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異世界料理道  作者: EDA
第十四章 群像演舞
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第四話 試練の五日間(一)

2015.9/20 更新分 1/1

・今回の更新は6話分です。

 まるで、集落が燃えているかのようだった。

 森辺でも一、二を争う大きさをしたルウの集落において、轟々とかがり火が焚かれているのである。


 大きな宴でもない限り、このような夜更けまで火が焚かれることはないだろう。

 しかしもちろん、宴ではありえなかった。

 その時ならぬ明るさと熱に満ちた空間に渦巻いているのは、かがり火よりも激しく燃えさかる怒りの情念だったのである。


「このような場所で呑気に論じ合っている場合か! 我々は、今すぐにでも城下町へと向かうべきであろうが!」


 吠えているのは、三族長のひとり、グラフ=ザザだった。


「どのような理由であれ、やつらは森辺の民に刀を向けた! 刀には刀の報復だ! 何も迷う理由はない!」


「お待ちください。それでも、此度の犯人がサイクレウスであるという証しはないのです」


 その中ではまだ沈着なガズラン=ルティムが、必死にグラフ=ザザをおさえようとしている。

 それに賛同する声と反発する声が、また炎のように渦を巻いた。


「このような時期に、たまさかまったく関係のない者どもが森辺の民に刀を向けてきたというのか? そんなはずはあるまい! しかも一緒に襲われた宿屋の主人は、宿場町には不相応な身なりをした貴族のような男が犯人であったと証言しているのだろうが!?」


「そうであっても、相手が確かに貴族であるという証しはないのです。これでもしもサイクレウスに罪がなかった場合は、森辺の民はあらぬ疑いを君主筋に向けてしまうことになります」


「君主筋が何だというのだ! けっきょくあの者たちは、森辺の民などどのように扱ってもかまわぬと侮っているのだろう! あのような痴れ者どもに、もはや刀を捧げる理由はない!」


 グラフ=ザザは、白昼堂々と森辺の民が襲われたというその事実に対して、怒り狂っているのだろう。

 森辺の民は、同胞に刀を向ける人間を許さない。異国生まれのアスタばかりでなく、護衛役のルウ家の者たちにまで刀を向けた悪漢どもは、森辺の民にとって許されざる敵なのだ。


 グラフ=ザザと同じ思いで怒号をあげている者は、その場に大勢いた。

 むしろ、その場に集まった内の過半数が、グラフ=ザザに賛同しているように思えた。


 その場に集まっているのは、ルウの集落に住まう家人たちと、その眷族の代表者たち、それに、グラフ=ザザとダリ=サウティが引き連れてきた数名の家人たちと、あとは、フォウやランやスドラといった、ファの家と縁の深い氏族の家長たちであった。


 男衆は、その全員が怒りに目を燃やし、覇を競うかのように大声をあげている。

 女衆は、そんな男衆らを悲しみと苦悩に満ちた眼差しで静かに見守っている。


 まるで、集落が燃えているかのようだ――と、アイ=ファはあらためてそのように思った。


「ああ……いったい何ということだろうねえ……」


 かぼそい声が、背後から近づいてくる。

 振り返ると、そこには泣きそうな顔をしたリミ=ルウと、それに支えられたジバ=ルウが立っていた。


「まるでこれは、南の森を焼かれて故郷を失ったときみたいな騒ぎじゃないか……なんて恐ろしい……そして、なんて悲しい声だろう……」


 アイ=ファには、何も答えることができなかった。

 アイ=ファこそが、この場でもっとも激烈な怒りを抱え、もっとも正気でいられなかった人間なのである。


 口を開けば、どのような怒号がほとばしってしまうかもわからない。

 だからアイ=ファは、自分の持てるすべての力を振り絞り、あふれかえりそうになる激情を必死にねじふせながら、ただ皆の狂乱を見つめていたのだった。


「貴様はファの家のアスタを友と認めていたのではなかったのか、ガズラン=ルティムよ!?」


 と、グラフ=ザザがさらなる怒声をガズラン=ルティムに叩きつける。


「友と呼んだ人間が、卑劣にして暴虐なる無法者どもにかどわかされたのだ! それで貴様はよくもそこまで涼しげな顔をしていられるものだな!」


「私とて、胸には怒りと無念が満ちています。許されるならば、門衛を斬り伏せてでも城下町に踏み入って、アスタの行方を捜し求めたいほどです」


 あくまでも昂ぶらない口調で――ただしその双眸にはグラフ=ザザにも劣らぬ激しい炎を燃やしながら、ガズラン=ルティムはそう言った。


「しかし――そうであるからこそ、冷静であろうとつとめているのです。ジェノスの貴族に誤って刀を向ければ、私たちはすべてを失ってしまうかもしれません。アスタの存在が引き金となって、森辺の民の未来が閉ざされてしまうなどという、そのような事態だけはどうしても回避したく思うのです」


