ルウの末弟の小さな冒険(下)
2015.9/11 更新分 1/1
そうしてルド=ルウは、ドムの本家で夜を過ごすことになってしまった。
みんなが寝静まる頃に戻ると思う、と家族には伝えてあったので、明朝早々に戻ればそんなに心配をかけることにもならないだろうが、とりあえず最後の最後で計算が外れてしまった。
(まあいっか。どうせ後は眠るだけなんだし)
レム=ドムの準備してくれた寝具の上で、うーんと手足をのばす。
部屋には、新しい木の匂いが満ちていた。
広間ではそんなに気にもならなかったが、きっとこの家もザッツ=スンに焼き払われて、修復を余儀なくされたのだろう。
貴族との会談を経て、罪はなしと許されたディガやドッドは、ドムの分家でどのような思いを抱いているのか。
ちょっと顔でも拝んでみようかとも思ったが、そんな筋合いでもないのでやめておいた。縁があれば、明日の朝にでも顔を合わせることはできるだろう。
(だけど、目がさえちまってしばらくは眠れそうにねーなあ)
などと考えていたら、戸板を外から叩かれた。
ぴょこんと寝具の上に半身を起こしながら、「かんぬきは掛けてないぜ」と声を返す。
戸板がからりと引き開けられ、レム=ドムが姿を現した。
しなやかな筋肉のついた手に、果実酒の土瓶が下げられている。
「せっかくかんぬき付きの部屋を用意したのに、無用心なのね?」
「あんたたちに襲われる筋合いはねーからな。玄関にかんぬきが掛けられてるなら、それ以上の用心は不要だろ?」
「ふうん……ずいぶん自分の腕に自信があるようね」
レム=ドムはまた片頬で笑いつつ、後ろ手で戸板を閉めた。
「そちらからいただいた果実酒だけど、夜の供にどうかしら?」
「あー、気づかいはありがたいけど、俺はあんまり果実酒が好きじゃねーんだよ」
「へえ。果実酒を飲まない狩人などというものも存在するのね」
「そりゃあいるだろ。たしかルティム本家の次兄なんかも、果実酒は苦手とか言ってた気がするな」
「そう。だったら、わたしがいただいてしまうわよ」
言いながら、レム=ドムは寝具のそばで膝を折った。
ルド=ルウは、首を傾げてみせる。
「えーっとさ、未婚の男衆と女衆が夜の寝所でふたりきりになるってのは、古いしきたりに反するんじゃねーの?」
「そうらしいわね。でも、余所の氏族では古いしきたりも廃れつつあるのでしょう?」
「ああ。だけどあんたはしきたりを重んじる北の一族の女衆だろ?」
「破って罪にならないしきたりなんて、どうでもいいじゃない」
レム=ドムは、うっすらと笑っている。
いかにも気性は荒そうであるが、反面、女衆らしい色香も備わっているので、ルド=ルウとしてはいささか落ち着かない気分であった。
(ま、さすがにドムの婿に入れなんて言いださねーよな)
族長筋の本家の人間であるのだから、ルド=ルウにはディック=ドムやモルン=ルティム以上に正しい婚儀というものが求められているのである。
ただし、父ドンダ=ルウは家族も眷族もないアイ=ファをルウ家に嫁入りさせようと考えるような人間であるので、そこまで古いしきたりにはとらわれていないようにも思える。
「俺に何か用なのか? 色々と面倒をかけちまったから、別に文句を言うつもりはないけどさ。とりあえず、家長のお怒りを受けるような真似はしないでくれよな?」
「さあ、それはちょっと請け負えないかもしれないわねえ」
今度はちょっと含んだような笑みを浮かべつつ、レム=ドムはその手の果実酒をあおった。
「その前に、ひとつ確認しておきたいんだけど……あなたはうちの家長に、ルウの人間を嫁入りさせようという心づもりなの、ルド=ルウ?」
「んー、どうしてそう思うんだ?」
「そうとしか思えないような話ばかりだったじゃない。まあ、うちの家長は奥手だから、さっぱり意味がわかってないみたいだったけど」
くっくっくと咽喉を鳴らして笑いだす。
ずいぶん多彩な笑い方を備え持っているようだが、どれもあやしげで、人を食ったような笑い方ばかりである。
