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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
244/1675

第六話 ルウの次兄の憂鬱

2015.9/25 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。次回の更新まで少々お待ちください。

「うう……」と情けない声をあげて、ディガは地面に崩れ落ちた。


 ともに材木を抱えて運んでいたダルム=ルウは、自分も転倒しそうになってしまい、思わず舌を鳴らしてしまう。


「これしきの重さで音をあげるな。貴様はそれでも森辺の男衆か?」


 そのように叱咤しても、うずくまったままぜいぜいと息をついている。

 まだ働き始めてから間もないのに、本当に疲弊しきってしまっているらしい。


 ダルム=ルウがさらなる声をあげようとしたところで、背後から低い声で呼びかけられた。


「ルウの次兄よ。そうなってしまったら、足蹴にしても動く男ではない。そいつが動けるようになるまでは、お前も休んでいてくれ」


 ギバの頭骨を頭にかぶった、ドム家の若い男衆である。

 その男衆は、かつてディガの弟であったドッドとともに、切り倒したばかりの材木を運んでいた。

 そちらのドッドも四角い顔に大量の汗をかいており、今にも倒れ伏してしまいそうな風情だ。


 時は、青の月の31日。

 ダルム=ルウがこの北の集落にやってきて3日目のことであった。


 ディガとドッドは、かつてドムの集落から逃げ出した罪を問われて、現在は自由を奪われている。日中はこうしてザッツ=スンに焼き払われたドムの家の修復にかりだされ、夜はザザの集落で、やはり罪人のズーロ=スンとともに見張られる、という生活に身を置いているのだ。


 両足は、走れぬように短い革紐でくくられている。

 顔には無精髭がこびりついており、かつてはダルム=ルウよりも大柄であった肉体も、ずいぶん小さくしぼんでしまったようだ。


 瞳には、生気がない。

 狩人の衣も角と牙の首飾りも剥ぎ取られてしまい、装束は薄汚れている。

 本当に、森辺の民とは思えぬような見窄らしい風体であった。


「……しっかりと晩餐を食わぬから、そのように情けない姿をさらすことになるのだ」


 言いながら、ダルム=ルウは地面に落ちた木材の上に腰を下ろした。


「力が出ないのなら、干し肉を食え。貴様の分は、俺が預かっている」


 そのように告げても、ディガは力なく首を振るばかりであった。

 それでまた、ダルム=ルウは怒りを覚えてしまう。


「この仕事は、罪を犯した貴様に課せられたものなのだ。貴様、己の罪を贖おうという気持ちはないのか?」


 そうして少し声を荒らげただけで、ディガは「ひいっ」と頭を抱え込んでしまった。


 ダルム=ルウは馬鹿馬鹿しくなり、ディガの代わりに干し肉をかじり取った。

 ドム家の者たちから託された干し肉である。

 その干し肉の強烈な臭みが、ダルム=ルウをまた苛立たせた。


 なんと不味い干し肉であろうか。

 我慢のならない臭気が、鼻の奥に抜けていく。

 だが――ふた月にも及ばぬ前までは、ダルム=ルウも毎日なんの疑問もなくこのような干し肉を食べていたはずだった。


(まったく、忌々しいやつだ……)


 生白い色をしたかまど番の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの忌々しいかまど番のせいで、ダルム=ルウは干し肉の不味さに苛立ってしまう、そんな人間に成り果ててしまったのだった。


 いや、不味いのは干し肉ばかりではなかった。

 晩餐などは、もっとひどい有り様なのである。


 乱雑に切ったギバの肉を、野菜やポイタンと一緒に煮込むか、あるいは熱した鉄鍋で焼く。血抜きをしていないギバ肉とは、これほど不味いものであったか――と、3日前にこの集落にやってきた夜などは、心の底から愕然とすることになったダルム=ルウであった。


(いやしかし、レイナならば血抜きをしていなかったギバの肉でも、もっと上等な食事をこしらえていたはずだ)


 火加減なのか、野菜の選び方なのか、肉の切り方なのか――とにかく、ここまでひどいことはなかったと思う。

 しかし、そうだからといって、何がどうなるわけでもなかった。


 昨日の貴族との会談でも、やっぱり納得のいく話は得られなかったらしい。

 その場から戻ってきたグラフ=ザザなどは、会談におもむく前よりも不機嫌そうな様子になってしまっていた。


 ということは――まだ当分、ズーロ=スンらにも監視と警護が必要である、ということである。


 この北の集落に出向くと決めたのは、ダルム=ルウ自身の意志であった。

 いつまでも警護役に男衆の手を割くことはできないので、休息の期間にあるルウの集落に助力を願いたいと、グラフ=ザザがそのように言いだしたので、ダルム=ルウは自ら志願してみせたのである。