「……ならば、貴様はどうせよと言うのだ?」


 そのように問うたのは、ドンダ=ルウであった。


「何にせよ、ファの家のアスタはさらわれてしまったのだ。城にこもったサイクレウスからは、すべてを衛兵の手にゆだねよという言葉しか返ってこなかったが――まさか、サイクレウスが姿を現すという5日後の朝まで、何もせずにただ待ち続けろ、と言うわけではあるまい?」


「無論です。我々もまた、独自にアスタの行方を追うべきでしょう」


「どのように追う? また、どの地でそれをなすつもりだ?」


「城下町に犯人はいない、とサイクレウスや兵たちが言い張るのならば、城下町以外のすべての地を。その末にアスタの所在を見いだせなかったならば、そのときこそ城下町に犯人はありと主張することができるのではないでしょうか?」


「迂遠な話だな……ジェノスには宿場町ばかりでなく、トゥランや農園の区域もある。とうてい5日後までに捜し尽くせる広さではないだろう」


「そうでしょうか? 栗色の髪をしたシム人と、貴族のごとき身なりをした西の民、それにジェノスでは珍しい黒色の髪と黄色い肌をあわせもつアスタ――これだけ目に立つ風貌の人間がそろっていれば、なかなか身を潜めることも難しいと思います」


「ふん……」


「それでジェノスの全土をくまなく捜索して発見できなかった場合は、城下町か、あるいはジェノスの外に逃げたと考える他ありません。それでもなお衛兵たちが城下町に犯人はなしと言い張るならば、何をもってそのように言い切れるのか証しを示すべし、と主張することもできるのではないでしょうか?」


「俺はガズラン=ルティムに賛成だな」


 と、三族長の最後のひとり、ダリ=サウティが進み出てくる。


「そもそもこのような時期にサイクレウスがアスタをさらう理由がわからん。しかも白昼堂々と、その素顔を余人にさらしてまで凶行に及ぼうとは、あまりにお粗末な手口ではないか。あのサイクレウスという男の企みであったなら、もう少し悪賢いやり方を選ぶのではないのかな」


「それではダリ=サウティも、サイクレウス以外の人間が犯人であると考えているのか?」


「可能性は、五分だろう。森辺の民やサイクレウスを憎む人間などが、その関係性を引っかき回そうと目論んだのかもしれないし、あるいはサイクレウス自身があえて森辺の民を挑発するためにお粗末な手口で荒事に及んだのかもしれん。……何にせよ、俺たちは冷静につとめるべきであろう」


 どうやらダリ=サウティは、ガズラン=ルティムよりも落ち着き払っているようだった。

 さしものガズラン=ルティムも、やはりこのような場で完全に沈着ではいられないのかもしれない。


 自分と同じ思いを抱いているなら当然だ――と、アイ=ファは心中でそのように思った。


「それに、向こうが欲しているのはアスタの身柄であり、生命ではないのだろう。アスタを客人として迎えたい、などという言い分がどこまで真実であるかはわからぬが、生命を欲していたならば、その場でその仕事を果たすことは容易かったはずだ」


「それはそうだが――」


「大体な、怒りにまかせて刀をふるうというのは森辺の流儀ではない。城下町に犯人はあり、と証し立てるためにその他の地を捜し尽くすというやり口は、確かに迂遠かもしれないが、俺たちの流儀にはそっているだろうさ」


 そう言って、ダリ=サウティは一瞬だけ双眸を燃えあがらせた。


「すべての手を尽くし、これこそが真実だと心から信じることができてこそ、刀をふるうことは許されるし、また、強い力で刀をふるうこともできるのだろうと思う。……森辺の族長の一、ダリ=サウティはそのような思いから、ガズラン=ルティムの言葉を支持する」