「そういう話こそ、親筋のザザ家を通すべきなのじゃないかしら? ルウ家もれっきとした族長筋で、ドムも族長筋ザザ家の眷族なんだから、ザザ家を抜きに勝手な真似はできないはずよ?」
「勝手な真似をするつもりはねーよ。だから最初に、これは族長である親父からの言葉ではないって告げただろ?」
「それじゃあ、あなたは族長である父親を通さずに、あなたひとりの意思でどこかの女衆の力になっているっていうことなのかしら?」
「それは、言えねー」
レム=ドムは果実酒をもう一口飲んでから微笑した。
「それはあまりに不義理な言い様じゃないかしら?」
「不義理かもしれないけど、言えねー。虚言を吐かないだけましだとでも思ってくれねーかな」
「なるほど。あなたは義理堅い男なのね、ルド=ルウ。……まあ、うちの家長をおかしな企みに巻き込むつもりでないのなら、何がどうでもかまわないのだけれど」
「そんなつもりは一切ないから、それだけは信じてほしいところだな」
レム=ドムは、横目でルド=ルウを見つめつつ、「そう……」とつぶやいた。
「それなら、それでいいことにしてあげようかしら。……ねえ、それじゃあその話を見過ごしてあげる代わりに、わたしにサウティの話を聞かせてもらえない?」
「サウティ? サウティがどうしたってんだ?」
「家の遠いサウティの人間は、ルウの眷族と家人を貸し合って、それで仕事を習っているって言っていたじゃない? その話を詳しく聞きたいのよ」
「ふーん? 別にややこしい話ではないけどな。サウティの家長ダリ=サウティは、自分の家でも美味い食事を食べたいから、そのための技術をルウの眷族であるルティムから習ってたんだよ」
その経緯を思い出しながら、ルド=ルウはそのように答えてみせた。
「今は貴族どもとのゴタゴタで話が止まっちまってるけどさ、ちょっと前までは2、3人ずつの家人をルティムと交換してたんだ。で、ルティムの家ではサウティの家人たちが技術を習い、サウティの家ではルティムから出向いた家人たちが技術を教える。それを数日続けるだけで、ギバの血抜きや解体なんていう仕事はすぐに覚えられるわけだな」
「それは数日間、相手の集落に泊まり込むという意味なのね? それは男衆だけの仕事なのかしら?」
「いや、かまど番は女衆の仕事だからな。ギバの肉をいい具合いに仕上げたって、ポイタンと一緒に煮込んじまったら台無しなんだよ。だから少なくとも、ポイタンの焼き方ぐらいは習わねーと、美味い食事ってもんにはありつけねーんだ。……サウティの女衆も、何日かぐらいはルティムの集落に泊まり込んでたんじゃねーのかな」
しかし数日間では、ポイタンの焼き方とちょっとした料理の作り方ぐらいしか習得することはできなかっただろう。
アスタから直接学ぶことができているルウやフォウやディンなどの家には、とうてい及ばないはずだ。
「ふうん……それで、ルウの集落はファの家とも近いのだったかしら?」
「んー、微妙なところだな。トトスだったら、ひとっ走りだけどよ。まあ、少なくともスンとドムの集落よりかは、うんと近いぐらいだよ」
「そう……でも、ルウとファはとても強い縁を結んでいるのよね?」
「ああ。このひと月ぐらいは安全のために、アイ=ファもアスタもずっとルウの集落に泊まり込んでるぐらいだからな」
そのように答えてから、ルド=ルウは眉をひそめてみせた。
「なあ、ファの家がどうしたってんだ? サウティに仕事を教えてんのはルティムの連中なんだぜ? ファの家は関係ねーんだよ」
「でも、ドムとルウとで家人を貸し合うことになったら、わたしたちがファの家の人間に近づくこともできるのでしょう?」
「ファの家の人間に近づいてどーすんだ?」
「さあ、どうするのかしらねえ」
「……おい」とルド=ルウは目を細めた。
「言っておくけど、ファの連中におかしな真似を仕掛けたら、いくらドム本家の人間だってただじゃおかねーからな? そのことだけは、きっちりわきまえておいてくれよ?」
