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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
243/1675

第五話 野菜売りのミシル

2015.9/24 更新分 1/1

 その奇妙な風体をした小僧が初めてミシルの店を訪れてきたのは、緑の月の23日のことであった。


「あの、ギーゴとチャッチを売っていただきたいのですが、よろしいですか?」


 西の民のように黄色い肌をしておりながら、東の民のように黒い髪と瞳をした、ミシルの孫よりも若そうな小僧である。

 いかにも商いを生業にしている人間らしく、にこにこと愛想のよい笑みを浮かべている。


 が、そのひょろひょろとした身体に纏っているのは渦巻き模様の入った森辺の装束であり、また、その小僧の背後には森辺の民の男女が1名ずつ控えてもいた。

 それらの顔ぶれを確認してから、ミシルはおもいきり顔をしかめてみせる。


「あんたには、あたしが伊達や酔狂で野菜を並べているようにでも見えるってのかい?」


「え? それはどういう――」


「宿場町の露店の縄張りで、こうして野菜を並べているんだ。そいつは売るために並べているのに決まっているじゃないか。それが買いたいなら銅貨を出しな。余計な挨拶なんて不要だよ」


 ミシルは、森辺の民が嫌いであった。

 このような者どもは、町の安寧を脅かす異端者だ。

 だからミシルはその連中を追い返すつもりでそのような言葉を返してやったのだが、黒髪の小僧は困ったように笑うばかりであった。


「それでは銅貨を出しますので売ってください。えーと、俺はギーゴを赤銅貨1枚分だけお願いします」


「あー、俺たちはギーゴを赤2枚分と、チャッチを赤3枚分な!」


 後ろに控えた背の小さな森辺の民が、大きな声で割り込んでくる。

 こちらは黒髪のほうよりもなお幼げな顔つきをしていたが、腰には刀と鉈を下げ、ギバの毛皮でできた狩人の衣を纏っていた。


 ミシルは溜息をついてから、自分の身長よりも長いギーゴを菜切り刀で半分に断ち割った。

 それをまずは、黒髪の小僧に差し出してみせる。


「そら、赤銅貨1枚ならこれだけだね」


「ありがとうございます」


 それからミシルは、別の新しいギーゴを布の上に置き、6個のチャッチをその脇に取り分けた。


「あんたたちはこれだよ。銅貨を払いな」


「えー、赤銅貨3枚でたった6個かよ? ポイタンだったら、その倍は買えるぜ?」


 黄色っぽい髪をした小僧が不満そうに言うので、ミシルは怒鳴りつけてやろうかと思った。

 が、その隣にいたむやみに色っぽい森辺の娘が、眠そうな声で口をはさんでくる。


「そうよぉ、チャッチは高いんだからぁ……申し訳ないけど、わたしたちもギーゴは赤1枚分にして、もう1枚分はチャッチにしてもらえるかしらぁ……?」


 ミシルは無言でさっき切ったばかりのギーゴを引き寄せ、チャッチには2個を追加してみせた。


「そっかー。チャッチって高いんだな! 今まで野菜の値段なんて気にしてなかったから知らなかったよ」


 悪びれた風でもなく、小僧のほうが銅貨を差し出してきた。

 別の店でも野菜を買ったらしく、その袋にひょいひょいと8個のチャッチを詰め込んでいく。


 その横から、また黒髪の小僧が声をあげてきた。


「あの、ひとつおうかがいしたいことがあるのですが、このギーゴというのは何日ぐらい保存のきくものなのでしょうか?」


「……そいつは刀を入れちまったんだから、2、3日もしたらそこから傷み始めちまうよ。切ってないやつなら10日やそこらは腐りやしないし、土に埋めとけばひと月ももつだろうがね」


「あ、土に埋めて保存することもできるのですか。……見た目通りにゴボウと一緒だな」


「ただし、森辺の集落なんかじゃあ、どこに埋めてもギバやギーズにかじられちまうだろうね。ギバを太らせたいんだったら、好きなだけ埋めてみればいいさ」


「そうですか。ご親切にありがとうございます」


 皮肉も何も通じないようで、黒髪の小僧はにっこり笑った。


「あともうひとつ、ギーゴを1日置きに1本から5本ぐらいずつ取り置きしてもらうことなどは可能でしょうか?」


「ギーゴを5本? そんなにたくさんのギーゴを何に使おうってのさ?」


「もちろん料理で使うのです。ギーゴはポイタンに混ぜるととても美味しく焼きあげることができるのですよ」


 せっかくのギーゴをポイタンに混ぜてしまうなんて、さすがは森辺の民である。

 精魂込めて作ったギーゴをそのようにみじめな形で食べられてしまうのかと、ミシルは情けない気持ちになってしまう。


「で、最初の内は2日に1本ずつで十分なのですが、じきに5本ぐらい必要になるかもしれないんです。……如何でしょうか?」


「そりゃあ前日までに注文されりゃあ、5本でも10本でも取り置きすることはできるけどね。ギーゴを5本なら赤銅貨10枚だ。それだけの銅貨があんたに支払えるのかい?」


「はい。さしあたっては、2日に1本ずつ買い上げるということはお約束することができます」


「へー。屋台の商売でそんなにたくさんのギーゴを使うのかよ?」


 と、黄色っぽい髪の小僧に呼びかけられ、黒髪の小僧は「うん」とうなずく。


「最初は1日で10人前の料理を売ろうと思ってるからさ。10人前だと、ちょうどこのギーゴを半分に切ったぐらいの量が必要になるんだよ。だから、最終的に50人前の料理を売ることができるようになれば、1日に2本半のギーゴが必要になるってわけさ」


