没落の系譜(三)
2015.10/18 更新分 1/1
そうしてまた4年もの歳月が過ぎ去っていった。
ザッツ=スンは47歳、ミギィ=スンは25歳、テイ=スンは41歳――そして、ヤミル=スンは11歳、娘のオウラは17歳になっていた。
ヤミル=スンが婿を取れるようになるまでは、さらに4年の歳月が必要となる。
それを目して、ミギィ=スンは新たな嫁も娶らずに独り身をつらぬいていた。
だが、ミギィ=スンが身をつつしむわけはない。あの暴虐なる痴れ者めは、小さな氏族や町の娘などを襲って憂さ晴らしをしているような気配があった。
テイ=スンがズーロ=スンにオウラの嫁取りを願ったのは、その魔手から娘を守るためである。
幸いなことに、気性の大人しい娘を好むズーロ=スンは、快く嫁取りの話を受けてくれた。
ズーロ=スンが嫁を娶るのは、これが5度目のことである。
何故かズーロ=スンの妻となる女衆は、子をなした後、早々に逝去してしまうのだ。
その内の2名は、森の端でギバに襲われて身罷られた。
残りの2名は、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまった。
それは、ズーロ=スンがか弱げな女衆を好む気質であったゆえかもしれないし――あるいは、ザッツ=スンとともに暮らすという心労からの衰弱なのかもしれなかった。
しかし、婚儀をあげてすぐツヴァイという子を授かり、2年が経過したのちも、オウラが生命を散らすことはなかった。
外見ほど、か弱い娘ではないのだ。
そうでなければ、テイ=スンとてズーロ=スンへの嫁入りなど考えなかったことだろう。
そして、オウラがズーロ=スンに嫁いだ年に、ついにテイ=スンの嫁も病で亡くなってしまったため、テイ=スン自身も本家の家人となることにした。
オウラひとりに苦しい思いはさせまいという、せめてもの償いの気持ちからである。
何にせよ、浅ましい話だと思う。
自分の家族さえ無事であればいいという、そのテイ=スンの性根がだ。
ミギィ=スンが、どれほど悪辣な手口で己の欲望を満たしているか――それを薄々知りながら、テイ=スンは何の策も講じようとしなかった。それを咎める気力さえ、テイ=スンはこの4年間で失ってしまったのだ。
この4年間、スン家の人間たちはモルガの恵みを荒らし続けてきた。
なおかつ、それ以上の罪にまで手を染めてきた。
旅人や農村を襲い、その富を略奪するなどという悪行までを犯してしまったのである。
その罪を知るのは、族長ザッツ=スンを含む6名の男衆のみであったが――その富で、スン家はさらなる豊かさを手中にすることができた。
モルガの恵みを荒らしたために、集落のそばからギバは消え始めた。
今では、月に数頭ていどが狩れるばかりである。
それも、罠に掛かったギバを捕らえるだけで、己の生命は決して危険にさらさない。スン家の人間は、長きに渡って安寧に満ちた生を生きることができた。
しかし――血族の数は、なかなか増えなかった。
たかだか4年で血族の数がそうそう増えることもない。勇猛なる北の一族を従わせて、ルウの一族に戦いを挑むのには、まだまだ時間が必要となるのだろう。
(……それまでずっとこのような秘密を抱えていかなくてはならないのか)
しかもテイ=スンは、二重の秘密を抱えていた。