「あら……あなたもやっぱりルウの狩人なのねえ。ドムやザザの男衆にも負けない迫力じゃない?」
そのように言いながら、レム=ドムはまたあやしく笑った。
「でも、お生憎さま。わたしはあの家長と生まれたときから顔をつきあわせているのよ? それぐらいの目つきで怖がってあげるわけにはいかないわ」
「怖がらなくてもいいけどよ、きちんと約束してくれよ。ファの人間におかしな真似はしないってな」
「本当にルウとファは強い友誼で結ばれているのね。血の縁もないはずなのに、と族長たちがいぶかるのも当然だわ」
レム=ドムは、怖がるどころかルド=ルウのほうに顔を寄せてくる。
「あなたを怒らせるつもりはなかったのよ、ルド=ルウ。……それじゃあ事情を話したら、あなたはこの先、わたしに力を貸してくれるのかしら?」
「今のところは、あんたと何ひとつ約束を交わす気にはなれねーよ」
「だから、事情を話すと言っているじゃない。もしもわたしがルウの集落に出向くことになったら、ファの家の家長と縁を結ばせてほしいのよ」
「アイ=ファとかよ。何でだ?」
レム=ドムは、さらにルド=ルウの耳もとへと迫ってきた。
女衆と果実酒の香りが、ルド=ルウの鼻に忍び入ってくる。
「誰にも内緒よ? ……わたしも、狩人になりたいのよ」
ルド=ルウは、少しだけ驚くことになった。
「わたしはとても強い力を持っていたドムの先代家長の血を引いてるし、それに、この手でギバを仕留めたこともあるのよ?」
「へえ? 女衆のあんたがかよ?」
「ええ。集落に、飢えたギバが姿を現したことがあったの。まだそれほど大きく育ってもいなかったし、飢えて力を失ってもいたのでしょうけど、小刀で咽喉もとをかき切ってやったわ」
レム=ドムの言葉自体が熱を持っているかのように、ルド=ルウの耳を火照らせていく。
「それで、思ったのよ。女衆のわたしでも、狩人としての力をつけることはできるんじゃないのかって。……だから、この森辺で唯一の女狩人であるというファの家のアイ=ファに、会ってみたいの」
「なるほどな。そういう話なら、まあ納得はできるよ」
ルド=ルウが身を引くと、それにあわせてレム=ドムのほうも身を引いてくれた。
やや吊り上がり気味の大きな瞳が、熱っぽく潤んでいる。
レム=ドムは、今まで以上に色っぽく、今まで以上に勇猛に見えた。
「どうかしら? わたしの言葉を信じてもらえる? こんな話、誰に話しても鼻で笑われてしまいそうだけど」
「ああ、まあ、俺はアイ=ファともさんざん顔をあわせてきたからな。そういう風に考える女衆が森辺に生まれるってのは、ありうることなんだろうな」
「アイ=ファっていうのは、どういう女衆なのかしら? 聞くところによると、狩人とは思えないぐらい小さくてほっそりしているらしいけど」
レム=ドムが、またルド=ルウのほうににじり寄ってくる。
「うーん」とルド=ルウは頭をかいてみせた。
「どういう女衆って言われてもなあ。……まあ確かに、あんたよりは小さくてほっそりはしているよ。それでも俺よりはほんのちょっぴりだけ背が高いけどさ」
「それなのに、狩人としての仕事がつとまっているの? ファの家にはアスタという異国生まれのかまど番しか家人はなく、分家も眷族も存在しないのでしょう?」
「ああ。アイ=ファは2年前からひとりきりで狩人としての仕事を果たしていたらしい。危なっかしいし馬鹿げた話だけど、俺はあいつを尊敬しているよ」
「ふうん……それなら、わたしにだって狩人としての仕事はつとまりそうよねえ」
「そいつはどうだろうな」と応じながら、ルド=ルウはあらためてレム=ドムの姿を検分してみた。
女衆としては珍しいぐらいに背は高いし、筋肉もしっかりついている。
乳と尻が邪魔くさそうだが、きっと走ったり木に登ったりするのも得意なのだろう。
だが――狩人としての力とは、そういう話だけではないのだ。
「そういえば、あんたは何歳なんだよ、レム=ドム?」