「そんなことまで計算しなくちゃならないのねぇ……なんだか大変そうだわぁ……」


「どうってことありませんよ。面倒な計算は俺が受け持つので、ご心配なく」


 そのように言ってから、またミシルのほうに向きなおってくる。


「如何ですか? 最初は何本か余分に買わせていただいて、あとはその都度、必要な量を注文していこうと考えているのですが」


「……前日までに注文するなら何でもかまわないけどね。そんなにたくさんのギーゴが必要なら、もっと大きな店で買えばいいじゃないか?」


「いえでも、ギーゴだったらこのお店のものが太くて甘くて質がよいと聞いてきたもので……」


「誰だい、そんな余計なことを言ったのは?」


「北のほうで店を開いている、ドーラの親父さんです」


「……ドーラの小僧っ子かい。まったく、余計な口を叩くもんだ」


「親父さんが、小僧っ子ですか」と黒髪の小僧は楽しそうに笑う。

 70の齢を重ねてきたミシルにしてみれば、たいていの人間が小僧っ子だ。


 とりあえず、その日はこの厄介な連中もそれで森辺の集落に帰っていった。

 しかしそれは、長きに渡って続く森辺の民との厄介な縁の始まりに過ぎなかったのである。


               ◇


「あの、非常に申し訳ないのですが」


 どうやらファの家のアスタとかいう名前を持つらしい黒髪の小僧がそのように言い出したのは、出会った日より6日ばかりが過ぎてからのことだった。


「明日は、6本のギーゴをご用意してもらうことは可能でしょうか?」


「6本? あんた、必要なのは多くても1日置きに5本ていどと言っていたじゃないか?」


「はい、そのつもりだったのですが、予想以上に料理が売れてしまったので、明日からはそれだけのギーゴが必要になってしまったのです」


 このアスタとかいう小僧は呆れたことに、宿場町でギバの料理などを売り始めたのである。

 2日前、緑の月の27日から商売を始め、すでに4本ものギーゴがミシルの店で買われている。

 それで、今も3本のギーゴを買おうとしているのに、明日はさらに6本ものギーゴが必要だなどとは――いったいどういうことなのであろうか。


「実は、昨日までに買った分は半分を残して使い果たしてしまったので、今日買う分も合わせて明日でなくなってしまう予定なんです。それで、明後日からはギーゴ6本分の料理を準備しようかと……」


「ちょいと待ちなよ。あんたは10食分の料理でギーゴを半分ていどしか使わないと言っていたじゃないか? それじゃあ明日は70食分、明後日は120食分もの料理を準備しようってことなのかい?」


「ええ。明日の売れ行き次第ですが、明後日からは屋台をふたつに増やしして、それぞれ60食分ずつの料理を準備しようかと」


 まったくもって、呆れた話である。

 この宿場町の屋台では、せいぜい50人前ぐらいの料理を売ることしかできない。道行く人間の数は多いが、そのぶん屋台や宿屋の食堂だって十分な数がそろっているからだ。


 そうであるにも拘わらず、おぞましいギバの料理を60食分ずつも売ろうなどとは――にわかには信じ難い話であった。


「それを売りさばく見込みが立てば、それからは毎日6本ずつのギーゴが必要になってしまうのですが……それはさすがに厳しいでしょうか?」


 その不安そうな小僧の表情に、かちんときてしまった。


「注文があれば何本でもそろえてみせるって言っただろう? このミシルの店を見くびるんじゃないよ」


「す、すみません」


「だけどあんた、さっきは衛兵どもに詰め所までしょっぴかれてたじゃないか? あんなざまで、商売なんて続けられるものなのかね?」


「はい。あれは料理の数が足りなくて、南と東の民のお客さんたちの間で騒ぎになってしまったんです。だからこそ、俺たちは十分な量の料理を準備しなくてはならないのですよ」


 と――アスタという小僧が、ふいに厳しい目つきを見せた。

 いっぱしの、商人の目つきである。

 ミシルは「ふん」と鼻を鳴らしてみせた。


「あたしは注文された野菜を準備するだけだよ。ただし、商いの約束を破ったらそれ以降はチャッチひとつだって売ってはやらないからね」


「わかりました。ありがとうございます」


 笑うと、また幼げな表情になってしまう。

 ミシルとしては、苛立ちがつのるばかりである。


 そして翌々日には、さらに苛立つことになった。

 黒髪の小僧、ファの家のアスタがまた申し訳なさそうに店を訪ねてきたのである。


「あの……本当に申し訳ないのですが、今日は6本でなく7本と半分のギーゴを買わせていただけますか?」


 どうやら120食分の料理でも足らなかったらしい。


「ギーゴが欲しいんなら、余計な言葉じゃなく銅貨をお出し!」


 わめきながら、ミシルはギーゴを切るための菜切り刀を取り上げた。


              ◇


「ええ? 明日からは8本のギーゴを宿場町に持ち出すって?」


 家に戻ると、息子に呆れられることになった。

 くたびれきった腰を叩きながら、ミシルはそちらに顔をしかめてみせる。


「8本じゃなくて7本と半分だよ。……それに、ギーゴを買うのはその森辺の小僧だけじゃないんだからね。余分に5、6本は必要だろうから、全部で14本は持っていかせてもらうよ」