略奪を働いているという秘密は、家族にすら打ち明けることができない。これは、族長たち6名と――そして、ジェノスの貴族どもだけが知る、絶対の秘密なのだった。
「貴殿たちには、略奪の罪の疑いがかけられているのだぞ、森辺の族長よ……?」
当初、トゥラン伯爵を名乗る小男はそのように言っていた。
「それが真実であるならば、我々もジェノスの法に基づき、貴殿らを罰さねばならぬ……いかに褒賞の額に不満があろうとも、そのような罪が許されるはずもなかろう……?」
「それはとんだ言いがかりであるな。我々がいったいどのような罪を犯したというのか、証しがあるならばそれを示してもらいたいものだ」
ザッツ=スンは、獣のように笑いながらそのように応じてみせた。
それに対して、トゥラン伯爵はムントのような笑いを返す。
「証しは、ない……しかし、ジェノスの災いとなるような罪は、我とて見過ごすことはできぬのだ……」
これ以上の罪を重ねるならば、森辺の族長とて処断する他ない。そのように警告を与えているのだと、最初はそのように思っていた。
しかし、違ったのだ。
褒賞金を受け取ってトゥラン伯爵の館を出ると、覆面で顔を隠した男がテイ=スンたちに近づいてきたのである。
「伯爵様は、森辺の民と事を荒立てるおつもりはないのです。森辺の民の狩人としての力は、ジェノスにとって必要なものですからな。……ですから、森辺の民がさらなる富を求めているのならば、ジェノスにとって無用な商団のみを標的にすればよいのではないでしょうか」
図体ばかりがやたらと大きい、いかにもあやしげな男であった。
東の民のように頭巾を深々とかぶり、目から下には灰色の布を巻いている。唯一外気にさらされているその鳶色の瞳には、トゥラン伯爵とそっくりの粘っこい光が浮かんでいた。
「ふむ……どこの誰だかは知らぬが、貴様も誇り高き森辺の民を野盗呼ばわりしようというつもりであるのだな?」
ザッツ=スンが腰の刀に手をのばすと、その男は慌てふためいた様子で身を引いた。
「滅相もございません。わたくしは、森辺の民はもっと安楽な生を生きるべきだと願っているだけなのです。……ジェノスにとって利にならぬ商団がどうなろうとも、ジェノスが兵を動かす理由はありません。幸いわたくしは、そういう商団にいくつも心当たりがあるのです」
そうしていくつかの商団の行路を教え、なおかつ扱いに困る財宝などがあった場合は自分が銅貨に換えましょう、などという言葉を残して、その男はそそくさと立ち去っていった。
「さて、これが我々を陥れようという策謀なのか、あるいは我々に適当な餌でもあてがおうという魂胆なのか……行く末が楽しみであるな」
「まさか、あのようにあやしげな男の言葉を信じてしまうのですか?」
「信じはせん。しかし、最後にすべてを飲み干すのは我々だ」
ザッツ=スンは、それらの商団をすべて襲った。
その場にいた人間は皆殺しにして、富を奪うのだ。
策謀であったにせよそうでなかったにせよ、6名もの狩人がそろっていれば、その仕事をしくじることはなかった。
しかもその中には、森辺でも有数の狩人であるザッツ=スンとミギィ=スンも含まれているのである。
テイ=スンの刀も、罪なき人間の血で濡れることになった。
しかし森は、いつまでもテイ=スンたちの魂を召そうとはしなかった。
ならば、これが正しき道なのだろうか?
ザッツ=スンの言う通り、これが森辺の民に正しき未来を与える行いなのだろうか?
