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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
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     没落の系譜(二)

2015.10/17 更新分 1/1

 それから6年の時が過ぎ去った。

 テイ=スンも、はや37歳。髪にはいくぶん白いものがまじり始めている。


 テイ=スンは、スンの分家の家長である。

 しかし、本家との血縁はだいぶん薄まっているし、現在は家族も妻と娘しかいない。スンの集落ではもっとも力のない家であるといえるだろう。


 だが、テイ=スンは族長ザッツ=スンの側近としての役割を担わされてしまっている。

 単純に、狩人としてはザッツ=スンやミギィ=スンに次ぐ力を有しているし、わりと堅苦しい理屈張った気性をしていることが、それとは対極にあるザッツ=スンの目にかなったのかもしれない。


(それを不満に思ったことなど、これまでは一度としてなかったが……)


 無人の祭祀堂で、テイ=スンはひとり祈りを捧げていた。

 信じ難いほど巨大なギバの頭骨が、静かにテイ=スンを見下ろしている。

 先代の家長が、この地に集落を移した際に狩ったギバの頭骨だ。


 かつての族長筋ガゼの家が滅んだのは、50年以上も昔のことである。

 残された氏族の中で、新たな族長筋たる力を有していたのはスンとルウのみであったが、本家には女児しか残されていなかったルウ家は潔く身を引き、スン家に族長筋の座を受け渡した――と、テイ=スンは父からそのように聞いている。


 そうしてスン家とルウ家は北と南に分かれて、それぞれ狩人としての仕事を果たすことになった。

 それが、いつからこのように険悪な仲になってしまったのだろう。


 むろん、その関係性が修復し難いぐらいに崩れてしまったのは、6年前のあの忌まわしい事件――ミギィ=スンとムファの女衆にまつわる一件のせいなのであろうが、それより以前からもスン家とルウ家はおたがいを忌避するようになってしまっていた。


(それはたぶん、ルウ家の力が増してきて、それをザッツ=スンが警戒し始めた、というのが一番の理由であるのだろうが……ルウ家とて、理由もなく族長筋に楯突いたりはしないだろう。我々は、どこかで道を踏み外してしまったのだ)


 あるいはそれは、ザッツ=スンがなまじ卓越した力を持って生まれ落ちたゆえの諍いなのかもしれなかった。


 ザッツ=スンは、途方もない力を有している。それほど大きな身体をしているわけでもないのに、テイ=スンとミギィ=スンがまとめてかかっても、その背を地につけさせることはかなわないだろう。


 そしてザッツ=スンには、人心を掌握する力がある。

 ザザやドムの荒くれ者でさえ、ザッツ=スンの前には頭を垂れる他ない。


 ただ――ザッツ=スンに恭順しようとしない存在もある。

 その一方がジェノスの貴族どもであり、もう一方が、ルウの一族であった。


(ザッツ=スンは善悪など関係ないところで、ただ己に屈しない存在を許せない、と思ってしまっているのかもしれない)


 ジェノスの貴族とルウの一族に対するザッツ=スンの心情は、もはや憎悪の域にまで達しているように感じられてしまった。


 ジェノスの貴族に逆らえば、森辺の民は住む場所を奪われる。

 ルウの一族と刃を交えれば、森辺の集落は滅びてしまうかもしれない。


 そうであるにも拘わらず、ザッツ=スンはいつその咽喉もとを喰いやぶってくれようかと牙を研いでいるような――テイ=スンには、そのように感じられてならなかったのだった。


(森よ――どうか、スン家の行く末に平安を……)


