第一話 二人の道
2015.9/9 更新分 1/1
・今回は4話分の更新です。
・内容は、アスタ以外を主人公にした短編のオムニバスです。初っ端から異色の内容となってしまいましたが、最後までお楽しみいただければ幸いです。
自分にとって、津留見明日太という存在はいったい何なのだろう? と考えることが、たまにある。
何だも何も、明日太というのはまぎれもなく腐れ縁の幼馴染であるわけだが。幼馴染という言葉には、幼い頃に仲良くしていた、という意味しかないはずだ。
さらに言うならば、幼かった頃には仲が良かったけれど、成長した後は疎遠になってしまう、というほうが一般的であるらしい。
然して、明日太と自分は幼い頃から現在に至るまで、同じ距離感を保ち続けている。
この関係は、いったい何なのだろう?
普段はのんびりと温かな交流を結びつつ、ときたまそんなことを考えてしまう。
自分――生方玲奈にとっての津留見明日太とは、いったいどういう存在なのだろうか。
◇
明日太とは、幼い頃から仲良くしていた。
あまりに幼すぎて、出会いの場面などははっきり思い出せないほどである。
それでも二人の関係性がはっきり構築され始めたのは、おたがいが3歳の頃であるはずだった。
記憶にはなくとも、周囲の状況からそうと察することはできる。
3歳から6歳になるまでの3年間、自分は津留見家に預けられていたのだ。
近所の保育園がどこも満員で、いっこうに入園できそうになかったから、というのがその理由である。
もとの職場への復職を考えていた母親にとって、通常の幼稚園では用事が足りなかったらしい。
こうなったら、ちょっと遠方になっても託児所を探して、そこに預けるしかない――母親がそのようにぼやいていたのを聞きつけて、明日太の母親が自分の家で預かろうかと提案してくれたのだった。
両者は産科の病院で面識を得ることになったそうなのだが、男のように果断な気性をした自分の母親と、きわめておっとりとした明日太の母親で、両極端なタイプであったのが幸いしたのか、そのようにいささか常識に外れたやりとりが成立してしまうぐらいには親睦を深めていたようなのである。
後年、学校の友人たちなどには「ずいぶん非常識なお母さんだね!」と驚かれることになったが、自分としては、それで津留見家と深い縁を結ぶことができたのだから、何も不満はなかった。
で、一方の津留見家だ。
津留見家は、《つるみ屋》という大衆食堂の店を営んでいた。
幼稚園などに通わせる予定は、もともとなかったのだそうだ。
それはそれであまり一般的な話ではなかったようだが、幼稚園の場所が遠くて交通の便が悪かったことと、なるべく子供と一緒に生活をしたいという母親の希望が相まって、そういう方針に定まったらしい。
で、ひとりもふたりも一緒だから、預かることには何の苦もない、などと明日太の母親は言ってくれていたようなのだが――後日、自分の母親は「そんなわけないよね」と語っていた。
「まあ、あんたも明日太ちゃんも大人しくて手はかからないほうだったけど、子供の数が倍になれば苦労も倍になるのが当たり前さ。そんな苦労を何とも思わないぐらい、あのひとは強くて優しい人だったんだよ」
ともあれ、自分は明日太と幼少期を過ごすことになった。
津留見家の居間で、明日太とその母親だけを相手に、一日の半分以上を過ごすことになったのである。
自分としては、楽しかった記憶しかない。
明日太は女の子みたいに可愛らしい顔をしていたし、体格も自分とそんなに変わらないぐらいであったので、何の違和感もなく遊ぶことができていたと思う。
一番鮮明に覚えているのは、アンパンの頭をしたキャラクターのぬいぐるみを使った人形遊びだ。
やっぱり家柄なのか、津留見家には食材をモチーフにしたそのキャラクターのグッズばかりがあふれかえっていたのである。
そしてまた、本来であれば原作の絵本やアニメと同じようにヒーロー活劇に興じるべきであろうと思うのだが、明日太と自分はその人形を使って食堂ごっこばかりしていた。
「はーい、はんばーぐおまたせでーす」
「ありがとー。おいしーでーす」
カツ丼やおにぎりや、あるいはバイキンをモチーフにしたキャラクターたちがハンバーグやオムライスを美味しい美味しいとむさぼりくらう。いま思えば、いささかシュールな世界観であったかもしれない。