 ダルム=ルウとともにやってきたレイとルティムの男衆らは、ザザの集落でズーロ=スンを見張っている。

 一日を家の中で過ごすなどとは、考えただけでうんざりしてしまうので、ダルム=ルウはこのディガたちを見張りながらドムの集落で働く仕事を受け持ったのだ。


 ドムの男衆らは、さきほどの1名を残して狩人の仕事に出向いている。

 その男衆とともにディガとドッドを見張りつつ、焼き払われた家の修復に励んでいるわけなのだが――3日目にして、ダルム=ルウは忍耐の底をつきそうになってしまっていた。


(こんなところにまでやってきたのは、無駄足だったか)


 力なくへたりこんだディガの背中を見下ろしながら、そのように思う。


 この情けない男たちの弱さを知ることが、自分の弱さを知るための一助になるのではないのか――ダルム=ルウは、そんな思いを秘めながら、家族のもとから遠く離れて、このような場所にまで出向いてきたのだった。


             ◇


 いったい自分はいつ道を踏み外してしまったのだろう、とダルム=ルウは不思議に思う。

 ほんのつい最近まで、ダルム=ルウは何の過不足もなく生きていくことができていたはずだった。


 愛すべき家族たちに囲まれて、なに不自由なく、森辺の民としての誇りを胸に生きていた。唯一不満があるとすれば、それは誇りも何もないスン家の人間たちを族長筋としてのさばらせてしまっていることぐらいだった。


 しかし、ルウ家とその眷族がもっと力を蓄えれば、近い将来にスン家を討ち倒すことはできる。先代の家長は無念と怒りの内に森へと魂を返すことになったが、家長の座を継いだ父ドンダならば、森辺に秩序を取り戻せるはずだった。


 ダルム=ルウは、父ドンダを誰よりも敬愛している。

 森辺で一番の勇者は父ドンダであり、スン家を討つ力を持つのはルウ家のみである。そんな父の息子として、ルウ家のひとりとして生まれ落ちたことを何よりの誇りと思い、ダルム=ルウはこれまでの生を過ごすことができたのだ。


 それが崩れてしまった最初のきっかけは――やはり2年前の、アイ=ファとの出会いであっただろうか。

 しかし、そのときにはそれほど心を乱さずに済んだと思う。


 末妹のリミと最長老のジバが縁を結んでいたアイ=ファという娘が、すべての家族を失ったあげく、スン家の長兄と諍いを起こした。それを聞きつけた父ドンダがアイ=ファにダルム=ルウへの嫁入りを申し出て、それを断られたのだ。


 そのときは、べつだん何とも思わなかった。

 ただ、馬鹿な女だと思ったぐらいである。


 父ドンダや兄弟たちとともに、ダルム=ルウもファの家を訪れた。アイ=ファという娘はたいそう美しかったが、女衆の身でありながら狩人の衣と刀を身に帯び、自分はこれから狩人として生きていく心づもりだと――そんな馬鹿げたことを述べていたのである。


 年齢は、たしか15になったばかりだと言っていたはずだ。

 その目は確かに女衆とも思えぬ強い光をたたえていたが、その細腕ではまともに刀をふるうこともできまい。無駄に生命を散らすだけだ。美しいのに、愚かなのだろう。このような愚か者はこちらだって願い下げだ。

 ダルム=ルウには、そうとしか思えなかった。


 しかし、その2年後。

 今から、ふた月ほど前。

 ダルム=ルウは、ルウの集落でアイ=ファと再会することになった。


 末妹のリミが、ジバのための食事を作るために、ファの家の者たちにかまどの番をまかせたい、などと言い出したのだ。

 アイ=ファがファの家の家人として招いた異国生まれの男衆が、魔法のように美味なる食事を作ることができるのだ、と。


 馬鹿馬鹿しいと思った。

 そんなもので、ジバが生きる力を取り戻せるはずはないと思った。

 ジバが死んでしまうのは悲しいが、最長老は森辺で誰よりも長く生き、自分の仕事をつとめてきたのだ。


 ジバの魂が森に召される日には、やはり自分も涙を止めることはできないのだろうと思うが、どんなに悲しくても、人間の寿命が永遠でないのはこの世の摂理である。森の定めた理である。無理にあらがえば、余計な苦痛を味わうばかりではないかと思う。


