⑭離別の夜
2015.9/1 更新分 1/2 ・2017.11/29 誤字を修正
サイクレウスは、中央の棟の最上階に幽閉されていた。
その場所が、もともと前当主にとっての寝室であったらしい。
近衛兵たちに守られた扉をくぐると、まずは無人の次の間である。
もっと夜が深まると、この間で控えの兵士たちが休息し、交代で見張りに立つのだそうだ。
その次の間で、マルスタインはあらためて俺たちに向きなおった。
「料理はアスタとリフレイア姫に届けてもらう。私たちも入室はするが、これだけの人数で押しかけてはサイクレウスの気も休まらないだろうからね。衝立の裏にでも潜ませていただこう」
その場にいるのは、俺とアイ=ファ、マルスタインとメルフリード、ドンダ=ルウとカミュア=ヨシュ、リフレイアとサンジュラ、そして2名の兵士たち――総勢10名である。
用心のためか、サンジュラは両腕を縛られて、そこからのびた革紐を兵士のひとりに握られている。
そのサンジュラを、マルスタインは穏やかな眼差しで見た。
「審問の前に面会が許されるのは、おそらくこれが最後となろう。……サンジュラとやら、この段に至っても、其方の口から新たな言葉が語られることはないのかな?」
「はい。ありません」
サンジュラも、同じように穏やかな眼差しで見つめ返す。
「それならば、どうしてそのような姿になってまで、この場への同行を願ったのであろうかな。……やはり、今生の別れを済ませたいという心情であったのかな?」
「いえ。私、リフレイアとともにありたい、願っただけです」
「そのリフレイア姫の苦しみを、もっと別の形で負うことも、其方には可能だったのではないのだろうか?」
「いえ。何も証し、ない話です。証し、あったなら、私もその道を選んだかもしれません」
「……それはあの、サンジュラがわたしの兄であるとかいう与太話のことなのかしら?」
とても静かな声で、リフレイアがそのように言葉をはさんだ。
「いったいどこからそんな素っ頓狂な風聞が流れたのかしら。サンジュラは、銅貨で雇われた父様の従者であったはずよ」
「どこからも何も、本人が森辺の民らにそのような告白をしてのけたのだよ。その後の調べで、サイクレウスが4年ばかり前までダバッグにシムの女性を住まわせていたらしい、というところまでは突き止めることもできたのだがね」
リフレイアは、うろんげにサンジュラを見た。
サンジュラは、俺のよく知る優しげな微笑を口もとにたたえる。
「私の母、幼い頃に亡くなったので、詳しい話、わかりません。ただ、私、サイクレウスに忠誠を誓うよう、育てられました」
「ふうん……だけどあなたはついこの間、今後は父様ではなくわたしに忠誠を誓うと言ったわよね」
「はい。私の忠誠、今ではリフレイア、捧げています」
「……だったら別に、何がどうでもかまわないわ。ただし、何年も従者として使ってきた人間を、わたしは今さら兄様などと呼ぶ気持ちにはなれないからね?」
「はい。私、リフレイアの従者です」
リフレイアは、短い栗色の髪を揺らしながら、顔をそむけた。
その姿をみなと同じように見守っていたアイ=ファが「ジェノス侯よ」と声をあげる。
「私のような者が進言をするのはおこがましいかもしれぬが、私がアスタのそばに控えてその身を守ることを許してはもらえぬだろうか?」
「ふむ? 其方はたしか、アスタの家の家長、アイ=ファであったね。心配せずとも、サイクレウスのそばには2名の近衛兵が控えているよ。サイクレウスにはもはや自分の足で立つ力も残されてはいないが、自害などをされるわけにもいかないのでね」
「……しかし、サイクレウスよりもひどい病身であったはずのザッツ=スンが、ジーンの男衆の咽喉を食い破り、ドムの集落に火を放ち、ギバ寄せの実を使ってカミュア=ヨシュたちを襲撃するような真似をしでかしたこともあったのだ。どのような相手でも、決して油断はならないと思う」
「大丈夫。メルフリードに鍛えられた近衛兵らに、油断はないよ」
アイ=ファはちょっと苦しげな面持ちになり、唇を噛んだ。
その姿を見て、マルスタインはふっと頬をゆるめる。