「今まではその5、6本だけで十分だったのに……なあ、母さん、うちのギーゴは城下町でもごひいきにしてくれる人が多いんだよ。1日に14本も宿場町に持ち出していたら、いざってときに数が足りなくなっちまうかもしれないから、少しは控えたほうがいいんじゃないかなあ?」


「宿場町だろうと城下町だろうと、売り値が変わるわけじゃないさ」


「いや、だけど城下町なら心づけをいただくこともあるし、うまくいったら育てた分を丸ごと買い上げてもらえるようにもなるかもしれないじゃないか? そうしたら、母さんがわざわざ宿場町なんかに出向く必要もなくなるんだよ」


「この老いぼれから仕事を奪おうってのかね」


 ミシルがじろりとにらみつけてやると、息子は頼りなげに首をすくめた。


「母さんの身体を心配してるんだよ。トトスも使わずに毎日荷車を引くなんて、70を過ぎた人間の仕事じゃないよ」


「あたしはこうして毎日仕事をこなしているから、この年まで元気に生きてこられたんだよ。こんな老いぼれなんかにもう用事はないってんなら、あんたの好きにするがいいさ」


「まったく、偏屈だなあ……」


 ぼやきながら、息子は家のほうに引っ込んでしまった。

 ミシルは鼻息を噴いてから、空になった荷車を倉に片付ける。


 ミシルは、このダレイムでもそこそこ大きな田畑の管理をまかされている家に生まれついた人間であった。

 日の出とともに目を覚まし、ギーゴやチャッチやネェノンなどを掘り出して売りさばく。物心ついた頃から、このような生活に身を置いているのだ。


 息子も孫たちも元気に育ち、力を合わせて仕事に励んでいる。

 ミシルも足腰が立たなくなるまでは働き続け、力尽きたら魂を召される。それだけの話だ。ミシルの伴侶も、そうして10年ほど前にセルヴァの御前へと召されることになったのだった。


(ここまで長生きできたんだ。何も悔いなどありゃしない)


 しかし――その長い生の終り際において森辺の民などと縁を結んでしまったのは、いったい如何なるセルヴァのはからいなのだろうか。


 ミシルは、森辺の民が嫌いだ。

 あれは、町の人間とは相容れぬ存在だ。

 80年前のジェノスの領主は、あのような者たちの願いを聞き入れず、ジャガルへと追い返すべきであったのだ。


 森辺の民がいなかったら、ダレイムの畑はギバに荒らされて、これほどの豊かさを手に入れこともできなかったはずだ、などと述べる者もいる。

 だが、それはそれで天命であろうとミシルは考えている。

 飢えて死ぬのも、ギバに突き殺されて死ぬのも、天命だ。

 その天命を、横から森辺の民にかっさらわれてしまったような心地がして、気分が悪い。


 森辺の民が森の中だけで暮らしていたなら、ミシルにも不満はなかっただろう。森辺の民とはただの狩人ではなく、そういう野人じみた生活に身を置く一族であったという話なのだから、人前にさえ出てこなければ何の迷惑にもならなかったはずだ。

 しかし、森辺の民は森の恵みを収穫することを禁じられ、そのために、ギバの牙や毛皮などを売って糧を得ているのだという。


 何だその生は、と思う。

 そのような生を与えたジェノスの領主も、そのような生を受け入れた森辺の民も、馬鹿だと思う。


 そんな生でも不満がないというのなら、ミシルにだって文句はない。

 だが、森辺の民は悪逆な真似を繰り返している。

 ひと昔前には田畑を荒らしたり、旅人を襲ったり、若い女をかどわかしたりしていた。


 最近では、宿場町でちょっとした騒ぎを起こすぐらいであるようだが、けっきょくジェノスの領主に与えられた生に納得がいかなかったからこそ、そのような真似に及んでいるのだろう。


 森辺の民は、町の人間を憎んでいる。

 町の人間も、森辺の民を憎んでいる。

 ジェノスは、森辺の民を受け入れるべきではなかったのだ。


 森辺の民がミシルたちの代わりに飢えたりギバに殺されたりするのも、その恨みを町の人間にぶつけようとするのも、それを受けて町の人間たちが森辺の民を恨んだりするのも――何もかもが、気に食わなかった。


(あの小僧だって、いつか痛い目を見るに決まっているよ)