そんな明日太と自分の織り成す牧歌的な人形劇を、明日太の母親はいつもにこにこと微笑みながら見守ってくれていた。
「こんな不味いメシが食えるかー! 店主を呼んでこーい!」
ときおり休憩中に明日太の父親が乱入してきたときだけ、世界は荒れた。
そのときばかりは勧善懲悪のヒーロー活劇が始って、ふたりがかりで悪漢を叩きのめしたものである。
その他には、明日太の母親が家庭菜園をしていた小さな庭で虫取りをしたり、時には公園に遠征したり、夏にはプールに連れていったりしてもらった記憶がある。
背格好が同じぐらいであったためか、外出するとかなりの高確率で双子の兄妹に間違われた。
それに対して明日太の母親が何と答えていたかは覚えていないのだが、本人たちは何も気にしていなかったように思う。
そんな幸福な3年間はあっという間に過ぎ去って、ふたりは無事に地元の小学校へと入学することになった。
最初の内は、大勢の子供がいる新たな環境に戸惑いを覚えてしまったが、数ヶ月もすれば難なく順応することができた。
仲良く過ごせる友達もすぐにたくさん作ることができたし、学校で過ごすのは楽しかった。
クラスは離れてしまったが、明日太のほうも問題なく過ごせているようだった。
それでも明日太との縁が切れることはなかった。
家が近所なので登下校は一緒であったし、放課後や休みの日に遊ぶことも一番多かった。それまでは一日の半分以上をともにしていたので、もっともっと遊びたいなあと思っていたぐらいであったと思う。
しかし、小学校にあがるころには、明日太は店を手伝うようになっていた。
明日太の母親が、身体を壊してしまったからである。
何か難しい名前の病気を患ってしまったらしく、しょっちゅう病院に通い、家では眠っていることが多くなった。
《つるみ屋》は繁盛していたので昼も夜もアルバイトを雇うようになっていたが、それでも手が足りずに、明日太が手伝うことになってしまったのだった。
もちろん食器の片付けや皿洗いなどといった簡単な仕事しか手伝うことはできなかったが、それでも十分な戦力になっていたと思う。
日曜日などは、昼と夜の部のあいだの数時間しか遊べなくなってしまった。
しかしそれでも自分が訪れると、明日太はとても喜んでくれた。
明日太の母親の調子がいい日は、3人でのんびりくつろぐのが常だった。
しかし、そんな生活も1年ていどしか続かなかった。
小学2年生の初夏、明日太が8歳の誕生日を迎える直前に、明日太の母親が逝去してしまったのである。
お葬式の間、明日太はずっと泣いていた。
もちろん自分も、自分の母親も泣いていたと思う。
ただ、子供の頃からほとんど泣くことのなかった明日太がわんわん泣いているのが可哀想で、涙こそ見せなかったがずっとうつむいていた明日太の父親が可哀想で、こんなふたりともう二度と言葉を交わすこともできなくなってしまった明日太の母親が可哀想で――自分自身がどれぐらい悲しかったのかは、後から思い出そうとしてもなかなか判別がつかなくなってしまっていた。
それから1年間ぐらい、明日太はほとんど笑顔を見せなかったように思う。
ときおり笑うことはあっても、それまでのような朗らかさや屈託のなさは消失してしまっていた。
だけど、小学3年生の夏休みに、自分の家族と合同で海に行ったとき、明日太はひさびさに楽しそうにはしゃいでいた。
きっと、一年かけて気持ちを立て直したのだろう。
そうして明日太が明るい笑顔を見せてくれたことが嬉しくて、思わず涙ぐんでしまい、慌てて海に潜ったことを今でもよく覚えている。
それからはまた平穏な日々が続き、ふたりはやっぱり地元の中学校に入学することになった。
ここまでくると、いよいよ思春期とかいう面はゆい時期が到来してきて、さすがにそれまで通りのつきあいを保つことは難しくなり始めた。
当人たちは何とも思わなくとも、周囲がそれを許さない状況に変化していったのである。
「ねー、この前、隣のクラスの津留見くんと一緒に帰ってたでしょ? もしかしたら、つきあってるの?」
そんな風に問われたこともあった。
「違うよー。あすたちゃんとは幼馴染なんだ」
「えー? ただの幼馴染だったら、中学生になってまで一緒に帰らないんじゃない?」
こんな調子なのである。
(別に、『ただの』幼馴染とは言ってないんだけどなあ)
自分としては、そのように思う。
だけどそうなると、自分と明日太の関係はいったい何なのか。
異性の友人?