「それほどまでに家人の身が心配なのだね。相分かった。アイ=ファのように優美な姿をした女性が増えたところで、サイクレウスが乱心することはないだろう。近衛兵とともに、アスタの身を守ってやるがいい」
「……いたみいる」とアイ=ファは小さく頭を下げた。
ドンダ=ルウは、無言である。
「それでは、入室させていただこう。サイクレウスは弱りきっているので、むやみに興奮させぬよう気をつけていただきたい」
マルスタインの視線を受けて、兵士のひとりが扉に手をかけた。
薄暗い次の間から、さらに薄暗い寝室の中へと足を踏み入れる。
かなり大きな部屋であるのに、燭台は奥の壁にしか灯されていないようだ。
しかも、入室するなり巨大な衝立が立ちはだかっていたので、その光さえもがほとんどさえぎられてしまっている。
マルスタインの指先が、優雅な仕草で衝立の向こう側を指し示した。
俺はうなずき、料理の載せられた台車を押しつつ、室の奥に向かう。
アイ=ファとリフレイアの3人で暗がりを進むと、その果てに大きな寝台があった。
寝台の左右に、彫像のごとく白甲冑の近衛兵が立っている。
その寝台の上で、小さな男が横たわっていた。
薄い毛布を胸もとにまでかけ、やわらかい羽毛の寝具に半ばうずもれるような格好で伏している、かつてのこの館の主人――サイクレウスである。
青黒い顔に、脂汗が浮いている。
毛布の上に投げ出された両腕が、驚くほどに細い。
わずか半月で、サイクレウスは猿のミイラみたいに干からびてしまっていた。
「リフレイア……か……」
その土気色をした唇が、かさかさとした擦過音だらけの声を振り絞る。
「お前が寄越されてきたということは……ついにマルスタインめも、我を処刑場に送る気持ちを固めたのであろうかな……」
「処刑の前に、審問があるはずよ。それが、ジェノスの法でしょう?」
寝台の横に立ち、リフレイアが静かに応じる。
「わたしは食事を運んできただけよ。……今日は特別に、森辺の民であり渡来の民であるファの家のアスタが、父様のために晩餐をこしらえてくれたのよ」
ほとんど閉ざされていたかに見えるサイクレウスの目が、虚ろに俺を見た。
あの毒々しい眼光は、すっかり影をひそめてしまっている。弱々しい、死にかけた夜光虫みたいにかそけき瞳の光であった。
「ファの家のアスタ……? これはいったい、何の企みであるのかな……」
「何の企みでもありません。俺はただ、リフレイアに頼まれて晩餐を作りあげただけです」
マルスタインには、きっと何らかの思惑があるのだろう。
だけどその真意は知れなかったし、俺の仕事の本質にはあまり関わりがないような気がしていた。
「あなたが投獄される前に、俺の料理を食べさせてほしいとリフレイアは願いました。俺の料理を食べる力は残っていますか、サイクレウス?」
「……我の身体は、もはやどのような食事も受けつけぬ……我を長年苦しめてきた病魔が、ついに牙を剥いたのだ……どのようにあがいても、我の生命はここまでであったのであろう……」
「不甲斐ないわね、父様。これまでの、誰よりも貪欲に生きようとしていた父様はどこに行ってしまったのかしら」
ほんの少しだけ人間らしい抑揚を取り戻したリフレイアの声が、そのように言った。
「父様は、とてもたくさんの罪を犯していたのだそうね。そうやって他者をおしのけてまで、父様は権勢を望んだのでしょう? その最後にすべてをあきらめてしまうんだったら、いったい父様の生とは何だったのかしら?」
「……さて、な……我はつかめるだけの力をつかんだ……そして、死をもってそのすべてを手放す……人の生とは、しょせんそれだけのものなのであろう……」
「わたしや母様を孤独に追いやって、そうまでして得た権勢に何の意味もなかったというの? それじゃあ母様は、どうして孤独の中で死んでいかなくてはならなかったの?」
ふつふつと――リフレイアの声やその目の輝きに、かつての傲岸さが蘇ってきつつあった。
「わたしには母様しかいなかったし、母様にはわたししかいなかった。それで母様は孤独の中で死に、わたしはひとりぼっちになった。わたしたちをほったらかしにして、あくどい真似をしてまで銅貨をかき集めて、食べきれないほどの食糧をかき集めて、それで父様は幸福だったの? わたしは――わたしは何ひとつ面白くはなかったわ」