 しかし、父ドンダはリミの言葉を受け入れた。

 それでアイ=ファは、得体の知れない家人を引き連れて、ルウの集落を訪れることになったのだ。


 2年ぶりに再会したアイ=ファは、より美しい女衆に成長していた。

 なおかつ、拳ひとつぶんほども背がのびて、そのしなやかな身体には狩人としての力が満ち満ちていた。


 これならば、確かにいっぱしの狩人として働けるだろう。

 また実際、その首には山ほどの牙と角が下げられていた。


 しかし――ダルム=ルウは、心をかき乱されてしまった。


 確かに、狩人としての力を手に入れることはできたのかもしれない。

 だが、家族や眷族の助けもなく、たったひとりで狩人としての仕事を続けるなど、無駄に自分の生を弄んでいるとしか思えない。


 アイ=ファが女衆としてたくさんの子をなして、それを立派な狩人として育てあげれば、より強い力でギバを狩ることができるはずではないか。

 それが、狩人としての力を持たない異国生まれの男衆などを家人として迎え、家長面をしていることが、癇に触ってしかたがなかった。


 だからダルム=ルウは、再会したその夜にアイ=ファを罵倒することになった。

 感情にまかせて、思いつく限りの悪罵をあびせかけることになった。

 そうして、自分の嫁になれ――と、改めて要求してやった。


 しかしアイ=ファは、冷たい眼差しを返してくるばかりで、決してダルム=ルウに応じることはなかった。

 あまつさえ、生白い家人のほうまでもが、自分に食ってかかってきた。


 ルウの集落のど真ん中で、刀も持たない身でありながら、アイ=ファとその家人はまったくダルム=ルウを恐れる風でもなかったのである。


「今でこそ、俺はアイ=ファの家のかまどをまかされてるけどな。ほんの5日前までは、そのかまどもアイ=ファが守ってたんだ! そいつはひとりでギバを狩って、ひとりでかまどを守ってたんだよ! 男衆の仕事も女衆の仕事もひとりできっちりこなしてたんだぞ? お前にそんな真似ができるのか!?」


 生白い顔をしたかまど番――ファの家のアスタは、そのように吠えていた。

 森辺の女衆よりも力の弱そうな異国生まれの軟弱な男が、まるで狩人のように両目を燃やしながら、そんな言葉をダルム=ルウに叩きつけてきたのだ。


 貴様はルウの家に喧嘩を売るつもりなんだな、とダルム=ルウは返した。

 これ以上ふざけた口をきくつもりなら、その口を耳まで裂いてやる――とまで思っていた。


 しかし、ファの家のアスタは怯えるどころか、いささかげんなりとした顔でさらに言葉を重ねてきたのである。


「だからさ、俺は森辺の民にもルウの家にも文句をつけてるわけじゃないだろ。俺はあんたに言ってるんだ。ダルム=ルウ、あんた個人に言ってるんだよ。俺の恩人であるアイ=ファに失礼な口を叩くなってな」


 その言葉が、奇妙に胸に突き刺さった。

 何がそれほど自分を動揺させたのかはわからない。ただ、ダルム=ルウは怒りに目がくらみそうになりながら、何を言い返すことも、刀を抜くこともできなくなってしまったのだ。


 それからファの家のアスタは、ルティムの祝宴のかまど番をつとめあげ、宿場町などで商売を始め、ついにはスン家の悪行を暴く役回りまでを演じることになった。


 その間、自分は何をしていただろう。

 何もしていない。

 ただひたすら、狩人としての仕事をつとめていただけだ。


 むろん、自分は狩人なのだから、それで何も間違っていない。

 分家のシン=ルウを救うために手ひどい傷を負い、しばらくは狩人としての仕事を休むことにもなったが、その後はこうしてまた以前と同じように働けるようになった。


 狩人として、森辺の民として、自分は何にも恥じることのない生を歩んでいる。


 しかし――

 いつまでたっても、ファの家のアスタの言葉が頭を離れることはなかった。


「俺はあんたに言ってるんだ。ダルム=ルウ、あんた個人に言ってるんだよ」


 個人とは、何だ。

 確かに自分はダルム=ルウというひとりの人間だが、森辺の民であり、ルウ家の次兄だ。それらの事実がダルム=ルウから剥がれ落ちることは永遠にない。そこを切り離して考えることに、大きな意味が生じるとも思えなかった。


 だが、ファの家の者たちを見ていると、妙に胸が騒いでしまう。


 女衆でありながら、アイ=ファは狩人としての仕事を果たし、男衆でありながら、アスタはかまど番としての仕事を果たしている。

 それは、森辺の禁忌でこそなかったものの、長年の習わしには背く行為であろうと思う。


 女衆は子供をなし、男衆は力の限りギバを狩るべきなのだ。

 そうしなくては、森辺の秩序は保たれない。


 すべての女衆が狩人として生き、子をなす仕事を捨ててしまったら、一族は滅ぶのだ。

 そのようなことが、許されるはずもないだろう。


 しかし現在、森辺はファの者たちの働きによって、大きく変革しようとしている。

 森辺に豊かさをもたらしたいなどと述べながら、ファの家のアスタは宿場町でギバの料理を売り始め、それがじょじょに実を結びつつあるのだ。


 しかもスン家は、アスタの進言によって滅ぶことになった。

 その後は、ファの者たちとの縁で森辺に姿を現したカミュア=ヨシュなどという者までもが関わってきて、ザッツ=スンや貴族どもの旧悪までもが暴かれようとしている。


 兄のジザなどは、大いに困惑しているのだろうと思う。

 ジザは、自分以上に掟や秩序というものを重んじているからだ。


 しかし父ドンダはファの者たちの力を認めているようであり、実際に、森辺の民は正しい方向に進んでいるようにも感じられる。


 だけど、それでも――ダルム=ルウは、アイ=ファに女衆として生きてほしかった。


 だから、収穫祭の力比べで、アイ=ファに挑むことになった。

 自分に敗れたらルウ家の家人になれと、そのような条件をつきつけてやったのだ。


 せめてルウ家の家人として生きれば、森に朽ちる危険は少なくなる。そうしてたくさんの人間に囲まれて生きていくうちに、女衆としての生に意味や価値を見出すことができれば――という、一縷の望みを託しての行いであった。