テイ=スンには、わからなかった。
ただ、気持ちを殺して刀をふるうしかなかった。
そうして、いつしかテイ=スンは、怒りも悲しみも感じない人間になってしまっていた。
「ジェノスの兵の長をつとめる男が、独自であなたがたを討伐する計略を練っているようです……」
そのような言葉が届けられれば、夜闇に乗じてその男を殺害した。
眷族を招く宴のためにアリアやポイタンといった町の野菜が必要なときは、農園を襲ってそれを手中にした。
それだけの罪を犯しても、テイ=スンの心が動くことはなかった。
森辺の集落の民たちも、ミギィ=スンの無法なふるまいには怯えつつ、スン家がこれほどの罪を重ねているとはまったく気づいていない様子であった。
そして――
その日がやってきたのである。
◇
「しくじるなよ、テイ=スンよ? 勝負は、峡谷に差しかかってからだからな」
森の奥深くの道なき道を進みながら、ミギィ=スンがそのように囁きかけてきた。
ふたりの背後には、30名からの商団が隊列をなしている。
東の王国シムを目指すジェノスの商団である。
2頭引きのトトスの荷車が7台もあり、緑の深い獣道を苦労しながら進んでいる。
この商団が、本日の標的であった。
この商団は、こともあろうにモルガの森を抜けてシムに向かいたいなどと、そのように申し出てきたのである。
それで、スン家の人間が先導役を依頼されることになった。
この大きな荷車の中には、シムに売りつけるための財宝や食糧が山のように積まれているのだ。
ザッツ=スンが、このような好機を逃すはずもなかった。
「もしかしたら、これこそが我々の罪を暴きたてるための策謀なのではないでしょうか?」
テイ=スンがそのように進言しても、ザッツ=スンには嘲笑われるのみであった。
「その商団は、サトゥラス伯爵家に縁ある商団だなどと抜かしていたではないか? ならば、トゥラン伯爵であるあの男にとっては、どうでもよい存在なのだろうよ……」
サトゥラス伯爵家というのは、どうやら宿場町を取り仕切る家であるらしい。
確かにこの話をザッツ=スンに告げてきたトゥラン伯爵も、関心の薄そうな素振りをしていた。
ならば勝手にするがいい、とテイ=スンは考える。
ここは、森の奥深くだ。
森がテイ=スンらの罪を許さぬなら、きっと然るべき罰を下してくれるだろう。
今のテイ=スンには、すべての是非を森に託す気持ちしかなかった。
「モルガの森は死の森だなどと聞いていたのですが、ずいぶん美しいところなのですね」
と――昼なお暗き森の中を進みつつ、亜麻色の髪をした若者がそのように呼びかけてきた。
まだ若いが、この者が商談の長なのである。
トトスの手綱を握ったその若者に、テイ=スンはうなずき返してみせる。
「森は神聖なる場所であり、我々の故郷です。死の森などと呼ぶのは、森に生きる力を持たない町の人間ゆえなのでしょう」
「ええ。ですが、このあたりではギバが出ることもそうそうないのですよね? ギバのもたらす恐怖さえなければ、ここも生命にあふれた豊かな森であるのだなと感ずることができます」
「はい。このあたりはギバの糧となる果実も少ないですし、それに、これだけの人数で気配も殺さずに歩いていれば、ギバは警戒して近づいてくることもありません」
その言葉は、嘘ではない。
それでも、このあたりを縄張りにしているサウティ家の者たちには、一日狩人としての仕事を休むように申しつけてある。
表向きは、狩場を追われたギバがこちらに向かってきたら危険であるため。
真の理由は、これから行われる凶行を知られぬためである。
「ふうむ。このあたりはギバが少ないというのなら、いっそのこと樹木を切り払って、誰でも通れるような道を築いてしまえばいいのではないでしょうかね? そうしたら、この先はあなたがたの手をわずらわせることなく、こうしてシムへと向かうことが可能になります」