何だかピンとこない言葉だ。
感覚としては、やっぱり「同い年の兄妹」であるのだが――血の繋がりはないので、それも不適当である。
実の家族と同じぐらい、自分にとっての明日太は大事な存在なのだ。
それを説明する言葉が、自分の頭の中には見当たらなかった。
そんなわけで、明日太とはいくぶん距離ができることになった。
が、あくまでそれは学校内においてのことである。
会話は最低限度につつしみ、登下校も別々にすることが多くなった。下の名前で呼び合うのも御法度であるようなので、意識的に避けるようになった。
だけどそれは、そういう環境に放り込まれたゆえの必然的な結果であり、自分と明日太のあいだに流れるものには、まったく影響を及ぼさなかったように思う。
その証拠に、学校を離れれば、自分も明日太もこれまで通りにふるまうことができていた。
なおかつ、その頃には自分も《つるみ屋》を手伝えるようになっていたので、一緒に過ごせる時間は少し増えたぐらいかもしれない。
明日太は明日太で10歳ぐらいのときにはもう料理の楽しさに開眼していたので、人手不足とは関係なく店を手伝うようになっていた。
なので、自分も土日のどちらかは必ず店を手伝うようになり、そんな日は一日の大半を明日太と過ごすことができた。
明日太の父親も、何も変わらず自分のことを受け入れてくれている。
夏には毎年、両家族合同で海にも行っていた。
中学校っていうのは、ちょっと面倒なところだな――という共通認識のもとに、自分と明日太は変わらぬ関係を維持し続けることに成功できたのだった。
また、時には世間というものにひっそりと反撃する場面もあった。
中学1年の冬の終わり、いわゆるバレンタインというイベント時に、ホットケーキを献上する算段を立てたのである。
義理だの本命だのは関係ない。あげたくなったからあげるのだ。そのように考えて、自分はほぼ初めて我が家のキッチンで蛮勇をふるうことになった。
が、どうにも上手く作れない。
あれれと思って母親に相談すると、「分量を間違えてるんじゃない?」と言われた。
「そんなわけないじゃん。説明書の通りに作ってるんだから」
「だったら、センスがないんでしょ」
母親は、実にあっさりとそう言った。
そして、いくぶん目力を込めながら顔を寄せてくる。
「言っておくけどね、あたしの子供として生まれたからには、それ相応の覚悟が必要なんだよ? あたしも、あたしのお母さんも、そのまたお母さんも、壊滅的に料理のセンスってもんが備わってなかったんだから」
「何なの、その呪われた血筋は!」
「だからあたしは仕事一筋に生きることにしたんだよ。それでも父さんみたいに理解ある人と巡りあうことができたんだから――ま、捨てる神あれば拾う神ありってことで、人間、あきらめが肝心なのさ」
あきらめてたまるかと、マフラーを巻いて家を出ることになった。
こうなったらもう、明日太の力を借りる他ない。
この日のために買いそろえた食材一式をバッグに詰め込んで、勇躍、津留見家に突撃することにした。
「あれ? どうしたんだよ? 今日は手伝いの予定じゃなかっただろ?」
《つるみ屋》では、ちょうど昼の部の営業を終えたところだった。
バレンタインである本日は日曜日だったのである。
だからこそ、自分もホットケーキを焼いてみよう、などという一大イベントに取り組む心づもりになれたのだ。
「あのね、ホットケーキが上手く焼けないの。何が悪いのか見てもらえないかなあ?」
「ホットケーキ? お前がホットケーキ!?」
「……何そのリアクション」
「いや、だって、普段から自分は食べる専門って言い張ってただろ?」