 そのとき、祭祀堂の入口あたりから幼い声が響きわたってきた。


「テイ=スン、そのようなところにいたのね。族長があなたを捜していたわよ?」


 テイ=スンは、ハッと後方を振り返る。

 そこに立っていたのは、黒みがかった瞳を冷たく光らせる、綺麗な顔立ちをした幼き娘――本家の長姉ヤミル=スンであった。


 テイ=スンは何とはなしに胸が騒ぐのを覚えながら、立ち上がって、そちらに向かう。


「ザッツ=スンが、わたしを捜していたと? もうじき晩餐の刻限であるというのに、いったいどうしたのであろうかな」


「知らないわ。用件までは聞いていないから」


 ヤミル=スンは、笑わない娘だった。

 まだ7歳になったばかりだというのに、人の心を見透かすような目つきをしている。

 テイ=スンは、この娘のことが苦手だった。


「そうか。それでは族長に直接お尋ねすることにしよう」


 テイ=スンは、頭を屈めて祭祀堂の外に出た。

 外に出ても、薄暗いことに変わりはない。

 太陽は西に沈みかけ、空はあやしい紫色に染まっていた。


 そうして本家に足を向けると、ヤミル=スンもひたひたとついてくる。


「何となく、今日は朝から族長の様子がおかしかったように思えるわ」


 人間味のない平坦な声で、ヤミル=スンはそのように語りかけてきた。


「もしかしたら、ルウ家を滅ぼす気持ちが固まったのかしら。刀を持つこともできないわたしたちは、いったい何をしていたらいいのかしらね」


「族長が、わけもなく刀を取ることなどありえないよ、ヤミル=スン。そのように物騒な話は口にするものじゃない」


「あら、だってルウ家はスン家の仇敵なのでしょう? だったら口をつぐんでいても同じことじゃない?」


 ヤミル=スンは、どうしてこのような子供に育ってしまったのだろう。

 母は早くに失ってしまったが、本家の長子として何不自由なく育ってきたはずであるのに、この娘には、大事な何かが欠落してしまっていた。


(とてもあのズーロ=スンの子とは思えぬような娘だ。……しかし、ザッツ=スンの血を引いていると考えれば、おかしな話でもないのだろうか)


 ザッツ=スンは、4人生まれた孫の中で、このヤミル=スンをもっとも目にかけているように思う。

 あれが男児であったならな――と、そのような言葉をもらすのも一度や二度ではなかった。


「うん……?」


 本家に近づくにつれ、何やら子供の泣き声が聞こえてきた。

 生まれたばかりの末弟ではない、もう少し大きな男の子の泣き声だ。


「ミギィ=スン!? いったい何を――」


「おお、テイ=スンか。ずいぶん遅い参上ではないか」


 本家の前には、ミギィ=スンが立ちはだかっていた。

 その手には、薪として割られた棒切れが握られており、そして――その足もとで、ふたりの幼子が泣いている。


 ズーロ=スンの子である、ディガ=スンとドッド=スンだ。

 地面にへたりこみ、自分の頭を抱えこむような体勢で、わんわんと泣いている。その腕や首筋に青い打撲の痕がいくつも残されていることに気づき、テイ=スンは言葉を失った。


「狩人としての稽古をつけてやっていたのだ。せめて父親よりは立派な狩人に育ってもらわんと、本家の男衆としての面目が立たんだろうからな」


「馬鹿な……このような幼子たちに、狩人としての稽古など必要なものか!」


 ディガ=スンはまだ5歳で、ドッド=スンはそれより1歳年少なのである。

 このような幼子を棒で打つなどとは、とうてい正気の沙汰とも思えなかった。


 テイ=スンの大声にさらなる恐怖心を誘発されたのか、ふたりの幼子は「うわあん」と声をあげて逃げ去ってしまう。


「おお、ヤミル=スン、お前の弟たちは軟弱だな。お前のように強い心を持っていれば立派な狩人になれたろうに、まこと惜しいことだ」


 にやにやと笑うミギィ=スンを冷たくにらみつけてから、ヤミル=スンもぷいっとどこかに行ってしまった。

 その小さな背中を見送ってから、テイ=スンはミギィ=スンに詰め寄る。


「説明してもらおう。お前はいったい何を考えているのだ、ミギィ=スンよ?」


 ミギィ=スンは、21歳の若衆に成長していた。

 その巨躯にはいっそうの力があふれ、容貌はいよいよ獣じみてきている。

 だが、このときばかりはテイ=スンも怯んではいられなかった。


「そのように眉を逆立てる必要はない。俺とて、好きであのような幼子どもをいたぶっていたわけではないのだ。これはスン家のため、ひいては森辺のために必要な措置であったのだ、テイ=スンよ」


「必要な措置? ディガ=スンらをいたぶって何が森辺のためになるというのだ!」


「大きな声を出すなというのに。……森辺には、ザッツ=スンの意志を継ぐ新たな族長が必要なのだ。あの幼子たちにそのような器量が存在しないなら、今の内に己の弱さを叩きこんでおく必要があろう?」


 言っている意味が、さっぱりわからなかった。

 ザッツ=スンが族長の座を退けば、それを継ぐのは唯一の嫡子であるズーロ=スンであり、さらにそれを継ぐのは長兄のディガ=スンである。

 ミギィ=スンが何を企もうと、その習わしを動かすことは絶対にできないはずだ。


「ズーロ=スンには、族長としての器量など欠片も備わっていない。ならば、病魔に犯されたとでも言い張って、隠棲してしまえばよいのだ。狩人として森に出ずに済むならば、あの軟弱者めは喜んで身を引くことであろう」