「…………」
「……だけど父様は、わたしの父様だわ。たとえ父様にとってはどうでもいい存在だったとしても、わたしは父様の娘であり、父様はわたしの父様なの。だから、最後にはなむけの食事を準備したのだわ」
リフレイアが、キッと俺をにらみつけてくる。
「さあ、父様にアスタの料理を食べてもらいましょう。この鉄鍋の中身を木皿に取り分ければいいのね?」
「うん」
俺は鉄鍋の蓋を取り去った。
空気のよどんだ室内に、ギバのスープの香りが漂う。
リフレイアはレードルを握りしめ、ぶきっちょな手つきでそれを木皿によそった。
「……これはいったい、何の茶番であるのかな……」
ナイフで裂いた切れ目のように細いまぶたの狭間から、サイクレウスがちろりと陰気な火を燃やす。
「我の娘や、ファの家のアスタまでをも引っ張りだして……あの狡猾なマルスタインめは、いったい何を……」
「ジェノス侯は関係ないってば! わたしはわたしの意志でこの夜のことをアスタに願ったのよ! その後でジェノス侯が何を企んだところで、そのようなことはわたしには関係がないわ!」
リフレイアが、ついにカンシャクを爆発させた。
木皿を手にしたまま、身体を折って、父親の顔を間近からにらみつける。
「最後ぐらい、わたしのことを見たらどうなの? この後は、きっと一生顔を合わせることもできないのよ? 父様は牢獄に閉じこめられて、わたしはこの館に閉じこめられてしまうんだから!」
「…………」
「アスタ。悪いのだけれど、父様の身体を起こしてあげてくれないかしら?」
「ああ、うん」
俺は近衛兵のかたわらをすりぬけて寝台に近づくと、サイクレウスの身体と寝具の間に腕を差し込んだ。
当然のようにアイ=ファが手を貸してくれたが、そんな必要もないぐらい、サイクレウスの身体は軽かった。
その抜け殻みたいな身体を支えつつ、背中に枕をあてがって、ヘッドボードに寄りかかる形で座らせてやる。
そうして俺が身を引くと、木皿と木匙を手に、リフレイアがずいっと接近した。
「さあ、身体が弱っていても、汁物ぐらいはすすれるでしょう? あの臭くて苦い薬草の汁をすするよりは、まったく苦痛にはならないはずよ。この世の最後のはなむけに、渡来の民アスタの料理を口にするといいわ」
白濁したスープを木匙ですくい、サイクレウスの口もとに突きつける。
サイクレウスはしばらくリフレイアの怒った顔を見つめてから――やがて、その口をゆっくり開いた。
木匙の先端が、その深淵みたいな口の中にそっと差し入れられる。
「美味しいでしょう? アスタの料理が美味しくないはずはないわよね。トゥラン伯爵家の副料理長だったティマロよりも上等な料理を作れるアスタなんだから」
何かに急き立てられるようにつぶやきつつ、リフレイアはさらに新たなスープを父親の口に流し込んだ。
それから、また怖い目で俺をにらみつけてくる。
「アスタ、この料理は汁ばっかりで全然具材が入ってないみたいだけど?」
「それはかきまぜずに上っ面をすくってしまったからだよ。こういうときは、攪拌してから皿によそわないと」
俺はリフレイアから木皿を受け取り、それを実践してみせた。
「そんなの、最初に言ってくれなきゃわかるはずないじゃない」
ぷっと頬をふくらませながら木皿を奪還し、リフレイアは木匙に具材と汁をすくいあげる。
象牙色に煮込まれたギバ肉の欠片と、透明のアリアの切れ端だ。
それを口の中に投じられると、サイクレウスは力なく咀嚼をして――
そして、わなわなと震え始めた。
「これは……この料理は、いったい何なのだ……?」
「これはギバ肉の汁物料理です。ギバのモモ肉とアリアをじっくり煮込んで、岩塩とピコの葉で味を整えただけの料理ですよ」
俺は、静かに答えてみせる。
「美味しいでしょう? これは、俺が森辺のファの家で、初めてかまどを預かったときに作った料理なんです。ギバは良質の肉なので、煮込むだけでこれだけしっかりとした出汁が取れるんです」
「ギバの肉……我に、ギバの肉などを……」
「ギバの肉は、カロンやキミュスに劣りますか? そんなことはないと思います。好みは人それぞれでしょうけども、食材の質としては決して負けていないでしょう」