「わたしは、15よ」
「15か。俺と同い年なんだな」
まあ、兄のディック=ドムが17歳だというのだから、今さら驚くような話ではない。
「うーん……そうだなあ……死に物狂いで修練を積めば、2年後ぐらいには狩人としての力を身につけることはできるかもしれねーな」
「あら、今から2年もかかってしまうの?」
「そりゃあそうだろ。俺はな、ちょうど2年前、アイ=ファが15歳だった頃にも顔を合わせたことがあったんだよ」
あれはアイ=ファが父親を失って、ディガと悪縁を結んでしまった頃。
ルウ家に嫁入りをするつもりはないか、と父のドンダ=ルウがファの家まで出向いたとき、ルド=ルウも兄たちと一緒にアイ=ファと対面することになったのだった。
あのときのアイ=ファは、今よりも小さくてほっそりしていた。
たぶん、今の自分よりも小さいぐらいだったと思う。
このレム=ドムほどの筋肉を持ってもいなかったし、あれでは大刀をふるうことさえできなかっただろう。
そんなアイ=ファが、「狩人として生きていくつもりだ」と宣言して、嫁入りの話をつっぱねた。
まだ13歳で狩人になりたてであったルド=ルウは、なんて馬鹿なことを考える女衆なのだろう、と思っていた。
こんなに綺麗な顔をした女衆なのに、もったいないな、とも思っていた。
だが――そんな小さくて綺麗な姿をした女衆のアイ=ファであったが、その青い瞳には狩人としての炎が燃え、怒り狂っていた父ドンダ=ルウを前にしても、いっかな怯む様子さえ見せていなかった。
聞けば、アイ=ファは13歳の頃から狩人としての仕事を手伝っていたのだという。
まだその身に十分な力はついていなかったが、アイ=ファの魂はすでに狩人のそれであったのである。
「15歳のとき、アイ=ファはすでに2年間も狩人としての修練を積んでいた。だからあんたも、2年かければ狩人としての魂を練りあげることができるのかなって思ったのさ」
「狩人としての魂? ……よくわからないわね。そんなものは、目に見えるものでもないでしょう?」
「目に見えないから、育てるのが大変なんだよ」
「ふうん? でも、魂がどうであろうと、力さえあればギバを狩ることはできるでしょう? 大事なのは、やっぱり肉体の力なのじゃないかしら?」
レム=ドムの黒い瞳が、いよいよ爛々と輝き始めている。
しかし、ルド=ルウとしては肩をすくめてみせる他なかった。
「そんな風に考えているうちは、狩人になるのも難しいかもしれねーな。ま、せっかく綺麗な顔をしてるんだから、大人しく女衆としての生を歩んだほうが幸せなんじゃねーの?」
「女衆は、つまらないのよ……」
と、レム=ドムがルド=ルウのすぐわきに手をついてきた。
自然、両者の距離はぐっと縮まる。
「朝から夜まで薪を集めて、薪を割って、ピコの葉を乾かして、毛皮をなめして――あとはせいぜい、男衆とまぐわって、子作りに励むぐらいのことでしょう? わたしはもっと……森辺の民としての生を身体の奥底から感じたいのよ……」
熱い吐息が、吐きかけられる。
大きな乳とルド=ルウの胸が触れんばかりの距離である。
ルド=ルウは後ずさったが、背中のすぐ後ろは家の壁だった。
「それだって、森辺の民としての大事な生だろ? 子供を産み落とす幸福は女衆にしか味わえねーんだぞ?」
「じゃあその幸福をわたしに味わわせてくれる……?」
「おいおい、家長の了承もなしに婚儀の話を進めるわけにはいかねーだろ?」
「そうねえ……だったら、子供を作らないように気をつけながら、快楽だけを貪ってみる……?」
古い習わしを重んじる北の一族とも思えぬ言い草である。
つやつやとした肉の厚い唇が半開きになっている。
その奥からかすかに覗いている赤い舌の先が、ぞくりとするほど色っぽい。
いまやその肉体から発散されている女衆の色香で部屋の空気が満たされしまい、ルド=ルウはちょっと息苦しいほどであった。
「しょうがねーなあ」