「たとえそうだとしても、それならば家長と族長の座はディガ=スンに引き継がれるだけだ。その座を奪うことなど、他の誰にもできるわけが――」


「その前に、スンの本家には立派な長姉がいるではないか? 軟弱な長兄と次兄は余所の氏族に婿入りでもさせてしまえば、長姉の伴侶こそが新たな族長としての資格を得られるであろう?」


 ミギィ=スンの双眸は、ぎらぎらと脂ぎった輝きを浮かべていた。

 それでテイ=スンは、背中に冷水をあびせかけられたような心地を味わわされてしまう。


 この男は――それほどまでに、族長の座を欲しているのだろうか?


「し、しかし……長姉のヤミル=スンは、まだ7歳だ。婿を取れるようになるには時間がかかるし――」


「婿取りが許されるまで、あと8年。それぐらいの歳月ならば族長ザッツ=スンもご壮健であろうし、いざというときはズーロ=スンめにしばし族長の座を預けてもよい。俺とてせっかくの嫁はギバに襲われて亡くしてしまったのだから、何も不都合なことはなかろう」


「しかし! ミギィ=スンとヤミル=スンでは血が近すぎる! あの娘は、お前の母の、弟の孫なのだぞ!?」


「騒ぎたてるような話ではあるまい。もっと小さな氏族であれば、そのていどの血の近さには目をつむることもあると伝え聞くぞ?」


 ミギィ=スンの澱んだ笑みは消え去らなかった。


「何にせよ、最後に決するのは族長にして家長たるザッツ=スンだ。ありがたいことに、ザッツ=スンは俺こそを次代の族長として迎えたいと、かねてよりそのような思いを抱いてくれていたからな。ザッツ=スンの決定であれば、誰も異を唱えようとはしないだろう」


 テイ=スンは、足から地面へと力が抜けていくような感覚を覚えた。

 ザッツ=スンは、確かにミギィ=スンの力を欲していたのである。

 ミギィ=スンならば、ルウ家にも貴族にも屈することなく、スン家に繁栄をもたらしてくれるだろう――と。


 テイ=スンは、自分の中の何かがみしみしと音をたてて崩れていく音色を聞いたような気がした。


「では、行くか。いつまでも族長をお待たせするわけにもいかんからな」


 勝ち誇ったように笑いながら、ミギィ=スンは本家の扉を叩いた。

 本家には、ヤミル=スンの他に女衆は存在しない。よって、分家からかまどの仕事を果たしに出向いてきていたらしい壮年の女衆が、テイ=スンたちを迎え入れてくれた。


 重い足取りで、ザッツ=スンの寝所に向かう。

 大事な話をするとき、ザッツ=スンは人の耳をはばかって自分の寝所に呼びつけるのが常であった。


「ようやく来たか、ミギィ=スンにテイ=スンよ……」


 地鳴りのような声音が響く。

 ザッツ=スンは、すでに40を越える齢になっていた。

 しかしそれでも、その力に微塵も衰えは見られない。


 室内には、ザッツ=スンの放つ猛烈な生命力が満ちており――そして、3名の男衆たちが先んじて座していた。


「戸を閉めて、座るがいい。……今日は貴様たちに、スン家の存亡をかけた重要な話をしようと思う」


 テイ=スンは、まだミギィ=スンからもたらされた衝撃から脱せぬままに、力なく膝を折った。

 その耳に、ザッツ=スンの声音が容赦なく響いてくる。


「この近年のスン家の衰退を、我は深く憂慮している。……ギバどもは森の端にまで姿を現し、男衆ばかりか女衆までもが幾人も生命を落とすことになった……テイ=スンよ、現在スン家に残されている血族は何名か?」