 しかし、ダルム=ルウはアイ=ファに敗れてしまった。


 いつの間にか、アイ=ファは自分よりも強い狩人として成長を遂げていたのだ。

 もう、何をどうあがいても、自分ではアイ=ファの心を動かすことはできないのだろうと思う。


 そうしてダルム=ルウは、この北の集落にやってきた。

 どうして自分はこんなにも弱くなってしまったのか――それを知るためにである。


(しかし、すべては無駄足だったようだ)


 老人のように背中を曲げたディガの姿を見下ろしつつ、思う。

 こいつらは、ダルム=ルウの想像を遥かに越えて、愚鈍であり、脆弱であった。


 族長筋に生まれ落ちながら、ひとりの人間としては何の力も持つことはできなかったディガやドッドを知ることで、何か自分の疑念を晴らす助けにはならぬものかと考えたのだが――ここまで情けない男たちに、自分の姿を重ねることなどはさすがにできそうになかった。


「あら、退屈そうね、ダルム=ルウ」


 笑いを含んだ声が横合いからかけられる。

 振り返ると、大きな木材を抱えたドム家の女衆が自分を見つめていた。

 これはたしか、ドムの本家の家長の妹だ。


「そのディガという男衆は、幼い子供よりも早く力尽きてしまうものね。そんな男衆につきあっていたら、あなたは力が有り余ってしかたがないでしょう」


 まったくその通りであったので、ダルム=ルウは「ああ」とうなずき返してみせる。

 たしかレム=ドムとかいう名前を持つその女衆は、これ以上ないぐらいの蔑みを込めながら、ディガのほうに視線を移した。


「まったく、情けない。森辺の狩人として生を受けながら、よくもこうまでぶざまな姿をさらせるものだわ。わたしだったら、恥辱のあまり自分で生命を絶っていたでしょうね」


 女衆にそのような口を叩かれても、ディガは顔を上げようとすらしなかった。

 レム=ドムは傲然と肩をそびやかし、力強い足取りで立ち去っていった。


(どうしてこいつらは、ここまで誇りも何もなく生きていくことができるのだ)