俺は別に、サイクレウスを改心させようと目論んでいたわけではない。
ただ、伝えたかっただけである。
「たったこれだけの食材でも、これぐらい美味しい料理を作ることはできるんです。そして、あなたに必要であったのは贅を凝らした美食なんかではなく、こういう確かな滋養に満ちた食事だったのだと思いますよ」
「……其方は、何を……」
「美味しい料理を食べたいというのは、この世のほとんどの人間が持つ業なのかもしれませんが、そうであるからこそ、身体を壊すような食事は間違っていると思います。……内臓を病んでしまったのなら、なおさらあなたは自分にとってどのような料理が必要であったのかを考えるべきだったのではないでしょうかね」
今さらこのようなことを伝えたところで、何にもならないことはわかりきっている。
それでも俺は、言わずにはいられなかったのだった。
美食にしか興味がないとされている人間が、大罪を犯してまで富と権勢をかき集め、いっそう身体を痛めつけるために高価な食材を買いあさる――そんな破滅的な人生に、いったいどのような幸福があったのだろうか。
他者に不幸を撒き散らしながら、自身は滅びへと突き進む。
そんな馬鹿げた話はないと思う。
サイクレウスも――かつてのザッツ=スンもだ。
「……其方は何か考え違いをしているようであるな、ファの家のアスタよ……」
消えかけた鬼火のような目が、俺を見る。
「我にとっては、美味なる食事だけが快楽であったのだ……快楽なき生に意味はない……だからこそ、我は……」
「快楽でも幸福でもかまいませんが、俺の言っているのも同じことです。俺の料理はお口に合いませんか、サイクレウス? ……美味しい料理を作りあげるのに、それほどの富は必要ありません。肉と、アリアと、ひとつまみの塩だけでも、これぐらいの料理を作ることはできるんです。それで、大事な家族たちと食卓を囲むことができれば、それが一番の幸福ではないですか?」
「…………」
「あなたが蛮人と蔑む森辺の民のほうが、俺には幸福に生きているように思えます。貴族として生まれついたあなたにこのような言葉を告げても意味はないのかもしれませんが……美味しい食事というものは、金さえかければ手に入るというものではないと思います」
サイクレウスは、口を閉ざしてしまっていた。
リフレイアが、苛立たしげに一回だけ足を踏み鳴らす。
「もういいわよ。今さら何を言ったところで、すべては終わってしまったのだから。父様は、自分だけが正しいのだと信じながらセルヴァのもとに召されればいいわ」
「……そう……すべては終わったのだ……悪徳にまみれた我の魂は、セルヴァの前で粉々に打ち砕かれるのであろうな……」
サイクレウスの口もとが弱々しく震えて、奇怪な笑みを形づくった。
「今さら何を包み隠す気もない……そして、シルエルに罪をなすりつける気もない……我は、シルエルとともに数々の罪を犯してきたのだ……我らの企みによって生命を落とした者の数は、百を下ることはないであろう……」
「そのような話は、聞きたくもないわ」
「いや、聞くのだ、リフレイアよ……そして、マルスタインも……どうせどこかで聞き耳をたてているのであろう、ジェノス侯よ……? 我にはもはや声を張る力も残ってはいないのだから、そのように離れていては満足に聞き取ることも難しいのではないのかな……?」
暗がりから、いくつもの人影が現れた。
その先頭に立っていたすらりとした影が、颯爽とした足取りで寝台に近づいてくる。
「父娘の語らいを邪魔する心づもりはなかったのだがね。私に何か話でもあるのかな、サイクレウスよ?」
「ある……その前に問うておきたいのだが……シルエルが捕らわれた現在、護民兵団は誰の手にゆだねられているのであろうかな……?」
「護民兵団は、第二大隊長が団長代理をつとめているよ。いささかならず異例の配置であったが、遠縁とはいえトゥランにゆかりある副団長と第一大隊長に後事を託すことはできないからね」
「それは慧眼であったな……しかし、それではまだ足りぬ……副団長と、第一大隊長……それに、第四大隊長もあわせて解任せぬことには、憂いを絶つことはかなわぬであろう……その3名は、我々と罪を分かちあった者たちであるからな……放っておけば、のちのち禍根にもなろう……」