「は……5歳を越えた血族は、総勢で37名となりましょう」


 森辺においては、5歳を越えるまでは婚儀や葬儀の会に参加することも許されず、また、血族の人数にも数えられないのである。

 ザッツ=スンは、苛立たしげに咽喉を鳴らした。


「ついに、40名を割ってしまったのだな……このままでは、スン家はルウ家よりも小さき家と謗られることにもなろう」


「は……ですが、眷族の数ではスン家のほうが上回っております。決してルウ家に力で劣っているわけでは――」


「スン家そのものに力がなければ意味はないのだ。それならば、ザザとドムとジーンが裏切ったとき、それに抗う力がスン家には存在するのか?」


 ザッツ=スンの声は決して大きくはならなかったが、そこにははっきり怒りと苛立ちの響きがまじり始めていた。


「他の氏族は着々と血族の数を増やしているのに、スン家ばかりがその数を減じている……これは由々しき事態であろうが?」


「それはきっと、スン家がどの氏族よりも果敢にギバ狩りの仕事を果たしているからなのでしょうな。他の氏族の者どもは、ギバから逃げまどいつつ子作りにでも励んでいるのでしょう」


 醜悪な笑みをたたえながら、ミギィ=スンがそのように発言した。

 ザッツ=スンは、黒い火のような目でそちらをねめつける。


「ミギィ=スンの言葉は、ある意味で的を射ているのであろう……我の父は族長として、もっともギバの多い森の近くに集落を築いた。我々は、最初からどの氏族よりも多くのギバを狩る生を定められていたのだ」


「それこそが、狩人としての誇りでありましょうからな」


 ザッツ=スンに対してこのように気安い口を叩けるのは、もはや集落にもミギィ=スンしか存在しなかった。

 他の3名の男衆は、固く口を結んでただ族長の言葉を聞いている。


「狩人としての誇り、か……しかしジェノスの貴族どもは、そんな誇りを蔑ろにしている。我々は、生命を賭してジェノスの田畑を守っているというのに……あやつらは、わずかばかりの銅貨を支払うのみで、我々に敬意を払うこともなく、陰では蛮族と蔑んでおるのだ」


 この6年間で、ザッツ=スンの貴族どもに対する不審感はつのりにつのりきってしまっていた。

 あの、トゥラン伯爵を名乗るムントのごとき小男が、ザッツ=スンの怒りに火を注いでしまっているのである。


「我々は、正面にジェノスの貴族どもを、背後にルウ家の者どもを……そして懐にギバの存在を抱え込んでしまっている。このままでは、いずれスン家の栄華も潰えよう……」


「そのようなことはありません。族長ザッツ=スンある限り、スン家の栄華は不滅です」


 そして、ザッツ=スンなき後は自分がその栄華を受け継ぐのだと、ミギィ=スンの下卑た笑顔にははっきりそのように書かれている気がした。


「ミギィ=スンよ……貴様であれば、貴族どもにもルウ家の者どもにも遅れを取ることはないかもしれん……しかし、このまま血族の数が減じていけば、その限りではあるまい。貴様とて、ひとりでルウの血族すべてを相手取れるわけではないのだからな……」


「は……それはその通りでありますが――」


「そのように不安な顔をすることはない……我は、次代の族長にも変わらぬ栄華を受け継がせたいと、そのように願っているだけなのだ」


 と――ザッツ=スンが、ふいに笑った。

 それはまるで、血に飢えた悪鬼のごとき凄まじい笑みであった。


「そのために、我は一策を講じることにした……その前に、貴様たちの覚悟のほどを知っておきたかったのだ。我はスン家の繁栄のために、ひいては森辺の民の繁栄のために、あえて大きな禁忌を犯す……貴様たちは、何があろうとも我の真情を疑うことはない、と誓うことができるであろうかな?」


「禁忌を犯すとは、森辺の掟を破るという意味でしょうか?」


 テイ=スンは愕然と問い質した。

 ザッツ=スンは、変わらぬ笑みをたたえている。


「その通りである……ただし、我欲のために破るのではない。狩人としての正しき道を進むために、新たな掟を打ち立てるのだ」


「そ、それはいったい――?」


「それを明かす前に問いたいのだ……貴様たちは、我の言葉を信ずることができるか?」


 ザッツ=スンの、さして大きくもない肉体から、激情が黒い炎となって渦を巻き始めたかのようだった。


「貴様たちが裏切れば、スンの家は滅ぶかもしれぬ……また、力が整うまでは、家族や血族といえども秘密は守り通さねばならぬ……我とともに古き掟を捨て去り、民を正しき道に導こうという覚悟が、貴様たちには備わっているか?」


「無論です」と、ミギィ=スンがあっさりと答えた。


「森辺の族長が、正しき未来のために新たな掟を打ち立てる。そこに疑念を差しはさむ余地などあろうはずもありません。このミギィ=スンは、族長とともにその大志を担いたいと願います」