 臭い干し肉をかじりながら、ダルム=ルウは怒気を吐き出すために深々と息をつくことしかできなかった。


              ◇


 その2日後のことである。

 北の集落にやってきて5日目の夜、ズーロ=スンを捕らえていたザザの集落に、侵入者がやってきた。


 みなが寝静まった、夜更けのことだ。

 交代で休みを取っていたダルム=ルウは、レイの男衆のがなり声で飛び起きることになった。


「曲者だ! 町の人間が忍び込んでいるぞ!」


 続いて響き渡る、草笛の鋭い音色。

 あちこちの家の扉が開いて、狩人たちが飛び出していく気配が伝わってくる。


 ダルム=ルウは、かたわらに控えていたルティムの男衆と目を見交わしてから、背後の扉を引き開けた。

 闇の中にうずくまっていた複数の影が、ぎょっとしたように身を起こす。

 周囲の気配を探りながら、ダルム=ルウはラナの葉で燭台に火を灯した。


 ズーロ=スン、ディガ、ドッド――3人ともに手足をくくられたままで、板を張られた窓にも異常はない。

 ダルム=ルウたちの役割は、何が起きてもこの連中のそばから離れず、監視と警護を続けることであった。


「な……何が起きたんだ?」


 ディガが、震える声で問うてくる。

「何者かが集落に忍び込んだらしい」とだけ答えておいた。


 次の瞬間――ズーロ=スンが、奇妙な声でうめき始めた。


「ジェノスの貴族どもだ……貴族どもが、我の身柄を奪いに来たのだ!」


「おい、ズーロ=スン――」


「もう嫌だ! 我は父の言葉に従ってきただけなのだ! それが罪だというのなら、この頭の皮を剥げ! 我は、森に魂を返す!」


 狂ったようにわめきながら、壁にガンガンと頭を打ちつける。

 日中の、生ける屍のごとき姿からは想像もつかないような狂乱っぷりであった。


「やめろ! お前はこれから罪を裁かれる身なのだ!」


 ルティムの狩人が、慌てた様子でズーロ=スンの身体をおさえつける。


「手を貸してくれ、ダルム=ルウ。柱に身体をくくりつけてしまおう」


「ああ」


 もとは父ドンダにも劣らぬ大男である。いかに痩せ細ったとはいえ、その狂乱をおさえるのは並大抵の苦労ではなかった。

 ふたりがかりでその巨体を柱にくくりつけ、舌を噛まれぬように丸めた布を口の中にねじこんでも、まだしばらくズーロ=スンは罠に掛かったギバのように暴れ狂っていた。


「俺だって、もう嫌だよ……どうして俺たちがこんな目に合わなくちゃならないんだ……」


 と、ディガがはらはらと涙をこぼし始める。

 その姿に、ダルム=ルウはまた怒りをかきたてられてしまった。


「何を嘆いているのだ。どうしても何も、貴様たちは数々の罪を犯してきたのだろうが」


「だって……俺たちは、スン家の掟に従ってただけなんだよお……」


 まるで幼子のような顔であり声であった。

 本当にこの男は自分と同じ年齢で、しかもかつては族長の跡取りであったのかと、ダルム=ルウはいっそうの怒りをかきたてられてしまう。


 このディガが、ダルム=ルウにとっては一番我慢のならない相手であった。

 普段は死人のような目をしてぼんやりしているズーロ=スンよりも、陰気な顔つきで黙りこくっているドッドよりも、何かとめそめそと泣き顔をさらすこのディガが、もっともダルム=ルウの気性にはそぐわないのだ。


「そのスン家の掟とやらが間違っていたからこそ、貴様たちは罪人として扱われることになったのだ。同胞の目を盗んでモルガの恵みを荒らし、狩人としての仕事を果たしていなかったというだけで、本来であれば死罪であろうが」


「だけど……掟を定めたのはザッツ=スンだ……俺たちは、それに従っていただけなんだ……」


「だから――」と言いかけて、ダルム=ルウは口をつぐむことになった。

 何かが、心に引っかかったのである。


 ダルム=ルウは膝を折り、ディガの泣き顔を覗き込んだ。

 ディガは慌てて目を伏せて、ダルム=ルウの視線から逃れようとする。


「かつてのスン家の長兄よ。貴様は本当に、自分の生に何の疑問も抱いてはいなかったのか? ザザやドムといった眷族たちにも真情を隠し、数々の大罪を犯してきた、そんな生を疑問に思うことはなかったのか?」


「だ……だってそれが、俺たちの掟だったから……」


「それはザッツ=スンの定めた間違った掟だ。それが森辺の掟から大きく外れていたということは、貴様たちだって承知の上だったのだろうが?」


「で、でも……本家の家族も、分家の血族も、みんなその掟に従っていた……自分に一番近しい者たちが掟に従って生きているのに、自分だけが裏切るわけにはいかないじゃないか……? も、もしも俺たちが森辺の禁忌を破っていることが他の人間に知れちまったら、血族の全員が頭の皮を剥がされていたかもしれないんだぞ……? 俺たちには、ザッツ=スンの掟を守る生を選ぶことしかできなかったんだ……」


 聞けば聞くほど、愚かしい話である。

 しかしそれでも、ダルム=ルウの胸にはむくむくと奇妙な感覚が広がり始めていた。


(こいつらは、愚鈍で脆弱な卑劣漢だ。分家の者たちは、生きる希望を失いながら、それでも自分や家族の身を守るために、ザッツ=スンの掟を守り抜いていたのだろうが――こいつらは、さらにその上にあぐらをかいて、真面目にギバを狩る他の氏族らをせせら笑っていた。本家の者たちには氏を奪う罰も必要だと定めた父ドンダらの判断は、決して間違っていなかった)


 だが――スン家の人間にとっては、それが絶対の掟であったのだ。

 森辺の民にとっては森辺の掟が絶対であり、スン家の人間にとってはスン家の掟が絶対であった。

 正邪の別さえ考えなければ、そこには何の違いがあるのだろう。


 もしも――

 もしも自分がスン家に生まれついていたら、どうなっていただろうか。

 自分がディガと同じ立場であったら、いったいどうなっていただろうか。


 ザッツ=スンは、ほんの10年前までは、絶対的な族長として君臨していたのである。

 そんなザッツ=スンの孫として、腑抜けたズーロ=スンの子として生まれ落ち――あんな死人のような目をした血族たちに囲まれて育ったら、自分は今のような人間でいることができただろうか?


 この道こそが正しいのだと言い切るザッツ=スンに、それは違うと刃向かえるような、そんな誇りを持つ人間でいられただろうか?


 父ドンダの教えを絶対だと信じ、それを疑うこともなかった自分が、ザッツ=スンの教えを疑うことができただろうか?


 ダルム=ルウには、わからない。


 そして――

 ファの家のアイ=ファとアスタならば、いったいどうだったのだろうか?


 アイ=ファがスン家に生まれついていたら、いったいどのような人間に育っていたのか。

 アスタがスン家の人間に拾われていたら、いったいどのような道を歩いていたのか。


 あの者たちは、森辺の習わしには真っ向から背いていた。

 女衆でありながら狩人を志したり、異国生まれの人間を家人に招いたり、宿場町で商売をしたり――森辺の禁忌には触れていなくとも、習わしには背いている。だからこそ、ザザやドムやジーンや、それにベイムなどといった氏族の者たちも、ファの家の行いには異議を申し立てているのだ。


 しかし、ファの家の者たちは、それでも自分を曲げようとはしなかった。

 森辺の民として正しく生きたいと願いながら、森辺の習わしには背くような行いをして、なおかつ森辺に恵みをもたらしたいなどと――そのように、錯綜した道を歩んでいるのである。


(あいつらならば、もしかして――ザッツ=スンよりも自分のほうが正しいのだと、そのように信じて自分の道をつらぬき通すこともできたのか?)