 だから宿場町での店などさっさとたたんでしまって、森辺の集落に閉じこもっていればいいと思う。

 ミシルにとっては、それが唯一の正しいと思える道だった。


              ◇


「ミシルおばあちゃん、こんにちは!」


 ターラが店にやってきたのは、それから数日後のことだった。

 ターラは、ミシルと同じようにダレイムから出向いてきている野菜売りドーラの娘だ。

 まだ10歳にもならぬ小さな子供で、父親に似ず可愛らしい顔をしている。


「ああ」とうなずき返しつつ、ミシルはターラがその手に奇妙なものをたずさえていることに気づいた。

 食事用の、木の皿である。

 その皿には、ふたつに断ち割られた屋台の軽食と思しき料理が載せられていた。


「何だいそれは? 店の皿を持ち出したりしたら怒られてしまうよ」


「ううん、これは知り合いの宿屋から借りてきたんだよ。ミシルおばあちゃんにもアスタおにいちゃんの料理を食べさせてあげようと思って!」


 それは、フワノのような白い生地で肉と野菜をはさんだ料理だった。

 肉はタラパの赤い汁にまみれており、その脇からは細く刻まれたティノが顔を出している。

 大人用の料理なのだろう。キミュスの肉饅頭よりずっしりと大きくて、それが半分に断ち割られている。


「アスタっていうのは、あの黒い髪をした森辺の小僧のことだろう? ギバの肉を使った料理なんて冗談じゃないよ」


「どうして? アスタおにいちゃんの料理は、すっごく美味しいんだよ?」


「どんなに美味しくったって、ギバの肉なんて御免さ」


「大丈夫だよー。角が生えたり色が黒くなったりはしないから!」


 そんな馬鹿げた迷信を信じているわけではない。

 しかしミシルとて、罠にかかったギバを見かけたぐらいのことはある。


 ギバというのは、怪物のような獣であった。

 凶悪な牙と角を持ち、雷鳴のような声で鳴く。中にはカロンほども巨大なやつもおり、極限まで飢えれば人間さえをも喰らう――と聞く。


 南や東の民であれば、そんなギバを厭うたりもしないのだろう。

 しかしミシルは、生粋の西の民だ。

 生まれも育ちもこのジェノスの、ダレイム領の人間である。

 ギバなど、まともな人間の食べるものとは思えなかった。


「だけどアスタおにいちゃんは、この料理でミシルおばあちゃんのギーゴを使ってるんでしょ? うちの父さんは、自分の売ったタラパやティノでこんなに美味しい料理を作ってもらえて、すっごく幸せだーって言ってたよ?」