「おいおい、とんでもないことを考えるやつだな。こんな森の奥深くに道を築いちまおうってのか?」
そのように応じたのはテイ=スンではなく、若者の相棒である壮年の男であった。
黄褐色の肌と図太い体格を持つ、この男が副団長であるらしい。
若者は、そちらに向かって無邪気に笑いかける。
「ジェノスとシムを繋ぐのは、毒蛇と毒虫の蠢く砂漠地帯の道だからね。はっきり言って、危険の度合いはモルガの森とさして変わらないぐらいだろう。それで、こちらを通ったほうが道程を短縮できるなら、やっぱりこの道を行くのが得策であると思えるじゃないか? そうであるからこそ、僕たちもあえてこの道を辿ることにしたのだし」
「ま、道を築くかどうかを思い悩むのは俺たちの仕事じゃない。それが得策と思えたなら、ジェノスの貴族様たちが何とかしてくれるだろうさ」
大いに呆れつつ、男のほうも笑っている。
きっと、深い信頼で繋がれた仲間なのだろう。
どちらもごく平凡な町の人間に見えるが、目の光はとても強い。危険なモルガの森を通って遥かなるシムまでおもむこうという気概を有した商人たちであるのだ。
「お……峡谷が見えてきたようだな」
と、先頭を歩いていたミギィ=スンが笑いをこらえた声でそのように言った。
確かに右手の方向に、黄色い岩肌が見えてきている。
「では、ここらでギバ除けの実を使っていただこう。このあたりだけは、ギバに襲われかねない危険な区域であるからな」
商団の長である若者がうなずき、背後の仲間たちへと合図を送った。
荷車の中から取り出された赤い果実が、男たちの手から手へと回されていく。
ギバ除けの実ならぬ、ギバ寄せの実である。
この商団の30名の内、半数近くは銅貨で雇われた護衛役だ。いずれも大した腕前ではないように見えるが、より安全に仕事を果たすため、ザッツ=スンとミギィ=スンはこのような奸計を使うことに決めたのだった。
ただし、ザッツ=スンは今回の襲撃に参加しない。
数日ほど前から、ザッツ=スンは体調を崩していたのだ。
ザッツ=スンも、あと3年で50の齢を数えることになる。よもやあのザッツ=スンが、志も半ばに生命を散らすとは思えなかったが――それでも、これまでにはついぞ見られなかった陰りがザッツ=スンのもとにも訪れたのである。
そのようなことをぼんやり考えていると、亜麻色の髪をした若者がテイ=スンを振り返ってきた。
「これを潰して、中の果汁を自分の身にかければよいのですね?」
「はい。その殻はとても固いので、刀の尻などで砕くとよいでしょう」
若者は、言われた通りに手の平の果実へと短剣の柄を振り下ろした。
乾いた音色とともに赤い殻が砕け散り、わずかに朱色がかった果汁が煙のように霧散する。
「うわ、これは強烈な香りだな。ジャガルの花のように甘い匂いだ」
「身にかけるまでもなく、髪や服に匂いがこびりついてしまいそうだぞ」
テイ=スンたちは、さりげなく身を引いていた。
身を引いたぐらいでこの香りから逃れることはできないが、頭から浴びるよりはよほどましである。
ギバ寄せの実は、ギバを引き寄せる危険な果実なのだ。
古き時代には、この果汁を自ら浴びてギバを招き寄せる《贄狩り》などという狩りの方法も存在したぐらいなのだった。
「よし、それでは香りの薄れぬうちに出発いたそう」
ミギィ=スンの号令とともに、一同は岩場へと乗り出した。
右手は断崖、左手は森である。
この岩場を半日がかりで踏破すれば、無事にモルガの外へと出られるはずだった。
しかし、そのような未来は永遠にやってこない。
半刻ていどの時が過ぎたところで、終焉と破滅の足音が轟いた。
「うん? 何やら森の向こうが騒がしいような――」
副団長の男がそのようにつぶやいた瞬間――左手の森から、巨大なギバが飛び出してきた。