「……その迂遠なやり口のせいでファの家のアスタの生命が失われたら、何とする?」


 グラフ=ザザが、底ごもる声で問う。

 ダリ=サウティは、また穏やかな眼差しに戻りつつ答えた。


「そのときは、森辺の民の総力をもって犯人に罪を贖わせる他あるまい。たとえすべての貴族どもを敵に回そうとも、たとえモルガの森という第二の故郷を失ってでも、だ」


 それでどうやら、帰趨は決したようだった。

 グラフ=ザザは怒りの形相のまま口をつぐみ、それに代わってドンダ=ルウが声をあげる。


「ならば、明日からはルウとその眷族がジェノスの町に下りて仕事を果たそう。我々は、折りよく休息の時期にあるからな」


「ルウとその眷族のみで、捜索の手が足りるのか?」


 フォウの家長が不満そうに言い、ドンダ=ルウはゆるりとそちらを振り返る。


「森辺の民のすべてが狩人としての仕事を打ち捨てるわけにはいくまい。流儀を通すというのは、そういうことだ」


 見切りをつけて、アイ=ファは身を翻した。

 その背に、「待て」と声をかけられる。

 振り返るまでもなく、それはドンダ=ルウの声であった。


「貴様はどこに行くつもりだ、ファの家のアイ=ファよ」


「知れたこと。道が定まったのならば、私は明日に備えて、ファの家に戻る」


 ひび割れそうになる声で、アイ=ファはそのように答えた。


「族長たちが道を決したのだから、それに逆らうような真似をしない。森辺の民ならば、それが当然のことであろう」


「ふん……その言葉に偽りはなかろうな? もしもひとりで城下町に向かうつもりならば、その手足を縛ってでも大人しくしてもらう他ないが」


「やれるものなら、やってみるがいい!」


 たちまちアイ=ファは均衡を失って、ドンダ=ルウを振り返った。

 その胸もとに、リミ=ルウが「アイ=ファ!」と取りすがってくる。

 アイ=ファは奥歯を噛み鳴らし、あふれかえりそうになる激情を飲み下した。


「……偽りはないと、森に誓おう。私は、族長らの決断に従う」


 ドンダ=ルウは思いの外、激さずにアイ=ファの姿を見下ろしていた。

 ただしその双眸は、その場にいる誰よりも熾烈に燃えさかっている。


「貴様が平常でいられないのは当然だ。俺とて、さらわれたのが自分の家族であったのなら、抑制がきかずに刀を取っていたかもしれん。……だからこそ、貴様に真情を問うたのだ。苦しければ、その身をルウ家に預けるがいい」


「大丈夫だ。アスタが自力で戻ってくるやも知れぬのだから、ファの家を空けておくわけにもいくまい」


「ならば、ルウの誰かを供につけるか」


「不要だ。……ただし、明日は私も町に下りさせてもらう」


 ドンダ=ルウは真っ直ぐにアイ=ファを見つめながら、「好きにするがいい」と低く言った。


 アイ=ファはリミ=ルウの頭を撫で、ジバ=ルウにひとつうなずきかけてから、本家に預けていたギルルのもとに足を向けた。


              ◇


 そうしてアイ=ファはひとりファの家に戻ったが、とうてい眠れるものではなかった。

 怒りと焦燥が、煮え湯のように体内を満たしている。

 まるで全身の血液が沸騰してしまっているかのようだ。


 そして、足もとには絶望の深淵がぽっかりと口を空けている。

 自分は永久にアスタを失ってしまうかもしれない――そのように考えただけで、肉体も魂もばらばらに四散してしまいそうだった。


 この場に留まることが絶対に正しいというならば、どのような苦悶にでも耐えてみせよう。

 また、自分が今すぐ城下町に向かうことでアスタを救うことができるのならば、どのような苦難でも退けてみせる。


 しかし、それらのいずれが正しいのかを、アイ=ファに知るすべはなかった。


 動くことが正しいのか。

 動かないことが正しいのか。

 それがわからないゆえに、アイ=ファは身体を真っ二つに引き裂かれてしまいそうな煩悶を味わわされることになってしまっているのだ。


(森よ……どうかアスタに加護の手を……)


 どんなに祈っても、心は安がらない。

 アスタから贈られた首飾りを握りしめ、床にうずくまりながら、それでもアイ=ファは血を吐くような思いで祈り続けるしかなかった。


(私は、駄目だ……私はもう、あの頃のように生きていくことはできないのだ……)


 母を失い、父を失い、さらにはすべての氏族との絆を失って、アイ=ファはひとりで生きていくことを決断した。

 誰もがスン家との悪縁を恐れ、そして誰もが女衆の身で狩人として生きていくことを認めないならば、ひとりで生きていく他に道はない。そのように考えて、アイ=ファは2年もの歳月を過ごしてきたのだ。