「そりゃあ、あすたちゃんやおじさんがそろってたら、あたしなんかの出る幕はないじゃん」
ぷっと頬をふくらませてみせると、「わかったわかった」と明日太に苦笑された。
昔はにこにこと可愛らしく笑うばかりであったのに、齢を重ねるごとにさまざまな表情を身につけることになった生意気な幼馴染である。
「って言っても、俺だってホットケーキなんて作ったこともないからなあ。力になれるかはわからないぞ?」
「大丈夫。ほら、パッケージに作り方が書いてあるから」
「……それでどうして失敗するんだよ?」
「それがわからないから、相談に来たんじゃん!」
「わかったっての。家のほうのキッチンでいいよな?」
前掛けで手をぬぐう明日太とともに、店の奥に向かう。
大きな衣紋掛けに隠された障子戸を開けると、そこはもう津留見家の居間だ。
だらしない姿でテレビを眺めていた明日太の父親が「あれ?」と目を丸くする。
「どうしたんだい、玲奈ちゃん? 今日は手伝いの予定だったっけ?」
「ううん。今日はホットケーキを焼きに来たの」
「へえ、ホットケーキか。ホットケーキなんて、もう何十年も食べてないなあ」
「あ、おじさんて、甘いの苦手だったっけ?」
「俺に苦手な食べ物なんてないよ! ホビロンでもカース・マルツゥでも何でもござれだ!」
えっへんとばかりに胸をそらす。こちらのほうは、いくつになっても子供の面が抜けない明日太の父親だった。
「よし、それじゃあ試しに焼いてみるか」
「あ、ちょっと! あすたちゃんが作ったら意味がないんだってば! あたしが作ってみせるから、どこにどう問題があるのかを解明してよ」
「んー? 別にいいけど、俺の家を燃やしてくれるなよ?」
いちいち腹の立つことを言う幼馴染の頭を引っぱたいてから、いざ作製に取りかかる。
「えーと? まずは卵と牛乳をボウルに入れて、よくかきまぜてください」
「うん。卵が1個に牛乳が140mlだよね? 何回も読んだから暗記しちゃったよ」
「うわ、卵と牛乳まで持参したのかよ。で、ホットケーキミックスを投入して、ダマがなくなるまでかきまぜてください。……あとは焼くだけか。ずいぶんシンプルなレシピだな」
「そうだねー。それであんなに美味しいのは何でなんだろ? やっぱりこのホットケーキミックスに秘密があるのかな?」
「いやあ、秘密も何も、小麦粉と砂糖とベーキングパウダーと、あとは隠し味で塩が入ってるぐらいのもんだろ? それに卵と牛乳まで使ってるなら、美味しく仕上がるのも当然さ」
そのように答えたのは明日太の父親だった。
明日太はうろんげに居間のほうを振り返る。
「何十年も食べてないくせに、ずいぶん詳しいじゃないか?」
「うん? いやまあ当てずっぽうで言っただけだよ。菓子作りは専門外なんだから、あんまり真に受けるな」
気になったのでパッケージの原材料名を確認してみると、明日太の父親が述べた以外では香料だの着色料だのぐらいしか記載されていなかった。
「……こういうところが、すっげー腹立つよな」
ぶすっとした顔で明日太が囁きかけてくる。
「あはは」と笑い返してから、いよいよ熱したフライパンに生地を投入することにした。
3分ていどで表面にぷつぷつと泡が浮いてきたら、慎重にひっくり返す。
フライパンに接していた面には、綺麗な焼き色がついていた。
「あれー? 普通に成功しちゃいそう……」
「そりゃあ失敗のしようがないだろ」
「でも! 家では真っ黒に焦げちゃってたんだよ?」
「焼いてる間に居眠りでもしてたのか?」