「ふん。あれだけ森辺の民やギバを恐れていたドーラが、ずいぶん心を入れ替えたもんだね」


「うん! 西の民はもっと森辺の民と仲良くするべきなんだろうなあって父さんは言ってた!」


 仲良くなんて、できるはずがない。

 ジェノスの民と森辺の民は、おたがいに憎み合っているのだ。

 あのアスタという小僧がどれだけ必死に心を砕こうとも、いずれは取り返しのつかない悲劇が訪れてしまうのだろう。


「自分の野菜がどんな料理に使われているか、ミシルおばあちゃんは気にならないの?」


 ターラは不思議そうに首を傾げている。


「ミシルおばあちゃんほど自分の仕事に誇りを持ってる人間だったら、気にならないはずはないって父さんは言ってたんだけど……」


 なんて小生意気なことを言うドーラであろう。

 ミシルはしばし皿の上の料理をにらみつけてから、おもむろにそれをひっつかんだ。


 まだ温かい。白い生地ごしに肉やタラパの汁の熱が伝わってくる。

 ターラに見つめられながら、ミシルはその生地に歯をたてた。

 とたん――タラパの豊かな風味が口の中に広がっていく。


 なんと甘いタラパであろうか。

 いや、この甘みはアリアの甘みであるに違いない。

 宿場町で売られるタラパはとても酸っぱいので、小さく刻んだアリアを混ぜ合わせているのだろう。


 そして、肉である。

 臭くて固いと言われていたギバの肉が、とてつもない旨みとやわらかさをミシルの口に伝えていた。


 以前に数回だけ食べたことのある、カロンの胴体の肉にも負けない味わいとやわらかさである。

 いや、やわらかさなどはカロンを遥かに越えてしまっている。

 これが本当に肉なのかと思えるぐらい、ギバの肉はほろほろと口の中でほどけていった。


 そして、それとともに熱い肉汁と脂が口を満たしていく。

 素晴らしく美味い肉であった。

 タラパの味も素晴らしかった。

 それらの強い味を、フワノのような生地と細切りのティノが中和している。


 ギーゴはポイタンに混ぜているのだと、あのアスタという小僧は述べていた。

 ということは、このふんわりとした生地がポイタンとギーゴなのだろう。

 森辺の民や旅人や、あるいは戦場の兵士ぐらいしか口にすることのないというポイタンが、フワノのような生地に化けてしまっている。


 いったい何なのだこの料理は――と、ミシルはしばし言葉を失うことになった。


「美味しいでしょ? ぎばばーがーっていうんだよ! ターラはこのぎばばーがーが一番好きなんだあ」


 気づくと、ターラもその料理を頬張っていた。

 口の周りが、タラパで真っ赤になってしまっている。


 ミシルはその愛くるしい笑顔を憮然と見つめ返してから、銅貨を1枚取り出してみせた。


「この料理は、いくらしたんだい?」


「え? 赤銅貨2枚だけど?」


「それじゃあその半分の量ってことで、赤銅貨1枚でいいね」


「ええ!? 銅貨なんていらないよ! ぎばばーがーは大きいから、全部食べるとターラはお腹が苦しくなっちゃうの」


「だからって、あたしがただでめぐんでもらう理由にはならないよ。あんただって、父親の仕事を手伝った駄賃でこいつを買ったんだろう?」


「いらないいらない! ターラが父さんに怒られちゃうよ!」


 ターラが後ずさるのを見て、ミシルは銅貨を引っ込めた。


「それじゃあ代わりに、チャッチを持っていってもらおうかね。晩餐で母さんに煮込んでもらいな」


「えー、だけどなあ……」


「これさえ受け取らないっていうんなら、あたしは腹の中の料理を戻して返すしかなくなっちまうけどね」


「わ、わかったよぅ。ミシルおばあちゃんは頑固だなあ」


「あんたには言われたくないさね」


 ミシルはふたつのチャッチをターラに押しつける。

 ターラはしばらく困ったような顔で立ちつくしていたが、やがて「ありがとう!」と言い残して、人混みの向こうに消えていった。


 あれぐらいの年頃なら、森辺の民やギバの恐ろしさも知らないのだろう。

 ギバとは災厄の象徴であり、森辺の民はそれを喰らうことでいっそう人間離れした力と凶悪さを身につけた一族であるのだ。


 ミシルは、伝聞でなくその恐ろしさを知っている。

 ミシルの父を殺したのは飢えてダレイムにまで下りてきたギバであったし、森辺の民の恐ろしさも、一度だけだがこの目ではっきりと見たことがあるのだ。


 しかし――そんなミシルをして、この料理を美味いと認めないわけにはいかなかった。


(まったく、なんて忌々しい小僧だろう)


 その忌々しい小僧がミシルの店にやってきたのは、それから数刻後のことだった。


「すみません。青の月の6日で屋台の契約がいったん終わるので、その翌日は1日だけお休みをいただくことになりました」


「ふん。それならその日はギーゴも用無しってこったね」


「はい。……だけど、休業日の前後は今以上にお客さんが殺到してしまう気がするので、休みの前日は170人前、休み明けは200人前の料理を準備しようかと思うのですが……」


 ミシルは溜息を飲み込んで、「好きにすればいいじゃないか!」とわめきたててやった。


               ◇


 その後もアスタは、延々とミシルの店でギーゴを買い続けることになった。

 しまいには宿屋に料理を売りつける仕事まで始めて、1日置きに30個ものチャッチを所望するようにもなった。


 その間、何の騒ぎも生じなかったわけではない。

 森辺の集落を逃げ出したという大罪人が、シムへと向かう商団や、宿場町で働くアスタたちを襲ったりして、裁かれることになったりもしたのである。


 それでもアスタは、商売をやめようとはしなかった。

 宿場町の連中も、むしろこれまでよりは穏便な眼差しで森辺の民を見るようになったようにも感じられた。


 これまではどのような罪を犯しても見逃されていた森辺の罪人が、ジェノスの城に正しく裁かれることになったのだ。

 また、罪人のひとりは森辺の民自身の手によって裁かれたのだとも聞いている。


 町で悪さをしていたのは、森辺の族長筋の人間のみであったらしい。

 森辺の民の多くは、族長筋の連中がそのような真似を繰り返していたことすら知らなかったらしい。

 そして、そういった連中は今回の騒ぎで全員裁かれ、別の氏族の人間が族長筋と定められたらしい。


 そんな話が、まことしやかに流れることになった。


 さらに、若い連中の間では、森辺の民というのがいかに貧しい生を送っているか――中には飢えて死ぬ者までいるらしいという話を伝え聞き、衝撃を受ける者も少なくはなかった、という話であった。


 今さら何を言っているのだ、とミシルは思う。

 ギバの牙や毛皮なんて、そんな高値で売れるはずがない。森辺の民が移り住んできた当時はたいそう珍重されていたようだが、今では毎日とてつもない数のギバが狩られているのである。


 牙や角は飾り物の材料にしかならないし、毛皮の敷物などはもっと寒さの厳しい土地に持っていかなければ、そうそうありがたがられることもない。ギバ1頭から得られる代価なんて、せいぜい白銅貨2枚ていどのものでしかないのだ。