 アイ=ファもまた、ファの家の親たちの存在なくして、あのように誇り高い人間にはなりえなかったのかもしれない。

 だけどあのアイ=ファには、ひとりで生きていく力がある。少なくとも、孤独な生を恐れない強さはある。そして、森辺の習わしより自分の心情を重んじようという傲慢さがある。


 アイ=ファならば、悪逆なる祖父や愚鈍なる父にあらがおうという気概を振り絞ることはできたかもしれない。


 そして、アスタだ。

 あの生白いかまど番がスン家の家人となっていたら、どうなっていたか。


 もしかしたら、拾われたその夜に生意気な口を叩いて、殺されていたかもしれない。

 どんなに強い心情を持っていても、あの男には刀をふるう力もないのだ。


 だが――少なくとも、悪逆なるスン家のために、銅貨を稼ごうなどという真似には及ばなかっただろう。


 ひょっとしたら、あの得体の知れない長姉や、末弟や、それにテイ=スンあたりを味方につけて、内側からスン家を滅ぼしていたかもしれない。


(それが、俺とあいつらの違い――なのか?)


 燭台の火の下で、ダルム=ルウはぼんやりと考えた。

 気づけばディガは、顔をそむけたまま、ぶるぶると震えてしまっている。

 ダルム=ルウがいつまでもその横顔をにらみつけているので、恐ろしくなってしまったのだろう。


 ダルム=ルウの胸には、怒りとは異なる激情が吹き荒れることになった。


(こいつだってルウ家に生まれついていれば俺のような人間になっていたのかもしれないし、俺だって、スン家に生まれついていればこのような姿をさらすことになっていたのかもしれない)


 ダルム=ルウはまぶたを閉ざし、こぼれそうになる重い息を腹の底に飲み下した。


 自分は、弱い。

 自分が有していた力は、すべて外から与えられたものであったのだ。

 むろん、それは間違った力ではない。

 家族のために、ルウ家のために、森辺のために――これからも、その力を正しく使っていきたいと願う。


 しかし。

 これはきっと、ルウ家の力だ。

 ルウ家が滅んだら失われてしまう力なのだ。


 すべての家族を失っても、アイ=ファの力は失われなかった。

 きっとアイ=ファは、ファの人間として、森辺の民として得た力を、そのまま自分の力とすることを成し得たのだ。


 そして、アスタもまた、すべての家族と故郷を失いながら、このような異郷でその力をふるっている。


 それは、ダルム=ルウの持っていない強さであり、力であった。

 それこそが、自分と彼らとの違いであったのだ。

 だからこそ、彼らはあそこまで強く――自分は、このように弱いのだ。


(……だからといって、絶望などしてたまるか!)