 3名の男衆も、硬い声音で「従います」と応じることになった。


 ザッツ=スンの目が、ゆっくりとテイ=スンに視線を定める。

 その凄まじい眼光に魂を炙られながら、テイ=スンは生唾を飲み下した。


「森辺の民の繁栄のため……狩人として正しい道を進むため……なのですね?」


「……その通りである……」


 テイ=スンは、苦悩し、葛藤した。

 強き力を得るためならば、ミギィ=スンのような荒くれ者でも族長に迎えようという、そんなザッツ=スンがどのような手段で己の道を突き通そうとするのか。想像しただけで、身体が震えてしまいそうだった。


 しかし――病魔に倒れてしまった妻と、まだ幼い娘のことを思う。

 テイ=スンが伴侶に選んだ女衆は、生来身体が弱かった。生む子供もみな大きくなる前に亡くなってしまい、最後に生まれたオウラだけが、ようやく元気に育ってくれたのだ。


 ザッツ=スンに逆らえば、スンの集落を追放されることになるだろう。

 スンの眷族を頼ることもできないし、もしかしたら、ルウ家の者たちにつけ狙われることになるかもしれない。いまやルウ家ははっきりとスン家を敵視しており――そしてテイ=スンは、長きに渡ってザッツ=スンの手足となり働いてきた身なのである。


 6年前、ただひとたびだけスンの集落に現れたドンダ=ルウという狩人のことを思い出す。

 あの男は、決してスン家を許さないだろう。

 ムファの女衆を死に至らしめたミギィ=スンと、それを許したザッツ=スンを、絶対に許すことはないだろう。


 ザッツ=スンの庇護もなしに、あのような男に立ち向かえるはずがない。

 6年前のあの夜に、ミギィ=スンの罪を追求できなかった時点で、テイ=スンの道は定まってしまっていたのだ。


 永劫とも思える苦悩の果てに、テイ=スンは「従います」と応じていた。


「ならば、明かそう……これこそが、我々の進むべき正しき道である」


 そうして語られたザッツ=スンの言葉に、その場にいた者たちは全員驚愕の声をあげることになった。


              ◇


(モルガの森の恵みを荒らす……まさか、それほどの禁忌を破ろうなどとは……)


 悪夢の中を泳いでいるような感覚で、テイ=スンは本家の外にまろび出た。

 ともに家を出た男衆らも、呆けた顔でそれぞれの家に戻っていく。


 森の恵みで、腹を満たす。

 ギバは、食べるために必要な分だけを狩る。

 そうして森の恵みを収穫し続ければ、食べるものを失ったギバたちは集落のそばからいなくなる。


 それが、ザッツ=スンからもたらされた「正しき道」であった。


「まずは、スン家が族長筋としての力を取り戻すのだ。その末に、ザザやドムといった眷族たちにもこの教えを広めていき、ルウ家を滅ぼす力を手に入れる……そして最後には、ジェノスの貴族どもをも屈服させてみせよう」


 ザッツ=スンの言葉が、頭から離れない。


「ルウ家の者どもを黙らせたのちには、すべての民にこの掟を守らせるのだ……さすれば、ギバは森からあふれかえり、ジェノスの田畑を喰らい尽くすことになる。そうなってようやく、貴族どもは自分たちがどれほど我々の力を侮っていたかを知ることになるであろう……そのときこそ、我々は狩人としての真の誇りを取り戻すことができるのだ」


 ザッツ=スンは、ギバを己の刀として、貴族どもに立ち向かおうとしているのである。

 ギバの恐怖を再びジェノスに撒き散らし、この脅威を取り除けるのは自分たちだけなのだ、と――そのようにして、森辺の狩人の力を認めさせようとしているのだ。


「だが、まずはスン家が力を蓄えるのだ。君主筋たるジェノスの領主に刀を向けるとあっては、多くの者が恐怖に屈してしまうやもしれぬからな……ルウ家を屈服させるまで、この大志は我々6名の中だけに眠らせておくのだぞ……?」