 もちろん、白銅貨2枚を稼ぐというのは、生半可な話ではない。

 ミシルの店で言うならば、それは毎日10本のギーゴを売って、ようやく得られる代価であった。


 だが、ギーゴを売ったり育てたりする仕事で、生命を落とすことはない。

 森辺の民は生命をかけて、数名がかりで凶悪なギバを狩り、それでそれだけの代価を得ることしかできないのだ。


 モルガの恵みを収穫することも、田畑を耕すことも禁じられて、ひたすらギバだけを狩る――そのような生活で、人並み以上の豊かさなどを得られるはずはなかった。


 それらの事実にようやく思い至り、宿場町の連中は森辺の民をどのように扱うべきかを、あらためて考えさせられることになったようだった。


 しかし――

 騒ぎは、それだけに留まらなかった。


 このままでいけば、森辺の民との関係性も今までよりは平穏な形に落ち着くのではないかと思われた矢先に、あのアスタという小僧が何者かにかどわかされてしまったのである。


 噂では、貴族のような身なりをした男が犯人であるという。

 それで宿場町は、とてつもない騒乱に満たされることになった。

 先日までの騒ぎなど比較にならぬほどの騒ぎであった。


 アスタがさらわれた翌日には、何十人もの森辺の民が宿場町に下りてきて、衛兵たちと刀を交えそうな騒ぎになっていた。


「それでは、衛兵たちの手だけで俺たちの同胞を無事に救い出せるという、そのような約定を交わすことができるのか!?」


 森辺の新たな族長を名乗る大男は、そのように吠えていた。

 それこそ野の獣のように恐ろしげな姿をした大男であった。


 森辺の民たちは、ジェノスの貴族がアスタをさらったのだと疑っているらしい。

 どうやらトゥラン伯爵家の当主というやつが、森辺の民といざこざを起こしている最中であったらしいのだ。


 森辺の民に対する恐怖と、馬鹿な貴族に対する怒りで、宿場町はその日からしばらく騒乱の気配に包まれることになった。


(いつかはこんなことになると思っていたよ……)


 それでも変わらず宿場町で野菜の店を開きながら、ミシルはそのように考えていた。


(森辺の民と町の人間は相容れない。それが無理に同じ土地で暮らそうとするもんだから、こんな騒ぎになっちまうのさ)


 あれは、ミシルがまだ若かった頃――一番上の息子にようやく嫁入りの話が舞い込んできた頃、ひとつの事件が宿場町を襲った。

 余所の土地から流れてきた無頼漢どもが、森辺の民にちょっかいを出してしまったのだ。


 宿場町に下りていた森辺の女衆らに、何か悪さをしようとしたらしい。それを止めようとした森辺の年老いた女衆が殴り倒され、ひどい手傷を負ったのだという。


 無頼漢どもはその場で衛兵に捕らわれて、審問の後、罪人の刺青をほどこされてジェノスを追放されることになった。

 二度とジェノスに足を踏み入れることを許されない、重い罰である。


 しかし、森辺の民は怒りをおさめることができなかった。

 その傷つけられた女衆の家の家長が単身で町に下り、ジェノスを出ようとしていた無頼漢どもを皆殺しにしてしまったのだ。


「森辺の族長には、ジェノスの法に従うべしと言われていた! しかし、俺は俺の母を侮辱され傷つけられた怒りをおさめることはできなかった! 俺の身に罪があるというのならば、ジェノスの法で好きなだけ裁くがいい!」


 そのように吠えて、男は血に濡れた刀を地面に叩きつけた。

 そうして衛兵に捕らわれて、城に連行されていく姿を、ミシルは間近で見ることになったのである。


 男はけっきょく、死罪を言い渡されることになった。

 森辺の掟を破ったとして、森辺の族長らもその裁きに不服を申し立てることはなかった。


 しかし――それ以来、森辺の民はいっそう恐怖の目で見られるようになり、町で騒ぎを起こしても見逃されるようになってしまったのだった。


(あれは本当に、獣のような男だった……ギバを喰らう森辺の民は、その身の内にギバの凶悪な力を宿らせているのだと、誰もが信じることになった)


 たったひとりの狩人が、並み居る衛兵どもをなぎ倒し、5名もの悪漢どもを次々と斬り伏せていったのである。

 数十年の時を経ても、とうてい忘れ去ることのできない、それは凄まじい光景であった。


(だけどやっぱり石塀の中に閉じこもってる貴族どもは、森辺の民の本当の恐ろしさを知らないんだ。だから今回も、こんな騒ぎになっちまったんだろうさ)


 森辺の民は、ジェノスの貴族を許さないだろう。

 そして、同じ貴族を害されれば、貴族どもも森辺の民を許さないだろう。

 今度こそ、ジェノスと森辺の民は救いようもなく決裂してしまうのかもしれなかった。


(森辺の民がいなくなったら、あたしらの畑も半分がたはギバの餌場になっちまうんだろうね)