集中力の問題なのだろうか。それともやっぱり牛乳の分量などを間違えていたのか。説明書の通りに3分後に皿へと引き上げると、そこにはどう見ても立派なホットケーキが完成されていた。
「だけど、生焼けの可能性もあるよね」
フォークを借りて、一口だけ食してみる。
シロップをかけていない素朴な味が、優しく口の中に広がった。
普通に成功だ。
「どれどれ」と明日太が手をのばしてきたので、その手の甲を引っぱたいてやった。
「あすたちゃんは駄目! もうひとりで大丈夫だから、おじさんとくつろいでてよ」
「何だよー、手伝ったのに、ご褒美もなしか?」
ぶちぶちとぼやきながら、居間のほうに引っ込んでいく。
(ちぇーっ! こんなんだったら、家で成功させてサプライズにしたかったなあ)
ともあれ、《つるみ屋》の休憩時間が終わるまでに完成品を提供せねばならない。残っていたホットケーキミックスを使ってふたり分を焼き、さらに持参したホイップクリームとチョコソースでデコレイトする。メイプルシロップは、各自のお好みでかけてもらうことにした。
「お待たせー! 完成したよ!」
津留見家から拝借した皿に載せられたホットケーキが、ちゃぶ台の上に並べられる。
あまり外見の似ていない父と子は、そろってきょとんと自分の顔を見上げてきた。
「すげー立派じゃん。大成功だな。……これ、食べていいのか?」
「うん。そのために作ったんだから。どうぞ召し上がれ」
「いやあ、誕生日でもないのに、何だか申し訳ないなあ」
明日太もその父親も、何だか困惑を隠しきれていなかった。
どうしていきなり訪ねてきた古馴染にホットケーキをふるまわれなくてはならないのか、さっぱり理解できていない様子である。
「あの、いちおう言っておくけど、今日はバレンタインだからね?」
父子の顔に、驚きの色が走りぬける。
「お、親父、今日はばれんたいんであるみたいだぞ?」
「ううむ。俺は仏教徒だからよくわからんが、ヴァン・アレン帯とは関係ないのかな?」
「何だかわからないけどそれは関係ないと思う」
「そうか。あれはホットケーキじゃなくドーナツ状であるみたいだしな」
「……親子漫才はいいからさ。冷めない内にお召し上がりくださいませ」
「いただきます」の声が唱和された。
「美味いな! ホットケーキって、こんなに美味かったのか!」
「うん、美味い! まだ仕事が残ってるのに、一杯ひっかけたくなるなあ」
「……どういう味覚だよ。こういうメニューには紅茶かコーヒーだろ」
「どっちも我が家には置いてないな。せめてほうじ茶でもいれてみるか」
美味い美味いと明日太とその父親ははしゃいだ声をあげながら、あっという間にホットケーキを食べつくしてしまった。
ものすごく料理の上手い父子が自分の作ったものでこれほど喜んでくれているのが、何だか不思議な心地である。
自分も一番最初に作った冷めかけのホットケーキにシロップだけをかけて食べたが、それもたいそう美味しく感じることができた。
「いやー、美味かった! ……そういえば、よく考えるとホットケーキなんてものをちゃんと食べたのは初めてかもしれないなあ」
「え! あすたちゃん、本気で言ってるの?」
「うん。母さんは和風の菓子が好きだったし、母さんが作るもの以外に菓子を食べる習慣なんてなかったしな」
そうして明日太は自分のほうを見ながら、幼い子供の頃のようににっこりと笑ってくれた。
「母さんの作ってくれた白玉団子とかわらび餅とかと同じぐらい美味かったよ。玲奈、ありがとうな」
こんな笑顔が見られるならば、バレンタインというやつもまんざらではないな、と思うことができた。