ルド=ルウはおもむろにレム=ドムの両肩をわしづかみにした。
男衆のように筋肉が張っているが、やはりその皮膚はなめらかで、しっとりと指先にまとわりついてくるかのようである。
レム=ドムの瞳が、いっそうあやしく、いっそう熱っぽく輝いた。
その黒い瞳を見つめ返しながら、ルド=ルウはおもいきりレム=ドムの身体を寝具の上に押し倒した。
「よし。俺の勝ちな」
「…………え?」
「狩人の力比べだ。背中がついたから、あんたの負け」
レム=ドムはしばらくぽかんとルド=ルウの顔を見上げていた。
その面に、やがてゆっくりと怒りの表情が浮かびあがってくる。
「ルド=ルウ……あなたはわたしに、恥をかかせるのね……?」
「力比べに勝つのは誇りだけど、負けることは恥にはならねーよ」
「ふざけないで。最初から腰を下ろしているのに、力比べもへったくれもないでしょう?」
「ああ、立って仕合うのが正式だけどな。男衆は幼いとき、こうやって寝所で力比べをするもんなんだよ。半分遊びみてーなもんだけど、これだって立派な修練なんだぜ?」
「…………ッ!」
獣のような形相で、レム=ドムがつかみかかってきた。
その両手首を空中でとらえてから、ルド=ルウは座ったまま腰をひねり、再度レム=ドムの身体を寝所の上に引き倒す。
「ほい、俺の勝ち。座ったまま相手の力をいなすってのも、なかなか難しいもんなんだぜ?」
年齢の差がひどかったために、この遊びで兄たちに勝てた覚えはなかった。
しかし、同世代の分家の者たちに負けた覚えは一度としてない。
「この……ッ!」
「あー、膝を立てるのは反則だぜ?」
言いながら、爪をたててこようとするレム=ドムの右腕に手をそえて、その勢いを受け流しつつ、身体をよじる。
レム=ドムは、前のめりの体勢でぶっ倒れた。
「うん、女衆とは思えない力と素早さだな。あんただったら、修練を積めば狩人にもなれるかもしれないぜ?」
「…………」
「まあ、言葉じゃピンとこない部分もあるだろうからな。アイ=ファとあんたで何が違うのかを知るには、確かに本人と顔を合わせるのが一番手っ取り早いかもしれねーよ」
レム=ドムは答えず、ルド=ルウに背を向けたまま、ゆらりと立ち上がった。
「……この屈辱は、一生忘れないから」
「あれ、あんた泣いてんのか?」
「泣いてないわよ!」
レム=ドムは床に転がっていた果実酒の土瓶をかっさらい、足速に寝所を出ていった。
ルド=ルウはひとつあくびをしてから、ごろりと寝具の上に寝転がる。
(うーん、世の中にはおかしなやつもいるもんだなあ)
それでもアイ=ファやアスタと縁を結ぶことになったルド=ルウにとっては、何ほどのものでもなかった。
最後にほどよく身体を動かせたので、この後は安らかな眠りが得られそうである。
まだ部屋の中に濃く漂っている女衆の匂いを鼻の先からあおいで遠ざけつつ、ルド=ルウはまぶたを閉ざすことにした。
◇
「というわけでな、ディック=ドムには今のところ、嫁のあてはないらしーぜ? 18歳になるまでは、焦らずのんびり嫁に相応しい女衆をさがそうっていう心づもりみたいだ」
翌日の夕暮れ時。
今日もルウの集落に出向いてきていたモルン=ルティムに、ルド=ルウはそのように報告してみせた。
「で、北の一族も美味なる料理ってもんをどう扱うべきか、これから色々と考えていくつもりらしいから、それ次第では、サウティみたいにルウの眷族と家人を貸し合うことになるかもしれねーんだよ。そうしたら、またディック=ドムと縁を結べるようにもなるんじゃねーかな」
「ちょ、ちょっとルド=ルウ……」
「ただ、北の集落ってのは物騒な場所に家をかまえててな。森の端でもムントやら何やらがうじゃうじゃ出てきそうだし、集落にギバが迷い込んでくることも珍しくないらしい。女衆の安全のためにも、もうちっと余計な木は切り倒して柵やら何やらで集落を囲んだほういいって助言しておいたよ。いくら好いた男衆のためでも、モルン=ルティムをそんな危なっかしい場所に送りつけることはできねーからな」