 ダルム=ルウは、毛皮の敷かれた床におもいきり拳を叩きつけた。

 ディガが、「うひい」と情けない悲鳴をあげる。


 そうしてその夜は、耐え難いほどにのろのろと過ぎていくことになった。


               ◇


 ルウの集落に帰ることができたのは、それから10日ばかり後のことである。

 けっきょくは、半月ばかりも北の集落で過ごすことになってしまった。


 明日には、3度目の会談が城下町で行われる。

 自分もその護衛役に選ばれることになった。


 上等だ、と思う。

 貴族どもがふざけた真似を仕掛けてきたら、刀で報いをくれてやろう。

 ダルム=ルウの心に、迷いはなかった。


「あの……隣に座らせていただいてもよろしいでしょうか?」


 と、晩餐の途中でふいに呼びかけられた。

 家の外での、ズーロ=スンや数多くの眷族らを招いた、まるで宴のような晩餐のさなかである。


 振り返ると、ルドが座っていたはずの場所に、シーラ=ルウがおずおずと立ちつくしていた。


 無言で首を傾げてみせると、シーラ=ルウははかなげに微笑む。


「あの……ルド=ルウに、座っていた場所を取られてしまったのです」


 見れば、ルドとララがシン=ルウをはさんで幼子のようにはしゃいでいた。

 本当に、宴のような騒ぎである。


「浮ついたやつだ。邪魔なら邪魔と言ってやればいい。あんな粗忽者に遠慮をすることはない」


「……そうですか……」


 シーラ=ルウは、いっそうはかなげな顔つきで両手をもみしぼった。

 その姿を見て、ダルム=ルウはようやく腑に落ちた。


「ああ、あのような粗忽者でも、本家の人間に文句をつけるのは気が進まぬのか? それなら、俺が代わりに引きずってきてやろう」


「いえ……そういうことではないのです」


 シーラ=ルウは、泣き笑いのような顔になってしまう。

 それではどういうことなのだ、とダルム=ルウはもう一度首を傾げてみせた。


 そこに、ひとつ隣の席に座していたティト・ミンが声をかけてくる。


「いつまで突っ立っているんだい、シーラ=ルウ? どこでもいいから座っておしまいよ。みんな好き勝手に動いてるんだから、何も遠慮することはないさ」


 確かにティト・ミンの言う通り、ダン=ルティムやラウ=レイなどもみんな自分の目当ての料理が取りやすい位置に席を動いてしまっていた。

 それに、アスタやアイ=ファやジバなどはズーロ=スンたちのほうに移動してしまっていたので、もはや最初の席順などわからないぐらいに歯抜けの状態になってしまっている。


 それでもシーラ=ルウは、ダルム=ルウのほうを見ながら悲しげに笑っていた。


「……こちらに座らせていただいてもかまわないでしょうか?」


「座りたいなら、好きにするがいい」


 それでようやく、シーラ=ルウはその場に膝を折った。

 そうして、切なげに息をついている。

 相変わらずよくわからない女だな、とダルム=ルウは果実酒をあおった。


「あの……北の集落はいかがでしたか?」


「食事が不味かった」


 答えながら、奇妙な衣にくるまれたギバの肉をかじる。

 この肉は、忌々しいぐらいに美味いのだ。


「そうですか」とシーラ=ルウは弱々しく微笑み、沈黙が落ちる。


 それでダルム=ルウは、はたと思い至った。

 このシーラ=ルウは、ダルム=ルウが延々と思い悩んでいたことを知る唯一の相手であったのだ。


 力比べでアイ=ファに敗北し、アスタに心情をぶちまけることになった、収穫祭の夜――ダルム=ルウが一番心を揺らすことになったあの夜に、このシーラ=ルウと言葉を交わす機会があったので、ついつい家族にも打ち明けていなかった自分の心情を垣間見せてしまったのである。


(俺は弱い……あまりに弱すぎる!)


(もしかしたらこの弱さは、家の大きさにすがって堕落し果てたスン家の連中と同じ弱さなのかもしれない)


 宴の灯りに背を向けて、そのような弱音を吐いてしまったのだ。

(そのようなことはありません!)と言いながら、シーラ=ルウはダルム=ルウの背に取りすがってきた。

 シーラ=ルウは、何故だか涙声になっていた。


 シーラ=ルウとまともに言葉を交わすのは、その夜以来のことであったのだ。

 きっとシーラ=ルウは、ダルム=ルウが北の集落で欲していた答えを得られたのかどうか、それを懸念してこのように近づいてきたのだろう。

 ダルム=ルウは何ともいえない気持ちになり、その気持ちをまぎらわすためにまた果実酒をあおった。


「……自分が考えていたのとは少し違ったが、それでも答えらしきものは見つけられた気がした」


 ダルム=ルウが言うと、シーラ=ルウはびっくりしたように目を見開いた。


 あまりに唐突な物言いであっただろうか。

 ダルム=ルウは、あんまり言葉をあやつるのが得手ではないのだ。

 相手が若い女衆では、なおさらである。


 しかし――今度はシーラ=ルウも少し明るい表情で「そうですか」と言ってくれた。


「それで少しでもダルム=ルウの心の重みが取れたのなら何よりです。……本当に良かったですね」


「弱さの理由がわかったところで、俺が弱いということには何の変わりもない」


「いえ。理由がわかるのとわからないのでは大きな違いとなりましょう。きっとダルム=ルウなら、大丈夫です」


「……理由がわかったなどと言っているのも、ただの思い込みにすぎんのかもしれんがな」


 ぶっきらぼうに応じると、シーラ=ルウはまるで母親のような顔で微笑んだ。


「そのようなことは決してありません。自分の力をお信じください、ダルム=ルウ」


 たしかこのシーラ=ルウは自分よりもひとつ年少であるはずなのに、ときおりこのように大人びた表情を見せることがある。

 それはやはり、一番上の子として生まれ、三人もの弟を育ててきたシーラ=ルウの強さなのだろうか。

 何か少し悔しくなってしまい、ダルム=ルウは焼かれたポイタンを乱暴にかじり取った。


 そのとき――下座のほうが、何やら騒がしくなってきた。

 見ると、かつてスン家の末妹であった小さな女衆が立ち上がり、周りの人間たちを大声で怒鳴りつけていた。


 そして、その女衆はやおら背を向けると、闇の向こうに走り去ってしまった。

 慌てた様子でアスタがその後を追い、さらにアイ=ファがその後を追う。

 その光景が、ダルム=ルウをまた苛立たせた。


「馬鹿者め。あいつは何も反省していないのか?」


 身を守る力もないくせにうかうかと行動し、そこにアイ=ファが救いの手を差しのべる。これでは、貴族の娘にさらわれたときと同じではないか。


 自分も追いかけて、あの粗忽者を叱りつけてやろうかとダルム=ルウは腰を浮かせかけたが、グラフ=ザザと、それにミダが立ち上がってアイ=ファたちの後を追い始めたので、しょうことなしに座りなおした。