そうしてその日以降には、誕生日やクリスマスなどでも手作りのケーキやクッキーなどをふるまうことになり、自分も菓子作りにおいてのみは、生方家の呪われた血筋から脱することがかなったのだった。
ただし、こういった話を学校の友達に打ち明ける気持ちにはなれなかった。
また何やかんやと冷やかされることが目に見えていたためである。
画一的な価値観に対する叛逆行為と銘打ちながら、それはあくまで自分の内部でのみ執り行われたものなのだった。
(学校は楽しいけど、こういう話だけは本当に面倒くさいよなあ)
ひとつだけ、はっきりわかっていることがある。
自分が明日太に抱いているのは、恋愛感情ではありえない、ということだ。
その後も順当に年を重ねていって、明日太はぐんぐんと背も高くなり――それでも同世代の男の子たちに比べれば、そんなに大柄なほうではないようなのだが、自分のほうの成長がぴたりと止まってしまったために、いつしかふたりの身長差は頭一つ分ぐらいにも及んでしまっていた。
15歳、中学3年生にもなれば、顔立ちもだんだん男らしくなってくる。
母親ゆずりの優しげな面立ちで、スポーツも何もやっていないのだから、そんなに精悍なわけでもない。それでも明日太は男であり、そして自分は女であった。
だけどやっぱり――この大事な幼馴染に恋愛感情を抱くことはないのだろうな、と思う。
明日太は、家族と同じぐらい大事な存在だ。
このまま立派な料理人となって、幸福な人生を歩んでほしいと思う。
どちらかというと、それは兄や弟に対する親愛の念のようなものであり、自分はそれを横から見守っていたいだけなのだろう、と思った。
◇
「あ、あすたちゃん」
そんな中学3年の冬――帰り際に、昇降口でばったり明日太に出くわした。
うっかり下の名前で呼んでしまったが、幸いなことに、周囲に見知った人間はいなかった。
「こんな時間まで珍しいね。いったい何してたの?」
「んー? クラスの連中と喋ってただけだよ。店が休みの日ぐらい、つきあいをよくしておかないとな」
「うわー、何だかビジネスライクな言い草だね!」
「おう、生まれながらの冷血漢だからな」
これらは、冗談の類いである。
放課後も休日もほとんど店に詰め切りで、なかなかクラスメートと親交を深める機会の少ない明日太であるが、わりあい社交性は豊かであるので、玲奈に劣らず平和な学校生活を営めているはずだ。
実は外見よりも意固地な性格であり、人との会話でカッとなったり傷ついたり、本当の意味では人間づきあいが得意なタイプではないのだろうが――それでも持ち前の明るさと人懐こさで、何とかなっているのだろう。
たぶん明日太は、人並み外れて人間が好きなのだ。
他者からの情愛で、人間がどれほど幸福な気持ちを得られるものか、それを明日太は知っている。
そして、それを失う痛みと悲しみも知っている。
だから明日太は優しいし、料理のことしか考えない料理馬鹿でありながら、他者との繋がりを重んじるのだろう――と思う。
「ね、たまには一緒に帰ろっか?」
「そうだな。方向は一緒なんだから、そうするほうが自然だろ」
そんなわけで、ふたりで並んで校門を出た。
月に何度かは、こういう日がやってくるものである。
普段は茶化されないように節度ある距離感を保っているのだから、これぐらいのことはお目こぼししていただきたいと思う。
「うー、ますます寒くなってきたな」
「そうだねー、カイロなしにはやってられないよ」
「なに? そんな軟弱なもんを使ってるのか、お前は?」
「当たり前じゃん。女の子のほうが冷え性なんだってよー?」