「護民兵団の司令部の半数までもが、悪逆の従であると? ……其方たちは、いずれ武力でもジェノス侯爵家をねじ伏せようという目論見であったのかな?」
落ち着き払った声でマルスタインが問い、サイクレウスは奇怪な笑みをたたえたまま「さてな……」と応じる。
「それでは、森辺の装束を纏ってダレイムの農園を襲っていた野盗というのも、護民兵団の一員であったのであろうか? 私としては、そうでないことを祈りたいところだが」
「無論である……いかにシルエルの命とはいえ、副団長や大隊長にまでのぼりつめた者たちが自ら手を汚すはずもなかろう……それは現在、ベヘットの町に身を潜めている無頼漢どもの所業である……」
「ほう。それはやはり、無頼漢を銅貨で雇ったということか」
「銅貨も、支払われてはいる……だが、それだけではない……その者たちは、死罪を逃れた死罪人どもである……」
「死罪を逃れた、死罪人?」
「今から5年ほど前に、護民兵団が《黒死の風》なる盗賊団を捕らえたであろう……その者たちには死罪が言い渡されたが、シルエルの手引きによって自由を得て、隠密の仕事を請け負う一団となりおおせたのである……」
「其方たちは、それほどの罪まで重ねていたのか。死罪人に自由を与えるなど、決して許されるはずがない」
と、マルスタインのかたわらに控えていたメルフリードが鋭い声をあげる。
「しかし、審問によって死罪を言い渡されたのならば、その刑はつつがなく執行されたはずだ。刑務官の目を盗んで罪人を逃がすことなど不可能なはずであろう」
「ならば、刑務官にも銅貨を握らせたのであろうよ……真実が知りたくば、シルエルに問うがよい……」
「わかった。必ずそうさせていただく」
灰色の瞳に凍てついた光を宿しながら、メルフリードは口をつぐむ。
マルスタインは「やれやれ」と肩をすくめた。
「トゥラン伯爵家の前当主に、護民兵団の団長と、副団長と、大隊長が2名――それに刑務官と、罰を逃れた死罪人か。いっぺんにこれだけの罪人を抱え込むことになろうとは……これも私の不徳と思うしかないのだろうね」
「まったくその通りである……だが、そもそもの罪は30年の昔に犯されていたのだ……それを思えば、トゥラン家の呪われた血筋を断絶することのできなかった、ジェノスの前当主の不徳でもあるのであろうな……」
「ほう。トゥラン家の先代当主とその第一子息を謀殺したという罪までをも認めるというのかね?」
「認めよう……ただし、ひとつだけ語っておきたいことがある……」
と――力なく座り込んだ体勢のまま、サイクレウスはその双眸だけを激しく燃えさからせた。
「父君と兄君を謀殺したのは、シルエルである……その後の数々の罪については、我とシルエルに等しく罰が必要であろうが……30年前の、あの忌まわしい事件だけは、シルエルがひとりで企み、その手を罪に染めたのだと……その一点だけは、どうか信じてもらいたい……」
「ふむ? しかし、先代当主と第一子息がセルヴァのもとに召されたことによって、当主の座を得たのは其方だ、サイクレウス。それがシルエルの企みであったというのならば、第二子息の其方も同じように謀殺されていたのではないだろうかな?」
「シルエルは……伯爵家に生まれ落ちながら、何の力も持ち得ない日陰者としての立場を嘆き、権勢を欲しいままにする父君と兄君を憎悪していた……同じように日陰者であった我に対しては、そのような感情を持たずに済んだのであろう……」
色の薄いサイクレウスの瞳が、爛々と燃えている。
かつては毒々しい光を放ち、最前までは光を失いかけていたその瞳が、森辺の狩人もかくやという熾烈な炎を燃やしていた。
「あの夜……兄君がトトスから落ちて生命を失った翌年、父君までもが原因のわからぬ病魔で身罷られたあの夜に、シルエルは狂ったように笑いながら言ったのだ……これでトゥラン家の富と権勢は我々のものだと……カミュア=ヨシュに示唆されるまでもなく、我はそれですべてを理解した……父君と兄君を弑したのは、この呪われたトゥラン家の末弟なのだ、とな……」