 しかしアイ=ファは、アスタの温もりを知ってしまった。

 他者と暮らし、苦楽を分かち合っていく、その幸福な生をはっきりと思い出してしまった。


 アスタのおかげで、リミ=ルウやジバ=ルウや、それにフォウやランの人々とも縁を結びなおすことができた。

 スドラやディンや、ルウの眷族とも新たな縁を結ぶことができた。


 それでもアイ=ファにとって、家人はアスタのみであった。

 家人としてともに生きていきたいと思えたのは、アスタのみであった。


 アスタの代わりは、誰にもつとまらない。

 友としてのリミ=ルウやジバ=ルウの代わりが誰にもつとまらないのと同じように、家人としてのアスタの代わりは、誰にもつとまらないのだ。


 アスタを失ってしまったら、アイ=ファの心は木っ端微塵に砕け散ってしまうだろう。

 最愛の家人を、たったひとりの家人を失ってしまうという、2年前と同じあの苦しみを、今の自分に耐えられることができるのか――そのような自信は、どこを探したって見つけることはできなかった。


 自分は、弱くなってしまったのか。

 いや。

 アスタを得たことで、自分は強くなったはずだった。


 アスタとともに、いつまでも幸福に生きていきたいと思う。

 その気持ちが強ければ強いほど、身体と魂には強靭な力が満ち、これまで以上にたくさんのギバを狩ることができた。


 自分は、強くなったのだ。

 その強さが奪われてしまいそうな喪失感に、怯えているのだ。


 アスタの温もりを、この身に感じたい。

 力まかせに、その身体を抱きすくめたい。

 とぼけた声で「何をするんだよ!」とわめく、その頬に自分の頬をおもいきりこすりつけてやりたい。


 アイ=ファは自分自身の身体を抱きすくめ、あふれかえりそうになる激情をその身に縛りつけた。

 抑制を失ったら、ぶざまに泣き崩れてしまいそうだった。

 それを自分に許してしまったら、もう二度と立ち上がれなくなってしまう気がした。

 だからアイ=ファは、これまでに培ってきたすべての力を振り絞って、己を抑制し続けたのだった。


(町に……町に、下りてみるべきか?)


 そんな衝動が、激流のように襲ってくる。


 町に下りるだけなら、罪にはならない。

 城下町の城壁さえ乗り越えなければ、森辺の掟にもジェノスの法にもふれたりはしないはずだ。


 何の指針もなく、このような夜更けに町に下りたところで、何にもならないことはわかりきっている。

 明日のために少しでも身体を休めておくのが、最善の道であろう。


 それでもアイ=ファは、身体の奥底からつきあげてきた衝動をやりすごすことはできなかった。


(町に下りて、門番どもに見つからぬよう、門や城壁の様子をうかがって……それだけでいいのだ。その中で、アスタは自由を奪われつつも健やかに生きている、と自分に言いきかせることができれば……それで、少しはこの苦しみをやわらげることができるかもしれない)