言いながら、コートのポケットの中で握っていた使い捨てカイロを差し出してみせる。
「おすそわけしてあげよっか?」
「んー……いいよ別に。冷え性じゃないし」
「そっか」
ラブコメの漫画やドラマだったら、ここで手をつなぐタイミングなんだろうなと、ひそかに思う。
「卒業まで、あと3ヶ月だねー?」
「卒業の前に、入試だけどな」
「あー、嫌な言葉だねー」
「お前は楽勝だろ? 地頭がいいんだし」
「そんなことないよ。すべて地道な努力の賜物です。今日だって、ずっと図書室でおべんきょしてたんだから」
「…………」
「地頭がいいのはあすたちゃんのほうじゃない? 受験対策も何もしないで、公立校の入試に挑もうってんだから」
「……これがいわゆる背水の陣というやつだな」
「まあ料理人に学歴なんて必要ないのかもしれないけどさ。おじさんは新しいアルバイトを雇ってもいいって言ってくれてたんだから、最後ぐらいは頼ってみたら?」
「店の忙しさは関係ないって。俺自身が厨房に立つ時間を減らしたくないだけなんだから」
正面を向いた明日太の横顔は、ちょっとむくれた表情をしていた。
「そもそも進学を決めたのも親父の独断なんだからな。俺は店を継ぐつもりなんだから、高校なんて行きたくなかったんだよ」
「でも、将来の選択肢は多いほうがいいっていうのがおじさんの意見なんでしょ? それはさすがにおじさんのほうが正論だと思うよ?」
そんな風に言ってから、一言だけつけ加えておくことにした。
「まあ、《つるみ屋》の外で働くあすたちゃんってのは想像がつかないけどね」
「だろー? 別に中三で人生決めても悪いことはないよな?」
すっかり子供っぽい顔になってしまっている。
頬の肉が薄くなり、鼻や顎の線がやや鋭くなって、だいぶん大人っぽくなってきた明日太が、まるで子供の頃に戻ってしまったかのようだった。
「なんか、本気で納得いってないみたいだね? 最終的に《つるみ屋》で働くなら、高校に通う3年間ぐらいはどうってことないんじゃない? 別に《つるみ屋》が逃げるわけじゃないんだし」
「だけどさー、人間の脳細胞なんて、20歳を越えたらガンガン死んでいくとかいうだろ? だったら一番頭が元気な内に、もっと料理の勉強をしておきたいんだよ、俺は」
などと言ってから、明日太は深々と溜息をついた。
「30や40を越えてから学校に行けって話なら、俺も異存はなかったんだけどなあ」
その苦悩する顔があまりに真剣そのものであったので、ついつい吹き出してしまった。
「その頃にはもう立派な料理人でしょ? それから学校に通ったって意味はないんじゃない?」
「それはそうかもしれないけどさ……」
「あすたちゃんって、ときたま素っ頓狂なこと言うよねー」
ひとしきり笑ってから、ふっと息をつく。
「だけど、中学を卒業したら、ついにはなればなれだね?」
「んー? 別に学校じゃそれほど交流もなかったんだから、大した違いはないんじゃないのか?」
「そうかなー? 別々の学校に通うのって、けっこうなおおごとだと思うけど。3歳の頃から12年間も同じ環境で育ってきたんだからさ」
時刻はまだ5時にもなっていないぐらいなのに、あたりは薄暗い。
12月の空はどんよりと曇り、何なら雪でも降ってきそうな気配である。
中途半端な時間であったためか、通学路には数えるていどの人影しかなく、それらもすべて暗灰色のシルエットになっていた。
なんとなく感傷的な気持ちになりながら、高い位置にある明日太の顔を見上げる。
「ね、あたしたちって、いったい何なのかな?」
「うん? どういう意味だ?」