ギバ寄せの実の香りで我を失っているのだろう。そのギバは、愕然と立ちすくんだ男のひとりを道連れにして、断崖の底へと転げ落ちていった。
「ギ、ギバだあ!」
恐怖の悲鳴を聞きながら、テイ=スンとミギィ=スンは岩場を駆けていた。
作戦通り、3名の同胞たちが自らギバ寄せの実の香りを纏って、ギバをこちらに招き寄せてきたのである。
テイ=スンは、あるていど進んだところで足を止め、後方を振り返った。
悪夢のような光景が、そこに現出していた。
およそ10頭ものギバが、男たちを蹂躙している。
ギバの鋭い牙と角が、肉をえぐり、血煙をあげさせる。何名かの男たちはギバの突進をまともにくらって、崖の下へと落ちていった。
荷車に繋がれたトトスらも、辿る運命は同一である。
それどころか、恐慌にかられたトトスまでもが暴れ始め、人間たちを踏み潰したり、荷車で轢いたりしてしまっていた。
「おっと――」と、ミギィ=スンが後方に跳びのく。
それと同時に、横合いの森からギバが現れた。
やはり、テイ=スンたちにも多少の香りが移ってしまっていたのだろう。
ミギィ=スンは、にたりと笑って大刀を振り下ろした。
その一撃で、ギバの脳天が砕け散る。
4年間も遊びほうけていたというのに、その膂力にはいささかの衰えも見られなかった。
「ギバを狩るのはひさかたぶりだな! どれ、森の精気をいただくとするか」
びくびくと痙攣するギバの毛皮をひっつかみ、ミギィ=スンはそのずんぐりとした身体を頭上に持ち上げた。
ギバの割れた頭から噴きこぼれる鮮血が、ミギィ=スンの巨体を真っ赤に染めあげていく。
ギバの力、森の精気を体内に取り入れるための、これも古のしきたりである。
スンの集落でも、このようなしきたりを行使し続けているのは、ザッツ=スンとミギィ=スンの2名のみだった。
そういえば、自分も祭祀堂で森に祈ることもなくなったな――と、テイ=スンはぼんやり考える。
そのとき、ミギィ=スンが「ぬう!?」とうめいた。
「商団の男が、森に逃げ込もうとしているぞ!」
振り返ると、亜麻色の髪を赤く濡らした若者が、茂みの向こうに飛び込んだところであった。
何本かの矢が、高い木の上からそちらに射かけられる。
ギバをここまで導いてきた同胞たちだろう。彼らはギバに襲われぬよう、岩場との境い目で木の上に避難していたのだ。
「仕留めたか? ひとりたりとも逃がすわけにはいかんぞ!」
ミギィ=スンはギバの亡骸を地面に放り捨て、そちらのほうに駆け出した。
岩場で暴れていたうちの1頭がミギィ=スンに襲いかかったが、それは大刀の一撃で葬り去ってしまう。
そうして、ミギィ=スンの姿もまた森の中に消えた。
(そろそろ頃合いか……)
テイ=スンは、木の上の同胞たちに手を振ってみせた。
グリギの矢が、今度は岩場のギバたちへと射かけられる。
ギバの凄まじい断末魔が、峡谷の上に響きわたった。
10頭近いギバたちが、あるいは岩場に崩れ落ち、あるいは崖の下に落ちていく。
そうして動くものがいなくなったところで、テイ=スンはゆっくりそちらに近づいていった。
ギバとトトスと、そして人間の死骸が累々と横たわっている。
ギバ寄せの実の甘い香りに濃密な血臭がまじり、凄まじいことになっていた。
しかし、もはやそのようなものでテイ=スンの気持ちは動かない。
木の上から降りてきた同胞たちも、みんなシムの硝子玉のような目つきをしていた。
「荷物をすべて下ろしてから、荷車を崖の下に落とすのだ。念のために、刺さった矢は残らず引き抜いておくように」
「はい」
同胞たちは、黙々と作業に取りかかった。
テイ=スンは、生存者などがいないかを確認していく。
