とたんに、ものの焼ける臭いが鼻に入ってきた。


「うわ……何だよこりゃ……?」


 家を出ると、まさしく集落が燃えていた。

 世界が、赤色に染まっている。

 そして、夜の闇と黒煙が覇を競い合うように黒々と渦を巻いていた。


「お前たちも無事だったか! もはや水を汲んでくるゆとりもない! 森に火が移る前に、家を壊すのだ!」


 ディック=ドムが、黒煙の向こうで怒鳴っていた。

 それでも呆けているディガの尻を、レム=ドムがおもいきり蹴り飛ばす。


「あっちは家長たちに任せて、あんたたちはこっちだよ! 丸太か何かで家を打ち壊すんだ!」


「あ、ああ……」


 ディガがよろよろと足を踏み出す。

 その足が、3歩目あたりでぴたりと止まった。


「何をしてるんだい! ぼやぼやしてたら、森にまで火が――!」


 わめきかけたレム=ドムも口をつぐむ。

 黒煙の向こう側に、煙よりも闇よりも黒い人影が立ちはだかっていたのだ。


「捜したぞ、テイ=スン……それに、ディガとドッドもな……」


 異様に痩せこけた影だった。

 まるで人間の骨が黒い生皮を纏って動き出したような――そんな異様さである。

 ディガやドッドはもちろん、レム=ドムまでもがその異様さに魂を飛ばしていた。


 しかし、テイは納得していた。


(そうだ……やはりこれが、わたしの運命なのだ……)


 半ば無意識に、歩を進める。


 骨と皮ばかりに痩せこけた、漆黒の影。

 その中で、何よりも暗黒な双眸が、喜悦をたたえて自分を見ている。


「さあ、我とともに森辺に秩序を取り戻すのだ……ジェノスの貴族にもルウの一族にも、相応の報いをくれてやろう……」


 枯れ枝のように痩せ細った腕に大刀を握りしめたザッツ=スンは、同胞の血にまみれた頭蓋骨のような顔で、爛々と双眸を燃やしながらそのように言い放ったのだった。

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