「ちょっと! ルド=ルウ!」
「ん? 何だよ?」
「今日の朝、ルウの集落から戻ってきたアマ・ミンに聞いて、まさかと思ってたけど……ルド=ルウは、そんなことのために北の集落まで出向いていたの!?」
「そんなことって言い方はねーだろ。モルン=ルティムにとっては一生の問題じゃん」
「そ、それはそうだけど……」と、モルン=ルティムはまた顔を赤くしてしまう。
しかし、その丸っこくて可愛らしい顔には、まだルド=ルウを責めるような表情が残っていた。
「でも、スン家が滅ぶまでは、ルウと北の一族は仇敵みたいな関係だったんでしょ? そんな相手の集落で一夜を明かすだなんて、危ないじゃん!」
「危なくねーよ。危なかったら、なおさらモルン=ルティムを送りつけるわけにもいかなくなるしな」
「……まさか、それを確認するために、ひとりで北の集落まで出向いてきたの?」
「そんなんじゃねーよ。俺はただ、ディック=ドムっていう男衆がどんな人間なのかを知りたかっただけさ。生半可な男衆に、モルン=ルティムを嫁入りさせるわけにはいかねーからな」
ルド=ルウはモルン=ルティムに笑いかけてみせる。
「ま、俺の見る限り、ディック=ドムは立派な男衆だよ。ちっとばっかり頭は固そうだけど、北の一族としては固すぎってほどでもなさそうだし。あとは自分の目で見極めな」
「ルド=ルウって、本当に――」
と、モルン=ルティムは後の言葉を溜息として吐き出した。
「……あたしね、家族の男衆がみんな立派な体格をしていたせいか、そういう男衆に心を引かれちゃうみたいなの」
「あー、ダン=ルティムもガズラン=ルティムもひときわ立派な男衆だからなー」
「……そうじゃなかったら、あたしはきっとルド=ルウの嫁になりたいって思ってたと思うよ?」
「何だよ、モルン=ルティムまで俺をちび呼ばわりすんのかー?」
ルド=ルウが唇をとがらせると、モルン=ルティムはとてもやわらかい表情で微笑んだ。
「でも、ルド=ルウみたいに優しくて頼もしい男衆の血族として生まれることができて、あたしは幸せだよ?」
「うっせーなー。あんま気恥ずかしいこと言うなよ」
「だって、本当のことだもん」
モルン=ルティムは、いっそう幸福そうに微笑んだ。
そのとき、ふたりの背後にあった本家の母屋の戸板がからりと引き開けられた。
「あ、やっとルドが見つかったんだね! おなか空いたから、晩餐を始めようよー」
リミ=ルウである。
ルド=ルウは、そちちに向かって、べーっと舌を出してみせた。
「うるせーよ。大事な話をしてんだから邪魔すんな。腹が減ったんなら木匙でもかじってろよ」
「なんだよー、ちびルドのばかっ! ばかルドのちびっ!」
「お前、ばかとちびしか悪口を知らねーのか?」
「うるさいよ! 早く来ないと、ルドの分まで食べちゃうからね!」
ぴしゃんと戸板が叩き閉められる。
「いっひっひ」とルド=ルウが笑っていると、モルン=ルティムがちょっと心配そうに顔を寄せてきた。
「ねえ、ルド=ルウ……今さらこんなことを言う必要はないと思うけど、心配だから、一言だけ言っておくね?」
「んー、何だよ?」
「……どんなに可愛くてもどんなに大好きでも、妹を嫁にすることはできないんだよ?」
ルド=ルウは、一瞬で顔面に血を集めることになってしまった。
「な、何をわけわかんねーこと言ってんだよ! あんな小生意気で泣き虫なちびリミのどこが可愛いってんだ!? お前おかしいぞ、モルン=ルティム!」
「うん、あたしの勘違いなんだったら、それが一番なんだけどさ」
モルン=ルティムはルド=ルウをなだめるように笑い、ぽんっと肩を叩いてきた。
「早くリミ=ルウより可愛くて大好きと思えるような女衆と巡りあえるといいね?」
「うるせーよッ!」
ルド=ルウの雄叫びは、暮れなずむルウの集落に高々と響きわたることになった。
時は灰の月の4日。最後の謀反人どもが捕縛されたとの急報が届けられる、その前日のことである。