ここから町に戻るには、半日近くもかかってしまう。報告を受けたジェノスの兵どもが事実を確認におもむいてくるとしても、それは明日のことになるだろう。それまでには、ムントがすべてを喰らい尽くしてくれるはずだった。
(ギバに襲われ、ムントに喰らわれた町の人間の魂は、いったいどこに帰るのであろうな)
そのように考えながら、いくつ目かの遺骸に近づいたとき。
遺骸と思われていた男のひとりが、テイ=スンにつかみかかってきた。
「な――」
「裏切り者め! 貴様たちは、俺たちをたばかったのだな!」
それは、副団長の男であった。
明るく精悍にきらめいていた茶色の瞳が、凄まじい憎悪の炎をふきあげながらテイ=スンに迫ってくる。
その図太い腹からおびただしいほどの血を流しつつ、男はテイ=スンの咽喉もとを締め上げてきた。
「卑劣なる森辺の民に災いあれ! 俺たちは……俺たちは、貴様たちのことを信じていたのだぞ!」
「放せ……わたしたちなどを信用したお前たちが愚かなのだ!」
テイ=スンは、半ば反射的にその胸を突き飛ばした。
男の指にからんでいた牙と角の首飾りが、ぶちぶちと引きちぎられていく。
そうして男は、憎悪に狂った目をテイ=スンに突きつけながら、断崖の下に落ちていった。
(そうだ……スン家の人間などを信用したお前たちが愚かなのだ)
テイ=スンは、心の中で繰り返した。
その背に、同胞が呼びかけてくる。
「テイ=スン。ギバの亡骸もこのまま捨て置けばよいのでしょうか?」
「ああ。ギバの骨ぐらいは残っていないと、案内役の我々が疑われてしまうかもしれんからな。角や牙も収穫せず、その場に残しておいてくれ」
「了解しました。……そういえば、ミギィ=スンが戻ってきませんね」
同胞に言われて、テイ=スンは森のほうに視線を転じた。
手傷を負ったあの若者がそう遠くにまで逃げられるとは思えないのだが、そういえばミギィ=スンの戻ってくる気配がない。
「わたしが見てこよう。お前たちは、始末を頼む」
テイ=スンは、茂みの中に足を踏み込んだ。
草の葉や木の幹に、若者のつけた血の跡が残されている。
「ミギィ=スン、どこにいるのだ?」
返事はなかった。
テイ=スンは刀の柄に指を添えつつ、慎重に森の奥へと分け行っていく。
踏み荒らされた茂みが、ミギィ=スンらの行き場所を示してくれていた。
意外なほど奥のほうまで、それは続いているようだった。
「ミギィ=スン……?」
ギバの襲撃に備えながら、テイ=スンは進む。
そうして背後の同胞たちの姿が完全に見えなくなったあたりで、ようやく弱々しい声が聞こえてきた。
「テイ=スン……ここだ……」
テイ=スンは足を急がせて、目の前に現れた大樹の裏を覗き込んだ。
そうして、驚きに目を見開く。
ミギィ=スンが、木の幹にもたれて座り込んでいた。
そのかたわらに、巨大なギバと若者の遺骸が転がっている。
そして――ミギィ=スンの腹には、銀色の短剣が刀身の半分ほども突きたてられていた。
「ミギィ=スン、これは……?」
「しくじった……この若造に追いついて、その首ねっこをつかんだところで、ギバに体当たりをかまされてしまったのだ……ギバを仕留めることはできたが、その隙に腹を刺されてしまってな……」
しかし、それでも生命を散らしたのはギバと若者のほうだった。
ギバは頭を叩き割られて、若者は首をへし折られている。
ミギィ=スンは、力なくへたりこんだまま、にたりと笑った。
「腹の傷は、どうということもない。内臓にまでは達していないだろう……しかし、ギバのおかげであばらを何本かやられてしまったようなのだ……」
あばらを何本か砕かれた状態で、ギバの頭を叩き割り、若者の首をへし折ったのか。
ひさびさに慄然とした気持ちを味わわされながら、テイ=スンは若者の亡骸を見下ろした。
無念そうに、指先が地面をつかんでいる。
亜麻色の髪は血に染まり、赤いしずくが涙のように頬まで伝っていた。