「それで其方は、その弟とともに悪逆な真似を繰り返して、よりいっそうの富と権勢を求めたのかな、サイクレウスよ? それはもしかして――そうして弟の味方につかなければ、自分も父や兄と同じ運命を辿るのだという危機感に見舞われてのことであったのだろうか?」
「……そうだとしても、我の手が汚れていることに変わりはない……己の身を守るために他者の生命を害することなど、ジェノスの法は許さぬであろうが……?」
「ふむ。それはもっともな話だ。……しかし、それならばどうして今さら30年前の話など持ち出したのであろうかな。いかに重大な罪であっても、今になってその証しをつかむことは不可能であろうから、あまり取り沙汰する甲斐もないように思えてしまうのだが」
「証しはない……それゆえに、信じてほしかったのだ……数々の罪を犯してきた我であっても、父殺し、兄殺しなどという忌まわしい罪だけは犯していなかったと……」
サイクレウスの目が、ゆっくりと動く。
火のように燃えながら、その目が正面からリフレイアを見た。
「リフレイア……我が娘よ……お前の身体には、トゥラン家の呪われた血が流れている……お前の父とその弟は許されざる罪人であり、その父と兄は救い難いほどに愚鈍であった……この呪われた血が、そのように幼い身でありながら、お前に人さらいなどという罪を犯させたのやもしれぬ……」
「血筋なんて関係ないわ。わたしは――」
「聞け……それでもその身に流れる血を捨てるわけにはいかぬのだ……お前は罪人の子として、これから長きの時を生きねばならぬ……」
うめくように言いながら、サイクレウスが腕をのばした。
その痩せ細った指先がリフレイアの指先をとらえ、そこに握られていた木匙が布団の上に落ちる。
「だが……トゥラン家は、その富と権勢を失うことになろう……その不自由こそが、お前の魂に自由を与えるやもしれぬ……刀なくして人を斬ることはかなわぬのだから……お前は、刀を失うことを寿ぐべきなのだ……そうすれば……」
と、一瞬だけサイクレウスの目が俺のほうを見た気がした。
「……そうすれば……お前は、ひとつまみの塩で幸福を感ずることのできる、そんな人間になることもできるのかもしれぬ……」
「よくわからないわ。わたしは最初から、ちっぽけな人間よ」
怒った顔で言いながら、リフレイアは父親の指先をもぎ離した。
そして、布団に落ちた木匙を拾いあげ、ギバのスープを一口すする。
「……物足りないし、味気ないけど、十分に美味しいわ。こんなに美味しい料理で幸せを感じることができないなんて、本当に父様は不幸な人間なのね」
「……そう……お前の父は、とてつもなく不幸で、とてつもなく愚かであったのだ……」
リフレイアは唇を噛み、しばらく父親の顔をにらみつけてから、言った。
「ジェノス侯。まだまだ料理はたくさん残っているの。この食事が終わるまで、わたしと父様をふたりきりにさせてくれないかしら?」
「かまわないよ。見張りの近衛兵は、扉のほうに下がらせておこう」
マルスタインがきびすを返し、メルフリードやドンダ=ルウたちもそれに続く。
アイ=ファにうながされて、俺も寝台を離れようとした。
その背に、リフレイアが低く呼びかけてくる。
「アスタ」
「うん」
「……ありがとう」
「……うん」
寝台の上で寄り添う小さな父娘の姿を最後に視界におさめてから、俺は最後に部屋の外に出た。
きっと、サイクレウスとはもう二度と顔を合わすことはないのだろう。
俺は、あの男を許せる立場ではない。
レイトの父親とミラノ=マスの義兄を死に追いやり、ザッツ=スンを狂わせた、あの男の罪を許してはいけないのだ。
だけど、それでも――
俺はこの夜、サイクレウスと言葉を交わすことができて良かった、と思うことができた。
「……それでは、そのように」
「はい」
次の間では、マルスタインとメルフリードが何やら小声で語り合っていた。
そうしてメルフリードは足速に部屋を出ていき、マルスタインはドンダ=ルウに向きなおる。
「ただちに護民兵団の副団長と大隊長らは身柄を拘束し、ベヘットには兵を向かわせる。死罪人どもはすでに異なる地に逃亡している可能性もあるが、何かしらの痕跡をつかむことはできるだろう。これで謀反人どもを一掃することができれば、少しは安楽な眠りを得ることもできると思う」