 息子や孫たちは、自分よりも苦労の多い生を歩むことになるのかもしれない。

 天命とはいえ、それだけが無念であった。


 中天を過ぎても、まだ宿場町はざわついている。

 森辺の民が衛兵どもを退けて、何やら町中を駆けずり回っているのである。


 アスタと、それをさらった悪漢どもを捜し求めているのだろう。

 城下町に足を踏み入れることができない森辺の民には、そうして宿場町を駆けずり回ることしかできないのだ。


 今日はもう商売になりそうもない。

 アスタのために準備していたギーゴを荷に残したまま、ミシルは帰り支度を始めることにした。


 背後から声をかけられたのは、その荷車を引こうとした瞬間のことである。


「あの、お待ちください。今日の商売は、もうおしまいなのですか?」


 振り返ると、森辺の若い女衆がふたり、こちらに駆け寄ってくるところであった。

 黒い髪をふたつに結んだ美しい娘と、赤い髪をひとつに結んだ気の強そうな娘だ。


 ふたりともに、見覚えがある。

 アスタの屋台の商売を手伝っていた森辺の娘たちである。

 その黒い髪をしたほうが、いくぶん慌てた様子でミシルに呼びかけてきた。


「それでしたら、アスタに売る約束をしていたギーゴとチャッチをわたしたちにお売りください」


「……あんたたちは、こんな状況でも商売を続ける気なのかい?」


 黒髪の娘は「はい」と大きくうなずいた。


「アスタは必ず戻ってきます。それまでは、わたしたちがアスタに代わって宿場町での商売を続けるつもりです」


「ふん……こんな騒ぎじゃ、商売にもならないだろうに」


「いえ。東や南の民たちは、変わらず店を訪れてくれています。その姿を見て、西の民たちもおそるおそるですが顔を出してくれるようになりました。……わたしたちは、アスタの繋いでくれたジェノスとの縁を断ち切ってしまうわけにはいかないのです」


 まだ子供のような顔をしているのに、その目にはとても強い光が宿っていた。

 女衆でも、若くても、森辺の民であるということに変わりはないのだ。


 ミシルは荷車の取っ手から離した手を、その娘のほうに突き出してみせた。


「ギーゴを7本に半分と、チャッチを30個で、お代は赤銅貨30枚ちょうどだよ」


「はい、ありがとうございます。……明日からは少し料理の数を減らそうと考えているので、ギーゴは1日に5本ずつにしていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」


「ああ」と言葉少なく応じながら、ミシルは3枚の白銅貨を受け取った。

 これだけの野菜を宿場町で毎日いっぺんに買い上げてくれるのは、ひいきにしてくれている宿屋ぐらいのものである。


 あのアスタという小僧はこのギーゴやチャッチとギバの肉を使って、たっぷり銅貨を稼ぐことができていたのだろう。

 貧しさにあえぐ森辺の集落に、さらなる豊かさをもたらすために、だ。


「では、明日からもよろしくお願いいたします。……ララ、いったん屋台に戻ってこの荷物を置いてこよう」


「うん、そうだね」


 娘たちは、足速に去っていく。

 きっと、宿屋に向かう途中であったのだろう。あのアスタも、毎日この時間にミシルの店の前を通って宿屋に出向いていたのだ。


(……あんなとぼけた小僧の代わりなんて、他の誰かにつとまるもんなのかね)


 ミシルはあらためて取っ手をつかみ、ダレイムに向かって荷車を引くことにした。


 そうして家に戻ってみると、息子が青い顔をしてミシルを待ち受けていた。


「母さん、やっと戻ってきたのか! これ以上遅くなるようなら、誰かを迎えに出そうと思っていたところなんだよ!」


「何だい、こんな時間に呑気なもんだね。畑はどうしたのさ?」


「畑のほうは、みんなにまかせてあるよ。俺は宿場町の様子が心配だったから、あちこちで話を聞いて回っていたんだ」


 どうやら今朝からの騒ぎはすでにダレイムにまで伝わっているらしい。

 そして、巡回の兵士でも回ってきたのか、あるいは城下町の商人が訪れてきたのか、息子はミシルよりもこまかい事情をわきまえているようだった。


「森辺の民は、さらわれた同胞とその犯人を求めて、宿場町だけじゃなくトゥランのほうにまで出向いているらしい。犯人が貴族なら、どこを捜したって無駄足だろうに……あああ、ジェノスはこの先どうなっちまうんだろうなあ」


「騒いだって、どうにもならないよ。せいぜいしっかりとギバのための罠を仕掛けておくことだね」


「も、森辺の民はやっぱりジェノスを出ていっちまうのかなあ? そうしたら、俺たちの生活も無茶苦茶じゃないか!」


 森辺の民がいなくなったら、ダレイムの男たちが狩人の真似事をさせられるのかもしれない。あるいはトゥランのように塀でもこさえることになるのかもしれない。

 何にせよ、これまで通りの生活を続けられるはずはなかった。


「畜生、どうして俺たちがこんな目に……犯人はやっぱりトゥランの当主なのかなあ? あいつらは頑丈な塀で田畑を守られているから、森辺の民がどうなろうと知ったこっちゃないって考えなのかなあ?」


「木の塀なんかでギバを完全に防げるもんかね。本当に無事でいられるのは、石塀の中にこもってる連中ぐらいのもんだろうさ」


「その連中だって、俺たちが作った野菜で腹を満たしてるはずじゃないか! トゥランで作られてるフワノとママリアだけじゃあ生きていくことはできないんだぞ!?」


 そんなことは、誰にだってわかりきっている。

 わかっていないのは、城下町の連中ぐらいだろう。

 あの連中は、放っておいても野菜など地面からいくらでも生えてくるものとでも思っているのかもしれない。


「いいからさ、無駄に騒ぐんじゃないよ。何も起きてないうちから騒いだって、運命が変わるわけじゃないだろう? あたしらは、黙って仕事を果たせばいいんだよ」


「ど、どこに行くんだよ、母さん?」


「どこって、畑に決まってるじゃないかね。宿場町では商売になりそうになかったから、早めに切り上げてきたんだ。明日のために、ギーゴを掘らないとね」


「まさか、明日も宿場町に行くつもりじゃないだろうね?」


 すっかり取り乱しきっている息子の顔を、ミシルは下からにらみあげてやる。


「こんな騒ぎの中でも、ギーゴとチャッチはたいそう売ることができたんだ。この先どうなるかもわからないんだから、売れるもんは売れるうちに売っておくんだよ」


「だ、だけど……」


「胆の据わらない男だね。森辺の娘っ子だって、あんたよりは胆が据わっているよ」


 青い顔をした息子をその場に残し、ミシルはギーゴの畑へと向かった。

 森辺の民すら、商いを諦めていないのだ。

 いまだ何の被害を受けたわけでもない自分たちが、こんなところで音をあげるわけにはいかなかった。


(あたしらは、あたしらの仕事を果たすだけさ)