 アイ=ファは立ち上がり、狩人の衣を纏いつけ、刀を腰に下げてから玄関に向かった。

 身体を折って眠りに落ちていたギルルが、ゆっくりとまぶたを開く。


「すまない。もうひと働きしてもらうぞ、ギルル」


 その頭を軽く撫でてやると、ギルルは不思議そうにまばたきをした。

 戸板が外から叩かれたのは、まさにその瞬間であった。

 アイ=ファは、愕然と立ちすくむ。


「アスタ……アスタか!?」


 しかし、現実は非情であった。

 扉の外から聞こえてきたのは、「いえ……」という女衆のか細い声であったのだ。


 その場に崩れ落ちそうになるほどの虚脱感を味わわされながら、アイ=ファはかんぬきを引き抜いた。

 それでも油断なく刀の柄に指先をそえつつ、戸板を引き開ける。


 そこに立っていたのは、サリス・ラン=フォウであった。


「アイ=ファ、その格好は……まさか、ひとりで町に下りるつもりだったの!?」


 夜の闇を背景に、サリス・ラン=フォウが驚きに目を見開く。

 しかし、驚いたのはアイ=ファのほうであった。

 サリス・ラン=フォウがアイ=ファのもとを訪れてきたのは、これが2年ぶりのことであったのだ。


「ねえアイ=ファ、お願いだから、無茶はしないで。家人のアスタは明日ルウ家の人々と一緒に捜すことに決定されたのでしょう?」


 サリス・ラン=フォウが、アイ=ファの肩に取りすがってくる。

 この2年ほどで、サリス・ラン=フォウはアイ=ファよりも拳ふたつ分ほども小さくなってしまっていた。


 ここに立っているのは、アイ=ファの友サリス=ランではなく、フォウ家の女衆サリス・ラン=フォウであるのだ。

 しかし、アイ=ファの肩をつかむサリス・ラン=フォウの手は、以前と同じ温かさを有していた。


「サリス・ラン=フォウ……サリス・ラン=フォウは、いったい何の用事があってこのファの家を訪れたのだ?」


 道や水場で出くわしても、サリス・ラン=フォウは気弱げに目をそらして、決して自分からアイ=ファに近づいてこようとはしなかった。

 そのサリス・ラン=フォウが、アイ=ファの肩に取りすがって、涙のにじんだ目を真っ直ぐに向けてきている。

 アイ=ファには、何をどう考えればいいのかもわからなくなってしまっていた。


 そんなアイ=ファを見つめ返しながら、サリス・ラン=フォウは「アイ=ファのことが心配だったのよ……」とつぶやく。


「あれほど心を許していた家人を失ってしまい、アイ=ファがどれほど悲嘆に暮れているかと考えたら……居ても立ってもいられなくなってしまったの」


「……何故?」


 アイ=ファの言葉に、ついにサリス・ラン=フォウの目に浮かんでいた涙がしずくとなって流れ落ちた。


「わたしは2年前に、アイ=ファを裏切ってしまった……スン家が恐ろしくて、ランもフォウもファの家との縁を絶ってしまったし、それにわたしは……」


「そんなものは、サリス・ラン=フォウに罪のある話でもない」


 当時、アイ=ファがスン家と悪縁を結んでしまったのと前後して、ふたりの縁は断ち切れてしまったのだ。

 サリス・ラン=フォウ――当時のサリス=ランが嫁入りすることに決まっていたフォウ家の男衆が、アイ=ファに心を奪われてしまったためである。


 そのフォウの男衆は、アイ=ファに嫁入りを願ってきた。

 当然のこと、アイ=ファはそれを拒絶した。

 そのやりとりを、サリス=ランに見られてしまったのだ。


 その後、サリス=ランはフォウ家の別の男衆に嫁入りをして、子をなした。

 サリス=ランを裏切った男衆も、ラン家の別の女衆に婿入りを果たしたはずだ。

 それでフォウ家とラン家は絆を結びなおし、そしてファの家だけが縁を絶たれた。


 しかしそれはスン家との悪縁と、そしてアイ=ファが狩人を志したための結果であり、サリス・ラン=フォウには何の責任もないはずであった。


「違うわ。確かにファの家とのつきあいを禁じたのはフォウとランの家長たちだったけど、わたしは自分の意志でそれを受け入れた。幼い頃からの友を思いやる気持ちよりも、わたしはスン家を恐れる気持ちと――そして、美しいアイ=ファを妬む気持ちを重んじてしまったのよ」


「そのようなことは――」


「それが真実なの! わたしはアイ=ファのように誇り高く生きていくことはできない、愚かな女衆なのよ」


 言いながら、サリス・ラン=フォウはアイ=ファの胸もとに顔をうずめてきた。

 なんて小さくてほっそりとした身体だろう、とアイ=ファはぼんやり考える。


「わたしには、アイ=ファの友を名乗る資格はない……でも、アイ=ファを失ってしまいたくはないの……お願いだから、無茶はしないで……」


「……族長の定めた決定に逆らうつもりはない。私はただ、町の様子をうかがうために外に出ようとしていただけなのだ」


「本当に……?」


 サリス・ラン=フォウが、涙に濡れた面を上げる。

 そちらに向かって、アイ=ファは「本当だ」とうなずいてみせた。


「そして私は、サリス・ラン=フォウをずっと友だと思っていた。たとえ友としてふるまうことは許されなくなろうとも、15の年まで私を育んでくれたのは、父と母と、そしてサリス・ラン=フォウのような友の存在だったのだ。その気持ちを忘れたことは、一日としてない」


 サリス・ラン=フォウの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。

 そうして、力まかせにアイ=ファの身体を抱きすくめてくる。


 細くて、小さくて、温かい身体だ。

 アスタの代わりは、誰にもつとまらない。

 しかし、このサリス・ラン=フォウの代わりも誰にもつとまらない。


 アスタを失った絶望感と、サリス・ラン=フォウを取り戻せた幸福感で、アイ=ファは何も考えられなくなるぐらい気持ちをかき乱されることになった。


 そうして最悪なる5日間の最初の夜は、サリス・ラン=フォウの涙とともに暮れていった。

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