「12年間も一緒にいて、家族ぐるみのおつきあいをしてて、家族同然の間柄で――だけど、家族なわけではないでしょ? この関係って、いったい何なのかなあ?」
「そりゃあお前……幼馴染だろ?」
「ただの幼馴染?」
「幼馴染にただも有料もないだろ」
明日太はぼりぼりと頭をかいた。
「だけどまあ……玲奈は、玲奈だよ」
「……それって答えになってなくない?」
「しかたないだろ。それ以外に言いようがないんだから」
眉間にしわが寄っている。
余計なことを言ってしまったかな――と軽く後悔しかけたが、しかし明日太はさらにこんな風に続けてきた。
「どうしたって、いつまでも同じ立場ではいられないんだからな。たとえ同じ高校に入学したところで、お前はそのまま大学にでも行くんだろうし、俺は《つるみ屋》だ。で、お前はどこかの会社で働いて、運がよければ結婚もして、それで子供でも生まれちまったら、あとは自分の生活で手一杯だろ」
「うん……」
「それでお前が旦那さんと海外に移住でもしちまったら、一生会えなくなるかもしれない。それでも俺にとって、お前は幼馴染の玲奈だよ。子供の頃の記憶が消えてなくなるわけじゃないからな」
「ちょ、ちょっと話が飛躍してない? 今のところ、海外に移住する予定はないんですけども」
「わかりやすいように、一番極端な例をあげただけだよ。まず旦那を見つけるところから難渋しそうだしな」
後頭部をひっぱたかせていただいた。
ただ――胸の奥には、何やら温かいものが満ちていた。
「そうだよね。どんなにいる場所が遠くなっても、あすたちゃんはあすたちゃんか」
「そう、消したくっても消せない記憶だよ」
「消したいの!? あたし、傷ついた!」
「そんなわけないだろ、馬鹿」
どうやら明日太は照れているようだった。
感傷的な自分の気持ちが、いつの間にか伝染してしまっていたのだろうか。
これもラブコメの漫画やドラマだったら、腕のひとつでも組むシーンなんだろうなあとか思いながら、にっこり笑いかけてみせる。
「あすたちゃんも、運良く結婚相手を見つけられるといいね?」
「んー、それもなかなか難渋しそうだなあ」
「そんなことないよ。あすたちゃんって、男らしさと可愛らしさのバランスが中途半端だから、どっちかに振りきったら女の子が放っておかないと思うよ?」
「分析すんな! 幼馴染の分析は重いんだよ!」
「へっへー。今のところは、あたしほどあすたちゃんのことを知りつくしてる女は存在しないもんね?」
明日太はまたぼりぼりと頭をかいた。
が、寒いせいかすぐにポケットへと手を戻してしまう。
「手袋が嫌いって、この時期は大変だね?」
水仕事で荒れがちのせいか、明日太はいつもスキンクリームを手の先に塗っている。その手で手袋を装着するのは気色が悪い、などと言って、このような真冬にでも素手で通しているのである。
その手の収納されたコートのポケットの中に、ほかほかのカイロをねじこんでやった。
「親愛なる幼馴染に、おすそわけでございます」
「……お前の愛情は、代償がでかそうだよな」
「うん、ヒレカツセットでお願いいたします」
「それはなかなかの高額商品だな!」
「あすたちゃんの料理が食べたくなっちゃたんだよね。勉強教えてあげるから、その報酬としてご馳走してくれない?」
「……その忌まわしい条件を取り下げるならば、ご馳走してやらなくもない」
「よーし、それじゃあ急いで帰ろー!」
ふたりの道は、いずれ離れてしまうのだろう。
だけど、この記憶は永遠だ。
最後にそんな感傷的な思いを浮かべつつ、自分、生方玲奈は大事な幼馴染とともに12月の夕暮れ時の道を歩き続けた。