 それを果たすことができなくなってしまった人間の分まで――などと思ったわけではない。


 あのとぼけた顔で笑う黒髪の小僧は、今ごろどこで何をしているのだろうか。

 ミシルは痛む腰を叩きながら、乾いた土の地面をひとり歩き続けた。


              ◇


 そうして、4日もの日が過ぎ去っていった。

 その間、森辺の娘たちは毎日ミシルの店を訪れていた。

 その他の森辺の民たちも、変わらぬ様子でジェノス中を駆けずり回っていた。


 そんな中、4日目にしてついに犯人の正体が明らかとなった。

 トゥラン伯爵ではなく、その娘が犯人であったらしい。

 何故だかダレイム伯爵家の次男坊が森辺の民に力を貸して、それを救出に出向くのだと、そんな噂がすみやかに蔓延した。


(馬鹿だねえ。トゥランとダレイムじゃあ格が違うじゃないか)


 ダレイムの当主は、トゥランの当主の言いなりだ。

 ダレイムで作られた野菜をどのように売りさばくかも、すべてトゥランの当主の言いなりで決定されているらしい。

 また、トゥランの当主が禁じたために、ダレイムの田畑を守る塀を築くことができないのだ、などという風聞まで流れている。


 そんなトゥラン伯爵家の罪を、ダレイムの次男坊などにどうこうできるとも思えなかった。

 これで、森辺の民とジェノスの貴族の関係性は、決定的に崩落してしまうことになるのだろう。


 それでも、ミシルのやることに変わりはない。

 不穏にざわめく宿場町を後にして、暗くなるまでは畑の仕事にいそしみ、家族たちと食事を取り、眠る。

 翌朝も、夜明けから数刻ばかりは畑で仕事をして、必要な分の野菜を荷車に積み、宿場町へとおもむいて、馴染みの宿屋に注文の野菜を届けてから、店を開く。


 細い木の柱に革を張った屋根を立て、地面に敷いた布の上に見本の野菜をいくつかずつ並べ――そうして何組かの客を相手にしたところで、その連中が姿を現した。


「どうもご無沙汰です。いきなり姿を消してしまって申し訳ありませんでした」


 黒い髪に黒い瞳、黄色い肌ととぼけた笑顔を持つ、異国生まれの森辺の民――ファの家のアスタと、6名ばかりの森辺の狩人たちである。


 アスタはやっぱり、とぼけた顔で笑っていた。

 いくぶん頬の肉が薄くなったようだが、その黒い瞳には変わらぬ明るさが灯っていた。


 しばらく言葉を失ってから、ミシルはあわてて「ふん」と鼻を鳴らしてみせる。


「まさかまたその顔を拝むことになるとは思っていなかったよ。ずいぶん悪運の強い小僧だね」


「はい。森辺の同胞と宿場町のみなさんの尽力で、無事に帰ってくることができました」


 ミシルは、何もしていない。

 ただ、これまで通りに商いを続けていたのみである。


「俺がいない間は、森辺のルウ家の女衆がそのぶんのギーゴやチャッチを買っていてくれたのだと聞きました。……あの、うまく話がまとまれば、また俺も明日から商売を再開させることができるかもしれないので、その分のギーゴを売っていただくことはできますか?」


「あん? 明日の分のギーゴだったら、屋台を運んでいく行きがけでその娘たちが買っていったはずだよ」


「いえ。せっかくルウ家が独自で屋台の商売を始めることができたのですから、俺はそれとは別に店を開こうかと考えているんです。……そうなると、ルウ家で5本、俺のほうで5本、合計で毎日10本ずつのギーゴが必要になってしまうのですが……」


 申し訳なさそうな、心配そうな、そんな表情も相変わらずであった。

 だからミシルも、これまで通りにわめき返してやることにした。


「ミシルの店を見くびるんじゃないって、何回同じことを言わせるつもりなんだい、あんたは! 銅貨さえ準備できるなら、10本でも20本でも準備してやろうじゃないか!」


「ありがとうございます」と、ファの家のアスタは嬉しそうに微笑んだ。


 時は、白の月の10日――この奇妙な風体をした小僧と出会ってから、すでにひと月半以上の時間が過ぎていた。


 自分の天命とこの小僧の悪運と、どちらが尽きるのが早いのか。

 そのようなことを考えるでもなしに考えながら、ミシルは背後の荷車からとりわけ立派なギーゴを引っ張り出してやることにした。

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