 そこに、シーラ=ルウがひそやかに微笑みかけてくる。


「ダルム=ルウは、自分よりも力のない者を放っておけない性分なのですね。……シン=ルウもわたしも、ダルム=ルウの行いにはとても感謝しています」


「いつまでそのように古い話を蒸し返すつもりだ」


 ダルム=ルウは、また果実酒を口にする。

 酒のせいか、苛立ちのせいか、右頬の古傷が熱く疼いていた。


「それに俺は、ファの家のアスタの身を案じているわけではない。あいつの軽はずみな行動のせいで、周りの人間が迷惑をこうむってしまうのが腹立たしいだけだ」


「そうですか。……しかし、先日の件については、アスタではなくシン=ルウたちに責任があるのでしょう。わたしは、そのように聞いています」


「だから、そもそもあいつが宿場町で商売などをしていなければ――」


 そう言いかけて、後の言葉は飲み込んだ。

 現在は貴族どもと対立しており剣呑な状況であるが、それでも護衛をつけてまで宿場町での商売を許していたのは、他ならぬ父ドンダであったのだ。


 そしてその護衛の任を果たせなかったのは、シン=ルウやルドといったルウ家の狩人たちなのである。

 日中は、アスタに怒りの感情をぶつけてしまったダルム=ルウであるが、よく考えたら、自分たちこそがファの者たちになじられてもしかたのない立場であるのかもしれない。


(……忌々しいやつだ)


 だけど、それでも、ファの家のアスタはもっと自分の身をかえりみるべきなのだ。

 あいつがいなければ、もはやアイ=ファは立ち行かない。それぐらいのことは、見ていればわかる。もしもアスタを失ってしまったら――きっとアイ=ファは、生きる希望を失ってしまうだろう。


 あの、強く明るく輝くアイ=ファの瞳が、絶望にふさがれてしまうなんて、そんなことは、想像しただけで頭がおかしくなりそうだった。


(くそっ)


 果実酒の土瓶に、手をのばす。

 その手に、横から手を重ねられた。


「ダルム=ルウ、お酒ばかりを召されるのは身体に毒です。食事のほうもお進めください」


 シーラ=ルウが、ものすごく心配そうに自分を見ていた。

 そのほっそりとした指先を振り払い、ダルム=ルウは右頬を撫でさする。


「言われずとも、食べている。これしきの酒でどうにかなる俺ではない」


「ですが、果実酒はもう2本目です。普段よりも、いささか調子が早いのではないですか?」


 ダルム=ルウは、憮然と頭をかきむしった。

 しかし、右頬の古傷はシーラ=ルウに同意を示すかのように、ずきずきと疼いている。


 文句をつけるのも面倒くさかったので、また奇妙な衣つきの肉に手をのばすことにした。

 誰もがその肉には心をひかれているらしく、残りはすでにわずかである。


「……その料理のお味はいかがですか?」


「忌々しいぐらいに美味い。……あいつは本当に、人間の心を惑わせる魔法でも会得しているのかもしれん」


「まあ」とシーラ=ルウは口もとをほころばせた。

 その切れ長の目に、嬉しそうな光が宿っている。


「わたしやレイナ=ルウらもともにかまどを預かったのですから、そのような心配はご不要です。……そのぎばかつは、わたしが揚げたものですし」


「なに?」とダルム=ルウは驚きの声をあげることになった。


「その肉は、他のものより衣が少し濃い色をしているでしょう? ギバの脂にひたす時間が少し長すぎたようなのです。アスタには問題ないと言われていましたが、ダルム=ルウにそのようなお言葉をいただけて、ようやく安心することができました」


 そのように述べるシーラ=ルウは、いつになく幸福そうに微笑んでいるように見えた。

 忌々しいぐらい美味い肉を噛みながら、ダルム=ルウはまた頭をかきむしる。


「お前でも、そのように笑うことができるのだな」


「ええ? わたしだって、笑うことぐらいはあります」


「……普段はめそめそした顔ばかりをさらしているではないか」


「まあ。ダルム=ルウの前で涙を流した覚えなどはないのですが」


「そんなわけがあるか。お前はいつだって――」


 と、言いかけて、実際にシーラ=ルウの泣き顔を見たのは、おたがいが幼子であった頃の記憶なのかもしれない、と思いなおす。

 それでもシーラ=ルウは、いつでも悲しげな顔をしている女衆であった。

 だが――何となく、以前よりはその瞳や表情に力や明るさが宿っているように感じられなくもなかった。


(……人は、変わるものだからな)


 自分は、どのように変わっていくのだろう。

 自分の中に、思いも寄らぬ弱さを見出してしまい、正しい道はどちらなのかと苦悩しながら生きていくことになった――その果てには、いったいどのような運命が待ち受けているのだろうか。

 ダルム=ルウには、まったく想像がつかなかった。


「ダルム=ルウ、明日はどうかお気をつけて。……ご無事なお帰りをお待ちしています」


「ああ」とうなずき、ダルム=ルウは残っていた肉を口の中に放り込んだ。


 すっかり夜は更けてしまったが、宴のごとき晩餐はまだまだ終わりを見せる気配もなかった。

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