「……そうであることを願おう」
「うむ。ジェノスの統治者として、力を惜しまぬことを約束させていただくよ。それでは、私も失礼させていただくが――ちょうどいい機会なので、もう一言だけつけ加えさせていただこうかな」
とても朗らかに笑いながら、マルスタインは頭半分ほど高い位置にあるドンダ=ルウの顔をじっと見つめた。
「私はね、強い人間が好きなのだ。サイクレウスが森辺の民を屈服させ、私の地位を脅かすような事態に至ってしまっていたとしても、それはそれでひとつの運命だったのだろうと思う。トゥランという小さな領土の第二子息というささやかな身分に生まれつきながら、なりふりかまわず己の才覚だけでそこまでのしあがれるのなら、それは大したものじゃないか、とね」
「…………」
「しかしサイクレウスは、森辺の民とカミュア=ヨシュの前に屈することになった。私は貴方たちのことが好きだよ、ドンダ=ルウ。森辺の民は、とほうもない力を持っている。貴方たちのように強い力にあふれた民を同胞と呼ぶことのできるこの身を、私は誇らしいと思う」
「…………」
「正直に言うとね、このたびの事件が明るみに出るまでは、森辺の民などにいっかな興味は抱いていなかったのだ。80年前のジェノス領主に申し渡された不公平な申し付けに諾々と従い、サイクレウスにはいいように手綱を握られてしまっている。ギバを狩る力は持っているのに、人間が相手では不甲斐ない姿をさらすことしかできないのか、と――私は、そんな風に思ってしまっていたのだよ」
マルスタインはにこにこと笑っており、それを見返すドンダ=ルウは無表情である。
「しかし、森辺の民は強い力と誇りを持つ一族であるようだ。今後もジェノスの民として、その力を大いに揮ってもらいたいと思う。……なかなか息子や家臣たちの前で心情をさらすのははばかられるので、他の族長らにもよろしく伝えていただきたい。そして、ファの家のアスタよ――」
と、マルスタインは俺のほうを振り返った。
「其方にも多大な苦労をかけてしまったね。祭司長らは渋い顔をしていたが、どのような出自であれ、私は其方をジェノスの民として迎えたいと思っている。これからも、森辺の民のひとりとして、ジェノスの領土でその生を歩んでほしい」
「は、はい。ありがとうございます」
「それに、其方の料理は本当に美味であった。たびたび城下町に呼びつけるわけにもいかないのだろうが、時には私にもその腕をふるってみせてほしい。……どうかよろしくお願いするよ」
最後にしっかりと俺の顔を見つめつつ、マルスタインは無邪気に笑い、そうして息子の後を追うように出ていった。
カミュア=ヨシュもウインクをしてからそれに追従し――後には、俺とアイ=ファとドンダ=ルウと、それからサンジュラを捕縛した2名の兵士だけが残された。
「……まったく、ふざけた領主だな」
と――ドンダ=ルウが、ふいににやりと笑いだした。
勇猛なる狩人の笑みである。
「だが、己の幸福は己の力でつかみ取れ、という意味であのような言葉を吐いたのなら……上等だ。こちらはこちらの流儀でやらせてもらおう」
それは何だか、君主というよりは好敵手と巡りあえたかのような、そんな笑い方であった。
そして、サンジュラが俺の前に進み出てくる。
「アスタ。私からも、御礼、言わせてください。あなた、リフレイア、救ってくれました」
「いえ。俺は何も、御礼を言われるようなことはしていませんよ」
「いいえ。あなたの存在、リフレイア、救いました。……もしかしたら、サイクレウスさえ、救ったかもしれません」
そんなことは、絶対にないと思う。
救われたとしたら、それはもともとその人間がそこに至る道を歩いていたのだ。
まったく異なる道を歩いていた俺とサイクレウスが、ほんの一瞬だけすれ違い、また遠ざかる。
ただそれだけのことだったのだろう、きっと。
「……それでは、俺たちも帰らせていただくとするか」
狩人の衣をひるがえし、ドンダ=ルウも出口に足を向ける。
ずっと静かにしていたアイ=ファが俺を見て、言った。
「ご苦労であったな、アスタ」
「うん、アイ=ファもな」
そうして俺たちは、石の都を後にして、森辺の集落へと帰還した。