静かにまぶたを閉ざしたその顔は、生きていた頃よりもいっそう幼げに見えてしまう。
(だが……この若者も、ジェノスに家族を残しているのだと言っていたな)
この商売の準備を始めたとたん、妻の腹に子が宿っていることが知れてしまったのだと、若者は切なげに笑っていた。
それでも急いでシムから戻れば、子が生まれる瞬間には立ちあえるかもしれない、と。
しかし、そのまぶたが開かれることは二度とない。
その鉤爪のように折れ曲がった指先が子を抱くことは、絶対にできないのだ。
「まったく、忌々しいことだ……町の人間ごときが、このミギィ=スンを傷つけようなどとは……俺は、森辺の族長の座を担う男なのだぞ……? 足腰が立てば、その忌まわしい死に顔を踏みにじってやったものを……」
テイ=スンは、ゆっくりとミギィ=スンを振り返った。
「ミギィ=スン、その刀は早々に引き抜いて手当てをするべきではないのか? 悪い風が入れば、生命取りにもなりかねん」
「うむ……しかし、指先にも力が入らぬのだ……こいつらを仕留めるのに、力を振り絞ってしまったからな……」
「そうか。では、わたしが引き抜いてやろう」
テイ=スンは膝を折り、ミギィ=スンの腹に刺さった短剣の柄に指先を添えた。
◇
テイ=スンが集落に帰りついたのは、夜も更けてからのことだった。
町で買った松明を手に、スンの本家へと歩を進める。すると、家の前に何か黒い影がうずくまっているのが見えた。
「何者だ。……ミダ=スンか?」
「うん……」
それは末弟のミダ=スンであった。
まだ4歳になったばかりだというのに、その倍ぐらいの年齢に見える。異様に大きくて、そして丸々と肥え太った、肉の玉のような子供であった。
「このようなところで何をしているのだ。またディガ=スンとドッド=スンに苛められてしまったのか?」
「うん……」
ディガ=スンとドッド=スンは、自分よりも弱き者をいたぶるような気性に育ってしまった。弱き人間は、強き人間にどのように扱われてもしかたがない――彼らの幼い心には、そんな身も蓋もない考えが刻みつけられることになってしまったのだ。
「そうだからといって、泣いてばかりいても仕方がない。つらいときはズーロ=スンやオウラを頼ればよいと、この前も言ったであろう?」
「うん……」
色の淡い小さな瞳で、ミダ=スンはじっとテイ=スンを見上げてくる。
テイ=スンには、ミダ=スンの心を読むことがまったくできなかった。父親であるズーロ=スンもそれは同様で、このミダ=スンと少しでも心を通い合わせることができるのは、もっと幼い頃から面倒を見ていたオウラのみであるように思えた。
「とにかく、家に入るのだ。夜の風は身体によくない。ディガ=スンたちも、すでに自分たちの部屋で眠っている頃だろう」
「うん……」
ミダ=スンがのろのろと丸っこい身体を起こす。
その瞳は、ずっとテイ=スンを見つめたままだった。
「テイ=スン……テイ=スンは平気なのかな……?」
「うむ? わたしがどうしたと?」
「うん……テイ=スンは、とっても悲しそうに見えるんだよ……?」
テイ=スンは言葉を失ってしまった。
口をきくはずもない動物か何かに喋りかけられたような気分であった。
その幼い目に、この世界はどのように映っているのか――テイ=スンには、やっぱり見当もつかなかった。
「わたしは、大丈夫だ。……さあ、家の中に戻ろう」
「うん……」
松明の火を消し、家の戸板を引き開ける。
すると、広間にぽつんとオウラが座りこんでいた。
「テイ父さん……それにミダまで……ミダは部屋で休んでいたのじゃなかったの?」
「うん……ミダは外にいたんだよ……?」
「そう。わたしは部屋でツヴァイをあやしていたから、ちっとも気づかなかったわ。あなたはまだ幼いのだから、夜にひとりで家を出ては駄目よ、ミダ?」