 その6名に、ズーロ=スンは含まれていなかった。

 ということは――やはりザッツ=スンは、ミギィ=スンに族長の座を受け継がせようとしているのだろう。


 ヤミル=スンが婿を取れるのは、8年後。

 それまでは、自分自身が族長として君臨し、支配し続けるつもりなのだ。


 ザッツ=スンは、43歳。

 ギバ狩りの仕事を打ち捨てれば、生命を危険にさらすこともない。


 8年後には、いったいどのような未来が待ち受けているのか。

 テイ=スンには、想像することさえ難しかった。


「……どうしたのですか、テイ父さん?」


 と、ふいに薄闇の向こうから語りかけられた。

 振り返ると、立っていたのは娘のオウラだ。

 その手に大きな赤子を抱えながら、オウラははかなげに微笑んでいた。


「オウラ……お前こそ、このような場所で何をやっているのだ?」


「晩餐の支度が済んだので、本家でミダ=スンの子守りを手伝っていたのです。あまりに大きな声で泣くものですから、家の外を歩きながらあやしていました」


 そのミダ=スンは、すぴすぴと鼻息をたてながら寝入っていた。

 生まれたばかりとは思えない、ひとかかえもある巨大な赤子である。

 まだ13歳のオウラはずいぶん重そうに、それでもたいそう大事そうに、ミダ=スンの巨体を抱えていた。


「幼子を持つ分家の女衆が乳をあげているのですけど、自分の子にあげる分まで吸いつくされてしまいそうだと嘆いていました。この子はきっと、誰よりも大きな男衆に育つでしょうね」


 愛おしそうに、ミダ=スンを見つめている。そんなオウラの姿を見ているだけで、テイ=スンは心臓を握り潰されるような思いであった。


(オウラも、禁忌を破らされるのだ……そして、それが他の氏族に知れれば、わたしたちは全員、頭の皮を剥がされることになる)


 だからこそ、誰もが逆らえぬ力を得られるまでは、決してこの秘密を他の氏族に明かしてはならない、とザッツ=スンは述べていたのだ。


 テイ=スンは、無意識の内に奥歯を噛み鳴らしていた。


(絶対に、わたしの家族だけは守ってみせる……)


 それでも森がこの行いを許さなければ、スン家は滅ぶことになるだろう。

 ザッツ=スンが正しいのか、間違っているのか。

 裁くのは、森だ。


「……ミダ=スンならば、兄たちよりも強い狩人になれるやもしれんな」


 胸中に吹き荒れる激情をおし殺しつつテイ=スンがそのように述べると、オウラは「そうですね」と微笑んだ。


 8年後、ミダ=スンが族長の器たる片鱗を見せることは可能であろうか。

 そうすれば――ザッツ=スンも、ミギィ=スンに跡目を取らせようという考えを捨ててくれるかもしれない。


 ザッツ=スンに従うという道を選んだテイ=スンであったが、あのミギィ=スンを族長とするのは、あまりに危険に思えてならなかったのだ。


 もしも6年前の事件の真相が、テイ=スンの思っている通りのものであるならば――ミギィ=スンは、我欲のためだけに権勢を揮ってしまうかもしれない。

 それだけは、決して許すわけにはいかなかった。


「おや、まだ家に戻っていなかったのか、テイ=スンよ」


 笑いを含んだ、ミギィ=スンの声。

 テイ=スンは、声のあがった方向をゆっくりと振り返った。

 本家から、ミギィ=スンがのそりと出てくる。

 ミギィ=スンだけは寝所に残って、ザッツ=スンと何やら言葉を交わし続けていたのである。


「うん? そこの娘は――?」


「わたしはテイ=スンの子、オウラ=スンです。本家の仕事を手伝っていました」


 オウラは恐ろしげに目を伏せつつ、そのように答えた。


「テイ父さんも家に戻るのですね? それではミダ=スンを返してきます。少し待っていてください」


「ああ」


 オウラは逃げるように家の中へと駆け込んでいった。

 その小さな背中を見送りながら、ミギィ=スンはにたにたと笑っている。


「お前の子供は、ずいぶん可憐なのだな。2年後には、さぞかし美しい娘に育つだろう」


「…………」


「小生意気な娘をねじふせるのも楽しいが、可憐な花を摘み取るというのも嫌いではない。お前がヤミル=スンとの婚儀に反対するのであれば、あの娘を俺の嫁に差し出してみるか、テイ=スンよ?」


 テイ=スンの視界が、真っ赤に染まった。

 無意識の内に、腰のあたりをまさぐってしまう。

 しかし、刀は家に残したままであった。


「冗談だ。族長の座と引き換えにできるような娘など、この世には存在せぬであろうよ。さ、晩餐を食いに戻るか。……町で売られる野菜を食するのもあとわずかだ。存分に味わってくれようぞ」


 聞くに堪えない笑い声を響かせながら、ミギィ=スンが闇の向こうに消えていく。


 目のくらむような憤激を抱えながら、それでもテイ=スンには無言で立ちつくすことしかできなかった。

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