「うん……」
オウラは、はかなげに微笑んだ。
その手には、2歳になったばかりのツヴァイが眠っている。
「テイ父さん、お疲れ様でした。……お仕事のほうは、いかがでしたか?」
「ああ」としかテイ=スンは答えなかった。
オウラは、悲しげに眉をひそめる。
「テイ父さん、少しお話ししたいことがあるのですが……」
「後にしてくれ。わたしは族長のもとにおもむかなくてはならないのだ」
「だけど、テイ父さん……」
「オウラよ、お前は家長の跡継ぎたるズーロ=スンの嫁なのだ。そして今では子を持つ母でもあるのだから、もうそのように子供じみた言葉づかいをするべきではない」
履物をほどきながら、テイ=スンはそのように述べてみせた。
「せめて、父テイと呼ぶか――あるいは、テイ=スンでもよい。血の縁の薄いわたしは、本家において最も低い身分なのだからな。わたしも今後は、お前のことをオウラ=スンと呼ぶことにしよう」
オウラは深くうつむきながら、その手の我が子をぎゅうっと抱きすくめた。
「わかりました……父テイ」
「ああ」
オウラとミダ=スンを広間に残し、テイ=スンはザッツ=スンの寝所に向かう。
そうして戸板を叩こうと手をあげかけると、それは内側から引き開けられた。
「あら、テイ=スン……」
ヤミル=スンである。
11歳の娘に育ったヤミル=スンは、冷たく笑いながら戸板を閉めた。
「ようやく戻ってきたのね。商団の先導役とかいう仕事はどうだったのかしら?」
「それは明日の朝、族長の口から皆に伝えられるはずです」
ヤミル=スンが10歳になり、幼子から女衆の装束へと切り替わった際に、テイ=スンは口調を改めていた。
ヤミル=スンは、唇を吊り上げてさらに笑う。
昔はいっさい笑うことのなかったヤミル=スンは、このような顔で笑う娘になっていた。
「族長は、ずいぶんお加減が悪いようよ。明日になっても、自分の足で歩けるかどうかあやしいところね」
ヤミル=スンもまた、その年齢には不相応なほどに背がのびていた。
顔立ちも身体つきも奇妙に大人びている。そしてその黒みをおびた切れ長の瞳は、齢を重ねるごとに冷たさを増していた。
「それでもまだまだ魂を召されるには長きの時間がかかるでしょうけどね……わたしが婿取りをする姿を見るまでは生きのびてみせると笑っておいでだったわ」
「……そうですか」
「ミギィ=スンは? 報告もせずに、家に戻ったの?」
「……それもまた、明朝に族長から伝えられることでしょう」
「ふうん……?」
ちょっといぶかしげに目を細めてから、ヤミル=スンはきびすを返した。
「まあ、どうでもいいわ。あんな男に、わたしのほうから用事はないもの。……それではよい夜を、テイ=スン」
そのしなやかな後ろ姿を見送ってから、テイ=スンは戸板を叩く。
「テイ=スンです。ただいま戻りました」
「……入るがよい……」
入室すると、とたんに火のような眼光ににらみすえられた。
確かに朝よりも加減が悪くなっているようだ。頬のあたりが少しやつれて、目の下が落ちくぼんでしまっている。
しかし、その黒い瞳にみなぎる執念と生命力には、何ら変わるところもなかった。
「ずいぶん遅かったな……まさか、仕損じたわけではあるまいな……?」
「はい。仕事を果たすことはできました。しかし――」
ザッツ=スンの目が、驚愕に見開かれる。
ザッツ=スンがこれほどまでに驚きをあらわにするのを見るのは、テイ=スンにとっても初めてのことであった。
「何だと……? もう一度、言ってみよ……」
「はい」とテイ=スンはうなずいてみせる。
「残念ながら、ミギィ=スンは森に朽ちることになってしまいました。商団の人間に腹を刺されて、内臓をえぐられてしまったのです」
自分の行いは、スン家に何をもたらすのか。
そのようなことは、想像する気にもならなかった。